中山道
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<imagemap> File:中山道.svg|right|512px circle 464 128 4 [[日本橋 (東京都中央区)|]] circle 457 119 4 板橋宿 circle 454 111 4 蕨宿 circle 451 106 4 浦和宿 circle 449 100 4 大宮宿 circle 445 92 4 上尾宿 circle 442 89 4 桶川宿 circle 437 82 4 鴻巣宿 circle 424 72 4 熊谷宿 circle 414 66 4 深谷宿 circle 404 60 4 本庄宿 circle 396 56 4 新町宿 circle 390 53 4 倉賀野宿 circle 386 50 4 高崎宿 circle 378 49 4 板鼻宿 circle 375 49 4 安中宿 circle 365 52 4 松井田宿 circle 357 47 4 坂本宿 circle 349 46 4 軽井沢宿 circle 345 47 4 沓掛宿 circle 340 49 4 追分宿 circle 335 53 4 小田井宿 circle 334 57 4 岩村田宿 circle 328 57 4 塩名田宿 circle 325 57 4 八幡宿 circle 322 58 4 望月宿 circle 317 57 4 芦田宿 circle 313 59 4 長久保宿 circle 307 65 4 和田宿 circle 295 81 4 下諏訪宿 circle 283 78 4 塩尻宿 circle 278 80 4 洗馬宿 circle 276 83 4 本山宿 circle 272 90 4 贄川宿 circle 267 95 4 奈良井宿 circle 264 99 4 藪原宿 circle 262 105 4 宮ノ越宿 circle 256 110 4 福島宿 circle 256 117 4 上松宿 circle 255 129 4 須原宿 circle 250 131 4 野尻宿 circle 247 139 4 三留野宿 circle 245 143 4 妻籠宿 circle 243 149 4 馬籠宿 circle 239 151 4 落合宿 circle 236 153 4 中津川宿 circle 227 158 4 大井宿 circle 215 161 4 大湫宿 circle 209 161 4 細久手宿 circle 199 161 4 御嶽宿 circle 194 160 4 伏見宿 circle 187 160 4 太田宿 circle 179 164 4 鵜沼宿 circle 161 164 4 加納宿 circle 155 164 4 河渡宿 circle 151 163 4 美江寺宿 circle 143 166 4 赤坂宿 circle 138 168 4 垂井宿 circle 132 169 4 関ヶ原宿 circle 129 171 4 今須宿 circle 125 171 4 柏原宿 circle 120 173 4 醒井宿 circle 116 175 4 番場宿 circle 113 178 4 鳥居本宿 circle 110 185 4 高宮宿 circle 105 192 4 愛知川宿 circle 98 199 4 武佐宿 circle 83 206 4 守山宿 circle 80 211 4 草津宿 circle 70 212 4 大津宿 circle 61 211 4 三条大橋 desc top-right </imagemap> [[ファイル:Nakasendo Shimosuwa01bs3200.jpg|thumb|220px|五十五里塚跡、下諏訪宿]] [[ファイル:Nakasendo Kiso-fukushima01n4272.jpg|thumb|220px|中山道上の段(福島宿)]] thumb|220px|一里塚(岐阜県垂井町) 中山道(なかせんどう)は、江戸時代の五街道の一つで、本州中部の内陸側を経由する路線である。「中仙道」とも表記する。
目次 |
概要
