交響曲第9番 (ベートーヴェン)

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Template:クラシック音楽 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン交響曲第9番ニ短調作品125(ドイツ語:Sinfonie Nr. 9 d-moll op. 125)は、ベートーヴェンの9番目にして最後の交響曲である。副題として合唱付きが付されることも多い。また日本では親しみを込めて第九(だいく)とも呼ばれる。第4楽章はシラーの詩『歓喜に寄す』が用いられ、独唱および合唱を伴って演奏される。その主題は『歓喜の歌』としても親しまれている。古典派の以前のあらゆる音楽の集大成ともいえるような総合性を備えたと同時に、来るべきロマン派音楽の時代の道しるべとなった記念碑的な大作である。

第4楽章の「歓喜」の主題欧州評議会において「欧州の歌」としてヨーロッパ全体を称える歌として採択されているほか、欧州連合においても連合における統一性を象徴するものとして採択されている。このほか、コソボ共和国の暫定国歌として制定、ベルリン国立図書館所蔵の自筆譜資料は2001年ユネスコの『世界の記憶』(『世界記録遺産』とも)リストに登録された。

目次

概要

元来、交響曲とはソナタの形式で書かれた器楽のための楽曲で、第1楽章がソナタ、第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がメヌエット、第4楽章がソナタやロンドという4楽章制の形式が一般的であった。ベートーヴェンはその交響曲の第3楽章にスケルツォを導入したり、交響曲第6番では5楽章制・擬似音による風景描写を試みたが、交響曲第9番では第2楽章をスケルツォとする代わりに第3楽章に瞑想的で宗教的精神性をもった緩徐楽章を置き、最後の第4楽章で4人の独唱混声合唱を導入した。ゆえに「合唱付き」(Choral)<ref>ドイツ語の原題ではこの曲は Sinfonie mit Schlusschor über Friedrich Schillers Ode "An die Freude" (フリードリヒ・シラーの頌歌『歓喜に寄す』に基づく終結合唱を伴う交響曲)とされており、ドイツ語ではあくまでも "Chor"(合唱)であり "Choral" ではない。日本でCDの表記などに一般的に用いられている "Choral" は英語であり、「合唱の」「合唱」という一般的な形容詞名詞だと考えられる。英語の "Choral (Chorale)" には「コラール」にあるように「賛歌」「賛美歌」という意味もあるのだが、ドイツ語においては "Chor" と "Choral" は明瞭に区別されているので、この交響曲のニックネームである "Choral" をコラールに結びつけるのは適当ではない。</ref>と呼ばれることもあるが、ドイツ語圏では副題は付けず、単に「交響曲第9番」とされることが多い。この第4楽章の旋律は有名な「歓喜の歌(喜びの歌)」で、フリードリヒ・フォン・シラーの詩『歓喜に寄せて』から3分の1程度を抜粋し、一部ベートーヴェンが編集した上で曲をつけたものである。交響曲に声楽が使用されたのはこの曲が必ずしも初めてではなく、ペーター・フォン・ヴィンターによる『戦争交響曲』などの前例があるものの、真に効果的に使用されたのは初めてである。

ちなみに、ベートーヴェン以降もなお、声楽付き交響曲は珍しい存在であり続けた。ベルリオーズメンデルスゾーンリストなどが交響曲で声楽を使用しているが、声楽付き交響曲が一般的になるのは第九から70年後、マーラーの『復活交響曲』が作曲された頃からであった。

まぎれもなくこの交響曲は、ベートーヴェンの傑作の一つである。大規模な編成や1時間を超える長大な演奏時間、それまでの交響曲でほとんど使用されなかった、ティンパニ以外の打楽器(シンバルトライアングルなど)の使用、ドイツ・ロマン派の萌芽を思わせる瞑想的で長大な緩徐楽章(第3楽章)の存在、そして独唱や混声合唱の導入など、彼自身のものも含むそれ以前の交響曲の常識を打ち破った大胆な要素を多く持ち、シューベルトブラームスブルックナーマーラーショスタコーヴィチなど、後の交響曲作曲家たちに多大な影響を与えた。また、ベートーヴェンの型破りな精神を受け継いだワーグナーリストは、交響曲という殻そのものを破り捨て全く新しいジャンルを開拓した。このように、交響曲作曲家以外へ与えた影響も大きい。

日本では、年末になると各地で第九のコンサートが開かれる。近年では、単に演奏を聴くだけではなく、実際に合唱を行う方に回る、参加型のコンサートも増えつつある。日本での圧倒的な人気の一方で、ヨーロッパにおいては、オーケストラに加え独唱者合唱団を必要とするこの曲の演奏回数は決して多くない。

演奏時間

全体の演奏時間は、1980年代頃までの伝統的なモダン楽器による演奏では70分前後が主流であった。ベートーヴェンの交響曲中で最長である。

「初期のCDの記録時間が約74分であることは、この曲が1枚のCDに収まるようにとの配慮の下で決められた」とする説がある<ref>1979年からCD の開発に当たったフィリップスソニーはディスクの直径を11.5cmとするか12cmとするかで何度も議論を重ねており、大きさを基準に考えるフィリップスに対し、記録時間を優先したいソニーで話し合いは難航していた。11.5cmであることの様々な利便性は明らかであったが、最終的に「第九が入らなくては」との意見が出され12cmに決定したというもの。ヘルベルト・フォン・カラヤンが自分の第九交響曲の録音がちょうど収まる大きさにするよう圧力をかけた、とする説Template:要出典もある。実際のカラヤンの演奏時間は60分台で、カラヤンのライバルで、70分超えで演奏することが多かったカール・ベームレナード・バーンスタインの第九が時間オーバーで収まらなくなるようにするためでもあったという憶測Template:Factもある。</ref>。

ウィーン初演での演奏時間は、明確な数字が明らかではないが、1825年3月21日にロンドンで『第九』を初演したジョージ・スマートがベートーヴェンと会見した際の質疑応答の断片が「会話帳」に残っており、63分という数字がロンドン初演時の演奏時間とされている<ref>初演を報じるイギリスの新聞では「ちょうど1時間と5分」という数字も伝えられている。会話帳ではこの次に「45分」という記述もあるが、実行するにはあまりに速過ぎるという事で『第九』全曲の演奏時間とは見なされていない。Template:要出典範囲また第1楽章のテンポも「4分音符=88」が採用されているが、自筆スコアでは「メルツェル=108から120」という数字が書かれており、実行すれば3分以上の短縮になる。これも不自然に速過ぎ、恐らくベートーヴェン自身の勘違いと考えられている。</ref>。

CD時代に入って、それまで重要視されて来なかった楽譜(普及版)のテンポ指示を遵守して演奏された『第九』が複数出現したが、ベンジャミン・ザンダー指揮ボストン・フィルによる演奏は全曲で58分を切った。研究家が考証を行なった古楽器による演奏では大概63分程度に収まっており、ほぼ妥当なテンポと見なされている。ただし、研究が進んでテンポの数字も代筆されたものという事が判明し、ベートーヴェンが望んだテンポが不明のままという可能性も出て来ている。

