ヴィッセル神戸

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ヴィッセル神戸(ヴィッセルこうべ、Vissel Kobe)は、日本兵庫県神戸市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。


目次

クラブの概要

Template:Wakumigi 1997年Jリーグ加盟。母体は1966年創部、岡山県倉敷市にあった川崎製鉄水島サッカー部1987年に川崎製鉄サッカー部に改称)。ホームタウン兵庫県神戸市
ホームスタジアムは2003年からホームズスタジアム神戸がメインとなっているが、従来の神戸ユニバー記念競技場も準本拠として数試合開催している(特にホームズスタジアム神戸の芝生生育・保護の観点から夏場はユニバーを主に使う場合が多い)。2006年のJ2時代は三木総合防災公園陸上競技場でも開催された。2007年3月1日から神戸ウイングスタジアムは不動産情報ポータルサイト「HOME’S」を運営する株式会社ネクストがネーミングライツ取得によりホームズスタジアム神戸に改称。契約期間は2007年3月1日から3年間。

チーム名の「ヴィッセル」は、英語の「VICTORY(勝利)」と「VESSEL(船)」を合わせた造語。「勝利の船出」を意味し、国際港湾都市・神戸をイメージ。神戸市民の夢を乗せ、勝利に挑戦し続けるチームである事の誓いもこめている。
クラブマスコットは神戸・兵庫に馴染みの深い、をモチーフとした「モーヴィ(MOVI)」。牛の鳴き声「モー」と勝利「ヴィクトリー」を合わせた造語。

練習場は神戸市西区井吹台東町七丁目(西神南ニュータウン)にある「いぶきの森球技場」が使われていたが、ビオフェルミン製薬が練習場用地を新工場建設のために取得、2005年2月より神戸ハイテクパークに隣接する神戸市西区櫨谷町に約5億円かけて建設した「いぶきの森球技場」(名称はそのまま)に移転。

現在のオーナー企業はクリムゾングループで、オーナーは三木谷浩史楽天グループとして混同されることがあるが、ヴィッセルに関しては三木谷が個人的に「神戸に貢献したい」という意向を示していたことから、三木谷家の個人資産管理会社であるクリムゾン社が再建にかかわり、楽天はあくまでもユニフォームスポンサーなどにとどまる。この点で楽天の100%子会社であるプロ野球の東北楽天ゴールデンイーグルスとは異なる。

クラブの歴史

神戸のJクラブ誘致

神戸市ではヴィッセルの前にもプロサッカーを目指そうとする動きが活発にあった。Jリーグスタート当初は関西からのJクラブはガンバ大阪の1チームのみ(1996年まで神戸ユニバー競技場を準本拠として公式戦開催)であったが、日本サッカーの発祥地である神戸にプロサッカーの文化を根付かせるため、また将来、神戸にワールドカップ開催地を招聘するために、1992年にJクラブ誘致を目指すことを発表した。三菱自動車工業サッカー部(創設当初は神戸市が本拠だった)、全日空フットボールクラブヤンマーサッカー部(練習場が尼崎市にある)と交渉を重ねたが、何れも条件面などで折り合いが付かず神戸への誘致を断念した。

1993年に「行政は行政で任せるとして、自分たちの手で何か出来ないか」ということで、「オーレ!神戸(神戸にプロサッカーチームを作る市民の会)」が市民団体として発足し、積極的な誘致活動を実施。同時期に神戸市は同市が企業の発祥地である川崎製鉄(現・JFEホールディングス)の岡山県倉敷市にあるサッカー部の誘致活動を実施し、1994年3月、1995年からの神戸市への本拠移転を承諾。6月には同市に本社を置くスーパーマーケットダイエーがメインスポンサーとなり「株式会社神戸オレンジサッカークラブ」が設立され、下部組織は神戸フットボールクラブのユース・ジュニアユースチームが移籍する形で、神戸初のプロサッカークラブ「ヴィッセル神戸」が発足した。

