井上ひさし

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Template:Infobox 作家 井上 ひさし(いのうえ ひさし、1934年11月17日 - 2010年4月9日)は、日本小説家劇作家放送作家である。文化功労者日本藝術院会員本名井上 廈(いのうえ ひさし)。結婚当時(1961年 - 1986年)の本名は内山 廈(うちやま ひさし)<ref>西舘代志子と結婚していた当時は、西館の実家である「内山」姓が本名であった。これは結婚に際してどちらの姓を名乗るかにこだわらなかったからとエッセイ(『家庭口論』中公文庫、1976年)で記している。</ref>。その他の筆名として遅筆堂(ちひつどう)を使用することもある。

日本劇作家協会理事社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任した。

目次

来歴

井上靖と競った文学青年を父として山形県東置賜郡小松町(現川西町)に生まれる。5歳で父と死別し、義父から虐待を受ける。その後、義父に有り金を持ち逃げされ生活苦のため母はカトリック修道会ラ・サール会の孤児院(現在の児童養護施設)「光が丘天使園」にひさしを預ける。そこでは修道士たちが児童に対して献身的な態度で接していた。カナダから修道服の修理用に送られた羅紗もまず子供たちの通学服に回し、自分はぼろぼろの修道服に甘んじ毎日額に汗して子供たちに食べさせる野菜などを栽培していた。このような修道士たちの生きざまは入所児童を感動させ、洗礼を受ける児童が続出した。ひさしもその一人(洗礼名:マリア・ヨゼフ)。高校は仙台第一高等学校へ進み孤児院から通学、在校中の思い出を半自伝的小説『青葉繁れる』に記している。また在校中は新聞部に所属し、1学年上級生には俳優の菅原文太がいた。東北大学東京外国語大学の受験に失敗して早稲田大学の補欠合格と慶應義塾大学図書館学科の合格を果たすも学費を払うことができず、孤児院の神父の推薦で上智大学文学部ドイツ語学科に入学。しかしドイツ語に興味が持てなかった上、生活費も底をついたため2年間休学して岩手県の国立釜石療養所の事務職員となる。看護婦への憧れから医師を志し<ref>井上ひさし『続家庭口論』、中央公論社</ref><ref>井上ひさし『ブラウン監獄の四季』、講談社</ref>、東北大学医学部岩手医科大学を受験して失敗。その後ドイツ語からフランス語に専攻を変えて復学。釜石で働いて貯めた15万円は、赤線に通い詰めて2ヶ月で使い果たした<ref>井上ひさし『モッキンポット師ふたたび』、講談社文庫(1985年)、巻末の年譜(1984年10月著者自筆)の中に述べられている。</ref>。

上智大学外国語学部フランス語学科を卒業する前から、浅草のストリップ劇場フランス座を中心に台本を書き始める。当時のストリップは1回2時間程度のショーに先駆け1時間程度の小喜劇を出し物としており、殊にフランス座は渥美清を筆頭として谷幹一関敬六長門勇と言った後に日本を代表する喜劇役者の活躍の場であった。これらの大学時代の経験は、『モッキンポット師の後始末』に(かなりフィクションが交えられているが)小説化されている。

卒業後、放送作家として活動し山元護久と共に『ひょっこりひょうたん島』を手がける。『ひょうたん島』が、島が流れ着いた国の一つ、国民すべてが郵便局員であるというポストリアの設定が郵政を馬鹿にしていると抗議があり放送が打ち切りになった<ref>朝日新聞出版『論座』 2004年4月号</ref>後、『ネコジャラ市の11人』が放送された。作風は近代化されたが時代的背景からTemplate:要出典範囲、『ひょうたん島』に比べれば短期間で終了となった。その後小説・戯曲等に活動範囲を広げた。