江戸の日本橋から草津宿まで。 草津宿で東海道に合流する。江戸から草津までは129里あり、67箇所の宿場が置かれた。現在の都府県では、東京都・埼玉県・群馬県・長野県・岐阜県・滋賀県にあたる。
現在の相当道
- 国道17号:東京 - 高崎
- 国道18号:高崎 - 軽井沢馬瀬口交差点
- 長野県道9号線:軽井沢馬瀬口交差点 - 佐久市岩村田本町交差点
- 長野県道44号線:佐久市子ども未来館交差点 - 八幡西交差点
- 国道142号:八幡西交差点 - 下諏訪
- 国道20号:下諏訪 - 塩尻
- 国道19号:塩尻 - 恵那 - 土岐<ref>恵那-御嵩間について、南に大きく迂回しているが瑞浪・土岐経由(国道19号-21号)を相当道として表示している地図が見られる</ref>
- 国道21号:土岐 - 御嵩 - 米原
- 国道8号:米原 - 栗東
- 国道1号:栗東 - 草津
歴史
前史
律令時代
律令時代には、畿内を中心とした地方区分であったため、東山道は畿内から東の内陸部に伸びる道路として整備された。
戦国時代
戦国時代の東山道は、武田氏(甲斐国)や小笠原氏(信濃国)や金森氏(飛騨国)や織田氏(美濃国)などの地盤であった。このため、武田氏や織田氏を中心とする軍勢などによって、東山道と東海道を結ぶ連絡線が整備された。この連絡線は、現在の国道52号、国道151号・国道153号、国道22号などの源流となった。
1600年(慶長8年)、宇都宮から関ヶ原の戦いへ向かう徳川秀忠の軍勢が中山道を通っている。この際真田昌幸が守る上田城を攻略できず、足止めされ関ヶ原の戦いに遅参するという失態を起こした。
江戸時代
江戸時代に入り、江戸幕府は、1601年(慶長6年)から7年間で他の五街道とともに中山道を整備した。それまでの街道を改良したものが多かったが、新しく作られた街道筋もあった(大井宿(岐阜県恵那市) - 御嶽宿(岐阜県可児郡御嵩町)間など)。
古くは山道や東山道とも称され、江戸時代には中山道や中仙道とも表記されたが、1716年(正徳6年)に、江戸幕府の通達により中山道に統一された。
関は、上野国碓氷(群馬県安中市)、信濃国福島(長野県木曽郡木曽町)、信濃国贄川(長野県塩尻市)の三箇所に設置された。
明治時代以降
明治中期以降、鉄道網の発達により、東京と京都を結ぶ街道としての中山道は次第に衰退していった。ただし、中山道のそれぞれの部分は、「東京と新潟を結ぶ街道(東京 - 高崎)」「尾張と木曾を結ぶ街道(名古屋 - 長野)」などとして、依然として重要な街道であり続けた。
中山道幹線
1869年(明治2年)、明治政府により東京 - 京都の両市を結ぶ鉄道建設計画が発表された。明治政府は、東西を結び国家建設の中核となる鉄道建設を計画したが、その路線の選定では東海道ルートと中山道ルートの両案が並立し、長期間決定されなかった。その間に、中山道沿線では私鉄の日本鉄道による建設が進んでいた。
1883年(明治16年)7月28日、上野 - 熊谷間などが開業。翌1884年には上野 - 高崎間が開通した。同年12月、政府は「中山道鉄道建設公債」を発行し、東西の幹線鉄道は中山道ルートで建設すると決定した。
これは、東海道ルートで建設した場合、既に海運が発達していたために競争となって運賃の高い鉄道は不利であり、逆に山沿いで建設すれば新たな地域開発も図れるという点から決定されたといわれている。一説には、戦時における海からの攻撃に対する脆弱性を懸念する軍部の山縣有朋が1883年(明治16年)に「鉄道は山側に敷設すべき」と主張したことから、このようなルートが採用されたとするものもあるが、実際には山縣の主張以前に当時国有鉄道を管轄していた工部省鉄道局が、このルートの採用を決めていたと思われている。
更に、当時の日本の主力輸出産品であった生糸の主産地である群馬県や長野県を通ることで、産業振興に重要な役割を果たせるという期待もあった。また、東西幹線の通過しない地域の振興も図るため、多くの支線(軽井沢 - 直江津、岐阜 - 武豊、米原 - 敦賀など)も設置することになっていた。
この決定に従い、官設鉄道の手で中山道幹線本線やその支線(資材運搬用)の建設が進んだ。開業は以下の通りである。
- 1882年3月10日、支線部分:長浜 - 柳ヶ瀬間、洞道口(仮)(後の洞道西口) - 金ヶ崎(現在の敦賀港)間(注:東西幹線ルート決定前の開業)
- 1884年4月16日、支線部分:柳ヶ瀬 - 洞道西口(仮)間
