ハイセイコー

出典: Wikipedio


Template:競走馬 ハイセイコー日本競走馬である。競馬ファンのみならず国民的な人気を集め、「第一次競馬ブーム」「ハイセイコーブーム」と呼ばれる一大社会現象を巻き起こした。1984年JRA顕彰馬に選出。

目次

生涯

誕生

1970年北海道日高支庁新冠町の武田牧場で誕生。誕生したとき見るからに丈夫そうな体つきをしており、牧場関係者が赤飯を炊いて祝ったほどであったという。間も無く日高の競走馬生産者の間でも高い評判を得るようになった。

血統・血統表

父のチャイナロックはハイセイコーの誕生までにもタケシバオー1969年天皇賞(春)優勝)、メジロタイヨウ(1969年天皇賞(秋)優勝)、アカネテンリュウ(1969年菊花賞優勝)と3頭の八大競走優勝馬を輩出し、1973年には中央競馬のリーディングサイアーを獲得した種牡馬である。

母のハイユウは競走馬時代に地方競馬(南関東)で16勝を挙げ、内3回はレコードタイムを記録した快速馬であった。祖母ダルモーガンは大井競馬場が競走馬用に輸入した「豪サラ」の1頭である。

ハイセイコーの競走馬としての生き様は、地方競馬出身の野武士が単身で中央競馬エリート集団に挑んだという構図で語られることが多いが、中央競馬の馬と同様に、血統的にはハイセイコーもまた当時の良血(エリート)であった。母の弟にオオクラ(春の天皇賞2着)も居る。

ハイセイコーは父母から高い能力や特徴を受け継いでいるが、これは相性が悪いとされているハイペリオンネアルコの組み合わせである。

Template:競走馬血統表

競走馬生活

※本馬の現役時代の背景を考慮し旧表記(数え年)にて記載

3歳時(1972年)

1972年7月12日大井競馬場でデビューし、6連勝。その内容は、常に2着馬に7馬身以上の着差をつける圧勝で、初戦と4戦目はレコード勝ち。いずれのレースにおいても騎手が本気で追うことは無かったという。青雲賞というレースに勝った(1600メートル)ことから、現在は同馬を顕彰しハイセイコー記念という名称に替わっている。

4歳時(1973年)

1973年1月12日、ホースマンクラブに5000万円で購入され、中央競馬への移籍が決定。同月16日に鈴木勝太郎厩舎へ入厩した。移籍の経緯については諸説あり、日刊競馬は初めから予定されていたものであったとする。<ref>前掲「日刊競馬で振り返る名馬」参照</ref>。また作家の赤木駿介は、ホースマンクラブの代表者が大井競馬の関係者から、条件次第ではハイセイコーを購買できるという噂を聞きつけたのがきっかけとなったとしている。

陣営は、移籍初戦として東京競馬場で行われる東京4歳ステークスに出走出来るものならしたかったが、当時の中央競馬には『地方から移籍した競走馬は移籍後1ヶ月間レースに出走する事が出来ない』というルールがあった為に出走は不可能であり、弥生賞への出走を決定した。