亡くなるまでに日本ペンクラブ会長日本文藝家協会理事、日本劇作家協会理事(2004年4月 - )、千葉県市川市文化振興財団理事長(2004年7月 - )、世界平和アピール七人委員会委員、仙台文学館館長(初代)、もりおか啄木・賢治青春館名誉館長(2002年 - )などを歴任した。また多くの文学賞等の選考委員を務めており直木三十五賞読売文学賞小説賞、谷崎潤一郎賞大佛次郎賞川端康成文学賞吉川英治文学賞岸田国士戯曲賞講談社エッセイ賞日本ファンタジーノベル大賞小説すばる新人賞が挙げられる。2009年より文化学院の特別講師となっていた。以前、姉が文化学院フランス語を教えていたことと、娘等が文化学院の卒業生だったことから引き受けたというTemplate:要出典。同年、日本藝術院会員に選ばれた。

2009年10月に肺癌と診断され、治療中の2010年4月9日に死去した<ref>Template:Cite news</ref>。Template:没年齢

人物

作家のイメージとは少し異なる朴訥とした親しみ易い顔形・分厚い丸眼鏡・出っ歯がトレードマークである。

『巷談辞典』(文春文庫、1984年)では、自身の少年時代に行った、猫にガソリンをかけて火をつける、猫を火の見櫓の天辺から落として死なせるなどの猟奇的な動物虐待の数々を、動物愛護団体への批判に絡めて告白している。

プロ野球の東京ヤクルトスワローズのファンの著名人として知られているが、数少ない国鉄スワローズ時代からのファン。これは1952年に同郷の佐藤孝夫がもしも新人王を取ったらば未来永劫応援し続けるとキリストに祈ったらその通りとなり結果やめたら「天罰が下るのが怖い」から応援し続けているとのことである。また、三女の石川麻矢によると、パシフィック・リーグでは近鉄バファローズのファンであったという<ref>『激突家族 井上家に生まれて』P50</ref>。

週刊金曜日』の創刊に関わり編集委員を務めたが、Template:要出典範囲僅か2年で辞任している(ただし、その後は和解)。保守派の評論家として著名な渡部昇一は大学の先輩だったが、当時は図書館に住み込み勤務していた。だが仲が悪く(ひさしに言わせるとサービス精神がまったく無い)、腹いせに渡部が当番のときにガラスケースに入っていた貴重書を盗み出し神田で売り払い後で渡部が叱られたという噂を聞いて溜飲を下げたとエッセーTemplate:要出典で述べている。

以上のように、井上には必ずしも円満な社会性を備えた人格者という枠に収めきれないエピソードがいくつか垣間見える。ただし、創作の天才性のみで社会と繋がっていた無頼派、破滅型の作家たちとは、終生活発な社会的発言と活動を続け、同時に社会からもそう遇され続けた(誤報ではあったが、井上新党立ち上げが報道されたことさえある)点が大きく異なっており、その、他に類例の少ない社会的、内面的な軌跡は没後の研究が待たれるところでもある。

ひさしはエスペランティストエスペラント語使用者)でもあると推定されている(学習歴あり。但し、実力の程は不明である)。戯曲『イーハトーボの劇列車』では登場人物である宮沢賢治がエスペラントの講習を行っている。

揮毫を頼まれると、「むずかしいことをやさしく/やさしいことをふかく/ふかいことをゆかいに/ゆかいなことをまじめに書くこと」とよく記していたTemplate:要出典

家庭生活をめぐって

ひさしの三女である石川麻矢は1998年に、自らの生い立ちと家庭について綴った『激突家族 井上家に生まれて』(中央公論社)を刊行した。それによると、ひさしと麻矢の母である当時の好子夫人はともに強い個性の持ち主で、互いに妥協することをしなかった。夫婦喧嘩は大変派手で、場所をかまわず「やったらとことん」で、子どもが二人の間に介入することも嫌っていた<ref name="maya1">『激突家族 井上家に生まれて』P45 - 46。子どもに対して暴力をふるったことはなかったと記している。</ref>。石川が幼少の頃、レコードに合わせて好きな歌を歌っていたところに喧嘩をしていたひさしが投げたティースプーンが飛んできて額に当たってレコードの上に落ち、それ以来数年ひさしと積極的に口をきかなかったという<ref name="maya1"/>。 とはいえ、当時は決して家庭内が険悪だったわけではなく、好子夫人はひさしにとって「優秀なプロデューサーであり、マネージャーであった」と石川は記している<ref name="maya2">『激突家族 井上家に生まれて』P76</ref>。執筆でひさしの足がむくむと好子夫人はそれを取るためのマッサージをした<ref>『激突家族 井上家に生まれて』P73</ref>。どうしても筆が進まなくなると追い詰められたひさしは好子夫人に当たるしかなくなり、編集者は「好子さん、あと二、三発殴られてください」と懇願した<ref name="maya2"/>。殴られて顔が変形しても「忍耐とかそんな感情ではなく、作品を作る一つの過程とでも思っているような迫力で父を支えていた」と石川は記している<ref name="maya2"/>。

