ヨハン・クライフ
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ヨハン・クライフ(Johan Cruijff、フルネーム:Hendrik Johannes Cruijff、1947年4月25日 - )は、オランダ・アムステルダム(ヘームステーデ)出身の元サッカー選手、および指導者であり、現在FCバルセロナの名誉会長。現役時代のポジションは主にFW(センターフォワード、ウインガー)、MF(攻撃的MF)。英語表記では「Cruyff」とも。
目次 |
人物
- 評価
オランダ史上最高のサッカー選手。1960年代後半から1970年代にかけて世界のフットボールシーンを席巻した。また選手時代に欧州年間最優秀選手賞(バロンドール)を3度受賞する等、サッカー史上最高峰の選手に位置付けられており、BIG4(ペレ、ベッケンバウアー、クライフ、マラドーナ)の一人に君臨する。
オランダの名将、リヌス・ミケルスが提唱した組織戦術「トータルフットボール」の体現者として知られる。ミケルス監督とは1965年のアヤックス時代から、FCバルセロナ、そしてオランダ代表でも共に戦っており、ミケルスの戦術の中で唯一無二の存在として君臨した。
独自のフットボール理論とその傲慢とも取れる程の強烈なカリスマ性で、指導者としても実績を残した。1996年以降は監督業からも退いてはいるが、選手としてもプレーしたFCバルセロナ(スペイン)やオランダ代表をはじめ、今も尚、サッカー界に多大な影響を与え続けている。
- 愛称
クライフにはその活躍を称える様々なニックネームが付けられているが、最も有名なのは「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン=幽霊船)」。これはリヒャルト・ワーグナーの楽劇「さまよえるオランダ人(Der fliegende Holländer)」に由来する。この愛称は神出鬼没の彼のプレースタイルを体現している。またイニシャルの「J.C.」がイエス・キリストと同じであることから、「Jesus(ジーザス)」とも呼ばれた。
- プレースタイル
11人の中央のポジションである文字通り「心臓部」に位置し、俊足と当たり負けしない抜群のバランス感覚、卓越したテクニック、試合の流れを読む洞察力、そしてミケルスの意思を具現化する戦術理解力と、選手として全てにおいて秀でていた。試合中はフィールドの指揮官として牽引し、状況に応じてフォワードから最後尾まで至る所に顔を出す。ゲームメイクからラストパスの供給、フィニッシュまで一人でこなす攻撃に関するオールマイティプレイヤーと云える。
特徴的なプレーとしては、軸足の後ろ側にボールを通す「クライフ・ターン」が有名である。現代サッカーでは基本テクニックの一つとして各クラブの下部組織などで少年たちに教えられている。
またワンタッチプレーを好み、独特のタイミングで放つパスやシュートで相手選手を翻弄した。1974年のワールドカップ西ドイツ大会、対ブラジル戦で魅せたジャンピングボレーシュートは、後の「フライング・ダッチマン」の愛称に繋がっている。このゴールは「フライング・ボレー」という固有名詞扱いされる事もある。
経歴
少年時代
1947年4月25日、第二次世界大戦後のオランダ・アムステルダム郊外(ヘームステーデ)で、父親が青果店を営む家庭に産まれた。少年時代は店の前でサッカーの練習に明け暮れる。この頃から華奢で、周囲の大人から「この子は病気じゃないか」と心配されていた程だったが、ヨハン少年は元気にストリートサッカーで技を磨いていった。
小さい時からアヤックスの大ファンだったクライフは、10歳の時にアヤックスの下部組織に入団。合格の可能性1%と言われた中での入団だった。12歳の時に父親が死去、その2年後に母親がアヤックスのグラウンド作業員と再婚している。13歳の時、サッカーへ専念するため学校を退学した。
アヤックス時代
16歳の時にアヤックスのトップチームに昇格し、1964-65シーズンにデビュー。デビュー戦のFCフローニンゲン戦で初ゴール。その後オランダサッカーリーグはプロ化され、クライフはオランダ2番目のプロ選手となる。また1966年9月7日の対ハンガリー戦でオランダ代表デビュー、以降オランダを代表するスターとして世界に名を馳せていく。
アヤックスには1973年まで9シーズン以上在籍し、その間UEFAチャンピオンズカップ(UEFAチャンピオンズリーグの前身)に3回優勝、個人ではバロンドールに2回選出されている。
