バンダイ

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株式会社バンダイ(バンダイ、英文社名:BANDAI Co., Ltd.)はバンダイナムコグループ玩具模型既製服(アパレル)・生活用品等を手がけるメーカーである。「変身」を商標登録している。

目次

概要

1950年代

創業者、山科直治の義兄久々津一夫が経営する繊維会社「萬代産業」の玩具製造小会社「萬代屋」として浅草にて創業。「萬代」(万代)とは武経七書の一つに数えられる兵法書六韜」に登場する語の「萬代不易」(永久不変の意)に由来し、創業者の山科直治が「いつの世も人の心を満たす物を作り、絶えない企業の発展を願う」という意味だとしている。

当初は萬代産業の余りの布切れで作った人形を販売。その後、1950年初の自社製品のゴムまり「リズムボール」発売、「B26ナイトプレイン」が50万個以上のヒットになり、これ以降、金属玩具を主力とするようになる。輸出が中心で国内には輸出の余りを販売しており、玩具業界では評判が悪かったが国内向けの玩具開発をてがけるようになる。創業と1960年代当時は、教育のバンダイの言われた。

1960年代

玩具メーカーとしては後発であり旧来の玩具業界から反発が強かった。そこで同じく後発のタカラエポック社と組んで1961年に「玩具三社会」を設立。三社共同の玩具見本市を開催したり、新入社員の研修を合同で行うようになる。後にトミーニチガン学習研究社が加わり「玩具六社会」になる。

1960年代半ばより「クレイジーフォーム」「わんぱくフリッパー」「サンダーバード」などのヒットにより大手に成長する。しかし1968年に提唱した「無返品取引」が「バンダイは返品負担を問屋に押しつけるんだ!」と玩具流通業界の反発にあう。さらに「キャプテンスカーレット」の失敗により、「バンダイ倒産近し」という「黒い噂」が生まれる。そして「黒い噂」と共にバンダイ不買運動が起こる。

こうした騒動は「無返品取引」を撤回し、さらに「キャプテンスカーレット」の売上不振で倒産した今井科学(イマイ)の業務をバンダイが引き継ぐことで終息した。

1970年代

1960年代の失敗の反省から、キャラクター玩具は1971年発足の子会社ポピーに任されるようになった。後にポピーがバンダイに合併されるまではバンダイ本社はほとんどキャラクター玩具を扱っていないため現在のバンダイのキャラクター玩具はポピーが基盤となっている。1970年代にポピーは急成長し、売上でバンダイ本社を抜くようになり、ポピー社員はバンダイ社員の羨望をうけることになる。ポピー誕生は、仮面ライダーを作る際、東映渡邊亮徳と親友の山科誠山科直治と東映とバンダイの関係者と映画監督の深作欣二との間にキャラクター玩具業界進出志したのである。

ポピーは東宝ゴジラシリーズ、スーパー戦隊シリーズ仮面ライダーシリーズメタルヒーローシリーズ等の東映の特撮・アニメ、ウルトラマンシリーズ等の円谷プロの特撮をはじめとした、作品の世界観やキャラクターを使用した玩具・雑貨・既製服などを商品化する「キャラクターマーチャンダイジング」ビジネスを得意としている。ただし、これらの内、バンダイないしポピーが当初から玩具をてがけていたのはスーパー戦隊のみ。

番組企画当初より登場キャラクターのデザイン等への参加および介入することでおよそ1年間の商品販売計画を策定しており、現在のキャラクター玩具ビジネスの基本ラインは、同社のスタイルを踏襲したものが多い。

1967年に経営破綻した模型メーカーのコグレのプラモデルの金型を買い取ったことから本社内に模型部を発足。前述の今井科学の静岡工場と金型と社員を買収して、1971年に子会社のバンダイ模型を設立。静岡県の清水工場を拠点にバンダイ模型が企画開発と生産を行い、本社の模型部が営業と販売を行う体制となる。

