利用者・トーク:Joike

出典: Wikipedio


Subject: "わかる"とは何か──物理・心理に共通の方程式(試論)

現実と時間についてプラトンはティマイオス篇の中で「あった ある あろう の ある ほかはない」と述べています。この表現形式とデカルト座標を組み合わせて、われわれ の誰にも共通といえる「わかり方」の方程式が得られるのではないかと考え、それを試み た本文は、出発点で現行科学と異なる論理系の「考え方」に自然的になるようです。

しかし、そうだとすると科学としては否定も肯定もできないフィクションと同様なの で、この"わかる"とは何かは、その検証手続きに必要と思われる手順の1~7です。

はじめに、上記の「あった ある あろう」を 過去(-nt) 現在(t_0 ) 未来(t'n ) と考え、現在(t_0 ) を 過去と未来の`対応原点`として、ここに想定される"時間"を

   { -nt|0|t'n }    の1次元配列とします。

すると、時間tのゼロが 0 (ある)、ほかは すべてない、ということになって、下記の ように述語論理のコード:(言葉Aと対応する概念A') が一変します。 A:abc…etc.

科学では基礎的概念の「作用と反作用」が生起する作用の次元は、ふつう1次元と

される虚数の時間(t)と "そのとき現在"を意味するゼロ時点において直交する。

この「虚数の時間と直交する」というのは "実数面に垂直な虚数" という C.F.Gauss の 幾何学的な表現の引用です。それで、理数系の視点でいえば、数学では虚数iの2乗は マイナスの1、虚数の 0 は実数とされていますから、"実数面"を複素数として考えて みると、──t_0 (現在)が実数、-nt(過去)は複素数の虚数部:(時間の部分)、この

-nt(過去)の反転が予測のt'n (未来)となって、常に`今` t_0 (現在)に展開して

いると考えられる"現実の世界"と、このt_0 を特異点として -nt(過去)とt'n (未来) を同一次元とする"時間"との関係が、その幾何学的表現と うまく整合するようです。

また、文系の視点でいえば、──哲学者であり数学者でもあったデカルトは、それまで a_b などの線分で表されていた一般量を次元の異なる単位eの数に変換して、代数学 の「方程式」に組み入れ可能とした解析学の源祖と見られており、今日グラフに多用され ている直交座標:(x系のx・o・x'軸とoにおいて直交するy系のy・o・y'軸) は "デカルト座標"といわれている。そして、われわれは、いろいろな場合に2~n次元の グラフを作るが、(グラフにすると なぜ わかり易いかは本文の課題であるけれども) ともかく、グラフにしてみると わかり易くなることが、デカルト座標の解析効果と考え られます。──おおよそ、この範囲に「わかる」とは何かの`解`がある、という見当です。        なお、次から記述を`文語体`に替えます。


       "わかる"とは何か──その手順の2/7 さきに挙げた1次元の時間(t)と作用次元との交点0 (ゼロ) を、作用と反作用の双方 が同時・同一である『作用時点』と考え、この概念の定式として、  ① t_0 =cL_0 と表記する。 (環境がよければ t0=cL0 )         tは時間の永さ、cは比例定数(光速度)、Lは空間の距離の長さ。 この等式は、光速度c一定とすると、時間と空間はcを物差しとして計測が可能な同一 事態の二側面:(同義、シノニム)であることを意味する。また、言葉では地球-恒星-銀 河系など天体a~b間の距離Lを"何光年"ということと同意である。

ここで 時間 は空間(L^3 )とシノニムの3次元(t^3 )の筈であるけれども、常に `今`である現時点(t_0 )では変動値nとしては実測不能の 0 (ゼロ)であって、科学 その他一般にいう"時間"には、一定のリズム-サイクル数を単位eとする「時計」で計測 される虚数次元の『t』と、`今`現在の『t_0 』、および t_0 においてtと直交す る作用次元の『t^2 』との計、3つのタイプ(type)が`ある`と考えられる。

 ② その十分な証左、『t^2 』と対応する 作用次元の"力" 日常にいう力の強さ(strength)をs、物理学にいう自然界の力(force)をfとすると s=f/t^2 または ① により s=f/L^2 力の強さは 力に比例し時間(t)の2乗または距離(L)の2乗に反比例する。

