ビートたけし

出典: Wikipedio


Template:独自研究 Template:Infobox お笑い芸人 ビートたけし本名北野 武(きたの たけし)、1947年(昭和22年)1月18日 - )は、東京都足立区梅島出身、オフィス北野所属のお笑いタレント司会者映画監督俳優作家歌手東京藝術大学大学院映像研究教授。元漫才師(ビートきよしとともに、ツービートとして活動)であり、日本国外では映画監督としての知名度が高い。また、映画監督などで本名名義で活動する他、立川談志一門であり高座名「立川錦之助」を持つ。

目次

概要

1980年代後半以降、タモリ明石家さんまと共に、日本のお笑い芸人『ビッグ3』の1人として認められている。タモリを「タモさん」「タモリ」と呼び、明石家さんまには「明石家」「さんちゃん」「さんまちゃん」「師匠」「出っ歯」と呼んでいる。また、1980年代前半頃までは、萩本欽一、タモリと共に、日本のお笑い芸人『ビッグ3』であった。

現在では司会業や映画監督業が中心で、中には20年以上続く番組がある。司会者として、聞き手に回りながらも、相手の何気ない一言を即席の持ちネタにし、話の節目やオチで効果的に連呼し使用する特徴がある。

映画監督時や『平成教育委員会』(フジテレビ系列)などの番組では本名の「北野武」名義を用い、他の番組では芸名の「ビートたけし」でタレント活動している。これに関して2010年5月9日放送『平成教育委員会』では「アカデミックな場所では『北野武』または『マス北野』、芸人として出る時は『ビートたけし』で使い分けている」との旨を述べた事がある。

また、絵画では『ビートたけし・北野武』と言う名義で活躍もしている。

来歴・経歴

幼少時代

東京都足立区島根町にて、塗装職人の父(北野菊次郎)と、母(北野さき)の五男(次男が夭折し、実質は四男として育つ)として生まれ、「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」との願いから、「武(たけし)」と命名された。血液型はO型。色白で細面、身体は小さいが俊敏で友人からは「ターチ」と渾名された。兄姉とは年が離れていたため、祖母に非常に可愛がられて育った(家族構成は「家族・縁戚」を参照)。母親からは厳しく接せられた。

足立区立梅島第一小学校に入学。教育熱心だった母の薫陶が功を奏し成績は優秀で、特に算数図画工作が得意だった。小学校卒業後は母親が進学校を希望したため、近隣の中学ではなく、遠く離れた足立区立第四中学校越境入学した。中学卒業後、東京都立足立高等学校に入学。なお、小・中・高といずれも野球部に所属(高校は軟式野球部)したが、高校時期にヨネクラジムでボクシングを習っていたという。なお、演芸場時代は漫才師の野球チーム『メダトーズ』に加入していた。

大学時代

1965年(昭和40年)に 高校を卒業後は母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部機械工学科に現役合格し入学。しかし、大学での生活には適応できず、いわゆる五月病を患うようになり、大学2年の時には、家出同然に一人暮らしを始め、新宿界隈で当ての無い日々を送るようになる。

学生運動にも参加したが熱心ではなく、ジャズに傾倒する。“LeftyCandy”や新宿ACB(アシベ)風月堂などに入り浸った。また、ジャズ喫茶のボーイもしたが、ジャズの見識は一部で有名であった。新宿のジャズ喫茶『ビザール』では、若松孝二小水一男らと知り合う。『ヴィレッジ・ヴァンガード』で、早番のボーイとして働いていた時は、連続射殺事件で逃走中だった永山則夫が遅番のボーイとして働いていた。『ジャズ・ビレッジ』の壁に書かれていた文章「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」が心に残ったという<ref>後年これに続けて「死に場所探して生きるもよし」と加えた詞を作り、『死んだ犬』として発表した(作曲:泉谷しげる)</ref>。

この頃は青春の葛藤期でもあり、友人の下宿に居候しアルバイト三昧の青春時代を過ごし、ジャズ喫茶以外にも、菓子の計り売りや実演販売員、ビルの解体工クラブのボーイなどを転々とする。羽田空港荷役業では、ジャズ喫茶の常連客だった中上健次と共に働いた。のち通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも半年で退社、ガソリンスタンドでアルバイトをした。この間、若松との縁で『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの若松プロ初期作品に端役ながら出演<ref>小水は『ほしをつぐもの』(1990年)で、若松は『エロティックな関係』(1992年)で、再びたけしを撮った</ref>したり、学生演劇に参加したが、ヴォードヴィルのような軽演劇で、舞台役者ではなく構成に携わっていたという。

大学は140単位のうち106単位まで取得していたにもかかわらず、結局通学せずに除籍。しかし、2004年9月7日、明治大学より「特別卒業認定証」<ref>100単位以上を取得しながら何らかの理由で通学できなくなった人物に与える制度。</ref>及び知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を受けた<ref>北野武氏へ明治大学特別卒業認定証ならびに特別功労賞を贈呈、2004年9月</ref>。これにより、最終学歴は明治大学工学部卒業となり、学校教育法第104条および学位規則第2条の規定に従って「学士(工学)」の学位が与えられた。

前座時代

学生運動が収束に向かったこともあって、自身も去就を模索する必要に迫られた。芸能に興味はあったが、アングラ演劇には馴染めず、「理工系なので文学的なものはわからない、しかし演芸なら自分にも理解できるだろう<ref>『驚きももの木20世紀 - 伝説の浅草芸人・深見千三郎と最後の弟子』朝日放送、1996年</ref>」という理由で、いつしか芸人を志望するようになった。ただ、当時の一般認識として卑しい仕事に見られていた面もあり、子供の勉学に厳しく大学にまで入らせて芸人の道を志した息子に、母は怒り嘆き、子供の頃から厳しい勉強を強いられて窮屈な思いをしていた武は、これに猛反発。北野家においても、近所の体裁を考えて「芸人を目指した北野家の武」という存在は無かった事になっていた。<ref>このエピソードについて兄の北野大はテレビ出演時に「武、ごめんな」と笑顔で謝罪している。</ref>