旧今井製品の再版を土台にスタートしたため「バンダイは倒産した会社の金型を使っている!」と業界内での評価は悪く、新製品の開発が急がれミリタリーや自動車の模型などを開発する。特に1/48機甲師団シリーズは手頃な価格と内部構造の再現で、1970年代前半は田宮模型の1/35ミリタリーミニチュアシリーズと並ぶ人気商品となる。また1970年代中頃の一時期、米国モノグラム社の販売代理店となり、同社の優れた1/48航空機キットを全国に低価格で供給した。同じ頃東映の大ヒット映画「トラック野郎」の版権を取得し、主人公の乗った11tトラック「一番星」をモデル化。当初得意の1/48スケールの販売だけだったが、後に全長55センチの超大型1/20スケールのものを発売、25年以上経った現在も販売を継続。

1977年冬に発売した宇宙戦艦ヤマトでは1/500、1/700等キャラクター系キットに対する初のスケール表示の導入や、艦首を広げたディフォルメモデル、主役メカだけでなく脇役メカや悪役側メカもシリーズに加えるなどの商品展開のディスプレイキットが大ヒット。それまでゼンマイモーター駆動による「玩具」色が強かったキャラクター系キットがディスプレイキット主体に転換される結果となった。その商品展開は機動戦士ガンダム関連キット(通称「ガンプラ」)に継承されて1980年代以降の爆発的ヒットにつながり、プラモデルの取扱はキャラクター系キットに特化され、数多くのヒット商品を産み出す。

1980年代

1980年に山科直治は35歳の長男山科誠に社長職を譲り会長職に退く。この時期、バンダイグループは玩具業界一に成長しており、山科直治は「勝負はついた」という趣旨の発言をしている。

山科誠は出版社の編集者を志望していたが、その志望が叶えられなかったことと前述の「黒い噂」の時期であり山科直治が「長男を入社させるくらいだからバンダイは大丈夫なんだ」とアピールするため バンダイに入社。このため玩具事業には興味を持たず、文房具、アパレル、菓子、映像、音楽、パソコン、アミューズメントなど事業の多角化に進むことになる。これは表面上は少子化で玩具事業の成長が見込めないためとされたが、山科誠が玩具事業にいる古参社員を煙たがったためともされている。

一方、1980年代の玩具業界は成長が頭打ちになり、限られたパイを巡って競争が激化、前述の「玩具六社会」は1984年に解散。その中でゲーム会社は急成長し任天堂セガはバンダイの売上を追い抜く。

この流れに対応し1980年代中盤には独自のテレビゲーム機の販売を行うもファミリーコンピュータ(ファミコン)をはじめとする他社ハードのサードパーティーとしてソフトの製造・販売を手がけるようになる。「なぜ、ファミコンをするのか?」と言われたものの、ファミコン参入第1弾「キン肉マン マッスルタッグマッチ」のヒットで軌道に乗る。

1982年にガンプラの販売において「ヤミ再販」(メーカーが価格を決め、流通業者にそれを守らせること)と「抱き合わせ販売」(ガンダム以外の商品も買わないとガンダムを売らない)を行い守らなかった場合には出荷停止を行ったことから独占禁止法違反にあたるとしてバンダイとポピーが公正取引委員会の立入検査を受ける。1983年に公正取引委員会のヤミ再販排除の勧告を受諾する。しかしもう一つの問題である「抱き合わせ販売」は不問となる。

1983年に株式上場に向けバンダイ本社を存続会社としてグループ8社の合併を行う。

1986年に玩具メーカーとして初めて東証2部上場を果たす。これにより社員たちの中にあった「所詮、俺たちは下町のおもちゃメーカーじゃないか」という卑下する気持ちが払拭できたとある。

なお山科直治は第二次世界大戦で中国に出征しており、「戦時中の贖罪」として1985年に中国福建省に日中合弁会社・中国福萬(福建)玩具有限公司を設立。ビジネス上の狙いとしては、円高で日本国内での玩具製造のコストが上がったため、円高の影響がない中国で製造しようということである。これ以降、バンダイは海外生産の比率を上げていくことになり、現在では9割が海外生産である。

1989年の第39回創立記念式典で山科誠は「バンダイランド」の構想を語る。これはディズニーを手本としたレジャー施設の構想である。また多角化を一層押し進め、玩具会社から脱皮し、ディズニーのような総合エンタテインメント企業を目指すことも語られた。この「日本のディズニー」という目標は現在のバンダイでも継承されている。

