京王電鉄

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Template:半保護 Template:基礎情報 会社 [[ファイル:keiohonsha.jpg|250px|京王電鉄本社(聖蹟桜ヶ丘駅東口北側)|thumb]] 京王電鉄株式会社(けいおうでんてつ、英称: Keio Corporation)は、東京都南西部から神奈川県北部<ref>メディアなどでは全線が都内にあると扱われることもある(例: 私鉄 東急「一人勝ち」 朝日新聞2010年06月08日。この新聞記事では東急・京急・小田急・相鉄を神奈川県内に路線を有する大手私鉄として取り上げている)。</ref>に鉄道路線を有する鉄道事業者で、大手私鉄の一つである。

東証第1部上場企業であり、京王グループの中核企業である。大手私鉄の中では多角化は控えめである。1980年代にはそれほど健全な財務内容ではなかったが、経営の引き締めにつとめ、平成不況の過程で同業他社が不動産価格下落・流通不振・旅行低迷などに見舞われるのを尻目に、財務体質は強固なものに変わっていった。

京王という名称の由来は、東と八子を結ぶ鉄道であることから。1998年6月30日まで、旧京王電気軌道と旧帝都電鉄の路線で発足した経緯から京王帝都電鉄(けいおうていとでんてつ、略称:京王帝都・京帝、英称:Keio Teito Electric Railway、英略称: KTR)という社名であった。パスネットの符丁はKO。

目次

歴史

現在の京王電鉄は、元々資本の異なる旧京王電気軌道京王線の営業をしていた会社)と旧帝都電鉄井の頭線の営業をしていた会社)が、太平洋戦争時の戦時統制を経て発足したため、それぞれ個別に記述する。

京王電気軌道

現在の京王電鉄の歴史は、1905年(明治38年)12月12日に、日本電気鉄道株式会社が関係官庁に電気鉄道敷設を出願したことにまで遡る。なお、この時出願した路線は、現在の京王線とは路線経路が全く異なるものであった。

後に、日本電気鉄道は1906年(明治39年)8月18日武蔵電気鉄道株式会社と改称し、既に出願していた鉄道計画路線を変更した。そして、この時に出願した路線が現在の京王線の路線の経路の基となった。

その後、1910年(明治43年)4月12日に武蔵電気鉄道が京王電気軌道株式会社と改称し、9月21日に資本金125万円で設立された。しかし、まだ鉄道路線は有していないため、当初の営業は1911年(明治44年)7月4日に関係官庁より許可が出た電気供給事業のみ執り行っており、1912年(明治45年)8月から調布町・多磨村・府中町・西府村(いずれも当時の行政区分)に電気供給を行っていた。

そして、1913年(大正2年)4月8日に、笹塚変電所(100kW)に、玉川電鉄東京電燈から電力を買い、4月15日笹塚駅 - 調布駅間の12.2キロの電車営業と、電車の補助機関として新宿駅 - 笹塚駅間及び調布駅 - 国分寺駅間の乗合自動車営業(バス事業)を開始した。その後は1914年(大正3年)11月19日の新町駅(現存せず) - 笹塚駅間の延伸を皮切りに、1915年(大正4年)5月30日には新宿追分駅(新宿3丁目付近にある追分交差点にあった駅 現・京王新宿三丁目ビルの位置) - 新町駅間が、1916年(大正5年)6月1日には調布駅 - 多摩川原駅(現・京王多摩川駅)間が、10月31日には調布駅 - 府中駅間が延伸開業した。また、1923年(大正12年)5月1日には新宿駅 - 府中駅間の全線複線化も行っている。このほか、1919年(大正8年)4月には多摩川原駅前での造園事業も行った。

また、電車運転の余力の売電も行い、1914年(大正3年)10月から国分寺村に、1915年(大正4年)8月から谷保村立川村に、同年10月から小平村田無村に、同年11月から保谷村に、1916年(大正5年)1月から拝島村に、同年2月から中神村他七カ村連合に、同年7月から神代村和田堀内村千歳村高井戸村松原村に、1917年(大正6年)3月から三鷹村に、同年8月から砧村に、1919年(大正8年)4月から稲城村に供給した。1922年(大正11年)12月に東京電燈の立川変電所から500kWの受電を開始し、1923年(大正12年)3月から狛江村への電気供給を開始した。

一方、府中駅 - 東八王子駅(現・京王八王子駅)間は、1922年(大正11年)に設立された京王の関連会社である玉南電気鉄道株式会社によって1925年(大正14年)3月24日に営業を開始した。これは国からの補助金を得るため、府中駅 - 東八王子駅間を軌道法に基づく京王電気軌道ではなく、新たに設立した地方鉄道法に基づく新会社(玉南電気鉄道株式会社)により敷設を行ったものである。しかしながら免許路線が官営の中央本線に並行していることを理由に、京王・玉南が当てにしていた補助金は認められなかった。

その後、1926年(大正15年)12月1日に京王電気軌道が玉南電気鉄道を併合し、資本金1,290万円の会社となる。1927年(昭和2年)6月1日に玉南鉄道線(府中駅 - 東八王子駅間)を1,067mmから1,372mmへ改軌する工事が終了し、全線軌道法による直通運転を開始した。しかし、新宿駅から東八王子駅まで乗り換えなしでは行けない状況は1928年(昭和3年)5月22日のダイヤ改定まで続いた。

京王電気軌道は設立当初から資金難のために経営が不安定であったが、1928年(昭和3年)12月18日井上篤太郎社長専務に就任すると、当時あった森村財閥の資本系列に属すこととなる。また、資本を得たことにより、1931年(昭和6年)3月20日には、初の支線である御陵線(北野駅 - 御陵前駅間)が開通したり、1932年(昭和7年)4月の高尾登山鉄道との連帯運輸の開始を皮切りに、帝都電鉄、省線電車などとも連帯運輸を行うこととなる。また、御陵線のライバル路線であった武蔵中央電気鉄道の軌道線も1938年(昭和13年)6月1日に買収し、一旦「京王電気軌道八王子線」(後に高尾線)としていたが、30日をもって廃線にしている。