演奏解釈の自由さから絶対正しい演奏時間というものは存在しないが、マクシミアンノ・コブラの指揮のように、ベートーヴェンの時代は指揮棒の一往復を一拍としていたとする『テンポ・ジュスト理論』に基づいて、結果的に倍のテンポで演奏する、1時間54分を越す長い演奏もインターネットで見ることができる。ただし現在では『テンポ・ジュスト理論』は誤解であるという見解が主流である。

作曲の経緯・初演

thumb|right|250px|直筆譜 ベートーヴェンがシラーの詞『歓喜に寄す』にいたく感動し、曲をつけようと思い立ったのは、1792年のことである。ベートーヴェンは当時22歳であり、まだ交響曲第1番も作曲されていない時期であるが、ベートーヴェンは永きに亘って構想を温めていたことがわかる。ただし、この時点ではこの詞を交響曲に使用する予定はなかったとされる。

交響曲第7番から3年程度を経て、1815年頃から作曲が開始された。さらに1817年ロンドンフィルハーモニック協会から交響曲の作曲の委嘱を受け、これをきっかけに本格的に作曲を開始したものと見られる。実際に交響曲第9番の作曲が始まったのはこの頃だが、ベートーヴェンは異なる作品であっても何度も旋律を使いまわしているため、部分的にはさらに以前までさかのぼることができる。

当初、第4楽章は声楽を含まない器楽のみの編成とされる予定であり、声楽を取り入れたものは別に作曲を予定していた『ドイツ交響曲』(交響曲第10番)に使用される予定だった。しかしさまざまな事情によって、交響曲を2つ作ることを諦めて2つの交響曲のアイディアを統合し、現在のような形となった。歓喜の歌の旋律が作られたのは1822年頃のことである。なお、当初作曲されていた第4楽章の旋律は、のちに弦楽四重奏曲第15番の第5楽章に流用された。

1824年に初稿が完成。そこから初演までに何度か改訂され、1824年5月7日に初演(後述)。初演以後も改訂が続けられている。

初演に携わった管弦楽・合唱のメンバーはいずれもアマチュア混成で、管楽器は倍の編成(木管のみか金管を含むか諸説ある)、弦楽器奏者も50人ほどが集まり管弦楽だけで80 - 90名の大編成。合唱はパート譜が40部作成された事が判っており、原典版を編集したジョナサン・デルマーは「合唱団は40人」としているが、劇場付きの合唱団が少年・男声合唱団総勢66名という記述が会話帳にあり、楽譜1冊を2人で見たとすれば「80人」となる<ref>楽譜を複数人で視唱するやり方は楽譜複製を筆写に拠っていた18世紀中は珍しくなかったようで、その様子を描いた画も残っている。これはバッハマタイ受難曲における「合唱は1パート1人ずつ」という学説の反証の一つともなっている。</ref>。

楽譜は1826年ショット社より出版された。

この作品は、当初はロシア皇帝アレクサンドル1世に献呈される予定だったが、崩御によりフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に献呈された。

演奏史

初演

[[File:Beethoven 6.jpg|thumb|right|200px|1824年のベートーヴェン]] 初演は1824年5月7日、作曲者立会いの下、ウィーンのケルントネル門劇場にて行われた。指揮はミヒャエル・ウムラウフ。

ミサ・ソレムニスの「キリエ」「クレド」「アニュス・ディ」、「献堂式」序曲とともに初演された。ベートーヴェンはこの曲を当初、ウィーンの聴衆には自分の音楽がそぐわないと判断し、ベルリンでの初演を希望していた。だが、ベートーヴェンを支援していたリヒノフスキー伯爵らの計らいでウィーンでの初演を求める嘆願書が作られ、ベートーヴェンはベルリン初演を思い留めた。(当時、ロッシーニのオペラがウィーンで流行していたため。)

ベートーヴェンは当時既に聴力を失っていたため、ウムラウフが正指揮者として、ベートーヴェンは各楽章のテンポを指示する役目で指揮台に上がった。ベートーヴェン自身は初演は失敗だったと思って、演奏後も聴衆の方を向くことができず、また拍手も聞こえず、聴衆の喝采に気がつかなかった。見かねたアルト歌手のカロリーネ・ウンガーがベートーヴェンの手を取って聴衆の方を向かせ、はじめて拍手を見ることができた、という逸話がある。観衆が熱狂し、アンコールでは2度も第2楽章が演奏され、3度目のアンコールを行おうとして兵に止められたという話まで残っている。

このように「好評」の逸話が残る初演だが、その根拠は繰り返された喝采やアンコール、会話帳に残るベートーヴェン周辺の対話におかれており、「ベートーヴェンの愛好家ばかりが騒いでいた」という否定的な証言もある。ソプラノソロのゾンタークは18歳、アルトソロのウンガーは21歳という若さに加え、男声ソロ2名は初演直前にキャストが変更になってしまい(バリトンソロのザイペルトが譜面を受け取ったのは、初演3日前とされる)、ソロパートはかなりの不安を抱えたまま、初演を迎えている。さらに、総練習の回数が2回と少なく、管楽器のエキストラまで揃ったのが初演前日とスケジュール上ギリギリであったこと、演奏者にはアマチュアが多く加わっていたこと(長年の戦争でプロの演奏家は人手不足だった。例えば初演の企画段階でも「ウィーンにはコンサート・ピアニストが居ない」と語られている)、加えて合奏の脱落や崩壊を防ぐためピアノが参加して合奏をリードしていた事実から、演奏の完成度には疑問の余地がある。過去1809年の『合唱幻想曲』の初演では実際に合奏が崩壊し、最初から演奏し直している。

さらに5月23日に会場をより大きなレドゥーテンザールに移して催された再演は、会場の半分も集客出来ず大失敗であった。ウィーンの聴衆の受けを狙ってロッシーニのオペラ・アリアを入れた事、昼間の演奏会だったので人々がピクニックに出かけてしまった、などの理由を述べた書き込みが会話帳に残っているが、新聞批評(「聴衆に深い感動を与えた」という内容だが、記事そのものは初演から2か月近く経ってようやく掲載された)に載っているような傑作と当時の聴衆の多くが見なしていなかったことの表れでもあろう。

なお初演の収入は会場使用料や写譜代金などを差し引いて420グルデンという数字が伝えられている。シンドラーの「2000グルデンは儲かる」という話をはじめとして「成功間違い無し」と周囲に吹き込まれて開いた演奏会でもあり、この金額はベートーヴェンには明らかに少なかった。再演ではあらかじめ1200グルデンがベートーヴェンに支払われている。後年プロイセン王への献呈の際、ベートーヴェンに指輪が贈られたが、鑑定させて300グルデンと判るとベートーヴェンは安過ぎると怒り、売り払ってしまった。

その後、ヨーロッパ各地で何回か演奏が試みられたものの、結果はことごとく失敗に終わった。そして「駄作」「演奏不可能」という評価が定着してしまう。 また、第4楽章がその前の三つの楽章に比べて「異質」であり、「長大すぎる」ということで演奏機会に恵まれなくなった。実際にベートーヴェンも初演の後、第4楽章を器楽のみの編成に書き改める事を計画していた。

