万世橋駅
出典: Wikipedio
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万世橋駅(まんせいばしえき)は、以下に記載する二つの駅が存在した。
いずれも現在は、廃止駅(中央本線万世橋駅は、法規上は休止中)となっている。駅名の由来は神田川に架かる万世橋に近かったことである。
本項は両方の駅について扱う。また、鉄道博物館の実演・体験施設「ミニ運転列車」に存在する同名の駅についても扱う。
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国鉄万世橋駅
国鉄万世橋駅は、国有鉄道(休止時、運輸通信省鉄道総局)中央本線にあった駅。東京都神田区(現:千代田区)の神田駅と御茶ノ水駅との間にあった。
前史
神田川に面する万世橋は、江戸時代から繁栄していた。
- 万世橋の南側に位置する神田多町には、青物商が集まっていた。青物商は17世紀初期(慶長年間)から散在していた。1657年(明暦3年)の明暦の大火後、神田多町に纏められた。享保の改革が行われた1724年(享保9年)、幕府御用達となった。
- 神田川北岸には、米、薪炭、竹などの問屋があった。職人仕事の諸材料の荷受け地でもあった。
- 幕末期には、住宅地としても発展した。幕府が財源のために、ところどころを町人に貸したこともあって、神田っ子の町が育って行った。
明治以降、更に発展した。
歴史
繁栄する万世橋地区を目指して、鉄道を延伸しようとしたのは私鉄甲武鉄道である。甲武鉄道は1889年(明治22年)、立川~新宿間を開通させ、都心への延伸を進めていた。
1912年(明治45年)4月1日、万世橋駅の営業を開始した。甲武鉄道は1906年(明治39年)国有化された為、国有鉄道の駅だった。なお万世橋駅の開業によって御茶ノ水~万世橋にあった昌平橋駅は役目を終えて廃止された。
駅舎(図1)は豪華だった。東京駅と同様に辰野金吾の設計で、赤煉瓦造り。1等2等待合室・食堂・バー・会議室等を備えていた。中央本線の終着駅であり、ここから両国駅方面への総武線を通す計画があった為である。駅前には広場が設けられ、日露戦争の英雄である廣瀬武夫と杉野孫七の銅像が建っていた。東京市電が走り、多くの人で賑わった。大正時代に繁栄した。
しかし万世橋駅の開業後に、東京駅が完成。1919年(大正8年)、万世橋~東京が開通。中央本線の終着駅としての役目は7年で終わった。同年、神田駅が開業。1925年(大正14年)には、上野~神田間の高架線が完成。秋葉原駅が旅客営業を始めた。
一方、万世橋駅は1923年(大正12年)の関東大震災で駅舎が焼失し、簡素な駅舎(図2)が再建された。徒歩で行ける距離に、神田駅及び秋葉原駅が出来た為、乗降客は減少していった。須田町交差点が移転。1929年(昭和4年)以降、市電も通らなくなった。1936年(昭和11年)、東京駅から鉄道博物館が移転。図2の駅舎は解体縮小された。1943年(昭和18年)11月1日、駅は休止(実質上廃止)。駅舎は取り壊された。
休止後、万世橋の風景は変わっていった。駅舎の資材は、新設の京浜東北線新子安駅に流用されたと言われる。駅前の銅像は太平洋戦争終了後、撤去された。銅像の場所は交通博物館の南端となり、善光号が展示された。駅前交番だった須田町派出所(万世橋交番)は、昭和中期まで使われた。1993年に江戸東京たてもの園に移築された。駅舎の一部は鉄道博物館として存続した。2006年に閉鎖され、取り壊された。
現在、旧構内には中央本線が走っており、ホーム遺構は同線の神田~御茶ノ水間の車窓から確認することができる。中央本線の上下線が離れ、間に草生したホームがある場所がそれである。遺構付近には留置線があり、作業用車両が駐留している場合がある。「万世橋」の駅名は、さいたま市大宮の鉄道博物館のミニチュア駅に受け継がれた(詳細は後述)。
Transportation museum and The ruins of Manseibashi station.jpg
交通博物館と万世橋駅 |
Manseibashi station platform.jpg
万世橋駅 |