後の1937年(昭和12年)2月に資本系列が森村財閥から大日本電力(甲州財閥)に移る。そのため、甲州財閥の穴水熊雄が社長に就任し、沿線の乗客誘致政策が積極化することとなる。具体的には駅名の改称であり、例を挙げるならば、京王車庫前駅→桜上水駅・上高井戸駅→芦花公園駅・多磨駅→多磨霊園駅・関戸駅→聖蹟桜ヶ丘駅・百草駅→百草園駅・高幡駅→高幡不動駅・多摩川原駅→京王多摩川駅、など観光地であることを強調する駅名にしている。これらの駅名は、観光地駅としての地位についてはともかく、現在まで引き継がれ親しまれていることから、これらの施策には一定の先見の明があったと考えられる。

また、乗合自動車事業は1938年(昭和13年)3月の武蔵中央鉄道のバス事業(八王子市街地で運行)買収を皮切りに、高幡乗合自動車株式会社(高幡不動駅 - 立川駅間で運行)と由木乗合自動車株式会社(八王子駅 - 由木(現在の京王堀之内駅南大沢駅周辺の地域名称) - 相模原駅間で運行)の買収を行っている。

他にも、新事業として1938年(昭和13年)11月不動産事業を開始した。

しかし、太平洋戦争の勃発で、1942年(昭和17年)前半には、陸上交通事業調整法に基づき、東京市内のバス路線の東京都への譲渡や、配電統制令により電力供給事業を関東配電株式会社(いわゆる国策会社)に譲渡することとなり、経営に大打撃を与える。そして、1944年(昭和19年)5月31日には陸上交通事業調整法に基づき東京西南地区の私鉄は1つに統合されることとなり、大株主であった大日本電力は、長年京王電気軌道と競合関係にあった東京急行電鉄へ株式を譲渡することとなり、いわゆる大東急の一員となる。

略歴

  • 1905年(明治38年)12月12日 日本電気鉄道株式会社が関係官庁に電気鉄道敷設を出願する。
  • 1906年(明治39年)8月18日 日本電気鉄道株式会社が武蔵電気鉄道株式会社に改称する。
  • 1910年(明治43年)
    • 4月12日 武蔵電気軌道株式会社が京王電気軌道株式会社に改称する。
    • 9月21日 資本金125万円で京王電気軌道株式会社設立。
  • 1913年(大正2年)4月15日 軌道法に基づく京王電気軌道が笹塚駅 - 調布駅間を開業。軌間1,372mm。
  • 1914年(大正3年)11月19日 新町駅(現存せず) - 笹塚駅間が開業。
  • 1915年(大正4年)5月30日 新宿追分駅(現存せず) - 調布駅間が全通。
  • 1916年(大正5年)
  • 1922年(大正11年) 玉南電気鉄道が設立される。
  • 1925年(大正14年)3月24日 地方鉄道法に基づく玉南電気鉄道が府中駅 - 東八王子駅間を開業。軌間1,067mm。
  • 1926年(大正15年)12月1日 京王電気軌道が玉南電気鉄道を合併する。
  • 1927年(昭和2年)
    • 6月1日 玉南が開業した区間を1,372mm軌間に変更し、軌道法適用とする。
    • 12月17日 下仙川(現・仙川) - 調布間を甲州街道北側から南側の現在線に付け替え。
  • 1928年(昭和3年)5月22日 新宿駅 - 東八王子駅間の直通運転を開始。
  • 1931年(昭和6年)3月20日 御陵線(北野駅 - 御陵前駅間)が開通。
  • 1938年(昭和13年)6月1日 御陵線のライバル路線であった武蔵中央電気鉄道を買収、八王子線(横山車庫前駅 - 高尾橋駅間、後に高尾線と改称)となる。
  • 1939年(昭和14年)6月30日 高尾線を廃止。
  • 1944年(昭和19年)5月31日 陸上交通事業調整法により、東京急行電鉄に統合され、いわゆる大東急の一員となる。

帝都電鉄(小田原急行鉄道時代も含む)

一方、井の頭線は、鬼怒川水力電気系列の帝都電鉄株式会社が同社の渋谷線として1933年(昭和8年)8月1日渋谷駅 - 井の頭公園駅間を開業させ、1934年(昭和9年)4月1日吉祥寺駅まで全通させたものである。

元々、同社は1928年(昭和3年)9月24日に設立された鬼怒川水力電気系列の東京山手急行電鉄株式会社がそもそもの母体である。1930年(昭和5年)11月15日東京郊外鉄道株式会社と社名を変更して、1931年(昭和6年)2月1日には1927年(昭和2年)7月に設立されていた渋谷急行電気鉄道株式会社を合併し、同社が計画中の渋谷線を継承した。そして、1933年(昭和8年)1月19日に帝都電鉄株式会社に改称した。理由は1932年(昭和7年)10月1日に沿線町村のほとんどが東京市に合併されたことにより、「郊外」の社名がふさわしくなくなったからとされている。

また、同社は1935年(昭和10年)には乗合自動車事業も開始したが、1940年(昭和15年)5月1日付けで同じ鬼怒川水力電気系列の小田原急行鉄道株式会社に合併され、小田原急行鉄道帝都線となる。さらに1941年(昭和16年)3月1日には親会社である鬼怒川水力電気が小田原急行鉄道を合併し、小田急電鉄株式会社に改称、小田急電鉄帝都線となる。そして1942年(昭和17年)5月1日には陸上交通事業調整法の趣旨に則り、小田急電鉄株式会社は京浜電気鉄道株式会社と共に東京横浜電鉄株式会社に合併し、東京急行電鉄株式会社(いわゆる大東急)の一員となり、小田急電鉄帝都線は、東急井の頭線に改称される。

