ベガルタ仙台
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Template:サッカークラブ ベガルタ仙台(ベガルタせんだい、Vegalta Sendai)は、日本の宮城県仙台市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブである。
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クラブの概要・歴史
[[File:Vegalta SENDAI Tanabata, the decorations of Sendai Star Festival.JPG|right|thumb|300px|名称の由来となった仙台七夕まつりで飾られているベガルタ仙台応援七夕飾り(2009年8月6日)]] ホームタウンは宮城県仙台市。ホームスタジアムはユアテックスタジアム仙台(命名権導入により、2006年に「仙台スタジアム」から改称)。練習場は泉サッカー場および泉パークタウンスポーツガーデン・サッカー場。チーム名の「ベガルタ」は、仙台七夕に因んで七夕の「織り姫」と「彦星」とされる星の名前、「ベガ (Vega) 」と「アルタイル (Altair) 」を合わせた造語。マスコットは「ベガッ太」。ホームゲームでは、J2在籍時においてなお常に1万人以上が応援に掛け付け、J2中1位、Jリーグ全体中12位の集客力を誇る人気チーム。
1994年、Jリーグ参入を目指すため、運営法人「株式会社 東北ハンドレッド」を設立し、東北電力サッカー部をクラブチーム化。クラブ名を「ブランメル仙台」(後述)に改める。
1995年1月に開かれた地域リーグ決勝大会で優勝し、JFL昇格を果たす。 JFL昇格当初は特にヴェルディ川崎の選手を補強しチーム編成したものの、成績は振るわなかった。 また、当時のホームスタジアムだった宮城県サッカー場(利府町)、宮城野原公園総合運動場・陸上競技場(仙台市。2009年に「仙台市陸上競技場」に改称)にはナイター設備がなく、平日でもデーゲームで開催せざるを得なかった。そのため、ファン確保の面でも苦戦を強いられた。
1997年、ナイター設備も完備された仙台スタジアム(現・ユアテックスタジアム仙台)が完成。同スタジアムを新しいホームスタジアムとする。
1998年、健康食品メーカー「ジャパンヘルスサミット」とユニフォーム(胸部分)スポンサー契約を締結。同社の商品名「カニトップ」がユニフォームの胸部分に付くようになった。
1999年、Jリーグが2部制となり、J2(Jリーグ2部)入り。クラブ名をベガルタ仙台に改称(「ブランメル」(英:Brummell, 伊達男)という名称が他社の商標であったため)。チームカラーもこれまでの緑から「ベガルタゴールド」と呼ばれる黄色に変更される。
2001年、J2リーグ第2位となり、東北のクラブとして初のJ1昇格を決める。
2002年は年間総合13位でJ1残留を果たすも、翌2003年は同15位に終わり、わずか2年でJ2逆戻り(当時のJ1リーグは年間15・16位チームがJ2降格)。また、2003年シーズン終了を以ってジャパンヘルスサミットがスポンサーから撤退。ユニフォームから「カニトップ」の名が消える。
J2逆戻り1年目の2004年、家庭用品メーカー「アイリスオーヤマ」とユニフォーム(胸部分)スポンサー契約を締結(2000年に背中部分のスポンサーとして契約し、前年まで背番号上部にロゴを入れていたが、「ジャパンヘルスサミット」のスポンサー撤退に伴い、胸部分のスポンサーに"昇格"する形となった)。また、「アイリスオーヤマ」に替わる背中部分の新スポンサーとして大手出版社「廣済堂」と契約。背中部分に同社が発行する求人情報誌「Workin」のロゴが入るようになる。リーグ戦の方は12チーム中6位に終わり、1年でのJ1復帰は果たせず。
2005年は終盤に猛烈な追い上げを見せるも、最終順位は4位。自動昇格はおろか、入れ替え戦出場も逃した。
2006年は序盤こそ好スタートを見せるも、中盤以降失速。最終順位は全13チーム中5位。またしてもJ1復帰はならず。また、シーズン終了後、廣済堂がスポンサーから撤退。ユニフォームから「Workin」のロゴがなくなった。
2007年、廣済堂に替わるユニフォーム(背中部分)の新スポンサーが決まらず、"空白"のまま開幕を迎えるが、8月に電子部品メーカー「NECトーキン」とスポンサー契約を締結(ちなみに、同社はサッカー部も保有し、東北社会人サッカーリーグ1部に属していた)。9月から同社のロゴが背番号上部に入れられた。リーグ戦の方は、第1クールは開幕から11戦無敗(6勝5分)の好スタート。その後、10月までは3-4位前後に踏み留まり、昇格争いに絡んだものの、11月に失速し最終順位は4位。
2008年、クラブを運営する「株式会社 東北ハンドレッド」が6月1日付で「株式会社 ベガルタ仙台」に改称。リーグ戦ではシーズンを通じて連敗が1度もなく、通算敗戦数は優勝したサンフレッチェ広島に次いで少ない8であった(広島は4敗)。しかし、引き分け数が16と2番目に多く(1番多かったのは横浜FCで17)、最終順位は3位。入れ替え戦に回ったものの、その入れ替え戦でジュビロ磐田に敗れ、J1復帰ならず。シーズン終了後、NECトーキンがスポンサーから撤退(ちなみに、同社サッカー部も本業の業績不振に伴い、同年11月を以って休部に追い込まれている)。
2009年、NECトーキンに替わる背中部分のスポンサーとして地元・仙台に本社を構える酒類量販店「やまや」と契約。さらに、前年は契約が無かったパンツ部分のスポンサーに阿部蒲鉾店が契約した。リーグ戦ではシーズンを通して好調を維持。第1クールに2連敗が1度あっただけで、以降は連敗なし。J2初優勝という形で、7シーズンぶりのJ1復帰を決めた。また、天皇杯でもベスト4入りを果たした。
クラブは熱狂的なサポーターが多いことで知られ、観戦環境がいいユアテックスタジアム仙台を擁し、地元メディアの露出度や観客動員力など地域密着度の高さはJリーグトップクラスである。特にタイトル等が懸った場合になると1部・2部に関わらず全国各地の遠征先に5000-20000人のサポーターが集結する現象もよく見られる。それを物語る最近の一例として、『週刊TVガイド』2007年4月6日号(3月28日発売)の宮城版にて、観戦ガイドが綴じ込み付録としてつけられたことがある(同例は他に、アルビレックス新潟の観戦ガイドがつけられた新潟版のみ。またこれらの付録案内は全国各地の同号の目次に記載)。そして2010年開幕前には『週刊サッカーマガジン』で異例の臨時増刊が発売される。
なお、東北電力サッカー部と、クラブチーム・ブランメル仙台に移行した初期のアマチュア選手が中心となって「電力ノスタルジア」という同好会チームを結成している。
年度毎の概要
1994年、「株式会社 東北ハンドレッド」(2008年6月、「株式会社 ベガルタ仙台」に改称)設立。同年の東北社会人サッカーリーグを優勝した東北電力サッカー部をクラブチーム化。「ブランメル仙台」としてチーム発足。チームカラーは緑。
1995年〜1998年(ジャパンフットボールリーグ)
1995年
1月に行われた全国地域リーグ決勝大会で優勝。同年からジャパンフットボールリーグ参入を果たす。リーグ戦は16チームによる2回戦総当たり形式で行われ、仙台は勝点27の15位。最下位を免れるのがやっとであった。
1996年
Jリーグ準会員として承認され、「ジャパンフットボールリーグ2位以内でJリーグ昇格」の資格を得るが、リーグ戦は勝点56の6位に終わる。
1997年
6月、泉区・七北田公園内に仙台スタジアム開業。新しいホームスタジアムとして使用するようになる。リーグ戦は勝点40の8位と奮わなかった。また、この年はJリーグ・ナビスコ杯に初参加。Jリーグ勢3チームとグループリーグ戦を戦うも、1分5敗の最下位に終わる。
1998年
Jリーグ2部制開始を翌年に控える関係で、ジャパンフットボールリーグはこの年をもって終了。2位以内に入れば、J1参入決定戦への出場権を得ることになっていたが、最終的には勝点43の7位。参入決定戦に回ることなく、翌年からはJリーグ2部(J2)に参戦することとなった。また、前年同様、Jリーグ・ナビスコ杯にも参加したが、こちらはグループリーグ4戦全敗で呆気なく敗退。
1999年〜2001年(J2)
1999年
Jリーグ2部制開始のこの年からJ2に加入。また、チーム名をこれまでの「ブランメル仙台」から「ベガルタ仙台」に改称(「ブランメル」が他社の登録商標となっており、その商標権を侵害する恐れがあったため)。チームカラーも「ベガルタゴールド」と呼ばれる黄色に変更。10チームによる4回戦総当たり形式で行われたリーグ戦では、開幕当初から苦戦を強いられ、前期(第2クール)終了時点で最下位。成績不振の責任を取り、前期終了を以って壱岐洋治総監督と鈴木武一監督が揃って辞任。後任として清水秀彦が監督に就任した。清水新監督は就任時、「3年計画でJ1昇格」を目指すことを明言。清水監督が指揮した後期(第3クール以降)は多少巻き返したものの、結局、この年は9位に終わった。
