六甲山

出典: Wikipedio


Template:Infobox 山 六甲山(ろっこうさん)は、兵庫県南東部、神戸市の市街地の西から北にかけて位置する山塊瀬戸内海国立公園の区域に指定されている。日本三百名山、兵庫五十山の一つである。

本項では六甲山系およびその最高峰について述べる。 Template:Main2

目次

概要

一般に「六甲山」は大小の山を含む六甲山系全域(狭義には中央部から東部)を指し、最高峰は特に六甲(山)最高峰と称される。山域は神戸市の他、芦屋市西宮市宝塚市に属す。

南北に狭く、東西方向に長さ数十キロメートルにわたって市街地の北側直近に迫っており、神戸や阪神間の天然のランドマークとして機能している。古くから交通路や観光施設の開発が進められ、多くの観光客や登山客を集める。

山系に属する個々の山、施設はCategory:六甲山地を参照。 [[ファイル:Rokko alpine botanical garden04s2816.jpg|thumb|六甲高山植物園]] [[ファイル:Hall of halls rokko01s2816.jpg|thumb|220px|right|ホール・オブ・ホールズ六甲]] [[ファイル:Rokko garden terrace02s3872.jpg|thumb|220px|right|六甲ガーデンテラス]]

地理

南西端は塩屋駅付近の明石海峡に程近いあたりで大阪湾に接し、そこから山稜が北東方向に伸びる。山系のほぼ中央に位置する摩耶山で方向を東寄りに変え、東灘区北区の境界に位置する最高峰を経て宝塚駅の西方に達する。東西方向の長さは30キロメートル超であり、南北方向の幅はおおむね5キロメートル未満、最深部の最高峰周辺でも10キロメートル程度である。北西に続く丹生山系とともに六甲山地を形成し、西から北方の西半にかけては播磨平野東部の印南野台地、北方の東半には三田盆地が位置する。また、北東方向に武庫川渓谷をはさんで続く丹波高地北摂山地)とともに大阪平野の北限をつくっている。

東部の一部を除いたほぼ全域が神戸市に、芦屋川流域周辺が芦屋市に、夙川・仁川流域周辺および太多田川・名塩川・船坂川流域周辺が西宮市に、逆瀬川流域周辺が宝塚市に属している。

神戸市と西宮市の市域は本山系によって南北に分断されているため、多数の道路、鉄道が本山系を横断して市内を南北に連絡している。(個々の道路、鉄道は本項下部の#交通を参照。)また、大阪湾に接している南西端では地形の制約から山陽電気鉄道本線国道2号、JR山陽本線JR神戸線)が海岸線に沿って数キロメートルにわたって併走している。そのため国道2号ではボトルネックになっており、第二神明道路がバイパスとして整備されている。

南に広がる市街地は本山系に源を発する河川によって形成された、合流扇状地を主とする沖積平野上にある。また、本山系が北西の風を弱めることが、神戸港を良港とした理由の一つである。

山上の街

最高峰の西にある灘区六甲山町の六甲有馬ロープウェー「六甲山頂駅」から摩耶山山頂近くの摩耶ロープウェー星の駅」にかけて、多くの文化・保養施設やホテルなどが集まって“山上の街”をつくっている。その中にある神戸市立六甲山小学校は神戸市内で一番高い標高にある学校として知られており、冬の入りの風物詩として他に先駆けてストーブに点火する様子が地元のニュースでしばしば取り上げられる<ref>神戸新聞社 六甲山小学校でストーブの火入れ式、2002/10/23</ref>。六甲山ホテルの旧館が関西では数少ないクラシックホテルとして名高いほか、別荘建築として複数の西洋館が現存している(ただし個人所有であるため一般公開されていないものが多い)。六甲摩耶鉄道六甲ケーブル線の六甲ケーブル下駅、六甲山上駅の駅舎も開通当初の近代建築で極めて美しい。

個々の施設はTemplate:六甲山上の名所・施設を参照のこと。

六甲山西部

神戸電鉄有馬線より西側、神戸市長田区須磨区内に位置する高取山、横尾山(須磨アルプス)、鉢伏山旗振山須磨浦公園須磨浦山上遊園)などは須磨ニュータウンと河川によって主山稜と各個に分断されていることもあり六甲山とは区別される場合もあるが、全山縦走の経路であり、地理上も本山系に含まれる。