なお、大東急になる前の小田急電鉄は、主軸の電力部門を電力国家管理政策に基づき国家へ取り上げられた上、中華民国山東半島への鉱業進出が裏目に出て経営が悪化し、先行きが暗かった。加えて、経営者である利光鶴松が高齢を理由に、小田急の経営一切を自分が見込んだ東京横浜電鉄の五島慶太に託して引退。事実上同社に身売りした。当然この背後には陸上交通事業調整法に基づく戦時交通統制があるが、小田急電鉄の場合、京王電気軌道と異なりあくまで自主的に統合に加わったのであった。

略歴

  • 1927年(昭和2年)7月28日 渋谷急行電気鉄道株式会社が設立される。
  • 1928年(昭和3年)9月24日 東京山手急行電鉄株式会社が資本金3,400万円、利光鶴松代表の下で設立される。
  • 1930年(昭和5年)11月26日 東京山手急行電鉄株式会社が東京郊外鉄道株式会社に改称する。
  • 1931年(昭和6年)
    • 2月1日 東京郊外鉄道株式会社が渋谷急行電気鉄道株式会社を合併し、資本金3,800万円になる。
    • 7月 東京郊外鉄道渋谷線(渋谷駅 - 吉祥寺駅間)の工事が着工する。
  • 1933年(昭和8年)
    • 1月19日 東京郊外鉄道株式会社が帝都電鉄株式会社に改称する。
    • 8月1日 帝都電鉄渋谷線として渋谷駅 - 井の頭公園駅間開業。
  • 1934年(昭和9年)4月1日 井の頭公園駅 - 吉祥寺駅間が開業した。
  • 1935年(昭和10年)4月8日 東横乗合より乗合自動車路線を譲受(大宮八幡 - 久我山駅 - 牟礼 - 武蔵小金井駅間)。
  • 1940年(昭和15年)5月1日 帝都電鉄株式会社が同じ鬼怒川水力電気系列の小田原急行鉄道に合併される。
  • 1941年(昭和16年)3月1日 配電統制令に基づき主業を失った鬼怒川水力電気は小田原急行鉄道を合併、同社は小田急電鉄と改称する。
  • 1942年(昭和17年)5月1日 京浜電気鉄道と共に東京横浜電鉄に合併し、東京急行電鉄(いわゆる大東急)となる。

大東急時代

太平洋戦争中、京王線も井の頭線も、大東急の路線となった。

京王線は、東京急行電鉄京王営業局によって、井の頭線は東京急行電鉄渋谷営業局によって、それぞれ営業が行われた。しかし、戦局が悪化する中、京王線・井の頭線共空襲などで様々な被害を受けた。とりわけ井の頭線は永福町車庫が被災し壊滅に近い状態となった。また、京王御陵線は「不要不急線」と判断され、営業休止(事実上の廃線)に追い込まれた。

略歴

  • 1942年(昭和17年)5月1日 小田急電鉄株式会社が京浜電気鉄道と共に東京横浜電鉄に合併し、東京急行電鉄株式会社が成立。小田急帝都線は東急井の頭線となる。
  • 1944年(昭和19年)5月31日 京王電気軌道株式会社が東京急行電鉄株式会社に合併される。
  • 1945年(昭和20年)
    • 1月21日 東急御陵線(北野駅 - 多摩御陵前駅間)を休止。
    • 5月代田連絡線(代田二丁目(現・新代田) - 東急小田原線(現・小田急小田原線)世田ヶ谷中原(当時被災休止中、現・世田谷代田))使用開始。
    • 8月15日 京王線全線を軌道法に基づく軌道から地方鉄道法に基づく鉄道に変更を申請。
    • 10月1日 京王線全線が地方鉄道法に基づく鉄道となる。
  • 1947年(昭和22年)12月26日 東京急行電鉄株主総会が実施され、東京急行電鉄株式会社から京王帝都電鉄株式会社・小田急電鉄株式会社・京浜急行電鉄株式会社・株式会社東横百貨店が分離することが決定する。

京王帝都電鉄へ

太平洋戦争も終結し、京王線と井の頭線は、京王帝都電鉄株式会社の下で営業されることとなる。

元来、沿革の異なる両線が同一会社となったのは、京王線がまだ路面電車当時の設備のままで脆弱であったこと、また戦前の京王電気軌道のもう一つの主力であった配電事業が失われてしまっていたこと、東都乗合自動車(現・国際興業バス)・藤沢自動車(現・神奈川中央交通)・中野乗合自動車(現・関東バス)などのバス会社や観光事業であった京王閣などの有力系列会社が傘下から離れてしまったことなど、京王線のみの分離では戦前の京王電気軌道よりも経営基盤が弱くなり、独立が危ぶまれていたからである。

実際に井の頭線を路線に加えるように推進したのは、当時の東急京王支社長の職にあった井上定雄(後の京王帝都電鉄社長)であり、五島慶太はむしろこの案にためらったと言われる。京王線と井の頭線は沿線が重複し、合体することで強固な経営基盤が築け、また井上は帝都電鉄出身であったため、自分の案なら古巣の井の頭線の連中も十分説得できると自信を持っていたとされる。井の頭線は駅の過半数が京王線以北にあることから、多くの沿線住民にとって京王の管轄の方が便利でもあった。一方で、東急が後に発表する東急ターンパイク計画や田園都市線の延伸が小田急と競合するのを東急が嫌ったという見方もある。これは小田急関係者の反発を強めてしまう為、公式の理由にはなっていない。

東急からの譲受価格は総額5115万2800円で、東京横浜電鉄が戦前経営していた京王線以北の乗合バス路線も京王帝都電鉄が譲り受けた。このほか、初代社長に東横出身の三宮四郎が就任したこともあり(なお、新生小田急の初代社長は旧小田急出身の安藤楢六、京急初代社長は京浜電鉄出身の井田正一だった)、京王電気軌道の復活と言うよりは、新たな合併私鉄が誕生した趣きで再出発を期した。

