君が代

出典: Wikipedio


Template:Infobox anthem 君が代(きみがよ)は日本国歌明治維新後のTemplate:和暦に曲がつけられ、以後は国歌として扱われるようになった。 Template:和暦国旗及び国歌に関する法律で国歌に制定された。元は平安時代に詠まれた和歌

目次

歌詞

Template:Wikisource Template:和暦、法律では定められなかったが、日本の国歌として「君が代」が採用された。この国歌のテーマは皇統の永続性であり、歌詞は10世紀に編纂された『古今和歌集』に収録されている短歌の一つである<ref></ref>。

日本の国歌の歌詞を以下に引用する<ref>歌詞と読みは国旗国歌法の表記による。</ref><ref group="注">歴史的仮名遣いでは、「巌」の仮名書きは「いはほ」である。</ref>。

Template:Quotation

thumb|チェンバレン

バジル・ホール・チェンバレンはこの日本の国歌を翻訳した。チェンバレンの訳を以下に引用する<ref>チェンバレンの英訳は、『国歌君が代の研究』より引用。この英訳を和訳した歌詞は、シロニー(2003)、30頁より引用。</ref>。

<poem style="margin-left:1em">Template:En</poem>

<poem style="margin-left:1em">汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが 時代を経て、あつまりて大いなる岩となり 神さびたその側面に苔が生(は)える日まで</poem>

歴史(制定までの経緯)

日本における君が代の認識

国歌 (national anthem) は近代西洋において生まれ幕末、日本が開国した時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌としての有り様は、1876年(明治9年)に海軍楽長・中村裕庸が海軍軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書の以下の部分でもうかがえる。「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」<ref name="koyama1941"></ref>

つまり国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場において軍楽隊が演奏するために生じるのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。しかしそもそも吹奏楽は西洋のものであって明治初年の日本ではなじみがなく、当初は "national anthem" の訳語もなかった。国歌と訳した<ref group="注">海軍省所蔵のTemplate:和暦の原譜に「国歌君が代云々」とあることから、エッケルト編曲の現行「君が代」成立時には「国歌」という訳語ができていたことがわかる(『君が代と萬歳』参照)。</ref>ものの、それまで国歌は和歌と同義語で漢詩に対するやまと言葉の歌()という意味でつかわれていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった<ref name="koyama1941"/>。

こういった和歌を国民文学とする意識からすれば日本においては一般に曲よりも歌詞の方が重要視され、国歌「君が代」制定の経緯を初めて研究し遺作として『国歌君が代の由来』を残した小山作之助もまずは歌詞についての考察から始めている。

和歌としての君が代

テキストと作者

作者は未詳。

歌詞の出典はしばしば『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号343番)とされるが古今集のテキストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。「君が代は」の型は『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものなどが最も古いといえる(巻下祝、国歌大観番号775番)<ref name="teruoka1991"></ref><ref name="sdf2000">Template:Cite video</ref>。

『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかと推測されている<ref name="wada1998"></ref>。

なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた<ref name="wada1998" />。

解釈

万葉集などでは「君が代」自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉である。転じて「わが君の御代」となる。国歌の原歌が『古今和歌集』の賀歌であるため、そもそも「我が君」の「君」が天皇なのは相手なのか、はたまた別の王朝(徳川家など)なのかであるのかどうかということがしばしば問題にされる。

『古今和歌集』収録の歌としてごく一般的な「君」の解釈を述べるならば「君は広くもちいる言葉であって天皇をさすとは限らない」ということであり、それ以上はなにも断定できない<ref name="koten1974"></ref>。

『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人<ref group="注">松田武夫によれば光孝天皇藤原基経醍醐天皇の3人にゆかりの人々である(収録の後藤重郎著『定家八代抄賀歌に関する一考察』参照)。</ref>の具体的な祝い(ほとんどが算賀だが出生慶賀もある)に際して詠まれたものだが、最初の4首は読み人知らずで作歌年代も古いと見られ歌が作られた事情もわからない。その中の1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものとも考えられる<ref name="goto1974">収録の後藤重郎著『定家八代抄賀歌に関する一考察』</ref>。

これはあくまでも『古今和歌集』賀歌として収録されたこの歌への考察であり、『和漢朗詠集』になってくると朗詠は詠唱するものでありどういう場で詠唱されたかという場の問題が大きく出てくる。さらに後世、初句が「君が代は」となりさまざまな形で世に流布されるにつれ歌われる場も多様となり解釈の状況が変わっていくことは後述する。