1972年(昭和47年)夏、浅草ストリップ劇場浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始める。当時、たけしと思しき人物を見た井上ひさしは「不機嫌そうな青年<ref>ビートたけし『浅草キッド』新潮社〈新潮文庫〉、1992年(文庫版解説) ISBN 978-4101225128</ref>」と、その印象を述べている。やがて、同劇場の経営者兼座長であった深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太としてコント(軽演劇)を学ぶ。初舞台は、痴漢のコント。幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも励む。座員の多くが深見を近付き難い存在として見ていたが、たけしは物怖じしなかったため深見から気に入られた。舞台ではアドリブを駆使し、言葉の拾い方に独特の斬新さがあったため、一目置かれるようになった。

ツービート結成

Template:Main フランス座に出入りしていた2年先輩の兼子二郎から漫才コンビを組むよう誘いを受けた。当時フランス座は経営難で、給料の支払いすら事欠くようになっていたことや、背広一つで稼ぐことができる漫才に魅力を感じていたことから、『松鶴家次郎』の芸名で舞台に上がることを了承した(兼子の芸名は『松鶴家二郎』)。

当初は正統派の掛合い漫才で全く芽が出ず、フランス座にいた頃よりも貧窮した。兼子が一時コロムビア・ライト付き人をして生活を凌いでいたため、その縁で空たかし・きよしコロムビア・トップ・ライトの一門は皆「青空」の家号を名乗るが、片方の弟子なので「空」だけとなった。)と名乗り営業に出たこともあった。演芸場のギャラは安いため、地方キャバレーなども回るようになるが、たけしは酔客相手の仕事を嫌い、出番をすっぽかしたり、酩酊して舞台に上がることが多かった。また、店を誹謗したり、客やホステスに喧嘩を吹っ掛けたので、度々舞台から降ろされた為、兼子は場繋ぎに使う奇術ネタを用意していたという。そしてこの頃から「暴走ネタ・危険ネタ」へシフトしていった。

紆余曲折ののち、2人はコンビ名を「ツービートtwo beat)」へと変更し、兼子は「ビートきよし」、たけしは「ビートたけし」を芸名とした。

この頃、大阪で頭角を現して来たB&Bのスタイルに触発され、スピードを早めて喋りまくるスタイルへ変貌した。 服装もタキシード蝶ネクタイからアイビー・ルックに変えて、古臭い漫才師の様式から脱却を図った。当初ツービートは代演で松竹演芸場の舞台に上がっていたが、支配人に認められてからは出演回数も安定するようになる。毒舌の限りを尽くした掟破りのネタもさることながら、ボーイズグループの楽器を拝借して現れたり、座布団の上に座って漫才を行なうなど型破りな舞台が多く、ツービートが漫才を始めると(他の芸人が観に行くので)楽屋が空っぽになると評判になった。

漫才ブームまで

演芸場での人気とは裏腹に、その破壊的な芸風は一部の関係者に受け入れられず激しい抑圧を受け、漫才協団から脱退を求める声すら起きたという<ref>ビートたけし『午前3時25分!』 『平凡パンチ』平凡出版株式会社、1983年 ISBN 978-4900416000</ref>。1976年(昭和51年)協団が主催するNHK新人漫才コンクールにツービートは3年連続で出場したが最優秀賞を獲得することは出来なかった。

1978年(昭和53年)新宿区高田馬場の芳林堂書店前で持ちネタの全てを披露する漫才ライブを開催したが、この企画をした高信太郎との繋がりでたけしも、高平哲郎赤塚不二夫タモリらと一時期交友関係を持った。その後、「酒を飲んで軽いジョークを言いあったりする、あのシャレた笑い」が肌に合わずじきに離れた。

1979年(昭和54年)、女流漫才師「ミキ&ミチ」の内海ミキ結婚犬吠埼千葉県)にて新婚旅行を済ませたのち、亀有のアパートで生活を始める。

11月、『花王名人劇場』(関西テレビ)において、人気落語家・月の家円鏡(8代目・橘家圓蔵)の共演者に抜擢される。古典派から「邪道」と言われた円鏡と、「邪道漫才師」ツービートを競演させ、「円鏡 VS ツービート」と銘打って放送されたこの企画が好感触を得たことで、「花王名人劇場」での「激突!漫才新幹線」制作への布石となり、のちの漫才ブームへ繋がった。

漫才ブーム

1980年マンザイブーム』(旧来の“漫才”と区別される為にカタカナ表記)が起こり、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物にB&Bザ・ぼんち等と共に一躍知名度を上げた。

速射砲さながらに喋りまくり、時おり弾倉を交換するかのごとく首を「くっ」と捻るたけしの姿は、個性派揃いの漫才師の中でも異彩を放った。その毒舌が織りなすネタの主題となったのはジジイババアブス・カッペ(田舎者)で、さらにウンコヤクザガキが頻繁に登場した。また、金属バット殺人事件深川通り魔殺人事件といった時事性の高い話題をいちはやくギャグに取り入れた。これらの不謹慎ネタは「残酷ギャグ」等と批判を受けることもあったが、それに対してたけしは「たかが漫才師の言う事に腹を立てるバカ」と言ってのけた。日本船舶振興会のCMを皮肉って作られた「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」「寝る前にきちんと絞めよう親の首」「赤信号みんなで渡れば恐くない」等の一連の標語ネタは「毒ガス標語」と言われ、ブーム初期の定番ネタとなった。

1980年6月、ネタ本『ツービートのわッ毒ガスだ』を発刊し、年末までに約85万部の売上となったが、当初事務所側はせいぜい3万部程度の売り上げと見込み、印税全額を二人が受け取る契約を結んでいたため大金が転がり込んだという。

