史記
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Template:二十四史 『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。
日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。
目次 |
成立の過程
『史記』のような歴史書を作成する構想は、司馬遷の父司馬談が既に持っていた。しかし、司馬談は自らの歴史書を完成させる前に憤死した。司馬遷は父の遺言を受けて『史記』の作成を継続する。
紀元前99年に司馬遷は、匈奴に投降した友人の李陵を弁護したゆえに武帝の怒りを買い、獄につながれ、翌年に宮刑に処せられる。この際、獄中にて、古代の偉人の生きかたを省みて、自分もしっかりとした歴史書を作り上げようと決意した。紀元前97年に出獄後は、執筆に専念する。結果紀元前91年頃に『史記』が成立した。『史記』は司馬遷の娘に託され、武帝の逆鱗に触れるような記述がある為に隠されることになり、宣帝の代になり司馬遷の孫の楊惲が広めたという。
唐代に司馬貞が『史記索隠』という注釈をあらわした際に、司馬遷が叙述をしなかった五帝時代のひとつ前の時代である三皇時代について書いた「三皇本紀」と「序」が加えられた。これについて、司馬遷が三皇について触れなかったのは、三皇を伝説の存在として看做していたからであって、司馬貞がこれを付け加えたのは一種の改竄ではないかという批判する学者もいる。
思想的背景
『史記』全体に貫かれている思想は「天道是か非か」であると言われている。天の道、すなわちこの世に行われるべき正しき道が本当に存在しているのかどうかということである。例えば列伝の最初である「伯夷列伝」で、義人であるはずの伯夷と叔斉が餓死という惨めな死を遂げることに対しての疑問である。これは司馬遷自身が、李陵を弁護したと言う正しい行いをしておきながら宮刑と言う屈辱的な刑罰を受けたことに対しての悲痛な思いが根底にあると思われる。
司馬遷が『史記』を執筆した時代は、武帝により儒教が国教化されつつあった時代である。そのため、孔子については、諸侯でないものの、世家の中に書かれている。しかしながら、『史記』の記述は儒教一辺倒にならず他の思想も取り入れている(司馬遷自身は道家に最も好意的だとも言われている)。これは、事実の追求という史書編纂の目的から生まれたことであろう。反秦勢力の名目上の領袖であった義帝に本紀を立てず、当時の実質的な支配者であった項羽に本紀を立てていることや、呂后の傀儡であった恵帝を本紀から外し「呂后本紀」を立てていることも、こうした姿勢の現れと考えられる。
叙述の対象は王侯が中心であるものの、民間の人物を取り上げた「遊侠列伝」や「貨殖列伝」、暗殺者の伝記である「刺客列伝」など、権力から距離を置いた人物についての記述も多い。また、武帝の外戚の間での醜い争いを描いた「魏其武安侯列伝」や、男色やおべっかで富貴を得た者たちの「佞幸列伝」、法律に威をかざし人を嬲った「酷吏列伝」、逆に法律に照らし合わせて正しく人を導いた「循吏列伝」など、安易な英雄中心の歴史観に偏らない多様な視点も保たれている。
さらに、漢の宿敵であった匈奴を始めとする周辺異民族に対しても、当時の漢の価値観から論評することをあまりせず、基本的に事実のみを淡々と書くという態度で臨んでいる。一方で、高祖・劉邦が匈奴との戦いで惨敗し厳しい条件での講和を余儀なくされたこと、その後、武帝が治世の初期に匈奴の単于を騙し討ちにしようとしたことから匈奴との関係が決定的に悪化したこと、同じく武帝の時代に、朝鮮に派遣された使者が自分を送るためについて来た朝鮮の副王を手柄欲しさに殺害したことで朝鮮との戦いが始まったことなど、当時の漢にとって不都合な事実も隠さずに記述されている。