いい換えると、質量×加速度 で表される "一方向の力"の大きさ(f値)でなく、作用と 反作用の "相対的"に成立する力の強さ(s値)が、t^2 (毎時々々)当り または t_0 においてtの直交方向に拡がる L^2 (作用面=実数面)当り のf値と等しい。

──この力fと強さsの"方向"について、前文の「幾何学的な発想」を援用すると──

光が光源oから一様に照射しているとき、照射面χは球の表面積(4πr^2 )になり、部 分的には"ライトコーン"といわれる拡がり方で、どのχ面も半径の2乗(r^2 )に比例 して拡大する。 したがって χ面に到達した時点(t_0)の光は o→χを反転した距離Lの2乗=-r^2 =L^2 (ステラジアンのχ面) に比例して拡散し希薄になっている。

──この L^2 (χ面)当りの『光量の多さ』が "光"のエネルギーとして実測が可能な   『力fの大きさ』であり 『方向』は o→χの全χ面である「球面」と直交する。 ──また、超`巨視的には、この o→χ状に拡がる全χ面(球面)がハップルの発見した   『膨張する宇宙』の"現在"に相当し、通常にいう"現在"の全容であると考えられる。

そのように 力fが一方向性( o→χ) であるのに対して 強さsは 力f(→)の作用Aと 応力f(←)の反作用A'が 同時同一の"場":(t_0 のχ面=実数面) において 虚数次元 の時間tと直交する 双方向性 { A→ 0χ←A'} と書けるような "相対的"に成立する。

 ③ その意外性、 常に`今`="現在" と同意の『t_0 』に定在する`力` 光や電気など電磁波の力(電磁力)の方向はt_0 においてχ面(L^2 )と直交する。この 交点が 常に`今`であり、唯一 `力`の作用する現時点(t_0 =L_0 )である。

身近なモデル: 棒磁石の両極[N S]の磁力を nMとsM、中間部はoMとする。 oMは常に双方の作用点 (実数t_0 )に当り "磁束密度"とされる磁力の集中度が最大:(fの分母のχ面が最小)で あるから、oMの側面(虚数tの方向)では鉄など他の磁性体との「相互作用」はゼロである けれども、この外見上 磁力ゼロの oM={ nM→ 0χ← sM} を引き離そうとするとき (t_0 )の「応力」の強さ は -Mの2乗=M^2 ゆえに oM=M^2 である。

   実験値は近似:2本の棒磁石の「磁極の接点」では 吸引または反撥する 磁力Mの    強さは M^2 である。なお、関連する重力と電磁力の"場"については後続 p4 。


       "わかる"とは何か──その手順の3/7 物理学では、"場"によって決まる力の大きさ(f値)と強さ(s値)の関係、という捉え方 の定式がなく、用語の概念が通常と「かけ離れ過ぎ」と思われるので、補足すると、

とりあえず前文②の等式 s=f/t^2 または s=f/L^2 についていえば、 fの分母の t^2 と L^2 は、日常の言葉では "時"(とき)と場合の"場"に該当する。

例えば戦争は、その破壊力は甚だ大きい。しかし、小さくても近くの火事、より我家に `今`ふりかかる火の粉はまさに"焦眉の急"である。そして、このような「とき」に日頃は 弱々しい人が信じられないほどの力を発揮することも、実際にはありえる、というより 一所懸命の文字通り総力が集中した「とき」の異常な強さは、たとえに"火事場の馬鹿力" といわれている。また率直にいって、対岸の火事と近隣の火事では、事(こと)は同じで も大違いである。   ──ここで事のf値は無視されている。(fは等差級.分母が等比級)   同様に、事より 時と場 を重視して /t^2 小→s大 /t^2 大→s小   または /L^2 小→s大 /L^2 大→s小 と現実的に考えるべきであろう。