ひさしの作品を専門に上演する「こまつ座」の旗揚げは二人にとって共通の大きな夢の実現だったが、石川はその中で方向性が少しずつずれてきたと記している<ref name="maya3">『激突家族 井上家に生まれて』P55、P77</ref>。その時期から、好子夫人はどんなに迷惑を掛けても素晴らしい作品を残せばいいというひさしを傲慢だと思うようになった。さらに『パズル』の台本が完成せずに上演をキャンセルしたことで、好子夫人は作家の妻の立場と関係者に迷惑をかけたこととの間で苦しんだ<ref name="maya3"/>。石川は、好子夫人の"不倫"が発覚した当時座長と作家の妻の立場の狭間で疲れ切っていたこと、更年期に当たっていたこと、ひさしが好子夫人にとても厳しかったことを挙げている<ref>『激突家族 井上家に生まれて』P103</ref>。

ひさしは子どもに対して勉学の面ではほとんど口を出さず、「学校の教科をみな同じだけできてもそんなのはおばけだ。自分の好きなことを見つけなさい」と話していた<ref>『激突家族 井上家に生まれて』P15。これについては好子夫人も同じであったという。</ref>。通知表を見る機会も少なく、見ても評価の数字は見ずに担任のコメントだけを読んでいた<ref>『激突家族 井上家に生まれて』P70 - 71</ref>。文化学院に通っていた次女が留年を機に通学しなくなっても、本人に将来について考えを持っているのがわかると、ひさしも好子夫人もそれ以上何も言わなくなった<ref>『激突家族 井上家に生まれて』P78</ref>。石川自身が文化学院に進学後、途中から通っていないことがわかるとさすがに怒ったものの、石川が準備をした上で「中退してフランスに留学したい」と告げたときには、二人は反対しなかった。それだけに、ひさしが離婚後に、新しい「恋人」から「井上家は子どもたちの育て方を間違えた。学校だけはきちんと出しておかなければダメよ」と言われた話を娘たちに嬉しそうに聞かせ、さらに「君たちは悪くない。自分たちの育て方が間違っていた」と話したことに石川は失望と怒りを覚え、ひさしとの間に大きな壁ができてしまったように思えたと記している<ref>『激突家族 井上家に生まれて』P187 - 189</ref>。

石川の著書に対して小谷野敦は「井上がさらにひどい人だと知った」と記し、編集者が好子夫人にひさしから殴られることを懇願したエピソードを「信じられない世界である」と述べているTemplate:要出典

西舘好子自身は離婚後に『修羅の棲む家』(はまの出版)でひさしから受けた家庭内暴力を明かし、「肋骨と左の鎖骨にひびが入り、鼓膜は破れ、全身打撲。顔はぶよぶよのゴムまりのよう。耳と鼻から血が吹き出て…」と克明に記している。ひさし自身も離婚以前に「家庭口論」等のエッセイで自身のDVについて触れてはいるが、こちらはあくまでもユーモラスな筆致である。

これらのDVがすべて事実であったとすれば、大きな社会的・倫理的非難の高まりは免れないところであったが、ひさし側は真偽もふくめて黙殺する対応をとり、公職や公的活動も一切控えることをしないまま、追求する声も起こらずに話題としては終息してしまった。むしろペンクラブ会長就任など井上の社会的活動はこのあと活発化している。小谷野も『週刊新潮』追悼記事でのコメントでは、作品への賛辞に園遊会問題への批判を添えながら、この話題には一切触れていない。また、上記の出版当時、ひさしと疎遠であった石川は数年後に長女の井上都と入れ替わって、こまつ座の代表に就任するなど急速な和解ぶりを示し、死に際しても異例の記者会見で悼辞を述べるに至った一方、逆に井上都が臨終にも呼ばれなかったなど複雑な家族関係が『週刊ポスト』に指摘された。なお、『激突家族 井上家に生まれて』には、井上都はひさしの離婚時に「泣いて抵抗したにもかかわらず」こまつ座の代表になったという記述がある(P189)。