しかし儒教が完全に主導権を握った後は、司馬遷のこうした姿勢はしばしば批判の対象とされた。例えば班彪は『漢書』の中で、司馬遷が遊侠や貨殖といった人物を史書で取り上げたことや儒教を軽視して道家に近い立場をとったことを批判し、『文心雕龍』では女性を本紀に立てたことが非難されている。『史記』を一種の悪書と見なすこうした視点はかなり早くからあったらしく、例えば『漢書』の「宣元六王伝」には、前漢の成帝の時代に楚王・劉宇が来朝して『太史公書』を求めたものの、「『太史公書』には昔の合従連衡や権謀術数のことが詳しく書かれており、諸侯に読ませるべき本ではない」という意見が出て、結局楚王の申し出は許可されなかったことが記されている。また、後世において史漢(『史記』と『漢書』)の比較評論が、多くの知識人によって行われている。
文学的価値
歴史叙述をするための簡潔で力強い書き方が評価され、「文の聖なり」「老将の兵を用いるがごとし」と絶賛されたこともある。特に「項羽本紀」は名文として広く知れ渡っている。
ただし、文体は巻によって相当異同があることも指摘されており、白川静は題材元の巧拙によって文体が相当左右されたのではないかと考えており、司馬遷自身の文学的才能には疑問を呈している。また宮崎市定は、歴史を題材にした講談から司馬遷が取材した可能性を指摘している。小川環樹は、司馬遷は戦国策等の記述をだいぶ参照しているであろう、とその著書で指摘した(史記列伝・解説)。しかしいま、それら講談から取材した記述と司馬遷自身の記述を見分ける術は我々には無い。いずれにせよ、司馬遷の仕事によって後世に史記に採録されている興味深い話の数々が残ったという事実のみがある。
歴史学的価値
正史として歴史的な事件についての基本的な情報となるほか、細かな記述から当時の生活や習慣が分かる部分も多い。特に「書」に記された内容は、前漢時代における世界観や政治経済、社会制度などについての重要な資料である。 また、匈奴を始めとする周辺異民族や西域についての記述も、現在知られている地理や遺跡の発掘などから判明した当時の状況との整合性が高く、これらの地方の当時を知るための貴重な手がかりとなっている。 また、秦始皇本紀における「始皇帝は自分の墓に近衛兵三千人の人形を埋めた」という記述についても、西安市の郊外の兵馬俑抗の発見で記述の正確さが証明されている。
一方で、竹書紀年などとの比較から年代矛盾などの問題点が度々指摘されている。
史記にあらわれる故事成語
以下は初出を特記しない限り『史記』を原拠とするものである。
- 「王侯将相いずくんぞ種あらんや」 巻48・陳渉世家
- 「唇破れて歯寒し」 巻39・晋世家、巻46・田敬仲完世家。初出は『春秋左伝』僖公五年
- 「狡兎死して走狗煮らる」 巻41・越王句践世家、巻92・淮陰侯列伝。初出は『韓非子』内儲説下
- 「先んずれば人を制す」 巻7・項羽本紀
- 「将に将たり」 巻92・淮陰侯列伝
- 「断じて行えば鬼神もこれを避く」 巻87・李斯列伝
- 「智者も千慮必ず一失あり。愚者も千慮また一得あり」 巻92・淮陰侯列伝
- 「忠言耳に逆らい、良薬口に苦し」 巻55・留侯世家、巻108・淮南衡山列伝(『史記』では「毒薬」)。初出は『韓非子』外儲説左上
- 「天道是か非か」 巻61・伯夷列伝、巻63・老子韓非列伝
- 「桃李もの言わざれど下おのずから小径(こみち)をなす」 巻109・李将軍列伝
- 「謀(はかりごと)を帷幄(いあく)の中にめぐらし、勝ちを千里の外に決する」 巻130・太史公自序。張良の伝記で言及するものは『漢書』巻40・張良伝
- 「匹夫の勇、婦人の仁」 巻92・淮陰侯列伝。「匹夫の勇」の初出は『孟子』梁恵王下