この時期に、ツービートとして出演していた『スター爆笑座』(TBS)の司会であったせんだみつおと楽屋で雑談中に、たけしの代表的ギャグとして知られる「コマネチ!」のギャグが生まれた<ref>せんだみつお『ナハ』東京書籍、2002年 ISBN 4487797144</ref>。

1981年1月、TBSで『二百三高地』の連続ドラマが製作され、ツービートは兵卒役として出演したが、たけしは乱戦の最中『コマネチ!』で自己主張をはかり、監督以下の顰蹙を買った。なお後年、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した際には、『コマネチ!』という記念本に寄せてコマネチ本人から祝福の手紙が贈られた。

1981年10月、漫才師による昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ)で、ツービートは火曜日のレギュラーとなった。1982年10月、ブームの終焉と共に番組も終了したが、最終回でたけしは客に対し「何でもゲラゲラ笑いやがって! 本当はお前らみたいな客、大っ嫌いだったんだよ!」と語った(なお、フジテレビからオファーのあった後番組の司会をたけしは断り、代わりに『森田一義アワー 笑っていいとも!』が開始された)。

1982年の夏にはブームは完全に収まったが、“タレント・ビートたけし”として漫才以外でも世間に知られるようになる。以降、単独で司会をする番組を多く持つようになった。

漫才ブーム以後

漫才ブームを生き残ったたけしは、自身のスタイルを大きく転換させる。毒舌家というパブリックイメージはそのままに、ネタに依存する消耗度の高い喋りを捨て、パーソナリティを軸とした芸風に移行していく。

また、1981年元旦からニッポン放送NRN系のラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』、同年5月からフジテレビ系の『オレたちひょうきん族』がそれぞれ開始された。

1982年から1984年にかけて、番組出演中に弟子志願者(正式な門下は取らない主義の為“ボーヤ”と呼ばれる)が押しかけ、相当の数が集まった事(たけし軍団)から、集団で行うバラエティを模索。日本テレビスーパージョッキー』、TBS笑ってポン』等が始まった。また、博識が評価されて、毎日放送世界まるごとHOWマッチ』等で文化人的な出演要請も増えた。

上記は1985年当時のレギュラー番組すべてであるが、このうち日本テレビ、テレビ朝日、TBS、フジテレビの20時台番組ですべて最高視聴率をマークした。なお、『たけし城』、『元気』、『スポーツ大将』は全て実質ビートたけし本人の企画・構成によるものである。

その他、放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、ファミリーコンピューターのゲーム企画も行った。この頃より、タモリ明石家さんまとともに、「日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。

映画監督「北野武」

その男、凶暴につき』(1989年)は、監督:深作欣二 主演:ビートたけしで映画化を予定し、配給の松竹は両者の間で交渉を進めたが、スケジュールや条件で合致せず、深作が監督を辞退した。そこで松竹は人物的魅力と話題性から、たけし(以下、映画の項目では映画監督での活動名(本名)での「北野」で表記)に監督を依頼したところ、テレビの仕事と両立させることを前提として承諾。1週間おきの撮影という珍しい形態が採用された。映画監督・北野武としてのデビュー作『その男、凶暴につき』は1989年に予定通り公開された。

1997年、映画『HANA-BI』が、第54回ヴェネツィア国際映画祭で日本作品として40年ぶりとなる金獅子賞を受賞した。発表直後、北野は「異分野出身者でも大きな賞を取れると示すことができ、これから映画を目指す者に刺激になったと思う」と語った。授賞式では「また日伊同盟を組んで他国を攻めよう(With Italy let's go to America to war)」と英語でスピーチ。帰国時の記者会見で現地の土産物屋で購入した金獅子像のミニチュア(約280円)を披露して笑いをとった。

第52回カンヌ国際映画祭1999年)コンペティション部門に正式参加した映画『菊次郎の夏』で約5分間のスタンディングオベーションを受けた。

2005年4月、フランスの『カイエ・デュ・シネマ』創刊600号記念号の特別編集長を務める。カイエ・デュ・シネマは300号から100号毎に映画人を編集長に招いて記念号を発行しており、過去に記念号の編集長を務めた映画監督は、ジャン=リュック・ゴダール<ref>「ここ四、五年、私が素晴らしいと思っている、北野武の映画があります。『HANA-BI』という作品です。私が『HANA-BI』を好きなのは、それが日本映画だからではなく、普遍的な映画だからです。そこに登場するほとんどの人物たちが一重瞼の細い目をしていることに気づかないほど、普遍的な映画だと思います」と言及された事がある。(『週刊読書人』 2002年11月22日号)</ref> (300号)、ヴィム・ヴェンダース(400号)、マーチン・スコセッシ(500号)などがいる。

2005年4月、東京芸術大学で新設された大学院映像研究科の教授および映画専攻長に就任した(監督領域の教授は北野含めて2名のみ)。北野大も淑徳大学教授であったので兄弟で教授となった。

2007年5月、カンヌ国際映画祭60周年特別記念企画「To Each His Own Cinema」(それぞれのシネマ)に世界5大陸25ヶ国から選出された35名の著名な映画監督の中で唯一の日本人として名を連ねた。

2007年8月、第64回ヴェネツィア国際映画祭にて、北野の映画監督作「監督・ばんざい!」に基づき「GLORY TO THE FILMMAKER」賞が新設され、表彰式に出席した。

2008年6月19日、第30回モスクワ国際映画祭で「特別功労賞」 (Life-time Achievement Award) を受賞。2003年新藤兼人に次ぐ2人目の日 本人受賞者となった。20日の会見では「ロシアの人は自分(北野)を過大評価している」「数々の芸術家が出ているロシアで表彰されるのは恥ずかしい」と語った。