例えば、意識状態と関係があるとされる脳波などの電磁波は、物質波(ド-ブローィ波) としては極微の『小さい力』であるけれども、力の「場」が電・磁気的e±間の`超`微視 的に『L^2 小』である。また、同じく物質波とされる"万有引力"の重力Gは物体相互 の質量の積に比例する『大きい力』であるけれども、"万有"すなわち宇宙の物質すべて が o→χの全方向(球面状) に"重合"して拡がる`超`巨視的に『L^2 大』である。   そして、これでは "強-弱"の概念に当てはまらない。しかし、次のようにいえる。

宇宙規模の重力は人為操作できないが、われわれの生活現場である地上では、電気的に 「磁力と場」の操作が可能な電磁石で より重い鉄塊などを軽々と吊り上げることができる ように 電磁力の方が"強い"のである。反対に、地球の質量中心は構成諸物質相互間の Gが集中する"重心"すなわち o→χ面のχが最小値:(0=o)であるから、この oGは地球 の半径(6,378km)の2乗に正に比例し、想像を絶する"大きい力"であるけれども、実際 に計測が可能な「地表のχ点」では、観測現場:(t_0 =L_0 )の高度や緯度で異なる遠 心力、月の引力 その他を計算に入れなければならないほど"弱い"のである。

──と、このように、力の`強さ`は多様な自由度(多次元)の自然界における、個々の力   や合力の`大きさ`でなく、さきの等式で示される作用次元での`謂い`である。

以上の新たな物理的に見て、生活の場である外界より はるかに L^2 小 である 自分 自身の場合に、更に「微小な場」の意識作用が 常に`今`といわれる現時点t_0 において /L^2 小→s大 の強い力を発現するという、略式が本試論の方法(指導原理)である。

われわれは予想される事態の事前や過程のさなかで、いろいろと選択し志向する。この 意志(will)を決定するには、それが可能な 同一場の何か がなければならない。ここ に意識はごく「小さい力」であろうけれども、1つの方向に集中するときに、場の異なる 外界の何ごとより「強い力」で指向誘引することが、"行動"に先立つ心的機序の"動機" として考えられる。──例えば、自爆テロなどは極端な"行動"であるけれども、身命を 擲つほどにまで志向・誘導する「強い力」の事例であって、これと対照的な故事では 『心頭を滅却すれば火も亦涼し』(快川和尚)などの生死を超えた達観、あるいは"悟り" といわれる心境も全く説明不能の「わからない境地のもの」ではなさそうである。

また、その心境や心的機序・心理などの"心"は、物理的にL^2 (χ面)最小である中心 点のL_0 、およびt^2 最小である作用時点のt_0 とも同義(シノニム)であり、 術語としては概念のあいまいな「こころのはたらき」を"心的作用"として、自然科学の 広い視野(/L^2 大)のもとで`共通の研究対象`とすることが可能であると思われる。


         "わかる"とは何か──その手順の4/7        ここから文系、付、演繹的(トップダウン)にならざるをえない理由 項(1)、一般にいう物(もの)と事(こと)、静と動、光の粒子性と波動性、数の大小と 多少など、それぞれは同一事態の二側面であって、これを『理由なく区別すること』は 観念的分析である。というのは、われわれ各自をpで代記すると、pに「今ある」と見え る対象の事物Aは、そのときすでに、A~p間の距離に等しい時間tを経た過去の事象A' であることと、更にpの意識過程における、一瞬 「より過去の事象」の想起や予測・志向 などとの"重合"と考えられることが、その区別を`観念的`とする理由であるので、この 重合の第一原因と見られる、時間の「方向」と「向き」との違いについて詳述すると、

われわれが幼い頃から"一日"といっている「時間の永さ」は 朝~昼~夕~夜と呼ぶ事象 の変化が定常に繰り返す律動的現象(リズム)の一周ぶん(1サイクル)であること。 また、現行科学の微視的精密には、時間の基本単位(秒)はセシウム原子(Cs_133)の外 殻電子から一定のリズムで放射される電磁波の91億9263万1770サイクル当りの時間を "1秒"と定めていること。

このように時間は リズム・サイクル として計測されており、この リズム(~)の進行 方向とサイクル(○)の中軸の向きは、視点pにおいて 視差i(相対視角90°)の関係に あると考えられる。

(ここは本文では最も重視したいところなので冗長をかえりみず付言すると)

