伊藤博文

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伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日1841年10月16日) - 明治42年(1909年10月26日)は、日本幕末長州藩士明治時代政治家。初代、第5代、第7代、第10代内閣総理大臣元老

目次

概観

大日本帝国憲法の起草に関わり、初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長・韓国統監府初代統監・初代貴族院議長・初代兵庫県知事(官選)を務めた。立憲政友会を結成・初代総裁。元老位階勲等従一位大勲位。最終爵位公爵称号名誉博士エール大学)。

諱は博文(ひろぶみ)、幼名は利助(りすけ)、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)」などと号し、「春畝公」と表記されることも多い。(諱の博文を「ハクブン」と有職読みすることもある)

アジア最初の立憲体制<ref>1876年発布のオスマン帝国憲法は大日本帝国憲法より13年早いが、2年後の1878年から1908年まで停止しており、また現在のトルコ共和国政府はトルコをヨーロッパの国であるとみなしている。</ref>の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として評価され、「明治の元勲」と呼ばれる<ref>『伊藤博文-アジアで最初の立憲国家への舵取り』明治図書出版</ref>。

生涯

幼年期 - 挙兵

200px|thumb|志士時代の伊藤博文 周防国熊毛郡束荷村字野尻<ref>現 山口県光市束荷字野尻</ref>の百姓、林(はやし)十蔵の長男として生まれる。母は秋山長左衛門の長女、琴子。家が貧しかったため利助(のちの伊藤博文)は12歳ころから奉公に出されたという。父・十蔵が長州藩の蔵元付中間水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防国佐波郡相畑の足軽伊藤弥右衛門の養子となり、伊藤直右衛門と改名したため、十蔵、博文の父子も足軽となった。吉田松陰松下村塾に学び(伊藤は身分が低いため、塾外で立ち聞きしていた)、高杉晋作井上聞多らと倒幕運動に加わった。

文久2年(1862年)には公武合体論を主張する長井雅楽暗殺を画策し、イギリス公使館焼き討ちに参加するなど尊王攘夷の志士として活動した。また、山尾庸三とともに塙次郎・加藤甲次郎を暗殺した。

文久3年(1863年)には井上聞多(井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉らと共に長州五傑の一人としてイギリスに渡航するが、留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じ、翌元治元年(1864年)、4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上とともに急ぎ帰国し戦争回避に奔走するもかなわず、下関戦争(馬関戦争)が勃発する。戦後は和平交渉に通訳として参加した。

長州藩が第一次長州征伐(幕長戦争)で幕府に恭順の姿勢を見せると、高杉らに従い力士隊を率いて挙兵。この時、高杉の元に一番に駆けつけたのは伊藤だった。その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派(革新派)が藩政を握った。後に伊藤は、この時のことを述懐して、「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」と語っている。

明治維新 - 初代首相

[[ファイル:Iwakura mission.jpg|250px|thumb|岩倉使節団。右から大久保利通、伊藤博文、岩倉具視山口尚芳木戸孝允]] 維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、また英語に堪能な事を買われて参与、外国事務局判事、大蔵兼民部少輔、初代兵庫県知事(当時の県知事は民選ではなく官選であった)、初代工部卿など明治政府の様々な要職を歴任する。大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信と共に殖産興業政策の一環として、鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年(1872年)5月に品川横浜間で仮営業を始め、同年9月、新橋までの全線が開通した<ref>朝日新聞 2008年6月3日付記事</ref>。

当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通岩倉具視の不興を買い、また大蔵省の権限を巡る論争でも大久保とは対立関係にあった。だが、征韓論争では「内地優先」路線を掲げた大久保・岩倉らを支持して大久保の信任を得るようになった。

大阪会議を斡旋し、大久保が暗殺された後に内務卿を継承し、維新の三傑なき後の指導者の一人として辣腕を振るう。明治14年(1881年)、政府は明治23年(1890年)に国会開設を約束し、伊藤は憲法制定や先進国の政治の調査のためにヨーロッパへ渡り、オーストリアウィーン憲法学者ローレンツ・フォン・シュタイン博士の講義を受け帰国後、初代枢密院議長として大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たす。明治18年(1885年)に近代的な内閣制度を創設。