後妻のユリはひさしとの結婚前に、「井上ひさしの再婚相手」として『フライデー』に家庭内にいるところを撮影され、発行元の講談社を相手取り肖像権の侵害に対する損害賠償訴訟を起こし、1989年6月に東京地方裁判所が慰謝料など10万円の支払を命じる判決を下している。

ユリは、ひさし没後の2010年6月に発売された『文藝春秋』7月号に寄稿した「ひさしさんが遺したことば」において、ひさしとの結婚生活において口論になったことはほとんどなかったと記した。

社会活動

1987年、故郷である山形県東置賜郡川西町に蔵書を寄贈し図書館「遅筆堂文庫」が開設される。収蔵されている本には線などの書き込みがなされ、全ての本に目を通していることが実感できる。また、同所にて「生活者大学校」を設立。顔の広さから数々の言論人の講座を開講している。農業関係の催しが多い。

文体の特徴

文体は軽妙であり言語感覚に鋭く『週刊朝日』において大野晋丸谷才一大岡信といった当代随一の言葉の使い手とともに『日本語相談』を連載、『私家版日本語文法』など日本語に関するエッセイ等も多い。

自他ともに認めるたいへんな遅筆で有名であり書き下ろし戯曲が公演に間に合わず休演させることも度々で、それを逆手にとって自ら「遅筆堂」という戯号を用いることもある。特に戯曲『パズル』完成に間に合わず雲隠れした「パズル事件」は悪名高い。休演や初日延期の事態になった場合の損失には私財を投じて補填したという。1983年に自作の戯曲のみを専門に上演する劇団「こまつ座」を創立、自らを座付き作者と名乗る。ちなみに親交のある永六輔によると「遅筆がひどいのでパソコンで字を書こうと考えていると話していたが、どちらにしても同じだからやめなさいと説得し、結果やめていた」と明かして、遅筆は字を書く以前の問題だという。ただし字は丁寧で大変読みやすく、編集者を手こずらせることはないTemplate:要出典

しかし、その戯曲の完成度の高さは現代日本おいては第一級のものであり、数々の役職を含め、日本を代表する劇作家として確固たる地位を確立してきた。死去に際しては「国民作家の名にふさわしい」(別役実、産経新聞)「井上作品のあの深みと重み。同じ方向に行っても勝てるわけはないですから」(三谷幸喜、朝日新聞)「父のような存在でした。いつか“ライバルです”って、言ってみたかった」(野田秀樹、同)と、当代を代表する劇作家たちからの最大限の賛辞が追悼コメントとして並んだ。また、井上作品『ムサシ』の英米公演を控えた演出家の蜷川幸雄は訃報を受け「井上さんの舞台は世界の最前線にいるんだということを伝えたい」(報知新聞)と語っている。他に作家堀晃はHPで「小説家としては国民作家」「劇作家としての凄さにはまだ理解が及ばない」としつつ「書評家(読書家)としては超絶レベル」とコメントした。 大きな特徴は作品数が非常に多く、しかもデビュー以来40年にわたって話題作を絶え間なく提供し続けてきたことである。全期間が全盛期ともいえるコンスタントさは、その受賞歴にも明示されており、他分野の創作も含めて異例の息の長さである。

政治発言

1999年3月、日本共産党委員長・不破哲三との対談集『新日本共産党宣言』(光文社)を出版するなど共産党寄りの文化人として知られている。また2004年6月、「九条の会(きゅうじょうのかい)」の9人の「呼びかけ人」の1人となり各地で「(日本の平和を守るために)日本国憲法第9条を変えるな」と訴えるなど政治的な活動も古くから行なっていた。国鉄分割民営化については「ナショナルアイデンティティの崩壊につながる」とし反対する議論を『赤旗日曜版』に寄稿するなど、日本共産党との共同歩調が目立った。