さきの例のように、昼~夜~昼~夜 を定常に繰り返す律動的現象が南極や北極の夏季に は円運動の周律的現象に見えることと、事象としては異なるそれが同一事態の二側面で あることは、今日のわれわれには、地球の自転公転の動的関係あるいは静的に地球儀の 緯度と経度のように`直感的`にイメージし易いと思われる。また、`超`精密な時間の 単位(秒)も、そのリズムとサイクルは、らせん の横向き(~)と縦向き(○)のように、 視点のあり方が異なることに起因する「見かけ」の相違であり、同一事態の二側面である から、この関係は いわゆる 同義(シノニム)である。

しかし、ここで、同義(シノニム) と 同意 を区別しなければならない。 ──"同義"は、意味や意見の同一をいう"同意"ではなく 対象の事態が同一であること、 また、数学・幾何学的には、同一の物差し で計ることが出来、その向き(座標軸)に回転 があることをいう。── この定義は検討を要するけれども コード(言葉Aと対応する概念A')を明確にすることは、 概念操作の自然的手続きと見られるアルゴリズム(数概念では算法)と共に論理には不可欠 である。

また実際に、時間には 「一定のリズム数」 を単位eとして計測する 連続量の時間 と、 各eの 「サイクルの大きさ」 が異なる 年 月 日 時 分 などを総称的にいう 時(とき) との2つのタイプがあって、言葉としても "時"と"時間" は同意語ではない。

それで、時間・空間・運動の3つが科学では重要な基礎概念であることは、いうまでも ないとして、時間の二側面と対応するとみられる『直感的イメージ』と、その2タイプ の時間を`理由なく`1次元としている『論理的思考』との意識過程:(認知プロセス)に 以上のような視差iがあることを 先ず"時間"について確認しておきたいのである。


         "わかる"とは何か──その手順の5/7 項(2)、一般に推理推論の過程をいう 論理的思考と、その思考を経ないとされる直観 あるいは直感的イメージとを、左脳的と右脳的 とする機能的な区別は、脳生理学的所見 としてひろく知られている。一方、医学では かつて ある脳疾患の治療に 左脳と右脳を 切り離した「分離脳」の患者が、その左と右では異なる対象認識の`統括機能`が失われる ことから、正常な認知には不可分の関係にあると見られている。

これを1つの視点で いい換えると、思考と直観 (あるいは論理的思考と直感的イメージ) を区別することは、方法的には"内観法"といわれる内省による推定であり、医学-生理学 的に、その機能として観察される左脳と右脳は`相補的`とされている。

項(3)、われわれ各自にとって項(1)の視差iは、(2)の内観的にも観察上から見ても 直観-思考 相互間のごく微小な場(/L^2 小)における一瞬の出来ごとであるから、極 めて「強い力」の概念操作の手順であり 自然的アルゴリズムであることが考えられる。 また、それが 思考 以前の弁別である証左として、邦語では"もの"と"こと"の場合に、 その概念や用語法は日常的と学術的とを問わず、各自の視点(そのときt_0 )において 視差iがあるといえる 静的(○)と動的(~)の2タイプ に判然と分かれている。

【もの】 定形・定常的と見られる「一まとまり」が、者 物 質 粒子:(原子 分子 電子 光子 クオークなど量子) 体・体系 あるいは 法則・理論・概念・定義・思想などといわ れる「もの」であり、"もの"は われわれが対象xを静的に見た場合の総称である。


このとき(t_0)、光ならばスピン(t軸を中心に自転)している光子(○)とされる。

また、古くからの思想としてはアトム説。しかし、現代では 原子→原子核→素粒子のよう に、その概念も物質も、時(とき)と共にやがて推移・変化する意味で 定常"的"。

【こと】 "時"と共に推移する事象(もの)の変化、物体の運動、物質波などの「変動」が 事・異 などの「こと」であり、"こと"は われわれが対象xを動的(~タイプ)に見た場合の 総称である。


同じく、光は埃や霧 煙などの反射光が描く光線が横方向から見えるように光波(~)

