中山雅史

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Template:サッカー選手 中山 雅史(なかやま まさし、1967年9月23日 - )は、静岡県志太郡岡部町(現・藤枝市)出身のプロサッカー選手である。ポジションはフォワードJリーグディビジョン2(J2)コンサドーレ札幌所属。Jリーグ選手協会名誉会長。ゴン中山の愛称で知られる。ほかに、中山隊長、隊長の愛称がある。

日本代表としてフランスワールドカップ日韓ワールドカップにも出場。Jリーグ(J1最優秀選手賞1度受賞、得点王2回、ベストイレブン4度受賞した経験を持つ。

妻は女優タレント生田智子で、2004年に第1子(女子)が生まれた。実父の中山儀助は元岡部町町議会議員である。

目次

選手としての特徴

一番の強みは諦めないプレースタイル。ラインギリギリのボールにも反応してゴールしようと試み、少々のトラップミスも自らすぐに取りに行くプレーなど、当たり前のことができるプレイヤー。オフ・ザ・ボールの動きが良く、ゴールへの嗅覚が鋭い。日本人の中では泥臭いゴールが最も良く似合う「何かをやってくれそうな」ストライカー。

戦術眼もあり、パートナーを選ばない適応力の高さを持ち、また自己管理に努め、数々の負傷を乗り越え数々の記録を作ってきた。サッカー選手のフィールドプレーヤーの寿命は30代前半とよく言われるが、40歳を超えてもなおプロとして活躍する息の長さも魅力である。年齢を重ねるにしたがって若い頃のスピードはなくなったが、今度は巧みなポジショニング・動きでスペースを作り出したり、依然として強さを発揮する空中戦のポジショニングでチャンスを生み出すなど、プレーの奥深さは増していると言える。ただ、さすがに衰えもあるのか「フィールドを縦横無尽に駆け回る」と言われた運動量も近年は減った。また常にスタメンフル出場ということも少なくなり、途中交代での出場も増えた(カレン・ロバート前田遼一といった若手の台頭もある)。

そのプレースタイルゆえにケガも絶えないが、何度も立ち上がってきた。

キャプテンシーの強さ、負けず嫌いな性格などチームを引っ張りつづけるだけのメンタル面の強さも特筆される。敗戦ムード漂うチームを一瞬で鼓舞できるカリスマ性と、ベンチにいるだけで安心できる存在感を持つと評され、日本代表にとっても長期にわたって精神的支柱であった。なお、1996年からジュビロのチームキャプテンを務めた。

略歴

静岡県立藤枝東高等学校ではエースストライカーとして活躍し、高校2年生の1984年は全国高校サッカー選手権静岡県予選を勝ち進み、強豪の東海大学第一高等学校と決勝戦で対戦。絶対的劣勢が予想される中、カウンターから中山のゴールで先制すると3-1で勝利し第63回全国高校サッカー選手権大会の切符を手にする。その大会では準決勝まで駒を進めるが、長崎県立島原商業高等学校との対戦でPK負けしベスト4。しかし4試合で1失点もせず、中山も4試合で2ゴールを挙げ、得点源として活躍する。

1986年、筑波大学体育専門学群に進学。当初静岡県選抜でも経験のあったディフェンダーに回されるが、後に先輩の長谷川健太らの助言で本来のセンターフォワードに戻る。

1990年、ヤマハ発動機に入社、サッカー部(後のジュビロ磐田)に入部。当時まだ実業団であったチームに加入したため、サラリーマン生活も経験した。翌年、Jリーグ開幕10チームからヤマハ発動機サッカー部の落選することが決定すると、Jリーグ参戦が決まった新規クラブの清水エスパルスからオファーを受けるが固辞しヤマハ残留を決めた。

1992年に広島で行われたアジアカップに日本代表として招集され、スーパーサブとして優勝に貢献するなど代表に定着すると、クラブがジャパンフットボールリーグ在籍にもかかわらず、1994年アメリカワールドカップ予選の日本代表にも選ばれ、最終予選では途中からスタメンに定着して獅子奮迅の活躍を見せる。また予選中その陽気なトークや(ニッポン放送のサッカー番組で彼のレポートコーナーが常設されていた)熱意剥き出しのプレーがマスコミで話題となり、一躍全国区の人気者となる。ドーハでのイラク戦でロスタイムに同点ゴールを決められた際に、交代してベンチに座っていた中山が地面に頽れた様子は、ワールドカップ行きの切符を逃したこの試合・出来事をテレビ番組などで振り返るときに必ずといっていいほど流されるシーンとなった。またこの年、ジュビロ磐田はジャパンフットボールリーグ1部で2位となり、1年遅れながら悲願だったJリーグ昇格を果たす。