ちなみにそういった後世の状況の中にあっても、はっきりこの歌の「君」が天子であるとする注釈書も存在する。『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』<ref group="注">1658年万治元年)に第一巻が発行されている(参照)。</ref>である。堯智は橘清友を作者として初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しているので少なくとも17世紀半ばの江戸時代前期において天皇の御世を長かれと祝賀する歌であるとする解釈が存在したことは確かである<ref name="koyama1941"/>。

『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かう中で勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている<ref name="goto1974"/>。

国歌になるまでの君が代

元々は年賀の為であったこの歌は、鎌倉期・室町期に入るとお目出度い歌として賀歌に限られない使われ方が始まり、色々な歌集に祝いごとの歌として収録されることになる。仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽・猿楽・謡曲などには変形されて引用された。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『曽我物語』の曽我兄弟や『義経記』の静御前などにもその例を見ることができる。江戸時代には隆達節の巻頭に載り、おめでたい歌として小唄、長唄、浄瑠璃、仮名草子、浮世草子、読本、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶、門付等にあるときはそのままの形で、あるときは変形されて使われた<ref>山田孝雄『君が代の歴史』宝文館出版、昭和31年、9章「この歌は古来如何に取り扱われたか」、10章「江戸時代に於ける「君が代」の歌」</ref>。

明治維新から「君が代」制定まで

[[ファイル:Kimigayo-1.jpg|thumb|250px|薩摩バンドが寄宿していた横浜妙香寺境内に建つ]] [[ファイル:Memorial SatumaBand.jpg|thumb|250px|横浜妙香寺境内 薩摩バンドの碑]] Template:Wikisource Template:和暦に設立された薩摩バンド薩摩藩軍楽隊)の隊員に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントン国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を当時薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌日本陸軍元帥)が受け大山の愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が採用された<ref name="teruoka1991" /><ref name="naitou1997"></ref>。国歌の概念が無かった日本人に対してフェントンがどのような説明を行ったかは定かではないが、国王を言祝ぐ英国国歌"God Save the King"が手本にされたのであろうと言われているTemplate:要出典

ただし、この話には異論がある。佐佐木信綱が記した『竹柏漫筆』によると明治天皇が関西へ行幸する際、フランス軍から天皇行幸に際して演奏すべき日本の国歌を教えてほしいという申し出が日本海軍へあった。そのため、当初海軍兵学校へ出仕していた蘭学者である近藤真琴へ歌詞を書かせたが海軍内で異論があり海軍海補であった川村純義が郷里で祝言歌として馴染みのあった歌詞を採用したというものである。ただしこの説は明治当初に海軍が陸軍に対抗して自ら国歌の必要性を理解した上で発起したということを知らしめるために利用されていた節があり、現在の国歌研究においては「大山発案説」が事実であると見られているTemplate:要出典

当初フェントンによって作曲がなされたが洋風の曲であり日本人に馴染みにくかったため普及せず、Template:和暦に海軍音楽長である中村祐庸が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を提出。翌年に西南戦争が起き、その間にフェントンが任期を終え帰国。その後Template:和暦宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律を一等伶人の林廣守が曲に起こし、それを前年に来日したドイツ人の音楽家であり海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けた<ref name="teruoka1991" /><ref name="sdf2000" /><ref name="naitou1997" />。

同年10月25日に試演し、翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施工され国歌としての「君が代」が改訂。11月3日天長節にて初めて公に披露された<ref name="sdf2000" /><ref name="naitou1997" />。

その後のTemplate:和暦8月12日には文部省が「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示<ref name="sdf2000" /><ref name="yugari2004"></ref>。林廣守の名が作曲者として掲載され、詞については「古歌」と記されている<ref name="yugari2004" />。またTemplate:和暦に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている<ref name="sdf2000" />。以来、「君が代」は事実上の国歌として用いられてきた。

Template:和暦にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、「君が代」は一等を受賞した<ref name="kindaichi">金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌』 講談社文庫。</ref>。

国歌としての君が代

Template:出典の明記 Template:独自研究

第二次世界大戦前

大山らが登場させて後は専ら国歌として知られるようになった「君が代」だが、それまでの賀歌としての位置付けや、大日本帝国憲法によって天皇が「万世一系」で「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた時代背景から、第二次世界大戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。

