加賀藩

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thumb|240px|加賀藩邸跡 京都市中京区木屋町御池 加賀藩(かがはん)は、江戸時代加賀能登越中の3国の大半を領地とした。藩祖夫人・芳春院の死後、芳春院の化粧領だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を加える。

目次

概要

加賀国石川郡にある金沢城金沢市)に居城。明治2年(1869年版籍奉還後には藩名を金沢藩と定められた。

藩主は前田氏外様大名ではあるが徳川将軍家との姻戚関係が強く、準親藩の地位が与えられ松平姓葵紋が下賜された。3代・光高から以後の藩主は将軍の片を拝領した。また、大名中最大の102万5千石を領し御三家に準ずる待遇であった。

藩史

織田信長によって能登1国を与えられていた藩祖前田利家が、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後に豊臣秀吉に降って加賀2郡、さらに天正13年(1585年)には佐々成政と戦った功績によって嫡子利長に越中が与えられて、3国にまたがり100万石を領する前田家領の原形が形成された。

慶長4年(1599年)前田利家が死ぬと、加賀東部と越中の合計83万石を領する利長と、能登に21万石を領するその弟利政に分割された。
翌、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し利長が東軍、利政が西軍に分かれ、敗れた側の利政は所領を没収。かわりに利長が利政の旧領と加賀西部の西軍大名の旧領を授けられ、3国119万石に及ぶ所領を獲得した。のちに3代利常(利長の弟)が隠居するとき、庶子を取り立てて支藩とし、越中富山藩10万石と加賀大聖寺藩7万石をそれぞれ分与したので、102万5千石となる。支藩として他に上野七日市藩1万石がある。

利常の時代に支配機構の整備が行われて藩体制が確立した。利常の孫綱紀は、学者の招聘につとめ学問を振興した名君として名高く、兼六園は彼の時代に造営された。

大政奉還時は徳川慶喜を支持したが、幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北した後、方針を改めて新政府の北陸鎮撫軍に帰順。海防に関心が深く独自の海軍を有し、維新後は海軍に多くの人材を輩出したと言われる。

明治4年(1871年廃藩置県によって金沢県となり、まもなく新川県・大聖寺県と合併して旧3国に広がる石川県を構成。明治16年(1883年)旧越中4郡が分かれて富山県が設置され、現在の石川県の領域が確定した。

旧藩主・前田家は明治17年(1884年)の華族令により侯爵となった。

歴代藩主

※官位は初官位と終官位(贈官位含まず)

藩祖.利家(としいえ)〔従四位下従二位左近衛権少将筑前守権大納言

  1. 利長(としなが)〔従五位下従三位肥前守権中納言
  2. 利常(としつね)〔従四位下従三位侍従筑前守権中納言肥前守
  3. 光高(みつたか)〔正四位下左近衛権少将筑前守
  4. 綱紀(つなのり)〔正四位下従三位左近衛権少将加賀守参議肥前守
  5. 吉徳(よしのり)〔正四位下左近衛権少将若狭守参議
  6. 宗辰(むねとき)〔正四位下左近衛権少将佐渡守左近衛権中将加賀守
  7. 重煕(しげひろ)〔従五位下正四位下但馬守左近衛権中将加賀守
  8. 重靖(しげのぶ)〔従五位下正四位下上総介左近衛権少将加賀守
  9. 重教(しげみち)〔正四位下左近衛権少将加賀守左近衛権中将肥前守
  10. 治脩(はるなが)〔正四位下左近衛権少将加賀守参議
  11. 斉広(なりなが)〔正四位下左近衛権少将筑前守から左近衛権中将加賀守左近衛権中将肥前守
  12. 斉泰(なりやす)〔正四位下従二位左近衛権少将若狭守右近衛権中将加賀守権中納言
  13. 慶寧(よしやす)〔正四位下従三位左近衛権少将筑前守左近衛権中将加賀守参議

家臣

加賀藩の直臣は、人持組頭、人持組、平士、足軽に大別される。人持組頭は別名を加賀八家、或いは前田八家とも言い、何れも一万石以上の禄高を持ち藩の重臣として藩政に関わった。人持組は、時に家老などの重職に就くことも有り、高禄の者は一万石以上、少ない方では千石程度の禄高で約70家が存在した。

人持組頭(加賀八家)