内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。衆目の一致するところは、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三條實美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。しかし三條は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ三條家の生まれという高貴な身分、公爵である。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前という低い身分の出身、お手盛りで伯爵になってはいるものの、その差は歴然としていた。太政大臣に代わる初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は、「これからの総理は赤電報 (外国電報) が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三條を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となった。

のちに枢密院議長、貴族院議長などに就任。4度にわたって内閣総理大臣を務めた。

明治33年(1900年)には立憲政友会を創立し、初代総裁を務める。政友会はその後、立憲民政党とならぶ2大政党の1つとなり、大正デモクラシーなどで大きな役割を果たすまでに成長した。

日露戦争では、日露協商論・満韓交換論を主張し、ロシアとの不戦を説き、同時に日英同盟に反対した。講和後は、戦後処理に奔走する。伊藤は後に、ハルビンで暗殺される前の歓迎会でのスピーチで「戦争が国家の利益になることはない」と語っている<ref>『実録 首相列伝』学研</ref>。

韓国統監府初代統監就任 - 暗殺

250px|thumb|長谷川大将と共に統監府へ向かう伊藤博文(手前) 明治37年(1905年)11月の第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)によって大韓帝国が日本の保護国となり、韓国統監府が設置されると初代統監に就任した。日本は実質的な朝鮮の支配権を掌握した(広義の日本統治時代として植民地時代35年と保護国時代5年をひとつながりでとらえることもある)。

伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄植民地化を急ぐ山縣有朋や桂太郎寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立した<ref>『伊藤博文と韓国併合』 青木書店</ref>。また、韓国併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取り、Template:和暦7月に韓国併合の基本方針が閣議決定されてもなお「本格併合は将来的な課題」として早期併合に反対していた伊藤だが、統監であったことが韓国国民の恨みを買うことになり、伊藤の思いとは裏腹に朝鮮人安重根暗殺テロに繋がり韓国併合を加速させた。

Template:和暦、統監を辞任、枢密院議長に復帰したが同年10月、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家安重根によって狙撃され、死亡した(安は直ちに捕縛され、共犯者の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名もまたロシア官憲に拘禁され、日本政府はこれを関東都督府地方法院に移し、1910年2月14日、安を死刑に、禹を懲役2年に、曹および劉を懲役1年6ヶ月に処する判決が下された)<ref>死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされた伊藤は、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれる。また、伊藤博文の孫にあたる伊藤満洲雄氏の話によれば、「おれは駄目だ。誰か他にやられたか?」と聞き、森槐南も傷ついたと知って「森もやられたか・・・」と言ったのが最後の言葉であったとの事。</ref>。 11月4日日比谷公園国葬が営まれた。

暗殺に関しては、安重根単独説のほかにも、暗殺時に伊藤の着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説もある<ref>上垣外憲一『暗殺・伊藤博文』ちくま新書、2000年、大野芳『伊藤博文暗殺事件 闇に葬られた真犯人』新潮社、2003年、海野福寿『伊藤博文と韓国併合』青木書店、2004年</ref>。

伊藤の死に際しては、 Template:Quotation

この発言が採録された純宗實錄大日本帝国の抑圧を受けていた当時の朝鮮(大韓帝国)で編纂されたものであり、韓国の史学系ではこの記録に含まれた高宗の言説には正当な時代評論的価値は認められていない。

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などの評価がある。宮武の評価は、当時としては異例のものであった。これまで伊藤を攻撃していたマスメディアまでも、その死に際して「伊藤公の死は日本の大損失である、否世界の大損失であると叫び、明治維新の大功臣、憲法政治の大元首、古今無類の大偉人を失ひたりと嘆き」と、伊藤を高く評価した。