前年までの代表及びクラブでのフル稼働が原因で、恥骨結合炎及びスポーツヘルニア(現在は「グローインペインシンドローム」と総称される、サッカー選手に頻発する股関節障害)が悪化し、1994年のシーズンは開幕当初は試合に出場したが、4月末に戦線離脱を余儀なくされる。当時の日本のスポーツ医学の立ち遅れで、同様の故障で引退に追い込まれる選手も居たが、同様の症状に苦しんだ経験のある菊原志郎福田正博に助言を受け、専門医のいるドイツで手術。以後リハビリが続き8か月もの間ピッチを離れシーズンを棒に振る。

1995年には怪我から復帰し開幕から好調なスタートを切った。元イタリア代表サルヴァトーレ・スキラッチとのコンビはJリーグ最強と言われた。前年の怪我のために離れていた代表にもキリンカップで復帰したが、6月のアンブロカップ英国遠征にて故障し、翌シーズンの不調もあり一時期代表から遠ざかる。

1997年は、ドゥンガ山本昌邦らとのトレーニングにより、「ボールを持たない時の動きの質」に開眼。第2ステージでは自身Jリーグでは初のハットトリックも記録するなど活躍してステージ優勝に貢献。直後に1998年フランスワールドカップ最終予選の最終局面で代表へ復帰して今度は日本代表の予選突破に、更に鹿島とのチャンピオンシップでも3ゴールを挙げてMVPとなる活躍を見せ、ジュビロ磐田のリーグ初制覇に貢献する。

1998年に フランスワールドカップに日本代表として出場。グループリーグで敗退したものの、3試合すべてで先発し、ジャマイカ戦で日本代表のワールドカップ初ゴール・日本人初ゴールを決める。その直後の相手選手との接触で脚を骨折しながらも試合終了まで走り続けたことは、日本代表としての誇りと魂の象徴として、今も語り草になっている(但し「骨折していながらもゴールを決めた」「ゴールと引き換えに骨折した」というのは誤解)。

同年のリーグ戦では4月15日の対セレッソ大阪戦(長居)での5得点(Jリーグのリーグ戦における「1試合1人での最多得点」タイ記録)を皮切りに、4月18日の対サンフレッチェ広島戦(磐田)で4得点、4月25日の対アビスパ福岡戦(水前寺)で4得点、4月29日の対コンサドーレ札幌戦(磐田)で3得点と4試合連続のハットトリックを記録し、ギネスブックに掲載された。この荒稼ぎで第1ステージ制覇に貢献。ワールドカップでの骨折のためナビスコカップの優勝はピッチで味わえなかったものの、後半戦も1試合1点のペースで得点しつづけ、シーズン合計では27試合出場で36得点(現在でもリーグ戦の最多得点記録)を記録し当年度の得点王、MVP獲得など個人タイトルを総なめにした。しかしチャンピオンシップでは前年の雪辱に燃える鹿島に敗れ、リーグ優勝を逃す。

1999年にJリーグ選手協会副会長に就任。コパ・アメリカに招待された日本代表にも招集されるが、アルゼンチン合宿中に右眼窩底骨折で帰国し、手術。失明寸前の重傷で復帰まで1年近くはかかる、という医師の制止を振り切って2ヵ月で復帰した。それ以外にも手の骨折など怪我に苦しみ満身創痍ながらも、清水とのチャンピオンシップでは2ゴールを挙げ制覇に貢献。なお第1戦のPKによるVゴールは、彼のプロ生活初のVゴールであった。

2000年前期は故障もあって思うような活躍ができず、代表からも外され不本意な時期が続く。しかし、夏以降は本来の実力を発揮しJ通算100ゴールを達成、シーズン通算でも20得点を記録しJリーグ史上初の2回目の得点王を獲得する。なお、2月16日に行われたアジアカップ予選の対ブルネイ戦において、試合開始3分15秒でハットトリックを記録し、国際試合における最短ハットトリックとしてギネスブックに掲載された。これ以前の記録は、1938年11月16日イングランド代表のジョージ・ホールがマークした3分30秒であった。

2001年に井原正巳に代わりJリーグ選手協会会長に就任。前年からの好調を続け代表にも復帰。クラブは第1ステージを圧勝し、第2ステージも2位と年間を通して強さを発揮するが、チャンピオンシップで鹿島に敗れリーグ勝利をのがす。更にナビスコカップ決勝でも横浜F・マリノスにPK戦の末敗れるなど、無冠に終わる。

2002年、当初は候補合宿に招集されるなど2002年日韓W杯代表入りが有力視されていたが、リーグ開幕から不調(ワールドカップによる中断までわずか1得点)で、直前の海外遠征のメンバーから外された。更に当時のトルシエ監督が落選をほのめかしたことから、本大会代表には選ばれないとの推測・報道が多数を占めたが、世間一般からの「中山待望論」(直前のカップ戦ではアウェイゲームにも関わらず相手サポーターからも「ナカヤマ・ニッポン」コールが起こった)に加え、ベテラン抜きだった直前遠征で結果が出せなかった代表に足りない「精神的支柱」としての意味もあり、秋田豊とともに2002年日韓ワールドカップ日本代表に選出され、背番号10を背負った。日本のワールドカップ初勝利となったロシア戦で後半途中からピッチに立つ。「ドーハの悲劇」、1998年W杯、2002年W杯を日本代表として経験した唯一の選手となった。