とされる。しかし、光は横からは見えないもの(○)であり、水の波は力を伝播する水の 振動(~)であるけれども 波1つぶんは円(○)運動をしている。また、思想としては、万 物は流転する・諸行無常・易(変わる意、易経は変化の条理をいうもの)。現代では物事を 相対論的に把握すること.(理論は時と共に推移するもの)。

──この断定は、もの と こと の区別が直感的であり、思考を要さないからであって、 日常会話(対話)の言葉づかいは相対的に成立する`動的`側面をもち、理数系の思考形式 と異なるからでもある。次の項(4)(5)は 理数系では不審とされない「通常」の事例。

   なお、邦語は日本では日本語であるけれども、自国それぞれの言葉と考える。


         "わかる"とは何か──その手順の6/7 項(4)、さきと同じ視点の文系から見ると、理数系の構文は基本的なところで理由不明の 宣言型になるようである。例えば物理学では、──質点とは 物体の質量中心にその全質 量が集まっていると考え、その点の位置、また、運動する物体の位置で運動を代表させる とき、その質量中心点をいう。──この定義のように、先ず物質である対象xに視点pの 位置や視方向に関係なく位置と運動の 静-動 2つの場合が想定されている。

また、「科学の言葉=数」といわれる。数は1をn回数えた 1×n=n と、このnを 1回数えた n×1=n は等しい。すなわち 1つぶんの数の大きさ(○タイプ)と、その 数(かず)を 数える回数の多さ(~タイプ)は、ごく日常的な言葉の もの と こと の場合 と同じ理由で同義である。いうまでもなく、"数"は抽象の最たるもの とされていること、 ではあるけれども、その`大きさ`と`多さ`は同意ではない。

しかし、数学教育では言葉による説明の場合に同義語と同意語が`理由`なく同一視されて いる。例えば『ゼロより大きい数をプラスの数、ゼロより小さい数をマイナスの数という』 (ニュートンの定義)。そのため、マイナスの数×マイナスの数 が、なぜ プラスの数にな るか、という疑問に 通常の言葉 では 応え得る説明 ができない。


ある数学者は「われわれの精神力がおよばない」という。(遠山啓、明治図書)
また 同意語と同義語は小字典や邦語の辞書(広辞苑など)では同意とされている。

生徒たちは、数学のまさに出発点である それを温度計や貸借関係などの「実例」によって 一応の納得はできても、それまで学習してきた自然数の算数では、0 (ゼロ)は1つも "ない"であったし、日常でも、二値論理的に 0 は "ない"と同意につかわれている。

学習や生活の現場がこのようでは、"ない"より"小さい"という、実際に比べようのない 「この辺りの何か」が あいまいなまま、論理的思考の典型とされる「数学」に馴染むほかは ない。ここに1つの学習パターンが`自然的に生成することが考えられる。         (パターン:行動や反応の様式、変化の過程を経ても保たれる同一性)

項(5)、その後の認知パターンとしてみると、観測の対象が例えば量子論的ミクロの場合 には直接的には観測できないので、いわゆる"思考実験"や数学的手続きの介在理論に大き く頼ることになる。つまり、現場を離れて考える方にウエイトをおく。それゆえ、数式で 記述される量子論や量子力学では、研究者自身における意識作用の「場」の影響が極めて大 きいと考えられる。

そして実際に 物理学では、光や電気の振る舞いが粒子性と波動性の両様に観測され、かつ、 その位置:(質点=粒子性)と運動量:(波動の擦過量=波動性)とを「同時」に観測によって 決定することができない。端的にいえば その粒子と波動には時差が存在する。

事実は、観測の微視的限界をいう 不確定性原理 の通りであるとしても、観測データの解 析や理解の「仕方」が、対象の"超"微視的と同等レベルで 原因の因子もしくは理論の なぜ そうなのかが不明な内は`同一場の了解`が得られないから、それを"原理"というには 『今ひとつ納得がいくには不十分』とされることが考えられる。           不確定性原理:ハイゼンベルグの提唱した量子力学の基礎概念。                  ΔрΔq≦1/2h あるいは ΔpΔq≦h/4π                  位置と運動量がある値より小さくならない


