京急1000形電車 (初代)

出典: Wikipedio


Template:半保護 Template:鉄道車両 京急1000形電車(けいきゅう1000がたでんしゃ)は、1959年昭和34年)12月に登場し、1960年(昭和35年)1月13日に営業運転を開始<ref>『京浜急行80年史』による。</ref>した、京浜急行電鉄通勤形電車2002年平成14年)4月15日京急1000形電車 (2代)登場以降、識別のため旧1000形と呼ばれることがある<ref>よくあるお問い合わせ「 京急の車両は,どんな種類がありますか? 」</ref>。

本項では、京急車両工業(現・京急ファインテック)を通してリースされた京成電鉄1000形電車北総開発鉄道(現・北総鉄道)7150形電車並びに千葉急行電鉄1000形電車についても記述する。

目次

概要

Template:Sound 本形式は東京都交通局都営地下鉄)1号線(現・浅草線)乗り入れ用として計画され、乗り入れ開始に先立つ1959年に製造を開始、1978年(昭和53年)までの19年間で旧デハ800形・850形からの編入車を含めて356両が製造された。

製造期間と使用期間が長期にわたるため、非常に多くのバリエーションが存在する。

1968年(昭和43年)までの製造車では車体製造者により台車が異なり、電装品の製造者により駆動方式、歯車比、電装構成が異なっていたが、1971年(昭和46年)以降の製造車ではこれらが製造者に関わらず統一されている。

全車電動車の2両1ユニットで構成、M1系車に主制御器、M2系車に補器類を搭載する。編成構成の自由度が高いことを活用し、1970年代から2000年代に至るまで頻繁な編成替えで需要の変化に対応してきた。

1968年6月21日から都営1号線との相互乗り入れ開始以降長らく直通運用に使用され、都営浅草線・京成電鉄北総鉄道北総線の各線にわたり広く運用されたが、2008年11月7日に乗り入れ運用を終了し、2008年平成20年)現在は京急の各路線で使用されている。

運転台の有無や搭載機器に関わらず、356両すべての車両形式が「デハ1000形」であるため、単一形式としては私鉄最多製造車両である<ref>1系列での私鉄最多両数は東武鉄道8000系の712両である。</ref>。

長期にわたって京急を代表する通勤車両として利用客や鉄道ファンから親しまれてきたが、経年による老朽化の進行に伴い、新1000形などの省エネルギー車による置き換えが進んでいる。非冷房で落成した車両はすでに全車廃車され、2008年時点では冷房付きで落成した後期車の廃車が進行している。

特記のない限り以下の文中では各種文献に倣い、京急本線上で南側を「浦賀寄り」または「浦賀方」、北側を「品川寄り」または「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼ぶ。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で代表する。また、「1000形」は本形式、「新1000形」は2002年(平成14年)登場の1000形(2代)、「800形」は1978年(昭和53年)登場の800形(2代)、「700形」は1967年(昭和42年)登場の700形(2代)、「600形」は1994年(平成6年)登場の600形(3代)を差すものとする。

外観

全長18m、幅1,200mmの片開き3扉、ドア間窓3枚、車端部窓2枚、運転台後部窓1枚。

初期の車両は前面非貫通型で登場したが、1961年(昭和36年)からは構造基準改定に対応して前面貫通型に、1963年(昭和38年)からは方向幕などが独立した窓に収められた形態に変更された。非貫通型と初期の貫通型も後に貫通型・独立方向幕窓に改造されている。客用窓は2段上昇式とされ、当初は全開することが可能だったため保護棒が取り付けられていたが、同様に構造基準改定により下段窓の上昇幅が150mmに制限されたため、これに対応して下段窓の上昇幅を一部を除いて90mmとし、保護棒は撤去された。冷房車の下段窓は当初固定式だったが、1977年(昭和52年)以降の製造車は非冷房車同様に上昇式とされ、既存車ものちに同様に改造された。戸袋窓はHゴム支持の固定式である。奇数番号車のドアは品川方に向かって開き、偶数番号車はこの逆に開く。M1車系に主制御器、パンタグラフ、M2車系に補器を搭載している。

内装

内装色は、当時製造中だった日本国有鉄道(国鉄)101系電車などと同様に壁がオリーブグリーン、天井が白、座席が青、床色が薄緑。座席はロングシート。非冷房車は丸屋根で換気装置はファンデリア(A - Dグループ)、首振り扇風機(Eグループ)、Cグループの更新後はラインデリア。冷房車は平天井。各グループ更新前はアルミサッシ室内のRなど製造者による細かい相違が見られた。

主要機器

各グループの区分については後述する。

主電動機

  • Aグループ:東洋製TDK-810A (75kW) →TDK-815A (75kW)
  • B/Cグループ:東洋製TDK-810/6H (75kW) または三菱製MB-3058A (75kW)
  • D/Eグループ:東洋製TDK-815A (75kW) または三菱製MB-3058BC (75kW)
  • Fグループ:東洋製TDK-815/1B (75kW/90kW)

駆動方式・歯車比

主制御器

電動カム軸抵抗制御方式、直列10段、並列6段、弱め界磁5段。弱め界磁制御を広範囲(最弱め界磁率25%、90kW車は20%)で使用する。

  • Aグループ:東洋製ACDF-H875-560C
  • B/Cグループ:東洋製ACDF-H875-566Bまたは三菱製ABF-108-15-MDHB
  • D/Eグループ:東洋製ACDF-H875-703Bまたは三菱製ABF-108-15-MDHC
  • Fグループ:三菱製ABF-128-15-MDHC

台車

  • TS-310系(東急車輛製造製、コイルばね、鋼板溶接ウイングばね式)
  • TS-313(東急車輛製、大心皿支持空気ばね、鋼板溶接ウイングばね式)
  • TS-811(東急車輛製、大心皿支持空気ばね、鋼板溶接軸箱式)
  • OK-18系(川崎車輛/川崎重工業製、コイルばね、鋼板溶接軸梁式)
  • OK-22(川崎車輛製、大心皿支持空気ばね、鋼板溶接軸梁式)
  • TH-1000(東急車輛、川崎重工製、空気ばね車体直結ウイングばね式)