J1・J2全チームによるトーナメント方式(準決勝までホームアンドアウェー、決勝戦のみ1試合勝負)で行われたナビスコ杯では、1回戦で広島と対戦したが、連敗で呆気なく敗退。
2000年
チームスローガンは「あなたとJ1」
J2加入2年目。この年は水戸がJ2に新加入し、11チームで争われた。開幕からいきなり5連敗という最悪のスタートを切ってしまうも、その後は徐々に巻き返す。最終順位は前年より4つ上がり5位。「3年計画でのJ1昇格」へ向けて確かな手応えを掴んだシーズンとなった。
ナビスコ杯は1回戦でC大阪と対戦したが、2試合とも完封負けを喫し、呆気なく敗退。
2001年
チームスローガンは前年と同じ「あなたとJ1」
J2開始3年目のこの年は横浜FCがJ2に新加入。12チームで争われた。この年はFWマルコス、元日本代表MF岩本輝雄等が新加入。前々年・前年と違い、この年は絶好の開幕ダッシュに成功し、第1クールを8勝1分2敗で終える。続く第2・3クールはいずれも6勝ずつ、第4クールでも6勝を挙げ、勝点80の3位で最終節(第44節)を迎える。
最終節(11月18日)では、前節に1位でのJ1昇格を決めた京都とアウェーで対戦。一方、仙台と勝点同点ながら得失点差で上回り2位となっている山形はホームで川崎と対戦。2試合とも同時刻の試合開始であった。仙台は0-0で迎えた後半44分、MF財前宣之のシュートが決まり、待望の先制点。結局、この先制点がそのまま決勝点となり、仙台が勝利。最終勝点を「83」とする。一方、山形は0-0のまま後半を終了し、延長戦突入決定(当時のJ2リーグ戦は後半終了時点で同点の場合はVゴール方式の延長戦を行い、それでも決着しない場合は引き分け。延長勝ちの場合は勝点2を得るというルールであった)。この瞬間、仙台の2位が確定し、悲願のJ1初昇格が決定した(東北のクラブとして初のJ1昇格)。ちなみに、山形はその後、延長前半開始直後にVゴールを許し、敗戦。最終勝点は「80」のまま変わらず、3位に終わった。(「2001年J2最終節」参照)
ナビスコ杯は1回戦で福岡と対戦。ホームでの第1戦を落とすと、続くアウェーでの第2戦は引き分け。結局、1分1敗で敗退となった。
2002年〜2003年(J1)
2002年
この年のチームスローガンはなし。
前年のJ2リーグ戦で第2位となり、悲願のJ1昇格。この年はFW山下芳輝、MFシルビーニョ、MF森保一、DF小村徳男らが新加入。第1ステージは2年連続J1年間王者の鹿島をアウェーで降す等、開幕からいきなり5連勝。特に、山下は7試合で5得点を挙げ、J1得点ランキング2位タイという活躍で日本代表候補にも選出された。しかし、日韓共催W杯開催によるリーグ戦中断から再開後、チームは急激に失速し、第1ステージ残り8試合を1勝7敗。それでも序盤の貯金が利いて、このステージは8位に終わるも、続く第2ステージではわずか4勝(1分10敗)しか挙げられず、15位。一時は1シーズンでのJ2逆戻りも懸念されたが、最終的な年間総合順位は全16チーム中13位。辛くも残留を果たした。
J1参加チームのみによるグループリーグ戦→決勝トーナメント方式に切り替えられたナビスコ杯では、グループリーグで磐田、柏、札幌と対戦したが、1勝3分2敗の3位でグループリーグ敗退となった。
2003年
チームスローガンは「もっと、高く・強く」
この年からJ1リーグ戦の延長戦が廃止された。開幕当初こそ(1分を挟んだ)3連勝を挙げるものの、その後はマルコスの怪我もあり一気に失速。第1ステージを3勝3分9敗の15位で終えると、続く第2ステージも低迷が続く。9月には1999年シーズン途中から指揮を執ってきた清水秀彦監督を解任し、市原、名古屋で監督を歴任したスロベニア出身のズデンコ・ベルデニックを後任監督に迎える。しかし、その後も低迷は続き、9月27日(第2ステージ・第8節)の浦和戦(宮城)で19試合連続未勝利(6分13敗)という不名誉なJリーグ記録(当時)を樹立してしまう。その後、10月4日(同ステージ・第9節)のG大阪戦(石川)で20試合ぶりのリーグ戦勝利を挙げるも復調には至らず、最後は最終節(11月29日)の大分戦(大分・ビッグアイ)を引き分け、年間総合15位(全16チーム中)。これによりJ2降格が決定し、わずか2シーズンでJ2へ逆戻りすることとなった。
ナビスコ杯はグループリーグで柏、FC東京、横浜FMと対戦したが、2勝1分3敗の3位に終わり、前年に続きまたもグループリーグ敗退となった。
2004年〜2009年(J2)
2004年
チームスローガンは「Be Creative & Run 考えよ、疾走せよ」
J2逆戻り1年目のこの年は、前年のシーズン途中で監督を解任された清水秀彦の後任として監督に就任したズデンコ・ベルデニックが引き続き指揮を執ることになった。1年でのJ1復帰を目標に掲げ開幕を迎えたが、いきなり開幕から3連敗。4戦目でようやく初勝利を挙げるも、その後また3連敗とつまづく。しかし、その後はチームを修正しつつ、若手選手の台頭で盛り返し、J1昇格争いに絡んだ。しかし、第4クールで再び失速し、早い段階で昇格争いから脱落。結局、全12チーム中6位に終わった。シーズン終了後、ベルデニック監督は解任され、エースストライカー佐藤寿人は更なる活躍の場を求め、広島へ移籍した。
J2降格に伴い、ナビスコ杯は不参加。以後、2009年まで同杯には参加せず。
2005年
チームスローガンは「熱く 楽しく そしてひとつに」
1年でのJ1復帰を果たせず、J2逆戻り2年目を迎えたこの年、元日本代表DFでもある都並敏史を新監督に迎えた。都並は2003年にサッカー指導者S級ライセンスを取得。仙台で初めてJリーグのトップチームを指揮することになった。第1クールは思うように勝ち星を挙げられず、一時は全12チーム中11位にまで後退。第2クール以降は持ち直し、徐々にではあるが順位も浮上していく。そして、第4クールでは(2分をはさむ)6連勝を挙げ、一時は入れ替え戦出場となる3位にまで浮上。しかし、第43節(11月26日/仙台)で京都に敗れると、続く最終・第44節(12月3日/博多の森)の福岡戦は引き分け。最後は甲府に勝ち点で追い抜かれ、4位。入れ替え戦出場を逃した。
シーズン終了後、小長谷喜久男常務(のちにシニアディレクターに就任)の判断により田中孝司GM、都並監督は解任(田中については小長谷が湘南の社長の時に田中が湘南の監督しており、このときも湘南の監督を解任しており二度目の解任になる)。また、チームの攻撃の要だった財前宣之をはじめ7選手が戦力外となり、ゲームメーカーのシルビーニョも新潟へ移籍した。
2006年
チームスローガンは「勝利or勝利 〜絆を力に変えて〜」
ブラジルからジョエル・サンタナを新監督に招聘し、J2逆戻り3年目のシーズンを迎える。この年、ホーム・仙台スタジアムが命名権導入に伴い、「ユアテックスタジアム仙台(略称:ユアスタ仙台)」に改称。序盤は4バック3ボランチの日本人8人で守って、新加入のブラジル人トリオ(ロペス、チアゴ・ネーヴィス、ボルジェス)の3人でカウンター、という戦術が当たり、開幕ダッシュに成功。第1クール終了時は自動昇格圏の2位につけていた(1位との勝ち点差は"1")。
続く第2クールも好調を維持。入れ替え戦出場となる3位(2位との勝ち点差は"1")でリーグ戦前半を折り返す。ところが、DF白井博幸が怪我のため長期離脱したころからそれまでの戦術が機能しなくなり始めた。サンタナの8人で守って3人で攻める古風な攻守完全分断戦術は組織的な崩しがなく、攻撃手段が極端に偏っていた。そのため前線の3人を徹底マーク等の対策を取られると、攻撃は手詰まり感が漂うようになった。しかし、サンタナはブラジルでこの戦術で成功した自信があったのか(ブラジルでは、4つのチームを優勝に導いているが、すべてこの戦術で成功している。)、戦術変更を行うことはなく、若手選手起用など選手起用変更にも消極的で、何の対策もしなかった。その結果、リーグ戦後半となる第3クールでは、下位チームには勝てても上位チームには勝てなくなり、同クール終了時には昇格圏外の4位に後退。3位との勝ち点差も"7"に広がってしまう。その後、チームの攻撃の起点というべき存在だったMFチアゴ・ネーヴィスの負傷による戦線離脱も重なり、最終・第4クールでも浮上のきっかけを掴むことが出来ず、早い段階で昇格争いから脱落。最終節では鳥栖にも勝ち点で追い抜かれ、最終順位は5位。
サンタナ監督はシーズン終了を以って解任。選手もこの年の前半まで正GKを務めていた高桑、ベテランFW大柴克友等4選手が戦力外となった。戦力外4選手の他、リーグ戦26ゴールを挙げ、J2得点王となったFWボルジェスは本人の希望もあり、母国ブラジルのサンパウロFCへ期限付き移籍(その後、2008年に完全移籍に移行)。期限付き移籍でプレーしていたチアゴ・ネーヴィスは移籍期間を延長せず。その一方で、MFロペスは期限付き移籍期間を延長し、チームに残留。毎年外国人助っ人に依存する部分が多い仙台のサッカーだったが、この年はこれを大いに反省する結果となり、翌年以降掲げることとなる中長期的ヴィジョンにつながった。
2007年
チームスローガンは「新仙走破 〜そして進化。〜」