第二次世界大戦後

第二次世界大戦後には、「国民主権」を定めた日本国憲法が制定された。1947年(昭和22年)5月3日の憲法施行記念の式典で斉唱された。「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「国体」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから(例えばベン・アミー・シロニーは「君が代」皇統の永続性〈万世一系〉がテーマであり<ref>シロニー(2003)、29頁(第8章1『日本王朝の太古的古さ』)</ref>、世界で最も短い国歌が世界で最も長命な王朝を称えることになった<ref>シロニー(2003)、30頁(第8章1『日本王朝の太古的古さ』)</ref>と解釈している)、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。一方、Template:和暦内閣府政府広報室がおこなった世論調査では、回答者の76.6%が「君が代は日本の国歌(国の歌)としてふさわしい」としていた<ref>Template:Cite web</ref>。

現在の日本国政府の公式見解は国家国旗法案が提出された際の1999年6月11日の段階では「『君』とは、『大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。』(「君が代」の歌詞は、)『日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である』」としたが、そのおよそ2週間後の6月29日に「(「君」とは)『日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す』『『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる』(君が代の歌詞を)『我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」と変更した<ref>「君が代」の政府解釈の矛盾と修身教科書での本当の解釈</ref>。

君が代をとりまく現状

主な対立する意見

Template:言葉を濁さない 「君が代」の歌詞への反対意見や教育現場での「君が代伴奏」「君が代斉唱」反対運動(主に日本教職員組合やその傘下の教職員労働組合)は現在でも続き、賛否が対立している。

肯定的意見には以下のようなものがある。

  • 事実上の国歌として歌われてきた明治以来の伝統を重視すべき
  • 政治的背景とは無関係に日本的な曲であって国歌に最もふさわしい
  • 国民は愛国心を持つべきであるから「君が代」を歌うことでその意識を高めなければならない
  • 君が代によって天皇への忠誠心を涵養する

否定的意見には以下のようなものがある。

  • 帝国時代の国歌であり、歌詞は天皇崇拝の意味合いが強い(「君」は天皇であるという解釈)
これへの反論には以下のようなものがある。
  • 立憲君主制の国歌(たとえばイギリスの「女王陛下万歳」など<ref group="注">君が代と異なり、「女王陛下万歳」の歌詞中には「神よ女王(国王)を守りたまへ」と直接的な王室賛美がある。</ref>)と比較しても極端な天皇賛美の意味はなく、天皇象徴制の国歌ではごく普通の国歌である。
これへの反論には以下のようなものがある。
  • 古い軍歌である「ラ・マルセイエーズ」を国歌としているフランスを始めとして、「外国から来た敵を殲滅せよ」と唱えるような過激な軍歌調の愛国歌、あるいは軍歌そのものの国歌を持っている国は、枚挙に暇がなく<ref group="注">その他の具体例には以下のようなものがある。フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」(「市民らよ 武器を取れ/軍隊を 組織せよ」)、タイ王国の国歌「タイ国歌」(「戦争となっても恐れはしない/(戦時にはタイ人が)一滴の血をも残さず捧げるであろう」)、ベトナムの国歌「進軍歌」(「ベトナム軍よ進め/我らが父祖の地を守らんとする無二の信念のもと」)、中華人民共和国の国歌「義勇軍進行曲」(「我らの血肉を以って新たな長城を築こう/敵の砲火をついて進め」)、アメリカ合衆国の国歌「星条旗」(「狼煙の赤き炎立ち 砲音宙に轟く中/耐え抜き 旗は猶其処に在り」)</ref>、「君が代」が軍国主義を象徴するものではない。

「小さな石が大きな岩になる」という内容が非科学的であるとの批判がある。これに対して、以下のような反論がある。

  • これは地質学的に一般的な現象である。小さな砂粒が大きな石になる例には細石やストロマトライトなどが知られており、またチャート(SiO2)や石灰質岩により他の岩石破砕物を固結する例もよく見られることである。堆積岩、水成岩である砂岩や礫岩などは、砂の粒子が大きな岩体に固結する仕組みとも言える。これらは必ずしも近代的な知識ではなく、少なくとも部分的には古くから知られていたことが「さざれ石」の名からわかる。非科学的という誤解は歌詞の正確な理解を欠くことによる。
  • これはそもそも文学表現である。「起こらないことが起こるまで」とは「永遠に」を意味するありふれた修辞である。