集電装置

M1系車に搭載。Aグループ登場時、B/CグループM1U車は浦賀寄り、それ以外は品川寄りに搭載。

補助電源装置

下記電動発電機をM2系車に搭載。

  • A-Cグループ:東洋製 TDK-315 (DC7.0kW)または三菱製 MG-54D-S (AC3.0kVA DC3.5kW)
  • D/Eグループ:東洋製 TDK-365 (AC7.5kVA)または三菱製 MG-131 (AC7.5kVA)
  • Fグループ:三菱製 MG-111系 (AC75kVA)
  • 冷房改造車:東洋製TDK-3735系 (AC75kVA)または三菱製 MG111系 (AC75kVA)

空気圧縮機

下記空気圧縮機をM2系車に搭載。

  • A-Cグループ(1017編成を除く) :A-2 レシプロ式
  • 1017編成:A-3 レシプロ式、のちにAR-2 回転翼式
  • D-Fグループ: AR-2 回転翼式

空調装置

  • Fグループ:屋上集中式(能力36,000kcal/h、製造時は三菱CU-71系または日立製作所FTUR-550-206/209系、後に東芝RPU-11009も搭載)1基
  • B - Eグループ冷房改造車:集約分散式(能力8,500kcal/h、東芝RPU-2209系)4基<ref>集約分散式冷房装置分散式冷房装置での定義に従うと、冷気ダクトの有無が両者を峻別する。本形式の場合パンタグラフ下部にのみダクトがあるため、どちらに分類するべきかは判断が分かれている。</ref>

製造年式およびその差違

本形式では、製造年やその設計変更により鉄道雑誌などでは下記の6グループに分けられるが、公式なものではない<ref>1987年発行の『京急ファン』通巻101号でこれに近い7グループへの分類が初めて使われ、その後同誌関係者が執筆した『鉄道ピクトリアル』増刊号で6グループへの分類がなされたため、趣味者の間でこの分類が定着した。</ref>。A - Eグループの電装品は東洋と三菱が独自に設計したものが使用され、それぞれを混成してユニットを組むことができない。駆動方式も異なっている。また、車体製造者が設計した独自の台車(東急製:TS310系・川崎製:OK-18系)を装着し、原則として東急製の車両には東洋製電装品、川崎製の車両には三菱製電装品が装備されたが、一部に川崎+東洋の組み合わせが存在した。各製造時で東急製と川崎製の比率がほぼ1:1となるよう製造されたため、両社製が混在する編成や、1編成内に2種類の電装品を持つものも存在した。

製造が長期にわたるため、並行して行われた改造工事なども併せてまとめる。

Aグループ

1958年に本形式の試作車としてデハ800形・デハ850形の車両形式で4両が製造された。編成構成は浦賀寄りにデハ800形、品川寄りにデハ850形を連結した2両編成でデハ800形の運転台側にパンタグラフを搭載した。製造当初は当時の流行に倣い、前面が700形(初代)などのように非貫通・2枚窓のいわゆる湘南電車スタイル、600形(初代)全金車とほぼ同形の車体だが、ドア幅が1,200mmに拡張されている。扉配置がやや運転台寄の前後非対称で、主要機器、性能は700形(初代)と同一。車体幅が量産車に比べて80mm狭く、貫通路幅がBグループ以降の1,100mmより狭い1,000mmとなっていた。

製造時は700形(初代)と同一の補償巻線無し東洋電機製造製TDK-810A主電動機を搭載していたが、1958年末には東洋製補償巻線付きTDK810/3-Eを搭載し、翌年1月に公開試験を実施した。1963年には回生ブレーキの試験に使用されるなど、各種試験のテストベッドとなった。

この4両は1965年(昭和40年)10月に1000形(デハ1095 - デハ1098)に改番し、1966年(昭和41年)には主電動機を交換、量産車と性能を揃えた。1968年前照灯シールドビーム化と正面に行先・種別表示器、側面に種別表示器を設置、1973年(昭和48年)には都営1号線への乗り入れに備えるために前面に貫通扉を設置、内装の張り替え、列車無線アンテナ搭載に伴うパンタグラフ位置の品川方への変更、貫通路幅の拡大及び妻面窓の外側への移設、運転台拡張に伴う運転台直後の窓の連結面側へ100mm移動、内装の全面的張替え、換気装置の首振り扇風機化などの工事が行われた。

このグループは冷房改造されずに1988年(昭和63年)に廃車となり、機器がデハ1095とデハ1096の部品はデト11・12へ、デハ1097とデハ1098の部品はデチ15・16へそれぞれ転用された。

Bグループ

画像:Keikyu1001Mimamiota.jpg
1000形1001編成(1988年8月、南太田駅にて撮影)

1959年から1960年(昭和35年)にかけて製造されたデハ1001 - デハ1048の4両編成12本が該当する。車体幅が80mm拡大されて2,780mm(最大幅2,798mm)となり、連結面後退角の縮小により扉配置が前後対称となった。製造当初より前照灯はシールドビームである。Aグループにおける試験結果から、主電動機を低回転、補償巻線付き仕様に変更した。2両1ユニットを背中合わせに組み合わせたM2U-M1U-M1S-M2Sの編成を組み、両先頭車がM2系車とされたため、2両編成とすることができない。

Aグループと同様に非貫通・2枚窓で製造されたが、1969年(昭和44年)から1972年(昭和47年)にかけて朝ラッシュ時の10両編成運転拡大による2両編成の需要増加に対応するため、D・Eグループ6両編成を2両編成化して中間車をBグループに組み込み、Bグループ先頭車を正面貫通扉付きに改造した上、6両編成化して地下鉄乗り入れ運用に充当する工事が行われた。先頭部形状は当時製造されていたEグループと同様とされたが、アンチクライマー最下段が半分切り欠かれたものとなっていた。この工事に合わせ、室内電装系の交流電源化、ファンデリアの撤去と首振り扇風機化、客室蛍光灯カバーの撤去、側面種別表示器の設置が行われた。初期に改造された4編成は種別表示器が他車よりも低い位置にあった。屋上のモニタールーフは撤去され、Eグループと同様に狭幅のFRP製カバーが設置された。また、最後に改造された4編成は内装の張り替えも行われ、この4編成のみ久里浜工場の更新銘板が取り付けられていた。