J2逆戻り4年目を迎えたこの年は、前年ジョエル・サンタナ監督の下でヘッドコーチを務めた望月達也が監督に昇格。前年の望月はヘッドコーチの傍ら、サテライトチームの監督も務め、好成績を残した。また、サンタナ監督が体調不良で欠場した際、1試合のみだがトップチームの監督代行を務め、勝利を収める。試合内容も良く、選手やサポーターからも高い評価を得ていた。選手補強面では山形からベテランMF永井篤志、鳥栖からGKシュナイダー潤之介等といったライバルクラブの主力選手の獲得に成功。中盤と前線の連動による細かいショートパスで相手を翻弄するスタイルが効力を発揮。第1クールでは開幕から11戦無敗(6勝5分)の好スタート。続く第2クールでは一時は負けが込んだものの、程なくして復調。3位でリーグ戦前半を折り返す。
チームは当初シーズン途中の補強をしない方針を表明していたが、開幕からセットプレーが振るわず、さらに第3クールに入って失点が増えたことなどから補強を実行。7月に元新潟のMFファビーニョを、続く8月には柏からDF岡山一成をいずれも期限付き移籍で獲得。
また、第3クール終盤で戦術を若干修正。これまでは攻撃にかける人数が多かったためカウンターの対処に難があった。またSBが積極的に攻撃参加するため、その裏を突かれることも多かった。そのため攻撃の手数を減らし、SBの攻撃参加を限定的にすることで守備の安定化を図った。これが功を奏し、第3クール終盤以降は失点が減少。また補強選手、特に岡山が効き、セットプレーが向上。失いかけていた勢いを再び取り戻し、昇格争いに生き残りこのまま続くのかと思えた。しかし、そのころから得点力が急激に減少、この時期1試合平均で1得点しか取れない時期があったため、一部のサポーターから「1点病」と言われることがあった。その後第4クール序盤〜中盤では昇格を争うライバルチームとの直接対決に勝利する等、相応の粘りを見せたが、11月に入りまた失速。10日(第49節)の東京V戦で引き分けると、続く18日(第50節)の湘南戦と25日(第51節)の京都戦を連敗。これにより、3位の可能性も消滅し、5シーズンぶりのJ1昇格が潰えた。12月1日(最終節)の徳島戦は快勝し、最終順位は4位。
GK小針清允、DF白井博幸等7選手が戦力外となり、シーズン終了を以って退団。また、ジョニウソン、ロペス、ファビーニョのブラジル人3選手全員もチームを去った。さらに、チーム最多得点を挙げたFW萬代宏樹も磐田へ完全移籍。そして、指揮を執った望月もJ1昇格を逃した責任を取り監督を辞任。
東京Vのラモス瑠偉監督に「J2最強」とまで言わしめた組織的サッカーを以ってしても昇格できず。さらには支持の声が多かった望月監督の辞任、小長谷喜久男シニアディレクターの辞任、少数ではあるが主力の流出など、今まで以上に悔やまれるシーズンとなった。
2008年
チームスローガンは「感動一体 絆は次なるステージへ」
クラブスタッフとしてフロント入りした望月達也前監督の指名を受けた手倉森誠が監督に就任。手倉森は前年、ヘッドコーチとして望月をサポート。また、手倉森新監督の双子の弟・浩がヘッドコーチ就任。J2降格5年目を迎えたこの年の仙台は手倉森兄弟の手に委ねられる形となった。
前年、外国籍選手不在で臨んだ試合の方が連動性があり、ボールも人もよく動いた。高給な外国籍選手が戦術に思うようにフィットしなかったことをふまえ、日本人選手で経験豊富なベテランと若手の有望な選手を複数補強し、シーズン前の外国籍選手補強をしない“純国産”で臨む方針を打ち出した。ただし状況によってはシーズン途中の外国人選手補強もあり得るとしており、それが後述のFWナジソン獲得につながった。このオフは明治大からGK関憲太郎、筑波大からMF三澤純一が新加入。他クラブからの移籍組としては、神戸から元日本代表FW平瀬智行、柏からMF佐藤由紀彦、鹿島からFW田中康平、川崎からMF飛弾暁をそれぞれ完全移籍、東京VからDF一柳夢吾、大分から宮沢正史、川崎から西山貴永をそれぞれ期限付き移籍で獲得。昨季まで期限付き移籍中の身であったFW中島裕希とDF岡山一成が完全移籍に移行。前年途中に札幌から期限付き移籍で加入したGK林卓人も移籍期間を延長し、チームに留まった。
宮崎県延岡市でのキャンプで始動。キャンプ開始から間もない2月6日、若手4選手(金子慎二、富田晋伍、一柳夢吾、細川淳矢)が同市の飲食店で行われた選手会主催の食事会終了後に、会場近くの駐車場に止めてあった軽ワゴン車の屋根に乗り、損傷させる騒動を起こした。詳細は#不祥事参照。
3月にリーグ戦開幕(この年からJ2リーグ戦は3回戦総当たりに変更)。純国産での始動と先述の不祥事が懸念されながらも、第1クール終了時で7勝5分け2敗の3位と、まずまずの滑り出しを見せる。
第2クール以降では決定力不足が目立つようになった。前年の試合内容から、開幕前は純国産を支持するサポーターも多かったが、次第に外国籍選手不在を危惧する声が多くなった。その後純国産の方針を撤回。韓国Kリーグで外国人初の年間MVPを獲得した経験を持つブラジル人FWナジソンを獲得。また千葉・永井の両ボランチが精彩を欠くことが多くなったため、京都からMF斉藤大介を期限付き移籍で獲得。
第3クールでは、先ず山形に敗れ、9年ぶりとなるみちのくダービーシーズン負け越し。その後、1試合引き分けた後4連勝するも、今度はこれまでJFL以来敗れたことがなかった水戸から初黒星。その後は第2クールまでいずれも1分1敗と苦しめられた愛媛、C大阪に連勝。しかし、11月に入り失速。9日の広島戦、22日の横浜FC戦を続けて引き分けた後、30日の鳥栖戦で敗戦。ここで自動昇格(=2位以内)は消滅。だが、最後は12月6日の最終節で草津に勝利し、シーズン3位を確保。入れ替え戦出場を果たす。入れ替え戦ではJ1第16位の磐田と対戦したが、ホームでの第1戦を引き分けると、続くアウェーでの第2戦は敗戦。通算1分1敗に終わり、6シーズンぶりのJ1復帰は惜しくもならなかった。しかし、シーズン途中まで外国籍選手に頼ることなく昇格争いに絡み、入れ替え戦に出場できたことはチームにとって大きな成長と言える。
シーズン終了後、8選手がチームを去った。岡山、GKシュナイダー潤之介等6選手は戦力外。ナジソンは古巣でもある母国のクラブチームECヴィトーリア、大分から期限付き移籍中だった宮沢も元のチームへ戻った。クラブスタッフの望月前監督も退団。その一方で、手倉森監督は翌年も引き続き指揮を執ることになった。仙台にとっては5年ぶりに監督交代のないシーズンオフとなった。
ベガルタが犯すファウル数は、2004年-2006年はリーグワースト1、2007年もワースト5と多かったが、本シーズンは第1クール終了時点でベスト2と少なかった。これは、失点に繋がる危険を未然に防いでいるため、ファウルを犯す必要が少ないからとみられ、リーグ序盤の好調の理由の1つと見られている。結局シーズン終了時、イエロー2枚および一発レッドによる退場者は一人もなく、仙台のファウル数はリーグベスト1の少なさとなった。ただしこれについては岩本が仙台放送『スポルたん!LIVE』にて「カードをもらわないのはいいことだが、逆に言えば厳しいプレスに行っていないからだ」という逆に厳しい内容のコメントも残している。
勝敗については、シーズンを通して連敗が一度もなく、通算敗戦数は8。優勝した広島の4敗に次いで少なかったものの、引き分けの数が16と、17分けの横浜FCに次いで多く、勝ちきれない時期が続いたことがあった。一方、勝利数は3位争いを繰り広げたC大阪、湘南、鳥栖に比べて少なかった。引き分けでの「勝点1」を積み重ね、辛くも3位を確保した格好となった。
2009年
チームスローガンは「闘志躍動 思いを胸に…」。スローガンとは別に掲げられていた目標は優勝を意味する「完全昇格」。
手倉森誠監督就任2年目のこの年は、先ずJ1チームへの移籍が噂されていたMF梁勇基、関口訓充、DF菅井直樹がいずれも契約を更新しチームに残留。札幌から期限付き移籍中のGK林卓人も本人の強い希望により移籍期間を再延長してチームに残留。前年まで期限付き移籍であったDF一柳夢吾、MF斉藤大介、西山貴永は完全移籍に移行。その他の主力選手も戦力外となった者を除いて、ほぼ全員が残留した。前年の命題だった国産メンバーで挑むことは撤回し、この年はアジア枠、在日枠と合わせて最多5人の外国籍選手を揃える方針を固める。他クラブからの加入は、山形から前年まで2年間、甲府へ期限付き移籍していたGK桜井繁、横浜FCからDFエリゼウ、神戸からMF曽我部慶太、韓国の水原三星から元同国代表DF朴柱成をそれぞれ完全移籍で、ブラジルのポンチ・プレッタからマルセロ・ソアレスを12月31日までの期限付き移籍で獲得する。
1月よりホーム・ユアスタ仙台で芝・全面張り替え工事を行う関係で、6月まで同スタジアムを使用できず。その間のホームゲームは宮城スタジアムで11試合、福島県営あづま陸上競技場で1試合<ref>宮城県外でベガルタホームゲームが行われるのはJリーグ加盟後は初めて。ジャパンフットボールリーグ時代に岩手県で開催したことはある。</ref>を開催。約2万人収容のユアスタに対して宮城スタジアムは約5万人収容であるが、アクセス問題があるため観客数は低迷し、3月25日(第4節)の甲府戦でホームゲームとして8年ぶりの1万人割れ(当日は平日のナイトゲームに加え、雪も降る悪天候だった)、その後も2度の1万人割れを記録してしまう。なお、7月にユアスタ仙台での試合を再開してからは1万人割れはない。