ヴィッセル神戸設立以後

1995年1月1日にヴィッセル神戸としてスタートするも、練習初日であった1月17日阪神・淡路大震災が発生し、選手らは母体となった川崎製鉄サッカー部の本拠地であった岡山県倉敷市のグラウンドで2月6日に初練習を行なうが、神戸では練習場の確保もままならない状態に。練習場「いぶきの森球技場(旧)」が完成したのは7月だった。

神戸オレンジサッカークラブの筆頭株主だったダイエー(資本金10億円のうち、50%を出資)も震災の影響から3月に撤退、生まれ立てのクラブはこの時点で清算も検討された。当時強化部長だった安達貞至がこれをなんとか食い止め、スポンサー獲得に奔走し、市民チームになる。それに伴い、運営会社名も5月31日にチーム名と同じ「ヴィッセル神戸」に改称。ユニフォームにも白と黒のストライプにオレンジ色のラインが襟と袖に入っていたがダイエー撤退に伴い、オレンジ色からエメラルドグリーン(ヴィッセルブルー)に変更した。

ダイエー撤退後、メインとなるスポンサーは現れずに苦しい経営が続き、毎年赤字を計上。Jリーグ昇格1年目の1997年末時点での累積赤字は約25億円。1998年シーズン終了後にはそれまでユニフォーム胸部分のスポンサーであった伊藤ハムが胸部スポンサーから撤退。この補填のため神戸市から9億円の無利子融資を受けたが、条件としてチームのリストラを要求されるほか、運営会社も減資を行い年間予算も13億円まで大幅に切り詰めることを余儀無くされた。

1995年シーズンは旧JFL6位に終わる。サテライトリーグに出場しているが、兵庫県ではホームゲームをせず、旧ホームの岡山県で試合を行った(前述のいぶきの森球技場の完成が遅れたことも影響したため。なおトップチームについても同年と1996年は準本拠地と位置づけて岡山県総合グラウンド陸上競技場=現・KANKOスタジアムと、津山競技場福山競技場で試合を行っている)。1996年シーズンにデンマークの至宝ミカエル・ラウドルップを獲得しJFLで準優勝、1997年シーズンからJリーグ昇格。以降、9年に渡りJ1の座を維持してきたが、チーム設立10年及びチームカラーを深紅に変更して1年目の2005年シーズンに初のJ2降格。1997年から2005年のJ1リーグ戦での上位進出は果たしていない(1999年第2ステージと2000年第1ステージの7位が最高)。1997年シーズンに、Jリーグ史上初のフェアプレー賞高円宮杯を受賞。

母体企業を持たない神戸の年間予算は他クラブと比較しても少なく、年間入場者数も伸び悩んだため、不足分を地元自治体である神戸市からの単年度貸付に拠らざるを得ない経営が続き、年度ごとに額を増やしながら借り入れを繰り返した。運営会社幹部を市からの出向社員が勤めたことで、お役所的な経営体質から抜け出せず、1999年シーズンから2003年シーズン初めまで胸スポンサー不在という状況に加え、当時の強化部長である西真田光司の兄弟が代理人を務める選手が多く獲得されるなど、長期的な展望を欠いた運営が続き、2003年12月、神戸市が中心となっていた運営会社「株式会社ヴィッセル神戸」が累計赤字約42億円で経営破綻し、民事再生法の手続き申請を行った。神戸市からの無担保融資は約15億円にのぼる。

  1. 本拠地は神戸
  2. 選手、職員の継承
  3. チーム名は変更しない

の3点を参加要件とする入札で、楽天市場を経営する三木谷浩史(兵庫県出身)の個人資産管理会社の株式会社クリムゾングループが営業権を約480万円で落札、新運営会社を2004年1月5日に設立。運営会社名は「株式会社クリムゾンフットボールクラブ」で、2004年2月1日付けで営業権を譲渡された。神戸市はチーム運営から完全に撤退し、スタジアム使用などの側面支援を行う事になった。神戸市の株式会社ヴィッセル神戸に対する最終的な債権額は11億6500万円。ほとんどが神戸市からの貸付金であり回収不能となった。

クリムゾンFC時代(2004年~)

