名人戦 (将棋)

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名人戦(めいじんせん)は、毎日新聞社朝日新聞社共催(2007年度から)、大和証券グループ協賛(2005年度から)の将棋棋戦番勝負)。名人戦の予選は順位戦である。A級順位戦の優勝者が名人と「名人戦七番勝負」を行い、その勝者が次の名人位のタイトル保持者となる。

江戸時代以来、将棋の名人世襲制(ただし血縁絶対ではない)であったが、日本将棋連盟が1935年に「昭和12年(1937)に300年続いた一世名人を廃する」と発表した。2年後の1937年に十三世名人の関根金次郎が世襲制に異を唱えて声明書を出して名人位を返上。これにより大橋宗桂以来続いた一世名人制が廃止され、1937年に短期実力制名人位制度が開始された。

目次

しくみ

A級順位戦の優勝者が名人戦挑戦者となる。名人と挑戦者が名人戦七番勝負を戦う。

A級順位戦

詳しくは順位戦の項を参照のこと。持ち時間は各6時間。

名人戦七番勝負

名人とA級順位戦の優勝者が七番勝負を戦う。七番勝負は全国各地の旅館や料亭、あるいは文化的施設など格調高い場所で行われる。

持ち時間は各9時間で、2日制で実施される。1日目の終わりには封じ手を行い、2日目の開始まで次の手を考えて有利になることがないようにする。なお、2日目に夕食休憩の時間があるのは名人戦だけである。

近年は名人戦の対局の模様はNHK衛星第2テレビジョンなどで中継される。

挑戦者決定方法の変遷

当初は全八段の棋士による挑戦者決定リーグ戦を2年がかりで行っていたが、1946年から開始された順位戦と連動するようになった。

順位戦創設以前

第1期(1935-1937年)
名人位が空位であるため、この期は名人位を決定する形となる。八段の全棋士(9名、当時は八段が最高位)による特別リーグ戦と、その他の棋戦の総合点で順位を算出する(勝敗や段位差によって点数が定められた)。1位と2位の棋士が六番勝負を行い、勝者が名人となるが、1位と2位の点差が8点を越えるときは六番勝負を行わずに1位の棋士が名人となり、六番勝負の結果が同率のときも1位が名人となる。
リーグ戦の結果、1位木村義雄が2位花田長太郎に8.1点の差をつけ、六番勝負は実施されず木村の名人位獲得となった。
第2期(1937-1940年)
七段の棋士も挑戦者決定リーグに参加できるようになる。まず、七段の全棋士によるリーグ戦を行い、この勝者が挑戦者決定リーグに参加できる。八段全棋士(阪田三吉を含めて8名)と七段リーグの勝者によるリーグ戦によって挑戦者を決定する。挑戦者決定リーグは1次と2次に分かれ、1次リーグで1勝以下の成績のものは2次リーグに参加できない。
土居市太郎が1次・2次リーグとも全勝で挑戦権を得た。将棋大成会(現在の日本将棋連盟)と絶縁状態であった阪田が「八段格」でリーグに参加したが、合計で7勝8敗の成績となっている。
第3期(1940-1942年)
八段の棋士10名に、五~七段の予選を通過した2名を加え、12名から挑戦者を決定した。
まず12名を4名ずつ3組に分けてリーグ戦を行う。1位3名(土居市太郎神田辰之助渡辺東一)と2位のうち敗者復活リーグを勝ち抜いた1名(塚田正夫)により、挑戦者決定リーグを行った結果、神田が挑戦者となった。
第4期(1942-1944年)
参加棋士16名(八段12名と七段以下の予選を勝ち抜いた4名)がトーナメントを行い、勝者が「予備資格者」として名人(木村義雄)と半香落ち(香落ちと平手を交互に指す)の手合いで三番勝負を戦う。三番勝負を勝ち越した場合のみ、名人挑戦の資格を得る。
この形式による予備資格者選出および名人との三番勝負を4度行い、複数の挑戦資格者が出た場合はプレーオフを行うこととなっていたが、4度とも木村の勝ちとなり、名人挑戦資格者が出ずに木村の名人防衛が決定した。
  1. 木村義雄 2-0 萩原淳
  2. 木村義雄 2-1(1千日手) 大野源一
  3. 木村義雄 2-0 花田長太郎
  4. 木村義雄 2-0 坂口允彦
第5期(1944年)
予選を廃止し、近年の成績により7名による挑戦者決定戦となったが、戦局激化のため中止された。