クライフの代名詞である背番号「14」はアヤックス当時から好んで付けていた。当時背番号は選手固定ではなく、毎試合前に選手同士で話し合って決めていた。ある時、主に控え選手が付ける「14」を選ぶクライフに監督がその理由を尋ねると、クライフは「誰も付けていないこの番号を、これから自分の番号にするためだ」と言ったという。代名詞となった背番号14は、2007年4月25日、アヤックスの永久欠番となった。
FCバルセロナ時代
1973年、200万ドルという当時としては破格の移籍金でスペインのFCバルセロナに移籍(Template:要出典範囲)。当時低迷していたクラブの救世主として、22戦連続無敗記録など快進撃の立役者となり、このシーズンのリーグ優勝に貢献した。特にアトレティコ・マドリード戦でのゴールやアウェーサンティアゴ・ベルナベウで行われたエル・クラシコに5-0で歴史的大勝を収めた事などは語り草となっている。その後5シーズンにわたってバルセロナに多くのタイトルをもたらした。
オランダ代表
[[File:Bundesarchiv Bild 183-N0716-0314, Fußball-WM, BRD - Niederlande 2-1.jpg|thumb|230px|right|1974 FIFAワールドカップ決勝の西ドイツ代表戦でのクライフ]] 1974年のワールドカップ西ドイツ大会には、オランダ代表として出場。「時計じかけのオレンジ」(同名の小説に由来)と称された完成度の高いチームの心臓として、決勝戦まで押し上げた。しかし決勝の西ドイツ戦で、クライフは西ドイツのディフェンダー・ベルティ・フォクツの執拗なマークに遭い完全に封じ込められ、クライフを封じられた事で組織として機能しなくなったオランダは1対2で敗れ、優勝を逃した。クライフ自身はこの大会の最優秀選手に選ばれ、またこの年は3度目のバロンドールにも輝いた。
4年後の1978年にアルゼンチンで開催されたワールドカップでは、欧州予選にこそ出場したものの、当時のアルゼンチンのビデラ軍事政権に対する抗議のため大会参加を拒否したとされた。しかし、2008年4月スペインのラジオ番組において、その真の理由が子どもの誘拐未遂事件に遭ったためだったことを明らかにした。さらにその後はオランダ代表が2大会連続で欧州予選で敗退しており、クライフのワールドカップにおける成績は、1大会のみの出場で7試合3得点に留まっている。
選手キャリアの晩年
1979年、FCバルセロナ上層部と運営方針を巡って衝突し、クラブを退団。一時は引退を宣言するも、アメリカ・北米サッカーリーグのロサンゼルス・アズテックスに移籍。ベッケンバウアーと共にリーグを彩った。
その後スペインのレバンテを経て、1981年に古巣アヤックスに戻り、全く衰えを見せないプレーで故郷の観客を魅了。その後キャリア最後のシーズンをフェイエノールトで過ごし、1984年に現役を引退した。最後の2年は連続でオランダ年間最優秀選手に選ばれており、余力を残しての引退であった。最後の試合を終えた後、ロッカールームでスパイクを無造作に放り投げ、引退の意思を示した。
指導者としての成功
thumb|230px|right|日本人のファンにサインをするクライフ(1982年) 翌1985年、アヤックスの監督に就任。就任時はまだ公式な指導者ライセンスを取得していなかった為、当初の肩書きは「テクニカルディレクター」だった。3年間同クラブを指揮し、1987年にはUEFAカップウィナーズカップ優勝に導いた。この時の教え子にフランク・ライカールト、マルコ・ファン・バステン、アーロン・ヴィンター、デニス・ベルカンプといったその後のオランダサッカー界を牽引する選手たちがいる。
1988年に監督としてFCバルセロナに戻ったクライフは、それまでの主力選手を大量解雇するなど低迷するクラブの再建に着手。多額の費用を投じてフリオ・サリナスらスター選手たちを次々獲得していき、在任8シーズンの間にリーガ・エスパニョーラ4連覇(1990-94)を含む数々のタイトルを獲得。1991-92シーズンにはクラブ初のチャンピオンズカップ奪取を成し遂げた。このクライフが創り上げたチームは「エル・ドリーム・チーム」と称され、バルセロナの栄光の歴史に刻まれている。
その後