自然

地質・地形

[[ファイル:Rock-Garden01.jpg|thumb|芦屋ロックガーデン]] 南面が急な傾動地塊(傾動山地)である。

六甲山の大部分は、約1億年前(中生代白亜紀)に地下深くで生まれた花崗岩でできている。第四紀、百万年前以後の六甲変動と呼ばれる地殻変動によって最高部が900m以上に至るまで隆起し、現在も変動を続けている。それによって生じた複数の断層が北東から南西に向かって主稜線と平行に走っている。いずれも北西側が東に向かって動く右横ずれ断層であり、横ずれが起こると同時に北西側が高くなる傾向がある。これらの断層は阪神淡路大震災震源断層である野島断層などとともに六甲・淡路島断層帯を構成している<ref>地震調査研究推進本部 六甲・淡路島断層帯の長期評価について、2005/1/12</ref>。

1932年(昭和7年)、京都大学助教授であった上治寅治郎により丸山断層が発見されるまでは、六甲山の成り立ちは、地塁説(六甲山地塁説)で説明されてきており定説となっていた。これは、六甲山の高い中央部を除いた南北の両側が、陥没して低くなり、北側に落ちて谷状の凹地になったのが、現在の箕谷から花山、大池、有馬、さらに生瀬宝塚にいたる低地帯であり、南側に落ちてできたのが現在の神戸の市街地であり、ずり落ちずに残った高地が現在の六甲山であるという考えである。ところが、丸山衝上断層の発見により、地塁説とは全く逆の、地殻にかかる側方からの圧力により、基盤が上向きに隆起し六甲山を形成したという説が現在では主流となった。

最高峰のすぐ南から神戸市内に向かって南西に一直線に流れる住吉川の谷が、五助橋断層(ごすけばしだんそう)に相当する。芦屋ロックガーデンなどの断崖の麓にあるのが芦屋断層、その東側で甲山の乗っている北山高原を持ち上げたのが甲陽断層と呼ばれている。(断層で出来た崖は長い年月の間に侵食されているので、今見える崖と断層の位置はずれている場合がある)これらの断層によって、南東の西宮市側からは幅広い階段状にわかれて隆起してみえる。

山頂部は比較的平坦な地形が広がっておりゴルフ場やホテル・保養所、各種観光施設が点在している。この平坦な地形は『隆起準平原』と呼ばれるもので、侵食が進んでいない若い山によく見られる地形である。

北斜面は比較的緩やかであるが、東西に走る有馬-高槻断層帯の一部である六甲断層<ref>地震調査研究推進本部 有馬-高槻断層帯の評価、2001/6/13</ref>によってできた断層谷である、蓬莱峡や白水峡などの谷で区切られている。

河川と湖沼

[[ファイル:Hotakako01.JPG|thumb|穂高湖]] 南部には20程度の水系があり、南流して大阪湾に達する。北部は三つの水系に大別され、東端と北東部への降水は武庫川水系によって大阪湾へ、北中部へは加古川水系、北西部へは明石川水系によって播磨灘へ流入する。

南部の河川は河口までの距離が短く、急勾配な天井川が多いため伏流していることも多い。酒造で有名な宮水はそうした伏流水の一つである。南西部には六甲山の隆起以前から存在し、主稜線を分断している先行河川がいくつか見られる<ref>前田保夫・神戸市教育委員会 六甲山はどうしてできたか 2章六甲山の上昇に負けなかった川、1989/3/31</ref>。また、いくつかの川沿いには両岸に幅50mほどの公園が山麓から河口まで整備されている。

湖沼が点在しており、人造湖である金仙寺湖(丸山貯水池)や烏原貯水池が比較的大規模である。

「六甲山北面沢地群」が日本の重要湿地500に選定されている。

個々の河川はCategory:六甲山地兵庫県の二級水系一覧を参照のこと。

気候

全域が瀬戸内海式気候に含まれ、温暖少雨であるが、山上と北部は比較的冷涼で冬季に積雪する。市街地からの距離に比べて標高が高く、山頂付近が高原の様をなしているために、避暑地としての利用も多い。また複数の植物園が高度ごとに立地しており、特に六甲高山植物園は山上の冷涼な気候をいかし高山植物や寒冷地の植物を栽培している。