初演以外の演奏が失敗に終わった理由の一つに、当時のオーケストラの演奏水準の問題があった。ベートーヴェンの時代は、プロの音楽家養成機関が未整備で、宮廷オーケストラの類を除くと、「プロ・オーケストラ」は民間に存在しなかった。 民間のオーケストラは、宮廷楽師や独学のアマチュアなどが混在したもので、演奏水準が低かったのである。現在でも難曲として有名な第九が、こういったオーケストラで巧く演奏できるわけがなかった。

パリでの部分的再演

世界初の音楽学校として設立されたパリ音楽院の卒業生フランソワ・アブネックは、しばらくオーケストラのヴァイオリン奏者として活躍した後、指揮者に転向し、1828年、母校にパリ音楽院管弦楽団を創立した。 体系化された音楽教育を受けたメンバーによるこのパリ音楽院管弦楽団は、「比類なき管弦楽団」「ヨーロッパ最高水準のオーケストラ」という評判を勝ち取る。 そのアブネックは、ベートーヴェンの信奉者であった。ベートーヴェンの交響曲の楽譜を徹底的に分析し、自身が指揮者をつとめるパリ音楽院管弦楽団演奏会のメイン・プログラムに据えたのである。

1831年、三年の準備期間を経てアブネックは初めて第九を指揮・演奏した。ただし、第4楽章は上記のような理由で演奏されず、第1~第3楽章までだった。 その後、アブネックは度々、「第4楽章抜きの第九」を演奏した。この演奏を聴いて感銘を受けた二人の作曲家兼指揮者がいた。

一人は、当時パリ音楽院の学生だったエクトル・ベルリオーズ。彼は、ベートーヴェンを模範として作曲に励むことになる。もう一人は、オペラ作曲家としての成功を夢見てパリに来ていたドイツのリヒャルト・ワーグナーである。 結局、ワーグナーはパリで成功を収めることができず、失意のうちにドイツへ戻ることになるが、アブネックによるベートーヴェンの交響曲演奏会の記憶は感激として残った。そして、いつか第九を全楽章、復活演奏することを夢見るのである。

ワーグナーによる復活演奏

リヒャルト・ワーグナーは少年時代からベートーヴェンの作品に熱中し、図書館から借りてきた彼の楽譜を筆写していた。第九も例外ではなく、ピアノ編曲までしたほどである。 パリで成功を収めることができなかった彼は故郷のドイツへ帰り、1842年ドレスデンで歌劇『リエンツィ』を上演、大好評を博した。 この功績により、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(当時はザクセン王国の宮廷楽団)の指揮者に任命された彼は、念願の第九復活演奏に着手する。

ドレスデンでは、毎年復活祭の直前の日曜日にオーケストラの養老年金の基金積み立てのための特別演奏会が催されていた。この演奏会ではオラトリオと交響曲が演奏されるのが定番となっていた。 1846年ワーグナーはこの演奏会でベートーヴェン第九を取り上げることを宣言した。当然、猛反対の声が挙がったが、彼は反対派説得のためにパンフレットや解説書を書いて説得につとめるとともに、第九の楽譜に改訂を加えた。

彼の考えでは、「ベートーヴェンの時代は楽器が未発達」であり、「作曲者は不本意ながら頭に描いたメロディ全てをオーケストラに演奏させることができなかった」のである。 そして「もしベートーヴェンが、現代の発達した楽器を目の当たりにしたら、このように楽譜を加筆・改訂するだろう」という前提に立って、管楽器の補強などを楽譜に書き込んだ。

徹底的なリハーサルの効果もあり、この演奏会は公開練習の時から満員で、本番も大成功に終わった。もちろん、年金基金も記録的な収入だった。 これ以降、第九は「傑作」という評価を勝ち得るようになったのである。

日本初演

1918年6月1日に、徳島県板東町(現・鳴門市)にあった板東俘虜収容所で、ドイツ兵捕虜による全曲演奏がなされたのが、日本における初演とされている。この事実は1941年に、この初演の2ヶ月後に板東収容所で第九(第1楽章のみ)を聴いた徳川頼貞が書いた『薈庭楽話』で明らかにされていたが、長く無視され、1990年代になって脚光を浴びた。映画『バルトの楽園』(出演:ブルーノ・ガンツ松平健ほか)は、このエピソードに基づくもの。ただし、収容所に女はいないので、独唱と合唱は全て男声用に編曲された。また、ファゴットとコントラファゴットが無かったので、オルガンで代用するなどした。そのため、これを初演とは言えないとする意見がある。 映画『バルトの楽園』では、近隣住民を招待してこの第九演奏会を見せたことになっているが、実際には収容所内の演奏会だったため、第九を聴けた日本人は、収容所関係者のみだった。

1919年12月3日、福岡県の久留米高等女学校(現・福岡県立明善高等学校)に久留米俘虜収容所のオーケストラのメンバーが出張演奏し、様々な曲に交じって第九の第2・第3楽章を女学生達に聞かせた。これが一般の日本人が第九に触れた最初だと言われている。 二日後の12月5日、久留米収容所内でこれまた男声のみと不完全な楽器編成で全曲演奏がなされた。

1924年1月26日、九州帝国大学の学生オーケストラ、「フィルハーモニー会」(現在の九大フィルハーモニー・オーケストラ)が当時の摂政宮(後の昭和天皇)の御成婚を祝って開いた「奉祝音楽会」で第九の第4楽章を演奏した。しかし、この時に歌われた歌詞は、ドイツ語でも日本語の訳詞でもなく、当時の文部省が制定した『皇太子殿下御成婚奉祝歌』の歌詞を第九のメロディにアレンジしたものだった。 これを「日本人初の第九演奏」と見なすかどうかは、議論の余地がある。 また、果たして第4楽章が通して演奏されたのか、それとも合唱を伴う部分を抜粋・編曲したものだったのか意見が分かれているのも事実である。

日本での公式初演は、1924年11月29・30日に東京音楽学校のメンバーがドイツ人教授、グスタフ・クローンの指揮によって演奏したものだとされている。プロ・オーケストラによる日本初演は新交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)により1927年5月3日に行われた。

東京音楽学校での初演については、この演奏を聴いた最後の生き残りであった作家の埴谷雄高によれば、「演奏中にコンサートミストレスの安藤幸子(幸田露伴の妹。姉の幸田延子ともども「上野の西太后」と呼ばれた)が早く弾きだした部分があり、演奏はガタガタとなってしまった」と証言している。

全員が外来演奏家による日本初演はカール・ベーム指揮のベルリン・ドイツ・オペラにより1963年11月7日日生劇場にて行われた。

この演奏の終了後、行動的なファンがベームの足に抱きつき、ベームの身動きを取れなくしたハプニングもあった。

日本での年末の演奏の歴史

1940年12月31日午後10時30分、紀元二千六百年記念行事の一環として、ヨーゼフ・ローゼンシュトックが新交響楽団(現在のNHK交響楽団)を指揮して第九のラジオ生放送を行った。これを企画したのは当時、日本放送協会(NHK)洋楽課員だった三宅善三。彼はその理由について「ドイツでは習慣として大晦日に第九を演奏し、演奏終了と共に新年を迎える」としている。実際に当時から現在まで年末に第九を演奏しているドイツのオーケストラとして、著名なところではライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が挙げられる。そしてそれを模倣するオーケストラがいくつかあるものの、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による大晦日の第九演奏は、深夜に行われるものではない。よって、そういった「慣習」があるとは言えず、何らかの勘違いをしたのではないのかと思われる。