順位戦創設以降

第6期(1947年)
前年から順位戦が開始され、A級順位戦の優勝者が名人挑戦資格を得るようになった。
この年のA級順位戦は八段棋士14名によるリーグ戦で、順位が決定していなかったため、同率首位となった塚田正夫大野源一萩原淳の3者によるプレーオフが行われ、塚田が挑戦資格を得た。
第7期(1948年) - 第9期(1950年)
順位戦A級の上位3名と、B級の優勝者による4名がパラマス式トーナメントを行い(A級3位とB級優勝者が対局し、勝者がA級2位と、その勝者がA級1位と対局する)、トーナメント優勝者が名人挑戦資格を得る。
第7期では、第2期順位戦でB級七段だった大山康晴がパラマス式トーナメントを勝ち抜いて挑戦資格を得ており、名人戦唯一の七段の挑戦者となっている。
第10期(1951年)以降
A級順位戦の優勝者が挑戦資格を得るように改められ、現在までほぼ同じ形式を踏襲している。

永世名人

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名人位を通算5期以上獲得した棋士は、引退後、永世称号である永世名人を名乗ることができる。1952年に、日本将棋連盟が規約を改正して制定した。他のタイトルの永世称号と異なり、「○世名人」という称号となる。代数は世襲制の数字を引き継いだため、十四世からとなっている。

この規定による永世名人は木村義雄(十四世名人)、大山康晴(十五世名人)、中原誠(十六世名人)、永世名人の資格を持つ棋士は谷川浩司(引退後に十七世名人襲位予定)、森内俊之(引退後に十八世名人襲位予定)、羽生善治(引退後に十九世名人襲位予定)である。木村は1952年の名人陥落時に引退して十四世名人を名乗った。大山は名人13連覇など数々の偉業を称えて、特例で現役でありながら「十五世名人」を名乗ることを許されていた。2007年11月、中原も名人15期をはじめとする実績を称えて現役中に十六世名人に推戴された。

歴代七番勝負

年は七番勝負が実施された時点。第1期はリーグ戦、第4期は挑戦資格を持つ棋士が出なかったため、第5期は戦争による中断のため七番勝負は行われなかった(#挑戦者決定方法の変遷参照)。○●は名人から見た勝敗、千は千日手、持は持将棋網掛けの対局者が勝者。

開催年名人勝敗挑戦者
1 1937年木村義雄リーグ戦で決定。2位は花田長太郎
2 1940年木村義雄○○千千●○○土居市太郎
3 1942年木村義雄○○○○神田辰之助
4 1944年木村義雄挑戦資格棋士なし
5 1945年木村義雄戦争により中断
6 1947年木村義雄○○持●●千●千●塚田正夫
7 1948年塚田正夫●○○●千○○大山康晴
8 1949年塚田正夫○●○●●(五番勝負)木村義雄
9 1950年木村義雄○○●●○○大山康晴
10 1951年木村義雄○●○○●○升田幸三
11 1952年木村義雄○●●●●大山康晴
12 1953年大山康晴○○●○○升田幸三
13 1954年大山康晴千○○○●○升田幸三
14 1955年大山康晴○●○○●○高島一岐代
15 1956年大山康晴○○○○花村元司
16 1957年大山康晴●○●●○●升田幸三
17 1958年升田幸三○○○持●●○大山康晴
18 1959年升田幸三千○●●●●大山康晴
19 1960年大山康晴●○○○千○加藤一二三
20 1961年大山康晴○○○●○丸田祐三
21 1962年大山康晴○○○○二上達也
22 1963年大山康晴○○○●○升田幸三
23 1964年大山康晴●○○●○○二上達也
24 1965年大山康晴○○○●○山田道美
25 1966年大山康晴●●○○○○升田幸三
26 1967年大山康晴○○○●○二上達也
27 1968年大山康晴○○○○升田幸三
28 1969年大山康晴●○○●●○○有吉道夫
29 1970年大山康晴○●○○○灘蓮照
30 1971年大山康晴○●●○●○○升田幸三
31 1972年大山康晴●○○●○●●中原誠
32 1973年中原誠○○○○加藤一二三
33 1974年中原誠●○○●○●○大山康晴
34 1975年中原誠●○○千●●○持○大内延介
35 1976年中原誠○●●○○●○米長邦雄
36 1978年中原誠●○●○千○○森雞二
37 1979年中原誠●●○○○○米長邦雄
38 1980年中原誠○●持○○○米長邦雄
39 1981年中原誠○○○●○桐山清澄
40 1982年中原誠持○●○●千●○千●加藤一二三
開催年名人勝敗挑戦者
41 1983年加藤一二三●●●○○●谷川浩司
42 1984年谷川浩司○○○●○森安秀光
43 1985年谷川浩司●●●○○●中原誠
44 1986年中原誠○○●○○大山康晴
45 1987年中原誠●●○○○○米長邦雄
46 1988年中原誠○●●●○●谷川浩司
47 1989年谷川浩司○○○○米長邦雄
48 1990年谷川浩司●○●○●●中原誠
49 1991年中原誠○○○●○米長邦雄
50 1992年中原誠●●○●○○○高橋道雄
51 1993年中原誠●●●●米長邦雄
52 1994年米長邦雄●●●○○●羽生善治
53 1995年羽生善治○○●○○森下卓
54 1996年羽生善治○○○●○森内俊之
55 1997年羽生善治●○●●○●谷川浩司
56 1998年谷川浩司○●○●○●●佐藤康光
57 1999年佐藤康光○○●●●○○谷川浩司
58 2000年佐藤康光●●○○○●●丸山忠久
59 2001年丸山忠久○●千●○●○○谷川浩司
60 2002年丸山忠久●●●●森内俊之
61 2003年森内俊之●●●●羽生善治
62 2004年羽生善治●●○●○●森内俊之
63 2005年森内俊之●○○○●●○羽生善治
64 2006年森内俊之○○●○●○谷川浩司
65 2007年森内俊之●●○○○●○郷田真隆
66 2008年森内俊之○●●●○●羽生善治
67 2009年羽生善治○●○●●○○郷田真隆
68 2010年羽生善治○○○○三浦弘行