1989年に提携していたコアランドテクノロジー株式会社を子会社化し、商号を株式会社「バンプレスト」に変更。杉浦幸昌が初代社長になった。ただしこの際に、人的に相当な流出入の変化があったため、バンプレストとコアランドテクノロジーの関係は法人格を引き継いだだけの関係にすぎないと捉える向きもある。

1990年代

前述のようにゲーム機で任天堂やセガに後れをとったと考えたバンダイは1996年にピピンアットマークを販売する。しかしこのピピンの失敗、同時期の玩具事業の不振、スーパーファミコン用ソフトの不振、さらに海外でのパワーレンジャーの失敗が1996年のバンダイに一斉に襲いかかり、1997年3月期の連結決算は上場以来初の赤字となる見通しになった。

こうした経営不振から1997年、セガとの間で「セガバンダイ」として合併を行うと発表された。これに関してセガの中山社長は「ピピンが成功していたら合併はなかったろう」としている。逆にセガとしてはセガが弱い低年齢向けのキャラクターで強みがあるバンダイとの合併はメリットがあった。また当時、セガはライバルのSCEにゲーム機戦争で負けつつあり、この合併は「敗者連合」とされた。

しかしたまごっちの大ヒットや、バンダイ社内からの反発も強く構想は破談。ただこの2要素が破談の「決定的要因ではない」としている。

セガの方が企業規模が大きい上に「社風が米国流でドライ」だったため、合理化の名の下にリストラ(解雇)の懸念があったのである。またバンダイ系列の問屋を統合して誕生したハピネットでは存続会社のトウショウ社員ばかりが優遇されていた「ハピネットの悪夢」も強く想起され、合併の存続会社がセガである以上、リストラされなかったとしてもバンダイ社員は不遇になると思われた。さらに、かつてのバンダイでは考えられなかったが、一流上場企業の社員としての誇りが「セガバンダイ」の名前に強く反発した。また合併反対派が山科直治を取り込んだことも影響した。

この時の責任を取り、山科誠は社長職を辞任し会長に退くも後任の茂木隆は山科誠派で、「山科体制」は維持された。

セガとは合併破談後も業務提携が続けられしばらくの間、セガのゲーム機向けのソフトを優先的に開発することとなる。

ピピンの事業はその後も続けられたが1998年に撤退、同事業をてがけていたBDE(バンダイ・デジタル・エンタテインメント)は解散する。これに伴った特別損失270億円を計上。このためたまごっちのヒットにより1998年3月期の連結決算は2882億円と過去最高だったにも関わらず、単独決算では赤字に転落する。

さらにたまごっちのブームの終息を見極められず、大量の在庫を抱えてしまい、1999年3月期では単独決算、連結決算ともに赤字になる。単独決算は2期連続の赤字である。この責任を取り、茂木隆は退職。山科誠も名誉会長職に退き、「山科体制」は崩壊した。

1999年に山科誠が推進した多角化を放棄し、赤字事業を清算するためバンダイ入社三年目の高須武男が社長に就任。高須が「泥をかぶった」形で事業の整理が始まる。彼の就任中に音楽、映像、海外販社などの事業が撤退ないし縮小することになる。玩具事業に不慣れな高須武男を山科直治時代からの「大番頭」である杉浦幸昌が会長職から支援した。

2000年代

2002年に長さ方向の寸法を短縮したNゲージサイズのショーティーモデルの塗装済みキットである「Bトレインショーティー」を発売。同様の鉄道模型に近い商品としてNゲージと同じスケールで先頭車両をリアルに再現した食玩「スタートレイン」やレール幅がZゲージより小さい電池駆動のスケールモデルZZ TRAIN」も「Bトレインショーティー」と前後して発売されている。

2003年、ドラえもんをモデルにした実物大ロボットの開発プロジェクトを開始。「リアル・ドリーム・ドラえもん・プロジェクト」と名づけられ、2010年の製品化を目指している。プロジェクト第1弾として、小型(高さ265mm)の「ドラえもん・ザ・ロボット」を2004年に発売した。<ref>ただし2009年発売の「My ドラえもん」発売を以ってプロジェクト自体は終了しており、リアルドラえもん発売の予定は立ち消えになっている。「リアル・ドラえもん・プロジェクト」ってどうなったの!?‎日刊サイゾー 2010年3月26日</ref>