リーグ戦は開幕直後こそ引き分けを挟んだ2連勝を挙げるが、その後は前年同様得点力不足を露呈。第6節まで流れの中での得点がないなど苦戦を強いられる。内容で圧倒しながらフィニッシュの差で勝ち点3を逃す試合が目立った。そのため内容より結果を重視して、理想の攻撃サッカーを捨て、守備から入る堅守速攻の手堅いサッカーに路線変更すると、途端にチームは復調。5月10日(第14節)の富山戦でJリーグ加入後初の7連勝。その後も好調を維持し、第2クール終了時点で20勝6分8敗(勝ち点66)の2位(首位はC大阪で、勝ち点差は2)。最終・第3クールになるとさらにチームの調子は上がり、第39節(9月13日)で福岡に敗れた以外は無敗をキープ。11月8日(第48節)の水戸戦で3位以内が確定し、先ずは7シーズンぶりのJ1復帰が決まる(この年から入れ替え戦は行われず、上位3チームが自動昇格)。続く第49節(11月22日)では首位C大阪との直接対決に勝利し、入れ替わりで首位に浮上。首位で迎えた最終・第51節(12月5日)では愛媛と引き分けたものの、勝ち点差1で後を追う2位C大阪が鳥栖に敗れたためJ2初優勝。シーズンの目標であった完全昇格を達成した。最終戦績は32勝10分9敗の勝ち点106。2004年に川崎が記録した「105」を上回り、J2歴代最多勝ち点を記録<ref>ただし、2004年は1チーム44試合で2009年より7試合少なかった。4回戦総当り制であったが、参加クラブ数が少なかったためである(12チーム)。</ref>。連敗は3月に2連敗が1度あったのみで、シーズンを通して安定した結果を残した。中でも守備が非常に安定し、総失点はリーグ最少の39、1試合あたりの平均失点は0.76点。3失点以上を喫した試合は一度もなかった。また前年に引き続きファウルの少なさも目立った。反則ポイントはフェアプレー賞の選考基準51ポイント以下に対して僅か17ポイントで、2位の湘南(86ポイント)を大きく引き離し、2年連続のJ2フェアプレー賞を獲得すると共に、チェアマン特別賞も受賞した。
天皇杯では大宮、FC東京、川崎といったJ1勢を相次いで降し、チーム初のベスト4進出。準決勝ではG大阪に惜敗し、J2所属チーム初の決勝進出はならなかった。
このシーズンはホームゲームで19勝5分2敗と、地元での抜群の勝負強さが際立った。春先に宮城スタジアムで2敗を喫したものの、その後は安定した戦いを見せ、ホーム23戦無敗というJ2新記録を打ち立てた。同じく記録したホーム12連勝もJ2新記録。天皇杯も含め、遂にユアスタでは1度も敗れることはなかった。
上記のようにクラブ史上最高の成績を収めたのにも関わらず、運営面では苦戦を強いられた。シーズン前半にユアスタ仙台を使用できなかったことが影響し、ホームゲームの1試合平均観客動員数は前年より1,000人以上減少の12,951人と低迷。クラブの決算も9,800万円の赤字となった。なお、J1昇格決定後にユアスタ仙台で行われた最後の3試合は全てチケットが前売りで完売、大入り満員となっている。<ref>ただし最終節は愛媛戦ということもあり、唯一ビジター席は満員にならなかった。</ref>
シーズン終了後、7選手(DF木谷公亮、6月に完全移籍で加入したFWサーレス等)が契約期間満了、FWマルセロ・ソアレスは期限付き移籍期間満了のためそれぞれチームを去った。
2010年〜(J1)
2010年
チームスローガンは「闘志躍動 より高みへの挑戦」。
7シーズンぶりのJ1復帰を果たしたこの年は先ず札幌から期限付き移籍中だったGK林卓人が完全移籍に移行。柏からDF鎌田次郎、鳥栖からMF高橋義希、前年7月まで磐田に在籍していた太田吉彰、大分からフェルナンジーニョがそれぞれ完全移籍、ブラジル・クルゼイロからはFWレイナルドが期限付き移籍で新加入。2009年と同様、主力組も契約期間満了ならびに期限付き移籍期間満了となった者を除いてほぼ全員が残留。
1月22日、クラブとしては15年ぶりとなる海外キャンプ(グアム)で始動。
帰国後の1月30日、ユアスタ仙台で「J1昇格記念 ベガルタ仙台ドリームマッチ2010」を開催。仙台OB(他クラブに在籍する現役Jリーグ選手も含む)や宮城県にゆかりのある現役Jリーグ選手等で構成された「ドリームチーム宮城」と対戦し、3-3で引き分けた。
リーグ開幕戦(3月6日)では、アウェーで磐田を1-0で降すと、第5節(4月4日)ではJ1リーグ3連覇中の鹿島も2-1で降した。しかし、続く第6節(同11日)では清水に1-5で大敗。さらに、第7節(同17日)ではユアスタ仙台で神戸に0-1で敗戦。J2に所属していた前年から続いていたリーグ戦におけるホーム不敗記録が25でストップした。ユアスタ仙台での敗戦は2008年9月28日の水戸戦以来。その後も勝ち星なしが続き、第12節(5月15日)終了時点にて3勝4分け5敗でリーグ戦中断を迎えた。
5月10日、梁勇基が南アフリカW杯北朝鮮代表候補への選出が発表された(その後、6月4日の代表メンバー発表では選外となった)。
5月15日の浦和戦後に仙台の外国籍選手が浦和サポーターから人種差別的な発言を浴びせられ、Jリーグが調査を開始。その結果ベガルタに200万円、浦和に500万円の制裁金が課せられた。
7年ぶりに参加したナビスコ杯はグループリーグ戦を3勝3分けで2位通過。初の決勝トーナメント進出を果たした。
チーム名の略号表示について
- 1998年(ブランメル仙台時代)、同じ宮城県・多賀城市を本拠とする社会人チーム・ソニー仙台がジャパンフットボールリーグに昇格し、事実上仙台を拠点とするチームが2チーム参加する形となった。その為新聞や雑誌などの記事で掲載するチーム略号を区別するため「B仙台」(Bはブランメルの略)としたものもあったが、ソニー仙台が実業団チームであることで「ソニー」と表記した新聞社もあり、その場合は従前の「仙台」の地名だけの表示もあった。
チーム成績・歴代監督
年度 | 所属 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 入場者数 合計 (1試合平均) | 監督 | 備考 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 勝点 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 順位 | |||||||
1989年 | 宮城県 社会人 | 優勝 | - | - | ||||||||
1990年 | 優勝 | - | - | 鈴木武一 | ||||||||
1991年 | 東北 社会人 | 14 | 20 | 9 | 3 | 2 | 2位 | - | - | |||
1992年 | 14 | 19 | 8 | 3 | 3 | 2位 | - | - | ||||
1993年 | 14 | 24 | 11 | 1 | 2 | 2位 | - | 2回戦 | ||||
1994年 | 14 | 27 | 13 | 0 | 1 | 優勝 | - | - | 地域リーグ決勝大会で優勝。 JFL昇格。 | |||
1995年 | 旧JFL | 30 | 27 | 9 | 21 | - | 15位 | - | 2回戦 | |||
1996年 | 30 | 56 | 18 | 12 | - | 5位 | - | 3回戦 | 佐藤長栄 | |||
1997年 | 30 | 40 | 15 | 15 | - | 8位 | 予選L | 2回戦 | ブランコ・エルスナー →ミロシュ・ルス →三浦俊也 | |||
1998年 | 30 | 43 | 18 | 12 | - | 7位 | 予選L | 4回戦 | 鈴木武一 | 総監督に壱岐洋治が置かれる。 (1999年途中まで) | ||
1999年 | J2 | 36 | 31 | 10 | 22 | 4 | 9位 | 1回戦<ref>2001年までの3年間はトーナメント方式。</ref> | 2回戦 | 134,462人 (7,470人) | 鈴木武一 →清水秀彦 | |
2000年 | 40 | 55 | 19 | 19 | 2 | 5位 | 1回戦 | 1回戦 | 177,697人 (8,885人) | 清水秀彦 | ||
2001年 | 44 | 83 | 27 | 12 | 5 | 2位 | 1回戦 | 3回戦 | 308,243人 (14,011人) | J1昇格 | ||
2002年 | J1・1st | 15 | 20 | 7 | 8 | 0 | 9位 | 予選L | 4回戦 | 327,925人 (21,862人) | ||
J1・2nd | 15 | 12 | 4 | 10 | 1 | 15位 | ||||||
2003年 | J1・1st | 15 | 12 | 3 | 9 | 3 | 15位 | 予選L | 3回戦 | 325,621人 (21,708人) | J2降格 | |