日本で年末に第九が頻繁に演奏されるようになった背景には、戦後まもない1940年代後半、オーケストラの収入が少なくて、楽団員の年末年始の生活に困る現状を改善したいと、合唱団も含めて演奏に参加するメンバーが多く、しかも当時(クラシックの演奏の中では)「必ず(客が)入る曲目」であった第九を日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)が年末に演奏するようになり、それを定例としたことが発端とされる。既に大晦日に生放送をする慣習が定着していたから、年末の定期演奏会で取り上げても何ら違和感が無かったことも一因として挙げられよう。<ref>黒柳徹子は父黒柳守綱(新交響楽団(現在のNHK交響楽団)の元コンサートマスター)から聞いた話として、学生合唱団を加えた演奏を行うことにより、合唱団員の家族などがチケットを購入することで年末の演奏会の入場者数を増やして、楽団員のもち代を稼ぐというアイディアだったと説明している。「TOKYO発 年末第九再発見-演奏年200回超 誕生を探る」 東京新聞 2007年12月25日朝刊、中日新聞東京本社。</ref>。1960年代から、国内の年末の第九の演奏は急激に増え、現在に至っている。

バイロイト音楽祭と第九

1872年バイロイトに祝祭劇場を建設する際、その定礎の記念として選帝侯劇場にてリヒャルト・ワーグナーの指揮で第九が演奏された。その所縁もあり、第九はバイロイト音楽祭においてワーグナーの歌劇・楽劇以外で演奏される唯一の曲となっている。以後、何度か演奏されている。1933年リヒャルト・シュトラウス1951年1954年ヴィルヘルム・フルトヴェングラー1953年パウル・ヒンデミット1963年カール・ベーム2001年クリスティアン・ティーレマン。後述のように、1951年の演奏は「不朽の名演」として有名。

フルトヴェングラーと第九

指揮者フルトヴェングラーは第二次世界大戦前、1911年から1940年まで既に61回第九を指揮したとされる。その解釈は荘厳、深遠でありながら感情に流され過ぎず、友人でもあった音楽学者ハインリヒ・シェンカーの分析からも影響を受けている。第4楽章330小節のフェルマータを非常に長く伸ばし同時間の休止を設けるというワーグナー由来の性質も見られ、自身の著作でも第1楽章の開始を宇宙の創世と捉えるなど後の世代にも影響を与えたが、後の世代の演奏はトスカニーニ流の明晰な演奏が主流となり、ブルックナー開始を思わせるフルトヴェングラーの解釈は、現在ではベートーヴェンにしてはあまりに後期ロマン主義的、神秘主義的に過ぎる、とされることが多い。
第二次世界大戦中ドイツに留まり活動していたフルトヴェングラーは1942年4月19日、ヒトラーの誕生日前日に第九を指揮しゲッベルスと握手する姿が映画に撮影されるなど政治宣伝に利用され、戦後連合国からナチスとの関わりを責められ一時活動の機会を失う事になった。
1951年7月末、終戦後初のバイロイト音楽祭でフルトヴェングラーは第九を指揮し再開を祝した。実際他の演目を録音しに訪れていたレコード会社デッカのスタッフも出演者たちも、この第九に常軌を逸した緊張感を覚えたと語る。しかし録音そのものは1951年当時の水準(ステレオ録音も不可能ではなかった)からしても鮮明さに欠ける。もともとこのレコード化は正規のものではなく、発売元となったEMIのプロデューサーウォルター・レッグはフルトヴェングラーから録音を拒否されていた(表向きは「バイロイトの音響が録音向きではないから」としているが、当時EMIはフルトヴェングラーが忌み嫌っていたカラヤンと友好関係にあり、フルトヴェングラーの信頼を失いつつあった)。そのためフルトヴェングラーの生前に発売されなかった上、録音テープが廃棄されかかったという逸話もある。
しかしフルトヴェングラーの死後にEMIからレコードとして発売されると、日本の評論家達は大絶賛し、今でも「第九のベスト演奏」に挙げられることが多い。録音に問題ありという認識の裏返しでEMIから音質の改善を謳ったCDが何種類も発売されており、初期LPから復刻したCDも複数の企画がある。
近年もう一種類の録音(オルフェオ。バイエルン放送の放送録音)がCD化され、本番なのかリハーサルテープなのか素性は諸説あるが、「こちらこそ真のバイロイトの第九」と賞賛する声もある。

戦後復興と第九

1955年に、戦争で破壊されたウィーン国立歌劇場が再建された際にも、ブルーノ・ワルター指揮・ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で第九が演奏された。なお、再建のこけら落しカール・ベーム指揮の歌劇『フィデリオ』だった。当初音楽監督のベームはワルターに『ドン・ジョヴァンニ』の指揮を依頼したが、ワルターが高齢を理由に辞退し、代わりに第九を指揮することになったものである。なお、これはオーストリア放送による放送録音が残っており、オルフェオからCD化もされている。

ドイツ分断と第九

1964年東京オリンピックに東西ドイツが統一選手団を送ったときに、国歌の代わりに歌われた。

1989年ベルリンの壁崩壊の直後の年末にレナード・バーンスタインが、東西ドイツとベルリンを分割した連合国アメリカイギリスフランスソ連)のオーケストラメンバーによる混成オーケストラを指揮してベルリンで演奏した。この際には、第4楽章の詩の"Freude"をあえて"Freiheit(自由)"に替えて歌われた。また、翌年のドイツ再統一の時の統一前夜の祝典曲としてクルト・マズア指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団ライプツィヒで演奏した。なおゲヴァントハウスでは毎年大晦日の16時半から、ベルリン・フィルのジルベスターコンサートに対抗して演奏され随時TV中継されている。

演奏のみのバージョンがEUの国歌として使用されている。2007年にはルーマニアブルガリアがEUに加盟したが、2007年の1月元旦の0時を切った時演奏されたのがこの第九であった。

長野オリンピックと第九

1998年2月7日長野オリンピックの開会式において世界の5大陸・6ヶ国・7か所で連携しての演奏が試みられ、その映像が世界中に中継された。歌われた場所は小沢征爾がタクトを振った長野県県民文化会館中国北京紫禁城オーストラリアシドニーオペラハウス前、ドイツベルリンブランデンブルク門、黒人と白人の混成合唱団で歌われた南アフリカ共和国喜望峰アメリカニューヨーク国連本部、開会式が行われた長野オリンピックスタジアムである。午前11時に始まった開会式では、聖火が聖火台に点火されたあと、セレモニーのフィナーレとして歓喜の歌が歌われた。曇り空の長野、気温が氷点下の北京、真夏で晴天のシドニー、真夜中のベルリン、夜明けのケープタウンと、時刻や季節、さらには服装まで、全く異なる演奏風景が交互に映し出された。(厳密には通信による遅れを調整しており、伴奏となる文化会館の演奏をスタジアム以外の各地に届けて合唱し、その映像が最終的にスタジアムで同期するよう再送された。従って最も演奏が早い文化会館と最も遅いスタジアムで幾秒かのタイムラグがあり、このために指揮者は離れた場所にいる必要があった。)また喜望峰では日の出と重なり、歌が進むにつれて一帯が明るくなっていく様子が映し出された。

