マリー・アントワネット

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Template:出典の明記 プライバシー・ポリシー Wikipedioについて 免責事項 Template:基礎情報 君主 マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ドゥ・ロレーヌ・ドートゥリシュTemplate:Lang-fr-short, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)は、フランス国王ルイ16世王妃

ハプスブルク=ロートリンゲン家の出身で、オーストリア大公マリア・テレジアとその夫である神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの十一女。結婚前のドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンTemplate:Lang-de-short)。フランス革命中の1793年に刑死した。

目次

生涯

幼少期・結婚まで

マリア・アントーニアは1755年11月2日、ウィーンで誕生した。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身につけたハープクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。

当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、アントーニアとフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策した。

1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクスポーランドアウグスト3世ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

thumb|150px|少女時代のアントーニア 1765年にルイ・フェルディナンが死去。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式ヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。

宮廷生活

デュ・バリー夫人との対立

結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫・デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘・アデライードが率いるヴィクトワールソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられているTemplate:要出典

ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます!ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。

二人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のベルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

結婚生活

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王と王妃の結婚を祝うメダル

マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、趣味・気質などの不一致や、ルイの性的不能もあって(後日、その治療を受けるまで子どもは生まれなかった)、思わしくなかったと言われる。彼女はその寂しさや慣れないフランス王室での生活を紛らわすため奢侈に没頭していたという説があり、夜ごと仮面舞踏会で踊り明かしたという。また彼女は大変に移り気かつ享楽的な性格で、読書も嫌いであったという。

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乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)

母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って諌めたが、効果は無かった(この往復書簡は現存する)。さらに賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子が生まれるとピッタリと止めている。

また、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させるなどもしていた。母親としては良い母親であったようである。

フランス王妃として

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王妃となったアントワネット
(1775年)

1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステイタスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になってしまい、逆に反感を買ってしまった。

ローザ・ベルタンという新進ファッションデザイナーのドレスを好んで着ており、ローザ・ベルタンのデザインするドレスや髪型、宝石はフランス宮廷だけでなく、スペインやポルトガル、ロシアの上流階級の女性たちにも流行し、アントワネットはヨーロッパのファッションリーダーとなっていった。

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麦藁帽子にモスリンの「田舎風の装い」の王妃(1783年)

また、アントワネットはファッションに浪費はしたが、凝ったスタイルのファッションは好まず、簡素なデザインのものを好んだ。プチ・トリアノン宮で田舎娘の格好をするのを好み、この頃ローザ・ベルタンはアントワネットのために袖や長い裳裾を取り払ったスリップドレスをデザインしている。ここではポリニャック伯夫人などの、極端に寵愛したお気に入りの少数の貴族達のみしか出入りできなかった。

こうした中で、マリー・アントワネットとスウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンとの浮き名が、宮廷では専らの噂となった。地味な人物である夫のルイ16世を見下している所もあったという。ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。一方、彼女は大貴族達を無視し、彼女の寵に加われなかった貴族達は、彼女とその寵臣をこぞって非難した。

彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷がひどかったという。多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった。

1785年には、マリー・アントワネットの名を騙った、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生する。このように彼女に関する騒動は絶えなかった。 Template:-

フランス革命

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首飾り事件」の元となったダイヤの首飾り。金500㎏相当の価値があった

1789年7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、フランス革命が勃発した。ポリニャック伯夫人ら、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは、彼女を見捨てて亡命してしまう。彼女に最後まで誠実だったのは、王妹エリザベートランバル公妃マリー・ルイーズだけであった。国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移されたが、そこでマリー・アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。


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脱出時の王妃(1791年) 逃亡の慌ただしさの中で描かれ、顔以外は彩色されず未完成である