J1・2nd | 15 | 12 | 2 | 7 | 6 | 15位 | 清水秀彦 →石井肇 →ズデンコ・ベルデニック | |||||
2004年 | J2 | 44 | 59 | 15 | 15 | 14 | 6位 | - | 4回戦 | 356,359人 (16,198人) | ズデンコ・ベルデニック | |
2005年 | 44 | 68 | 19 | 14 | 11 | 4位 | - | 4回戦 | 350,544人 (15,934人) | 都並敏史 | ||
2006年 | 48 | 77 | 21 | 13 | 14 | 5位 | - | 4回戦 | 346,868人 (14,453人) | ジョエル・サンタナ | ||
2007年 | 48 | 83 | 24 | 13 | 11 | 4位 | - | 3回戦 | 352,432人 (14,685人) | 望月達也 | ||
2008年 | 42 | 70 | 18 | 8 | 16 | 3位 | - | 4回戦 | 295,679人 (14,080人) | 手倉森誠 | J1・J2入れ替え戦進出も敗退。 | |
2009年 | 51 | 106 | 32 | 9 | 10 | 優勝 | - | ベスト4 | 336,719人 (12,951人) | J1昇格 | ||
2010年 | J1 | 34 |
※天皇杯成績の斜体はクラブにおける初戦敗退を示す。
リーグ戦通算対戦成績(2009年シーズン終了時)
リーグ | J1 | J2 | JFL | 合計 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
対戦チーム | 勝利 | 引分 | 敗北 | 勝利 | 引分 | 敗北 | 勝利 | 引分 | 敗北 | 勝利 | 引分 | 敗北 |
コンサドーレ札幌(←東芝) | 2 | 0 | 0 | 6 | 8 | 13 | 0 | 0 | 6 | 8 | 8 | 19 |
モンテディオ山形(←NEC山形) | - | 12 | 13 | 6 | 4 | 0 | 4 | 16 | 13 | 10 | ||
鹿島アントラーズ | 1 | 1 | 2 | - | - | 1 | 1 | 2 | ||||
水戸ホーリーホック | - | 22 | 7 | 1 | 3 | 0 | 1 | 25 | 7 | 2 | ||
栃木SC | - | 3 | 0 | 0 | - | 3 | 0 | 0 | ||||
ザスパ草津 | - | 12 | 6 | 0 | - | 12 | 6 | 0 | ||||
浦和レッドダイヤモンズ | 0 | 0 | 4 | 0 | 1 | 3 | - | 0 | 1 | 7 | ||
大宮アルディージャ(←NTT関東) | - | 4 | 3 | 9 | 5 | 0 | 3 | 9 | 3 | 12 | ||
ジェフユナイテッド市原・千葉(←ジェフユナイテッド市原) | 0 | 0 | 4 | - | - | 0 | 0 | 4 | ||||
柏レイソル | 1 | 0 | 3 | 1 | 0 | 3 | - | 2 | 0 | 6 | ||
FC東京(←東京ガス) | 1 | 1 | 2 | 1 | 0 | 3 | 1 | 0 | 7 | 3 | 1 | 12 |
東京ヴェルディ(←東京ヴェルディ1969) | 1 | 2 | 1 | 3 | 4 | 4 | - | 4 | 6 | 5 | ||
川崎フロンターレ(←富士通川崎←富士通) | - | 2 | 2 | 8 | 2 | 0 | 6 | 4 | 2 | 14 | ||
横浜F・マリノス | 1 | 1 | 2 | - | - | 1 | 1 | 2 | ||||
横浜FC | - | 9 | 8 | 5 | - | 9 | 8 | 5 | ||||
湘南ベルマーレ | - | 17 | 5 | 8 | - | 17 | 5 | 8 | ||||
ヴァンフォーレ甲府 | - | 12 | 5 | 9 | 5 | 0 | 3 | 17 | 5 | 12 | ||
アルビレックス新潟 | - | 8 | 0 | 4 | 1 | 0 | 1 | 9 | 0 | 5 | ||
カターレ富山 | - | 3 | 0 | 0 | - | 3 | 0 | 0 | ||||
清水エスパルス | 2 | 1 | 1 | - | - | 2 | 1 | 1 | ||||
ジュビロ磐田 | 0 | 1 | 3 | - | - | 0 | 1 | 3 | ||||
名古屋グランパスエイト | 0 | 0 | 4 | - | - | 0 | 0 | 4 | ||||
FC岐阜 | - | 5 | 1 | 0 | - | 5 | 1 | 0 | ||||
京都サンガF.C.(←京都パープルサンガ) | 1 | 0 | 3 | 6 | 1 | 9 | 0 | 0 | 2 | 7 | 1 | 14 |
ガンバ大阪 | 1 | 0 | 3 | - | - | 1 | 0 | 3 | ||||
セレッソ大阪 | 0 | 0 | 2 | 5 | 2 | 3 | - | 5 | 2 | 5 | ||
ヴィッセル神戸 | 2 | 2 | 0 | 2 | 1 | 1 | 2 | 0 | 2 | 6 | 3 | 3 |
ファジアーノ岡山FC | - | 2 | 1 | 0 | - | 2 | 1 | 0 | ||||
サンフレッチェ広島 | 2 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | - | 3 | 2 | 0 | ||
徳島ヴォルティス(←大塚FCヴォルティス徳島) | - | 9 | 7 | 2 | 4 | 0 | 4 | 13 | 7 | 6 | ||
愛媛FC | - | 7 | 3 | 4 | - | 7 | 3 | 4 | ||||
アビスパ福岡(←福岡ブルックス) | - | 8 | 3 | 7 | 0 | 0 | 2 | 8 | 3 | 9 | ||
サガン鳥栖 | - | 18 | 2 | 14 | 2 | 0 | 2 | 20 | 2 | 16 | ||
ロアッソ熊本 | - | 4 | 2 | 0 | - | 4 | 2 | 0 | ||||
大分トリニータ(←大分トリニティ) | 1 | 1 | 0 | 3 | 0 | 9 | 5 | 0 | 1 | 9 | 1 | 10 |
本田技研(現-HONDA FC) | - | - | 2 | 0 | 6 | 2 | 0 | 6 | ||||
ソニー仙台 | - | - | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | ||||
デンソー(現-FC刈谷) | - | - | 5 | 0 | 1 | 5 | 0 | 1 | ||||
国士舘大学 | - | - | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | ||||
鳥栖フューチャーズ | - | - | 2 | 0 | 2 | 2 | 0 | 2 | ||||
コスモ石油四日市 | - | - | 1 | 0 | 3 | 1 | 0 | 3 | ||||
福島FC | - | - | 3 | 0 | 3 | 3 | 0 | 3 | ||||
西濃運輸 | - | - | 5 | 0 | 1 | 5 | 0 | 1 | ||||
ジャトコ | - | - | 4 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | ||||
合計 | 16 | 10 | 34 | 185 | 87 | 125 | 60 | 0 | 60 | 261 | 97 | 219 |
リーグ戦の主な記録
チーム記録
最多得点試合
H & A | スコア | 試合日 | 対戦相手 | |
---|---|---|---|---|
J1 | ホーム | 5-2 | 2002年1st第3節(3月16日) | 柏レイソル |
アウェー | 2-0 | 2002年1st第5節(4月6日) | 鹿島アントラーズ | |
2-1 | 2002年2nd第7節(10月5日) | サンフレッチェ広島 | ||
2-1 | 2003年1st第4節(4月19日) | ヴィッセル神戸 | ||
2-2 | 2010年J1第4節(3月28日) | ガンバ大阪 | ||
J2 | ホーム | 5-1 | 2006年J2第17節(5月20日) | ザスパ草津 |
5-2 | 2006年J2第43節(9月30日) | ザスパ草津 | ||
5-2 | 2007年J2第9節(4月14日) | サガン鳥栖 | ||
アウェー | 5-1 | 2000年J2第30節(8月27日) | 水戸ホーリーホック | |
5-1 | 2006年J2第18節(5月28日) | サガン鳥栖 | ||
5-0 | 2009年J2第18節(5月30日) | 水戸ホーリーホック | ||
JFL | ホーム | 6-1 | 1998年JFL第15節(8月9日) | ジャトコ |