お笑いタレントと映画監督

フランスと日本の文化観の違いとして「芸人という立場が映画監督としては悪影響を及ぼす、なんて気はなくて、フランス人の見方は、もっと才能があるんだっていう。この人はまだいろんなことがやれるんだって感じがあって。だからギャング映画撮っても問題ないし、バカバカしいことをやってもそれはそれとして見てくれる。映画は映画、バラエティはバラエティって分けてくれるんで、ありがたい。気が楽になった」とコメントしている。

「日本は漫才師が映画撮った、みたいな雰囲気があって、松本人志が映画撮ると、“かつて映画を撮ったお笑い人”の中に必ず俺が入っている」と異業種の人間に対する偏見が強い日本の見方には苦言を呈している。<ref>たけし帰国会見 仏芸術文化勲章最高章は「黒澤さんが貰ったやつ、すげえ」 -cenemacafe.net 2010年3月13日</ref>

映画監督として思う究極の映画

「究極の映画とは、10枚の写真だけで構成される映画であり、回ってるフィルムをピタッと止めたときに、2時間の映画の中の何十万というコマの中の任意の1コマが美しいのが理想だと思う。例えば女性のヌードを撮影するってのも、ただ裸の女が出てるだけではなく、ストーリーの中で女が脱いでいくというものであり、グラビアは映画の原型みたいなものだと思う」と語っている<ref>「週刊ポスト」 2002年2月1日号</ref>。

キタノブルー

Template:独自研究 「キタノ映画」のビジュアル面での最大の特徴は、「キタノブルー」とヨーロッパの人間に評される青の色使い。青みの深い画面のもたらすひんやりした映像感覚とあいまって、全編に静謐な不気味さを醸し出している。しかしDolls (映画) からは青にこだわらない映像になっている。

ファンを公言している著名人

黒澤明ジョン・ウークエンティン・タランティーノリュック・ベッソン松本人志ダウンタウン)、太田光爆笑問題)、香取慎吾SMAP)、など他多数。

北野が影響を受けた映画監督

黒澤明深作欣二大島渚小津安二郎フェデリコ・フェリーニジャン=リュック・ゴダールデヴィッド・リンチなど

監督作品

受賞歴は各映画作品のページを参照のこと。

太字は出演も兼ねてる作品

事件・事故

フライデー襲撃事件

Template:Main 1986年12月9日に、たけし軍団とともにフライデー襲撃事件を起こし逮捕。懲役6か月、執行猶予2年判決(東京地裁、確定)。当時のレギュラー番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』『スーパージョッキー』への出演を半年間辞退した。なお、当時たけしと交際していたといわれた女子大生に暴行で告訴された記者は罰金10万円の判決を受けた。

1987年映画監督深作欣二は、謹慎中の身にあったたけしと京都において初対面。その印象を「非常に鋭い顔をしている。笑っていても目は笑わんし、顔立ちが独特だ。いろんな人間とシビアな闘争をしてきた男の顔だ」と語った。

バイク事故

1994年8月2日午前1時40分。東京都新宿区都道飲酒運転での原付バイク事故を起こし、入院生活などで半年間テレビへの出演が出来なかった。酒気帯び運転にて書類送検されたが起訴猶予。退院時、暫くは顔面の半分が麻痺した状態であった。リハビリにより回復したが、復帰当時は「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面麻痺が治らなかったら芸名を顔面マヒナスターズにします」と自らの怪我をネタにした。

テレビ朝日『やじうまワイド』で大島渚は「僕は彼の心情を想うと、友人として何も言う気にはなれない」とコメントした。

上記事故で生死の境を彷徨っていた時、たけしの夢の中に、事故の前年に亡くなった親友の逸見政孝が出てきたという。たけしは、「あれは、まだ俺は死んじゃいけない。って逸見さんが言いに来てくれたんだろうな」と、退院後のインタビューで答えた。

価値観

数学

理系学部出身であった事からも分かるように、数学に対する造詣は深く、「もし道を間違えなかったら、数学の研究者になりたかった」とも語った。1980年代の民放番組の司会進行中に、「自分は漫才師になったので今がある、物理学の道に進んでいたら、もう既にノーベル賞を取っている」と真剣な面持ちで話し、編集されなかったこともあった。数学好きが高じ『たけしのコマネチ大学数学科』をスタートさせ、その才能を発揮させている。『ここがヘンだよ日本人』では、「数学というものは哲学であって、全ての事象は数学に支配されており数学で説明できる」と発言している。

社会風刺

ツービート時代からの漫才はもとより、『週刊ポスト』連載の「毒針巷談」(その後「世紀末毒談」を経て「21世紀毒談」)や『新潮45』連載、さらには『ビートたけしのTVタックル』などのテレビ番組で世相を風刺する発言も多く行っており、それが話題となることもある。例えば1990年代に「『北野党』を立ち上げる」と冗談で発言したことが大きく取り上げられたこともあった。

別の一例としては、1992年に『新潮45』の連載にて「『地球にやさしく』なんかできない」のタイトルで、「地球に優しくしたいなら人間殺さないといけない」と、当時の政財界やマスコミによる「エコロジーブーム」の欺瞞性および浅薄さを皮肉った<ref>『みんな自分がわからない』1993年、新潮社 ISBN 978-4103812036</ref>。この「『地球にやさしく』- 」は、同年6月18日付けの朝日新聞に「ビートたけしと地球環境」と題した、環境問題への無関心を戒める社説が掲載されるなど反響を呼んだ。なお、この文章は1996年の山形大学教育学部の入学試験の小論文試験の出題にも使用された。

ただし、たけし本人はこういった発言があまり大きく取り上げられることに対し、「芸人の言っていることを一々真面目に取り上げるな」などの反応を示すことが多い。また後述の佐高信には「床屋政談」と評されたこともあった。

スポーツ

野球をこよなく好み、長嶋茂雄を敬愛しており、幼少の頃から読売ジャイアンツファンである。草野球チーム(『たけし軍団』)では投手を務めることもある。野球をする時のたけしは真剣であり、川崎球場での番組収録中、グラウンドに男性アイドルが登場したため女性ファンの歓声により、試合どころではなくなってしまった。その際に誰よりも早く「ここはグラウンドで野球をやってるんだぞ! コンサートじゃねえんだ!」とスタッフを一喝した。