- 「寧ろ鶏口となるとも牛後となるなかれ」 巻69・蘇秦列伝
- 「臥薪嘗胆」 巻41・越王句践世家(「嘗胆」のみ。「臥薪嘗胆」は『十八史略』春秋など)
- 「管鮑の交わり」 巻62・管晏列伝。初出は『列子』力命
- 「完璧」 巻81・廉頗藺相如列伝
- 「鴻門の会」 巻7・項羽本紀、巻8・高祖本紀、巻55・留侯世家、巻95・樊噲列伝
- 「国士無双」 巻92・淮陰侯列伝
- 「左袒」 巻9・呂太后本紀、巻10・孝文本紀
- 「屍を鞭打つ」 巻66・伍子胥列伝
- 「鹿を馬となす」(「馬鹿」の語源という説がある) 巻6・秦始皇本紀
- 「四面楚歌」 巻7・項羽本紀
- 「酒池肉林」 巻3・殷本紀、巻123・大宛列伝。初出は『韓非子』喩老
- 「宋襄の仁」 巻39・晋世家、初出は『韓非子』外儲説左上
- 「背水の陣」 巻92・淮陰侯列伝。初出は『尉繚子』天官
- 「刎頸の交わり」 巻81・廉頗藺相如列伝、巻89・張耳陳余列伝、巻92・淮陰侯列伝
- 「右に出ずる者なし」 巻104・田叔列伝
- 「流言蜚語」 巻107・魏其武安侯列伝
- 「怨み骨髄に入る」 巻5・秦本紀
- 「曲学阿世」 巻121・儒林列伝
- 「士は己を知る者のために死す」 巻86・刺客列伝
- 「雌雄を決す」 巻7・項羽本紀
- 「傍若無人」 巻86・刺客列伝
- 「満を持す」 巻41・越王句践世家
- 「立錐の地なし」 巻55・留侯世家
- 「一敗、地に塗る」 巻8・高祖本紀
- 「百発百中」 巻4・周本紀
- 「鳴かず飛ばず」 巻66・淳于髠列伝
その他
近年、中国史家平勢隆郎は、『史記』の内容を分析した結果として、『史記』は漢の朝廷によって公式に作られた欽定史書であり、司馬遷の個人的な著作ではないと言う意見を述べ、また、同氏は『史記』に於いて同一人物の複数化などが行われているとの説を発表した。この問題については今後の議論が予想される。
上記説への反論として、一部の列伝にある劉邦批判、漢王室にとって不名誉な話題が何故多数採録されているのか、といった意見がある。
内容
本紀
- 五帝本紀 - 五帝
- 夏本紀 - 夏
- 殷本紀 - 殷
- 周本紀 - 周
- 秦本紀 - 秦
- 秦始皇本紀 - 始皇帝
- 項羽本紀 - 項羽
- 高祖本紀 - 劉邦
- 呂太后本紀 - 呂太后
- 孝文本紀 - 文帝
- 孝景本紀 - 景帝
- 孝武本紀 - 武帝(著者自身が名付けた篇名は『今上本紀』)
表
- 三代世表
- 十二諸侯年表
- 六国年表
- 秦楚之際月表
- 漢興以来諸侯年表
- 高祖功臣侯者年表
- 恵景間侯者年表
- 建元以来侯者年表
- 建元已来王子年表
- 漢興以来将相名臣年表
書
- 礼書
- 楽書
- 律書
- 暦書
- 天官書
- 封禅書
- 河渠書
- 平準書
世家
- 呉太伯世家 - 呉
- 斉太公世家 - 斉
- 魯周公世家 - 魯
- 燕召公世家 - 燕
- 管蔡世家 - 管叔鮮・蔡・曹
- 陳杞世家 - 陳・杞
- 衛康叔世家 - 衛
- 宋微子世家 - 宋
- 晋世家 - 晋
- 楚世家 - 楚
- 越王句践世家 - 勾践
- 鄭世家 - 鄭
- 趙世家 - 趙
- 魏世家 - 魏
- 韓世家 - 韓
- 田敬仲完世家 - 田斉
- 孔子世家 - 孔子
- 陳渉世家 - 陳勝
- 外戚世家 - 外戚について
- 楚元王世家 - 劉交(劉邦の血族で王侯に封じられたものについて)
- 荊燕世家 - 劉賈・劉沢
- 斉悼恵王世家 - 劉肥(漢の諸侯王としての斉について)
- 蕭相国世家 - 蕭何
- 曹相国世家 - 曹參
- 留侯世家 - 張良
- 陳丞相世家 - 陳平
- 絳侯周勃世家 - 周勃
- 梁孝王世家 - 劉武(漢の諸侯王としての梁について)