2004年シーズンは、新会社による積極的な投資が行われ、2002年日韓W杯で活躍したトルコ代表FWイルハン・マンスズの獲得、芸能人を招いた試合のイベント化などが進められた。しかし、イルハンは年俸約4億にもかかわらず出場は3試合にとどまり、シーズン半ばに自らの希望により退団。

スポンサー獲得やグッズの売り上げ増、「チームの方向性が変わったことを示すメッセージになる」などとして、2005年からチームカラーを白×黒から深紅(クリムゾンレッド)に変更するとシーズン直前に発表、一部のサポーターが反発しチームカラー変更反対運動が起こり2カ月で延べ17,525人分の署名を集めたが決定を覆すことは出来なかった。 クラブ側とサポーター側との数回に渡る話し合いの末、新エンブレムには従来の白黒の縦縞を残すことが確約された。2004年12月22日、新ユニフォームと中央にV字の新ロゴマークが入ったエンブレムが発表された。チームマスコットのモーヴィはそのまま残った。

2004年中盤以降、三木谷を含む新経営陣のサッカークラブ経営への理解不足、チーム統括部長三浦泰年の経験不足、フロントの長期的ビジョンの欠如等が露呈し、1年半でイワン・ハシェック加藤寛松永英機エメルソン・レオンパベル・ジェハークと5人が監督を務める異常事態に陥った。ハシェック解任直後には山本昌邦フィリップ・トルシエピエール・リトバルスキーなどに監督就任のオファーを出したが、いずれも断られてしまった。

2005年シーズンは、上記理由等により開幕当初から成績が低迷し、第7節以後、1度も最下位から浮上することはなかった。8月にFWイヴォ、DFマルティンを獲得。2004年加入のMFホルヴィを加えて、チェコ人3人体制にするも(2004年から所属のDFホージェル2005年6月加入のMFディエゴ・ソウザは退団)、致命的な決定力不足が解消されることもなく、攻守の要である三浦淳宏播戸竜二が怪我をしたこともあって低迷から抜け出せず、11月20日大宮アルディージャ戦に0-1で敗れたことで、3試合を残してJ2への自動降格が決定した。

2006年

2005年12月3日、初代監督も務めたスチュワート・バクスターの9年ぶりの監督復帰が発表された。2006年は中長期的には育成・発掘型クラブへの転換を、短期的には1年でのJ1復帰を目指すことを目標にかかげた。

育成型への布石としては伊丹市にジュニアユースを設立し育成部門の拡大を図るとともに、ジュニア(小学生)世代へのアプローチとしてサッカースクールを県下で拡大するなど、安達貞至GMのアイデアが着々と実行に移されている。 隠れた逸材を見出すためにスカウトを2人(これまでは1人)にし、育成組織の監督、コーチにも他チームの優れた選手をスカウトするように命じるなど、これまで弱かったスカウティング部門の充実を図るようになった。

トップチームにおいてもサテライトチームを「ヴィッセル神戸U-21」として若手選手の育成強化のためのチームに特化させると共に、ヴィッセルでの出場経験が少ない選手に対する実践機会提供を図る観点から日本フットボールリーグ(JFL)のガイナーレ鳥取と提携を図ることになった。U-21監督にマリノスユース、ナショトレ関西地区担当の安達亮を監督に迎えた。若年層カテゴリーにおいて、試合数の少ないサテライト以外にも試合をこなす必要は以前から指摘されていただけに、試みとしては注目に値する。

4月10日、クリムゾンFCは定例取締役会を行い、役員の選任が行われ、社長の三木谷は新設の代表取締役会長に。安達がGM兼任で代表取締役社長に就任した。

<新役員>

代表取締役会長:三木谷浩史(41)
代表取締役社長:安達貞至(68)※新任(ゼネラルマネージャー兼任)
専務取締役:叶屋宏一(39)
取締役(非常勤):三木谷良一(76/神戸大学経営学部名誉教授 浩史の実父)