六甲颪

読みは「ろっこうおろし」。冬季に神戸市の北側に位置する六甲山系から吹き降ろす風を「六甲颪」と呼ぶ。「比叡颪」や「筑波颪」等と同様、冬場の北西からの季節風が山を越えて太平洋側に吹き降りる際、乾燥して強く冷たい風となって吹くものである。

なお西宮市阪神甲子園球場を本拠とする、阪神タイガース球団の応援歌である「阪神タイガースの歌」も、その冒頭の歌詞にちなんで「六甲颪」の俗称で呼ばれている。この俗称を使い出したのは、元朝日放送アナウンサータレント中村鋭一といわれている。
野球ファンも勘違いしていることが多いが、実際に甲子園球場で吹く風、いわゆる「浜風」は六甲颪そのものとは発生の原理が異なる。プロ野球の最盛期の夏季には「六甲颪」は吹かない。
これは夏が終わり六甲颪が吹き始める時期には颯爽としている、つまり優勝していると言う意味である。
また、同じ西宮市の阪急西宮球場を本拠としていた阪急ブレーブスの球団歌である「阪急ブレーブス団歌」の冒頭も「六甲颪に鍛えたる…」となっていた。

植生

環境省 第6回・第7回自然環境保全基礎調査 植生調査
有馬(未調査) 宝塚
前開(未調査) 神戸首部 西宮
須磨(未調査) 神戸南部(未調査)

六甲山は元々緑の山であった。 山頂付近は落葉広葉樹林、その他は照葉樹林の森で覆われていたのが古代の本来の姿であった。

近隣に人が進出するにつれ、伐採利用が行われるようになり、森の二次林化がおこった。

江戸時代に入ると燃料や資材として山中の樹木伐採が進みはげ山化した。江戸末期の神戸港開港はこうした事象をさらに悪化させ、明治初期には地表が露出するほどに荒廃した。当時の神戸港の写真の遠景には草木が全く生えていない六甲山が写っている。現在の緑豊かな六甲山からは想像もできない全山はげ山の姿であった。わずかに最高峰付近と寺院近傍にのみ林が残存していたのみである。

山地の荒廃により、たびたび土砂災害を招いたことから1895年(明治28年)より兵庫県が砂防事業を開始した。そして1902年(明治35年)からは山地の緑化事業を開始した。これは、杉や檜のような商業材ではなく、広葉樹林を中心とした治水を目的とした当時としては画期的な緑化事業であった。 「布引と再度山」が森林浴の森100選に選定されている。また、ひょうごの森百選に域内から複数選定されている。

砂防

六甲山は風化花崗岩でできた地質であるため、地表から草木が除かれ土壌が流出すると雨により崩壊しやすい。

1938年(昭和13年)に空前の阪神大水害が発生し、大きな被害が出た。これを契機に、翌1939年(昭和14年)より六甲山の砂防事業は国(当時の内務省)の直轄事業に移って今日に至る。この時期から植林による砂防から、渓流への砂防えん堤等の設置対策へと比重が移る。

そのため、六甲山は流れる川に砂防の堰堤が多い山としても知られる。国による砂防えん堤が511基、地方自治体によるものも含めると約1000基にのぼる<ref>国土交通省近畿地方整備局六甲砂防事務所 土砂災害がおこりやすい六甲山系、作成日不明、2007年10月24日時点のデータ</ref>。

砂防事業による効果としては、1967年(昭和42年)にも阪神大水害を上回る雨量で土砂災害が発生したものの、都市化の進行にも関わらず被災者数、被災家屋は少なくなっていることが挙げられる<ref>国土交通省近畿地方整備局六甲砂防事務所 六甲山系の砂防事業史、作成日不明、2007年10月24日時点のデータ</ref>。

平成7年の兵庫県南部地震では六甲山も崩壊地が多数生じ、新たな危機が浮き彫りとなった。 これを契機に、六甲山系グリーンベルト構想が打ち出され、今日にいたっている。

動物

歴史

近世以前

この地帯は古くから「むこ」の名称で呼ばれ、武庫、務古、牟古、六兒、無古などの字が当てられており、『日本書紀神功皇后摂政元年の条には「務古水門(むこのみなと)」の記載がある<ref>竹中靖一著『六甲』(朋文堂、1933年)</ref>。語源については「畿内から見て『むこう』を意味する」という説が有力であるが、諸説があるという。「六甲」の字が当てられるのは比較的最近で、元禄時代にできた『摂陽群談』に見られるのが初期の例であり、享保年間の『摂津志』には「武庫山一名六甲山」の記載が見られるという<ref>歴史と伝統の六甲</ref>。