亡くなる一月前に、高杉晋作の顕彰碑に、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するものなし。これ、我が東行高杉君に非ずや」ではじまる碑文を寄せている。

死後

250px|thumb|東京都品川区西大井にある伊藤博文の墓。毎年命日(10月26日)に内部公開される。 埋葬は東京都品川区西大井六丁目の伊藤家墓所。霊廟として、山口県熊毛郡大和町束荷(現光市束荷)の伊藤公記念公園内に伊藤神社があったが、昭和34年(1959年)に近隣の束荷神社境内に遷座した。記念公園には生家(復元)や銅像、伊藤公記念館、伊藤公資料館などがあり、に混じって韓国国花ムクゲが植えられている。平成18年(2006年)5月、山口県はこの公園に隣接した山林に、森林づくり県民税で「伊藤公の森」を整備して光市に引き渡した。後に日本銀行券C千円券(1963年11月1日 - 1984年11月1日発行)の肖像として採用された。

韓国では、2009年10月26日を「安重根が国権剥奪の元凶・伊藤博文をハルビンで狙撃した義挙から100周年に当たる」と位置付け、これに合わせ新しい記念館をソウル南山にある現在の記念館付近に建設することを計画している。

人物・業績

明治天皇との関係

4度も内閣総理大臣を務めた国家の重鎮・伊藤と明治天皇の関係は常に順風満帆であったわけではない。明治10年代、天皇は元田永孚佐々木高行ら保守的な宮中側近らを信任したため、近代化を進める伊藤ら太政官首脳との関係は円滑でない事もあった(後年、伊藤が初代の内閣総理大臣と宮内大臣を兼ねた背景には宮中保守派を抑えるとともに、天皇に立憲君主制に対する理解を深めて貰う面があり、機務六条を天皇に提示して認めてもらっている)。また、伊藤が立憲政友会を結成する際には政党嫌いの天皇の不興を買い、その説得に苦慮したという。

しかし、明治天皇は伊藤を信頼していた。明治天皇の好みの性格は、お世辞を言わない無骨な正直者で、金銭にきれいなことだった。伊藤はこれに当てはまり、伊藤に私財のないこと<ref>私的蓄財はほとんどないとされていた伊藤だが、実は公債だけで14万円(2009年換算で約28億円)も溜め込んでいたことが明らかになっている。伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を作った男』講談社、2009年</ref>を知った明治天皇は、明治31年(1898年)に10万円のお手許金を伊藤に与えている。 日露戦争開戦直前の御前会議当日の早朝、伊藤に即刻参内せよという勅旨が下り、伊藤が参内すると明治天皇は夜着のまま伊藤を引見し、「前もって伊藤の考えを聞いておきたい」と述べた。これに対し伊藤は「万一わが国に利あらずば、畏れながら陛下におかせられても重大なお覚悟が必要かと存じます」と奏上した。また、伊藤は天皇から「東京を離れてはならぬ」とまで命じられていた<ref>以上引用『実録 首相列伝』学研より。</ref>。

女子教育

明治19年(1886年)、当時あまり顧みられていなかった、女子教育の必要性を痛感した伊藤は、自らが創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会」を創設した(翌年には「女子教育奨励会」となる)。委員には、伊藤の他に実業家の渋沢栄一岩崎弥之助や、東京帝国大学教授のジェムス・ディクソンらが加わり、東京女学館を創設するなど女子教育の普及に積極的に取り組んだ。また、伊藤は日本女子大学の創設者、成瀬仁蔵から女子大学設立の計画への協力を求められ、これに協力した。

女子教育者であった津田梅子とは岩倉使節団で渡米のとき同じ船に乗ってからの交流があった。日本に帰ってから梅子は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在し、伊藤の娘の家庭教師となり、また「桃夭女塾」へ英語教師として通っている。梅子は明治18年(1885年)に伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった。また、梅子とは気が合ったのか、帰宅してから家庭教師の梅子と国の将来について語り合っていた。伊藤からみれば梅子は同じ日本人の婦人というよりは、顧問のつもりであったという<ref>大庭 みな子『津田梅子』朝日文芸文庫,朝日新聞社,ISBN 4022640130</ref>。