クラブではリーグ得点王となった高原直泰とのコンビで再開後のリーグ戦でゴールを量産。磐田の両ステージ制覇によるリーグ完全優勝に貢献しベストイレブンに選出された。

2003年5月に10年前の恥骨結合炎が再発し戦線離脱。半年のリハビリの末、終盤戦に復帰するが、リーグ戦の優勝は逃す。しかし天皇杯ではスーパーサブとして、ヤマハ発動機時代以来の優勝に貢献した。

2005年5月1日柏レイソル戦(柏の葉)前半2分、自らが倒されて得たPKを決め、Jリーグ史上初の個人150ゴールを達成する。9月24日の柏戦(ヤマハ)では、Jリーグ15人目(フォワードとしては史上初)の300試合出場を達成。久々にほぼフルシーズン稼動した。

2006年9月17日川崎フロンターレ戦(等々力)の後半32分に得点を挙げ、磐田がJリーグに加盟した1994年から、J1リーグ戦における13年連続ゴールという記録を達成した(「公式戦」での連続ゴールならば、既に同年4月25日のナビスコカップ・大宮戦で達成)。この記録は過去に三浦知良(2006年に当時J2の横浜FCにシーズン通して在籍しており、J1リーグ連続ゴール記録は断絶している)、澤登正朗(2005年引退)、藤田俊哉しか成し遂げていない記録である。

2007年には5月3日の清水エスパルス戦(日本平)の前半22分にPKを決め、J1リーグ戦史上初となる14年連続ゴールを達成した。このゴール時の年齢は39歳7か月10日で、同年5月12日に当時40歳2か月16日の三浦知良がゴールを決めるまでJリーグの日本国籍選手最年長ゴール記録だった。また5月28日に2001年から続けてきた選手協会の会長職を藤田俊哉に譲り、名誉会長に就任する。

2008年3月15日のガンバ大阪戦(静岡スタジアムエコパ)でもロスタイムにゴールを挙げ、J1リーグ戦15年連続ゴールを達成。歴代3位となる自身のゴール時年齢記録も伸ばしている(40歳5か月22日)。なおJ1リーグ戦史上最年長ゴール記録はジーコの41歳3か月、2位はその後40歳6か月まで記録を伸ばしている三浦知良である。5月25日にはナビスコカップ清水エスパルス戦(日本平スタジアム)で、後半43分にCKをヘディングで決めて、40歳7か月13日の最年長ゴール記録を保持していたジーコを抜いてナビスコカップ最年長ゴール記録を塗り替える(中山は40歳8か月2日)で、快挙を達成したが、試合には敗れたため、本人から喜びの言葉はなかった。

2009年シーズンは出場機会が激減。高齢となったこともあり、11月9日にジュビロから戦力外通告を受け、スタッフとして残留するよう要請された。しかし、現役続行に強い意欲を示す中山はこれを断り、移籍先を探した。ヤマハスタジアムでの最終公式戦となった11月28日広島戦の後半途中から出場し、ラモス瑠偉が持つJ1最年長出場記録(41歳9か月5日)を更新(42歳2か月5日)。試合後には中山が挨拶を行ない、サポーターへの感謝と現役続行への意欲を表明した。最終節は出場機会は回ってこなかったが、試合後両チームのサポーターの声援に応え、1万5000人の拍手を浴びながらジュビロでの最後の試合を終えた。

退団発表後、ロアッソ熊本FC町田ゼルビア横浜FCコンサドーレ札幌V・ファーレン長崎、藤枝MYFCの6クラブが興味を示し、獲得の意思を表明。年俸提示は最も低かったが、「グラウンドに立つための体のケアを一番に考え」、施設や医療体制が充実しているコンサドーレ札幌への移籍を決断した。12月24日に開かれた移籍会見では、「現役生活が一番幸せ。辞めたり、諦めたりするのはいつでも出来る。無様な姿を晒すかもしれないが、それが僕のサッカー人生」と、あくまで現役にこだわり続ける姿勢を表明した。

所属クラブ

個人タイトル

背番号

ジュビロ磐田

9 1997年-
前身のヤマハ発動機サッカー部に加入していきなり背番号9を付けて以来、固定背番号制になる前からほとんどの試合で9をつけている。Jリーグの公式戦での例外は以下の2試合のみ。
このシーズンの開幕戦で、スキラッチが9番、中山は11番で登場。しかし次のホーム・ジュビロ磐田スタジアムでの開幕試合(3月22日G大阪戦)から2人は背番号を入れ替える。
直前の静岡ダービーで怪我を負い、ベンチスタートしたため背番号はサブ用の15。