明治

thumb|right|240px|三国池。畔にグルームの山荘があった thumb|記念碑台東の小径。別荘・山荘と保養所の街 現在の六甲山観光は、明治時代以降に神戸外国人居留地欧米人によって開発されたハイリゾートに始まる。山頂エリアにはイギリス人グルームらにより造成された日本で最初ゴルフ場である神戸ゴルフ倶楽部がある。山頂エリアの山道は、シェール道、シェール槍、アゴニー坂、ドゥントリッジ、トゥエンティクロスなど、当時の外国人により命名されたものが現在も使われている。

大正から戦前

戦中・戦後

山頂付近は、第二次世界大戦中より港湾都市である神戸~尼崎を防衛するために日本陸軍高射砲陣地が設けられた(陣地は山腹にも複数設けられた模様)。戦後は米軍の進駐により高射砲陣地は米軍に接収され、そのまま通信基地となった。大型のパラボラアンテナが設置され、1992年に返還されるまで約半世紀に渡り近畿地方唯一の在日米軍施設として民間人の立ち入りができなかった。

神戸市街に隣接していることもあり、山頂エリアへはケーブルカーと山上バスを乗り継ぎ、歩いて到達することができる。また、山上バスからロープウェー、で山を越えていくと有馬温泉に至るという、観光上恵まれた立地である。

山頂エリアには様々な文化・保養施設があり、企業の保養所や個人の別荘も点在して一つの町が形成されている。また山陽自然歩道をはじめとする多数のハイキングコースが整備されており、西隣の摩耶山には日本三大夜景として知られる掬星台がある。

登山

近代登山発祥の地

thumb|一軒茶屋の石碑 江戸時代までの登山は 山を『ご神体』として山頂を訪れる信仰登山が多かったが、六甲山にはそのような大きな信仰対象は無かった。しかし山の北側には有馬温泉があり、海岸の漁港から温泉街に新鮮な魚を運ぶための「魚屋道(ととやみち)」が山頂のすぐ横を通っていた。魚屋道の休憩所として山頂近くに「一軒茶屋」があって、現在でも登山者の憩いの場として営業している。

西洋式の登山としては、1874年に、ガウランド、アトキンソン、サトウの三人の外国人パーティが、ピッケルとナーゲルを用いたいわゆる近代登山を日本で初めて六甲山で行った。ガウランドは1881年槍ヶ岳前穂高岳に登山して「日本アルプス」を命名した人物で、サトウは富士山に最初に登った外国人としても知られる。

1910年には日本初の社会人山岳会である神戸徒歩会が結成された。また1924年ヨーロッパ帰りの藤木九三らによって結成されRock Climbing Club(RCC)は岩山である六甲山を活動の場として、日本の登山界に初めてロッククライミングを紹介する役割を果たした。加藤文太郎も所属した山岳会である。<ref>加藤文太郎記念図書館に、加藤自身のRCC会員証が保存されている。</ref>

縦走

六甲山の東西に長い山系を縦走することも登山コースとして知られている。この縦走路は、加藤文太郎ゆかりのコースである。神戸市主催大会での縦走路は須磨浦公園神戸市須磨区)から宝塚駅宝塚市)までの約56kmである。毎年、六甲全山縦走大会が開かれる。11月に神戸市[1]主催の大会が、3月第2日曜日に兵庫県勤労者山岳連盟[2]主催の大会が、3月最終日曜日にヒヨコ登山会[3]主催の大会が開かれるほか、企業や個人で行われることも多い。

大会に参加すると、前の人を抜けない細い道が多いため、縦走時間は10~15時間以上。大会では難しいが、中には六甲56kmを6時間程度で走りきる猛者もいる。

神戸市主催の11月の大会では走ることが大会ルールで明確に禁止されているが、昨今のトレイルランニング[4]ブームの為か、このルールを守らない者が多く見受けられ、トレイルランナーのマナー低下が懸念される。