その後1979年(昭和54年)から1984年(昭和59年)にかけて冷房改造が施工された。冷房改造については別項を参照。本グループでは1001編成を除く三菱製電装車は冷房改造に際して主抵抗器を車両中央部から海側に移設している。

1017編成は台車の枕ばねに空気ばねを試験採用(東急TS-313形・川車OK-22形)しており、空気ばね採用による空気使用量増加のため、空気圧縮機がBグループ他車のA-2形に対しA-3形を搭載していた。後にDグループ以降と同じAR-2形に載せ換えられている。

1988年から廃車が始まり、一部は高松琴平電気鉄道(12両)と北総開発鉄道(現・北総鉄道、1962年製の12両を含む16両)に譲渡されたが、後者はすでに廃車となった。京成電鉄にも8両がリースされ、後に4両が返却・廃車され、残りの4両が千葉急行電鉄(現・京成千原線)へも再リースされたが、これもすでに廃車となった。

Cグループ

1961年(昭和36年)から1962年(昭和37年)にかけて製造されたデハ1049 - デハ1068の4両編成5本・デハ1069 - デハ1078の2両編成5本・デハ1101 - デハ1130の6両編成5本が該当する。これらは落成当初から前面に貫通扉を設けているが、方向幕窓などが設けられていなかったため、前面のスタイルは次項のDグループで確立されたものとは異なっていた。

1961年製造車は4両編成・2両編成各5本で、製造当初行先・種別表示器がなかった。1966年から1967年(昭和42年)にかけて正面窓内側上部に行先・種別表示器、側面に種別表示器を設置した。4両編成はBグループと同様の「背中合わせ」ユニット、2両編成では本形式量産車で初めてM1系の先頭車が製造された。

1962年製のデハ1101 - デハ1130(C2グループ)の6両編成5本は2両単位で組み替えできるように浦賀方先頭車が主制御器搭載のM1系とされ、M2系の中間車が初めて製造された。製造当初から正面窓内に明朝体フォントの行先・種別表示器、側面にはネオン管式種別表示器を設けた。ネオン管式種別表示器は視認性が悪く、故障が多かったことから、後にゴシック体幕式に改造された。このグループは京急で初めての6両固定編成である。本グループまで空気圧縮機にレシプロ式A-2形を採用した。

Bグループの前面貫通化工事に続いて、1974年(昭和49年)から1976年(昭和51年)にかけて本グループの更新工事が行われた。当時すでに新造車が冷房装備となっていたこと、600形(2代)で冷房改造の実績があったことから冷房化の構想もあったが、軸重増加により地下鉄乗り入れが不可能となる問題が当時解決できていなかったことなどにより、冷房搭載は見送られた。前面の行先・種別表示器をDグループ以降と同様正面窓内から独立させ、併せて側面にゴシック体行先・種別表示幕を設置、換気装置はファンデリアを撤去してラインデリアとした。屋上モニタールーフは残されたが、更新前の2段式から3段式に交換されている。

このグループには1983年(昭和58年)から1986年にかけて冷房改造が施工されたが、デハ1049 - デハ1052の4両は冷房改造されずに同年に本形式として初の廃車となった。本グループもBグループ同様に三菱製電装車は全編成冷房改造に際して主抵抗器を車両中央部から海側に移設している。このグループの冷房改造時のみ中間車連結面の雨樋縦管が露出したままとされていた。

1991年平成3年)から冷房改造車の廃車が始まり、1071編成以外は1996年(平成8年)までに廃車された。1071編成はAグループ以外では唯一廃車まで編成替えされず終始2連で使用されたため走行距離が少なく、44年にわたって運用された後2005年(平成17年)3月末に廃車され、Cグループは消滅した。

1107編成と1113編成は廃車直前に品川方2両を交換した。この2編成は本形式で唯一浦賀方先頭車と品川方先頭車の組み合わせが変更された例であり、このままの編成でBグループの1005編成と北総開発鉄道に譲渡された。

デハ1125には更新工事施行時に架線観測用の「潜望鏡」が設置され、冷房改造時以降は架線観測装置となっていた。その後、1500形のデハ1601を経て、2008年現在は600形デハ605-1に設置している。

Dグループ

画像:Keikyu1191shimbamba.JPG
1191編成(1995年7月14日、新馬場駅にて撮影)

1964年(昭和39年)から1966年にかけて製造されたデハ1131 - デハ1196、デハ1201 - デハ1206の6両編成12本が該当する。このグループから前面の行先・種別表示器が窓内から独立して現行の本形式の前面スタイルが確立した。連結面が折り妻となり、妻部屋根肩も小さくなった。客室内電装品が交流化され、客室内蛍光灯カバーは省略された。側面に電動式種別幕が設けられたが、前面の種別幕は手動とされた。側面種別幕は表示可能コマ数の制約により「普通」が表示されず、普通列車運用時は表示なし、バックライト消灯となっていた。空気圧縮機はロータリー式のAR-2形に変更した。東急車輛製造で1964年に製造された1143編成と1201編成のみ先頭車前面の行先・種別表示器部分の造型が他車とはわずかに異なっていた。

冷房改造は、Eグループと並行して1976年から1982年(昭和57年)にかけて施工された。

デハ1173とデハ1178は1988年から貨車扱いとされ、2002年(平成14年)に廃車された。

Eグループ

1968年に製造されたデハ1207 - デハ1242の6両編成6本が該当する。このグループから地下鉄乗り入れに備えて当初から先頭部連結器がNCB-II形密着自動連結器化され、1号型ATS、列車無線を装備、3両+3両に仕切れるよう4号車浦賀方に中間貫通扉を設けたほか、運転台の機器は当初から乗り入れ仕様に合致して配置されている。モニタールーフが廃止され、狭幅のFRPのカバーを設置、換気装置をファンデリアから首振り扇風機に変更、連結面後退角のさらなる縮小、座席形状の変更など、同時期製造の700形の要素を盛り込んだものとなった。