それでも当初は経営状況が不安定だった(1948年度は現在の「大手私鉄」の中でも収益は最下位であった)が、1955年(昭和30年)の高尾自動車株式会社の買収を始めとしたバス事業に本腰を入れる様になると共に、1956年(昭和31年)の京王百花苑の開園や1959年(昭和34年)の京王食品株式会社(現・京王ストア)、1961年(昭和36年)の京王百貨店の設立など、沿線価値を上げる事業も開始した。

また、1960年代には、新宿地下駅の営業開始など、軌道線イメージからの脱却にも力を入れた。このほかに競馬場線多摩動物公園線高尾線相模原線の開業や、東京都交通局都営地下鉄新宿線との相互直通乗り入れ開始など、発展の道を歩んだ。

なお、1960年頃には、数多くの路線を建設しようしており、立川線(富士見ヶ丘駅 - 西国立駅)、三鷹線(富士見ヶ丘駅 - 三鷹駅)、両国線(新宿駅 - 神楽坂駅 - 飯田橋駅 - 九段下駅 - 東京駅 - 日本橋駅 - 浜町駅 - 両国駅)の3路線(路線名称は、いずれも計画時の仮称)を計画したが、いずれも実現しなかった。

略歴

  • 1948年(昭和23年)6月1日 1947年(昭和22年)12月の東急株主総会で決定した通り、京王線と井の頭線は京王帝都電鉄株式会社(資本金5000万円・従業員1,944名)の下で営業を開始する。
  • 1949年(昭和24年)9月27日 新宿駅 - 調布駅間で急行列車の運行を開始する(京王史上初の優等列車運行開始)。
  • 1953年(昭和28年)6月24日 株式会社京王帝都観光協会(現・京王観光)を設立し、観光事業を本格的に取り組む様になる。
  • 1955年(昭和30年)
  • 1956年(昭和31年)
    • 2月29日 奥多摩振興株式会社(現・西東京バスの一部)を買収する。
    • 6月16日 京王多摩川駅前に京王百花苑(1993年に閉鎖、2002年に京王フローラルガーデンAngeとして営業再開)を開園する。
  • 1957年(昭和32年)3月 百草園を買収する。
  • 1959年(昭和34年)9月1日 京王食品株式会社(現・株式会社京王ストア)を設立する。
  • 1961年(昭和36年)3月10日 株式会社京王百貨店を資本金2,500万円で設立する。
  • 1963年(昭和38年)
    • 4月1日 新宿地下駅運用開始。当初は4線あったが、後に8両編成運用開始にあわせて3線となる。
    • 8月4日 架線電圧を600Vから1,500Vに昇圧。
    • 10月1日 新宿駅 - 東八王子駅間で特急列車運転開始。
    • 10月1日 西東京バス株式会社を設立する。
    • 12月11日 東八王子駅を新宿方に120m移転し、京王八王子駅と改称。
  • 1964年(昭和39年)
    • 1月25日 井の頭線車両である3000系が1963年(昭和38年)度ローレル賞を受賞する。
    • 4月21日 京王線開業以来の運行上のネックであった中河原駅 - 聖蹟桜ヶ丘駅間の多摩川鉄橋が複線となる。
    • 4月29日 多摩動物公園線(現・動物園線、高幡不動駅 - 多摩動物公園駅間)が開通する。
    • 7月18日 京王線車両である5000系が1964年(昭和39年)度ローレル賞を受賞する(2年連続の受賞)。
  • 1966年(昭和41年)3月31日 関東交通株式会社と関東タクシー株式会社を買収し、タクシー事業へ進出する。
  • 1967年(昭和42年)10月1日 高尾線(北野駅 - 高尾山口駅間)が開通する。同時に新宿駅 - 高尾山口駅間の特急列車運行開始。
  • 1968年(昭和43年)
    • 1月1日 特急「迎光号」が新宿駅 - 高尾山口駅間の運行を開始する(毎年正月のみ運行)。
    • 5月11日 京王線に関東の通勤車では初、ロングシート車では日本初の冷房装置付き車両が入線、運行開始。
  • 1969年(昭和44年)
  • 1971年(昭和46年)
  • 1972年(昭和47年)5月29日 御岳登山鉄道株式会社を傘下に収める。
  • 1974年(昭和49年)
  • 1977年(昭和52年)11月 在籍車両が500両を突破する。
  • 1978年(昭和53年)10月31日 京王新線(笹塚駅 - 新線新宿駅間)が開通し、新宿駅 - 笹塚駅間が別線線増の形で複々線化される。
  • 1980年(昭和55年)3月16日 京王線・都営新宿線の相互乗り入れを開始する。
  • 1984年(昭和59年)
    • 3月21日 井の頭線が3000系で統一され、車両冷房化率100%となる。
    • 3月31日 京王・井の頭線全線の手・小荷物取り扱いを廃止する。
  • 1988年(昭和63年)
    • 3月14日 本社を新宿三丁目から聖蹟桜ヶ丘駅前に移転。
    • 5月21日 相模原線の京王多摩センター駅 - 南大沢駅間が開通する。
  • 1989年(平成元年)11月24日 現在使用している「KEIO」のCIシンボルマークが制定され、以後車両や駅などにこのロゴが貼り付けられる。
  • 1990年(平成2年)
  • 1992年(平成4年)
  • 1994年(平成6年)
    • 4月1日 全駅で喫煙所を除き禁煙化を実施。
    • 5月 京王線全線で弱冷房車を導入する。
  • 1996年(平成8年)
    • 1月9日 井の頭線用の車両1000系が運用開始。
    • 6月 井の頭線全線で弱冷房車を導入する。
    • 12月1日 京王線の車両である5000系が引退。
  • 1997年(平成9年)6月2日 公式サイトを開設する(当初、ドメイン属性が異なっている場合でも同一名称を認めないというドメイン取得ルール(第三レベルドメイン重複制限)により、keio.ac.jp(慶應義塾大学)が存在したためにkeio.co.jpが使用できなかった)。
  • 1998年(平成10年)7月1日 会社設立50周年を機に京王帝都電鉄株式会社が京王電鉄株式会社に改称する。