神宮外苑の軟式球場が一種のホームグラウンドで、最盛期は年間70試合近くも行い、1991年阪神タイガース・ファン感謝デーで軟式ルールながら阪神に勝利した。作家・伊集院静が連載していたエッセイ『二日酔い主義』の中には、たけしと一緒にプレーをした記憶に触れる回が幾つかあり、『たけしのグローブ』(伊集院静『あの子のカーネーション』文藝春秋、1989年)では、たけしの使い込まれたグローブに強かな野球少年の面影を重ねて描かれていた。

格闘技では自身もジムに通った経験を持つボクシングを好み、映画『キッズ・リターン』を作った。映画の中で人を殴るシーンや『座頭市』における逆手斬りのフォームには影響が垣間見える。浅草時代を知る石倉三郎は「タケちゃんのケンカはボクシングスタイルで結構パンチも早かった」と述べている。なお、たけし自身は1963年高山一夫 vs 勝又行雄戦、1971年金沢和良 vs ルーベン・オリバレス戦をベストマッチに挙げている。その一方で、1987年たけしプロレス軍団にまつわる騒動において苦い経験もした。また、空手で骨折し拳の一部が変形している。

他にもサッカーに詳しく、Jリーグ開始以前の国内・海外選手に特に詳しい。

一方で、鉄棒逆上がり跳び箱といった器械体操の類は不得意であり、跳び箱ができないことは後にたけしの出演番組内でもネタにされ、『たけしの跳び箱オリンピック』と題した苦手克服企画が1988年の年末に放送された。

タップダンス・ピアノ

漫才ブームが過ぎ、次代に生き残る為の材料を思索していた時期、たけしはテレビの更なるバラエティショー化が進むと予想し、「タップとピアノ位はやれないとみっともねえだろ」と考え<ref>景山民夫『極楽TV』JICC出版局、1985年 ISBN 978-4880631363</ref>、たけし軍団でもタップ・楽器・太神楽ジャグリング)が必修科目となった。その中で、太神楽は海老一染之助・染太郎を師匠として学んだが、染之助の技は花柳流名取であったことに由来すると知り、日本舞踊も習うようになった。

タップダンスに対する思い入れは深く、毎日練習を欠かさず行なう。映画『座頭市』の撮影では踊るシーンが無いのにもかかわらず練習をしていた。海外に渡航する際ですらタップシューズを持参するという。

ピアノを弾くのはバイエルツェルニー、そしてソナチネ(練習曲から本格的な楽曲へ移る分岐点にあたる)までで、それ以上の域に到達する必要はないと言う。ピアノ奏者レベルまで目指すのは本末転倒で、タップもピアノも「真剣にやろうと思えばやれる」ところまで到達し、それ以降はいかにアレンジして見せるかを考えるのが芸人の仕事だと語った。

たけしの挑戦状

たけしが監修したファミコン用ソフト『たけしの挑戦状』(タイトー)は「今までにない独創的な発想を入れたい」という意図が反映され、言葉通りその斬新さと理不尽きわまりない内容で多くのユーザーに衝撃を与え、伝説のクソゲーとして名を残すこととなった。たけし自ら「今までのゲームと同じレベルで考えるとクリアー出来ない」とコメントしている。

世界観は極めて退廃的であり、主人公は薄汚れた町並みの中に住む世帯持ちのしがないサラリーマンである。台詞は罵言暴言など汚い言葉遣いが多い。店の看板は極道的な内容で、路上にはヤクザが蔓延り、否応なしに主人公に殴りかかってくる(また、これを逆に攻撃して倒すこともできる。これに限らず、敵味方なくすべての登場人物を殴ることもできる)。

「離婚届を出す」「退職届を出す」「恩人を倒す」「カルチャークラブで技能を修得する」他にも「パチンコの最中にIIコントローラーのマイクで叫ぶ」「宝の地図を出す際に『5分経過後から10分経過する前にIIコントローラのマイクに向かって叫ぶ』か『1時間待つ』」など通常では思い付き難い操作が要求される上に、ハンググライダーを使う場面では、上に自由に移動できないなどの独特の操作性のため難易度の高いシューティングゲームとなる。

多くの書籍などでクソゲーの代表格とされることが多い一方で、過去の名作ランキングでは必ず上位にランクされるほど非常に印象深い作品となり、現在では「北野映画に通じるところがある」「早すぎたグランド・セフト・オート」など、ゲーム内容を再評価する声もある。<ref>“北野映画”に通じる先見性があった」伝説のクソゲー“たけ挑”制作秘話(ORICON STYLE、2009年08月08日)</ref>

家族・縁戚

父の叔母で実質の祖母である北野うし1877年生)は明治時代に娘義太夫の花形であった。

兄弟は2人の兄と1人の姉がおり、長兄は技術者宇野製作所の取締役である北野重一、次兄はタレント明治大学教授淑徳大学客員教授工学博士北野大である。なお、たけしが生まれる前に夭折した兄(重一と大の間の兄)は勝という名前である。

妻は元漫才師の北野幹子(旧姓・松田)。また、レーシングドライバー松田秀士義弟(幹子の実弟)である。

子供は妻との間に2人、長男、長女の井子。また、1990年には愛人との間に二女が誕生(翌年には世間に認知される)。

前述のように、たけしが芸人を志したとき北野家の誰もが反対したが、長兄の妻(たけしにとっては義姉)だけは「武さんは必ず出世する」と断言したという。

人物

人間は「振り子」であるとして、「思い切り悪いことのできる奴は思い切りいいこともできる、思い切りバカなことのできる奴は思い切り真面目なこともできる」とし、映画監督として評価を得た後もバラエティ番組に出演することにはそうした理由もあるとコメントした。