無防備都市宣言を支持しており、「(真の国際貢献をなすためには、)例えば医学の世界で、日本が世界最良の病院となるようにし、ノーベル医学賞は毎年日本人が貰い、日本人が癌の特効薬を開発し、世界中の医師が日本語でカルテを書くようになれば、ブッシュさんもプーチンさんも世界中の富豪も、日本に診療してもらいたくなり人質同様になれば、そんな日本を攻撃できない、してはいけないと思うようになる。」と発言をしている<ref>今、平和を語る:小説家、劇作家 井上ひさしさん 毎日新聞 2008年2月4日。なお、小説『吉里吉里人』には吉里吉里国の国策として同様の設定が見られる。</ref>。

前妻・西舘好子はひさしを徹底した天皇制批判者と記し(『修羅の棲む家』)、娘の石川麻矢も「父は基本的には天皇制に反対の立場を取ってきた」と述べている(『激突家族 井上家に生まれて』)。ひさしが文化功労者を辞退せず、その後天皇主催の茶会に出席し、大岡昇平木下順二武田泰淳ら、反体制文学者が辞退した藝術院会員になったりしたことを、小谷野敦は批判しており(『天皇制批判の常識』洋泉社)、『週刊新潮』の追悼特集でも、いくつかの戯曲への絶賛に添える形ではあるが、あえてこの件に触れた。またすが秀実などもかねて、天皇制支持、反戦というのは「戦後民主主義」だとしてひさしを批判していた(『小ブル急進主義批評宣言』)。

友人

活動初期はテアトル・エコーの座付き作者に近い存在であり、主催者・熊倉一雄らとの交友も長い。その後は木村光一、栗山民也、晩年は蜷川幸雄との作・演出コンビが多かった。『ひょっこりひょうたん島』『忍者ハットリくん』など放送台本の多くを共同執筆した山元護久は早世してしまっている。

小説関係では、晩年は大江健三郎と行動をともにすることが多かったが、同い年でやはり笑いを武器にする筒井康隆との親交も深く、この三人は相互にエールを送る文章が多い。ともに娯楽色の強い小説が多かったひさしと筒井が『吉里吉里人』と『虚人たち』以降、強い実験性を打ち出すようになったのも軌を一にしており、劇作との二足のわらじを含め、良きライバル関係であったともいえる。なお、新潮社は一時期「小説新潮新人賞」をひさしと筒井の二人だけで選考させていた。一世代上の司馬遼太郎を尊敬しており、親交ある他に対談もしている。司馬とは共著で『国家・宗教・日本人』を出している (後にひさしは司馬遼太郎賞の選考委員を長く務めた)。親交はなかったが、安部公房も尊敬しており、同じ読売文学賞の選考委員になった時期があったものの、なかなか話す機会がなかったという。

高校の先輩である菅原文太とは中年以降に友情が復活しており、ベストセラー『吉里吉里人』の映画化権も菅原に委ねられた。これは結局実現しなかったにもかかわらず、三十年近くも引き上げることなく預けっぱなしになっていたことが死の際に明らかになった(読売新聞ほか)。

劇作家、演出家のロジャー・パルバースは井上作品の翻訳を行っている他、個人的にも交流があり、1976年に彼の招きにより井上は、オーストラリア国立大学日本語科で客員教授として講義を行っている。

イラストレーターでも何人かの名コンビが存在するが、山藤章二が他を圧して多く、共著扱いの本も少なくない。山藤の、出っ歯を思い切って強調した井上像は本人の写真や映像以上に広く浸透している。

家族

  • 前妻 好子
  • 後妻 ユリ(政治家・元日本共産党中央委員会常任幹部会員・衆議院議員米原昶(いたる)の娘、エッセイスト米原万里の妹、鳥取県議会議長、鳥取商工会議所会頭等を務めた政治家、実業家・米原章三の孫)
  • 長女 井上都(元こまつ座主宰)
  • 次女
  • 三女 石川麻矢(『激突家族 井上家に生まれて』著者、現在は井上麻矢。2009年11月より株式会社こまつ座社長)
  • 長男