- 五宗世家 - 景帝の子について
- 三王世家 - 武帝の子について
列伝
- 伯夷列伝 - 伯夷・叔斉
- 管晏列伝 - 管仲・晏嬰
- 老子韓非列伝 - 老子・韓非
- 司馬穰苴列伝 - 司馬穰苴
- 孫子呉起列伝 - 孫武・孫臏・呉起
- 伍子胥列伝 - 伍子胥
- 仲尼弟子列伝 - 孔門十哲他77人
- 商君列伝 - 商鞅
- 蘇秦列伝 - 蘇秦
- 張儀列伝 - 張儀
- 樗里子甘茂列伝 - 樗里子・甘茂
- 穰侯列伝 - 魏冄
- 白起王翦列伝 - 白起・王翦
- 孟子荀卿列伝 - 孟子・荀子
- 孟嘗君列伝 - 孟嘗君
- 平原君虞卿列伝 - 平原君・虞卿
- 魏公子列伝 - 信陵君
- 春申君列伝 - 春申君
- 范睢蔡沢列伝 - 范雎・蔡沢
- 楽毅列伝 - 楽毅
- 廉頗蘭相如列伝 - 廉頗・藺相如・趙奢・李牧
- 田単列伝 - 田単
- 魯仲連鄒陽列伝 - 魯仲連・鄒陽
- 屈原賈生列伝 - 屈原・賈誼
- 呂不韋列伝 - 呂不韋
- 刺客列伝 - 曹沫・専諸・予譲・聶政・荊軻
- 李斯列伝 - 李斯
- 蒙恬列伝 - 蒙恬
- 張耳陳余列伝 - 張耳・陳余
- 魏豹彭越列伝 - 魏豹・彭越
- 黥布列伝 - 黥布
- 淮陰侯列伝 - 韓信
- 韓信盧綰列伝 - 韓王信・盧綰
- 田儋列伝 - 田儋
- 樊酈滕灌列伝 - 樊噲・酈商・夏侯嬰・灌嬰
- 張丞相列伝 - 張蒼
- 酈生陸賈列伝 - 酈食其・陸賈
- 傅靳蒯成列伝 - 傅寛・靳歙・周緤
- 劉敬叔孫通列伝 - 劉敬・叔孫通
- 季布欒布列伝 - 季布・欒布
- 袁盎晁錯列伝 - 袁盎・晁錯
- 張釈之馮唐列伝 - 張釈之・馮唐
- 萬石張叔列伝 - 石奮・張叔
- 田叔列伝 - 田叔
- 扁鵲倉公列伝 - 扁鵲・太倉公
- 呉王濞列伝 - 劉濞
- 魏其武安侯列伝 - 竇嬰・田蚡
- 韓長孺列伝 - 韓安国
- 李将軍列伝 - 李広
- 匈奴列伝 - 匈奴・中行説
- 衛将軍驃騎列伝 - 衛青・霍去病
- 平津侯主父列伝 - 公孫弘
- 南越列伝 - 南越
- 東越列伝 - 東越
- 朝鮮列伝 - 衛氏朝鮮
- 西南夷列伝 - 夜郎など
- 司馬相如列伝 - 司馬相如
- 淮南衡山列伝 - 淮南王劉安
- 循吏列伝 - 孫叔敖・子産・公儀休・石奢・李離
- 汲鄭列伝 - 汲黯・鄭当時
- 儒林列伝 - 董仲舒・孔安国など
- 酷吏列伝 - 当時、厳しく法を適用し、民を治めた人々。侯封・郅都・寧成・周陽由・趙禹・張湯・義縦・王温舒・尹斉・楊僕・減宣・杜周
- 大宛列伝 - 大宛(フェルガナ)
- 游侠列伝 - 朱家・田仲・王公・劇孟・郭解
- 佞幸列伝 - 鄧通・韓嫣・李延年
- 滑稽列伝 - 淳于髠・優孟・優旃
- 日者列伝 - 卜者司馬季主
- 亀策列伝 - 占卜の方法について
- 貨殖列伝 - 商人について 范蠡・子貢が商人としても成功した逸話を記述。
- 太史公自序
主な註釈
- 宋のGiBupC <a href="http://gpsnqwvzbsbg.com/">gpsnqwvzbsbg</a>, [url=http://dbtauaohikgv.com/]dbtauaohikgv[/url], [link=http://fasownhcrtod.com/]fasownhcrtod[/link], http://npemhjdofvfv.com/(GiBupC <a href="http://gpsnqwvzbsbg.com/">gpsnqwvzbsbg</a>, [url=http://dbtauaohikgv.com/]dbtauaohikgv[/url], [link=http://fasownhcrtod.com/]fasownhcrtod[/link], http://npemhjdofvfv.com/は扁が馬で旁が因)による『史記集解』