自称は「俺」「僕」「オイラ」。それぞれ場の雰囲気に合わせ使い分けている。「オイラ」は下町・職人言葉の位置づけで、自身が育った島根町が職人街だったことと関連するとしている。かつて足立区の広報誌から受けたインタビューでは「足立は東京の下町だね。その足立の下町が島根だというの。島根は下町の中の下町。足立の中の足立だって思うんだよね」とコメントした。

たけしのものまねをする際の動作として定番化している頻繁に首をひねる動作(ただし、たけし本人は1990年代以降はあまり見せなくなっている)は癖ではなく、ツービート時代に「トランポリンで飛び跳ねながら漫才をやってくれ」と頼まれ、稽古中に頭から落下してしまい頚椎を負傷、以後しばらくの年月に渡り首に違和感があったためと『週刊ポスト』の連載コラムで述べている。

1999年8月に母が死去した際には通夜の後に記者会見で、「オレを産んで良かったと思って欲しい・・・」と絶句し、泣き崩れる場面を見せた。

所ジョージと仲が非常に良く、毎週日曜日に(多い時は週4、5回)所の自宅兼事務所である(世田谷ベース)へ遊びに行く。元々たけし自身も車好きではあったが、近年では所の見立てでフェラーリ・599ランボルギーニ・ガヤルドといったスーパーカーを購入したり、ポルシェ・911を、かつて所持していたポルシェ・959に見立てて改造したポルシェ979K、軽自動車のスバル・R1R2をベースにフェラーリ風モディファイを加えたフェラーリADACHIKUとフェラーリMINAMIURAWAをプロデュースするなどしている。また、たけしが番組等で使った衣装や小道具を世田谷ベースに持ち込み、所と一緒にお遊びでとった写真をベースにして、雑誌『FAMOSO』が発刊された。

関西出身の芸能人では、漫才師の中田カウス・ボタンの中田カウス、歌手のやしきたかじん和田アキ子らと親交があり、たかじんの冠番組にも出演したことがある。かつては、横山やすしを大変尊敬し、葬儀に駆けつけるなどするなど、親交があった。この縁からやすしの最後の弟子である横山ひとしが一時期オフィス北野に所属したことがあった。

オールナイトニッポン』(ニッポン放送)にて、日本テレビから同局が「チャリティー番組」として放送し、募金活動も行っている『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』への出演オファーを受けたが、拒否したことを明かしている。さらに、「ヨダレ垂らした芸能人どもがめちゃくちゃ高いギャラ稼ぐくせに、これ以上貧乏人から金巻きあげんな。チャリティーっていうくらいならお前ら全員ノーギャラで出ろよ!」と発言し、偽善番組とも述べている。また、笑福亭鶴瓶明石家さんまもたけしとほぼ同様の理由で同番組への出演を拒否したことがある。

評価

1981年文芸評論家鶴見俊輔は『広告批評』誌上における座談の中で、「ツービートはがきデカの位置に似ている」と評し、文芸評論家・高澤秀次はこの評を絶賛した。

1983年吉本隆明栗本慎一郎との対談集の中で、たけしの話芸を「自分を異化することによって自然の流れとしてしまう芸風」と評した<ref>栗本慎一郎・吉本隆明『相対幻論』冬樹社、1983年(1985年に角川文庫に収録) ISBN 978-4041501054(角川文庫版)</ref>。この本は著名な知識人がお笑い芸人を真正面から評論したという点で各方面の反響を呼んだが、一方で的外れだという批判も大きかったTemplate:要出典(のちにたけしは栗本と対談。後日、作家の小林信彦に「ああいうインテリはお笑いがわかってないのが、よくわかりましたよ」と洩らしたというTemplate:要出典)。のちに吉本が「海燕」誌上で埴谷雄高と論争(1985年)になった際、たけしは『もっと阿呆になれ、吉本!』という文章を発表し「吉本さんは言い回しが難解」と指摘した。

加藤茶はインタビューで「…たけし君が映画監督で評価されている。でも、(お笑いに)帰ってくると、必ずバカなことするじゃないですか。(バカをやる、という素晴らしさの)原点を知っているんです。だから大好き」と、評価している<ref>朝日新聞夕刊『人生の贈りもの』2008年12月5日より</ref>。

色川武大は「才能は切れるが、それだけにいいところを一人占めしようとしすぎる」とし、榎本健一藤山寛美萩本欽一と並べて「自分の手足を切ってゆく」タイプの芸人に分類した(対極として、古川ロッパ森繁久彌タモリの名を挙げた)<ref>色川武大『なつかしい芸人たち』新潮社、1989年 ISBN 978-4103311041(「銀座百点」掲載、1987年)</ref>。

一方で否定的な論評の一例としては1981年ルポライター鎌田慧が「ツービートの残酷ギャグはファシズムの兆し」と批判した<ref>「ファシズムみんなで進めば怖くない」『朝日ジャーナル』朝日新聞社、1981年</ref>。またルポライター・吉岡忍は、ツービート(ビートたけし)をジョン・レノン射殺事件の犯人マーク・チャップマンに重ねて論じるほど忌諱していた(が、のちに吉岡はその認識を変え、北野映画のルポルタージュを執筆するほど関心を寄せるようになった)。

それ以外にも辛淑玉佐高信諸井薫がたけしの軍団に対する態度を「権威主義的で弱い者いじめをしている」とそれぞれコラムなどで述べている。これら批判的な論評について、たけしは「冗談と本気の区別が付かない奴らがいる」と評している。