受賞作品・活動

作品リスト

ラジオ

テレビ

小説・童話

  • ブンとフン 1970年 朝日ソノラマ のち新潮文庫
  • モッキンポット師の後始末 講談社 1972年 のち文庫
  • 手鎖心中 1972年 文藝春秋 のち文庫
  • 青葉繁れる 1973年 文藝春秋 のち文庫 岡本喜八監督で映画化
  • 四十一番の少年 文藝春秋 1973年 のち文庫)
  • イサムよりよろしく 文藝春秋 1974年 のち文庫
  • いとしのブリジット・ボルドー 講談社 1974年 のち文庫
  • おれたちと大砲 文藝春秋 1975年 のち文庫
  • 合牢者 文藝春秋 1975年 のち文庫
  • ドン松五郎の生活 新潮社 1975年 のち文庫
  • 浅草鳥越あずま床 新潮社 1975年 のち文庫
  • 日本亭主図鑑 新潮社 1975年 のち文庫
  • 新東海道五十三次 文藝春秋 1976年 のち文庫
  • 偽原始人 朝日新聞社 1976年 のち新潮文庫
  • 新釈遠野物語 筑摩書房 1976年 のち新潮文庫
  • 黄色い鼠 文藝春秋 1977年7月 のち文庫
  • 十二人の手紙 中央公論社 1978年6月 のち文庫
  • ファザー・グース 第1集 青銅社 1978年11月
  • さそりたち 文藝春秋 1979年3月 のち文庫
  • 他人の血 講談社 1979年11月 のち文庫
  • 花石物語 文藝春秋 1980年3月 のち文庫
  • 喜劇役者たち 講談社 1980年6月 のち文庫
  • 下駄の上の卵 岩波書店 1980年11月 のち新潮文庫
  • 吉里吉里人1981年)新潮社、のち文庫
  • 国語事件殺人辞典 新潮社 1982年11月
  • にっぽん博物誌 朝日新聞社 1983年3月 のち文庫
  • ライオンとソフトクリーム ひさかたチャイルド 1983年3月(ひさかたメルヘン)
  • 月なきみそらの天坊一座 新潮文庫 1984年2月
  • 四捨五入殺人事件 1984年6月(新潮文庫)
  • 犯罪調書 1984年7月(集英社文庫)
  • 不忠臣蔵 集英社 1985年12月 のち文庫
  • モッキンポット師ふたたび 1985年1月 - (講談社文庫)
  • 江戸紫絵巻源氏 1985年6月(文春文庫)
  • 腹鼓記 新潮社 1985年8月 のち文庫
  • キネマの天地 文藝春秋 1986年12月
  • 馬喰八十八伝 朝日新聞社 1986年4月 のち文庫
  • 野球盲導犬チビの告白 実業之日本社 1986年11月 のち文春文庫
  • ナイン 講談社 1987年6月 のち文庫
  • イヌの仇討 文藝春秋 1988年10月 のち文庫
  • 日本歴史文学館 別巻 四千万歩の男 伊豆篇 講談社、1989年1月
  • 十一ぴきのネコ 新潮社 1990年4月
  • 四千万歩の男1990年)講談社、のち文庫
  • 人間合格 集英社 1990年3月
  • たそがれやくざブルース 1991年6月(講談社文庫)
  • 百年戦争(1994年)講談社文庫
  • わが友フロイス ネスコ 1999年12月
  • 東京セブンローズ(1999年)文藝春秋 のち文庫
  • イソップ株式会社 中央公論新社 2005年5月 のち文庫
  • 京伝店の烟草入れ 井上ひさし江戸小説集 講談社文芸文庫、2009年

