加瀬邦彦

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Template:出典の明記 加瀬 邦彦(かせ くにひこ、1941年3月6日 - )は、東京都生まれの作曲家音楽プロデューサーである。血液型はAB型。

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経歴・人物

1957年11月、慶應高校1年の時、東京都から茅ヶ崎市に移住したのが縁で、1957年12月23日に、アメフト部の先輩の紹介により俳優上原謙のクリスマス・パーティに誘われ、当時慶應義塾大学2年生だった加山雄三に出会い、音楽面のみならず、プライベートでも親交を深めるようになる。

1961年には慶應義塾大学時代、初めてのバンド「ザ・トップビーツ」を結成する。その後ホリプロに所属し、清野太郎かまやつひろしらと「キャノンボール」を結成。1963年には事務所命令により、かまやつひろしと共にザ・スパイダースに加入するも、寺内タケシの誘いを受けるために約3カ月で脱退し、1966年まで寺内タケシとブルージーンズ(1966年の東宝映画『クレージーだよ奇想天外』でその姿を窺える)に加入した。 次第にビートルズサウンドへの志向が強くなっていく中、ビートルズの来日公演でブルージーンズが前座を務めることとなり、加瀬自身は大いに喜んだ。しかし、厳戒態勢下でのコンサートのため、前座のバンドは演奏後、楽屋に外からカギをかけられ、ビートルズの演奏終了後に開錠されるという措置が取られた為、加瀬は「それではビートルズの演奏が見られない」とブルージーンズを脱退してしまう(ちなみに念願がかない、客席からビートルズの演奏を見ることはできた)<ref>千葉テレビ「青春グラフティー倶楽部」2009年5月8日放送。</ref> 所属していたホリプロはそれでも、加瀬を引きとめ給料を支払い続けていたが、「ただで給料をもらうのも申し訳ない」と同年7月に、加山雄三が名付け親となるザ・ワイルドワンズを結成(しかしこのとき、渡辺プロに移籍)。得意の12弦ギターヤマハ特注)は、ワンズサウンドの要となる。解散後は、PYG(ピッグ)や井上堯之バンドともかかわりを持ち、作曲家としてだけでなく、沢田研二のプロデューサーとなる(衣装早川タケジ、作詞家糸井重里の起用、パルコCFへの出演推進など功績は多岐にわたる。井上バンド解散後も沢田を支え続けた)。

1981年1月、日本劇場取り壊しに伴う最後のウエスタン・カーニバルザ・ワイルドワンズ(加瀬、鳥塚茂樹島英二植田芳暁渡辺茂樹)のメンバー5名が集結して出演したことを契機として、ザ・ワイルドワンズの再結成話が持ち上がり、仕事の都合で参加を辞退した渡辺を除くメンバー(加瀬、鳥塚、島、植田)4名でザ・ワイルドワンズを再結成した。 一時期、渡辺茂樹と共にタイガース・メモリアル・クラブ・バンドにも在籍した。

現在は、「ケネディハウス銀座」のオーナーでもあり、加山雄三&ハイパーランチャーズのプロデューサーとしても活躍中。

数年前に食道癌の手術をしたことを著書で明かしている。

逸話

「ユアベイビー」は、ブルージーンズ時代作曲してシングルになったが、ワイルドワンズ時代に想い出の渚と共に両A面と なる。

主な作曲作品

活動歴

脚注

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外部リンク

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