- 1885年10月15日、本線部分:高崎 - 横川間
- 1886年3月1日、支線部分:武豊 - 大府 - 熱田間
- 1886年4月25日、支線部分:熱田 - 大垣間(武豊 - 敦賀 - 金ヶ崎間開通)
- 1886年7月19日、明治政府は東西幹線ルートを東海道に変更すると決定。
- 1889年7月1日、東海道本線新橋(後の汐留) - 神戸間が全通。
- 1890年11月25日、第一回帝国議会(第一議会)が召集された。
東海道線開通以後
東海道線の全通により、中山道はその任務を大きく変えることになった。明治維新で成立した中央集権体制で、名古屋が地方支配の拠点にされて以降、名古屋を中心とする放射状交通網が整備され、「内陸同士」「沿岸同士」の連帯が壊されてしまった。
加納宿(岐阜市加納)以西の中山道ルートには、太平洋沿岸に当たる三重県の鈴鹿山脈を越える本来の東海道に代わって、新たに東海道線が敷設された。そして戦後には、岐阜以西の中山道ルートには、名神高速道路や東海道新幹線が敷設され、東西の幹線の表道となった。
岐阜以東の中山道ルートには、概ね高山本線・太多線・中央本線・信越本線・高崎線などが整備されたが、いずれも東西の幹線という意味を持たず、太平洋側(関東、東海地方)・内陸側(甲信地方)・日本海側(北陸地方)の都市や村落を結ぶ、南北の連絡線や、東西の幹線の裏道というルートとなった。
中山道ルートの内、和田峠を越える部分に当たる岩村田 - 下諏訪間については、並行する鉄道が建設されなかった。それ以降、東京 - 下諏訪間の内陸ルートは、中山道ルート(高崎経由)ではなく、甲州街道ルート(甲府経由)が主流となっており、下諏訪以西が中山道ルートとなっている。
しかし、関東地方と近畿地方を結ぶ幹線を、東海道ルートではなく中山道ルートに建設しようという構想は、1950年代以後に国土開発幹線自動車道(国土縦貫自動車道)計画として再び現れた。甲州街道と併走し、岐阜県東濃地方で中山道と併走する中央自動車道は、中山道と併走する名神高速道路を正式には含んでおり(名神高速道路の法定名称は「中央自動車道西宮線」)、東京と西宮を結ぶ東西の幹線になっている。また東京と大阪を結ぶ新幹線の計画路線として構想されており、東海道新幹線のバイパスとしての役割を担う中央新幹線も、同じく内陸部の甲州街道・中山道に併走する建設ルートが予定されている。
歴史遺産
- 明治以後の急速な経済発展や、第二次大戦時の空襲などによって、沿道が急速に変貌した東海道沿線と異なり、中山道沿線では、江戸時代以前の街道や宿場町が比較的良く保存されて来た。高度経済成長期以後、これらを積極的に保存しようという運動が高まった。
- 特に、重要伝統的建造物群保存地区に選定された長野県の妻籠宿(1976年選定)と奈良井宿(1978年選定)が有名である。他にも、かつての宿場町ではそれぞれ歴史資料館などを整備している。
- また、奈良井宿と藪原宿の間にあり、日本海(信濃川水系)と太平洋(木曽川水系)の中央分水嶺でもある鳥居峠や、妻籠宿と馬籠宿の間にある馬籠峠では、自然遊歩道としての整備が進められている。
- 中山道は、約30の大名が参勤交代に利用したと言われている。その中で最大の領地を持つ金沢藩は、江戸の上屋敷を中山道沿いの本郷に、下屋敷を板橋宿に置いた。そのうち、江戸上屋敷の敷地は、明治以後に東京帝国大学となった。そのため、現在の東京大学の本郷キャンパスは国道17号に面している。また、かつての中山道に向かう形で、金沢藩上屋敷の赤門が、重要文化財として保存展示されている。
- 中山道は、様々な文学作品の舞台ともなった。馬籠出身の島崎藤村は、自らの故郷を舞台に歴史小説「夜明け前」を執筆した。現在の馬籠宿には、「藤村記念館」などが建設されている。
関連項目
- 中山道六十九次
- 五街道
- 中山道69次資料館
- 中山道宿場会議
- 街道てくてく旅
- 国道17号 国道18号 国道142号 国道19号 国道21号 国道8号
- 関越自動車道 上信越自動車道 中央自動車道 名神高速道路
- 高崎線 信越本線 中央本線 太多線 東海道本線
- 甲信地方(中央高地) 東山道
- 日本の交通
- 伝馬騒動
- 姫街道
外部リンク
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