弥生賞・スプリングステークス・皐月賞
弥生賞では1番人気に応える形で勝ったものの、レース内容は地方在籍時のような圧倒的なものではなく、後位からじりじりと伸びるというものであった。レース中の反応も悪く、騎手の増沢末夫は敗戦を覚悟したと言う。弥生賞の内容に不満を覚えた陣営は、中2週で3月25日スプリングステークスに出走させた。しかし、ここでも勝ちはしたものの、期待するほどのパフォーマンスを見せる事は出来なかった。2走とも上がり3ハロンが39秒台という事が落胆させる材料ともなった。
厩舎関係者によると、弥生賞・スプリングステークスおいてハイセイコーが苦戦した原因は、馬場(ダートと)の違いに適応しきれていなかった事。そしてハイセイコーの「ハミ受け」(ハミのくわえかた)が悪かった事だという。しかし皐月賞前までにハミ受けの矯正に成功し、4月15日の皐月賞に臨んだ。レースでは序盤は好位を進み、第3コーナーで早くも先頭に並びかける積極的な戦法をとりクラシック初戦に勝った。
NHK杯・東京優駿
皐月賞勝利後は5月27日東京優駿(日本ダービー)が目標となった。しかしその前に東京競馬場で行われるトライアルNHK杯に出走する事となった。ハイセイコーには日本ダービーが行われる東京競馬場での出走経験が無く、後述のように初めての場所で物見をする癖があったため、スクーリングのためにNHK杯に出走しておこうと考えたからである。前述のルールにより、東京競馬場を経験出来なかった事がここに来て響いてきたのである。
レースでは終始インコースに閉じ込められて中々抜け出す事が出来なかったが、ゴールまで200mを切った地点から鋭い伸びを見せ、ゴール手前でアタマ差抜け出してカネイコマ(皐月賞2着)、ディクタボーイ、サンポウらをまとめて交わし、かろうじて勝利を収めた。
しかし、苦戦しながらも『並みの馬なら負ける所を勝った』と専門家によって高く評価され、日本ダービーでは圧倒的な1番人気<ref>単勝支持率66.7%。これは2005年ディープインパクトが73.4%という支持率を出すまで日本ダービーにおける最高記録であった。</ref>に支持された。レースでは第3コーナーで早くも前方への進出を開始し、直線で一時は先頭に立ったものの、タケホープ、更にはイチフジイサミに相次いで差され、勝ったタケホープから0.9秒離された3着に敗れた。『レースに使われ続けたことで疲労が蓄積していた』『増沢騎手が早くスパートさせすぎた』『人気があり過ぎて大胆な追い込み作戦がとれなかった』等(増沢自身は一番後者の説を自著で主張している。)敗因について様々な推測を生んだ。また、血統論者からは、母の父が短距離血統のカリムだから距離適応の限界が露呈したという見方が多く示された。
なお、調教師の鈴木は厳しいローテーション、血統による距離の限界の可能性を認めた上で「左回りが苦手だった」ことを敗因の1つに挙げている。また、優勝したタケホープに騎乗した嶋田功は「単にローテーションが詰まっていただけでなく、無敗で来ていたので出るレースすべて勝つつもりで仕上げなければならなかったはず。それが疲労につながったのでは」と語っている。
鈴木康弘調教師(当時は調教助手)はダービーの3週間前に鈴木勝太郎調教師の自宅にダービー当日にハイセイコーにいたずらをしてやるという脅迫文が届いていたことを明らかにした<ref>東京スポーツ2010年5月27日号</ref>しかし鈴木氏ははハイセイコーは万全の体調で出走させたことに悔いはなかったとコメントしている<ref>東京スポーツ2010年5月27日号</ref>
京都新聞杯・菊花賞・有馬記念

夏場は北海道へ移送せず、東京競馬場で調整されることとなった。北海道の調教コースは半径が小さかったため大型馬のハイセイコーが足を痛める危険があり、また涼しい北海道から本州へ移送する際に暑さで参ってしまう可能性もあったからである。

9月18日、クラシック最後の一冠である菊花賞を目指し、前哨戦である京都新聞杯に出走させることが決定し、関西へ向けて出発。輸送中、調教師、調教助手厩務員の3人がともに馬運車に乗り込むという異例の体勢で輸送された。

10月21日に行われた京都新聞杯では1番人気に支持されたがトーヨーチカラの2着。陣営はハイセイコーの道悪馬場適性に出走前まで疑問を持っていたため、道悪であったが馬場の外目を通って差すことを選択したが勝ち馬には届かない格好となってしまった。敗れたものの休養明けで久々のレースであったため陣営はこの結果を悲観しておらず、11月11日の菊花賞に出走。先行して直線入り口で最内を走り、馬場の中央を伸びたタケホープと内外大きく分かれて殆ど同時のゴールインだった。結果、ハナ差の2着に惜敗した。その差は僅か13cmという。敗戦を惜しんで「2分の1ハナ差負け」と言った者もいた。

12月16日有馬記念にはタケホープが出走せず、ハイセイコーは古馬を差し置いて1番人気に支持された。レースはハイセイコーとタニノチカラが互いを牽制しあう展開となったために2頭よりも前方でレースを進めたストロングエイトニットウチドリ(同年の桜花賞ヴィクトリアカップ優勝馬)に有利な展開となり、ハイセイコーは2頭を捉えることができず、3着に敗れた。

