団藤重光

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団藤 重光(だんどう しげみつ、1913年11月8日 - )は、岡山県出身の法学者。正しくは「團藤重光」。東京大学名誉教授、元最高裁判所判事。1981年日本学士院会員、1987年(昭和62年)11月3日勲一等旭日大綬章受章、1995年文化勲章受章。

目次

人物

1913年(大正2年)11月8日、山口地方裁判所検事局次席検事団藤安夫(1878年 - 1935年)の長男として、山口県吉敷郡山口町で誕生した。翌年、父が弁護士に転身するにあたり、郷里の岡山県高梁に近い岡山市へ家族で転居した。以後、団藤は高等学校卒業まで岡山において成長する。団藤自身が出身地を岡山であると言及するのは、山口での生活は物心つく前の短期間にすぎず、幼少期を過ごしたのが岡山だからである<ref>団藤重光『この一筋につながる 新装版』(岩波書店、2006年、ISBN 978-4000228640)p.83など。</ref>。旧制第二岡山中学校(現岡山県立岡山操山中学校・高等学校)第四学年を修了後、第六高等学校を経て、1935年東京帝国大学法学部を首席で卒業。専門は刑事法全般に及び、戦後の日本刑事法学の第一人者である。また死刑廃止論者の代表的人物でもある。

学説

団藤は、師である小野清一郎と同じく後期旧派にたち、刑罰を道義的応報とした上で、犯罪論において、構成要件を違法有責類型であるとする小野理論を継承するが、小野理論が犯罪限定機能を有しなかったことから、戦時中全体主義に取り込まれた点を批判し、罪刑法定主義の見地から構成要件を形式的、定型的なものであるとしてその自由保障機能を重視する定型説を提唱した<ref>『刑法綱要総論〔改訂版〕』106頁</ref>。かかる見地からは、みずから実行行為に出ていない共謀共同正犯は定型性を欠くものとして否定されるが、後掲のとおり後に改説する。

違法性の実質については、小野と同じく規範違反説をとりつつも、その内容を小野が国家的法秩序違反としていた点を批判し、法は道徳の最低限を画すものであるとの考えから、国家の制定法とは独立した社会倫理秩序違反をさすとして行為無価値論の立場をとり、後に結果無価値論に立つことを明確にした平野龍一と対立した。

責任論において、小野がとる道義的責任論とその師である牧野英一がとる新派刑法理論に基づく性格責任論との争いを止揚することを企図して、道義的責任論を基礎としつつも、二次的に背後の行為者の人格形成責任を問う人格的責任論を提唱した<ref>上掲『刑法綱要総論〔改訂版〕』240頁</ref>。

以上のように、団藤は、新派と旧派に分かれて大きく対立していた戦前の刑法理論を発展的に解消した上で継承し、戦後間もない刑法学の基礎を形成した。

刑事訴訟法においては、小野と同じくドイツ法に由来する職権主義構造を本質とする立場をとるが、現実の審判の対象は訴因だが、潜在的な審判の対象に公訴事実が含まれるとの折衷説をとる<ref>上掲『新刑事訴訟法綱要』148頁</ref>。この点を当事者主義構造を本質とする平野から徹底的に批判された<ref>平野龍一『刑事訴訟法』(有斐閣、1958年)131~144頁</ref>。

社会的活動

若くして戦後の新憲法制定に伴う法制改革の際に、各種の立法に関与した(本来であれば師匠である小野清一郎が担う仕事であったが、公職追放のため団藤に任された)。刑事訴訟法(1948年制定)の立案担当者である。