2003年3月期の連結決算で営業利益と経常利益が過去最高を達成。

2003年、杉浦幸昌は定年65歳の内規に従い会長職を辞した。彼の引退を記念して以前社長を勤めたバンプレストの本社があった千葉県松戸市にあるビルを改装。バンダイミュージアムとして開館。前述の「バンダイランド」の構想を持っていた同社としては不満の残るものだったものの、ガンダムの世界観に基づいたバーを営業する等、愛好家に好評を博した。2006年8月31日に惜しまれつつ閉館。2007年4月28日、栃木県壬生町におもちゃのまちバンダイミュージアムとして装いも新たに開館。

また、文化事業にも熱心なところを見せ、バブル崩壊後、各社が活動を縮小する中で、世界有数のトイ・コレクションを藤田文化財団から譲り受け、軽井沢ワールドトイミュージアム(現在閉館)や、栃木県壬生町の新バンダイミュージアムで公開している。同ミュージアムでは19世紀の蒸気機関模型や20世紀初頭の炭鉱模型が展示されている。また、バンダイミュージアムでは玩具だけでなく、エジソンの発明品が一堂に展示されている。

2004年4月、本社ビルを現在の場所へ移転する。また、新社屋のエレベーターは4基あり、それぞれバンダイが商品化しているキャラクターの声(プリモプエル仮面ライダー1号アンパンマン機動戦士ガンダムアムロ・レイ)がアナウンスするというユニークな作りになっている。

2005年9月、それまで業務提携などを行ってきたナムコと共同で持株会社を設立し経営統合。前述の高須武男の手腕により「経営は万全」とした上での統合である。持株会社バンダイナムコホールディングスの子会社となった。この経営統合で誕生した総合アミューズメント(AM)事業グループバンダイナムコグループは、現在AM業界では任天堂、セガサミーグループに次ぐ第3位の事業規模を誇る。

「セガバンダイ」の時と違い、「バンダイナムコ」の名前に対する反発はほとんどなかった。

画像:Bandai-Shizuoka.jpg
バンダイホビーセンター(静岡市)
2006年3月1日、旧イマイ時代からプラモデルを生産していた静岡市清水区の静岡ワークスから静岡市葵区の新工場に移転し、「バンダイホビーセンター」として稼動を開始。開発・設計・金型・生産という、ガンプラに関わる営業とプロモーション以外の分野をまとめて担当し、開発から生産までを施設内に一括することで、生産効率と品質の向上が図られている。

2006年3月31日、バンダイナムコグループの事業再編の一環として、家庭用ビデオゲーム事業部門をナムコを母体としたゲーム事業部門「バンダイナムコゲームス」へ統合(旧・バンダイゲーム事業部門が手がけるゲームは、当面「バンダイ」ブランドで発売する)。バンダイは主にトイホビー事業専門の会社組織となった。

2006年6月には、ウィルコムW-SIMを使い、子供向けPHS、「キッズケータイpapipo!」を発売した。1997年発売の「たまぴっち」以来のPHS端末の発売であり、これまで発売してきた「メルプチ」の発展版になる。

2008年4月1日、バンダイナムコゲームスがバンプレストを吸収合併しゲームソフト事業とアミューズメント機器事業を継承、プライズ事業(UFOキャッチャーなどの景品の開発・販売)は新会社バンプレストを設立し継承。

日本国外での展開

バンダイグループは日本国外において、現地の人気キャラクターを盛んに玩具化し、「新 キャプテン・スカーレット」や「バットマン」、「ベン10」などの玩具が現地の子会社を通じて発売されている。

「日本人がアメリカに自社ブランドで売り込みに来るのは生意気だ」という風潮があったため(マテルハズブロなどの下請けの話はいくらでもあったそうである)バンダイブランドは当初、アメリカのバイヤーに相手にされず『パワーレンジャー』のヒットまで「死屍累々」としている。また「(フランスでは)日本のフィルムをアテレコでフランス語に変えただけで浸透したんです。それがアメリカでは通用しない」らしく、アメリカでは『パワーレンジャー』が最終的な解決策だったそうである。ちなみに「日本のテレビアニメをヨーロッパに最初に導入したのはバンダイ」とある。

1990年代にスーパー戦隊シリーズを日本国外向けにした作品である「マイティ・モーフィン・パワーレンジャー」の玩具をアメリカを始めとする日本国外で発売し、大成功を収め、以後、パワーレンジャーシリーズの玩具を毎年、発売している。