         "わかる"とは何か──その手順の7/7 おそらく それゆえ、`不確定性`については諸説が見受けられる。 基本的には物質波(ド-ブローィ波)の波動を比例定数h(プランク定数)により量子力学の 概念で取り扱い可能な量子に変換して、その粒子が観測行為により観測対象を撹乱すると 考え、確率論に依存する。あるいは、相対性理論と量子論を統一的に考え、宇宙を10次元 とする超ひも理論。または、相対する粒子ないし宇宙の接触面が摂動しているとする膜理 論。そして、宇宙を無限に世界が重合している(11次元)とする超重力論。などが、そのよ うであるけれども、最も身近な問題の なぜ が先送りされている。

その なぜ は、われわれが何かに注意するとき、一瞬の 直観~思考の意識過程(~)に時 間軸の向きの回転といえる 視差iに等しい`時差`のあることが、数学や科学は元より、日 常 いろいろな場合の あいまい性=(わかりにくさ) の原因として考えられることである。 しかし、この時差は 直観-思考 の思考 以前のことであり、直観 以前の感覚的に知覚され ることでもないので、時差・視差i 共に追究しなければならない。

例えば、われわれは知らないものを、どうして知る・わかるなどのことが できるだろうか。 これは哲学では認識論、認知科学では述語論理の問題とされていることであるけれども、 日常(/t^2 大→s小)の平易な言葉で書かれるここにも、われわれが学習してきた論理 (学)や思考法では解決できない "もの"と"こと"の視差iが存在する。

そして、この辺りの「認識の問題」については、2400年も前にプラトンは『われわれは 知っているものを見る』といっており、その想起説あるいはイデア論といわれる著述は、 今日では周知の、DNAのもつ遺伝情報を意味するもの と考えられなくはない。このD NAの塩基配列が分子化学的に必然性の「らせん状」であって、らせん は横から見ると ~タイプ、縦から見ると○タイプであるところにも視差iが存在する。

それで類推(analogy)としては、われわれには自然的に自然のアルゴリズムか何かに同 調する「視差iの機能」が生得であって、対象xのある側面に 単一に同調したときが知る こと:(○タイプの認知)、分析的に同調したときが わかること:(~タイプの認知)であ り、"知る"と"わかる"は この同一事態のニ側面をいうもの、と思われるのである。

しかし、`類推`だけでは方法的に`解明`には程遠いようである。例えば、テレビ画面の 映像が「A」ならば、われわれには一目で「A」だと直感的にわかる のであるけれども、こ の 「わかる」は果たして 分析的に同調したこと(~タイプの認知) になるだろうか。

プロセスとしては、デジタル信号の走査線がふつう 525本×30回/秒 の速さで感光面 を叩いていて、このとき感光面で遅延する"蛍光現象"でアナログのAになり、その1つ ぶん(単位eA) が何回か繰り返されているうちに、はじめて「視覚のA」として見えること になるので、物理的には~タイプであるデジタルが先、○タイプであるアナログは後であ る。また、その視覚Aも、生体における`視`神経系のインパルスが 電気的on ofのデジ タル信号であるから、わかる(~)が先、知る(○)が後でよい訳である。

──ところが、この間の 粒子-波動 と同様の`時差`の方は、視覚Aの知覚 以前に眼の 網膜での"残像効果"や脳機能の"短期記憶"で消えていて 知覚されることは全くない。

客観的に、分離脳のようには分割できない直観と思考(あるいは 知る・わかる)の視差i の関係については、主観的にも、生体の構造機能的に自覚されないのである。

そして、本当の問題点は、われわれが"知る"といっている認知(知ること)は作用の次元 であるから、対象xのある側面と対応する過去(-nt)の記憶がその反転(t'n )の予測と 共に、そのとき同時(t_0 )に想起されることである。──この想起したとき(t_0 ) が "実数面に垂直な虚数"の交点0に当ることを証明することは難しいけれども、元もと 本文のはじめに問題の起因があると思われることなので、改めて論拠を挙げると、

a.「科学」では嚆矢とされる物理学より先、プラトン創設の学園では基礎的に必要な知識 とした「幾何学」より後に、アリストテレスにはじまる「論理学」が ある ことは史実として 知られている。これを自然的な発生順でいえば 幾何学→論理学→科学 である。