芸者好き

女好きは当時から非常に有名であり、女性とよく遊ぶことから、「箒」(女が掃いて捨てる程いたため)というあだ名がついた。また、宮武外骨の発行した一連の新聞では、好色漢の代表格としてパロディの手法を使い伊藤を度々取り上げた(それに次ぐのが、同じ艶福家として知られていた松方正義である)。地方に行った際には一流の芸者ではなく、二流・三流の芸者をよく指名していたという。これは、伊藤の論理によると「その土地その土地の一流の芸者は、地元の有力者が後ろ盾にいる。そういう人間と揉め事を起こさないようにするには、一流ではない芸者を指名する必要がある」とのこと。40度の高熱に浮かされている時でも両側に芸者ふたりをはべらせたという。もっとも、同じ女好きの松方とは違って伊藤にはそれほど多くの子供はできなかった。衆議院議員松本剛明は子孫の一人。

民族衣装

thumb|right|250px|韓国の民族衣装を着て記念撮影におさまる伊藤
韓国統監時代、前列左から二番目が梅子夫人
扶桑社刊の『新しい歴史教科書』には、伊藤と妻の梅子が韓国の民族衣装を着ている写真がある。韓国統監として韓国人の衣装を身に纏った。伊藤はまた韓国皇太子・李垠を日本に招き、日本語教育を行っている。

操り人形

お雇い外国人であったドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、伊藤が有栖川宮熾仁親王の方を向き、「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言いながら、操り人形を糸で踊らせるような身振りをしたことを紹介している。

通称の変遷

当初は自身の曽祖父「利八郎」と「助左衛門」から「利」と「助」をとり「利助(りすけ)」と名づけられたが「としすけ」とも読み、「としすけ」の音から「俊輔」とも書かれるようになり、そうなると今度は「しゅんすけ」と読まれることになり、その音から「春輔」とも表記され、こんどはそれが「しゅんぽ」と音読されたので、最終的に「春畝」を号にしたものである。

評価

幼年期には松下村塾に学び、吉田松陰から「俊輔、周旋(政治)の才あり」と評された。

よく同じ長州閥の山県有朋と対比され「含雪公(山県)と春畝公(伊藤)ほど対照的で、且つ力量の似通った一対も珍しい」と評された。現実に両者の政治姿勢は全く違うものであったが、当人たちの中は非常に良く、お互いの良き相談役であった。二人が長州志士の中でもきわだって貧しい出身(木戸、井上、高杉らは中下級武士とはいっても家柄のはっきりした上士であり、足軽や農民である山県、伊藤とは当時の意識としても雲泥の差があった)であったことも重要である。

同時代人が両者の特徴を評した言葉に次のようなものがある。 「山県は面倒見が良く、一度世話したものは死ぬまで面倒を見る。結果、山県には私党ができる。一方、伊藤はそのような事はしない。信奉者が増えるだけで是が非でも伊藤の為に働こうとする者はいなかった。しかし伊藤はそれを持って自己の誇りとしていた」

犬養毅曰く「公は職務を行うに、賄賂を使ったことはなく、公自身もまた賄賂を要求することはなかった。公を批判する者はいれども、公の金銭に関する清廉さを非難する者はいない」これも汚職の権化のような山県とは対照的である。

新憲法を制定する際に担当官に対し、「新憲法を制定するに、伊藤は一法律学者であり、汝らもまた一法律学者である。それ故、我が考えが非也と思わば、どこまでも非也として意見せよ。意見を争わせることがすなわち新憲法を完全ならしめるものである」と訓示している。今よりも特権意識の強い時代の政治家としては異例の見識であるとされている。

大隈重信は伊藤を次のように評している。「伊藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、道具立ては面倒であった。氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促されてすると云うほうだったから敵に対しても味方に対しても態度の鮮明ならぬ事もあった。伊藤のやり口は陽気で派手で、それに政治上の功名心がどこまでも強い人であるから、人心の収攬なども中々考えていた。」