1791年6月20日、計画は実行に移され、ルイ一家は庶民に化けてパリを脱出する。アントワネットも家庭教師に化けた。フェルセンは疑惑をそらすためにルイとアントワネットは別々に行動することを勧めたが、アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。また馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や咽喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積めこまれた。このため元々足の遅い馬車の進行速度を更に遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせてしまうこととなった。国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻される。このヴァレンヌ事件により、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまう。

1792年フランス革命戦争が勃発すると、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される(8月10日事件)。

タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見るなど、束の間の家族団らんの時があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。

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ギロチン台へひきたてられるアントワネット

1793年1月、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンでの斬首刑とした。息子である王位継承者のルイ・シャルルはジャコバン派の靴屋シモンにひきとられ、ぞんざいな扱いを受けたという。マリー・アントワネットは8月2日にコンシェルジュリー牢獄に移され、その後裁判が行われたが、結果は初めから決まっていた。急進化する革命裁判所は多数の反革命を処刑するための、最初の生贄としてアントワネットを欲していた。しかし、アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航。業を煮やした裁判所は息子のルイ17世の非公開尋問をおこない、「母親に性的行為を強要された」と証言させた。しかし、この汚い企みに対しアントワネットは裁判の傍聴席にいた全ての女性に自身の無実を主張し、大きな共感を呼んだ。

しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず10月15日、彼女は革命裁判で死刑判決を受け、翌10月16日コンコルド広場において夫の後を追ってギロチン送りに処せられることとなった。

処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベト宛ての遺書を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。この遺書は看守から経由して後に革命の独裁者となるロベスピエールに渡され、ロベスピエールはこれを自室の書類入れに眠らせてしまう。遺書はフランス革命後に再び発見され、マリー・テレーズがこの文章を読むのは1816年まで待たなければならなかった。

thumb|200px|王妃マリー・アントワネットのギロチン処刑 遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。全て終わりました。」と述べたと言われる。そして白衣に白い帽子を身に着けた。斬首日当日、マリー・アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられて行った(ルイ16世の場合は馬車だった)。コンシェルジュリーを出たときから、髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。その最期の言葉は、死刑執行人の足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった」だったと伝えられる。

通常はギロチンで処刑の際に顔を下に向けるが、マリー・アントワネットの時には顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという噂が流れているTemplate:要出典が、真実ではない。むしろこのような伝説が流れるほど、彼女に対するフランス国民の憎悪の念が激しかったという証拠にはなろう。12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。処刑された彼女を見て群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。

遺体は夫ルイ16世と共に共同墓地となっていたマドレーヌ寺院に葬られるがそれから22年後、ナポレオン1世の命令により夫と共にサン=ドニ大聖堂へと改葬された。 Template:-

評価

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サン=ドニ大聖堂の慰霊碑

その後、マリー・アントワネットの名誉回復には、結局死後30年以上を要した。現在では、彼女に対する悪評は、その殆どが中傷やデマだということが判明している。ただし、彼女が一部の寵臣のみ偏愛し、ヴェルサイユの品位の低下などを招いたこと、また無類の浪費家でギャンブルに耽ったことは事実であり、彼女個人や王権そのものへの反対者たちによって、それらの失態が多大に誇張されてパリに意図的に流され、彼女や王権に対する悪意と憎悪がことさら生み出された。

しかしながら、マリー・アントワネットの浪費だけでフランス一国の財政が傾いた訳ではない。1778年の場合を例に取ると、王室および特権貴族の出費は3600万リーブルであり国全体の6%程度に過ぎず、彼女の支出はさらにその一部である。フランスのシンボルたる王妃としての体裁を繕うための出費が含まれると考えれば、「彼女がフランス財政を崩壊させた」ということはあり得ないと言える。既にフランスの財政は先代ルイ15世の時代から傾いていたのであり、当時の貴族は免税の特権があった。また、アントワネットが所有したと言われる「60万リーブルのドレス」「50万リーブルの耳飾り」と言った豪華な品々も現在では誇張が含まれていたとされ、信憑性が疑問視されている。

