伊能忠敬

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伊能忠敬の銅像(香取市・佐原公園・1919年建造)

伊能 忠敬(いのう ただたか、延享2年1月11日1745年2月11日) - 文化15年4月13日1818年5月17日))は、江戸時代日本商人測量家。

目次

生涯

延享2年(1745年)1月11日、神保貞恒の次男として上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれる。幼名は三治郎。6歳の時、母が亡くなり、婿養子だった父は兄と姉を連れ実家の武射郡小堤村(現・横芝光町小堤)の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の元に残る。その後生家を叔父(母の弟)が継ぎ、三治郎が10歳の時に父の元に引き取られる。

宝暦12年(1762年)、18歳の時に、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)の伊能家に婿養子に入り、以来しばらくは商人として活動する。伊能家は、醤油醸造貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関っていた。商人としてはかなりの才覚の持ち主であったようで、伊能家を再興したほか、佐原の役職をつとめたなどの記録が残されている。また、かなりの財産を築いた。

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上野源空寺にある伊能忠敬墓。左側に高橋至時・景保の墓が並んでいる。

寛政6年(1794年)12月、50歳の時に、家督を長男景敬に譲り隠居、翌年江戸に出る。江戸幕府天文方高橋至時に師事し、測量・天文観測などを修めた。その際、天体観測を利用し地球の大きさを仮定するが、師匠である高橋至時に、基準とする距離が短過ぎ不正確である、あるいは江戸と蝦夷地ほどの距離を元にすれば推測も可能であろうと一笑に付される。この事が、忠敬が後年測量の旅に出るきっかけの一つともなった。

寛政12年(1800年)、56歳の時に、第1次測量を開始。これは、測量家としての腕を見込まれたことのほか、忠敬が私財を投じて測量事業を行おうとしたことが幕府にとっても有益だと判断されたということがあったようである。幕府は、伊能忠敬に全国の測量をさせると共に、薩摩藩の偵察の意味合いも重きにおいて全国に派遣させていたとされる。最初の測量は蝦夷地(現在の北海道)およびその往復の北関東東北地方において行われた。宗谷付近については、当時、伊能がその弟子であった間宮林蔵に依頼して行わせた測量結果を基に作図が行われた。ただし、忠敬の測量が極めて高度なものであったことから、その後徐々に幕府からの支援は増強され、国家的事業に育っていった。また、この際に地図投影に必要な地球の大きさを見積もるため、江戸深川から野辺地に至る路線の測量により、緯度1に相当する子午線弧長がおよそ282分(110.7km程度)に相当すること、またそれを元に、地球全体の外周がおよそ4万km程度であると推測した。この値は、現在計測されている数値と0.1%程度の誤差であり、忠敬の測量の正確さの証左とも言える。

こうして作られたのが大日本沿海輿地全図であり、大変精度の高い日本地図として評価された。完成したのは忠敬没後の文政4年(1821年)であった(仕上げ作業を担当したのは高橋至時の子、高橋景保)。墓地は上野源空寺(源空寺には、高橋景保・高橋至時・伊能忠敬の大日本沿海輿地全図組三人頭の墓が並んでいる)。また佐原の観福寺にも遺髪をおさめた参り墓がある。

死後の文政11年(1828年)、シーボルトがこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、これに関係した日本の蘭学者(至時の息子高橋景保ら)などが処罰された(シーボルト事件)。

年表

和暦 西暦 月日
旧暦
年齢 内容
延享2年 1745年 1月11日 0 上総国山辺郡小関村の名主・五郎左衛門家で生まれる。
宝暦元年 1751年 6 母が亡くなり、婿養子だった父は実家の武射郡小堤村の神保家に戻る。
宝暦5年 1755年 10 実家の神保家に戻っていた父の元に引き取られる。
宝暦12年 1762年 18 下総国香取郡佐原村の酒造業を営む伊能家に婿養子に入る。
天明元年 1781年 36 佐原村本宿組名主となる。
寛政6年 1794年 12月 50 隠居し、家督を長男景敬に譲る。
寛政7年 1795年 51 江戸に出て幕府天文方高橋至時に暦学天文を学ぶ。
寛政12年 1800年 閏4月19日 56 第1次測量 奥州街道蝦夷地太平洋岸‐奥州街道 180日間
享和元年 1801年 57 第2次測量 三浦半島伊豆半島房総半島東北太平洋沿岸‐津軽半島‐奥州街道 230日間
享和2年 1802年 58 第3次測量 奥州街道‐山形‐秋田‐津軽半島‐東北日本海沿岸‐直江津‐長野‐中山道 132日間 
享和3年 1803年 59 第4次測量 東海道‐沼津‐太平洋沿岸‐名古屋‐敦賀‐北陸沿岸‐佐渡‐長岡‐中山道 219日間
文化2年 1805年 61 第5次測量 幕府直轄事業となる。東海道‐紀伊半島‐大阪‐琵琶湖瀬戸内海沿岸‐下関‐山陰沿岸‐隠岐‐敦賀‐琵琶湖‐東海道 
文化5年 1808年 64 第6次測量 東海道‐大阪‐鳴門‐高知‐松山‐高松‐淡路島‐大阪‐吉野伊勢‐東海道
文化6年 1809年 65 第7次測量 中山道‐岐阜‐大津‐山陽道‐小倉‐九州東海岸‐鹿児島‐天草‐熊本‐大分‐小倉‐萩‐中国内陸部‐名古屋‐甲州街道
文化8年 1811年 67 第8次測量 甲府‐小倉‐鹿児島‐屋久島種子島‐九州内陸部‐長崎‐壱岐対馬五島‐中国内陸部‐京都‐高山‐飯山‐川越 913日間
文化12年 1815年 71 第9次測量 忠敬は参加せず。東海道‐三島‐下田‐八丈島御蔵島三宅島神津島新島利島大島‐伊豆半島東岸‐八王子‐熊谷‐江戸
文化13年 1816年 72 第10次測量 江戸府内 
文化15年 1818年 4月13日 74 死去、喪を秘して地図製作を続行。
文政4年 1821年 没後 『大日本沿海輿地全図』完成、三ヶ月後喪を公表。
明治16年 1883年 2月27日
(新暦)
没後 正四位