栄典・爵位

系譜

林氏(伊藤氏)
林氏は本姓越智河野氏の支流といわれる。家紋はもと「折敷に三文字」だが、伊藤姓に改姓以後「上がり藤」を用いた。

博文自身の語るところ<ref>1909年(明治42年)松山での講演会での発言。</ref>によれば、「先祖は河野通有の裔で、淡路ヶ峠城主の林淡路守通起である」という。また「実家は周防国熊毛郡束荷村の農家で、博文の祖父林助左衛門は、林家の本家林利八郎養子となり本家を継いだ。林助左衛門の子、十蔵は萩藩の蔵元付中間水井武兵衛の養子となり「水井十蔵」と名乗るが、安政元年(1854年)水井武兵衛が周防国佐波郡相畑の足軽で藤原姓を称する伊藤弥右衛門の養子となり、伊藤直右衛門と名を改めたため、十蔵も伊藤氏を称した<ref>『海南新聞』明治42年(1909年)3月18日号の記事によると、同年3月16日松山道後を訪れた伊藤博文は、歓迎会演説の中で自らの出自に就いて 「予ノ祖先ハ當國ヨリ出デタル者ニテ、伊予ニハ予ト同シク河野氏ノ末流多シト存スルガ、予ノ祖先ハ300年以前ニ於テ敗戰ノ結果、河野一族ノ滅亡ト共ニ中國ヘ移リタル者テ「通起(みちおき)」ト称シ慶長16年(1609年)5月26日ニ死歿シタルガ故ニ、明年ニテ恰モ300年ニ相当ス。彼ハ「林淡路守通起」ト称シ、予ハ其レヨリ第11代目ニ當レリ。「通起」ハ敗戰ノ後、毛利氏ヲ頼リタルモ、毛利氏モ當敗軍ニ属シ、頗ル艱難ヲ極メタル時ナルカ故ニ、遂ニ村落ニ埋歿シ落魄シテ、眞ニ僻遠ナルカ寒村ニ居住シ、其裔孫此処ニ存続シテ、今ヤ一族60餘軒ヲ算スルニ至レリ。予モ即チ其一人ニシテ、明年ヲ以テ齢70ニ達スルガ故ニ、恰モ周防ニ移リタル通起ノ歿後230年ニ出生シタルモノナリ。予カ父母ニ擁セラレテ萩ノ城下ニ出デタルハ僅ニ8歳ノ時ニシテ、爾来幾多ノ変遷ヲ経テ、今日ニ及ベリ。近來家系ノ事ニツイテ當國ノ諸君ガ頗ル調査ニ盡力セラレタル結果、周防移住以前ノ事蹟、大ニ明確ト成リタレハ、明年ハ周防ニオイテ親族ヲ参集シ、通起ノ為ニ300回忌ノ法要ヲ營ム心算ナリ。今次當地ニ於テハ、諸君ガ頗ル厚意ヲ以テ來遊ヲ歓迎セラレタルハ、右ノ縁故ニ基クモノトシテ、予ハ殊更ニ諸君ニ対シテ感謝ノ意ヲ表スル次第ナリ。顧フニ古來成敗ノ蹟ニ就テ考フレハ、予ガ祖先ハ當國ヨリ出デタルモノナレバ、當國ハ即チ祖先ノ故郷ナリ。今ヤ祖先ノ故郷ヘ歸リ來リテ斯クノ如ク熱誠ナル諸君ノ歓迎ヲ受ク。胸中萬感ヲ惹カザルヲ得ズ。加之、本日ハ諸君ガ我過失ヲ論ゼズシテ、唯々微功ヲ録セラレタルニ至テハ、深ク諸君ノ厚意ヲ心ニ銘シテ忘却セズ」と発言している。</ref>」という。伊藤十蔵の長男が、伊藤博文公爵である。博文の跡は養子の博邦(盟友井上馨)が継いだ<ref>『日本の名家・名門 人物系譜総覧』 226、227頁</ref>。