他の反対意見には「メロディが歌いづらい」「歌詞が陰鬱だ」などといった意見がある。ただ、この曲調は、雅楽の中でも大陸文化がもたらされる以前の形式である神楽歌が基調とされていることに起因する。

尚、石原慎太郎は「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか」と答えている<ref>毎日新聞1999年3月13日付)のインタビュー)</ref>。

反対派ではないが永六輔は「大勢で歌うと揃わない歌」だとして、特に「さざれ石」の一息が続かずに「さざれ」で息継ぎをして後が微妙に遅れる者が出やすいと述べた <ref name="eigei">永六輔 『芸人』 岩波書店〈岩波新書〉、1997年10月20日、133-136頁。</ref>。ちなみに朝鮮半島のパンソリふうに歌うとピタリとはまるとも述べた。母音で伸ばすのはパンソリの歌い方だという永の意見に対しては、パンソリでなくとも母音で伸ばす歌唱法はあると内藤孝敏が指摘している<ref>内藤孝敏 "「国歌」となった「君が代」" 2009年(平成21年)9月8日 閲覧(内藤孝敏「「歌唱(ウタ)」を忘れた「君が代」論争」『諸君!』 文藝春秋社、1999年10月号 所収)。</ref>。


教育現場

「君が代」の教育現場での扱いについては議論になることが多いテーマである。

Template:和暦頃から教育現場において、文部省の指導で日章旗(日の丸)の掲揚と同時に「君が代」の斉唱の通達が強化される。日本教職員組合などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張した。1999年には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、「君が代」斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する日教組教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。これを一つのきっかけとして「国旗及び国歌に関する法律」が成立、政府は国旗国歌の強制にはならないとしたが日教組側は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉唱・掲揚を推進する教育行政並びにこれを支持する保守派との対立は続いてきた。しかし近年、国民の大多数に受け入れられている現実から日教組の姿勢も軟化し入学式や卒業式での国旗掲揚国歌斉唱の実施率は上昇している(君が代に対する意見の対立については、国旗及び国歌に関する法律を参照)。

国際スポーツ競技

国際競技大会やオリンピックFIFAワールドカップでの試合前の君が代斉唱、日本のスポーツ選手の応援として自発的に「君が代」が斉唱される光景は、誰も強制していない。

また各国の国旗掲揚・国歌斉唱が起立・脱帽の上、厳粛に行われている。しかし、日教組は、「日の丸・君が代」を拒否しているが、「君が代」に代わる新しい国歌の制定を主張していない。もし、日本国外で各国の国旗掲揚・国歌斉唱が起立・脱帽の上、厳粛に行われている行為を全否定すれば、とても国際社会では通用しない理論・行動である<ref group="注">タイ王国では不敬罪が存在し、国歌が演奏されている際に、正当な理由なしで起立・脱帽しないと、警官は何時でも逮捕することが出来る。</ref>。(例えば保守系漫画家小林よしのりは作中においてそのような批判をしている<ref> 小林よしのり 『ゴーマニズム宣言SPECIAL 天皇論』小学館、日本、2009年。 ISBN 9784093897150</ref>。)

放送局での君が代の演奏

Template:和暦9月に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が成立し正式に日本が独立国に復帰して以降、NHKラジオ放送で連日放送終了後にオーケストラによる「君が代」の演奏が始まった。テレビではNHKが開局したTemplate:和暦2月の時点ではなかったが、同年9月からやはり放送終了時に演奏されるようになった。

しかし、近年になりNHKが24時間放送を積極的に行うようになったため、現在は毎日演奏しているのはラジオ第2放送教育テレビのそれぞれの終了時のみである。但し教育テレビは24時間放送を行っていたTemplate:和暦からTemplate:和暦4月までは放送休止を行う時(毎月第2・4・5週の日曜深夜の放送終了時とそれが明けた月曜5時前)に流れていた。あとは総合テレビの減力放送・拠点局の放送休止明け(主として月曜早朝。歌詞についてはテロップ表示される局とされない局がある)に流れる。

また民放ニッポン放送でも以前は毎日演奏(ジャンクション)を放送していたが、Template:和暦4月より毎週月曜日の放送開始時と土曜日の午前5時前に限って放送している。また、以前はAFNでも毎日午前0時のニュース明けに演奏されていた。