レコード録音史

アコースティック録音時代

1921年2月7日、エドゥアルト・メーリケ指揮、シャルロッテンブルク・ドイツ・オペラハウス管弦楽団ほかのメンバーによって、第四楽章の冒頭と中間部をカットした演奏がパーロフォン・レーベルにレコード録音された。だが、なぜかすぐには発売されなかった。

1923年、独ポリドール社がブルーノ・ザイドラー=ヴィンクラー指揮、新交響楽団(実態はベルリン国立歌劇場管弦楽団のメンバーを中心に組織された臨時のオケ)ほかによる全楽章のレコードを録音し、同年12月に発売(ただし、第二楽章にカットがある。また、録音の制約上、シンバルが抜けている)。このレコードは、日本にも紹介され、大好評を博した。そして、つい最近までこれが「第九の世界初録音」と言われていた。

1923年10~11月にかけて収録されたアルバート・コーツ指揮、交響楽団ほかによる英語歌唱のレコードが1924年5月、この曲の「初演100周年」として英HMV社より発売。(ただし、アルト歌手が再テイクの際に交代しているため、二人のアルト歌手の名がクレジットされている)。

1924年1~2月、フリーダー・ワイスマンがベルリン・ブリュトナー管弦楽団を指揮して第一~第三楽章を録音。これにエドゥアルト・メーリケが1921年に収録した第四楽章の抜粋・短縮版を組み合わせたアルバムが同年7月に英パーロフォン社から発売された。しかし、なぜか全てのラベルにワイスマンとブリュトナー管弦楽団の名がクレジットされていたため、誰も第四楽章が全くの別テイクであることを疑わなかった。(1997年にカナダのレコード研究家が真相を発表)。

1925年1月、エドゥアルト・メーリケがベルリン国立歌劇場管弦楽団ほかを指揮して第四楽章の抜粋・短縮版を収録。これにワイスマンが1924年に録音した第一~第三楽章を組み合わせたアルバムが独パーロフォン社から、発売された。

電気録音時代

1926年3月、フェリックス・ワインガルトナー指揮、ロンドン交響楽団ほか(英語歌唱)

1926年10月、アルバート・コーツ指揮、交響楽団ほか(英語歌唱)

1928年オスカー・フリート指揮、ベルリン国立歌劇場管弦楽団ほか(初の原語版によるノーカット録音)

1934年4月、レオポルド・ストコフスキー指揮、フィラデルフィア管弦楽団ほか(英語歌唱)

1935年2月、フェリックス・ワインガルトナー指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ほか(日本コロムビアの要望によるもので、戦前における決定盤と言われた)。

以降、オイゲン・ヨッフム1937年)、カール・ベーム1941年)、橋本國彦1943年)、ユージン・オーマンディ1945年)と続く。

編成

ピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンはベートーヴェンの交響曲では使用例が少なく、他に交響曲第5番交響曲第6番で使用されているのみである。また、ホルンが4本、打楽器は他の交響曲では使われていないトライアングル、シンバル、バスドラムを使用しており、この時期の交響曲の編成としても最大級のものである。また、前述の通り声楽を交響曲に用いるのはきわめて奇抜なアイディアである。またこの楽器編成はワーグナーの楽劇の3管編成の基礎になった。

管弦楽

Template:管弦楽編成 指揮者ワインガルトナーの助言に従い、第3楽章終了後すぐに第4楽章を開始する指揮者が今なお多い。ただし初演された当時、ティンパニはペダルが無かったためチューニングが必要で、ホルン、トランペットも同様に管の交換に時間を要したので、少なくともこの方法は作曲当時にはあり得なかった。ジョナサン・デルマー校訂のベーレンライター版(後述)の校訂報告でもこの記述が有り、新しい楽譜を使う際、演奏楽器の新にかかわらず第3楽章と第4楽章の間隔を空ける指揮者も増えつつある。

声楽

声楽は第4楽章のみ使用される。

全体で約70分に及ぶ演奏時間にかかわらず、声楽パートが用いられるのは第4楽章(終わりの約20分)だけである。そのため、ホールでの演奏時では、合唱および独唱は第2楽章と第3楽章の間に入場する場合が多い。また、合唱のみ冒頭から待機する場合もあるが、この際は休憩用の椅子が用意される。ヘルベルト・ブロムシュテット1985年NHK交響楽団で演奏した際には、「『おお友よ、このような音ではない』と歌う独唱が第1楽章からステージにいなくて、そんな台詞がいえるか」というブロムシュテットの指示で独唱者も含めて第1楽章から待機することになったという(佐野之彦「N響80年全記録」文藝春秋、2007年)。

もっとも、これは合唱に限ったことではなく、ピッコロコントラファゴット、およびティンパニ以外の打楽器も第4楽章だけしか用いられない。にもかかわらずこれらの奏者は第1楽章から舞台上で待機していることが多く、このことを「不公平」とする意見もないわけではない。この意見のもとでは、合唱・独唱も第1楽章から舞台上で待機することが要求されるか、あるいは打楽器奏者のみ合唱と同時に遅れて入場することが認められるような場合もある。管楽器の場合はこのようなことが認められることは滅多にない。

曲の構成

一般的な交響曲の「アレグロソナタ - 緩徐楽章 - 舞曲 - 終楽章」という構成と比べ、第2楽章と第3楽章が入れ替わり、第2楽章に舞曲由来のスケルツォ、第3楽章に緩徐楽章が来ている。このような曲順は初期のハイドンなどには見られたが、次第に第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がメヌエット(舞曲)という構成が固定化して行き、ベートーヴェンによって再び取り上げられた形となった。以後この形式は定着し、後の作曲家はこの形式でも交響曲を作るようになった(特にロシアの作曲家に多い)。

第1楽章

Allegro ma non troppo, un poco maestoso ニ短調 2/4拍子

ソナタ形式。第1楽章において、ベートーヴェンの比類なき天才性が示される。

ソナタ形式によるが、以下の点で型破りである。

  1. 神秘的な空虚五度の和音で始まる。
  2. 習慣的な反復記号を欠いている。
  3. 通常平行調または属調で現れる提示部第2主題が下属調平行調になっている(通常のソナタ形式であれば、短調の第1主題に対し、第2主題は3度上の平行長調であるヘ長調で現れるべきだが、ここでは逆に3度下の変ロ長調が使用されている。この調性は、第3楽章や第4楽章で重要な働きをする)。
  4. 再現部の冒頭が、展開部と第1楽章のクライマックスを兼ね添えていて、提示部のそれとかなり異なる雰囲気である。