日本代表

9 1998-2000年、2002-2003年
磐田ではおなじみの背番号。日本人初めてのワールドカップにおける得点などはこの背番号を背負って挙げている。
10 2002年
日韓W杯時の背番号。藤枝東高校時代以来だったというこの背番号を背負って、日本のW杯初勝利となったロシア戦のピッチに立った。
11 2001年
9番を西澤らに譲り、僚友カズの背番号だったこの背番号を背負った。
14 1995年
加茂代表時の背番号。1995年のイングランド遠征時もこの背番号だった。
16 1992-1993年
オフト代表時の背番号。中山の名を一躍有名にした1994年アメリカW杯予選の際もこの背番号を背負っていた。
32 1997年
1998年フランスW杯予選の土壇場で2年ぶりに代表復帰した時の背番号。ジョホールバルの歓喜として記憶されるイラン戦で先制点を挙げたときの背番号である。

経歴

個人成績

利用者:Bcjp/t/fbp国内表 top !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯/ナビスコ杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算 |- |1990-91||ヤマハ||9||JSL1部||13||4||2||1|||||||| |- |1991-92||ヤマハ||9||JSL1部||18||15||1||0|||||||| |- |1992||ヤマハ||9||旧JFL1部||16||13||colspan="2"|-|||||||| |- |1993||ヤマハ||9||旧JFL1部||18||18||0||0||1||0||19||18 |- |1994||磐田||-||J||12||3||0||0||0||0||12||3 |- |1995||磐田||-||J||45||18||colspan="2"|-||0||0||45||18 |- |1996||磐田||-||J||27||9||13||7||0||0||40||16 |- |1997||磐田||9||J||27||18||11||6||4||2||42||26 |- |1998||磐田||9||J||27||36||0||0||3||4||30||40 |- |1999||磐田||9||J1||23||6||1||1||1||2||25||9 |- |2000||磐田||9||J1||29||20||4||1||3||2||36||23 |- |2001||磐田||9||J1||30||16||8||4||1||0||39||20 |- |2002||磐田||9||J1||29||16||7||3||3||2||39||21 |- |2003||磐田||9||J1||12||3||2||1||5||0||19||4 |- |2004||磐田||9||J1||19||3||5||0||4||1||28||4 |- |2005||磐田||9||J1||29||6||2||0||2||0||33||6 |- |2006||磐田||9||J1||13||1||3||1||1||0||17||2 |- |2007||磐田||9||J1||15||1||5||1||2||0||22||2 |- |2008||磐田||9||J1||16||1||3||1||2||1||21||3 |- |2009||磐田||9||J1||1||0||1||0||1||0||3||0 |- |2010||札幌||9||J2||||||colspan="2"|-|||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算始354||157||65||26||32||14||451||197 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行||||colspan="2"|-|||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行31||19||3||1|||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算行34||31||0||0|||||||| 利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算終419||207||68||27|||||||| |} その他の公式戦

利用者:Bcjp/t/fbp国際表 top 利用者:Bcjp/t/fbp国際表 th |2004||磐田||9||4||1 |- |2005||磐田||9||1||0 |- !通算!!colspan="2"|AFC |5||1 |}

代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 53試合 21得点(1990-2003)

Template:サッカー代表個人成績 |- |1990||1||0 |- |1991||0||0 |- |1992||6||3 |- |1993||8||4 |- |1994||0||0 |- |1995||4||1 |- |1996||0||0 |- |1997||2||2 |- |1998||10||4 |- |1999||1||0 |- |2000||7||6 |- |2001||8||1 |- |2002||3||0 |- |2003||3||0 |- !通算 |53||21 |}

ゴール

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1 1992年8月29日 中国 Template:KORf △2-2 ダイナスティカップ
2 1992年11月1日 広島 Template:PRKf △1-1 AFCアジアカップ1992グループリーグ
3 1992年11月6日 広島 Template:CHNf ○3-2 AFCアジアカップ1992準決勝
4 1993年5月5日 UAE Template:LKAf ○6-0 1994 FIFAワールドカップ・アジア予選
5 1993年10月18日 カタールドーハ Template:IRNf ●1-2 1994 FIFAワールドカップ・アジア予選
6 1993年10月21日 カタール、ドーハ Template:PRKf ○3-0 1994 FIFAワールドカップ・アジア予選
7 1993年10月28日 カタール、ドーハ Template:IRQf △2-2 1994 FIFAワールドカップ・アジア予選
8 1995年5月28日 東京 Template:ECUf ○3-0 親善試合
9 1997年11月8日 東京 Template:KAZf ○5-1 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選
10 1997年11月16日 マレーシア Template:IRNf ○3-2 1998 FIFAワールドカップ予選AFCプレーオフ
11 1998年3月1日 横浜 Template:KORf ○2-1 ダイナスティカップ
12 1998年4月1日 大韓民国 Template:KORf ●1-2 親善試合
13 1998年6月26日 フランス Template:JAMf ●1-2 1998 FIFAワールドカップグループリーグ
14 1998年10月28日 大阪 Template:EGYf ○1-0 親善試合
15 2000年2月13日 マカオ Template:SGPf ○3-0 AFCアジアカップ2000 (予選)
16 2000年2月16日 マカオ Template:BRUf ○9-0 AFCアジアカップ2000 (予選)
17 2000年2月16日 マカオ Template:BRUf ○9-0 AFCアジアカップ2000 (予選)
18 2000年2月16日 マカオ Template:BRUf ○9-0 AFCアジアカップ2000 (予選)
19 2000年2月20日 マカオ Template:MACf ○3-0 AFCアジアカップ2000 (予選)
20 2000年2月20日 マカオ Template:MACf ○3-0 AFCアジアカップ2000 (予選)
21 2001年8月15日 静岡 Template:AUSf ○3-0 AFC/OFCチャレンジカップ