京王電鉄

1998年(平成10年)7月、京王帝都電鉄は、会社設立50周年記念として、京王電鉄株式会社へ改称した。

路線開通などはないものの、連続立体交差事業の推進を働きかけたり、パスネットPASMOの導入で積極的に機器の導入を行なう、待合室や新型ベンチを早くから導入するなど、「乗客が利用しやすい鉄道」を目指している。

略歴

  • 1998年(平成10年)7月1日 会社設立50周年を機に京王帝都電鉄株式会社から京王電鉄株式会社に改称する。
  • 1999年(平成11年)
  • 2000年(平成12年)
  • 2001年(平成13年)
    • 1月24日 京王線車両である9000系が運用開始。
    • 3月 全列車に「転落防止幌」を設置する。
    • 3月27日 ダイヤ改定が実施され、京王線平日深夜時間帯に「女性専用車」が導入される。相模原線の特急が急行に種別変更され、準特急が新宿 - 高尾山口間を中心に運行されるようになった。
    • 6月22日 京王線に史上初の女性車掌が登場する。
    • 10月1日 京王線車両である9000系と飛田給駅舎が(財)日本産業デザイン振興会のグッドデザイン賞を受賞する。
    • 11月6日 国土交通省より認定鉄道事業者の認定を受ける(JR以外の企業では史上初)。
  • 2002年(平成14年)
    • 3月 「列車運行情報サービス」を開始する。
    • 8月1日 京王電鉄バス株式会社に京王電鉄が所有していたバス事業に関する経営権を引き継がせる。これにより京王電鉄自体はバス事業から撤退する。
    • 10月 京王線車両の車体の帯を「臙脂帯」から現行の「ピンクと紺色の2色帯」に統一する。なお、鋼製車の車体の地の色はグリーン車の消滅した1984年(昭和59年)以来全車アイボリー地、ステンレス車は無塗装(先頭部を除く)である。
    • 12月21日 主要駅にて「無線LANサービス」を開始する。
  • 2003年(平成15年)
  • 2005年(平成17年)6月29日 英文社名をKeio Electric Railway Co.,Ltd.からKeio Corporationに変更。
  • 2006年(平成18年)
    • 1月23日 従来より設置していた「優先席」の数を増設し、同時にその周辺を「おもいやりぞーん」とすると共につり革がオレンジ色の三角型になる。
    • 6月 京王井の頭線の1000系3次車が全検を受けた際、車両の両端が全席、初めて青色に統一される。
  • 2007年(平成19年)
  • 2008年(平成20年)

路線

京王電鉄は、6路線84.7kmの鉄道路線を有するが、先述した通り、大きく分けて京王線系統と井の頭線の2つのグループから成っている。1975年昭和50年)5月阪神電気鉄道北大阪線国道線甲子園線を廃止するまで、当時の京王帝都電鉄の営業キロ75.8kmは、大手私鉄の中で営業キロ数がもっとも短かった。

thumb|none|500px|停車駅表 [[ファイル:京王電鉄050.jpg|thumb|none|500px|Template:ランドサットにのせた京王電鉄の路線]]

京王線系統

京王線系統の軌間は1,372mmのいわゆる「馬車軌間」である。これは京王線系統の元となった京王電気軌道が地方鉄道法ではなく軌道法によって建設されたことに起因する。つまり、京王線は路面電車由来の路線であり、これが都電荒川線東急世田谷線といった軌道法に準拠して建設された鉄道と同様の軌間を持つ理由である。

なお、この軌間を持った大手私鉄は過去には京成電鉄京浜急行電鉄(当時は京浜電気鉄道)が存在した。これも軌道線を出自に持つ鉄道である。いずれにしても、これらは馬車軌間であった東京市電への乗り入れを考慮しての軌間の選択ということができる。ただし京王線と東京市電の接続はなかったが、戦時中に下高井戸駅で現東急世田谷線(当時は玉川線支線)と京王線を接続して物資輸送を行ったことがある。

関東大震災時に車両が大量に被災した横浜市電向けに京王電軌より旧型単車車両の譲渡が行われているが、当時馬車軌間で共通していた京王電軌 - 東京市 - 京浜電鉄 - 横浜市の間で自走により回送された記録がある。この際も東京市側に車両を転線するには、両線の線路の接近した交差点で惰性を付けて道路上を走らせ(脱線させ)転線したという。

1950年代になり、監督官庁からの要請や、都営新宿線乗り入れに向けて標準軌 (1,435mm) に改軌することも検討され、1960年代に製作された5000系2010系車両は、標準軌対応台車の採用など、標準軌への改軌を考慮した設計がされていた。実際京成電鉄では浅草線との直通のため改軌を行ったが、一方で京王では莫大な費用が掛かることや、長期の輸送力低下を必要とし、仮に夏期休暇時などの輸送需要が低下する時に施工したとしても需要を満たすだけの輸送力を確保できないなどの問題点もあり、実現は困難であった。そのため、都営新宿線を京王線に合わせて1,372mm軌間で建設することになった。

現有路線

廃止路線

  • 御陵線:北野駅 - 多摩御陵前駅(6.2km)(北野駅 - 山田駅間は現・高尾線と同じ路線)- 1945年1月21日休止、1964年11月26日廃止
  • 高尾線(軌道線):八王子駅前駅 - 高尾橋駅、東八王子駅前駅 - 横山町駅(計8.4km)- 1939年6月30日全線廃止