冒頭の弦楽器のトレモロにのせて第1主題の断片的な動機が提示され、それが発展して第1主題になるという動機の展開手法は非常に斬新なものである。第1主題は、ニ音イ音による完全五度を骨格とした力強い主題であり、この完全五度の関係は、この作品全体にわたって音楽に大きな律動感を与えている。

第2主題部の導入部は、第4楽章で現れる「歓喜」の主題を予め暗示させるような効果を持つ。

コーダの不気味な半音階オスティナートは、メンデルスゾーン交響曲第3番や、とりわけブルックナー交響曲第2番第3番に強い影響を与えている。

第2楽章

Molto vivace ニ短調 3/4拍子(トリオではニ長調 2/2拍子)

複合三部形式をとるスケルツォ楽章である。ソナタ形式

曲調は第1楽章を受け継ぐような形で、第1楽章同様DとAの音が骨格になっている。弦楽器のユニゾンとティンパニで構成される序奏を経て、提示部ではフーガのようにテーマが絡み合い、確保される。

経過句ののち第2主題に移るが、主調が短調の場合、第2主題は通常平行調(ニ短調に対してはヘ長調)をとるところ、ここではハ長調で現れる。また、1小節を1拍として考えると、提示部では4拍子、展開部では3拍子でテーマが扱われる。

展開部ではティンパニが活躍する。このことから、この楽章はしばしば「ティンパニ協奏曲」と呼ばれることがある。ティンパニは通常、主調のニ短調に対してDとAに調律するところを、ここではFのオクターヴに調律されているのが独特である(ベートーヴェンは、既に第8番の終楽章(ヘ長調)で、Fのオクターブに調律したティンパニを使っている)。

中間部の旋律は、歓喜の主題に似ている。速度は更に速められてプレスト。オーボエによる主題提示の後、弦楽器群のフーガ風旋律を経てホルンが同じ主題を提示する。フルートを除く木管楽器群の主題提示の後、今度は全合奏で主題を奏する。

第3楽章

Adagio molto e cantabile 変ロ長調 4/4拍子

2つの主題が交互に現れる変奏曲の形式と見るのが一般的であるが、一種のロンド形式、また一種の展開部を欠くソナタ形式と見ることもできる。

A B(ニ長調) A第I変奏 B(ト長調) A第II変奏(変ホ長調) A第III変奏 コーダ
第1主題 第2主題 第1主題 第2主題 コーダ
提示部 再現部

瞑想的な緩徐楽章である。4番ホルンの独奏は、当時のナチュラルホルンでは微妙なゲシュトプフト奏法を駆使しなければ演奏することができなかった(ちょうど作曲当時はバルブ付きの楽器が出回り始めた頃だったので、この独奏はバルブ付きホルンで演奏することを前提にしていたという説もある)。これは当時ホルン奏者のみならず、指揮者なども大変気を遣った難しいパッセージであったことで有名。この楽章の形式は後世のブルックナーのアダージョ楽章に大きな影響力を与えた。そのほかにこの楽章と似ているのはメンデルスゾーンの交響曲第3番の第3楽章やブラームスセレナード第1番の第3楽章、ドヴォルザーク交響曲第6番の第2楽章などがある。

第4楽章

管弦楽が前の3つの楽章を回想するのをレチタティーヴォが否定して歓喜の歌が提示し、ついで声楽が導入されて大合唱に至るという構成。変奏曲の一種と見るのが一般的であるが、有節歌曲形式の要素もあり、展開部を欠くソナタ形式という見方も可能である("Freude, schöner Götterfunken"が第1主題、"Ihr, stürzt nieder"が第2主題、Allegro energico, sempre ben marcatoが再現部)

Presto / Recitativo ニ短調 3/4拍子
第1楽章の葛藤、第2楽章の諧謔、そして第3楽章の瞑想に続いて、管楽器が強烈な不協和音を奏でて、終楽章が始る。しかし、すぐさま低弦(チェロとコントラバス)のレチタティーヴォがこれに答える。その後再び、管楽器が冒頭の音楽を奏でるが、再度低弦が答える。
Allegro ma non troppo ニ短調 2/4拍子
管弦楽が第1楽章を回想する。しかし、再び低弦のレチタティーヴォがこれに答える。
Vivace ニ短調 3/4拍子
今度は第2楽章が回想される。しかし、再度低弦のレチタティーヴォに中断される。
Adagio cantabile 変ロ長調 4/4拍子
第3楽章を管楽器が回想するが、これも低弦のレチタティーヴォに中断される。
Allegro assai ニ長調 4/4拍子
管楽器が、この交響曲でそれまでに断片的に姿を現した動機を演奏し、この動機を基に、低弦が静かに第1主題(「歓喜」の主題)を演奏しはじめる。すると、ヴィオラがそれに続き、ファゴットとコントラバスの対旋律がそれを支える。さらに、歓喜の主題はヴァイオリンに渡され、四声の対位法によって豊かなハーモニーを織り成す。最後に管楽器に旋律が渡され、全管弦楽で輝かしく歌い上げられる。
Presto / Recitativo ニ短調 3/4拍子
"O Freunde"
再び冒頭部の厳しい不協和音が、今度は管弦楽の全奏で演奏される。バリトン独唱が低弦のレチタティーヴォと同じ旋律のレチタティーヴォで"O Freunde, nicht diese Töne!"(「おお友よ、このような音ではない!」)と、これを否定する。ここで初めて声楽が導入され、冒頭から繰り返された低弦のレチタティーヴォの意味が明らかとなる。歓喜の主題に続き、合唱が入る。
今日の出版譜ではバリトンの歌い出しには「ラ→ミ」の跳躍に加え「ラ→ド♯」が記されているが、レチタティーヴォ後半部の高いファ#を出せない初演ソリストのために変更された代替パートで稀にしか歌われない。(このメロディーを選んだために音程が悪いと酷評されている大歌手もいる)初演ではまた細かい上下(メリスマ)部分のカットも検討されたようである。最後期筆写スコアには他にも代替案が残っているが、出版譜には反映されなかった。
Allegro assai ニ長調 4分の4拍子
"Freude, schöner Götterfunken"
Freude!の掛け声をバリトン独唱と合唱のバス(テノールも一緒に歌われることもある)が掛け合い、バリトン独唱が"Freude, schöner Götterfunken"「歓喜」の歌を歌い、それに合唱が続く。独唱4人、合唱が交互に「歓喜」の主題を変奏する。
Alla marcia Allegro assai vivace 変ロ長調 6/8拍子
"Froh, wie seine Sonnen"
行進曲である。それまで沈黙を守っていた打楽器群が弱音で鳴り始め次第に音量を増し、その上を吹奏楽が「歓喜」の主題を変奏する。続いて、テノール独唱が「歓喜」の主題の変奏の旋律で"Froh, wie seine Sonnen"「神の計画」を歌い、それに男声三部合唱(第1テノール・第2テノール・バス)が続く。
シンバルやトライアングルといったトルコ起源の打楽器が使われているためこの部分を「トルコ行進曲」と呼ぶ事があるが、拍子も装飾の付け方も(新しい研究では恐らくテンポも)本来のトルコ音楽とはかけ離れている。『第九』の30年前にベートーヴェンの師の一人であったヨーゼフ・ハイドン交響曲第100番『軍隊』でこれらトルコ起源の打楽器を使用しており、当時の流行が伺えるものの、時代を下るにつれ欧州各国の軍楽隊でシンバルやトライアングルは常備されるようになっていた。ベートーヴェンの後の世代となるロッシーニなどはもはやシンバルもトライアングルも軍隊と無関係な音楽で導入している。
その次は久しぶりに純粋な管弦楽のみによる演奏が続き、一度静かになったあと、合唱が「歓喜」の主題を歌う。ここがいわゆる「第九の合唱」として有名な箇所である。
Andante maestoso ト長調 3/2拍子
"Seid umschlungen, Millionen!"
「抱擁」の主題が提示される。
Adagio ma non troppo, ma divoto 変ロ長調 3/2拍子
"Ihr, stürzt nieder"
Allegro energico, sempre ben marcato ニ長調 6/4拍子
"Freude, schöner Götterfunken" / "Seid umschlungen, Millionen!"
「歓喜」と「抱擁」の主題による二重フーガである。
Allegro ma non tanto ニ長調 2/2拍子
"Freude, Tochter aus Elysium!"
久しぶりに独唱4人が歌う部分が登場する。4人が歌っているところに合唱が入っていき、しばらく歌った後再び4重唱に戻る。各独唱者が順に(ソプラノ→アルト・テノール→バリトン)3連符や16分音符で細かく動いていく。これ以降独唱の部分はない。
Prestissimo ニ長調 2/2拍子
"Seid umschlungen, Millionen!"
第4楽章のクライマックスで、最もテンポが速い。途中数小節のみ4分の3拍子でMaestosoとなる部分がある。
歌詞 ソナタ形式としてとらえた場合
叙唱
第1・第2・第3楽章の回想と新しい主題の着想
第1主題 提示部第1主題
第1主題の変奏I II III
叙唱
第1主題の変奏IV V VI VII VIII 1番、2番、3番、4番、1番
第2主題a 5番 第2主題
第2主題b 6番
第1主題と第2主題aの対位(変奏IX) 1番と5番 再現部第1主題
第2主題b 6番 第2主題
第1主題の変奏X 1番 コーダ
第1主題と第2主題aによる変奏(XI) 1番と5番
コーダ