冷房改造は、Dグループと並行して1976年から1982年にかけて施工された。

このグループで最後まで残ったデハ1219 - デハ1220 - デハ1223 - デハ1224は、Cグループ・デハ1071・デハ1072と同時期の2005年3月をもって運用を離脱した。

このグループまでの本形式は、更新後のFグループとは異なり表示幕が白地に黒文字だったため、最終期には一部の鉄道ファンから「白幕車」と呼ばれていた。この幕は2008年現行の英文字併記のものとは異なり、日本語のみ、種別・運行番号表示器も白地だった。

Fグループ

1971年から1978年にかけて製造されたデハ1079 - デハ1080(2代目)の2両編成1本、デハ1301 - デハ1348の4両編成12本、デハ1351 - デハ1380の6両編成5本、デハ1243 - デハ1298の8両編成7本が該当するが、番号通りの編成で落成しなかった車両も少なくない。このグループは集中式冷房装置を搭載、京急初の新製冷房車となった。冷房化により自重が増加したため、主電動機の熱容量を向上し、併せて定格回転数を従来の1,550rpmから1,450rpmに変更した。1971年・1972年製デハ1251 - デハ1290は主電動機出力75kWだったが、走行特性は従来車と揃えたまま1974年製以降は主電動機定格電流を225Aから270Aに上げ、90kWに出力増強された。台車は川崎重工業設計の車体直結空気ばね式とされ、同社と東急車輛の両者で同一の台車を製造した。モーターは東洋、制御装置と補助電源装置は三菱製でそれぞれ統一された。その他、車内は乗務員室と客室の仕切り扉がステンレス製から軽合金製となった。1973年は12両編成運転開始に備えた設備増強に注力したこと、1975年(昭和50年)は前年7月の久里浜地区水害で損傷した車両の復旧工事を優先させたため、車両の新製がなかった。増備の過程で、広告枠の増設、先頭部の雨樋形状の変更など、細部の変更が行われた。

1974年までに製造された68両は当初都営1号線の軸重制限を超過していたため他社・局線には入線できなかったが、後に軽量車輪への交換によって入線できるようになった。また、1987年(昭和62年)までは地下鉄線内では冷房を使用しなかったため、窓に地下鉄線内では冷房を使用しない旨の注意ステッカーが貼付されていた。

車両番号は必ずしも製造順ではなく、デハ1079・デハ1080(2代目)は1978年製、最終製造車両も同年製のデハ1243 - デハ1250である。

1976年までの製造車は手動式方向幕、側面は種別幕のみだったが、同年製造車の中間車となったデハ1338、デハ1339を除いて1977年(昭和52年)以降製造の車両にはCグループの更新で設けられたものと同じ電動方向幕が正面および側面に設置された。デハ1079 - デハ1080、デハ1243 - デハ1250、デハ1341 - デハ1348、デハ1351 - デハ1380がこれに該当する。1980年代中期の1341編成と1375編成など、編成替えにより側面方向幕設置編成に側面種別幕のみ設置の中間車が組み込まれた例もあった。

デハ1337には積算電力計が設けられていた。電力計測時にはこの車両を中間に入れる必要があり、6両編成での地下鉄乗り入れに備えて1970年代後半から1980年代にかけてデハ1332とデハ1080の品川方に貫通幌が取り付けられていた。

このFグループは、グループ内であれば更新工事施工前の側面電動方向幕有無による制約を除いて編成替えの制約がなく、かつまとまった両数があったため登場以降需給調整のため頻繁に編成替えが行われ、B・D・Eグループが冷房改造を機に番号どおりの編成に戻ったのとは逆に全編成が番号通りの編成だった時期は一度もない。唯一1990年頃にデハ1243 - デハ1298、デハ1301 - デハ1348の全編成が番号通りの編成になったことがあるが、この時もデハ1351 - デハ1380は8両編成3本、4両編成1本、2両編成1本の組成であった。

2005年4月25日福知山線(JR宝塚線)脱線事故を受け、同年6月下旬に京急ファインテック久里浜事業所内で行われた転覆車両からの負傷者救出訓練にデハ1283が使用された。

各種工事

冷房改造

1976年(昭和51年)から非冷房で製造された車両を対象に冷房改造工事が行われた。冷房装置は東芝RPU-2209系が採用され、1両につき4台が設置された。内装も全面的に張り替えられ、Fグループと同様に極力無塗装化が図られた。冷房改造前に腐食対策として雨樋縦管を露出させる改造が施されていたが、これを耐食管とすることで本改造時に再び埋め込んだ。天井部は平天井構造となったが、パンタグラフ下部を除きダクトは設けられていない。電動発電機は容量75kVAのものに交換され、1台で2両に給電する。方向幕は電動化されたが、側面方向幕は奇数車海側、偶数車山側のみに設置され、初期の改造車は種別幕のみで残った奇数車山側、偶数車海側に冷房改造前と同様「普通」が表示されなかったが、1983年(昭和58年)頃の改造車から「普通」が表示されるようになり、それ以前の車両も同様に改造された。Bグループで側面種別幕位置が低かった編成は冷房改造時に他車と同位置に改造されている。冷房改造前から全車側面に方向幕を持つCグループはそのまま全車設置とされた。OK-18系台車は重量増加に対応して台車枠の補強が行われ、1977年(昭和52年)に台車枠だけをOK-18Mとして4両分製造している。OK-18系台車装備車で初の冷房改造車となった1137編成は冷房機本体を搭載せずに出場し、2週間程度後に冷房機を搭載している。