本多政重(徳川幕府の幕僚重鎮である本多正信の二男)-政長政敏政質政昌(政質の弟)=政行(政長四男政冬の子)-政成政礼政和政通政均(政通の弟)-政以
能登の在地勢力であり、能登畠山氏旧臣。利家が能登を領して以来、臣従する。長連龍連頼元連尚連高連(尚連弟連房の子)-善連連起(高連弟連安の子)-連愛連弘(本多政礼次男、連愛外孫)-連恭成連(連恭弟)-克連
前田利長に仕え賎ケ岳の戦で戦死した横山長隆を祖とする。横山長隆-長知康玄忠次玄位任風(玄位の弟)=貴林奥村悳輝の三男)-隆達隆従隆盛隆章隆貴隆平(祖父隆章の嫡孫承祖)
  • 前田対馬守家(越中守山城代1万8000石・藩主一門)維新後男爵
尾張前田同族の別家。初代前田長種の妻は利家の長女幸。前田長種-直知直正孝貞孝行孝資孝昌孝友孝本孝中孝敬(分家前田孝備の子)-(男爵)-孝行-孝哉
奥村家は尾張前田家代々の譜代の臣。奥村永福が祖。奥村永福-栄明栄政栄清時成有輝有定横山貴林の子)=修古奥村温良の子)-栄輇尚寛奥村隆振次男)-栄実栄親栄通奥村質直八男)-栄滋
  • 村井家(松根城代1万6500石余)維新後男爵
利家の尾張時代からの臣。当初七家だった人持組に後から村井家が加わり、以降八家と称される。村井長頼長次長光織田有楽斎長男長孝の四男)-長朝親長長堅長穹長世長道長貞長在
  • 奥村内膳家(奥村分家)(1万2000石・留守居役)維新後男爵
奥村永福の次男易英を祖とする。奥村易英-和忠庸礼悳輝明敬温良(明敬弟)-保命易直(保命弟)=煕殷(易直弟)=成象(奥村忠順の子)=隆振横山貴林の子)-質直惇叙直温篤輝則友則英
前田利政(利家の二男)- 直之幕末まで存続。

主な人持組

  • 今枝内記(民部)家(1万4000石・家老
今枝重直に始まり、今枝直方らを輩出。維新後男爵。(「蓮華寺」項目参照)
今枝重直直恒(日置忠勝の五男)-近義直方日置忠治の三男)=直道(前田知久の次男)=直郷(前田孝資の次男)-易直-直寛=易良(直寛の弟)直応直邦直規
豊臣秀次の家臣で慶長14年(1609年)に前田家に仕えた、津田正勝を祖とする。幕末の藩主側近であった津田正邦が維新後、斯波氏に改姓して斯波蕃と名乗り男爵。(「津田氏」を参照)
津田正勝-正忠正真孟昭敬脩将順正昭政本正矩正直正行正邦
  • 横山蔵人家(1万石・家老)
神谷長治(横山長知の三男)の三男横山筑後一宗(正房、正完)が初代。
徳川家臣成瀬正成の弟吉政(吉正)は17歳で徳川家を出奔。浅野幸長小早川秀秋家臣を経て、利常に仕える。
青山吉次(妻は利家姪)以降、魚津城代を四代勤める。
  • 前田図書家(7000石・藩主一門)
前田利家の六男利貞が初代。
  • 山崎庄兵衛家(5500石)
越前朝倉氏旧臣の山崎長徳を祖とする。
  • 玉井頼母家(5000石)
支藩の大聖寺藩の筆頭家老であったが、大聖寺藩の経費削減に伴い本藩に帰された
  • 伴八矢家(5000石)
織田家臣伴無理兵衛の子、伴長之を祖とする。
  • 不破彦三家(4500石)
不破光治の嫡男で府中三人衆で前田利家の同輩であった直光を祖とする。
  • 大音家(4300石)
利家越前時代に家臣となり、各合戦や主に能登方面で政治活動を行った、能登小丸山城代大井直泰と、その子で、幾多の合戦に活躍し、魚津郡代なども勤めた大音厚用(大音主馬)を祖とする。厚用は養子に利家三男の知好の長男好次を迎えた。
  • 松平大弐家(4000石)
三河伊保城主松平康元の子で、大坂の陣の武者奉行を務めた康定を祖とする。
  • 生駒勘右衛門家(5000→3000石)
旧織田家臣生駒直勝(室は織田信雄娘)が初代藩主利長に招かれた。
  • 篠原監物家(3000石)
藩祖利家の正妻芳春院の実家である篠原家の縁者、篠原一孝(妻は利家姪)に始まる。
  • 前田監物家(3000石・藩主一門)
前田利孝の三男寄孝が初代。
  • 永原家
赤座吉家の子孝治が幕府を憚り、藩主利常の命により改姓。
  • 品川左門家
白川伯王家神祇伯参議雅陳王の子が品川雅直(品川左門)と名乗り、以降子孫は加賀藩に仕えた。

藩邸及び江戸での菩提寺

江戸藩邸本郷五丁目に上屋敷(現在の東京大学本郷キャンパス)、染井に中屋敷、深川と板橋に下屋敷があった。また、江戸における菩提寺は文京区向丘日蓮宗高耀山長元寺、 下谷の臨済宗大徳寺派円満山広徳寺で支藩の富山藩や大聖寺藩はもちろん、会津藩保科松平氏谷田部藩細川氏)なども同寺を江戸での菩提寺にしていた。なお、支藩でも七日市藩は諏訪山吉祥寺を江戸における菩提寺としていた。

参考文献

関連項目

外部リンク

加賀藩江戸上屋敷遺跡の考古調査レポート

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