この終末に合唱が入る形式は後にメンデルスゾーン、リストマーラーショスタコーヴィッチなどが取り入れている。

歓喜の歌

フリードリヒ・フォン・シラーの詩作品『自由賛歌』(Hymne à la liberté 1785年)がフランス革命の直後『ラ・マルセイエーズ』のメロディーでドイツの学生に歌われていた。そこで詩を書き直した『歓喜に寄せて』(An die Freude 1803年)にしたところ、これをベートーヴェンが歌詞として1822年から1824年に書き直したものである。一説にはフリーメイソンリーの理念を詩にしたものだともいう。

「歓喜のメロディー」は、交響曲第9番以前の作品である1808年の『合唱幻想曲』作品80と、1810年ゲーテの詩による歌曲『絵の描かれたリボンで Mit einem gemalten Band』作品83-3においてその原型が見られる。

歌詞(ドイツ語原詞・日本語訳)

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版の問題

この作品は、その斬新な作風から解釈やオーケストレーションについて多くの問題を含んでおり、19世紀後半のワーグナーマーラーワインガルトナー<ref>旋律線強化の目的で行われた各種編曲の実態は「ある指揮者の提言」で、マーラー版については「マーラーの交響曲」で詳しく紹介されている。</ref>といった名指揮者・作曲家によるアレンジが慣例化している他、ストコフスキー近衛秀麿トスカニーニなど多くの指揮者が独自のアレンジを施しており、幾つかはCDなどの録音で検証することが可能である。それらは演奏実践に有益な示唆を含んでいるが、同時に作曲当時には存在していなかった楽器法を取り入れた結果、曲本来の姿を伝える上では障害ともなっている。

なお、かつて教育テレビ1986年秋に放送されたNHK趣味講座「第九をうたおう」では、こうしたオーケストレーション変更の意義を、主に初心者を対象にして分かりやすく説明していた。番組テキストには、ベートーヴェンが採用したオーケストレーションの意図や、一般的な譜面の読み替え(例えば第2楽章276小節からのVn.1パートは、現在1オクターブ高く演奏されることが多い)も含め、オーケストレーションの参照譜例が幾つか収録されており、一般市民が入手できるものとして、当時貴重な資料であった。

また自筆スコアの他にスコア・パート譜から修正チェック用のメモ、テンポは会話帳の1ページに甥のカールによって記され、出版社への修正依頼が記された書簡まで数多くの筆写史料が残っており、微妙な違いが無数にあるため食い違いが作曲者の意図なのかそれとも写し間違いなのか決定しにくい点が問題となってきた。

ミサ・ソレムニス』という更なる大曲と並行して作られ、出版やウィーン以外の国でも初演される事が決まっていたという前提があったが、長年ベートーヴェンの筆跡判読を行なっていた筆写作業の統括者ヴェンツェル・シュレンマーが1823年に亡くなり作業は停滞する。後継の写譜師達からは仕事を断る者、途中放棄する者が出たほどである。自筆スコアが書き上がった後も初演に向けてベートーヴェンは執拗に改訂を行なった。自筆スコアとは別にスコア+パート譜が1825年までに3種類作られた。膨大な譜面の校正も困難で、ベートーヴェンも誤写を見過ごしてしまい、体調不良から校正を第三者に委ねようと依頼して断られるなど、混乱は初版第1刷発行後も続いた。
このような状況で1826年に出版された初版スコアは、その版下と比べて食い違いがおびただしい。修正刷りのチェックなど校正がほとんど行われなかったためとみられる。1864年に出たブライトコプフ・ウント・ヘルテル社(ドイツ)の旧全集版は自筆スコア、筆写史料、初版に基づいて作成されているが、テンポの問題は解決されず、歌詞の誤り、写譜師の誤写や初版のミス、ベートーヴェンの改訂前の形を採用するなど問題が多く、さらに元の資料に無い同社独自の改変も見られる<ref>第1楽章81小節の改変などはどの資料にも存在せず、本格的な原典版が演奏された時には衝撃をもって迎えられた。</ref>。この改訂の実態は校訂報告が発表されなかったので長年この旧全集版こそ決定版と認識されて来たのである。

ベートーヴェンが死の直前にシントラーに贈った自筆スコアはシントラーの死後ベルリン国立図書館に収められたが、第二次世界大戦中に行方不明となった。1924年に出版されたファクシミリ(写真版)を参照して修正を加える岩城宏之クレンペラーなどの例も有った<ref>有名なのが第1楽章300小節のティンパニとトランペット。自筆スコアでは16分音符だが筆写時の誤りで以降の版が全て8分音符になっている。第3楽章の旋律、第4楽章330小節のティンパニに付けられたデクレッシェンドの処理なども聴いて判りやすい。</ref>のだが、旧全集版に慣れた考え方からすると自筆スコアに残る音形は奇異に思われる物も多く、なかなか全面的には受け容れられて来なかった。