神戸新聞によると三木谷は以前から「チームと行動を共にできる人に社長を任せたい」との意向があったといい、「実態に即した経営体制に移行することが大切と考えた。私は今まで同様、クラブ経営を通じて、地元・神戸の活性化に貢献したい」とコメントしている。社長に就任した安達は「神戸に根ざしたクラブ作りに向けて、より一層尽力したい」と抱負を述べた。

5月、代表取締役社長に就任した安達の補佐として、読売サッカークラブ浦和レッドダイヤモンズ日本サッカー協会などで重要職を担ってきた佐藤英男がGMアシスタントとして就任。

9月、2007年より育成部長に滝川第二高校サッカー部監督・黒田和生が就任することが発表された。

かつてはベテラン選手(永島昭浩カズなど)を補強した神戸も、J2降格を機に若手育成クラブとして再スタートを切った。下部組織も人工芝グラウンドがいぶきの森に完成し、育成組織支援のヴィタミンクラブの発足などハード・ソフトの両面のからの充実を図り、今後の活躍に期待が高まる。

クラブはキャプテンの三浦淳宏を中心とし横浜FC柏レイソルと自動昇格争いを演じる。最終節で柏に逆転され自動昇格を逃したが、12月9日アビスパ福岡との入れ替え戦を制しJ1昇格を決めた。

2007年

1年でJ1に復帰できたこと、キャプテンの三浦淳宏が契約交渉の場で戦力の充実化を熱心に訴えたこともあり、オフには積極的な補強を敢行した。横浜F・マリノスから榎本達也を、セレッソ大阪から大久保嘉人を完全移籍で獲得し、06年度のJ2で二桁得点を記録したレアンドロ山形から、また07年に全北現代としてFIFAクラブワールドカップに出場したボッティをレンタルで獲得し大幅な戦力アップを図った。またシーズンの目標はリーグ戦9位以上、ナビスコカップ決勝トーナメント進出とした。

シーズン途中にキャプテン三浦淳宏が監督批判を行なったこともあり、退団する事態に陥った。しかし、三浦に替わって主将となった大久保嘉人らを中心にチームは結束。後半戦は浦和レッズからMF酒井友之アルビレックス新潟で出番のなかったMFディビッドソン純マーカスらを補強。8月から5連敗したものの、その後は8月末にアビスパ福岡からレンタルで獲得した古賀誠史の活躍もあり連敗を脱出した。第29節では前年度にJ1昇格争いのライバルだった横浜FCに3-0と勝利して今度は逆にJ2に降格させ、第31節には甲府に4-1と勝利してJ1残留を確定させた。3試合を残しての残留確定はチーム史上最速である。また、この試合で横浜FC、柏、甲府と3連勝したことになるが、これは1999年シーズン以来である。シーズンの目標であった9位という成績へは最終節まで可能性を残すも、10位に終わった。

2008年

目標である5位以内を達成するために積極的な補強を行う。 当時現役韓国代表キャプテンであったMF金南一をはじめとして、大分トリニータ所属・元日本代表FW松橋章太横浜Fマリノス所属・MF吉田孝行(地元兵庫県出身)、FC東京所属・MF鈴木規郎ヴァンフォーレ甲府所属・ナビスコ得点王FW須藤大輔などを獲得。 近藤祐介の退団の穴を埋め、さらに高みを目指せるメンバーを揃えた。

キャプテンは引き続き大久保嘉人に、副キャプテンは北本久仁衛榎本達也に決定した。 開幕から好調をキープし、川崎フロンターレ相手に4-1で圧勝。2008年度J1初ハットトリック者を生み出した。 一時は2位につけていたがジュビロ磐田戦でレアンドロが右鎖骨骨折をすると失速。その後古賀誠史北本久仁衛らチーム主力が次々と怪我をし、降格圏内まで成績が落ちてしまった。 昇格組との3連戦では一つも勝ち星無しという屈辱まで味わうことになる。 松岡亮輔馬場賢治らの若手の台頭でこの非常事態を何とか乗り切り、11月23日のFC東京戦で残留を決めた。 しかし目標であった5位以内を達成することは出来ず実質2年間指揮を執っていた松田浩監督は解任されることとなった。