初の冷房改造車である1179編成は、改造当初冷房装置のキセ(カバー)がイボ付きビニールでコーティングされた鋼製の黒いタイプであり、その外観から一部で「装甲冷房車」と呼ばれていたが、1981年(昭和56年)9月に他編成と同じFRP製の白いキセに取り替えられた。改造は長期にわたったが、期間中大きな設計変更は行われず、末期に連結器交換準備工事が併施されたことによる変更がある程度である。全車冷房改造完了を目前にして廃車が始まり、1049・1095・1097の各編成には冷房改造が施工されなかった。

冷房改造に伴う編成替

冷房改造は番号通りの編成単位で行われ、改造後は番号通りの編成に戻る例がほとんどだったが、例外として1976年施工の1143編成と1977年施工の1149編成は中間車を入れ替えて出場、後に番号通りの編成に戻った。1137編成と1173編成は冷房改造時に3号車・4号車を交換し、そのまま1987年の編成替えまで運用された。1982年(昭和57年)施工のデハ1187-デハ1188は1029編成に挟まれて出場、4ヶ月後に1185編成が出場された際に番号通りの編成に戻った。Cグループ初の冷房改造車で1983年7月に出場したデハ1121 - デハ1122は同時期に検査入場していた1009編成に挟まれて出場、1119編成が冷房改造された後も3年程度この編成のまま運用された。デハ1115 - デハ1116は1113編成と同時に施工されたが、先頭車の密着連結器化準備工事の影響により、当初の1ヶ月は1037編成に含まれ、その後続いて冷房改造された1075編成に含まれて運用されたが、その後1ヶ月程度で番号通りの編成に戻っている。

Fグループ更新工事

B - Eグループと700形冷房改造に続いて、1988年から1994年(平成6年)にかけてFグループの更新工事が施工された。主な内容は以下の通りである。

  • 屋上通風器の撤去
  • 屋根の補修
  • 連結器部分の小改造
  • 行先表示器制御のSPC方式への改造と白色幕から黒色幕への変更、手動幕車への電動幕の設置、側面方向幕未設置車への方向幕の設置。
  • 1992年以降更新車両について抵抗器の配列を変更し、中央扉直下に発熱量が少ない部分を再配置。
  • 戸閉灯器をLED表示灯に交換。その後LEDの故障などでデハ1309 - デハ1312は電球2灯にされた。
  • 一部の編成に戸閉選択装置を取り付け
  • 1251・1259・1309編成は1990年代初頭の連結器交換前に更新されたので、品川寄りにジャンパ栓の跡が残る。
  • 内装は全面的に張り替えられたが、配色、レイアウトはほとんど変更されていない。

更新前の表示幕は白地であったが、更新工事により黒地に変更されたため、鉄道ファンに「黒幕車」と呼ばれている。

台車交換

本形式では定期検査入場の都度予備台車を活用した入場期間短縮のため、台車の振り替えが頻繁に行われていたが、同一系列台車間の交換はここでは対象としない。

TS-811化

1971年に試作空気ばね台車を装備していた1017編成の中間にデハ1145 - デハ1146を組み込む際に台車をTS-310系から東急製TS-811形に交換、その後1977年の冷房改造時にデハ1145 - デハ1146が1143編成に戻る際に編成全体をTS-811に交換した。その後、次項のOK-18台車振り替え用および試作空気ばね台車淘汰用TS-310台車捻出のため、1155編成とデハ1173 - デハ1174 - デハ1139 - デハ1140 - デハ1177 - デハ1178も1978年の冷房改造時にTS-811に交換された。

OK-18のTS-310への振り替え

川崎車輛で製造され、東洋製電装品を装備するデハ1029、デハ1030、デハ1041、デハ1042、デハ1059、デハ1071、デハ1072、デハ1077、デハ1078、デハ1097、デハ1098、デハ1115には中空軸撓み板式軸型継手駆動用のOK-18台車(OK-18C、G、I、K)が装備されていたが、これを1977年1978年に上述のTS-811化で捻出したTS-310系台車と交換した。

試作空気ばね台車交換

1017編成で試用されていた試作空気ばね台車OK-22・TS-313は1977年にTS-310に交換されて姿を消した。

連結器交換

本形式の先頭部は2回の連結器交換が行われている。

NCB-II型への交換

1968年からの地下鉄乗り入れに備えて、A-Dグループは連結器をK-2-Aから直通規格で定められたNCB-II型と連結可能なNCB-6型に交換、その後NCB-II型に交換した。工事中は連結器を避けるための車体下部切り欠き形状などにバリエーションがあった。

CSD-90への交換

連結作業の省力化のため、電気連結器付き廻り子式密着連結器(CSD-90)への交換が1989年(平成元年)頃に行われた。1985年(昭和60年)冷房改造の1113編成から準備工事が始まり、在来車についても定期検査とは別に入場させて同工事が順次施工された。外観に現れる標準的な工事は運転台および先頭車海側床下への連結器制御盤の取り付け、冷房指令、自動幕指令用ジャンパ栓(青色)の撤去および連結器胴受の交換だったが、工事期間中に1987年のダイヤ改正に伴う2+6編成や4+4編成が出現、編成間で冷房・自動幕指令を共有する必要が生じたため、該当編成への青色ジャンパ再取り付けなど細かい様々なバリエーションが見られた。本工事と合わせて補助警笛が電子ホーン化された。その後1989年の1137編成を皮切りに1991年(平成3年)にかけて連結器本体の交換、非常用中間連結器の搭載などの本工事が行われた。また、本工事に先立って連結器制御盤取付用スペース確保のため冷房車の先頭車海側に設けられていた三芯のジャンパ栓(三相ジャンパ)が撤去された。本ジャンパ栓は冷房用電源故障時に編成間で給電を行えるよう設けられていたものだが、1984年(昭和59年)冷房改造の1005編成以降はこれを設けずに出場し、従来車についても1985年1月に定期検査出場した1259編成以降定期検査時に撤去された。

中間車連結器の交換

1960年代後半以降中間部の連結器はCSE-55形棒状連結器とされていたが、新町検車区で車輪を削正する際に該当設備に8両編成が入れないため、編成を6+2に容易に分割できるよう中間部に廻り子式密着連結器を装備していた。その後1978年頃に4+4に分割するよう変更されたが、同設備に8両編成が入れるようになったため、1990年代中ごろの定期検査入場時に棒状連結器に戻されている。

