原罪

出典: Wikipedio


Template:出典の明記 Template:参照方法 原罪(げんざい、Template:Lang-la-short)とはエデンの園において人類の始祖であるアダムとイヴが最初に犯したとされる罪、およびその罪が人間の本性を損ね、あるいは変えてしまったため、以来人間は神の救い・助けなしには克服し得ない罪への傾きを持つことになったという、キリスト教の多くの教派において共有される思想

後者定義での罪への生来の傾きを生来の腐敗性、また、聖書の用語では「」という。原罪の理解は、キリスト教の教派によって大きな差があるだけでなく、ペラギウス主義のように、中には原罪という概念を持たない教派もある。

目次

『創世記』にみる「原罪」

そもそも原罪の概念は『創世記』のアダムイヴの物語に由来している。『創世記』の1章から3章によれば、アダムとイブは日本語で主なる神と訳されるヤハウェ・エロヒム(エールの複数形)の近くで生きることが出来るという恵まれた状況に置かれ、自然との完璧な調和を保って生きていた。主なる神はアダムにエデンの園になる全ての木の実を食べることを許したが、中央にある善悪の知識の木だけは食べることを禁じた。しかし、蛇は言葉巧みにイヴに近づき、木の実を食べさせることに成功した。アダムもイヴに従って木の実を食べた。二人は突然裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉をあわせて身にまとった。主なる神はこれを知って驚き、怒った。こうして蛇は地を這うよう定められた呪われた存在となった。

結果的に、2人は主なる神との親しい交わりを失い、永遠の生命を失い、自然との完全の調和も失った。ヤハウェ・エロヒムはアダムとイヴが命の木を食べることを恐れ二人を呪い、エデンの園から追放した。いわゆる失楽園である。子孫たちにも2人の行動の結果が引き継がれることになった。

2人の行動は2人の運命を変え、その子孫たちにも累を及ぼす結果となった。2人の子孫たちは決して罪に塗れている訳ではないが、人間の歴史そのものが楽園追放前の親しい神との交わりの復活を目指す努力であるということができる。2人が楽園を追放されたのは、木の実を食べたからではなく、主なる神の言葉に従わなかったからである。主なる神の言葉から考えると、もし2人が木の実を食べなければ永遠に生きることが出来たはずである。

ユダヤ教の一部では、創世記の蛇をサタンの別の姿であるとする見方も生まれてきた。イエスやバプテスマのヨハネは、こうした蛇に対する見方を持っていたらしいTemplate:要出典

ユダヤ教改革派およびユダヤ教正統派の原罪観

改革派ユダヤ教徒正統派ユダヤ教徒は、この原罪物語において人間の行為以外の悪を見出さない。だから決して蛇をサタンの姿とは考えない。イヴの唯一の罪は神の言葉に従わなかったことである。さらに創世記の記述からアダムがイブを制止していないことが明らかであるため、イヴだけを責めるのはおかしいと考える。アダムとイヴは楽園を追放されることで通常の人間の生活を送るようになった、言い換えれば「家を出て」成長し、責任ある人間として生きるようになったのだ。もし木の実を食べなければ、彼らは決して自由意志で生きることがなかったであろう。

さらにユダヤ教では、神は人間に常に選択の自由を与える方であるとみなされる。エデンの園でのアダムとイヴはロボットのようなもので、彼らは木の実を食べ、追放されることで初めて自由意志を行使した人間になった。神はこれを望んでいたのだ、というのが改革派とユダヤ教正統派による原罪理解である。

新約聖書の原罪観

新約聖書の原罪観はパウロの言葉によくまとめられている。「こうして罪は一人の人間によって世に入り、罪が死をもたらした為、罪によって死がすべての人に広がった。」(ローマの信徒への手紙5:12)

個人のうちにおける原罪の経験と神に近づこうとする努力が失敗して感じる精神的なつらさもパウロはよく表現している。
「私には自分のしていることがわかりません。なぜなら私は自分がしたいと思うことはせず、したくないことをしてしまうからです。もし、私がしたくないことをするなら、律法を善いものであることを認めます。もはや、したくないことをするのは私ではなく、私の中にある罪なのです。私は自分の肉体の中には何も良いものがないことを知っています。 正しいことをしたいという気持ちはあっても、できないのです。私は自分のしたいことをするのではなく、したくないことをしています。もし私が自分の望まないことをするなら、それは私の中にある罪のしわざなのです。私は自分がしたいことをしようとするとき、すぐに悪がやってくるという法則を発見しました。私は神の律法のうちに喜びを見出していますが、自分の奥底ではわたしの体の中には、別の法則があって心の法則と戦い、わたしを罪のとりこにしていることがわかります。私はなんと悲しい人間でしょう。だれが死に定められたこの肉体から救い出してくれるのでしょうか。」 (ローマの信徒への手紙7:15-24)