田中康夫は、たけしを自らと同じく「価値紊乱者」(既存の権威への挑戦者)としつつも、1980年代中盤には『感覚の倫理学』および『ファディッシュ考現学』にて立川流への入門や軍団創設を「肩書きや権威など精神的ブランドに頼るようになり(当時たけしがなりたいと語っていた)日本のレニー・ブルースになりそこねた」と評した。一方でたけしの過激な言動に隠された内面の繊細さもまた指摘し、フライデー襲撃事件の際にはフライデーの取材姿勢を批判し、たけしに擁護的な立場を取った<ref>『たけし事件 - 怒りと響き』太田出版、1987年 ISBN 978-4900416284</ref>。その後田中はたけしとテレビ番組でたびたび共演するなど交流も持ったが、その後も「ドナルドダックのように嫌われることも厭わず本音で周囲に毒を吐く存在であったはずが、嫌われることを恐れ人気者であり続けようとミッキーマウスのように無難な優等生的発言しか行わなくなりつつある」といった意味の論評も『神なき国のガリバー』や『ニッポンご託宣』にて並行して行っている。またバイク事故直後にあえて顔面麻痺状態で会見に臨んだことに関しては評価したが、その後の本格復帰については「芸能界の一線からは退いた方が良かったのではないか、取り巻きや軍団を養うためだとすれば自活を促すべきだった」と評した。

たけしの誰でもピカソ』で島田洋七がゲスト出演した際に、たけしは「漫才では洋七に勝てない、しゃべりではさんまに勝てない、司会では紳助に勝てない。でも芸能人としてのトータルでは良い所には行くと思う」と、漫才ブームを共にした芸人達と比較した上で、自己評価をしている。

フランス芸術文化勲章の「シュヴァリエ」を1999年に授与され、2010年に「コマンドゥール」を授与された際に、フランス文化省から「映画監督としての活動は言うまでもなく、1つの才能を持った人ではない。人々を笑わせること、感動させることができ、怖がらせることもできる。あらゆる面で支持者を持つ。類を見ない自由さをもってモノづくりを進める直感的才能に対し、賞を贈る」と評された。なお、この「コマンドゥール」受賞を[[ レジオンドヌール勲章]]の「オフィシエ」を受賞した黒澤明を超えたとする報道もあったが、レジオンドヌール勲章はフランスでは最高位の勲章であり、芸術文化勲章との勲位の比較は意味がない。

映画出演作品

この項目では他監督の作品として出演した映画の一覧である。戦場のメリークリスマスで注目され、Johnny Mnemonicハリウッドデビューも果たした。自分以外の作品に出演する際は監督に意見しないようにしているという。

現在の出演番組

(2010年現在)

レギュラー番組

単発・不定期番組

過去の出演番組(レギュラー番組のみ)

NHK総合

日本テレビ系列

TBS系列

フジテレビ系列

テレビ朝日系列

テレビ東京系列

BS・CS放送

ラジオ

CM出演

大橋巨泉と共演のCM(「アサヒ生ビール」)は撮影終了後、フライデー襲撃事件の影響で放映されず(なお、CMのスナップショットは大橋の自伝『ゲバゲバ70年!』の中で見る事が可能)。1984年、「スーしませう」のキャッチコピーで発売された「白仁丹」や、ペプシの比較CMをパロディ化した『デミュートサンスター』で企画・演出に関わった。

2007年からロシアCIS地域でPanasonicブランドの薄型テレビのCMに出演。同CM広告担当者によると、「日本の有名人が単独で海外の国々でCMモデルになるのは初めてではないか」との事。

主演ドラマ

★印は連続ドラマ。

著作物

連載コラムや著書の文章のほとんどは、本人が多忙であるため、北野武が口述し、それをライターに文章として起こしてもらっている(『コマネチ!2』にて、本人のコメントによる)。

北野武名義

  • 余生(2001年2月25日、ロッキング・オン
  • 孤独(2002年7月26日、ロッキング・オン)
  • 時効(2003年9月、ロッキング・オン)
  • 異形(2004年12月、ロッキング・オン)
  • 光(2005年11月、ロッキング・オン)
  • 生きる(2007年5月、ロッキング・オン)
  • 女たち(2008年9月、ロッキング・オン)
  • 武がたけしを殺す理由 全映画インタヴュー集(2003年9月、ロッキング・オン)
  • イチロー北野武キャッチボール(2003年7月、ぴあ
  • 全思考(2007年3月、幻冬舎)