2000年代以後はそれらに加えて、現地のキャラクターをアニメ化して展開し、アメリカでは「ストロベリーショートケーキ(Strawberry Shortcake)」(アメリカングリーティング社が開発したグリーティングカードのキャラクター)、ヨーロッパでは「ベルフラワーバニーズ(The Bellflower Bunnies)」(フランスの絵本)などをアニメ化している。

「マイティ・モーフィン・パワーレンジャー」の成功に合わせて、ガンダムシリーズなどの日本のキャラクターの玩具も日本国外で発売を行っている。

沿革

  • 1950年 山科直治が萬代屋を創設し、社長に就く。
  • 1961年 社名をバンダイに変更。
  • 1961年 バンダイ、タカラ、エポックで「玩具三社会」設立。
  • 1963年 バンダイ運輸を設立。
  • 1963年 玩具三社会にトミー工業とニチガンが加わり、「玩具五社会」になる。
  • 1963年 バンダイ初のテレビキャラクター商品鉄腕アトムを発売。
  • 1967年 経営破綻した模型メーカーのコグレの製品金型を買い取って模型市場へ参入。
  • 1967年 玩具五社会に学習研究社が加わり「玩具六社会」になる。
  • 1969年 経営不振に陥った模型メーカーの今井科学の工場と金型を譲り受ける。
  • 1970年 ジャパン・トンカ設立。
  • 1971年 キャラクター玩具メーカーとしてポピー(現:バンダイ・ボーイズトイ事業部)設立。
    その後系列のユタカが2001年に社名をポピーに変更したが、2007年にプレックスに吸収され再度ブランドが消滅している。
  • 1971年 バンダイ模型を設立。
  • 1976年 「うごく絵本」で出版事業に進出。
  • 1978年 バンダイ出版設立。ウルトラシリーズの商品ライセンスを獲得。ウルトラマンの関連グッズが大ヒット。
  • 1978年 玩具自動販売機事業に進出。
  • 1980年 山科直治が会長に退き、長男の山科誠(現:日本BS放送社長)が社長に就任。プラスチック製のガンダムプラモデル(ガンプラ)を発売し大ブームになる。
  • 1980年 ジャパン・トンカをマミートに名称変更。
  • 1981年 玩具菓子事業に進出。
  • 1981年-1982年 世界各国に相次いで支社を設立する。
  • 1982年 マシンロボ発売。エモーション ビデオ課設立(後のバンダイビジュアル)。
  • 1983年 バンダイを存続会社として、ポピー、バンダイ模型、バンダイ工業、バンダイオーバーシーズ、マミート、セレンテ、バンダイ出版の7社を吸収合併した新生バンダイがスタート。これをきっかけにしてコーポレート・アイデンディティー(CI)と、キャッチコピー「夢・クリエイション 楽しい時を作る企業(メインスポンサーにおける提供時の読み)」を掲げる。AE企画(Account Executive Planning、後のバンダイビジュアル)設立、バンダイの映像ソフト販売代理店になる。
  • 1983年 アパレル事業部を設立。
  • 1984年 ビデオ課がネットワーク フロンティア事業部として分社化。
  • 1984年 玩具六社会、解散。
  • 1985年 ファミコンソフト『キン肉マン マッスルタッグマッチ』がミリオンセラーを記録。
  • 1985年 中国福建省に日中合弁会社・中国福萬(福建)玩具有限公司を設立。中国市場に進出。
  • 1986年 東証2部に上場。資本金107億9600万円。ファミリートレーナーを発売。
  • 1986年 『子象物語 地上に降りた天使』で映画分野に進出。
  • 1986年 マテル社との共同出資でマーバ・コーポレーションを設立。バービーを販売。
  • 1987年 ウォルト・ディズニー・カンパニーと映像ソフト販売契約を結ぶ(1989年に契約終了)。聖闘士星矢クロスシリーズがヒットする。
  • 1987年 タイに合併会社BANDAI AND K.C.CO.,LTD.を設立。
  • 1987年 ミサワホーム日本公文教育研究会と共同で小型コンピューターの開発会社「コンピュータープレゼンス」を設立。
  • 1988年 東証1部に上場。ネットワーク フロンティア事業部を吸収し、メディア事業部が発足。
  • 1988年 「森は生きている/12カ月のニーナ」でミュージカル事業に進出。