中間車貫通仕切り扉の設置

Eグループ以降の6両編成4号車と8両編成4・6号車の浦賀方には両開きの貫通仕切り扉を設置されており、1970年にC・Dグループ6両編成にも同様に貫通仕切り扉が設置されたが、連結面後退角が大きいため、扉のレールが「へ」の字型になっていた。1981年(昭和56年)以降Fグループで編成替えにより6両・8両編成となっていたデハ1262・デハ1302・デハ1310・デハ1314・デハ1322・デハ1334・デハ1342・デハ1346・デハ1352に貫通仕切り扉が設置された。改造車の外側窓は2段式アルミサッシのままとされたが、C、Dグループは冷房改造時に、Fグループは更新改造時にHゴム1枚窓に改造されている。Cグループの妻面は大きなRで構成されていたため、該当窓取り付け部が平面に改造され、周囲の外板と段差があった。Fグループ更新時に貫通仕切り扉がない4両編成の3号車に組成されるデハ1327・デハ1319・デハ1307・デハ1335・デハ1339の浦賀方にも貫通仕切り扉が設置された。

吊り手関連工事

1986年頃の定期検査入場時に冷房車を対象にドア部分に吊り手を増設する工事が施された。当時の編成単位で行われ、施工期間中に1987年(昭和62年)の8両編成地下鉄乗り入れ運用増加に伴う編成替えが挟まったことから、施工済車と未施工車が同一編成に含まれる例も見られた。初期の改造車は枕木方向に4個の吊り手が設けられていたが、後期は3個に変更、初期改造車も後に同様に改造された。

B装置改良工事

Fグループは、1988年頃の定期検査入場時に1500形と同一材質のブレーキシューに変更、摩擦材特性にあわせて速度が10km/h以下になるとブレーキシリンダの圧力を半減させる装置(B-55装置)を撤去した。工事中、工事施工済み編成の運転台には「B装置改良車」の表示があった。

自動戸閉切放装置取付改造

1997年から6両編成に梅屋敷駅停車時にホームにかからない浦賀方2両の扉を開扉させない操作を自動で行う装置(自動戸閉切放装置、ADL)を設置する工事が行われた。その後編成替えによって発生した6両編成についても編成替えの都度本工事が施工されている。浦賀方2両のドアには同駅でドアが開かないことを知らせるステッカーを貼付している。

ATS更新

1号形ATSの更新に伴い、C-ATSを搭載する改造がFグループを対象に2007年までに行われたが、2005年度までに廃車された1251、1283、1301の各編成には本工事が施工されなかった。 これにより運転台計器パネルにあるATS表示灯は塞がれ、壁面にアイボリーのLED式表示器が増設された。

その他の改造工事

1993年(平成5年)度に600形用試験として一部の車両を使用してクロスシート試験を行ったが、この状態での営業運転は行われなかった。

改番

京急では1966年(昭和41年)の番号整理以降ほとんど改番が行われた例がないが、本形式では過去に下記の3例がある。

  • 1964年(昭和39年)製のデハ1201とデハ1206は初代デハ1079・デハ1080である。翌1965年(昭和40年)3月に製造されたデハ1174 - デハ1177を挟んで6連化され、さらに同年11月に中間車を新製されたデハ1202 - デハ1205に交換、その後デハ1079とデハ1080は1968年(昭和43年)にデハ1201とデハ1206に改番された。
  • 1971年(昭和46年)製の18両(デハ1251 - デハ1266・デハ1267・デハ1274)は当初6連で計画され、デハ1251 - デハ1268として落成したが、都営1号線への乗り入れが軸重増加により認められなかったため、8連2本と2連1本に組み替えられて入線し、翌1972年(昭和47年)に2連に中間車6両を挟んで8連化され、デハ1251 - デハ1274(8連×3本)に改番された。
  • 1978年に登場した2代目デハ1079・デハ1080は、新1000形の増備進捗に伴い番号重複を避けるため2003年(平成15年)1月にデハ1381とデハ1382へ改番され、車内銘板がステッカー式となった。

700形との混結

1975年(昭和50年)7月から1979年6月にかけて、700形のサハ770形を中間に挟んだ6両編成・8両編成が組成された。しかし、混結編成では編成重量の増加により加速度が低下するだけでなく、他社・局線への乗り入れができないことなどから運用範囲が制限されるなどの問題があった。1978年(昭和53年)以降、順次サハ770形は本形式の編成から外され、700形編成に戻るまでの間久里浜工場(現・京急ファインテック久里浜事業所)または金沢検車区で1979年(昭和54年)まで休車扱いとされたものもあった。また、これとは別に、朝夕ラッシュ時に8両編成に700形4両編成を増結して12両編成とする運用も1995年(平成7年)7月のダイヤ改正まで存在していた。

運用

2両編成

2両編成は登場以降終始増結用として使用され、1970年代初期の比較的短期間、朝ラッシュ時に浦賀 - 堀ノ内間を2両編成で運転、堀ノ内 - 品川間は久里浜以南からの特急に連結される運用が存在した以外2両編成単独で営業運転された実績がほとんどない。1987年(昭和62年)の乗り入れ特急8両編成運転拡大の直前まで約1年間乗り入れ特急の浦賀方に品川で2両増結する車両の送り込みのため2両編成5本をまとめて回送する列車が存在した。2008年7月の編成替えで2両編成は消滅した<ref>「京急1000形,8両編成と2両編成が消滅」『鉄道ファン』ウェブサイトより</ref>。

4両編成

thumb|250px|京急大師線を走る1000形(初代)4両編成 4両編成は登場後各種別に運用されたが、12両編成運転開始直前の1974年(昭和49年)10月頃には4連運用には400形500形700形が使用され、新製されたばかりの1325編成のみが4連だったことが特筆される。12両編成運転開始以降は大師空港以外の各線の普通や朝・夕方・夜間の優等列車の増結用として幅広く運用された。終夜運転の際に都営浅草線を経由して京成金町まで乗り入れた実績もある。700形の廃車進行により2000年(平成12年)から大師線に投入され、当初は朝のみ、その後700形の全廃に伴って2005年11月からは1500形新1000形とともに終日同線でも運用されている。 Template:-