b.現行科学の論理(学)・述語論理(ある すべて などをふくむ論理)・記号論理などで は、プラトンに師事したアリストテレスの形式論理学を 誤り(現実を遊離している)とし ていないことから見て、この 師-弟 間で論理系が一変していると考えられる。

c.ここで「論理学」を離れざるをえないので 予見的にいえば、aの「幾何学」と同一場に あると思われる『原点oの明瞭な論理系』に、ともかく、われわれは戻らなければならな いであろう。この原点は プラトンでは"現在"とほぼ同意のt_0 (ある)、デカルトでは 直交座標の対応原点o、Gaussでは"実数面に垂直な虚数"の交点0 (ゼロ)。

このc.の論理系では頭書の式 s=f/t^2 (or L^2 ) が成り立つ。また、"自然" は生物その他(人為的)をふくみ、力fは物質の 構造=機能 的に内在する力をふくむ。

ここからトップダウンすると、われわれ生物が知らないものを知ることは、遺伝的に対応 してきた 環境変化の過程:(作用次元のt^2 ) が 何億年といわれるほど膨大であるから、 /t^2 大→s小 の理由で、どの生物にも容易に可能なことは論を待たない。

しかし、知ること(~タイプ)は常に変動する`動的`であり、しかも、常に`今`(変動値 ゼロ)である。ここに知覚され難い『t_0 における虚数の時間tと作用次元のt^2 と の直交関係』すなわち 「視差iに等しい時差」⇒(わかりにくさ) が存在する。 ──つまり、環境の変化に適応し順応してきた生物はみな、その永い 進化(作用次元)の   過程で 構造-機能が多岐多様に変化してきており、この方の差異が甚だ大きい。

それは現代では、ガルパゴス諸島の生物やダービンの進化論を挙げるまでもなく、当然 わかりきったことなので、ここは とりあえず パターンとして転用すると、──

哲学や科学の永年にわたる多様な専門分野それぞれのトップ的研究の理論ともなると、 たとえ知的レベルに差異はなくても、部外の人や一般のわれわれには、それを批判する ことなどは とうていできない。 しかし、各分野それぞれに分岐してきた方向(o→χ)があるわけであるから、単に折り返 すと、理論は研究の対象xについて「原点oの明確なコードによる記述」であることが、 自他ともに本当の`わかる`に至る方法、ということになるようである。

因みに、デカルトの有名な言葉──「我思う ゆえに 我あり」(cogito ergo sum)── は主観の 我思う(~タイプ)と我あり(○タイプ) が 視差iの関係にあることを`端的` に示している。その著書「方法序説」その他-解説書によると、検証が不可能なことは百も 承知の彼自身が、自分の思索結果にすぎない それを提示して、これは"確実なもの"であ る、といい、すべての理論の第一原因(原理)である、とまで説明している。

それで、はじめに課題とした、われわれは いろいろな場合にグラフにすると なぜ わか り易いかは、そのときはただ漠然と「デカルト座標の解析効果」としてきたところを改 めて見直すと、──グラフを作る時点で すでに 主観的視点(t_0 )の認知プロセスを 客観的視点(原点o )の明瞭な XYZ軸のデジタル解析(~)とアナログ統合(○)に転換し ており、おのずから視方向に回転(視差i)があることによって、グラフは 静的図表で あるけれども動的である現実と相似の同調がえられ、それを他の人が見るときにも、さ きの視覚Aの場合と同様に`時差`が消えているからであると考えられる。   ただ、時差については、科学では常用して疑わない「時間のtとt^2 」とは何かを、   最も L^2 小 の場である`自分`に 設問-追究してみることを省けない。

おわりに:現代科学が当面する、心-身の問題 その他に、物理・心理を統合する自然科学 の立場でアプローチ可能な手がかりが、上記c.の『原点』にあると私には思われる。 しかし、また、そうだとすると、先ず 論理系を問題にしなければならないであろう。 本文は簡単な式 s=f/t^2 と 略式による、その試論である。 2003/10/23

個人用ツール