エピソード

Template:出典の明記 Template:独自研究

幼少期-学生時代

長男ではあるが3人姉弟の末子。強い姉2人に対抗するため必然的に負けず嫌いの性格になった。

正式にサッカーを始めたのは小4で少年団に入った時だが、遊びレベルでは幼稚園の頃からサッカー遊びも野球もしていた。子供の頃から故郷の山や川で遊び回っていたことが、後年中山の身体能力の高さの土台となった。

中学時代はサッカー部・合唱部・陸上部を掛け持ちしていたが、大会で最初に敗退したのはサッカー部だった。一方合唱部では持ち前の高く、驚くほどよく通るその声を活かしてテノールのパートリーダーを務め、入賞したこともある。

地元の名門進学校でサッカーの名門校でもある藤枝東高校には一般入試で進学(併願で静岡学園も受験し合格している)。一緒に受験した他中学のサッカー部員に「あの中山と一緒か?!」と恐れられたという。同級生にはスピッツのリーダーでベーシストの田村明浩がいた。2学年上に俳優の別所哲也がいた。

藤枝東高校では2年生の時点で背番号10を背負うエースだったが、静岡県高校選抜では武田修宏の存在もあり、ディフェンダー(センターバックやサイドバック)としてプレーすることが多かった。この頃のサイドバックとしての経験のせいか、足元の技術が高くないと評されるにもかかわらず、プロになってからもクロスボールの精度は比較的高く、味方へのアシストも多い。

筑波大学への推薦入学を決めた中山に父・儀助氏が付けた唯一の条件は、サッカーを辞めた後の人生のための教員免許取得だった。教育実習に行った茨城県内の中学校には、10余年後にチームメイトとなるカレン・ロバートの兄がいた。

大学の同期生井原正巳は等身大のライバルにして同志。同じコンビニエンスストアでアルバイトをしたり、お互い相手には隠れてトレーニングを積んでいたという。

愛称

ゴンの愛称は大学時代につけられたもの。当時、海外遠征中の不摂生で太ってしまった中山の顔立ちがTV番組「オレたちひょうきん族」でビートたけしが演じたキャラクター「鬼瓦権造」に似ていた、というのが由来で、大学時代の先輩だった鋤柄昌宏が名付け親。中山が大学時代生活していた寮の狭い部屋には不釣合いに大きなタンスがあったため(中山によれば、それ自体は事実)、「タンスに…」の連想から「ゴン」のあだ名が付いたという異説もあるが、これは後付け的説と言われる。

ファンはしばしば中山隊長とも呼ぶが、これは筑波大学時代にユニバーシアード代表でキャプテンを務めた際のチームメイトがそう呼んだことがきっかけ。

ファーストネーム、またはそれに由来する愛称で呼ばれるサッカー選手も多いが、彼の場合世間一般では「ゴン」「ゴン中山」「(ゴン)中山隊長」などの愛称のほうが通りが良く、日本ではよほどのマニアックなファンでもなければファーストネームの「雅史」のみで呼ぶことはまずない。ドイツW杯抽選会ではゲストは(通称を登録名としている人物以外)全員ファーストネームで呼ばれ、そこでは彼も「Masashi」と呼ばれた。

選手仲間、マスコミ関係者などからは「中山さん」「ゴンさん(ちゃん)」(彼より年上もしくは同輩のサッカー関係者からは敬称なし)と呼ばれることが多い。

同じチームに所属していた外国人選手の中には彼の実名が「Gon」だと勘違いしていたケースもあった。

2002年ワールドカップの日本代表に選出された際、トルシエ日本代表監督(当時)が「日本には『Gon』がいる」と発言したのを通訳者が聞き間違えて「『God』(神)」と誤訳したが、これはくしくも監督と日本サポーターの真意通りの表現であった。

2004年出生の中山の一人娘は、人の名前を認識し始めた当初、父親の名前を「なかやまジュビロ」だと思っていた。

Jリーグ

1993年秋の「ドーハの悲劇」で知名度・人気が高騰したことでCM出演依頼が増え、特に1994年にはCM出演は多数。Jリーグ加入が1年遅れたジュビロ磐田の知名度を上げることにも繋がった。しかしその1994年は怪我のため5月以後の試合出場はなかったので、一部マスコミは「CMでしか見ない人」「ドーハのみの一発屋」との痛烈な批判的記事もあったが、翌1995年の復活でそれらの風評を払拭した。