記録

  • 最年少 - 谷川浩司 21歳
  • 最年長 - 米長邦雄 49歳(翌年に50歳で失冠)
  • 最長連覇 - 大山康晴 13連覇
  • 獲得期数 - 大山康晴 18期
  • 最年少挑戦 - 加藤一二三 20歳
  • 最年長挑戦 - 大山康晴 63歳
  • 対局者の年齢合計最小 - 第54期 50歳(=25歳+25歳)

名人戦の主催者

当初の主催は東京日日新聞(現在の毎日新聞)だったが、第9期(1950年)から第35期(1976年)は朝日新聞社の主催に変わった。第36期(1977年)から毎日新聞社の主催に復し、第66期(2008年)より毎日新聞社・朝日新聞社の共催となる。

順位戦#順位戦の歴史も参照。

1950年

この年、名人戦の契約が毎日新聞から朝日新聞に移っている。

名人戦を失った毎日は王将戦を創設し、再び名人戦の主催社となった後も、王将戦の主催社(スポーツニッポン新聞社と共催)として現在に至っている。

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参考資料
升田幸三『名人に香車を引いた男』(中央公論社、2003年、ISBN 412204247X

1976年

この年、日本将棋連盟が名人戦の契約金として、前年の1億1000万円から3億円(名人戦2億円、順位戦1億円)の大幅な増額を要求している。大幅な値上げの背景には、囲碁の序列1位の棋戦である棋聖戦の契約金が1億6000万円であったため、囲碁に対抗する意味でそれ以上の金額での契約を成立させたいという思惑があったといわれる。

朝日新聞社はこれを拒否し、前年と同じ1億1000万円と一時金1000万円の合計1億2000万円の案を提示した。連盟は要求額を1億6000万円に引き下げたものの、双方の溝は埋まらず、同年7月に契約は打ち切られた。

その後毎日新聞社が交渉に参加し、9月には契約金2億円で翌1977年度からの名人戦の主催を行うことが決定した(1976年度の順位戦、1977年の名人戦は中止された)。直後に行われた臨時の棋士総会で、毎日への移籍の賛否を問う投票が行われ、2票差という僅差でありながらも移籍が認められることとなった。反対票が当初の予想を大きく上回ったが、これは、この投票の前に順位戦(この年は中止されている)に代わる臨時の昇級棋戦を要求した若手陣が、臨時棋戦の実施を否決されてしまったために反発したためとされている。

名人戦を失った朝日新聞は、1977年から「朝日アマ名人戦」を、1982年から「全日本プロトーナメント」(2000年以降は朝日オープン将棋選手権、2006年で終了)を主催している。