6両編成

thumb|250px|京急川崎駅に進入する1000形(初代)6両編成 6両編成は都営浅草線乗り入れ特急用の主力として1968年(昭和43年)以降25~30本が存在したが、1988年(昭和63年)秋の都心乗り入れ特急の終日8連化に伴って1989年秋には2本にまで激減した<ref>『鉄道ピクトリアル』1989年10月号66ページ</ref>。その後本線普通の6連化が進み、徐々に本数を増やしたが、廃車進行により編成数は再び減少に転じている。800形や1500形とともに本線の普通を中心に運用されているが、朝・夕方・夜間には羽田空港へ乗り入れる運用もある。乗り入れ特急の終日8連化以降も終夜運転で都営浅草線を経由して京成線京成高砂まで乗り入れた実績がある。

1975年(昭和50年)7月には1009・1013・1021の各編成がサハ770形2両を3・4号車に含む6両編成となったが、1021編成以外はすぐに中間車2両を追加した8両編成とされた。

8両編成

8両編成は登場以降1978年(昭和53年)まで都営浅草線への乗り入れが最大6両編成に制限されていたことから朝ラッシュ時の12両編成非乗り入れ特急の基本編成、快速特急として運用され、2000形登場まで夏季定員制列車「ミュージックトレイン号」にも使用された。1978年に8両編成の地下鉄乗り入れが開始されたが、1987年(昭和62年)までは朝夕各6往復に限定されており、引き続き朝ラッシュ時の通勤快特、日中から夕方の快速特急を中心に運用された。1987年から朝夕ラッシュ時の乗り入れ特急が8両編成化され、2000形の増備も進行したため8両編成は都心乗り入れ運用を中心に運用されるようになった。この時点では全編成を固定編成とすると日中運用する6両編成が不足するため、2+6編成を貫通幌でつなぎ、「8両固定編成」として都営地下鉄乗り入れに充当、日中は2両編成を切り離した6両で運用する編成が組成された。2+6編成には編成表上にも2+6の8両編成として記載され、8両編成と同様に運用されたものと、それぞれ別の編成として記載され、組み合わせが毎日変更されるものの2種が存在した。同時に4+4編成を貫通幌でつなぐ編成も出現したが、こちらは全編成4+4の8両編成として編成表に記載されていた。その後1988年(昭和63年)秋に都心乗り入れ特急が終日8連化され、翌1989年(平成元年)から1500形の都心乗り入れ運用への充当が始まったため2+6編成は消滅、4+4編成は廃車の進行に伴って一旦消滅した。2001年(平成13年)9月15日のダイヤ改正から日中の都営浅草線直通快特の最高速度が120km/hに引き上げられたが、本形式は120km/h対応の増圧ブレーキ装備工事対象とはならなかったため、これ以降日中の快特には運用されなくなった。8両編成は2008年8月に1351編成の中間車を2008年7月に1329編成と1381編成に移動させたことで中間に先頭車を含まない貫通編成が消滅、その後同年11月まで1351編成と1381編成が4+4編成を組み、8両編成として運用されていたが、新1000形1097編成の導入に伴って分割され、8両編成が消滅した。

1975年(昭和50年)9月から1979年(昭和54年)6月にかけてサハ770形を5・6号車に含む8両編成が存在し、ラッシュ時を中心に運用された。

編成数の推移

本形式は登場以来需要の変化に対応するため、頻繁に編成が組みかえられた。各時代の編成数を下表に示す。

各時期の編成数
編成両数 1974年秋 1980年4月10日 1988年7月10日 1989年1月7日
12両運転開始直前<ref>『京急ファン』通巻101号32ページ掲載</ref> 都心8連乗入開始時<ref>『鉄道ピクトリアル』1980年9月臨時増刊号76ページ掲載</ref> 都心8連乗入拡大時<ref>『鉄道ピクトリアル』1988年9月臨時増刊号194ページ掲載</ref> 都心乗入全面8連化時<ref>「日本の私鉄3 京浜急行」保育社 1989年4月発行掲載</ref>
2両編成 21 9 15 8
4両編成 1 29 13 13
6両編成 31 25 19 2
8両編成 6 9 16 21
4両+4両編成 0 0 3 10
2両+6両編成 0 0 0 1

特殊塗装など

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画像:KQ1000 LR.png
「ありがとうギャラリー号」に装着された「LAST RUN!」ヘッドマーク(2008年12月20日、京急鶴見駅にて撮影)

2008年2月25日から12月23日まで、京急創立110周年を記念<ref>1000形が往年の塗装に復活いたします</ref>し、2編成に過去に営業運転された車両をイメージしたラッピングを施して運行された。1309編成(6両)が昭和20~30年代の車両をイメージした「ありがとうギャラリー号」、1321編成(4両)が大正昭和初期の車両をイメージした「歴史ギャラリー号」とされた。両編成には車内に一般公募によって選ばれた写真・絵画や京急110年の歴史がポスターとして展示されたほか、先頭車の前面貫通扉窓下にヘッドマークが掲出された。その後両編成は下記の通り装飾が変遷し、イベントなどにも使用されていた。

改造・譲渡など

廃車された両の一部が譲渡・貸出されたほか、事業用車への改造も行われた。

譲渡

高松琴平電気鉄道(1080形・1300形)

高松琴平電気鉄道には合計16両が譲渡された。

1080形は元Bグループ車で、1988年(昭和63年)から1991年(平成3年)にかけて2両編成6本・12両が譲渡され、全車が琴平線で使用されている。全車東洋製電装品、TS-310系台車装備車である。Bグループは2両編成が組めなかったため、譲渡に当たって京急時代の浦賀方先頭車の運転台を同浦賀方から3両目に取り付ける工事を行った。 1300形は元Fグループ車で、デハ1313 - デハ1316・デハ1291 - デハ1298の2両編成2本・4両(→1301 - 1304)が2007年(平成19年)6月に譲渡され、翌7月31日から長尾線で使用されている。