随筆

  • 家庭口論 正続 中央公論社 1974年 - 1975年 のち文庫
  • ブラウン監獄の四季 講談社 1977年2月 のち文庫
  • 笑談笑発 対談集 講談社文庫 1978年11月
  • パロディ志願 中央公論社 1979年3月(エッセイ集 1)のち文庫
  • 風景はなみだにゆすれ 中央公論社 1979年4月(エッセイ集 2)のち文庫
  • ジャックの正体 中央公論社 1979年5月(エッセイ集 3)のち文庫
  • さまざまな自画像 中央公論社 1979年6月(エッセイ集 4)のち文庫
  • 戯作者銘々伝 中央公論社 1979年9月 のち文庫、ちくま文庫
  • 私家版日本語文法 新潮社、1981年3月 のち文庫
  • 聖母の道化師 中央公論社、1981年4月(エッセイ集 5)のち文庫
  • ことばを読む 中央公論社 1982年3月 のち文庫
  • 井上ひさしの世界 白水社 1982年7月
  • 本の枕草紙 文藝春秋 1982年11月 のち文庫
  • 吾輩は漱石である 集英社 1982年11月 のち文庫
  • 自家製文章読本 新潮社 1984年4月 のち文庫
  • ああ幕があがる 井上芝居ができるまで こまつ座 朝日新聞社 1986年12月
  • 遅れたものが勝ちになる 中央公論社 1989年4月(エッセイ集 6)のち文庫
  • 悪党と幽霊 中央公論社 1989年5月(エッセイ集 7)のち文庫
  • 井上ひさしのコメ講座 正続 1989年 - 1991年(岩波ブックレット)
  • やあおげんきですか 1989年8月(集英社文庫)
  • コメの話 1992年2月(新潮文庫)
  • どうしてもコメの話 1993年11月(新潮文庫)
  • ニホン語日記 1-2 文藝春秋 1993年 - 96年 のち文庫
  • 死ぬのがこわくなくなる薬 中央公論社 1993年12月(エッセイ集 8)のち文庫
  • マンザナ、わが町 集英社 1993年9月
  • 学強盗の最後の仕事 中央公論社 1994年1月(エッセイ集 9)のち文庫
  • 餓鬼大将の論理 中央公論社 1994年2月(エッセイ集 10)のち文庫
  • 宮沢賢治に聞く こまつ座 ネスコ 1995年9月 のち文春文庫
  • 井上ひさしの日本語相談 1995年11月(朝日文芸文庫)
  • ベストセラーの戦後史 1 - 2 文藝春秋 1995年12月
  • 樋口一葉に聞く こまつ座 ネスコ 1995年12月 のち文春文庫
  • 本の運命 文藝春秋 1997年4月 のち文庫
  • 演劇ノート 白水Uブックス 1997年7月
  • 井上ひさしの農業講座 こまつ座 家の光協会 1997年11月
  • 太宰治に聞く こまつ座 ネスコ 1998年7月 のち文春文庫
  • 菊池寛の仕事 文藝春秋、大映、競馬、麻雀…時代を編んだ面白がり屋の素顔 こまつ座 ネスコ 1999年
  • 物語と夢 対談集 岩波書店 1999年2月
  • わが人生の時刻表 2000年10月(集英社文庫)
  • 四千万歩の男忠敬の生き方 講談社 2000年12月 のち文庫
  • 日本語は七通りの虹の色 2001年2月(集英社文庫)
  • 吾輩はなめ猫である 2001年8月(集英社文庫)
  • 浅草フランス座の時間 こまつ座 文春ネスコ 2001年1月
  • にほん語観察ノート 中央公論新社 2002年4月 のち文庫
  • あてになる国のつくり方 フツー人の誇りと責任 生活者大学校講師陣 光文社 2002年10月
  • 井上ひさしの大連 写真と地図で見る満州 こまつ座 小学館 2002年1月(ショトル・ミュージアム)
  • 井上ひさしコレクション 全3巻 岩波書店 2005年
  • ふふふ 講談社 2005年12月 のち文庫
  • 円生と志ん生 集英社 2005年8月
  • 井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法 講談社 2006年7月
  • 映画をたずねて 対談集 2006年11月(ちくま文庫)
  • ボローニャ紀行 文藝春秋 2008年3月
  • わが蒸発始末記 エッセイ選 中公文庫、2009年
  • ふふふふ 講談社、2009年
  • 井上ひさし全選評 白水社、2010年

共著

戯曲

コント台本

  • てんぷくトリオコント 1 - 3 さわ出版 1973年 のち講談社(「井上ひさしコント集」)
  • 井上ひさし笑劇全集 1982年 講談社

校歌

脚注

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関連項目

外部リンク

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