  • 1989年 AE企画がバンダイビジュアル販売と社名を変更。北野武監督のデビュー作『その男、凶暴につき』を制作。以降全ての北野作品に関わっている。
  • 1989年 バンダイ牧場開設。
  • 1990年 文化放送からレコード会社、アポロン音楽工業を譲受し『株式会社アポロン』に社名変更
  • 1991年 バンダイビジュアル販売がバンダイビジュアルと社名を変更。
  • 1991年 ハピネット設立。
  • 1992年 メディア事業部の映像ソフト事業をバンダイビジュアルに統合。
  • 1992年 バンダイ運輸をバンダイロジパルに社名変更。
  • 1994年 サンライズがグループ企業となる。
  • 1995年 米国に慈善事業であるThe Bandai Foundationを設立
  • 1996年 ピピンアットマーク、たまごっち発売、ウルトラマンシリーズのTV放送&映画メディアの復活、TVシリーズのウルトラマンティガ、映画のウルトラマンゼアス大ヒット。
  • 1996年 バンダイ・シンガポール設立。
  • 1996年 株式会社アポロンをバンダイ・ミュージックエンタテインメントに社名変更(その後2000年に解散、音源はエモーションミュージックが管理)
  • 1997年 ハイパーヨーヨーデジタルモンスターを発売。
  • 1997年 たまごっちの爆発的ヒットにより多くの人々の労働時間を空費させることができたことに対して、企画・開発元のウィズと共同でイグノーベル賞の経済学賞を受賞。
  • 1998年 たまごっちが社会現象にまでなり売上高を大幅に伸ばしたが、機を逸した大増産で供給過多に陥り、ピピンアットマークの販売不振も重なったことで126億円に上る損失を計上し上場以来初の赤字となる。
  • 1999年 高須武男(三和銀行・現三菱東京UFJ銀行出身)が社長に就任。携帯ゲーム機ワンダースワンを発売。
  • 2000年 ワンダースワンカラーを発売。
  • 2000年 キャラクター研究所を設立。
  • 2000年 セイカノートがグループ会社になる。
  • 2001年 葦プロダクション(現: プロダクション リード )がグループ企業となる。※現在は資本関係を解消。
  • 2002年 ツクダオリジナル(現:パルボックス)がグループ企業に、出撃!マシンロボレスキューとしてマシンロボ復活。
  • 2002年 ガンダムコレクション(1/400統一スケールガンダムシリーズ)発売。
  • 2002年 キャラクター研究所が開発した第1号キャラクター『くまのがっこう』の絵本がブロンズ新社から出版される。
  • 2002年6月 iモード開発者の松永真理社外取締役に迎える。
  • 2003年 実物大のロボット、ドラえもんの開発を開始(上記参照)。
  • 2003年 バンダイ初のミュージアム施設『バンダイミュージアム』設立。
  • 2004年 本社ビルを移転する。
  • 2004年 「ドラえもん・ザ・ロボット」を発売。
  • 2004年 子会社のバンプレストが遊園地浅草花やしき」を当時の運営会社トーゴから譲受。
  • 2005年 現社長・上野和典就任。ピープルが株式公開(JASDAQ証券取引所に株式上場)を契機に、資本提携を行いグループ会社入りへ。ナムコと共同持株会社バンダイナムコホールディングスを設立、経営統合。
  • 2006年 ゲーム事業部門をバンダイナムコゲームスへ統合。たまごっち10周年。
  • 2007年 データカードダス大怪獣バトル ULTRA MONSTERS とたまごっち関連のデータカードダスが大ヒット同時にデータカードダスが定番商品に。
  • 2008年1月 TYOから円谷プロダクションの株式33.4%を取得。
  • 2009年7月 TYOから円谷プロダクションの株式15.6%を取得、持ち株比率49.0%になる。
  • 2010年7月 バンダイ創立60周年

バンダイによるアニメ・特撮のゲーム化作品

開発は全て外注。関わったとしても企画あたりまで。

アニメ

特撮

ゲームのアニメ化作品

主な商品

かつて販売していた商品 

関連項目

参考文献

脚注

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外部リンク

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