参考資料
名人戦@将棋パイナップル
近代将棋」1976年12月号

2006年

2006年3月、日本将棋連盟理事会は第66期(2008年)以降の主催を朝日新聞社に移管するとの方針を示し、この時点での主催社である毎日新聞社に対し、契約を更新しない旨の通知書を送付した。事前に何の相談もなく下された理事会の決定に、長年名人戦を通じ棋界を盛り立ててきた毎日新聞社は激怒し、大きな問題となった。

問題が大きくなった要因のひとつとして、毎日新聞社との直接交渉を担当した中原誠専務理事(副会長)が「名人戦は朝日に移るが、王将戦を盛り上げて欲しい」との不手際な発言があった。その後、米長邦雄会長が中原交渉担当の失言の可能性を認めつつも、双方誤解があったという苦しい釈明をしている。また米長会長は、東京中日スポーツ紙上の連載コラムにおいて「毎日新聞社に通知書を送ったのは、現状の契約条件を変更したい場合にも通知書を送る必要があったためであり、朝日新聞社への移管ありきの話というわけではない」と説明した。また米長は同コラムで「日本将棋連盟の予算は現在毎年約1億円ほどの赤字が出ており、財務体質の改善のためにも契約の見直しが必要だった」とも述べているが、毎日新聞社側はこの主張に対し「将棋連盟は長年、十分な契約料を貰いながら財務改善の努力を一切しておらず、金に困ったから信義を捨て、伝統を売るのか」と社説で批判している。

2006年度の名人戦の契約額は3億3400万円であったのに対し、朝日は3億5100万円、ほかに臨時棋戦4000万円、普及協力金1億5000万円での5年契約を提示していたという。

通知の撤回を求める毎日に対し、連盟は一時、毎日・朝日の共催を提案するなどの妥協案を提示したが、5月になって補充説明書を毎日に送り、毎日はこれを通知の撤回と見なして契約見直しの協議に応じると発表。その後に行われた棋士総会において (1)毎日が単独での契約を望む場合、毎日の提示した契約条件を受諾するかどうかを棋士の表決で決定 (2)毎日が朝日との共催を望む場合、交渉は理事会に一任する――との案が採決された。

7月10日、毎日が単独での主催による7年契約(1年目は3億3500万円、2年目以降は毎年協議、その他将棋振興金として年3000万円)を提示。棋戦の契約は通常3年契約で行われており、異例の長期の提案となった。羽生善治(当時王位・王座・王将)が対局終了後のインタビューで、森内俊之(当時名人・棋王)が名人就位式の席上で、渡辺明(当時竜王)が自身のブログで、それぞれ毎日案を支持することを表明した。

8月1日に臨時の棋士総会が開催され、毎日案の採決が行われた。結果は賛成90票、反対101票となり、毎日案を受諾しないことが決定したが、賛否の差が少数であったため、朝日は毎日との共催を提案した。9月19日、毎日は共催についての協議を開始することを受け入れ、11月1日に共催に関して基本事項で合意したと発表した。

12月27日、毎日・朝日両新聞社と日本将棋連盟の間で、契約金などについて合意された。名人戦・順位戦は5年契約となり、契約金は両社合わせて年額3億6000万円、別枠の将棋普及協力金が年額1億1200万円となる。また、朝日新聞社が主催している朝日オープン選手権は朝日新聞社の新棋戦扱いとなり(契約金は年8000万円)、「朝日杯将棋オープン戦」に改められた。毎日新聞社などが主催する王将戦(契約金は年7800万円)は継続して開催される。尚観戦記については双方それぞれの独自の取材を行い、名人戦については双方から1名副立会人をだすこととなった。

今回の名人戦問題では棋士、ファン共々意見が対立し大きな騒ぎとなった。 世間の流れに合わせる様に 一部棋士やファンからは、無尽蔵に人員を増やすのでは無く、人件費を削減し、抜本的な改革が時には必要では無いのかとの声が聞かれた。


参考資料
名人戦問題:MSN毎日インタラクティブ(現在はリンク切れ、Web Archiveによるミラー
日本の論点PLUS - 将棋名人戦の移籍問題
参考文献
『新潮45』2006年7月号(通巻291号)、「棋界激震! 名人戦争奪バトルの禁じ手」(田丸昇
将棋世界』2007年1月号、「名人戦の真実」

関連項目

外部リンク

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