中山自らゴールを決めてチームの勝利に貢献すると、試合後サポーターの応援歌に応えて「ゴンダンス」を披露したりもする。かつてのチームメート・ドゥンガ(元ブラジル代表主将。2007年現在、サッカーブラジル代表監督)は「中山ほどファンと喜びを共有しようとする選手は他に知らない」と称えている。

2001年から2007年までJリーグ選手協会会長も務めており(現在は名誉会長)、Jリーグや日本サッカー界を盛り上げ、日本にサッカーを文化として根付かせたいという強い信念の持ち主でもある。内外のサッカー事情を把握すべく、新聞で毎節J2の観客動員数までチェック、静岡ローカルでTV放映される高校やユース年代の試合も出来る限り視聴し、その内容も驚くほど正確に記憶している。

日本代表

1997年9月のワールドカップアジア地区最終予選では、国立競技場での日本対韓国戦を中継したTBSのピッチレポーターを務め、試合前にはスタンド前でサポーターを盛り上げ明るく振舞っていたが、後年「その試合のチケットを持っていなかったのでつい仕事を受けてしまったが、現役選手の自分が一体何をやってるんだ、とかなり複雑な心境でいた」と告白。また、その日韓戦終了後、韓国代表の車範根監督が完勝と自慢げに語ったインタビューに対し、「そんなに韓国が圧倒してたわけじゃないんですけどねぇ…」と反発、悔しさを顕にしていた。その後窮地に陥った日本代表を救うべく、ホームのカザフスタン戦から代表に選出され、まともに食事も摂れないほどのプレッシャーに苦しみながらも(本人曰く「力石状態」)結果的には大事な場面でゴールを決め、日本代表の救世主となる。

上記の最終予選で代表復帰した際には、ともにドーハの悲劇を味わい、代表で正FWを争ってきた高木琢也も同時に代表復帰した。復帰後初戦のカザフスタン戦では、二人とも直前のリーグ戦で好調、またカズと呂比須が累積警告による出場停止、岡田監督も情報統制を敷いたため、サポーターは「どちらが先発するんだろう?」といい意味でやきもきしていた。そして試合当日、場内アナウンスと大型ビジョンでの先発選手紹介、日本代表で最後に不敵な笑顔の画像とともに「FW、背番号32、中山雅史」が告げられると、国立競技場を埋めた5万人以上のサポーターから大歓声と「オーナカヤマ!ナカヤマナカヤマ、ゴンゴール」の大合唱が沸き起こった。

日本で開催される代表試合において、サブメンバーの中山がアップのペースを上げたり、メンバー交代で中山の出場がアナウンスされると異様な程の大声援となるので、中山を知らない相手の外国人選手は「そんなに凄い選手が出てくるのか?」と戸惑いを感じると言われる。2002年の日韓共催W杯のロシア戦において途中出場した際も同様の現象が起きた。

2002年の日韓W杯のメンバー発表以前に発売された日本版ウイニングイレブン6のイメージキャラクターを務めた。その後、メンバー発表で土壇場のサプライズ選出が起こり、このソフトの売り上げが増大したという。なお、発売元のコナミでは中山の起用を「狙った訳でなく、全くの偶然」と話している。

2006年のドイツW杯組み合わせ抽選会(2005年12月9日、ドイツ・ライプツィヒ)に招待ゲスト(ドローワー)として参加した。

2006年FIFAW杯ドイツ大会の代表には選出されなかったが、現地レポーターやゲスト解説として活躍。珍妙な発言や妙なポーズをとったりし視聴者や共演者から笑いを誘う一方、過去W杯日本代表として闘った経験から、身をもって残してきた教訓が全く生かされなかった惨敗への苛立ちもコメントの端々から感じられた。ただ出場した選手に対しては、クロアチア戦でシュートを外した柳沢敦のプレーについてコメントを求められて、自身の経験談を交えながらプレーの際の選手心理を説明してその立場を慮るなど暖かい配慮も見せている。本気か冗談か「エントリー変更のリミットまで連絡待ちしていた」とも言い、スタジオの日本代表歴のある選手達・コメンテーター達からも「今からでもいいから代表に合流して選手達を一喝してやれ」と言われていた。

人物

サービス精神が旺盛で話術に長け滑舌も良く、ファンを喜ばせようと場を盛り上げるべく軽妙なトークを披露することで知られている。

多くの伝説的名言があるが、世間が「ゴン中山的」だと思っている奔放な発言の多くはその場のひらめきで、本人はあまり覚えていないとのこと。一方で中山は先述の数々のエピソードでも言及されている通り記憶力に優れ、サッカーのプレイや熟考した上での発言は驚くほど正確に記憶しており、自身でも人の顔を覚えるのが得意と述べている。また自身のゴール集のDVDではJ昇格を目指して戦っていた頃のゴール(収録の時点の12年も前である)についても、映像を見ずにすらすらとその時の状況を回想している。