井の頭線系統

帝都電鉄に由来する井の頭線の軌間は、狭軌の1,067mmである。

現有路線

廃止路線

車両

京王線・井の頭線とも通勤・通学輸送に特化している事情から、1948年の発足以来、導入車両はすべてロングシート車のみである。戦前、京王電軌時代にはクロスシート車として150形(後のデハ2150形)が運用されていたが、戦時中にロングシートに改造された。また5000系にも特急車両としての設備からボックス席を設ける構想が何度かあったが、ラッシュ対策で見送りになっている。所有車両が全車ロングシートなのは大手私鉄では京王電鉄だけである。

相模原線の若葉台駅、京王線の桜上水駅高幡不動駅、井の頭線の富士見ヶ丘駅の4か所に車両基地が設けられており、桜上水駅以外のそれぞれに併設している検車区で管理・修繕を行っている。なお全般・重要部検査及び大規模な修理や改修の業務は若葉台駅にある若葉台工場にて行っている。井の頭線車両についても富士見ヶ丘検車区内の若葉台工場富士見ヶ丘作業場で車両の機器を取り外して、車体等は富士見ヶ丘で、それ以外はトラックで陸送して若葉台で行われる。若葉台工場は京王電鉄内の事業子会社化に伴い、子会社の京王重機整備の施設としても稼動している。

都営新宿線でのATC機器との干渉のため、インバータ制御車の新宿線への乗り入れはできなかったが、2005年5月のデジタルATC化に伴い解禁され、2006年3月よりそれまでの6000系(6030番台)8両編成、8両+2両の10両編成に加えて9000系(9030番台)の10両編成が直通運用に当たっている。

2009年12月現在、事業用車を除くと京王線用734両、井の頭線用145両、計879両を保有する。各系列の詳細、使用線区、運用などについては、それぞれの記事を参照されたい。

電動車は運転台の有無に関わらず「デハ」を用いる。これは東京急行電鉄と合併した大東急時代に定められたもので、合併した他社も同様である。なお、制御車(制御付随車)は「クハ」、付随車は「サハ」を用いる。

京王線系統の車両は、乗り入れの都営車を含めて全先頭車に密着連結器電気連結器を装備する。1967年(昭和42年)の高尾線開通に伴う分割特急開始時に5000系に装備したのが始まりである。井の頭線車両は密着自動連結器を装備する。

集電装置は菱形パンタグラフまたはシングルアーム形パンタグラフで、営業用車両において下枠交差形の採用はない<ref>総合高速検測車の検測用パンタグラフには下枠交差形が採用された</ref>。1000系、3000系、8000系で長期に渡りシングルアーム形を試験搭載していた後、9000系から本格採用され、近年では従来車に対しても交換が進んでいる。過去には京王線系統での高速運転時の集電性向上を目的として、井の頭線3000系と京王線系統の車両でパンタグラフの交換が行われたことがある。

前照灯は現在では終日点灯である。急行系列車では、新宿線内も含め先頭車は通過標識灯(急行灯)を点灯させる。点灯する場合は種別に関わらず左右両側点灯である。なお、ダイヤ上通過運転をする区間で点灯させるため回送列車でも点灯列車もあり、また信号システム上は「普通列車」として運行する快速列車・通勤快速列車の相模原線内と京王線府中以西、急行系列車の京王新線内では標識灯を消灯する。 ちなみに、京王電鉄では各停以外の種別を急行系列車と呼び、優等列車とは呼ばない。

現在使用されている車両の運転台は、3000系を除き乗り入れ車を含め力行4段・常用制動7段のT型ワンハンドルマスコンに統一されており、3000系以外はATS照査速度(低速域を除く)が速度計の周りに表示される。9000系、1000系11編成以降の新造車は高運転台構造となっている。動物園線・競馬場線列車を除き、営業列車の先頭に立つ運転台には原則としてTNS(トレインナビゲーション装置)というディスプレイ装置が設置されており、次の停車駅等を表示する。この画面にはアナログ表示の時計も表示される(TNS導入の経緯については京王8000系電車の運転台の節を参照のこと)。遮光幕はすべての乗務員室仕切り窓に設置されている。電気笛は京王線と井の頭線で異なるタイプを使用している。空気笛(タイフォン)は、上りと下りで音階が異なる(下りの方が高い)。

2009年現在在籍している車両は、以下のような系列となっている。なお、2010年度までの全線のATC化と全車両のVVVFインバータ制御化が予定されていて、6000系と3000系は今後廃車されることになっている。

現用車両

京王線系統

営業用

事業用


井の頭線


過去の車両

京王線系統

営業用

事業用


井の頭線

付番方法

十位と百位は1000系(初代)・2000系(2代目)以降、以下のように分類される。

  • 百位
    • 0 - 4:電動車
      • このうち1000系(初代)・2000系(2代目)の百位0、5000系の百位1、6000系・7000系の百位4は制御電動車、および制御電動車とユニットを組む車両。
    • 5 - 6:付随車
    • 7 - 8:制御車
  • 十位
    • 0 - 4:電動車は主制御装置搭載。制御車は新宿・吉祥寺方。
    • 5 - 9:電動車は主制御装置搭載車とユニットを組成。制御車は八王子・渋谷方。8000系までの付随車は補機搭載。ただし、例外的に5070系のデハ5070形は新宿方制御電動車。

系列によっては20番台や30番台が存在するが、それについては各系列記事を参照されたい。

優先席

thumb|right|250px|「おもいやりゾーン」(6000系車内) 8000系1次車まではシルバーシートと呼称され、位置も下り方(井の頭線は上り方)の車端部だった。5両編成以下は編成内1か所、6両編成以上は編成内2か所だったが、複数編成が組み合わさった場合はこの限りではなく、例えば6両編成と4両編成が合わさった10両編成は3か所となる。