東大退官後、1974年から1983年まで最高裁判所判事大阪空港訴訟では、毎日午後9時から翌日午前7時までの空港の利用差止めを認めるべきか否かという問題について、訴えを却下した多数意見に対して、差止めを認めるべきとの反対意見を述べた。また強制採尿令状は彼の考えによるものと言われる。実務における各種の葛藤からか、この間に学説に多少の変化が見られる。また、彼は今でこそ死刑廃止論者として知られているが、この時期は死刑に賛成の立場であった。しかし、ある事件(この事件を名張毒ぶどう酒事件との誤解もあるが、就任前の1972年の最高裁判決であるため誤り。実際は1976年最高裁判決の波崎事件である。これは同じ毒殺事件であったために生じた誤解)で陪席として死刑判決を出した際に、傍聴席から「人殺し」とヤジが飛んだ。この事件では、団藤は冤罪ではないかと一抹の不安を持っていたうえに、被告人も否認していた事件であった。これを契機として、被告人が有罪であるとの絶対的な自信がなかったこと、そして冤罪の可能性がある被告人に対して死刑判決を出したことへの後悔と実際に傍聴人から非難されたことなどから死刑に対する疑念が出てきたとのことである。

最高裁長官の有力候補と目されていたが、民事裁判官出身の服部高顕が最高裁長官に就任すると、その芽はなくなった。服部長官就任後、団藤の反対意見、補足意見が判決の中で急増した。 自白の証拠採否について「共犯者の自白も本人の自白と解すべきである。」という補足意見(反対意見ではない)を書いて自白偏向主義な捜査に一石を投じた(もっとも、共犯者の自白が相互に補強証拠になりうるとしているため、当該事案の結論に影響はない。最判昭51.10.28、百選86参照)。 学者時代は共謀共同正犯否定説の旗手として活動したが、最高裁判事就任後は、実行行為に出ていないものの、犯罪事実について行為支配を持った者を正犯として評価することを是認する肯定説に転向した。退官後には、自らが書いた判決と論旨の食い違う講演を行った。

最高裁判事退官後は、東宮職参与、宮内庁参与を歴任しながら死刑廃止運動や少年法改定反対運動関連の活動など、刑事被告人の権利確立のための活動に重点を置いている。「人間の終期は天が決めることで人が決めてはならない」と発言している。

略年譜

  • 1934年 高等文官試験行政科試験及び司法科試験合格
  • 1935年 東京帝国大学法学部卒業、同助手
  • 1937年 同助教授
  • 1947年 同教授
  • 1974年 東京大学定年退官、慶應義塾大学教授、最高裁判所判事
  • 1983年 同退官
  • 1991年 オーストリア科学芸術一等名誉十字章受章
  • 2008年 カトリックホセ・ヨンパルト神父から洗礼を受ける。洗礼名「トマス・アクィナス」
  • 2009年6月まで(社)学士会理事長を務めた。

主著

  • 『刑事訴訟法綱要』(弘文堂、1943年)
  • 『刑法の近代的展開』(弘文堂、1948年)
  • 『新刑事訴訟法綱要』(弘文堂、初版1948年、創文社、7訂版1967年)
  • 『訴訟状態と訴訟行為』(弘文堂、1949年)
  • 『刑法と刑事訴訟法との交錯』(弘文堂、1950年)
  • 『条解刑事訴訟法(上)』(弘文堂、1950年)多忙により下巻は刊行されず。
  • 『刑法綱要総論』(創文社、初版1957年、3版1990年)
  • 『刑法綱要各論』(創文社、初版1964年、3版1990年)
  • 『刑法紀行』(創文社、1967年)第16回日本エッセイスト・クラブ賞受賞
  • 『実践の法理と法理の実践』(創文社、1986年)
  • 『この一筋につながる』(岩波書店、1986年)
  • 『わが心の旅路』(有斐閣、1986年)
  • 『死刑廃止論』(有斐閣、初版1991年、6版2000年)
  • 『法学の基礎』(有斐閣、2001年、2版2007年)
  • 『反骨のコツ』(朝日新聞社朝日新書、2007年)(伊東乾との共著(対談)。学士会ブログ「團藤ブログ」の書籍化)

脚注

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門下生

関連項目

外部リンク

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