1996年、健康上の理由で監督を勇退。その後も「クライフ監督待望論」が持ち上がる事があるが、第一線からは退いている。現在は世界のフットボール界のご意見番として、多くの後輩たちに辛辣で愛のあるアドバイスを送り続ける等、彼の発言や体現したサッカーは世界中を魅了し続けている。
ジョアン・ラポルタとは親しい友人であり、ジョゼップ・グアルディオラのバルセロナ監督就任時には、1年前から推薦をしていた。
歯に衣着せない発言の為、バルサのクレの彼への感情は愛憎半ばするものであるという(ルイス・フィーゴがレアル・マドリードへ移籍した際に彼を擁護した事など)。
2009年、スペインのカタルーニャ選抜の監督に就任した。
2010年3月、バルセロナの名誉会長に就任した。
エピソード
- 選手時代は、プーマとスポンサー契約を結んでいた。1974 FIFAワールドカップのオランダ代表はアディダスのユニフォームを採用しており、袖にはアディダスのシンボルである3本線が入っていたが、クライフのユニフォームだけは線が2本になっていた。
- Template:要出典範囲
- サッカー史上最高の選手の1人でありながら、クライフの代表としてのキャリアは短い(1966年9月 - 77年10月)。78年ワールドカップを目前にした代表引退は長く議論の的となっていたが、最近になって(スペインのラジオ番組において)家族を守るためであったと告白した。またこれ以前に、1974年のワールドカップにおいて決勝まで進出しながら敗れ、目の前にあるワールドカップトロフィー掲げることができなかったことを振り返り、「筆舌に尽くしがたい屈辱で、あのような思いは二度と体験したくなかったため代表を辞退した。」とも語っている。
- 息子のジョルディ・クライフもプロサッカー選手。バルセロナ所属当時(1974年)に産まれたため、カタルーニャ語風に「Jordi(ジョルディ)」と命名したという。
- アヤックスユース時代、審判のポジショニングミスを指摘して退場処分になった事があると言う。
- FCバルセロナ監督時代、持病の心臓病のために禁煙をしなければならなくなり、代わりにベンチでチュッパチャプスを舐めていたのがテレビ放送に写ったことがチュッパチャプスが世界に広まった一因と言われている。これはチュッパチャプス本社も認めており、それから同社はFCバルセロナの公式スポンサーをしている。
個人タイトル
- バロンドール(欧州年間最優秀選手賞) - 1971、1973、1974年
- 1974年ワールドカップ西ドイツ大会 - 最優秀選手賞、ベストイレブン
- エールディヴィジ得点王 2回(1967、1972)
- 世界最優秀監督賞(ワールドサッカー誌)- 1987年
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 3位(ワールドサッカー誌)
個人成績
年度 | クラブ | リーグ | 背番号 | リーグ | カップ戦 | 欧州カップ戦 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
1964-65 | アヤックス | エールディヴィジ | 10 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
1965-66 | アヤックス | エールディヴィジ | 19 | 16 | 4 | 9 | 0 | 0 | |
1966-67 | アヤックス | エールディヴィジ | 30 | 33 | 5 | 5 | 6 | 3 | |
1967-68 | アヤックス | エールディヴィジ | 33 | 25 | 5 | 6 | 2 | 1 | |
1968-69 | アヤックス | エールディヴィジ | 29 | 24 | 3 | 3 | 10 | 6 | |
1969-70 | アヤックス | エールディヴィジ | 33 | 23 | 5 | 6 | 8 | 4 | |
1970-71 | アヤックス | エールディヴィジ | 25 | 21 | 6 | 5 | 6 | 1 | |
1971-72 | アヤックス | エールディヴィジ | 32 | 25 | 4 | 3 | 9 | 5 | |
1972-73 | アヤックス | エールディヴィジ | 26 | 16 | 0 | 0 | 6 | 3 | |
1973-74 | アヤックス | エールディヴィジ | 2 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