ビートたけし名義

  • たけし! オレの毒ガス半生記(1981年11月20日、講談社)
  • ビートたけしのごっくん日本史(1982年10月25日、リヨン社)(ゴーストライター作と言われている<ref>ビートたけしのオールナイト・ニッポン本人談</ref>)
  • ビートたけしの変態志願(1982年12月5日、KKベストセラーズ
  • 恐怖びっくり毒本(1983年8月5日、KKベストセラーズ)
  • ビートたけしの幸せ独り占め(1981年12月5日、オールナイト・ニッポン サンケイ出版)
  • ビートたけしの幸せになってしまいました(1982年10月20日、オールナイト・ニッポン サンケイ出版)
  • ビートたけしの三国一の幸せ者(1982年12月5日、オールナイト・ニッポン サンケイ出版)
  • ビートたけしの無条件幸福(1983年12月20日、オールナイト・ニッポン リビングマガジン)
  • ビートたけしのニッチもさっちも(1984年12月15日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社
  • ビートたけしの幸か不幸か(1985年12月16日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
  • ビートたけしの不幸中の幸い(1986年12月16日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
  • ビートたけしの全面幸福(1988年5月9日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
  • ビートたけしのその男幸せにつき(1990年1月5日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
  • ビートたけしの幸せ丸十年(1990年11月22日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
  • ビートたけしのウソップ物語(1983年9月1日、話の特集)
  • ビートたけしのしまいにゃ笑うぞ(1983年4月10日、スコラ/講談社)高田文夫との共著
  • ビートたけしのみんなゴミだった(1983年11月27日、飛鳥新社)
  • 午前3時25分(1983年12月10日、太田出版)
  • ギャグ狂殺人事件(1984年2月25日、作品社)(ゴーストライター作と言われている<ref>ビートたけしのオールナイト・ニッポン本人談</ref>)高田文夫との共著
  • たけしくん、ハイ!(1984年5月1日、太田出版)
  • たけし吼える!(1984年9月23日、飛鳥新社)
  • あのひと(1985年8月20日、飛鳥新社)
  • 午前3時25分増補改訂版(1986年6月13日、太田出版)
  • 新・坊ちゃん(1986年6月19日、太田出版)
  • KID RETURN(1986年12月8日、太田出版)
  • 少年(1987年11月12日、太田出版)
  • 浅草キッド(1988年1月24日、太田出版)
  • 教祖誕生 第一部(1990年12月10日、太田出版)
  • 仁義なき映画論(1991年11月25日、太田出版)
  • 場外乱闘(1992年9月12日 太田出版)
  • こんな時代に誰がした! 場外乱闘2(1993年10月17日、太田出版)
  • 漫才病棟(1993年5月30日、文藝春秋)
  • 落選確実選挙演説(1994年6月15日、新潮社)
  • 顔面麻痺(1994年12月9日、太田出版)
  • 女につける薬(1993年2月10日、祥伝社)
  • 女は死ななきゃ治らない(1994年、祥伝社)
  • それでも女が好き(1995年8月5日、祥伝社)
  • 愛でもくらえ(1999年2月10日、祥伝社)
  • 毒針巷談 (北野武名義)(1984年8月10日、太田出版)
  • 続毒針巷談(1985年9月30日、太田出版)
  • 続々毒針巷談(1986年10月1日、太田出版)
  • 新毒針巷談(1988年7月31日、太田出版)
  • ビートたけしの世紀末毒談(1991年11月10日、小学館
  • ビートたけしの世紀末毒談 目には目を毒には毒を(1992年5月20日、小学館)
  • ビートたけしの世紀末毒談3 (1996年5月1日、小学館)
  • だから私は嫌われる(1991年6月10日、新潮社)
  • やっぱり私は嫌われる(1991年12月20日、新潮社)
  • みんな自分がわからない(1993年5月25日、新潮社)
  • たけしの死ぬための生き方(1995年3月25日、新潮社)
  • みんな〜やってるか!(1995年1月、扶桑社)
  • たけしの20世紀日本史(1996年2月29日、新潮社)
  • 草野球の神様(1996年10月20日、新潮社)
  • ザ・知的漫才 ビートたけしの結局わかりませんでした(1996年9月25日、集英社)
  • 私は世界で嫌われる(1998年2月20日、新潮社)
  • たけしの「号外」!!(1998年5月11日、洋泉社)
  • コマネチ!ビートたけし全記録 (1999年6月、新潮文庫)
  • 菊次郎とさき(1999年12月5日、新潮社)
  • 偽善の爆発 時事問題講義(2000年10月30日、新潮社)
  • 頂上対談(2001年10月20日、新潮文庫)
  • コマネチ!2 −BROTHER大特集(2001年12月8日、新潮社)
  • ビートたけしの黙示録(2001年11月30日、徳間書店)
  • コマ大数学科特別集中講座 ビートたけし・竹内薫(2006年12月27日、扶桑社)
  • ビートたけしの21世紀毒談(週刊ポスト:連載コラム)
  • 下世話の作法 (2009年3月30日、祥伝社)

写真集

  • 武風 たとえば風のように(写真集)(1986年頃、O.P.F.C)
  • たけし軍団(写真集)(1987年11月18日、太田出版)

音楽制作

歌唱作品

作詞提供

参加したコンピュータゲーム

写真家

バイク事故直前に撮った(雑誌は事故後発売)、写真家としての処女作品。
  • 「ORA-ATAI」(1998年新潮社発行、新潮45別冊2月号「北野武責任編集『コマネチ!』ビートたけし全記録」掲載)
学ラン姿のガダルカナル・タカとセーラー服姿の井手らっきょ(スキンヘッドそのまま)がカップルに扮し東京見物するコンセプト。

その他

脚注

Template:Reflist

参考文献

  • コマネチ! - ビートたけし全記録(新潮45 別冊2月号、新潮社、1998年)
  • ユリイカ - 北野武そして/あるいはビートたけし(2月臨時増刊、青土社、1998年)
  • 阿部嘉昭『北野武 VS ビートたけし』(筑摩書房、1994年)ISBN 4480871772
  • 世良利和『その映画に墓はない 松田優作, 金子正次, 内田裕也, そして北野武』(吉備人出版、2000年)ISBN 4906577547
  • Gerow, Aaron (2007). Kitano Takeshi. British Film Institute. ISBN 1844571661 (英語)

外部リンク

Template:ビートたけし Template:北野武監督作品 Template:ブルーリボン賞主演男優賞 Template:FNSの日 Template:平成教育委員会シリーズ Template:日本放送演芸大賞 Template:ビッグ3 (日本のお笑いタレント) Template:Owarai-stub Template:Actor-stub Template:Film-bio-stubbg:Такеши Китано ca:Takeshi Kitano cs:Takeši Kitano de:Takeshi Kitano en:Takeshi Kitano eo:Kitano Takeshi es:Takeshi Kitano et:Takeshi Kitano eu:Takeshi Kitano fi:Takeshi Kitano fr:Takeshi Kitano ga:Takeshi Kitano he:טקאשי קיטאנו hr:Takeshi Kitano hu:Kitano Takesi id:Takeshi Kitano it:Takeshi Kitano kk:Китано, Такеши ko:기타노 다케시 lt:Takeši Kitano mdf:Такеси Китано nl:Takeshi Kitano no:Takeshi Kitano oc:Takeshi Kitano pl:Takeshi Kitano pt:Takeshi Kitano ru:Китано, Такэси sh:Takeshi Kitano sk:Takeši Kitano sl:Takeši Kitano sv:Takeshi Kitano uk:Кітано Такесі zh:北野武

個人用ツール