伯耆国

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伯耆国(ほうきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だったの一つで、山陰道に位置する。現在の鳥取県中部及び西部にあたる。伯州と呼ぶこともある。古代遺跡の類似性、方言などの文化的共通点が多く、出雲とあわせて雲伯地方とも呼ばれる。主に現在の鳥取県西部を指す「西伯耆」と中部を指す「東伯耆」に分けられ、双方は方言や文化などに違いが見られる。『延喜式』での格は上国、中国。

古事記』には、伯岐国と記載。

目次

沿革

古墳時代以前には古代出雲に特徴的な四隅突出型墳丘墓が築かれており、『出雲国風土記』にも当地に聳え立つ霊峰伯耆大山の逸話も出てくることから出雲の文化圏と考えられている。弥生時代より東部出雲と同様、鉄器の製造が盛んであり、これらの地方の鉄が大和政権の原動力になったとの見方がある。登場する最古の文献は、『古事記』であり伊邪那美神の埋葬地「出雲と伯耆の堺の比婆の山」であり、現在の島根県安来市と鳥取県米子市の県境近くに比定される。古墳時代以降、律令の世になると伯耆国造がいた領域に、7世紀に伯耆国を設置した。前述したとおり、鉄器製造が盛んである地域にふさわしく、日本最古の刀匠の一人大原安綱を輩出した。

国府・国分寺・一宮など

国府は久米郡にあった。遺跡は現在の倉吉市国府(こう)で見つかっている<ref>国衙跡は、倉吉平野のほぼ中央で、標高40メートルほどの丘陵上に位置する。発掘調査は1973年(昭和48年)秋に国庁裏で柱穴が見つかったのが契機で、1978年(昭和53年)まで実施された。国衙跡は幅2メートル、深さ1メートルほどの溝によって東西273メートル、南北149メートルの長方形に区画され、その東辺に東西51メートル、南北149メートルの張り出し部が設定されていた。区画のほぼ中央部に儀礼を行う国衙政庁(国庁)が設けられ、周辺に曹司(そうし)建物郡が配置されていた。発掘された遺構は、掘立柱建物・礎石・門・塀・道路・築地条遺溝・溝・土壙など多数で、8世紀中頃から10世紀の間に四時期の変遷が確認されている。 一期は8世紀中頃から末期まで。東西84メートル、南北95メートルに掘立柱塀によって区画され、南門・前殿・正殿・後殿と並び、正殿の東西に細長い脇殿とその南側に楼閣風建物を配置している。建物は全て掘立柱建物で、正殿を中心にコの字形に配置している。 二期は9世紀初頭頃。南門・前殿・正殿・後殿を同じ位置で建て替え、東西両脇殿の北側に楼閣風総柱建物を新たに設けている。 三期は9世紀中頃。国庁の外周に幅2メートル、深さ1メートルほどの溝を掘り、内側に築地塀を巡らし、東西84メートル、南北108メートルに区画している。そして、南門以外の建物を礎石建物にかえ、前殿を取り払い、正殿までを石敷にし広くしている。 真田廣幸「律令制下の因幡・伯耆」 内藤正中・真田廣幸・日置粂左ヱ門『鳥取県の歴史』山川出版社 2003年 50-55ページ</ref>。

国分寺跡は、国衙跡の東へ約300メートルほど離れたところにあり、尼寺跡は、僧寺と尼寺は離れて建立するように定められているが、北へ約50メートルと近接している。

延喜式神名帳』には以下の小社6座6社が記載されている。

一宮は河村郡の倭文神社、二宮は大神山神社あるいは波波伎神社、三宮は久米郡の倭文神社、総社は国庁裏神社(倉吉市国府)である。

守護

鎌倉幕府

室町幕府

伯耆守

脚注

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関連項目

外部リンク

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