松田監督の解任に関しては一悶着があった。 安達社長が11月上旬に一度は監督続投要請を出しておきながら12月に入り撤回したのである。 当然、監督・選手達には納得のいく話ではなく、一部報道では松田監督は金銭を要求するのではないかとも憶測されたが、そのような事態には至らなかったようだ。 安達社長の弁解は以下のものである。

  • シーズン中から勝ちきれない試合が続いており、トニーニョ・セレーゾら数人の監督に打診していた
  • クラブの歴史を塗り替えた5連勝した時に続投要請をしたがこれで本当に良いのかと悩んでいた
  • FC東京戦・川崎フロンターレ戦での惨敗を見る限り新しいチーム作りをすべきだと判断した

なお、この件に三木谷会長は無関係であり、むしろ松田監督続投を支持していた。

この年、戦力外通告を受けた選手は栗原圭介酒井友之ら、ユース出身の4人も戦力外を受けることとなった。

第88回天皇杯にて松本山雅FCを8-0で下し、Jリーグ加盟後の公式戦最多得点を記録した。

またリーグ戦の27節から31節まで5連勝を果たしチームの最多連続勝利数を記録した。

2009年

新監督にブラジル・フラメンゴからカイオ・ジュニオールを招聘したが、昨シーズン途中から、ドイツクラブからオファーを受けていた主将であり、チームの顔でもあったFW大久保嘉人が移籍。さらにFWレアンドロも同じ関西圏のガンバ大阪へ移籍したため、FWの補強に走った。外国籍選手として、韓国でのプレー経験もあるFWマルセウを、攻撃的中盤のアラン・バイーアを獲得し、川崎を退団した我那覇和樹を獲得。さらに、オーストリアのザルツブルクから元日本代表DF宮本恒靖の加入が内定した。この他にも日本代表クラスの補強を積極的に狙い、「神戸が○○にオファーor獲得に動く」という報道が連日のように相次ぎ、神戸はストーブリーグの主役となった。しかし、結局日本人で補強できたのは前所属クラブで構想外となった前述の我那覇・宮本の2名にとどまった。 育成面ではヴィッセル専用の寮「育成センター」が完成し、前札幌GMの村野晋を寮長に、また夫人である村野明子を寮母に迎えることとなった。また、黒田和生育成部長のユース監督昇格も発表された。開幕からしばらくはカイオ監督のサッカーに戸惑い、4月のマリノス戦では2006年以来の5失点で大敗するなど波に乗れなかった。しかし茂木弘人がFWとして得点を重ね、開幕戦以降離脱したマルセウらが噛みあい始め、徐々に成績は上向いていった。6月には1月に退団したFW大久保嘉人が復帰した。ところが、6月30日にカイオ・ジュニオール監督が一身上の都合により辞任。後任には和田昌裕チーム統括本部長が兼任で就任した。就任後は松田監督時代の堅守速攻をベースにチームを再建。前監督のときには起用されなかった古賀誠史をスタメンに抜擢し、宮本をボランチで起用する一方で、前監督が固執していたマルセウをメンバーから外すなどの手を打った。柏レイソル戦で就任後初勝利をあげたが、安達GMが「残留するには経験が必要」という理由で三浦俊也が監督に就任し、和田はヘッドコーチに就任した。三浦監督就任後は首位鹿島を下すなど8月は無敗で乗り切ったが、9月以降は対戦相手に研究されリーグではなかなか勝てなくなった。J1残留決定も柏の引き分けによる決定だった。

2010年

安達GMから叶屋氏はバトンを引き継いだ。前年にチームを残留に導いた三浦監督は留任。「10点取れるストライカー」の獲得を要求し他クラブからも獲得が打診されていたJ2で23得点あげた都倉賢を獲得した。しかしシーズンオフに減俸提示を受けた金南一はロシアリーグ移籍したため穴埋めに大分トリニータを退団したMFエジミウソンを獲得した。さらに古賀誠史と内山俊彦が抜けた左サイドに大宮からDF冨田大介、柏からMFポポを獲得した