サッカーのプレーに関しての発言では、真面目に熟考した上での発言をすることが多い。特に試合直後のインタビューではその傾向が強くなり、過去中山を取材した「情熱大陸」などのスポーツドキュメンタリーでは、笑いを狙った発言などは一切ない。しかしオールスター戦など「お祭り」では硬い話はあまりせずに楽しませる会話が増える。

「自分は下手だからこそまだまだ上達できる」と常に練習に励み、試合後は「まだまだです」とコメントすることが多い。その真面目さ・ストイックな面を藤田俊哉は「他人にも厳しいけれども、自分にはもっと厳しい人」と評している。妻の生田智子曰く「ああ見えても普通の人間。意外とデリケートだし落ち込む時もある」。

妻の生田智子とは、まだ中山が無名選手だった頃、サッカー界・芸能界共通の知人を介して知り合う。生田が中山が生活している静岡県から比較的近い名古屋で舞台出演した際、中山が陣中見舞いに訪れるなどして徐々に親しくなる。「ドーハの悲劇」以降、世間に顔と名前が知られるようになった中山と生田が外で公然と会うのは困難となったため、生田が実家に中山を招いたことを機に、家族公認の本格的な交際に。遠距離恋愛、中山の選手生命を脅かす故障などの困難を乗り越え、1996年に結婚。プロポーズは東京駅新幹線ホームに向かうエスカレーターで中山が生田に「結婚するか?」と言ったというが、その前に中山は生田の両親に「結婚を前提に真剣に交際している」ことを告げていたという。

結婚9年目の2004年、第1子の女子が誕生。この子が父親のサッカー選手としての雄姿を記憶できる年齢になるまではと、中山が現役選手であり続ける大きな原動力の一つになっている。

試合前に聴く「勝負曲」の好みは中西圭三のバラード。1998年のW杯初出場記念に中西圭三が中山への応援歌として製作した曲『SON OF THE SUN』では、中山自身が自慢のテノールで特別ゲストとしてコーラスに参加している。中西以外にはB'zの大ファン。しばしばライブ会場で夫婦そろって目撃されている。またボーカルの稲葉浩志とは同じ誕生日(9月23日)というよしみもありプライベートでの付き合いもある。 (コンサドーレ札幌に移籍した直後のキックオフイベントで、登場時に「ultra soul」をBGMにしてパフォーマンスを行った。)

身体を投げ出すプレイスタイル故に、何度も大きな怪我をし、受けた手術は十数回、全身麻酔での手術も少なくない。その全身麻酔の度にいつまで意識を保てるか「勝負」し、1999年の眼窩底骨折の手術の時は目を見開いたまま意識を失ったという。

本業のサッカー選手としてのキャラクターに留まらず多様なメディアに露出している。中山のニックネームにかけて金鳥「タンスにゴン」のCMにも出演した。この金鳥は長らく磐田のスポンサーであり、1998年から2005年まではユニフォームの背中にスポンサーロゴ(KINCHO)を掲出していた。他にも多数のCMに出演し、侍姿で殺陣を披露したり、紳士服モデルを務めたこともある。いかにもスポーツマンらしい情熱的かつ爽やかな印象を買われてか、2004年参院選など公的イメージキャラクターにも多数起用されている。アニメ『ハングリーハート WILD STRIKER』では中山が登場するエピソードで自ら「中山雅史」の声を演じた。その声優としての実力は「プロ顔負け」と高く評価された。

シーズンオフには年末年始特番やスポーツ・情報・バラエティ等の番組に度々ゲスト出演もする。現役プロアスリートとしては異例だが、2003年放映の短期集中TVサイエンスバラエティ番組『ジュブナイル』ではメイン司会を務めた。その活動ぶりを「芸能人気取り」と誤解する向きも一部にはあるが、本人は「あくまで自分の本業はプロサッカー選手である」という自覚は常に持っている。

漫画『ホイッスル!』の作者樋口大輔が中山の大ファンであり(サイン入りキーパーグローブを所持)、主人公・風祭将の性格、ゴール、エピソードなどには、彼のそれをモチーフとしたものが多く登場する。なお同作に登場する周防将大も中山をモデルにしたキャラクターで、「本人を出すのはおこがましい」との理由で名前や設定は変えてあるものの、1975年「9月23日生まれ」で中山と同じ誕生日である。

ジュビロ磐田初代監督の長澤和明は、女優長澤まさみの実父であり、長澤家とは家族ぐるみの付き合い。まさみは中山の妻である生田智子(東宝芸能所属)の勧めにより東宝「シンデレラ」オーディションに応募したことがきっかけで、現在の活躍に到っている。また小学校低学年だったまさみからプロポーズされた中山は承諾するが後に生田と結婚、その後長澤から笑いながら「大人はうそつき」と言われたのを受けて中山は「まさみちゃん!今からでも遅くは無いよ!」とTV(やべっちFC)を通じてメッセージを送った。