六甲全山縦走路

縦走路のルートや高度差などの情報の掲載された地図は神戸市で販売されている。

六甲山系西部
起点:須磨浦公園駅前 - 鉢伏山 - 旗振山 - 鉄拐山 - (高倉台住宅地) - 栂尾山 - 横尾山 - 東山 - (横尾住宅地) - 高取山 - (丸山住宅地)
六甲山系中央部
鵯越駅前 - 菊水山 - 鍋蓋山 - 再度山 - 摩耶山掬星台) - 摩耶別山 - 六甲山上 - 六甲山(最高点) - 後鉢巻山 - 石宝殿(東六甲分岐点)
六甲山系東部
東六甲分岐点(主道から逸れて尾根道へ)- 水無山 - 船坂峠 - 大平山 - 岩原山 - 譲葉山 - 岩倉山 - (宝塚市街地) - 終点:宝来橋(宝塚駅手前)

毎日登山

高取山の毎日登山が有名である。2006年に開催されたのじぎく兵庫国体の縦走競技でも、神戸市立布引中学校(新神戸駅付近)からスタートして北向きに登り途中から全山縦走路に合流、摩耶山山頂のゴールに至るコースが採用された。

その他登山道

六甲山系の登山道は無数にあり、多くの主要な道は名前がつけられている。

現在、最もポピュラーなハイキングルートは、芦屋川からロックガーデン、東おたふく山を経由して最高峰に至り、有馬温泉に下るものである。

魚屋道(ととやみち)

古くから使われてきた横断路である。阪神側から有馬温泉へと抜ける最短の道であり、温泉街へ瀬戸内海の新鮮な魚介類を届ける魚屋が使用した道であることから、この名前がある。全長12km。

起点:東灘区深江 - 風吹岩 - 六甲山最高峰 - 有馬温泉

石切道(いしきりみち)

六甲山の花崗岩を石材として切り出して運搬した道である。切り出した石材を加工した川原の加工場が、石屋川であり、そこで加工した石材が御影浜から積み出されたため、御影石の名称が生まれた。

住吉川 - 六甲ガーデンテラス

徳川道(とくがわみち)

慶応3年(1867年)に開通した、西国街道の迂回路。兵庫港が開港されたことにより、外国人との不都合な接触を恐れた幕府が作ったため、徳川道の名がある。全長34km。

西国街道 - 石屋川 - 護国神社 - 杣谷 - 摩耶山裏 - 森林植物園 - 北区鈴蘭台小部 - 白川 - 高塚山 - 明石市大蔵谷 - 西国街道

シュラインロード

別名、唐櫃道(からとみち)・行者道。江戸時代の北摂と灘を結ぶ間道。当時、辻斬りや夜盗が横行したため、道中の安全と行商の商売繁盛を祈願して、石仏が多数安置され、行者堂と呼ばれる堂が建立された。明治以後、神戸外国人居留地の外国人たちが、この道をハイキングした際に、多くの祠にちなんで、シュラインロードの名を付けた。

北区唐櫃 - 六甲山 - 灘区

アイスロード

六甲山頂付近の池畔にあった氷室に貯蔵された氷を運搬した道。後世、アイスロードと称せられるようになった。

六甲山ホテル - 六甲ケーブル下駅

トゥエンティクロス

布引谷の渓流伝いに左岸と右岸とを渡り返すことが20回に及ぶことから、この名がある。現在は布引ダムが完成し、ハイキングコースも整備されているため、渡り返すのは数回になっている。

市ヶ原 - 布引谷


交通

thumb|200px|right|六甲ケーブル thumb|200px|right|六甲山上循環バス

なお1931年から1944年にかけては、阪急傍系会社の六甲登山架空索道による索道線(ロープウェイ)も、六甲ケーブルに並行する形で存在していた。

道路

その他

thumb|200px|right|六甲山からの阪神地域の夜景

関連項目

参考文献

  • 『変動する日本列島』 藤田和夫 岩波新書 1985年

注釈

Template:脚注ヘルプ <references/>

外部リンク

Template:Commonscat

国土地理院 地図閲覧システム 2万5千分1地形図名
有馬(北東) 宝塚(北西) 宝塚(北東)
有馬(南西) 有馬(南東) 宝塚(南西) 宝塚(南東)
前開(北東) 神戸首部(北西) 神戸首部(北東) 西宮(北西)
前開(南東) 神戸首部(南西) 神戸首部(南東)
須磨(北東) 神戸南部(北西)

Template:六甲山上の名所・施設 Template:日本三百名山de:Rokkō en:Mount Rokkō

個人用ツール