千島国

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千島国(ちしまのくに)は、明治維新のころおかれた日本の地方区分のの一つである。五畿八道の内の北海道 (令制)に含まれる国。領域は千島列島色丹島<ref>色丹島は歯舞群島と同様に、千島列島に含むとする見解と、北海道の属島であり千島列島には含まないとする見解に分かれる。</ref>にあたるが、色丹島は当初根室国に属していた。

目次

歴史・沿革

飛鳥時代斉明天皇のころ道南阿倍比羅夫が一戦交えた粛慎は、当時国後郡域にも及んでいたオホーツク文化圏に属する人たちと言われている。オホーツク文化は平安時代前期ころ擦文文化の影響を強く受けたトビニタイ文化へと移行し鎌倉時代ころまで続いた。

江戸時代に入り、正保元年、各藩が提出した地図を基に日本の全版図を収めた「正保御国絵図」が作成された。このとき幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれていた。正徳5年、松前藩主は幕府に対し、「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。宝暦4年松前藩によって松前藩家臣の知行地としてクナシリ場所が開かれ、その範囲は国後島のほか択捉島得撫島も含んだ。このとき国後島の泊には運上屋が置かれている。安永2年飛騨屋がクナシリ場所での交易を請け負うようになり、天明8年には大規模な搾粕製造を開始。寛政元年蝦夷アイヌ)が蜂起したクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)が勃発し、多くの和人が殺害されている。寛政11年に高田屋嘉兵衛によって択捉航路が運営されるようになると、翌12年には新たにエトロフ場所も開かれ、紗那に会所を置き択捉島に17箇所の漁場が設けられるとともに北前船も寄航していた。その他、寛政年間には本州和人地などと同様に郷村制がしかれている。Template:Main2

また、幕吏による北方探検も盛んに行われ、天明6年と寛政3年には最上徳内が択捉島と得撫島を探検。寛政10年には近藤重蔵が最上徳内を案内役として調査を行い択捉島・丹根萌(タンネモイ)の丘に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。寛政12年にも択捉島・カムイワッカオイの丘に「大日本恵登呂府」の標柱、享和元年6月には富山元十郎深山宇平太が得撫島に「天長地久大日本属島」の標柱をそれぞれ建てている。

江戸時代後期、千島国域は東蝦夷地に属していた。南下政策を強力に推し進めるロシアの脅威に備え、寛政11年東蝦夷地は天領幕府直轄地)とされ津軽藩南部藩が泊と紗那に勤番所(泊は南部藩のみ)を置き警固を行っていた。文化4年には択捉島・内保の番屋や紗那の会所などをロシアが攻撃・略奪・放火する事件(文化露寇、フヴォストフ事件)が、また文化8年には幕吏が国後島に出没したゴローニンを捕らえるとその報復にロシアが高田屋嘉兵衛を捕らえたゴローニン事件が起こっている。千島国域は文政4年に一旦松前藩領に復したが、安政元年日露和親条約(不平等条約のひとつ)により択捉島と得撫島の間が国境とされ、安政2年択捉島以南は再び天領となり仙台藩が国後島の泊と択捉島の振別に出張陣屋を築き警固をおこなった。

太平洋戦争後、千島国はソ連軍が侵攻・実効支配している。ただし現在も北方四島はもちろん、中部千島・北千島の得撫・新知・占守の三郡についても札幌国税局管内の根室税務署の管轄とされており、法制的にも千島国は消滅していない。

神社

泊神社・有萌神社・紗那神社・蘂取神社の四社は文化年間に高田屋嘉兵衛による創建、恵比須神社は嘉永3年の創建、植沖神社と別飛神社は幕末ころの創建である。


終戦時、色丹島に9社、国後島に25社、択捉島に16社、得撫島以北に4社を数えた。

根室市金刀比羅神社には、ソ連軍の侵攻を逃れてこれらの神社から運び出された10体の御神体が安置されている。

人口

明治5年(1872年)の調査では、人口437人を数えた。

外部リンク

関連項目

脚注

<references />

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