参考(各系列ごとの設定車両)
3000系:デハ3000形
5000系:5013Fまではデハ5050形、5014F以降はデハ5000形
5100系:5112Fまではクハ5850形(運転室直後の座席)、5113F以降はデハ5150形
6000系:2両編成はデハ6400形、3両編成と5両編成は上り方2両目、8両編成は上り方2・5両目
7000系:上り方2・5両目(この当時は6両編成と8両編成しか存在していない)
8000系:4両編成は上り方2両目、6両編成は上り方2・5両目

8000系2次車より、各車両に設置されるようになった。この頃より、シルバーシートから優先席へと呼称が変更されている。同時に車外のステッカーも当該部分の窓上(7000系と8000系は車端部)から当該部分の戸袋とドアの間に変更されたため、サイズも小さくなっている。設置場所も現在と違って、奇数号車は上り方海側(下り列車の進行方向左手サイド)車端部、偶数号車は下り方山側(下り列車の進行方向右手サイド)車端部である<ref>ちなみに直通する東京都交通局の車両では、以前から優先席の位置は2両1組で中心の連結部をはさんだ各車両の車端部(東京都交通局では全路線でこのような扱いがなされている)となっているが、こちらは奇数号車は上り方山側車端部、偶数号車は下り方海側車端部と逆になっている</ref>。既存車も随時このパターンへと変更されたが、当然のことながら3両編成・5両編成ではパターンが異なる。

2000年8月より、優先席付近を携帯電話OFF区域とするのに合わせて、従来の優先席の向かいの座席も優先席となる。

2006年1月から優先席を先頭車の運転台部分を除く各車車端部に拡大し、同時に優先席付近一帯を「おもいやりぞーん」とした。合わせて吊輪のオレンジ色化、室内側の壁や窓にステッカー貼付、車外ステッカーの拡大と位置変更(戸袋あり車両は戸袋部に貼付)が行なわれている。

車両基地

京王電鉄の車両検修施設を参照のこと。

運賃

大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2004年12月1日現在。

キロ程運賃(円)
初乗り4km120
5 - 6km130
7 - 9km150
10 - 12km170
13 - 15km190
16 - 19km230
20 - 24km270
25 - 30km310
31 - 36km330
37 - 43km350
44 - 48km370

相模原線京王多摩川 - 橋本間を利用する場合(他の区間にまたがる場合も含む) は当該区間の乗車キロに応じて以下の加算運賃がある。

キロ程運賃(円)
1 - 8km10
9 - 13km20
14 - 16km40
17 - 19km60
20 - 22km80

割引乗車券

また、山手線西側に発着する鉄道として、西武鉄道とともに東京地下鉄線内フリーの“○○東京メトロ”パスの発行・発売がない。

提携など

グループ企業

京王グループを参照。

その他特記事項

ダイヤ

  • 京王電鉄ではダイヤ改正のことを「ダイヤ改定」と呼ぶ。改めたダイヤが利用者すべてに正しいダイヤとは限らない等の理由からである。長らく京王のみが「ダイヤ改定」と呼称していたが、2006年以降は京阪電気鉄道でも「ダイヤ改定」と呼称している。
  • 現在は京王線・井の頭線で同時にダイヤ改定が行われているが、1990年代までは別々に行われたことがしばしばあった。
  • 2006年8月31日までのダイヤにおいて、平日ダイヤと土休日・祭日ダイヤのほかに土休日・祭日シーズンダイヤも存在した。シーズンダイヤは4 - 6月・9 - 11月に設定され、都内でも貴重な自然の残る高尾山への行楽客向けや、この時期にほぼ毎週GIレースが行われる東京競馬場への観戦客向けとして利用客を見越した時間帯に臨時列車を運行していた。現行の高尾線方面のダイヤでは、土休日の下り列車はほぼ終日で新宿方面から準特急として北野駅まで運行し、北野以西各駅停車に種別変更し高尾山口へ直通する系統と京王八王子行きの準特急(北野駅の同一ホームで各駅停車高尾山口行きに接続)の交互の運転に、上り列車は早朝1本を除くほぼ終日で、高尾山口から北野まで各駅停車として運行、北野以東準特急新宿行きに種別変更し直通する系統と、各駅停車新宿行き(北野駅で京王八王子発の準特急に乗り換えることによって新宿方面に先着可能)を交互に運行するダイヤに改められている。競馬場線関係では、東京競馬開催時の一部時間帯に下り準特急列車を東府中駅に臨時停車させたり、メインレース終了後に府中競馬場正門前駅発新宿行き(一部新線新宿行き)の臨時急行の運転を行っている。
  • 以前は休日ダイヤの下り特急・急行で高幡不動で切り離しが行なわれていたため、相互の行き先の車両内を識別するため、吊り輪の色を白と緑の2色に分け、車内放送でも「前x両の白い吊り輪の車両が○○行き、後y両の緑の吊り輪の車両が●●行きです」とアナウンスしていた。

特急列車

thumb|200px|right|「迎光EXPRESS かがやき」 thumb|100px|right|過去に運転していた行楽特急のヘッドマーク各種

  • 京王線と高尾線では通勤車による特急(過去には相模原線も)と準特急を運転しているが、特急料金は不要である。
  • かつては行楽特急列車に「高尾」(高尾山口行き)と「陣馬」(京王八王子行き)の愛称を付与していたが、現在はその愛称はない。これに代わって最近では「迎光EXPRESS かがやき」が年末年始終夜運転時に運行される。
  • 最高速度は京王線が1971年4月に95km/hから105km/hとなったのち、相模原線が1997年12月に、京王線調布駅 - 京王八王子駅間が2001年3月にそれぞれ110km/hに引き上げられている。