対戦成績

対戦通算成績と得失点

2010年第12節終了時点

<tr align="center"> <th rowspan="2">対戦チーム
(対戦経験のある前身のチーム名) <th colspan="6">J1<th> <th colspan="6">J2<th> <th colspan="6">合計 </tr>
ベガルタ仙台(←ブランメル仙台) 12267 11223 234810
モンテディオ山形 10234 22063 32297
鹿島アントラーズ 53162453 ----- 53162453
浦和レッドダイヤモンズ 53142240 ----- 53142240
大宮アルディージャ(←NTT関東) 33296 ----- 32296
FC東京 4591827 ----- 4591827
川崎フロンターレ 2271326 ----- 2271326
横浜F・マリノス(←横浜マリノス) 68112640 ----- 68112640
湘南ベルマーレ(←ベルマーレ平塚) 025613 12156 1461119
アルビレックス新潟 1371220 ----- 1371220
清水エスパルス 80172737 ----- 80172737
ジュビロ磐田 55152943 ----- 55152943
名古屋グランパス(←名古屋グランパスエイト) 113113337 ----- 113113337
京都サンガF.C.(←京都パープルサンガ) 7192726 ----- 7192726
ガンバ大阪 76114155 ----- 76114155
セレッソ大阪 7192432 ----- 7192432
サンフレッチェ広島 74103035 ----- 74103035
コンサドーレ札幌 233914 211125 4442119
水戸ホーリーホック ----- 400112 400112
栃木SC ----- ----- -----
ザスパ草津 ----- 11269 11269
ジェフ千葉(←ジェフ市原) 11494546 ----- 11494546
柏レイソル 92132942 11258 103153450
東京ヴェルディ(←東京ヴェルディ1969←ヴェルディ川崎) 55102534 30197 85113441
横浜FC 20060 11234 31294
ヴァンフォーレ甲府 10175 ----- 10175
カターレ富山 ----- ----- -----
FC岐阜 ----- ----- -----
ファジアーノ岡山 ----- ----- -----
徳島ヴォルティス(←大塚製薬----- 30195 30195
愛媛FC ----- 31040 31040
アビスパ福岡 5231414 ----- 5231414
ギラヴァンツ北九州 ----- ----- -----
サガン鳥栖 ----- 31061 31061
ロアッソ熊本 ----- ----- -----
大分トリニータ 4261223 ----- 4261223
(Jリーグクラブ)計 144 69 202 483 679 25 11 12 78 53 169 80 214 561 732

『特徴』

獲得タイトル

  • 現在までにトップチームによる獲得タイトルなし。
  • 1996年 - 旧JFL(ジャパンフットボールリーグ)準優勝。
  • ユースチームでは1999年にJユースカップ優勝、2005年に準優勝。

個人別タイトル

フェアプレイ個人賞

ユニフォーム

Template:ユニフォームの色

チームカラー

  • 臙脂(クリムゾンレッド)、白、黒(2005年~)
    • 臙脂…希望と歓喜・アグレッシブさ、白…フェアプレー、黒…力強さと闘争心

過去のチームカラー

  • 白、黒、オレンジ (神戸オレンジサッカークラブ時代)
    • 母体の川崎製鉄サッカー部のチームカラーは赤であったが、当時はチームカラー重複を規制するルールがあり(1999年J2発足時に撤廃)鹿島、浦和、名古屋の赤も清水のオレンジも使用できずやむなく白黒を採用した。
  • 白、黒、ヴィッセルブルー (1995年~2004年)
    • 白…フェアプレー、黒…力強さと闘争心、ヴィッセルブルー…神戸の海と希望
    • 白と黒の縦縞(ヴィッセルストライプ)は協調を表し、黒が全ての光(市民の声、支援)を吸収し、白がそれを発していくことを意味している。
  • 2002年から2004年までアウェー用ユニフォームに採用されたシルバーは「パールのごときチームの珠玉の輝き」を表している。

