ポツダム宣言

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ポツダム宣言(ポツダムせんげん、The Potsdam Declaration)は、ポツダム会談での合意に基づいて、アメリカ合衆国中華民国および英国の首脳が、Template:和暦7月26日大日本帝国日本)に対して発した、第二次世界大戦大東亜戦争太平洋戦争)に関し、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた13条から成る宣言。

ソビエト連邦は同年8月9日の対日参戦後に宣言に加わった。宣言を発した各国の名をとって、「米英支ソ四国共同宣言」<ref>大東亜戦争終結ノ詔書(玉音放送の原文)では「米英支蘇」となっている。</ref>ともいう。

目次

経緯

画像:Potsdam big three.jpg
(左から)アトリー、トルーマン、スターリン

ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日~8月2日にかけ、ベルリン郊外ポツダムにおいて、米国、英国、ソ連の3カ国の首脳(米国大統領ハリー・S・トルーマン、英国首相ウィンストン・チャーチル、ソ連共産党書記長ヨシフ・スターリン)が集まり、抗戦を続ける日本への対応と第二次世界大戦の戦後処理について話し合われた(ポツダム会談)<ref>会談の途中、トルーマンに原子爆弾開発実験の成功が密かに伝えられた。</ref>。ポツダム宣言は、この会談の期間中、米国、英国と中華民国の3カ国首脳の共同声明として発表されたものである。

会談に加わっていたソ連は、日本に対して中立の立場をとっていたため宣言に加わっていない(8月9日のソ連対日参戦後に宣言に参加)。英国代表として会談に出席していたチャーチル首相は、本国での総選挙敗北の報を受け急遽帰国、後継首相のクレメント・アトリーは総選挙後の後始末のために不在、さらに中華民国の代表である蒋介石(政府主席)はそもそも会談に参加していなかったため、トルーマンが自身を含めた3人分の署名を行った(蒋介石とは無線で了承を得て署名した)。

Template:和暦8月14日、日本政府は宣言の受諾を駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、このことは翌8月15日に国民に発表された(玉音放送)。9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で政府全権の重光葵大本営(日本軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。これにより、宣言ははじめて法的な効果を持つこととなった。

概要

宣言の骨子は下記のとおり(日本語原文は縦書き)。

  • 五條、我等の条件は左のとおりであり、これは譲らない。遅れは認めない。
  • 六條、日本を世界征服へと導いた勢力を除去する
  • 七條、日本国領域内諸地点の占領
  • 八條、カイロ宣言の条項は履行されるべき。又日本国の主権は本州北海道九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない。
  • 十條、日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではない。一切の戦争犯罪人の処罰。民主主義的傾向の復活強化。言論宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること。
  • 十二條、日本国国民の自由に表明せる意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立
  • 十三條、全日本軍無条件降伏。右の行動に於ける日本国政府の誠意に付、同政府による保障が提供されること

冒頭第一條にて、日本国に対し戦争を終結する機会を与える、第三條で日本が軍国主義者の指導を引き続き受けるかそれとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したとし、末尾第十三條に於いて、これ以外の選択は、迅速且つ完全なる壊滅あるのみと宣言している。

影響

Template:Main 1945年7月26日のポツダム宣言の発表に際し、日本政府は戦争終結のための手段としてその受諾を検討する一方、宣言中に天皇制の維持について言及がなかったことから、国体護持を求める主張を中心に、政府内で激しい議論が起こった。宣言における天皇の扱いについては、米国国務次官グルーと陸軍長スティムソンによる起草段階では天皇制を維持する旨の条項が含まれていたが、当時は米国政府内でもその是非について見解が定まっておらず、最終案では削除されていた。また、当時近衛文麿元首相を天皇の特使としてソ連に派遣し、和平の仲介を求める構想があったこともあり、結局、政府はポツダム宣言の黙殺を一旦は決定した。

7月27日、日本政府は宣言の存在を論評なしに公表し、翌28日には読売新聞で「笑止、対日降伏條件」、毎日新聞で「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などと報道された。同日、鈴木貫太郎首相は記者会見で「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し、斷固戰争完遂に邁進する」(毎日新聞、Template:和暦7月29日)と述べ、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された。この「黙殺」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、またロイターAP通信では「Reject(拒否)」と訳され報道された。

ところが、8月6日には広島市、9日には長崎市への原子爆弾投下が行われ、両市における甚大な被害が伝えられた。同日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国への侵攻を開始した(ソ連対日参戦)。これらに衝撃を受けた日本政府は、8月9日御前会議で「国体の護持」を条件に宣言の受諾を決定し、8月10日に連合国に中立国を経てその旨を通告した。翌11日、米国政府は「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」とし、また「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属する(subject to)」と回答した(「バーンズ回答」)。"subject to"の訳については「制限の下に置かれる」とする外務省と「隷属する」とする軍部の間の対立があり<ref>"subject to"の訳について「制限の下に置かれる」とする外務省の説は、当時外務省条約局第一課長だった下田武三の翻訳である。後年、下田は"subject to"は「隷属する」の意味では有るが、これでは軍部が受け入れないので、「制限の下に置かれる」と意訳したと説明している。さらに、米国の回答には「日本国の最終的の政治形態は『ポツダム』宣言に遵い日本国民の自由に表明する意志に拠り決定されるべきものとす」となっていたところを、下田は「日本国の最終的の政治形態は」の部分を「最終的の日本国の政府の形態は」と訳し、天皇は無傷でその下の政府の形態が国民の意志で決められると取れるように改めた。(出典:下田武三/著 戦後日本外交の証言 上 Template:和暦8月、行政問題研究所)</ref>、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張したため、8月14日に改めて御前会議を開き、宣言受諾が決定され、同日付で終戦の詔勅が発せられた。同日、加瀬俊一スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた。