アール・エフ・ラジオ日本で放送されているミッキー安川がパーソナリティーを務める一連の番組、「ミッキー安川の「勝負」シリーズ」のうち「ミッキー安川のスーパーフライデー」と「ミッキー安川の雑オロジー」において午前零時前後に君が代の合唱を流す。かつては「ミッキー安川のずばり勝負」と「ミッキー安川の朝まで勝負」においてアシスタント・ゲスト出演者を含めて番組冒頭に生斉唱していたが、最近は以前「朝まで勝負」で斉唱された録音を流す。当初は正調演奏だったが、歌い出しが揃わない事が多く、歌いやすい様に最初の一小節をリフレインした編曲で演奏されている。

スカパー!217chで間借り放送をしているチャンネル桜では、間借り放送開始時と終りの時に、日章旗と共に「君が代」の演奏が流れる。


異説

九州王朝を起源とする説

九州王朝説を唱えた古田武彦は『魏志倭人伝』において、倭国内の国の一つ・伊都国があったと推定される糸島半島や近隣の博多湾一帯のフィールド調査から次のような事実を指摘している<ref name="sanka1990"></ref><ref>参考:独創古代|君が代の源流</ref>。

Template:Quotation

上記の事から、「君が代」の誕生地は、糸島・博多湾岸であり「君が代」に歌われる「君」とは天皇家ではなく山誉め祭神楽歌にある「安曇の君」(阿曇磯良?)もしくは別名「筑紫の君」(九州王朝の君主)と推定。

  • 古今和歌集』の「君が代」については本来「君が代は」ではなく特定の君主に対して詩を詠んだ「我が君は」の形が原型と考えられるが、古今和歌集醍醐天皇の勅命によって編まれた『勅撰和歌集』であり天皇家から見ると「安曇の君」は朝敵にあたるため後に有名な『平家物語』(巻七、“忠度都落ち”)の場合のように“朝敵”となった平忠度の名を伏せて“読人しらず”として勅撰集(『千載和歌集』)に収録した「故郷花(ふるさとのはな)」のように紀貫之は敢えてこれを隠し、「題知らず」「読人知らず」の形で掲載した。
  • 糸島博多湾一帯<ref>l 参考:我が君地図|糸島・博多湾岸</ref>は参考資料<ref>参考資料:福岡|歴史的視点から見た干潟環境の変化と 人との係わりに関する研究 ―福岡・今津干潟を例にー</ref>」を見るように古くは海岸線が深く内陸に入り込んでおり、元来「君が代」とは「千代」→「八千代(=千代の複数形=千代一帯)」→「細石神社」→「井原、岩羅」と古くは海岸近くの各所・村々を訪ねて糸島半島の「桜谷神社」に祀られている「苔牟須売神」へ「我が君」の長寿の祈願をする際の道中双六のような、当時の長寿祈願の遍路(四国遍路のような)の道筋のようなものを詠った民間信仰に根づいた詩ではないかと考えられる。

もとは挽歌であるとする説

藤田友治を中心として唱えられている、およそ以下のような説<ref name="banka2005"></ref>。

  • 国歌の元歌とされる古今集の賀歌は『万葉集』の挽歌を本歌にしたものであり、もともとは挽歌である。
  • 本来挽歌であったものを賀歌にしたのは、『古今和歌集』を編纂した紀貫之の個人的創作活動である。
  • したがって国歌になった「君が代」も挽歌なのだと認識すべきである。

その他

関連する楽曲

参考音源

Template:Commons Template:Multi-listen start Template:Multi-listen item Template:Multi-listen item Template:Multi-listen end

Template:Audio
君が代:演奏のみ。テンポ4分音符70個毎分。初めてテンポの正式記録が記された「大日本禮式」でのテンポによる。
Template:Audio
君が代:演奏のみ。テンポ4分音符60個毎分(終り部分リタルダンド)。旧日本海軍軍楽隊が演奏していたテンポによる。
Template:Audio
君が代:演奏のみ。テンポ4分音符50個毎分。NHKのテレビ・ラジオ放送終了時に演奏されるテンポによる。

脚注

Template:Reflist

出典

Template:Reflist

参考文献

  • (非売品)

関連項目

  • 海行かば - 大東亜戦争時には良く歌われ「日本国第二国歌」の扱いであったが、今では曲自体を知っている人が少ない。

外部リンク

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