この他、元京王帝都電鉄(現・京王電鉄5000系の譲渡車である1100形は、転入による軌間変更のため、本形式の廃車発生品(TS-310系)に台車が交換されている。

北総開発鉄道(当時・7150形)

Template:Double image aside 1991年(平成3年)3月31日京成高砂 - 新鎌ヶ谷間開業に伴い、7300形の登場とあわせてデハ1005 - デハ1008・デハ1107 - デハ1118の16両(→7151 - 7158・7161 - 7168)が譲渡された。この2編成は京急時代末期に変則的な編成を組んでいたが、そのままの編成で譲渡された。7151 - 7158は当初4+4の8両編成、7161 - 7168は8両貫通編成。主な改造点は以下の通り。

  • アーマープレート(アンチクライマーの台座)の一部切除。7161、7168は譲渡後施工。
  • 車両番号の幕板部への移設、社名標記の変更。
  • 塗装色の変更。
  • 降雪、凍結への対策工事。
  • 屋根肩部広告枠サイズ変更。

7151 - 7158は1992年(平成4年)7月新京成電鉄との直通運転廃止に伴い新鎌ヶ谷 - 千葉ニュータウン中央間の区間列車用として7151 - 7154と7155 - 7158の4連2本に分割、新鎌ヶ谷以東で運用されたが、1996年12月に4+4の8両編成に戻っている。7155 - 7158は1994年に客用ドア外部を1枚毎に異なる塗装とし、7151 - 7154も8両編成に戻る際同様に変更されたが、他車には採用されなかった。7050形への置き換えに伴い、7161 - 7168は1995年(平成7年)9月に、7151 - 7158は1998年(平成10年)2月にそれぞれ廃車され、京成宗吾車両基地で解体された。

リース

京成電鉄→千葉急行電鉄(京成1000形→千葉急行1000形)

thumbnail|180px|京成1000形電車 デハ1029 - デハ1032・デハ1037 - デハ1040の8両が京急の子会社である京急車両工業(現・京急ファインテック)を通じてリースされた。これは京成の冷房化率が大手私鉄の中で低く、早急に冷房化率を上げるためにとられた施策であるといわれている。最後の青電であった210形が全廃された直後の1988年(昭和63年)から4両編成2本が常に8連固定で使用された。ほとんど改造されずに使用されたが、主な改造点は以下の通りである。

  • 車両形式称号を「モハ1000形」に変更
  • 塗装は赤い車体に白帯のまま
  • 車体側面の社名表示を「KHK」から「Keisei」に交換
  • 表示幕のうち種別・行先は京急1000形用のサイズで京成用の色(紺色地に白字)・書体・表示内容のものを新設して交換。運行番号はそのまま流用可能なため、白幕のままだった。
  • 運転室に京成式の停車予告装置を設置。
  • 京成3500形未更新車などで見られる種別板差しを先頭車前面の貫通扉下部に設置。
  • 中吊り広告枠を京急サイズから京成サイズのものに交換

京成での運用中に以下2点の追加改造が行われた。

  • 京成の地上設備に対応するためアーマープレートの一部切除。
  • 貫通扉種別板差しを室内側に移設、貫通扉に窓を設け、室内側から種別板が差し替えられるよう改造。

京成3700形の増備に伴い1991年(平成3年)に1編成(モハ1037 - モハ1040)を返却して除籍・解体し、残る1編成(モハ1029 - モハ1032)は塗装を青に白帯に、社名表示も「千葉急行」に変更の上、翌1992年に千葉急行電鉄へ貸し出し、同社唯一の保有車として京成の4連普通運用と共通で使用されたが、京成旧3050形と交替して1994年(平成6年)に返却、除籍となり、久里浜工場にて解体された。

事業用車への部品供出

  • デト11・12 - デハ1095・デハ1096の部品再利用
  • デチ15・16 - デハ1097・デハ1098の部品再利用
  • デチ17・18 - デハ1017・デハ1018の部品再利用、後にデト17・18に改造・改番。
  • クト1・2 - デハ1021・デハ1022の部品再利用
京急の新性能貨車は部品は再利用しているが車体は新製されたもので、車籍は引き継いでいない。

保存車

  • デハ1052とデハ1185は廃車後前面部分のみが切断され、前者は栃木県真岡市にある鉄道グッズ店「赤い電車」の店先、後者は同県小山市オフィス「赤い電車」の店先にそれぞれ置かれ、看板倉庫を兼ねて使用されている。

参考文献

Template:Commonscat

  • 下記の電気車研究会『鉄道ピクトリアル』掲載各記事
    • 「私鉄車両めぐり 116 京浜急行電鉄」1980年9月臨時増刊号(通巻380号)掲載
    • 「私鉄車両めぐり 136 京浜急行電鉄」1988年9月臨時増刊号(通巻501号)掲載
    • 「私鉄車両めぐり 138 京浜急行電鉄 補遺」1989年10月号(通巻518号)掲載
    • 「私鉄車両めぐり 160 京浜急行電鉄」1998年7月臨時増刊号(通巻656号)掲載
    • 「私鉄車両めぐり 160 京浜急行電鉄 補遺」1999年11月号(通巻677号)掲載
    • 「各社別新造・改造・廃車一覧」2003年10月臨時増刊号(通巻738号、鉄道車両年鑑2003年版)掲載
  • 「RESEARCH DATA of model 1000」京急電車ファンクラブ『京急ファン』1987年4月増刊号(通巻101号)
  • 「主要車両諸元一覧」山と渓谷社『ヤマケイ私鉄ハンドブック 10 京浜急行』1983年6月発行

脚注

Template:脚注ヘルプ Template:Reflist

Template:京浜急行電鉄の車両 Template:京成電鉄の車両 Template:北総鉄道の車両en:Keikyū 1000 series zh:京急1000型電動列車 (首代)

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