保安装置

  • 全線に渡って独自のATS(多変周式信号ATS)を採用している。信号現示における速度制限は、絶対停止0km/h・警戒25km/h・注意45km/h・減速75km/h(井の頭線は70km/h)、進行の5種類で、制限速度はATCのように速度計の外周に表示される。絶対停止で停車した場合、確認スイッチを操作することで最高15km/hで走行が可能になる。この確認スイッチは絶対停止用のもので、前方の信号機の現示が上位しても地上子を通過するまでは照査速度を変えることは出来ない。
  • 運転保安度向上の一環として京三製作所製<ref>東京都議会公営企業委員会速記録第九号</ref>のATCの2010年度までの導入が決定し、設置工事が行われている。近隣の鉄道では同時期に東武鉄道東武東上本線より順次ATC化される。

連続立体交差化事業

  • 京王電鉄は他の大手私鉄に比べて交通量の多い道路との立体交差化が比較的早期に実施されている。比較的近年に建設され、全線が立体交差の相模原線と小規模な踏切1か所のみの高尾線を除く京王電鉄の高架駅8駅のうち、5駅は1960年代から1970年代にかけて既に高架化されている。
  • 現在は京王線柴崎駅 - 西調布駅間と相模原線調布駅 - 京王多摩川駅間において線路を地下化する連続立体交差事業が進んでいるほか、2008年度より京王線代田橋駅 - 八幡山駅間についても連続立体交差事業が新規着工準備区間として認められ、高架化が検討されている。

運賃値下げ

  • 1997年12月28日戦後初の運賃実質引き下げを行った。特定都市鉄道整備積立金による特定都市鉄道整備事業の完了のため、積立金分を取り崩して運賃を改定したことで、実質全区間で値下げとなった。積立金の還元は2007年12月28日まで行われ、制度の趣旨からは還元終了時に通常運賃に戻す値上げを行うことで帳尻を合わせる仕組みとなっている。しかし、2006年度の会社要覧からは還元終了時に関する記述が変更され、「値上げ」の表現が使われなくなったほか、2007年12月28日を過ぎても運賃改定に関する発表はされていない。なお、運賃を据え置くことに関しては運賃制度上の申請等は不要である。運賃値下げ時と同じくして、渋谷駅の再開発費用の増大により事業費が当初計画より増加し、一定の率での値上げ要素が存在したが、その分は経営努力で補うとし、京王の判断で組み込まれなかった。

女性専用車両

  • 中央線における「婦人子供専用車」の1973年の廃止以後で、全国に先駆け女性専用車両を復活させた。2000年12月7日に試行的に導入され、2001年3月27日ダイヤ改定以降本格的に導入された。新宿駅を23:00以降に発車する急行系の列車で実施されている。その後2005年5月9日からは平日の朝(新宿駅新線新宿駅に7:30 - 9:30に到着する準特急・急行・通勤快速)・夕方・夜(新宿駅を18:00 - 22:40に発車する特急・準特急)・深夜(新宿駅を22:50以降に発車する急行・通勤快速・快速)にも拡大されている(当面は試験導入。また任意協力であり、男性の利用も可能)。

CM・ドラマ撮影

  • 沿線に多くの撮影所芸能事務所がある関係から、他の私鉄路線と比べてその方面の需要もあり、京王電鉄としての宣伝効果が期待できるという側面もあるため、京王線では色々な広告CMドラマの撮影が行われている(ただし撮影数が他社より大幅に多いものの、最初に鉄道敷地内での撮影を認めたのは京王ではなく京成電鉄である。京成も特定の映画関連の撮影の需要が高い)。撮影に駅を用いる場合は、普段乗客の少ない府中競馬正門前駅多摩動物公園駅などで行われることが多い。また、撮影用の臨時列車回送列車を含める)を運転することもある。原則として車内や構内での撮影の場合は許可を要し、また有料であるが、特に京王が認めた場合は無料で行うことができる。
  • 沿線にサンリオピューロランドがある関係でドアの下部に貼付している警告ステッカーには1997年からハローキティを起用している。上記のように撮影に使用された場合は版権上修正処理がなされるか、一時的にステッカーを剥がす場合が多い。

方向幕・ヘッドマーク

  • 過去には京王八王子行きと橋本行きの調布駅での分割運用も想定していたようで、一部車両の方向幕には「京王八王子・橋本」の表示が存在するが、実際に営業で使われたことは一度もない。

thumb|right|200px|交通安全運動のヘッドマークを付ける8000系

  • 列車に取り付ける特製のヘッドマークの取付が、西武鉄道京阪電気鉄道と並んで多い。年4回程度、季節に合わせた交通安全運動のヘッドマークを取付けたり、イベント開催時に特製のヘッドマークを取付けることがある。

広報施設・資料館

競馬

イメージキャラクター

  • 現在PASMOと京王パスポートカード(京王グループのクレジットカード)の特典や、乗客へのマナー川柳コンテストのイメージキャラクターに、漫画家やくみつるによるイラスト(自画像が使われることもある)が用いられ、車内中吊りや駅の掲示板で見ることができる。2007年3月 - 4月にかけて展開された京王パスポートカードの広告ではシェイクスピアナポレオン坂本龍馬武田信玄など歴史上の人物に扮したイラストになっている。

駅係員・乗務員

  • 一般の駅係員乗務員の制帽は線を入れておらず、指導職の制帽は銀線1本を入れている(駅係員の場合、運転取扱者の資格があると顎紐ボタンが赤色である)。また、駅(京王電鉄の場合、何駅かを1グループにまとめて管区という)の主任助役・副区長・区長といった管理職・現業長の制帽は乗務員から見て運転取扱者とわかるように赤帯が巻かれている。主任は銀線2本、助役・副区長は金線1本、区長は金線2本を入れている。なお、乗務員(車掌運転士)が所属する乗務区の管理職・現業長の場合は運転取扱者ではないため、赤帯を省いた形で制帽に入れている線のみで職制を表している。制服は駅係員・乗務員ともに同じものを使用しており、一般職・指導職・主任・助役はシングルスーツ、副区長・区長はダブルスーツを着用している。また、一般職の袖章は細い灰色の線を1本入れており、指導職以上の職制の袖章は制帽と同じ線を入れている。

脚注

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関連項目

外部リンク

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