8月15日正午、日本政府は宣言の受諾と戦争の終結を国民に発表した(玉音放送)。軍隊に停戦命令が出されたのは8月16日である。 宣言受諾とその発表を巡っては国内で混乱が見られ、宣言受諾が決定したという報が入ると、クーデターによって玉音放送を中止させて「本土決戦内閣」を樹立しようという陸軍青年将校の動きがあり、15日未明に一部部隊が皇居の一部やNHKなどを占拠したものの、陸軍首脳部の同意は得られず失敗に終わった(宮城事件)。

宣言受諾後も、ソ連や中国との間で戦闘が続いた。9月2日、日本政府はミズーリ号の艦上で降伏文書に調印した。その後も日本軍残党と中国軍・アメリカ軍との小規模の戦闘は続いた。

降伏後、ポツダム宣言には言論の自由の確立などが謳われていた。併し実際には、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって検閲が密かに実行され言論は統制された。

ポツダム宣言と「無条件降伏」の当否

署名後のTemplate:和暦9月6日に、米国トルーマン大統領から<ref>TOP SECRETであり事前に連合国各国の同意を得たものではなく、マッカーサーがこの文書が公開されることを望んだため、公表の事前に英ソ中各国政府に知らせる事を条件に大統領も同意した。なお対日占領政策の最高意思決定機関は極東委員会であり、その諮問機関である対日理事会の第一回会合は1946年4月5日。</ref>「連合国最高司令官の権限に関するマックアーサー元帥への通達」(JCS1380/6 =SWNCC181/2)(原文どおり)があり、その第1項で「天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官としての貴官に従属する。貴官は、貴官の使命を実行するため貴官が適当と認めるところに従って貴官の権限を行使する。われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない。」とあり、米国の政策としての認識が示されている。

無条件降伏であるか否かは論争がある。詳細は無条件降伏を参照のこと。

その他

降伏文書として宮城県の特産品白石和紙が用いられ、マッカーサーが「紙は1000年持つそうだが、この条約も1000年持つように。」と言ったとされる。

なお、ポツダム宣言文の日本語への翻訳は、当時外務省条約局第一課長であった下田武三が行った。

参考文献

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  • 江藤淳編「占領史録」(上下)講談社学術文庫、1995
  • 外務省編「終戦史録」(全6巻)北洋社
  • 外務省編「日本の選択 第二次世界大戦終戦史録」(上中下)山手書房新社、1990
  • 林茂・辻清明編「日本内閣史録 5」第一法規、1981
  • 鈴木九萬一監修「日本外交史 26」鹿島出版会、1973
  • 中尾裕次編「昭和天皇発言記録集成」(上下巻)芙蓉書房出版、2003
  • 重光葵「重光葵 手記」 正続 中央公論社 、1986、1988
  • 重光葵「昭和の動乱」中公文庫上下 、2001
  • 岡崎勝男「戦後二十年の遍歴」中公文庫、1999
  • 梅津美治郎刊行会「最後の参謀総長梅津美治郎」芙蓉書房、1976
  • 有末精三「ザ・進駐軍 有末機関長の手記」芙蓉書房、1984
  • 河辺虎四郎「河辺虎四郎回想録 市ヶ谷台から市ヶ谷台へ」毎日新聞社、1979
  • 加瀬俊一「加瀬俊一回想録」山手書房上下、1986
  • 加瀬俊一「ミズーリ号への道程」文藝春秋新社、1951
  • GHQ参謀第2部編「マッカーサーレポート 第1巻」現代史料出版、1998
  • 毎日新聞図書編集部訳編 「太平洋戦争秘史 米戦指導者の回想」毎日新聞社、1965
  • 荒敬編「日本占領・外交関係資料集 第1巻」柏書房、1991
  • 佐藤元英・黒沢文貴編「GHQ歴史課陳述録—終戦史資料」原書房(上下)、2002
  • 住本利男 「占領秘録」毎日新聞社 のち中公文庫、1988
  • 藤田信勝 「敗戦以後」 プレスプラン 2003
  • ダグラス・マッカーサー「マッカーサー回想録」朝日新聞社 のち中公文庫上下、2001
  • ハリー・S・トルーマン 「トルーマン回顧録」恒文社,1992
  • イーブン・A.エアーズ 「ホワイトハウス日記1945-1950」平凡社、1993
  • 五百旗頭真「日本の近代6 戦争・占領・講和 1941〜1955」中央公論新社、2001
  • 五百旗頭真「20世紀の日本3 占領期−首相たちの新日本」読売新聞社、1997 中公文庫、2002
  • 増田弘「マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ」 中公新書 2009
  • 河原匡喜「マッカーサーが来た日 8月15日からの20日間」新人物往来社、1995
  • 仲晃「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」NHKブックス(上下)、2000
  • 長谷川毅「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」中央公論新社、2006
  • 保阪正康「新版 敗戦前後の日本人」朝日文庫、2007

脚注

<references />

関連項目

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外部リンク

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