備考

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大日本沿海輿地全図

「伊能大図」については、幕府に献上された正本は明治初期1873年の皇居炎上で失われ、伊能家で保管されていた写しも関東大震災で焼失したとされる。

2001年アメリカ議会図書館で写本207枚発見。これらは、国土地理院の前身である陸軍参謀本部輯製20万分1図作成のための骨格的基図として模写されたものが、第二次世界大戦後アメリカに渡ったものと考えられている。続いて国立歴史民俗博物館で2枚、国立国会図書館で1枚発見された。欠けていた4枚については、2004年5月に、海上保安庁海洋情報部で保管されていた縮小版の写しの中に含まれていることがわかり、全容がつかめるようになった。なお、2006年12月、「伊能大図」全214枚を収録した「伊能大図総覧」が刊行された。また2007年1月海上保安庁海洋情報部所蔵の写しの中から最高レベルの原寸模写図3枚を含む色彩模写図が発見された。

江戸時代を通じて伊能図の正本は国家機密として秘匿されたが、シーボルトが国外に持ち出した写本を基にした日本地図が開国とともに日本に逆輸入されてしまったために秘匿の意味が無くなってしまった。慶応年間に勝海舟が海防のために作成した地図は逆輸入された伊能図をモデルとしている。なお、伊能図は元来、沿岸の地形を確定させるために作成されたものであるため、内陸部の記述は乏しく、シーボルトは正保日本図などで内陸の記述を補った。このため、

シーボルトが国外に持ち出した伊能図の写本は、日本に開国を迫った際にマシュー・ペリーも持参している。ペリーはそれを単なる見取図だと思っていたが、日本の海岸線を測量してみた結果、きちんと測量した地図だと知り、驚愕したと言われる。

その他

  • 地元などでは親しみと尊敬の念をこめて、伊能忠敬を「いのうちゅうけい」とも呼ばれている。
  • 生前、高橋至時の弟子になってからは寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)という仇名で呼ばれていた。
  • 日本で初めて金星子午線経過を観測した人物である。
  • 伊能忠敬は、深川界隈に住居を構え、全国測量の旅に出かける際は、安全祈願のために、富岡八幡宮に必ずお参りに来ていた。2001年、境内に銅像が建てられている。
  • 晩年、旅先から「歯がなくなって好物の奈良漬も食えなくなって悲しい」と言った内容の手紙を故郷に送っている。
  • 現存するもっとも古い唐木仏壇の一つに、伊能忠敬家の仏壇(18世紀頃)がある。
  • 伊能忠敬ゆかりの香取市佐原には伊能忠敬旧宅をはじめ、伊能忠敬記念館、1919年(大正8年)建造の伊能忠敬銅像、その名をとった「忠敬橋(ちゅうけいばし)」などがある。また、旧宅近くの香取市立佐原小学校の校歌には忠敬翁が歌われており、命日の5月17日には忠敬祭(ちゅうけいさい)として墓参などの行事が行われている。
  • 1999年から2001年にかけて「伊能ウォーク」と呼ばれるイベントがあった。このイベントでは、伊能忠敬の測量隊が歩いたルートを歩くほか、拠点地で伊能図の展示会などが行われた。

関連項目

映画

TVドラマ

  • 「四千万歩の男・伊能忠敬 人生ふた山、55歳の挑戦 妻が支えた日本地図作り」(2001年NHK正月時代劇、橋爪功が演じた。)

小説

漫画

参考文献

  • 大谷亮吉編著『伊能忠敬』(岩波書店ISBN 400009887X
  • 佐藤嘉尚 著『伊能忠敬を歩いた』(新潮文庫)

外部リング

  • InoPedia-“伊能忠敬と伊能図”に関してあらゆることがわかる百科事典。(2010年5月4日開設)en:Inō Tadataka

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