ユニフォームのあれこれ

  • 1997年から1998年の2シーズン、袖スポンサーの下部にJリーグから特例として認められたメッセージワッペン、「明日へ!!神戸」を付けていた。同じ神戸を本拠地とするプロ野球チーム・オリックス・ブルーウェーブは「がんばろうKOBE」と付けていた。
  • 1995年第4回JFLリーグ戦前期(5月-7月末)は袖スポンサーがなかった。さらに、1999年から2003年3月まで胸スポンサーがなく、チームロゴを付けていた。
  • 2005年シーズンは阪神・淡路大震災から10年の節目を迎えるにあたり、神戸市主催の「震災10年 神戸からの発信」事業に協賛し、オリジナルロゴを右袖のJリーグマークの下部に付けていた。
  • 2005年シーズンから、背番号の下部に選手名が入るようになった。
  • 2008年シーズンから、右袖のJリーグマークの下部に地域名「KOBE」が入るようになった。これは、前々からサポーターより要請があったものである。
  • 上述のように、母体の川崎製鉄サッカー部のチームカラーが赤であったことから、白黒から赤系統のクリムゾンレッドへのカラー変更問題は、オーナー企業主導であったとは言えクラブ自体にとっては「先祖がえり」だったと捉える事もできる。ちなみに、同じく川崎製鉄水島サッカー部にルーツを持つファジアーノ岡山もエンジ色のユニフォームを使用している。
  • 2010年シーズンから、GKユニフォームのみ3rdユニフォーム(シャツ:緑/パンツ:緑/ストッキング:緑)が追加使用されることになった。

ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
楽天楽天2004年〜
背中川崎重工Kawasaki2004年〜2003年は胸
アルペンSPORTS DEPO2005年〜
パンツアンファースカルプD2009年〜

ユニフォームサプライの遍歴

1995年に設立以降、リーグ戦カップ戦ともに同じユニフォームを使用している。カップ戦用のユニフォームは存在しない。

歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1995年伊藤ハム–/ARKAasics/ノーリツasics
1996年伊藤ハムARKAノーリツasics
1997年伊藤ハムKIRINノーリツadidas
1998年伊藤ハムKIRINノーリツadidas
1999年KIRINノーリツasics
2000年KOBEノーリツasics
2001年KOBE/HAA KOBEノーリツasics
2002年HAA KOBEノーリツasics
2003年KAWASAKIHAA KOBEノーリツasics
2004年楽天FULLCASTKAWASAKI大和証券SMBCasics
2005年楽天SPORTS DEPOKAWASAKI伊藤ハムasics
2006年楽天SPORTS DEPOKAWASAKI伊藤ハムasics
2007年楽天SPORTS DEPOKAWASAKIKitaCasics
2008年楽天SPORTS DEPOKAWASAKIKitaCasics
2009年楽天SPORTS DEPOKAWASAKIスカルプDasics
2010年楽天SPORTS DEPOKAWASAKIスカルプDasics

チーム名変遷

  • 1966年~1986年 川崎製鉄水島サッカー部
  • 1987年~1994年 川崎製鉄サッカー部
  • 1995年~現在  ヴィッセル神戸

下部組織

近年強化に力を入れ、ユース監督に前滝川第二高校監督黒田和生を迎えるなど力を入れだしている。

出身選手

主な獲得タイトル

ユース

1回 : 1999年
2回 : 2006年、2009年

ジュニアユース

1回 : 2009年
1回 : 2009年

地域貢献活動

Jリーグ百年構想に基づき神戸アスリートタウン構想を打ち出している。

関連項目

外部リンク

Template:ヴィッセル神戸のメンバー Template:日本プロサッカーリーグar:فيسيل كوبه bg:Висел Кобе ca:Vissel Kobe cs:Vissel Kóbe da:Vissel Kobe de:Vissel Kōbe en:Vissel Kobe es:Vissel Kobe fr:Vissel Kobe it:Vissel Kobe ko:비셀 고베 nl:Vissel Kobe pl:Vissel Kobe pt:Vissel Kobe ru:Виссел Кобэ simple:Vissel Kobe sv:Vissel Kobe zh:神戶勝利船

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