アウェー | 4-0 | 1995年JFL第3節(5月18日) | 福島FC | |
4-3 | 1996年JFL第8節(6月2日) | NTT関東 | ||
4-1 | 1996年JFL第19節(9月1日) | 西濃運輸 | ||
4-2 | 1998年JFL第14節(8月2日) | デンソー |
最多失点試合
H & A | スコア | 試合日 | 対戦相手 | |
---|---|---|---|---|
J1 | ホーム | 0-6 | 2002年2nd第8節(10月12日) | ガンバ大阪 |
1-6 | 2003年2nd第8節(9月27日) | 浦和レッドダイヤモンズ | ||
アウェー | 1-5 | 2003年1st第12節(7月12日) | ジェフユナイテッド市原 | |
1-5 | 2010年J1第6節(4月11日) | 清水エスパルス | ||
J2 | ホーム | 2-6 | 2000年J2第31節(9月3日) | 湘南ベルマーレ |
アウェー | 1-5 | 1999年J2第17節(7月11日) | 川崎フロンターレ | |
0-5 | 2000年J2第28節(8月12日) | 大分トリニータ | ||
1-5 | 2007年J2第22節(6月16日) | 京都サンガF.C. | ||
JFL | ホーム | 1-5 | 1995年JFL第2節(5月14日) | 福岡ブルックス |
0-5 | 1995年JFL第7節(6月11日) | NEC山形 | ||
0-5 | 1995年JFL第13節(7月13日) | 東京ガス | ||
1-5 | 1995年JFL第15節(7月23日) | 京都パープルサンガ | ||
アウェー | 1-7 | 1995年JFL第27節(10月15日) | 東京ガス |
最多連勝
連勝試合数 | 期間 | 備考 | |
---|---|---|---|
J1 | 5連勝 | 2002年1st第1節(3月3日)〜第5節(4月6日) | 昇格チームの開幕5連勝はJリーグ記録 |
J2 | 7連勝 | 2009年J2第8節(4月15日)〜第14節(5月10日) | |
JFL | 9連勝 | 1998年JFL第22節(9月20日)〜第30節(11月8日) |
最多連敗
連敗試合数 | 期間 | 備考 | |
---|---|---|---|
J1 | 6連敗 | 2003年1st第7節(5月5日)〜第12節(7月12日) | |
J2 | 12連敗 | 1999年J2第9節(5月2日)〜第20節(8月7日) | |
JFL | 7連敗 | 1997年JFL第5節(5月15日)〜第11節(6月21日) |
個人記録
通算最多試合出場
試合数 | 氏名 | 備考 | |
---|---|---|---|
J1 | 59試合 | 山下芳輝 | |
J2 | 337試合 | 千葉直樹 | 継続中 |
JFL | 66試合 | 本明利樹 |
通算最多得点
得点数 | 氏名 | 備考 | |
---|---|---|---|
J1 | 21得点 | マルコス | |
J2 | 47得点 | 梁勇基 | 継続中 |
JFL | 25得点 | 阿部良則 |
シーズン最多得点
得点数 | 氏名 | 達成年度 | |
---|---|---|---|
J1 | 18得点 | マルコス | 2002年 |
J2 | 34得点 | マルコス | 2001年 |
JFL | 14得点 | エジマール | 1995年 |
ハットトリック
得点数 | 氏名 | 達成日 | 対戦相手 | |
---|---|---|---|---|
J1 | 達成者なし | |||
J2 | 3得点 | マルコス | 2001年4月28日(J2第8節) | 京都パープルサンガ |
ボルジェス | 2006年5月20日(J2第17節) | ザスパ草津 | ||
2006年9月30日(J2第43節) | ザスパ草津 | |||
萬代宏樹 | 2007年4月14日(J2第9節) | サガン鳥栖 | ||
JFL | 3得点 | 阿部良則 | 1995年5月18日(JFL第3節) | 福島FC |
1998年8月9日(JFL第15節) | ジャトコ | |||
オッツェ | 1996年8月29日(JFL第18節) | デンソー | ||
平 聡 | 1998年11月1日(JFL第30節) | サガン鳥栖 |
最多観客動員試合
H & A | 観客動員 | 試合日 | 対戦相手 | スタジアム | |
---|---|---|---|---|---|
J1 | ホーム | 43,092人 | 2002年2nd第9節(10月20日) | ジュビロ磐田 | 宮城スタジアム |
19,491人 | 2002年1st第12節(8月3日) | サンフレッチェ広島 | 仙台スタジアム | ||
アウェー | 32,983人 | 2002年2nd第2節(9月8日) | 浦和レッドダイヤモンズ | 埼玉スタジアム2002 | |
J2 | ホーム | 19,412人 | 2001年J2第43節(11月11日) | サガン鳥栖 | 仙台スタジアム |
23,745人 | 2008年J2第42節(11月9日) | サンフレッチェ広島 | 宮城スタジアム | ||
アウェー | 25,807人 | 2001年J2第27節(8月18日) | アルビレックス新潟 | 新潟スタジアム | |
JFL | ホーム | 14,145人 | 1997年JFL第8節(6月1日) | 本田技研 | 仙台スタジアム |
アウェー | 15,318人 | 1997年JFL第19節(8月31日) | コンサドーレ札幌 | 札幌厚別公園競技場 |
最少観客動員試合
H & A | 観客動員 | 試合日 | 対戦相手 | スタジアム | |
---|---|---|---|---|---|
J1 | ホーム | 23,214人 | 2010年J1第5節(4月4日) | 鹿島アントラーズ | 宮城スタジアム |
12,119人 | 2010年J1第7節(4月17日) | ヴィッセル神戸 | ユアテックスタジアム仙台 | ||
アウェー | 3,287人 | 2002年2nd第4節(9月18日) | ジェフユナイテッド市原 | 市原臨海競技場 | |
J2 | ホーム | 2,568人 | 1999年J2第7節(4月25日) | 大分トリニータ | 仙台スタジアム |
7,154人 | 2009年J2第4節(3月25日) | ヴァンフォーレ甲府 | 宮城スタジアム | ||
アウェー | 951人 | 2000年J2第4節(3月30日) | ヴァンフォーレ甲府 | 山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場 | |
JFL | ホーム | 1,293人 | 1995年JFL第28節(10月19日) | 大塚FCヴォルティス徳島 | 宮城陸上競技場 |
2,845人 | 1998年JFL第27節(10月15日) | 大宮アルディージャ | 仙台スタジアム | ||
アウェー | 270人 | 1998年JFL第26節(10月12日) | 国士舘大学 | 駒沢陸上競技場 |
獲得タイトル
個人別タイトル
ユニフォーム
チームカラー
- チームカラーは「ベガルタゴールド」と呼ばれる黄色に近い金色。
アラカルト
- 首元とソックスならびにパンツの後ろには、織姫と彦星を意味する緑と黄色の星がアクセントとして刺繍されている。
- 2007年までのフィールドプレーヤー用2ndユニフォームは、シャツ、パンツ、ストッキング共に白を使用。
- 2009年10月のリーグ戦ホームゲームでは、クラブ創設15周年を記念して黒をベースに右袖などにはベージュに近い金色を配した特別ユニフォームを着用(GKは、10月7日のみフィールドプレーヤー用1stユニフォームを着用)。
ユニフォームスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
胸 | アイリスオーヤマ | IRIS OHYAMA | 2004年- | 2000年-2003年までは背中 |
背中 | やまや | やまや | 2009年- | |
袖 | 七十七銀行 | 七十七銀行 | 1998年- | |
パンツ | 阿部蒲鉾店 | 阿部かま | 2009年- |
ユニフォームサプライの遍歴
歴代ユニフォームスポンサー年表
年度 | 胸 | 袖 | 背中 | パンツ | サプライヤー |
1998年 | カニトップ | 七十七銀行 | – | – | TOPPER |
1999年 | カニトップ | 七十七銀行 | – | – | asics |
2000年 | カニトップ | 七十七銀行 | アイリスオーヤマ | – | asics |
2001年 | カニトップ | 七十七銀行 | アイリスオーヤマ | – | asics |
2002年 | カニトップ | 七十七銀行 | アイリスオーヤマ | PIZZA STRAWBERRYCONES | asics |
2003年 | カニトップ | 七十七銀行 | アイリスオーヤマ | PIZZA STRAWBERRYCONES | asics |
