三河島駅
出典: Wikipedio
|
三河島駅(みかわしまえき)は、東京都荒川区西日暮里一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線の駅である。
目次 |
駅構造
島式ホーム1面2線を有する高架駅である。改札口は南千住駅寄りの1か所のみの設置。ホーム屋根は短く、2005年(平成17年)に増設工事がなされたことでホーム長の半分を超えたが、それでもまだ車両の停止分より短い。
自動改札機設置。かつてはみどりの窓口が設置されていたが、指定席券売機で指定席券などを購入することが可能となったため、2005年11月20日をもって廃止された。
のりば
1 | Template:ColorTemplate:Color常磐線(快速) | 松戸・取手・成田・土浦・水戸方面 |
2 | Template:ColorTemplate:Color常磐線(快速) | 日暮里・上野方面 |
- 当駅は快速のみが運行されている区間にある。従って、複々線区間で各駅停車しか停車しない綾瀬・亀有・金町方面へは北千住駅で各駅停車に乗り換える必要がある。
- 普通列車(中距離列車)は日中しか停車しなかったが、2004年(平成16年)3月13日のダイヤ改正で全ての普通列車が停車するようになった。
- 当駅にて田端駅へ向かう貨物支線(田端貨物線)と隅田川駅方面へ向かう貨物支線(隅田川貨物線)が分岐する。
利用状況
2008年度の1日平均乗車人員は10,148人である。常磐線のJR東日本東京支社管内(上野駅~取手駅)の駅の中では最も少ない。
駅周辺
駅の出口は尾竹橋通りに面している。近隣に京成電鉄本線の新三河島駅があるが、乗り換えに適した距離ではなく、隣の日暮里駅での乗り換えが適している。なお、当駅から日暮里駅までの線路は弧を描くような急カーブになっており、直線距離では日暮里駅・西日暮里駅・町屋駅も徒歩圏内にも入るほどの近さにある。
江戸時代、三河島には徳川家康が遷都の際、開墾のために三河から連れてきた伊藤氏(伊藤七家)などの農家が居住して稲作を行っていた。 明治時代には上野の戦いから逃れた彰義隊の残兵が伊藤家に匿われた経緯も史記に残っている。日暮里出身の吉村昭の「彰義隊」に詳しい。
土地は湿地帯であった。高度経済成長とともに金物加工や印刷、製紙や箱工場が多く所在する工業地域である。
昭和30年代以降より、コリア系住民住民が多く居住し、全国にある朝鮮学校の一つがある。規模的には川崎や新大久保などの他コミュニティよりも比較的規模も活気も小さい。が、評判の焼肉屋やホルモン料理屋も多い。もんじゃ屋や典型的な下町のおそうざいが格安で売られる趣の仲町商店街や、下町の長屋風の町並みもいまなお残っている。
明治~大正までは湿地帯や農家の屋敷も残る田園地帯であった。また文京区の柳沢吉保邸であった六義園に展示されている江戸地図に三河島近辺は田畑の表記になっている。
バス
最寄り停留所は、駅前の尾竹橋通りにある「三河島駅前」となる。東京都交通局(都営バス)により運行されており、以下の路線が乗り入れている。
偏見について
江戸時代に屠場や皮革加工場のあった他の地域と、昭和以降、皮革工場等が増え、他にも実に多岐にわたった町工場の密集する三河島を憶測で部落問題と結びつけようとする説があるが事実ではない。
また同様に戦後のコリアンタウンの焼肉文化と三河島を部落問題などと結びつけようとするものがあるが、いずれも時代的な考証に基づいた事実ではない。
歴史
- 1905年(明治38年)4月1日 - 日本鉄道の駅として開業。
- 1906年(明治39年)11月1日 - 日本鉄道の国有化により国鉄の駅となる。
- 1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称が制定され、常磐線の駅となる。
- 1962年(昭和37年)5月3日 - 駅構内で貨物列車と上下電車2本による三重衝突事故(常磐線三河島駅列車多重衝突事故・三河島事故)発生。死者160人、負傷者296人の大惨事となった。詳しくは三河島事故・国鉄戦後五大事故を参照のこと。
- 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR東日本の駅となる。
- 1988年(昭和63年)3月13日 - 普通列車が日中(9時-16時)停車となる。
- 2001年(平成13年)11月18日 - ICカードSuica供用開始。
- 2004年(平成16年)3月13日 - 特別快速を除く普通列車が全停車となる。
隣の駅
- 東日本旅客鉄道
- Template:ColorTemplate:Color常磐線(快速)
- 常磐線貨物支線(田端貨物線)
- 常磐線貨物支線(隅田川貨物線)
- 三河島駅 - 隅田川駅
関連項目
外部リンク
Template:常磐線en:Mikawashima Station zh:三河島站