1973-74 | FCバルセロナ | プリメーラ | 26 | 16 | 12 | 8 | 0 | 0 | |
1974-75 | バルセロナ | プリメーラ | 30 | 7 | 12 | 7 | 8 | 0 | |
1975-76 | バルセロナ | プリメーラ | 29 | 6 | 10 | 3 | 9 | 2 | |
1976-77 | バルセロナ | プリメーラ | 30 | 14 | 9 | 6 | 7 | 5 | |
1977-78 | バルセロナ | プリメーラ | 28 | 5 | 7 | 1 | 10 | 5 | |
1979 | ロサンゼルス | NASL | 27 | 14 | - | - | - | - | |
1980 | ワシントン | NASL | 27 | 10 | - | - | - | - | |
1980-81 | レバンテ | プリメーラ | 10 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
1981 | ワシントン | NASL | 5 | 2 | - | - | - | - | |
1981-82 | アヤックス | エールディヴィジ | 15 | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | |
1982-83 | アヤックス | エールディヴィジ | 21 | 7 | 7 | 2 | 2 | 0 | |
1983-84 | フェイエノールト | エールディヴィジ | 33 | 11 | 7 | 1 | 4 | 1 | |
通算 | エールディヴィジ | 308 | 215 | 48 | 40 | 29 | 21 | ||
プリメーラ | 153 | 50 | 50 | 25 | 34 | 12 | |||
NASL | 59 | 26 | - | - | - | - | |||
合計 | 520 | 293 | 98 | 65 | 88 | 37 |
語録
Template:出典の明記 クライフはフットボールを語る際の、その独特の言い回しで数々の至言・名言を発している。また言葉遣いが独特なため記者達からは「クライフはオランダ語も英語もスペイン語も、何語で喋っても分かりづらい」と言われることがある。
- 「サッカーは間違いのゲームだ。間違いの少ないチームが勝つ」
- 「美しく敗れる事を恥と思うな、無様に勝つことを恥と思え」
- 「『W杯と最優秀選手賞のどちらが欲しいか』と聞かれたら、私は迷わず最優秀選手賞が欲しいと答える。理由は簡単だ。優勝したチームが魅力的だとは限らない、だが最優秀選手賞は世界で一番魅力的なフットボールをした選手に贈られるものだから」
- 「バルセロナに移籍するか、そうでなければ私はフットボール界から引退する」 ―アヤックスからの移籍が揉めた際に発したコメント
- 「1-0で守り切って勝つより、4-5で攻め切って負ける方が良い」
- 「ワンタッチこそ最高の技術だ」
- 「ダメな奴らが走るんだ。相手をもっと走らせろ」
- 「月並みなやり方をするくらいなら、自分のアイデアと共に心中した方がマシだ」
- 「いくら技術に優れ、スーパースターでも…、その上には、勝者が、チャンピオンがいる…」 ―1974年W杯決勝戦後のコメント。「スーパースター」とはクライフ自身を指し、「勝者・チャンピオン」とは同大会で優勝したベッケンバウアー率いる西ドイツ代表チームのこと
- 「だって9番といえばディ・ステファノ。10番はペレ。私がそんな番号付けたら紛らわしいじゃないか」 ―どうして14番なんて番号を選んだのか?と聞かれた時のコメント
- 「アヤックスとはサグラダ・ファミリアのようなもの。どちらも1日でできあがるわけではない」
- 「ボールを回せ、ボールは汗をかかない」
- 「フットボールでは100mより30mから40mを速く走ることが重要。だがもっと重要なのは『いつ』走るかだ」
- 「私はフットボールを始めて以来多くの選手を見てきたが、みんな私より下手だった。私は下手な選手を誰よりも見続けてきた。だから彼らの気持ちはよくわかる」
- 「私は新しいディ・ステファノになれるかもしれないが、新しいペレにはなれない。彼は唯一、理論を越えている」
関連項目
外部リンク
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