2004年 | IRIS OHYAMA | 七十七銀行 | Workin | 仙台進学プラザ | asics |
2005年 | IRIS OHYAMA | 七十七銀行 | Workin | 仙台進学プラザ | asics |
2006年 | IRIS OHYAMA | 七十七銀行 | Workin | 仙台進学プラザ | asics |
2007年 | IRIS OHYAMA | 七十七銀行 | –/NEC/TOKIN(9月-) | 仙台進学プラザ | asics |
2008年 | IRIS OHYAMA | 七十七銀行 | NEC/TOKIN | – | asics |
2009年 | IRIS OHYAMA | 七十七銀行 | やまや | –/阿部かま(4月-) | asics |
2010年 | IRIS OHYAMA | 七十七銀行 | やまや | 阿部かま | asics |
運営規模
Template:See also 運営規模(売上高に県・市からの助成金を加えた総収入)は、ジャパンフットボールリーグ時代の96年度-98年度は約5億円、J2に昇格した99年度から毎年上昇し、本気でJ1入りを目指した01年度には約10億円になった。J1元年の02年度には更に倍の21億5400万円へと規模が拡大し、03年度に22億円を越えた。しかし、J2に降格した04年度は約20億円に規模縮小し、05年度は約19億円、06年度は約18億円と、J2降格後の運営規模は縮小傾向になっている。
J1とJ2で大きな差が出るのは、グッズの商標料などを含むJリーグの分配金である。分配金は決算の翌年度に供されるので、1年遅れでチームの収入になる。そのため、J1昇格初年度は、他のJ1チームよりも不利な状況で戦わなくてはならない。ベガルタの場合、昇格初年度の02年度はJ2基準の分配金で戦ったが残留を決めた。しかし、J1基準となった03年度は、約3億円(J2なら約6000万円)の分配金をもらいながらも降格決定。分配金システムには激変緩和策があり、1年でJ1に復帰するとJ1基準が続くが、昇格できないままJ2の2年目を迎えるとJ1基準の半額になり、3年目にはJ2基準に戻る仕組みになっている。そのため、J2降格初年度の04年度は、運営上もなんとしても1年でJ1復帰したいところだったがJ2で6位となり昇格ならず(04年度はJ1基準の3億6300万円の分配金をもらってJ2の中では有利であったはずだが)。05年度の分配金は、J1基準の半額である1億3800万円だったが、結局で4位と昇格出来ず、J2にいる限りジリ貧状態が続いている。
スポンサーからの広告収入も低迷している。J1最後の年となった03年のスポンサーは128件、07年は140件と数は増えているが、その金額については6億4500万円から4億円に減少。チームの不振に伴いスポンサーの“小口化”が進んでいる。また、同じく仙台に本拠地を持つプロスポーツチーム、東北楽天ゴールデンイーグルスや仙台89ERSとスポンサーの奪い合いになっている面もあり、仙台進学プラザのようにさえない成績に見切りをつけて“鞍替え”する企業も現れている。チームの成績を向上させるか、あるいは成績が悪くともスポンサーが逃げないようにするか、いずれにせよ早急な対策が求められている。
なお、2007年度のホームゲームの1試合平均観客数は14,685人で、J2平均の6,521人と比べると2.25倍。J2全13チームの合計観客数2,034,543人の17.3%を、ベガルタのホームゲームの観客が占める。
チーム名変遷
- 1988年 - 1994年10月 東北電力サッカー部
- 1994年11月 - 1998年 ブランメル仙台
- 1999年 - 現在 ベガルタ仙台
マスコット
スタジアムDJ
- 大坂ともお(ブランメル仙台時代の1998年より担当)
過去のスタジアムDJ
応援スタイル
ユアテックスタジアム仙台で行われるリーグ戦では、(メインスタンドから見て)左側のゴール裏スタンドからバックスタンドの一部に渡る部分が「サポーター自由席」と称されており、ここをメインに応援が行われている。特に、ゲート入り口から最前列までのスタンド部分に、熱心なサポーターが集まって熱狂的な応援を行っている。なお、この席ではチームカラーである黄色(「ベガルタゴールド」と呼ばれる)の服(ユニフォームのレプリカ、パーカー、Tシャツ等)を着用するのが「暗黙のルール」とされている。
コールリーダーは、サポーター自由席のバックスタンド側に位置し、戦況によって的確な応援指示を行う。
コールリーダーのいる位置には、サポーター有志によって設置されたマイクがあり、ゴール裏スタンド中央部に設置されているスピーカーに音声が出るようになっている。これによって音声のずれが生じることなくサポーター自由席での一体感のある応援を行うことが可能となる。
ユアテックスタジアム仙台は観客席全てに屋根がかかっている構造になっており、声が屋根に反響する効果がある。メガホンなどの鳴り物グッズを使ってしまうと屋根によって声援がかき消されてしまうため、応援時のメガホン使用が禁止されている。また、ベガルタ仙台のグッズのラインナップにもメガホンが用意されていない。(J2初期の頃は、メガホンも販売されていたが上記の理由からサポーターが運営会社に販売中止を申し入れている。)
フェアプレーフラッグ&選手入場時はカントリーロードを歌う。
試合中は、戦況に応じて応援歌を使い分ける。これによって、選手とサポーターが一体となって戦っているという効果を生み出している。
試合に勝利したときは、最後に「AURA」を歌う。
サポーターソング
チームに対してのものと現役選手に対してのものに関しては、河北新報社が運営する「ベガルタ☆モバイル」にて着信メロディとして用意されている。ダウンロードは月に3曲のみ可能。ただし、一部の曲は含まれない。
選手入場曲
- ファンファーレ 闘志躍動 (コラボレーション企画の一環として仙台フィルハーモニー管弦楽団から提供された。)
チームに対してのもの
- カントリーロード(原曲はジョン・デンバーの「Take Me Home, Country Roads」。フェアプレーフラッグ&選手入場時に歌われる。タオルマフラーを使う)<ref>カラオケで歌われるサポーターソングのランキングで堂々の1位を記録した。(2010年2月28日放送のTBS S1 SuperSoccerより)</ref>
- C'mon(原曲はLAUGHIN' NOSEの「C'mon Everybody C'mon」。サポーター側に向かって攻めている時に歌われる。尚、LAUGHIN' NOSEのVo.CHARMYは宮城県気仙沼出身である。)
- COBRA(原曲はCOBRAの「やっちまえ!POPSTAR」)
- FORZA(振り付けあり)
- KISS(原曲はKISSの「ラヴィン・ユー・ベイビー」)
- シャンゼリゼ(原曲は越路吹雪の「オー・シャンゼリゼ」。得点した時と勝利して試合が終了した直後に歌われる。タオルマフラーを使う。ただし、個人応援歌を持つ選手が得点した場合はそれぞれの個人応援歌が優先される。)
- AURA(原曲はAURAの「愛・オーランド」。勝利した時のみ試合後に歌われる)
- ベガルタオーレ(主に試合前のアップ時に行われる。左右への激しい揺れを伴うため非常に危険。慣れていない人は負傷の恐れあり。また、眼鏡をかけている人は破損・紛失の恐れあり。)
- TWISTED(原曲はTwisted Sisterの「We're Not Gonna Take It」。TBCテレビ「ウォッチン!みやぎ」のスポーツコーナーで、ベガルタの話題を伝える時のBGMとしても使用されている。)
- 電光石火(原曲はTHE BLUE HEARTSの「電光石火」)
- Flash Dance(原曲はアイリーン・キャラの「Flashdance... What a Feeling」。振り付けあり。2パターン存在する)
- 仙台レッツゴー!(原曲はラモーンズの「BLITZKRIEG BOP」。攻め込んでいる時にコールされる。相手にボールが渡った時点でコールが終了される)
- スィンギン仙台(原曲は氣志團の「スウィンギン・ニッポン」。熊林のものを転用)
- SA(原曲はSAの「NAUGHTY BOYS」)
この他にも、太鼓のリズムのみのものもある。
選手に対してのもの
現役選手
- 中原貴之:THE MODSの「PRISONER(野獣を野に放て)」(山下芳輝から流用、ただし歌詞が一部異なる。)
- 梁勇基:元ベルマーレ平塚のベッチーニョの応援歌(隣あった人と肩を組んで右へ左へ移動しながら歌う。シルビーニョから流用。)
- 関口訓充:ザ・クロマニヨンズの「ギリギリガガンガン」
- 菅井直樹:club Princeの「チューナイ!」
- 2007年の終盤の1試合に使用されたのみでそれ以降使用されていない。
- 永井篤志:ゆかいな牧場(阿部敏之から流用)
- 平瀬智行:SAの「GET UP! WARRIORS」
- 2008年はロート製薬のオープニングキャッチの曲
- 中島裕希:JUN SKY WALKER(S)の「歩いていこう」
退団選手
- 平聡:野猿・叫び