20世紀末になると、東西ドイツの統合とソ連の崩壊に伴い行方不明になっていた資料が発見され、それらの素性も明らかにされて来た。『第九』に関しては残っているだけで20点もの原典資料が、ヨーロッパからアメリカの各地に散らばっていたのである。自筆スコアも'77~90年代に大部分がベルリンに戻ったが、数ページがパリの国立図書館やボンのベートーヴェン研究所にあるなど分散したままである。

イギリスの音楽学者・指揮者のジョナサン・デルマーがこうした新旧様々な資料に照らし合わせて問題点を究明し<ref>その研究を参考に音楽学者・指揮者の金子建志も演奏史を含めて自らの著作で言及している。この研究は実際に原典資料を演奏に用いるなどの実践に裏付けられたものである。</ref>、この研究は楽譜化され1996年ベーレンライター社から出版された。自筆スコアから誤まって伝えられてきた音が元通りに直されたため、ショッキングに聴こえる箇所がいくつもあり大いに話題を呼んだが、ベートーヴェンの書きたかった音形を追求した結果、旧全集同様どの資料にも無い音形が数多く表れている点もこの版の特徴である。<ref>この版の出版直後「ベーレンライター版使用」と明記した演奏・録音が流行したが、デルマー版は演奏者が違和感を拭えない箇所が随所にあると見なされ、実際には「新版の改訂を一部だけ採用し、大部分は旧来の楽譜のまま」という扱いだった。昨今では「ベーレンライター版使用」と銘打つ演奏会は鳴りを潜めている。</ref>

21世紀に入って旧ベートーヴェン全集の出版社であるブライトコプフ社もペーター・ハウシルトの校訂で原典版を出版した。こちらは先行するデルマーの版と同じ資料に基づきながらも、資料ごとの優先度が違い、異なる見解がいくつも現れている<ref>例えば先述の第4楽章330小節について、デルマーは自筆スコアにはデクレッシェンド無し、残存する初演用弦楽器パート譜には全て、初演用のスコアではティンパニだけ、とまちまちである事、また諸説ある初演の合唱団人数を少なく見積もった上「ティンパニに合唱がかき消されないよう、その場で指示された処置ではないか」と考えてこの指示を削除したが、ハウシルトは最後発の筆写スコア(ベートーヴェン自身が校閲したプロイセン王への献呈譜。クルト・マズアらが参照している)に従い、合唱以外の全楽器にデクレッシェンドをつけている。この箇所を研究動機の一つとした金子建志は、生前の朝比奈隆にインタビューした際「噪音の多い」ティンパニはあまり大きく叩かせたくないという発言を得ており、またリストワーグナーによるピアノ編曲版も考慮した上で、ティンパニが低音域で「ラ」=和音の第3音を叩く事が聴感上アンバランスである、と旧全集版のティンパニのみのデクレッシェンドを評価し直している。(『レコード芸術』誌2007年10月号,p164-)</ref>。

いずれも国際協力と新しいベートーヴェン研究の成果、現場の指揮者や演奏家達の助言も入れて編集された批判校訂版である。また将来、ボン・ベートーヴェン研究所のベアテ・アンゲリカ=クラウス校訂による新ベートーヴェン全集の版がヘンレ社から刊行される予定である。

前後の作品

使われた作品など

脚注

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関連項目

参考文献

  • 土田英三郎解説 ミニチュアスコア『ベートーヴェン交響曲第9番ニ短調作品125』(音楽之友社, ISBN 4-276-91936-3
  • ベートーヴェン研究 児島新/著(春秋社, ISBN 978-4-393-93174-5
  • ベートーヴェン書簡選集 ベートーヴェン/著 小松雄一郎/訳・編(主に下巻, 音楽之友社)
  • Symphony No. 9 with final chorus 'An die Freude' D minor op. 125 Ed; J.DelMar(Barenreiter, BA9009)
  • Symphonie Nr. 9 d-moll op. 125 hrsg. von P. Hauschild(Breitkopf Urtext neuausgabe, PB5239)
  • 「第九」のすべて 武川寛海(日本放送出版協会 1977年出版)
  • こだわり派のための名曲徹底分析「マーラーの交響曲」 金子建志/著 (音楽之友社, 1994)
  • 同 ベートーヴェンの「第九」 金子建志/著 (音楽之友社, 1996)
  • ある指揮者の提言~ベートーヴェン交響曲の解釈 フェリックス・ワインガルトナー/著 糸賀英憲/訳(音楽之友社, 1965)

また原典版編集者が用いたものと同じ資料を、インターネットを通じて複数参照する事が可能となっている。

  • ベルリン国立図書館収蔵の自筆スコアは、2001年の世界遺産(正確には『世界の記憶』。『世界記録遺産』とも)登録後はインターネット上に公開され、全ページの閲覧が出来る。
  • 初演にも使われた初版用筆写スコアはショット社が2003年に売却、ロンドン・サザビーズのオークションで190万ポンド(当時約310万米ドル=約3億6500万円)で匿名氏によって落札され、同社による音楽資料の落札価格最高値を更新した。こちらもジュリアード音楽院の手稿譜コレクションとしてインターネットを通じて閲覧出来る。
  • ベートーヴェン研究所もショット社の初版スコア/パート譜/ヴォーカルスコア(ピアノ伴奏が付いた声楽用簡易スコア)などを公開している。作品に関する書簡も解読された文面とともに公開されている。

外部リンク

Template:ベートーヴェンの交響曲bar:9. Simfonie (Beethovn) ca:Simfonia núm. 9 (Beethoven) ceb:Symphony No. 9 (Beethoven) cs:Symfonie č. 9 (Beethoven) da:9. symfoni (Beethoven) de:9. Sinfonie (Beethoven) en:Symphony No. 9 (Beethoven) eo:9-a simfonio (Beethoven) es:Sinfonía n.º 9 (Beethoven) eu:Bederatzigarren Sinfonia (Beethoven) fa:سمفونی نهم fi:Sinfonia nro 9 (Beethoven) fr:Symphonie n° 9 de Beethoven he:הסימפוניה התשיעית של בטהובן hr:Simfonija br. 9 (Beethoven) hu:Beethoven: 9. szimfónia ia:None symphonia de Beethoven id:Simfoni No. 9 (Beethoven) it:Sinfonia n. 9 (Beethoven) ko:교향곡 9번 (베토벤) la:Symphonia nona Ludovici van Beethoven nl:Symfonie nr. 9 (Beethoven) no:Symfoni nr. 9 (Beethoven) pl:IX symfonia Beethovena pt:Sinfonia n.º 9 (Beethoven) ro:Simfonia a 9-a (Beethoven) ru:Симфония № 9 (Бетховен) simple:Symphony No. 9 (Beethoven) sl:Simfonija št. 9 (Beethoven) sr:Simfonija br. 9 (Betoven) sv:Symfoni nr 9 (Beethoven) tr:9. senfoni uk:Симфонія №9 (Бетховен) vi:Giao hưởng số 9 (Beethoven) zh:第9號交響曲 (貝多芬) zh-min-nan:Tē 9 hō Kau-hiáng-khek (Beethoven)

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