以前は切れ長の一重瞼の眼をチャームポイントだと自称していたが、2007年初頭頃、特に右目がぱっちりとした二重瞼に変化し、間もなく左目も二重となった。妻の生田は「(本人は)風邪をひいたためだと主張していたがそのまま戻らない」「摩訶不思議」「今度テレビで見たら注意して見てください」とコメント。

2008年、入れ替え戦の末J1に残留した後の挨拶で「サポーターの皆さん、J1に残ったどぉ~!」とファンを笑わせたが、その後は今後に向けての抱負を真剣に語った。この年Jで唯一あげたゴールはトラップでバランスを崩しながら流し込んだ。(通称「寝たきりゴール」本人曰く「うまい具合に相手がフェイントに引っかかってくれた」らしい)

漫画『ONE PIECE』のファンだと公言している。

関連情報

CM

参加CD

J-100として

  • 飛躍』(2003年3月19日発売)

コーラス

  • 『迷宮の楽園』中西圭三(1998年7月29日発売)
    • c/w『SON OF THE SUN』に参加
  • 『DO IT』HOUND DOG(1999年9月1日発売)

PV出演

  • 明日へFUNKY MONKEY BABYS(2009年11月18日発売) - 同シングル(初回限定版)のジャケットにも写真が使われている。

その他

  • 「ハングリーハート WILD STRIKER」第24話 本人役 アニマックス他
  • 「中山雅史 ゴンゴールズ」DVD 日活 2006年5月26日
  • 「スポーツの知と技-トップ・アスリートへの軌跡」共著 大修館書店 1998年5月
  • 「中山雅史物語」 村枝賢一画 全2話 週刊少年サンデー 1993年

中山の発言

Template:出典の明記 Template:独自研究

  • 「蝶のように舞い、蜂のように刺す!」('93年W杯最終予選の合宿中、テレビカメラに向かって放ったモハメド・アリの名文句)
  • 「オフト、俺はおまえを信じている。だから、おまえも俺を信じろ!」(オフト・ジャパン時代の代表合宿で、オフの時間を取材するテレビカメラに向かって放った言葉。スーパーサブとして活躍するものの、なかなかスタメン起用されないもどかしさに、ジョークの中に本音を込めていた。語る口調と姿はかなりコミカルなものであり、周りにいた代表選手は大爆笑していた)
  • 「全然ですよ。カズさんのほうが、全然下です。あっ、そんなことないです」(「カズさんを超えたという話がありますが?」と聞かれて)
  • 「勝ちたいんじゃなくて、負けるわけにはいかない」('93年のJリーグについて)
  • 「本当に来ちゃったんだよね。サブにならないように、一生懸命ガンバリマス」(オフトのジュビロ監督就任を聞いて)
  • 「Jリーグ! オレが行く前にファンをがっかりさせるなよ」(ジュビロがJリーグ参加した直後のインタビューで)
  • 「オレが岡部の中山だ!」(ドーハの悲劇直後、出身地岡部町の慰労会で)
  • 「僕がアンポンタンです!」(Jリーグの試合中、チームメイトの鈴木秀人選手が審判に対して「アンポンタンがっ!」と暴言を吐き、審判がカードを出そうとした時のとっさの機転の一言。思わず審判も笑ってしまい、カードは出さなかったという。セリフは「いかれポンチ」という異説あり)
  • 「カズさんのユニフォームの下には嫁さんのブラジャーを…」('97年W杯アジア最終予選の土壇場で代表復帰した中山は、カザフ戦でゴールを決め、自分のユニフォームの下に着込んでいたカズ(この試合出場停止)の11番を見せた。この行為には賛否あり、本人も後に「やってしまったことは仕方ない」と語っている。無論、ブラジャー云々はウソ)
  • 「来た!」「アルゼンチンかぁ」(W杯ドイツ大会の抽選会で、アルゼンチンとオランダが同組になった時思わず発したセリフがマイクに拾われ、そのまま配信されてしまった)
  • 「彼のプレーする姿勢や練習する姿勢の中から学ぶものも多くありました」(中田英寿の引退を聞いて)
  • 「(自分に)技術を置いてけよ!って言いたいね」(中山よりずっと年下で優れた技術を持つはずの選手達が30歳そこそこの若さで次々と先に引退していく現状を見て)
  • 「ワールドカップですか? …それはもう自分にとって大きいですね。なんていったってWカップですよ」
  • 女の子の「どうしてそんなに点が獲れるのか」という質問に対し中山は「それは僕が炎のストライカーだからです!」と絶叫、その声の大きさに女の子が驚き、半ベソになる様子に慌てた中山は「あ、ボールを良く見て落ち着いてシュートする事だよ」と言い直す。
  •  「頭利き」(利き足を聞かれて)
  • 「オレがジュビロの中山だ!」(09年ホームでのサンフレッチェ広島戦後のジュビロ磐田の退団セレモニーにて)

外部リンク

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