このジレンマの解決もパウロは見出している。「肉体によって弱められた律法にできなかったことを神はしてくださいました。つまり自分のひとり息子を罪の体のかたちで世に送り、わたしたちが肉でなく律法を全うして生きられるように、肉のうちにある罪を処断してくださったのです。」(ローマの信徒への手紙8:3-4)

新約聖書で原罪について最もよくその思想を語るのはパウロだが、イエス・キリストの言葉にも原罪を示唆するものがあると解釈される。それは「なぜ、わたしを良いというのか。神お一人のほかに良いものはいない。」(マルコによる福音書10:18)や、「私はぶどうの木である。あなたたちはその枝である。私につながるものは豊かに実をむすぶが、私から離れてはあなたがたが何もできない。」(ヨハネによる福音書15:5)といった言葉である。

ただし、同じく新約聖書を正典として根底におくキリスト教の諸教派であっても、その理解の仕方は教派によって大きく異なる。

西方教会

カトリックにおける原罪観

カトリック教会カテキズムは原罪について次のように述べている。

「人間は悪の誘惑を受け、神の信頼を裏切り、自らの自由を不正に行使して、神の命令に従わなかった。人間は神の命令に従わないことで、自らの良さを貶める結果となった。…人類の一体性により、全ての人はアダムの罪を引き継ぐことになったが、それと同じようにすべての人間はイエスの義をも受けつぐことができた。どちらにせよ、原罪も神秘であり、人間はそれを完全に理解することはできない。」

このように、原罪とはまず第一に神の主権へのさからいであること、つまりアダムが神に従うのでなく自分自身によって、本来神にしか判断できない問題である何が善で何が悪かを判断しようとしたことであると考えられている。禁断の木の実とは単に神の指示のたとえにすぎない。また、神はアダムに直接命令していることから、本来このさからいの罪はイヴでなくアダムの責任に帰するものである。

中世においてスコラ学神学者たちは原罪がアダムから後の世界へと生物学的な意味でも引き継がれたと考えた。こうして原罪は人間の本性を悪に傾けるようになった。これらの神学者たちは魂は神によって受精卵の中に入れられるが、そのとき原罪の汚れを受けるという考えを持っていた。聖母マリア無原罪の御宿りという思想は、このような原罪の汚れがマリアにはなかったということを示すために生まれた。

カトリック神学においては、洗礼をとおして信仰者が第二のアダムであるキリストに属するようになる時、この原罪は取り除かれるとしている。カトリック神学においては、聖化、また、煉獄における浄化を必要とされるのは、洗礼を受けた後に犯した罪の咎の問題である。

カルヴァン主義における原罪理解

カルヴァン主義予定説では、原罪は人間の完全堕落をもたらしたと考える。カルヴァン主義における原罪の特徴は、原罪を「赦されるべき罪科」ではなく「聖化されるべき罪への衝動」と捉えていることで、よって人間は洗礼によって自分の罪の咎めが赦されても、原罪・罪への傾き易さとの信仰の戦いはその後も続くとされている。

ウェスレー派における原罪理解

ウェスレー・アルミニウス主義聖化論では、アダムの末裔の「全的堕落」に関してはカルヴァン主義と同じ立場に立ちつつ、原罪あるいはアダム以来の生来の堕落性・罪への傾き易さは、全的聖化の瞬時的経験において、聖霊によってキリストの血潮が信仰によって当てはめられることによって、解決されると説く。ウェスレーは、原罪・生来の堕落性は心霊上の問題で、必ずしも肉体のもつ特質ではないので、肉体がその魂と分離する肉体の死のときまで待つ必要はないとしている。「生来の堕落性」とは異なる、いわゆる「取得的堕落性」・その人の過去との関連における罪への傾き易さとの戦い、また、そのきよめの必要は、その性質上、生涯的なものであると理解される。

東方教会

正教会

Template:節stub 正教会においては、西方教会における原罪の概念を否定的に捉えることから原罪という術語を用いる事にさえ慎重な見解をもつ者もいれば<ref>罪と救い - 日本正教会公式サイト</ref><ref>生神女マリヤへの理解 - 名古屋ハリストス正教会ホームページ</ref>、他方、原罪という術語を用いる事自体は忌避していない者もいる<ref>生神女の無原罪懐胎について - 東方正教会内ページ、長司祭長屋房夫による翻訳</ref><ref>イラリオン・アルフェエフ著、ニコライ高松光一訳『信仰の機密』56頁から58頁、2004年、東京復活大聖堂教会</ref>。いずれにしても、西方教会における原罪についての理解・論争からは距離をとっている事は共通している。

正教会は、カトリック教会における教義である、聖母マリアの無原罪の御宿りを認めない。

脚注

<references />

関連項目

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