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王妃の二枚の肖像。1778年(左)、1779年(右)

マリー・アントワネットに対するフランス国民の怒りは、むしろ革命が始まってからの方が大きかったと言われている。彼女はフランスの情報を実家であるオーストリア皇室などに流し、革命に対する手立てが取れない夫ルイ16世に代わって反革命の立場を取り、あえて旧体制を守ろうとしたのである。このことがフランスの国益を外国に売った裏切り行為ととられ(外敵通牒)、それだけでも死に値する罪状となったのである。彼女自身は王政を維持する為に良かれと思ってした行為が、逆に大革命に火を付け、さらに燃え上がらせる結果となってしまうのである。

このように、不幸な王妃の代表格といわれることも多い。しかし、夫ルイ16世は彼女以外に寵姫や愛人を持つこともなく、断頭台に登る間際まで彼女を案じる手紙(彼女には何の落ち度も無いことを訴える内容のもの)を残すなど、妻としては幸福な一生だったとも言える。その幸福が王政廃止から二人が処刑される間のほんの短い間であったとしても。死刑が決定した直後のマリー・アントワネットがエリザベート王女にあてた書簡には、「犯罪者として処刑されるのではないので、何ら恥ずべきことではない」といった内容が記されていた。民衆は、王妃の政治的無知さや、その結果としての民衆への配慮の欠如や、国費の浪費などに対して死刑という判決を下したとも考えられる。しかし、「不幸になって初めて、人は本当の自分が何者であるかを知るものです」という言葉のように、晩年は置かれた現実を把握をしていたとも言える。 Template:-

「パンがなければ」の発言

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1788年の肖像画

マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと紹介されることがある(ルイ16世の叔母であるヴィクトワール王女の発言とされることもある)。原文は、Template:Lang-fr-short、直訳すると「彼らはブリオッシュを食べるように」となる。ブリオッシュは現代ではパンの一種の扱いであるが、かつてはお菓子の一種の扱いをされており、バターと卵を普通のパンより多く使った、いわゆる「贅沢なパン」である。お菓子ではなくケーキまたはクロワッサンと言ったという変形もある。なおフランスを代表するイメージであるクロワッサンやコーヒーを飲む習慣は、彼女がオーストリアから嫁いだ時にフランスに伝えられたと言われている。

しかし、これはマリー・アントワネット自身の言葉ではない、ともされている。例えば、ルソーの『告白』(1766年頃執筆)の第6巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、“家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公婦人が答えた”ことを思い出したとあり、この記事が有力な原典のひとつであるといわれている。庇護者で愛人でもあったヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代(1740年頃)のことという。

アルフォンス・カーは、1843年に出版した『悪女たち』の中で、執筆の際にはこの発言は既にマリー・アントワネットのものとして流布していたが、1760年出版のある本に「トスカーナ大公国の公爵夫人」のものとして紹介されている、と書いている。実際はこれは彼女を妬んだ他の貴族達の作り話で、飢饉の際子供の宮廷費を削って寄付したり、他の貴族達から寄付金を集めるなど、国民を大事に思うとても心優しい人物であったとされる。トスカーナは1760年当時、マリー・アントワネットの父であるフランツ・シュテファンが所有しており、その後もハプスブルク家に受け継がれたことから、こじつけの理由の一端になった、ともされる。

なお、西暦3世紀の中国・西晋皇帝である恵帝は「米がないのならどうして肉を食べないのか」という発言を本当にしている。とはいえ、この発言を元に「パンがなければ~」が捏造されたとは考えにくい。 Template:-

ブリオッシュについて

ブリオーシュとも書く。形が王冠に似ていることから『王の菓子』と呼ばれている。Template:要出典範囲との説もあり、Template:要出典範囲とも考えられる。Template:要出典範囲。そうなると「パンがなければブリオッシュを」との発言が1700年代前半のものであったのか後半のものであったかにより、意味合いが異なってくる可能性もある。