- 唐の司馬貞による『史記索隠』
- 唐の張守節による『史記正義』
- 明の凌稚隆撰、李光縉増補の『史記評林』 - 『史記』本編、三家注のほか、諸家の解説をあわせたもの。
- 日本の瀧川資言による『史記会注考証』
なお、『史記集解』、『史記索隠』、『史記正義』の3本の注釈書をあわせて「三家注」という。
日本における史記の受容
『史記』の伝来時期は正確には判明していないようであるが、聖徳太子の十七条の憲法の典拠のひとつとして『史記』を挙げる見解がある<ref>岡田正之『近江奈良朝の漢文學』p26・p62(養徳社、1946年)。</ref>。日本における『史記』の受容に関連する事跡を以下に例示する。
奈良時代
『続日本紀』巻29・神護景雲2年(768年)9月11日の条に、日向國宮埼郡の人・大伴人益が目の赤い白亀を瑞兆として献上した旨の記事がある。その際、人益は上奏文において『史記』巻128・龜策列伝の「神龜は天下の宝なり」以下のくだりを引用している。
また、『続日本紀』巻30・神護景雲3年(769年)10月10日の条に、称徳天皇が大宰府の「府庫は但だ五経を蓄えるのみ、未だ三史(『史記』・『漢書』・『後漢書』)の正本有らず。渉猟の人、其の道広からず。伏して乞うらくは、列代諸史、各一本を給わりて管内に伝習し、以て学業を興さん」との請に応じて『史記』から『晋書』までの歴代正史を下賜した旨の記事がある。
平安時代
平安時代には公私の蔵書目録に『史記』があらわれた。藤原佐世が奉勅して寛平年間(889年 - 897年)に撰した<ref>『日本國見在書目録』の撰述時期は確定されていないが、ここでは大庭脩『古代中世における日中関係史の研究』p299(同朋舎出版、1996年)による。</ref>『日本國見在書目録』に「『史記』八十巻・裴駰『集解』」が記載されている。また、 藤原通憲の『通憲入道蔵書目録』にも史書のひとつとして「『史記索隠』上帙七巻・中帙十巻・下帙九巻」がみえる。
さらに、清少納言は枕草子において「ふみは文集。文選。新賦。史記五帝本紀。願文。表。博士の申文」と述べている。他方、紫式部は『源氏物語』で152箇所にわたり中国詩文を引用し、うち14箇所で『史記』を用いている<ref>中西進・厳紹GiBupC <a href="http://gpsnqwvzbsbg.com/">gpsnqwvzbsbg</a>, [url=http://dbtauaohikgv.com/]dbtauaohikgv[/url], [link=http://fasownhcrtod.com/]fasownhcrtod[/link], http://npemhjdofvfv.com/璗編『日中文化交流史叢書 第6巻・文学』p207(大修館書店、1995年)の算出方法による。</ref>。例えば、藤壷院が自身に降りかかる難を避けるべく出家を決意する場面で、劉邦の寵妃・戚夫人の「人彘」の逸話を藤壷院に連想させている(第10帖・「賢木」)。また、紀伝道の宗家とされた大江氏では、裴駰『集解』を基にした延久点に基づく訓点本が著された。
南北朝時代
『太平記』における中国故事の引用は62例あり、うち30話は『史記』を源泉とする説話である<ref>増田欣『『太平記』の比較文学的研究』p112-p125(角川書店、1976年)の算出方法による。また、『太平記』章段の事書は西源院本に基づく。なお、例えば楚漢の興亡が『平家物語』・『平治物語』・『源平盛衰記』で紹介されているように、種々の軍記物語が『史記』にみえる説話を用いている。しかし、『史記』のテキストとの比較により、これらの軍記物語と『史記』との直接的関連を否定するのが通説的見解のようである。増田・前掲書p207以降。『平家物語』につき、山下宏明ら編・軍記文学研究叢書5『平家物語の生成』p129(汲古書院、1997年)。</ref>。『太平記』には呉越・楚漢の興亡に取材した部分が多く、殊に巻28・「漢楚戦之事付吉野殿被成綸旨事」では、『史記』巻7・項羽本紀を中心にして再構成した楚漢の戦いの描写に約9千字を費やしている。