- 越後和男・瀬川誠:蒲田行進曲
- 阿部良則・藤吉信次・大柴克友:恋のメキシカンロック
- 小林康剛・財前宣之・佐藤由紀彦:ビューティフル・ネーム
- 山田隆裕:Dreamin'
- マルコス・萬代宏樹:Saturday Night
- 岩本輝雄:Shy Boy
- 中村伸:Livin'On A Prayer
- 福永泰:ゴーゴーヘドロマン
- 山下芳輝:PRISONER(野獣を野に放て)
- 阿部敏之:ゆかいな牧場
- ボルジェス:1000のバイオリン
- 入団当初の応援歌はGOING STEADYの「愛しておくれ」だった。
- チアゴ・ネーヴィス:たらこ・たらこ・たらこ
- 熊林親吾:スウィンギン・ニッポン
- ロペス:アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士(振り付けあり)
- 入団当初の応援歌は爆風スランプの涙2〜ラブ・バージョンだった。
- ジョニウソン:ジョニウソン本人の応援歌(以前所属していたクラブで実際に使われていたもの)
- 岡山一成:360°モンキーズ(元阪神・バース選手の応援歌、おもちゃのバットを使う)
- マルセロ・ソアレス:えびの「保険人生おくれ」
地上波テレビ中継
宮城の地上波5局の中継スタイル
仙台でのホーム戦を中継しているが、2007年ではアウェーの対湘南戦と対東京V戦を中継したことがある。2008年はホーム開幕となる福岡戦と5月(ホーム)と6月(アウェー)に行われる東北ダービーを中継した。
解説はブランメル時代から2007年シーズンまでは松原悟(東北学院大サッカー部監督)が務めており他には鈴木正治や岩本輝雄も担当。2008年と2009年のリーグ最終戦はTBSが主な活動の場としている金田喜稔が務めた、2009年6月はベガルタ初代監督の鈴木武一が登場、実況は佐藤修、石黒新平(圭三プロ→ニッポン放送→RFラジオ日本契約アナ)、小林徹夫(現KBC)、大井健郎(現・報道記者)。2007年からは守屋周が、2008年途中から飯野雅人と松尾武が担当。また、2007年からはスカパー!においてホームゲーム中継を制作しており、2007年は元仙台放送の下田恒幸が実況していたが2008年は前述の守屋・飯野・松尾が2009年は主に松尾が、2010年は松尾と守屋が交互で担当している。※2008年3月の草津戦は下田が担当した(この日はプロ野球・楽天イーグルスのホーム開幕戦をテレビ・ラジオで中継したための人員不足と思われる)。なお、第1期J1時代には仙台で行われた鹿島戦を全国ネットした経験があり(TBS主導)横浜で行われた横浜FM戦はTBSが製作する映像を見ながら応援実況の形式で放送されたこともある。2008年は4月に放送された鳥栖戦が編成の関係上、深夜の放送となりスカパー!と同じスタッフで放送されたため解説の鈴木武一とリポーター担当でフリーの村林いづみが同局テレビ中継初登場となった、中継スタイルとしてはハーフタイムにCMを多くいれるケースが目立ち放送席の顔出しが全くない。
解説は単発契約なのか固定されていない。実況はブランメル時代に1試合だけ浅見博幸が担当、以降2005年まで下田恒幸(現フリー)が務めていたのは有名。試合開始前には必ず「下田恒幸が心を込めてお伝えします」というフレーズがあった。下田退社後は金澤聡が担当している。そのためか、金澤がキャスターを務める番組名を冠して「スポルたん!LIVE Special」というタイトルで放送されており、試合直後のユアテックスタジアム内で「スポルたん!LIVE」の中継をしたこともある。下田退社後の中継では在仙局としては珍しくダブル解説で行うことが多い。ベガルタがJ1に復帰した2010年シーズンはフジテレビワンツーネクストで放送されるヤマザキナビスコカップにて仙台放送中継の全国進出(2003年シーズンに経験あり)が期待されたが、予選リーグ唯一のホームゲーム中継だったFC東京戦では技術協力に留まった。なお2007年シーズンSKY PerfecTV!山形のホームゲーム中継を制作していた(2008年からは山形テレビが担当)。
2000年ごろからセルジオ越後が解説を務めていたが、仙台放送と同じく単発契約で固定されていない。実況はブランメルのJFL昇格決定試合(愛知県刈谷市で行われ系列の中京テレビが技術協力した)を竹鼻純が務め、ブランメル時代から2006年まで三雲茂晴が担当していた。2007年は柳瀬洋平が実況を務めていたが2008年より夕方のニュースキャスター就任に伴い再び三雲が担当することになった、しかし2009年からは外賀幸一が担当する。なおJ1昇格を決めた京都戦(西京極)は同局で放送され岩瀬裕子がリポーターで乗り込みKBS京都の製作で放送された、因みにテロップはミヤギテレビ独自のものを使った。2002年はアウェーの東京ヴェルディ戦を日本テレビの製作で生中継され(日テレは深夜録画放送)こちらも岩瀬がリポーターとして登場した。2008年途中から字幕テロップが日テレとほぼ同形となった(当局初お目見えは9月の仙台カップ国際ユース大会)。因みにリポーターは相手地域に放送されるされないに関わらず相手チームにも配するケースが多い
解説は宮本征勝、原博実が務めていたが現在はベガルタをJ1に導いた清水秀彦が担当、実況はブランメル1年目のみ熊谷博之が務めた後、現在まで加川潤が実況を担当している。
ラジオ中継
- 主にラジオ3がアウェイ戦全試合の中継を宮城県内のコミュニティ放送局(FMいずみ、BAY WAVE(塩竈市)、FMいわぬま、ラジオ石巻)にネット配信している(なお、FMたいはくとH@!FMは参加していない。)。実況解説はスポーツライターの佐々木聡が担当している。かつてはラジオ3のアナウンサーだったロジャー大葉が実況していた。2010年シーズンよりホーム戦も実況中継をすることになった(ただし放送はラジオ3とFMいずみの2局ネット)。ラジオ3ホームページからのインターネット上でも中継を聞くことができる。
- その他、東北放送は年1回ほど、2007年までホームゲームの中継をしていた(最近は東北ダービーの中継のみ)2008年以降のリーグ戦は全く中継しなかったが2008年12月10日のホームで行なわれた磐田との入れ替え戦を中継した。なおプロ野球シーズン中は楽天戦中継(TBCパワフルベースボール)が優先されるため、ベガルタ戦のTBCラジオでの中継は不可能と思われる。
- またNHK仙台放送局も不定期に中継を行っている。
不祥事
2008年2月6日夜、キャンプ地延岡市内にて選手4人が酒に酔って車を傷つける事件が起こった。
関わったのはMF金子慎二、MF富田晋伍、DF細川淳矢、DF一柳夢吾。4人はオフ前日の6日、草津との練習試合を終えた夜、同市の飲食店で行われた選手会主催の食事会に参加した後、別の飲食店で飲食。その際気分が悪くなり、外の駐車場で嘔吐していたMF金子を他の3選手がふざけて近くに止めてあった軽自動車の屋根に押し上げた。さらに3人も屋根に上って騒ぎ、車の屋根をへこませた。
車は4人が飲食した飲食店とは別の店の店主所有のもので、4人は直後に謝罪。連絡を受けた手倉森監督も謝罪し、その場で示談が成立したため、被害届は提出されなかった(刑事事件にはならなかった)。
発覚したのは6日後の12日、インターネット掲示板への書き込みが発端だった。つまり、6日間事実を公表しなかった(発生直後、手倉森はフロントに報告しなかった)。13日、謝罪会見が行われ、処分の内容が明らかになった。問題を現場だけで処理しようとした手倉森と10日に現地入りして事情を知らされながら放置した丹治強化部長には50万円の制裁金、関与した4選手には3ヶ月の減俸20%、名川社長に管理責任として50万円の制裁金、全選手のキャンプ中の外出禁止を持って処分とした。
脚注
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関連項目
- ベガルタ仙台・ブランメル仙台の選手一覧
- ピエール・リトバルスキー
- ジョージ・ブライアン・ブランメル
- V☆PRESS(ホームゲーム時に発行されるマッチデープログラム)
- Country Road(ベガルタ仙台の1年間の活躍をまとめたメモリアルデータブック)
- 2001年J2最終節
- 仙台のスポーツ
- 東北ダービー
- four four two
- ユアスタ・ラストスパート・プロジェクト
- AURA(ベガルタ仙台の応援歌「オーラ(愛・オーランド)」を作ったバンド)
- サンドウィッチマン(お笑いコンビ。ボケの富澤たけしがベガルタ仙台のユニフォームを着用することがある)
- 根本美緒(東北放送アナウンサー時代からのベガルタ仙台ファン)
- 戦術君
- 村林いづみ(スカパー!のベガルタ仙台ホームゲーム中継レポーター)
- 川崎華族(川崎フロンターレの応援集団。仙台のサポーターと交流がある)
- 東北楽天ゴールデンイーグルス(ホームゲームでチームロゴの看板を出している。一方、楽天の本拠地・クリネックススタジアム宮城でもベガルタ仙台のチームロゴが入った看板を掲げている)
外部リンク
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