オースーパージャンプ』(集英社)にて掲載されている漫画マリー・アントワネットの料理人』においては、別説が紹介されている。当時はパンには質の良い高価な小麦粉が使われており、ブリオッシュは質の悪い安価な小麦粉を使った菓子であり、小麦粉の質の悪さを補うために卵やバター、砂糖などで味付けがされたもので、当然パンより価格が安かった。「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」というのは、食糧難の際の窮乏生活を説いた、まっとうな発言だという説である。ただし、池田勇人のいわゆる「貧乏人は麦を食え」発言のように、「食糧難であるから貧民は(パンや米ではなく)安物を食うのが自然」という統治者の発言が被統治者から問題視された例は20世紀になっても存在する。 Template:-

マリー・アントワネットと音楽

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スピネットを弾くマリー・アントワネット

マリー・アントワネットは、上記の通りウィーン時代にグルックらから音楽を教わっていた。また彼女が7歳だった1762年9月、各国での演奏旅行の途上、シェーンブルン宮殿でのマリア・テレジアを前にした御前演奏に招かれたモーツァルト(当時6歳)からプロポーズされたという音楽史上よく知られたエピソードも持つ。

後年、ルイ16世の元に嫁いでからもハープを愛奏していたという。タンプル塔へ幽閉された際もハープが持ち込まれた。歌劇のあり方などをめぐるオペラ改革の折にはグルックを擁護し、彼のオペラのパリ上演の後援もしている。

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ハープを奏でる王妃(1777年)

なおマリー・アントワネットは作曲もし、少なくとも12曲の歌曲が現存している。彼女の作品の多くはフランス革命時に焼き捨てられ、ごく一部がパリ国立図書館に収蔵されているのみである。近年では“GiBupC <a href="http://gpsnqwvzbsbg.com/">gpsnqwvzbsbg</a>, [url=http://dbtauaohikgv.com/]dbtauaohikgv[/url], [link=http://fasownhcrtod.com/]fasownhcrtod[/link], http://npemhjdofvfv.com/”(それは私の恋人)などの歌曲がCDで知られるようになった。

2005年には漫画『ベルサイユのばら』の作者でソプラノ歌手の池田理代子が、世界初録音9曲を含む12曲を歌ったCD「ヴェルサイユの調べ~マリー・アントワネットが書いた12の歌」をマリー・アントワネットの誕生日である11月2日に発売し、この曲が2006年上演の宝塚歌劇ベルサイユのばら』で使用された。

このアンワネットの曲集は日本で世界初の楽譜<ref></ref>も出版された。 Template:-

マリー・アントワネットと入浴・香水

マリー・アントワネットが幼少期を過ごしたオーストリアには当時から入浴の習慣があった。母マリア・テレジアも幼い頃から彼女に入浴好きになるよう教育している。入浴の習慣がなかったフランスへ嫁いだ後も彼女は入浴の習慣を続け、幽閉されたタンプル塔にも浴槽が持ち込まれたという記録がある。

また、入浴することにより、体臭を消すという目的が主だった香水にも影響があった。マリー・アントワネットは、当時のヨーロッパ貴族が愛用していたムスクや動物系香料を混ぜた非常に濃厚な香り(香りというよりは臭いという表現がふさわしい)よりも、花やハーブなどの植物系香料から作られる軽やかな香りの現代の香水に近い物を愛用し、貴族たちの間でも流行した。もちろん、このお気に入りの香水もタンプル塔へ持ち込まれている。

その他

  • 家具に非常に興味を持っており、ドイツ人家具職人を多く抱えルイ16世様式の家具を多く貴族に広めている。また日本製の家具を好んでおり、現在もルーブル美術館に展示されている。

子女

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マリー・アントワネットとマリー・テレーズ王女、ルイ王太子(ルイ17世)

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関連作品

関連項目

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