室町時代
上杉憲実が文安3年(1446年)に足利学校の学規を定めて「三注・四書・六経・列・荘・老・史記・文選の外は学校において講ずべからず」とした<ref>川瀬一馬『足利學校の研究』p32(講談社、1974年)。もっとも、『史記』は足利学校で教材とされる唯一の史書であり続けた訳ではなく、享保13年(1728年)の蔵書目録には『両漢書』・『通鑑』などがみえる。同書p167・p253。なお、「三注」とは『古注蒙求』・『千字文注』・『胡曾詩註』をいう。 </ref>。
江戸時代
元和2年(1616年)10月、徳川家康が駿府の文庫に蔵していた図書が家康の遺命により江戸城内・富士見の亭の文庫に一部移転された。その引継目録『御本日記』に「『史記』四十三冊・『史記抄』十四冊」がみえる<ref>福井保『紅葉山文庫』p39(郷学舎、1980年)。</ref>。
また、徳川光圀が18歳の時に『史記』巻61・伯夷列伝を読んで感動したとの逸話が、光圀の伝記『義公行実』などに記されている。光圀らが編纂した『大日本史』は『史記』と同様の紀伝体の史書である。
なお、天皇が侍読に『史記』を進講させた記録が各時代の史料に散見される。また、日本に現存する最古の『史記』は、南宋時代に出版されて日本に渡ったとされる宋版本である。1195年~1201年に建安(現在の福建省)で刊行され、『建安黄善夫刊/于家塾之敬室』と刊記が残っている。妙心寺の僧侶である南化が所有していたが、直江兼続に譲り、その後米沢藩藩校「興譲館」で保管されていたものであり、宋版『漢書・後漢書』と共に現在は国宝となり国立歴史民俗博物館で保管されている。
現代語訳注
- 『史記 新釈漢文大系 (全13巻)』、吉田賢抗・水澤利忠ほか訳注。
明治書院、1973年~刊行中:2011年完結予定。- 抜粋版、『史記列伝 (全2巻)』、『史記世家 (全2巻)』、『史記本紀』。
新書漢文大系:明治書院、2002~06年。
- 抜粋版、『史記列伝 (全2巻)』、『史記世家 (全2巻)』、『史記本紀』。
- 『史記 (全3巻)』、平凡社:中国古典文学大系、初版1971年、復刊1994年
- 野口定男・近藤光男・頼惟勤・吉田光邦訳-※以下訳文のみ
- 『史記 (全8巻)』、小竹文夫・小竹武夫共訳、筑摩書房:ちくま学芸文庫、1995年
- 『史記列伝 (全5巻)』、『史記世家 (全3巻)』、小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳、岩波文庫
- 『史記列伝 (全2巻)』、貝塚茂樹・川勝義雄訳、中央公論社:中公クラシックス、(抄訳)
- 『史記』 一海知義・田中謙二訳・解説 朝日新聞社:朝日選書全3巻、1996年、(抄訳)
注釈
関連項目
関連文献
- 大木康著『「史記」と「漢書」:中国文化のバロメーター』(『書物誕生:あたらしい古典入門』)(岩波書店、2008年)ISBN 978-4-00-028283-3
外部リンク
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- 国学ネット — 原典宝庫『1巻/五帝本紀第1 - 130巻/列伝70・太史公自序』Template:Zh-smpl icon
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