系図

  ∴
 林通村
  ┣━━━━━━━┓
 林通安     林通忠
   ┣━━━┓   ┣━━━━━━━━━┓
 林秀貞 林通具 林通政(駿河守)  林通起(淡路守)
  ┃   ┏━━━┳━━━┳━━━━━┻━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
 林勝吉 林通元 林通代 林通重(孫右衛門) 林通好 林通定 林通形 林通永 林通季
  ┃           ┃
 林勝久         林信勝(孫三郎)
              ┃
             林信吉(孫右衛門)
  ┏━━━┳━━━━━┳━┻━━┓
  林信顕 林作左衛門 林惣十郎 林又左衛門
   ┃              ┃
  林信久(半六)        林源蔵
  ┣━━━━━┓        ┃
  林惣左衛門 林平治兵衛    林与一右衛門
  ┏━━━━━┻━━┓     ┣━━━┓
  林利八郎(半六) 林利右衛門 林増蔵 林助左衛門
        ┏━━━┳━━━━━━━━━┫本家林利八郎の養子となる
      伊藤十蔵 女子(林新兵衛妻) 女子(守田直吉妻)
       ┃
      伊藤博文
  ┏━━━━╋━━━━┳━━━┳━━┓
 伊藤博邦 木田文吉 伊藤眞一 生子 朝子
  ┣━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━┳━━┳━━┓
  伊藤博精 清水博春 伊藤博通 伊藤博約 伊藤博忠 伊藤博臣 林博則 伊藤博経 伊藤博孝 伊藤博英 琴子 愛子 十四子
  ┣━━━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓
  伊藤博雅  邦子 雪子 文子 典子 久子
   ┣━━━━┓
  伊藤智明 八重子
  • 伊藤家 
本姓藤原氏を称する。早川隆の著書『日本の上流社会と閨閥』211、214頁には「もともと伊藤の家は水呑み百姓で父親十蔵は馬車ひきなどをしていたが食い詰めて長州藩の伊藤という中間の家に下僕として住み込んでいるうちに子供のない同家の養子になり伊藤を名乗った。博文は幼名を利助といい捨て子だったという説もある。それが武士のはしくれから明治の指導者に出世すると家系が気になりだしたのか孝霊天皇の息子伊予皇子の三男小千王子が祖先とか、河野通有の子孫とか言い出した。系図屋に、りっぱな系図を作らせるのは今も昔もよくある話で、とがめ立てするほどのこともあるまいが、偉くなってからの彼は故郷へはほとんど帰らなかった。昔の素性を知るものには頭が上がらないからである。だが、身分が低かろうが実力さえあれば偉くなれるという混乱期の日本を象徴するように首相、政党総裁、枢密院議長、公爵と位人臣(くらいじんしん)を極めた伊藤の生涯は、いわば明治版太閤期である。」とある。
 ∴
伊藤弥右衛門
 ┃
伊藤直右衛門(水井武兵衛)
 ┃
伊藤十蔵(林十蔵)
 ┃
伊藤博文(林利助)

家族・親族

邸宅

250px|thumb|開東閣

登場作品

テレビドラマ
映画

脚註

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関連項目

参考文献

  • 『伊藤博文伝(上,中,下巻)』春畝公追頌会 編 、1940年
  • 『伊藤博文文書(全30巻)』 ゆまに書房、2007-09年
  • 『日本の上流社会と閨閥』早川隆、角川書店、1983年、211-215頁
  • 『日本の名家・名門 人物系譜総覧』別冊歴史読本57、第28巻26号、新人物往来社、2003年、226-227頁
  • 『伊藤博文 近代日本を作った男』 伊藤之雄 (講談社、2009年)
  • 『帝国日本の植民地法制―法域統合と帝国秩序浅野豊美(名古屋大学出版会、2008年、ISBN 4-815-80585-7

外部リンク

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