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交通博物館屋上より望む旧国鉄万世橋駅ホーム跡 |
File:Manseibashi stn. -stairs.jpg
旧国鉄万世橋駅の階段 |
年表
- 1912年(明治45年)4月1日 - 万世橋駅開業。
- 1919年(大正8年)3月1日 - 万世橋~東京間開通、神田駅開業。
- 1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災発生、初代駅舎焼失。
- 1924年(大正13年)春 - 仮駅舎で復興。
- 1936年(昭和15年)4月26日 - 鉄道博物館が移転、万世橋駅と併設。
- 1936年(昭和15年)11月 - 駅舎解体縮小。
- 1943年(昭和18年)11月1日 - 万世橋駅営業休止。
東京地下鉄道万世橋駅
東京地下鉄道万世橋仮停留場(東京地下鐵道萬世橋假停留場)は、東京府東京市神田区(現:東京都千代田区)にあった東京地下鉄道(現:東京地下鉄銀座線)の廃仮駅。末広町駅~神田駅間で2年足らず営業した。
歴史
1927年(昭和2年)、浅草~上野間に東京初の地下鉄を開通させた東京地下鉄道は、新橋を目指して開削工法による南下延伸を続けた。しかし、神田川底をアンダーパスするには水路を一時変更する必要があり、また交通量の多い万世橋も掛け替えなければならない等、長い工期が見込まれたため、それらが完工するまでの暫定的なサービスとして1930年(昭和5年)1月1日に開業した。
当仮駅は万世橋交差点の中央通り(国道17号)北詰、現在の秋葉原電気街側に位置し、2.5%勾配途中のトンネル断面積を若干大きく取った上で、本設道床上に2両編成分の木造水平道床と木造プラットホームを仮架設し、片渡り線を持つ末広町駅からの神田方面行き上り線路を用いて、運行本数の半分が当仮駅を終着始発として単線折り返し運転されていた。仮駅の構造上車止めは不十分なものしか設置出来なかったため、オーバーラン防止の観点から同仮駅着の列車は手前で一旦停止し、その後最徐行で進入していた。
上記の国鉄(省線)万世橋駅への乗り換えのみならず、その南北の須田町・万世橋両交差点は東京市電のターミナルでもあり、連絡が非常に便利で好評だった。
しかし、急勾配かつカーブ開始区間にあるため常設駅を構える事ができず、渡河工事の進捗に従って、資材運搬用のトロッコを通す必要上予定通り仮水平道床を先に撤去し、傾いた直結軌道に応じて木造ホームの支柱と床面も適宜切断、これを階段状に作り替えて暫時営業継続した後、1931年(昭和6年)11月21日の神田駅延伸開業に伴い同日廃止され、道床上の仮設物は前日一夜で撤去された。
用廃後換気孔兼作業員進入口になっている出入口跡は、現在のishimaru AKIBA(旧・石丸電気生活家電館)前の歩道上にあり、光線条件が良ければ網蓋の隙間から階段が目視できていたが、網目の細かい物に交換されて以降困難になった。
地下フロア(客溜室とも客扱室とも)跡は設備室兼物置に転用され、線路脇に開口しているが特に照明設備もなく、また改札口跡は殆どが壁で塞がれたため、トンネルの天井が丸く少し高く、当該区間のみ間柱が無い程度にしか仮駅の痕跡が見当たらず、国鉄万世橋駅や、同じ銀座線の廃駅である東京高速鉄道旧新橋駅とは異なり、高速区間につき一瞬にして通り過ぎてしまう当遺構(仮駅跡)を乗車中に視認することは難しい。
末広町駅ホーム南端からは同様に間柱の無い渡り線区間跡が見渡せ、辛うじて往時を偲ぶ手掛かりになっている。関連資料が地下鉄博物館で閲覧できる他、過去には閉館された交通博物館のミニ展示「万世橋駅の歴史」でも、当仮駅の地上部写真と構内施工図が一般公開されていた。
「鉄道博物館」万世橋駅
Template:Double image aside ミニ運転列車万世橋駅は、埼玉県さいたま市大宮区にある鉄道博物館の実演・体験施設「ミニ運転列車」に存在するミニチュア駅で、2007年(平成19年)10月14日に開業。
汐留~両国橋間として設けられ、この路線の起点駅も兼ねる。2面4線の島式ホームをもち、跨線橋が架けられている。また、停車位置を合わせる都合からか、この駅に限り非常の場合を除いて停車時ブレーキ操作をしないよう求める標識が立っている。