この年、ハイセイコーは競馬ファンのみならず一般社会をも巻き込んだブームの立役者となったことが評価され、優駿賞(現在のJRA賞)の「大衆賞」(現在のJRA賞特別賞に相当)を受賞した。ちなみにこの年の年度代表馬はタケホープが獲得した。

5歳時(1974年)

  • 1974年1月20日アメリカジョッキークラブカップに出走。タケホープに2.1秒引き離され、生涯最低着順の9着に敗れた。タケホープ出走を聞きつけて、急遽参戦したとも言われている。
  • 3月10日中山記念に出走。不良馬場の中、トーヨーアサヒに2.0秒、タケホープに2.2秒差をつけ優勝した。
  • 5月5日天皇賞(春)に出走。同競走に備えてハイセイコーは4月初頭に栗東トレーニングセンターへ輸送され、体調は非常に良好であったが、レースが行われる予定の週に厩務員がストライキを起こし、レースの施行日が一週間延期された。その間に体調を崩してしまい、結局レースはタケホープが勝ち、ハイセイコーは1.0秒差の6着に敗れた。
  • 6月2日宝塚記念に出走。デビュー以来始めて単勝1番人気をストロングエイトに明け渡したものの、レコードタイム(2分12秒9)を記録して2着に5馬身差で圧勝した。陣営はこのレースにタケホープが出走していなかった事を悔しがり、「タケホープには出せないレコードタイムだ!」と、テレビインタビューで豪語していた。なお、このレコードはメジロライアン1990年に更新するまで保持されていた。
  • 同月23日、高松宮杯に出走。管理調教師・鈴木勝太郎の息子で当時調教助手であった鈴木康弘(現・調教師)によると、当初は東京競馬場へ帰り休養に入る予定であったが、体調が良かったため名古屋のファンへ顔見せをするために出走に踏み切ったという。61キロの斤量を克服し、アイテイエタン以下に快勝した。
  • 高松宮杯出走後は東京競馬場で休養に入り、秋初戦は10月13日京都大賞典に出走。2番人気の4着に終わった(1着はタニノチカラ)。続いて天皇賞(秋)に出走予定であったが、11月9日のオープン戦でヤマブキオーの2着した後に鼻出血を発症したために1ヵ月の出走停止処分が下され、出走を断念した。この事はNHKのニュースでも報じられている。このオープン戦ではタケホープ(3着)に先着している。
  • 12月15日、引退レースの有馬記念に出走し2着。調教助手が認める程の調整の失敗があり、最も重い540キロの太め残りで参戦し、辛うじて連対を果たした。優勝馬はタニノチカラ。なおこの時、八大競走の中では初めてタケホープにクビ差で先着。史上初の生涯獲得賞金2億円馬となった。レースはタニノチカラの独走だったが、フジテレビはハイセイコーをずっと追い続け、増沢の歌う『さらばハイセイコー』を挿入歌として放送するなど、レース放送としては極めて特殊な構成となっていた。

競走馬引退後

有馬記念を最後に競走馬を引退し、翌1975年1月6日東京競馬場で引退式が行われた。通常は最後の直線を500mほど走らせるところを、調教師の判断でコースを一周させた。その際主戦を務めた増沢末夫騎手を落馬させるやんちゃぶりを披露した。翌7日、種牡生活を開始するために北海道新冠町へ向けて出発。出発時には60人あまりのファンが見送りのために厩舎を訪れ、馬運車には「ハイセイコー輸送中」と書かれた横断幕が貼られた。

ハイセイコーが種牡馬入りした当時、内国産馬牡馬種牡馬として冷遇される傾向が非常に強かったが、そうした風潮の中で活躍馬を数多く輩出し、1990年には地方競馬のリーディングサイアーとなった。 (種牡馬としてのハイセイコーの詳細については種牡馬としてのハイセイコーを参照

顕彰馬に選出

1984年には競馬の殿堂顕彰馬に選定された。顕彰馬選考委員会の一員として顕彰馬選出に関与した大川慶次郎は、競走成績だけをみると顕彰馬の中では一枚落ちるものの、種牡馬成績の良さと、何より競馬人気の向上に大きく貢献した点を評価したとしている。

晩年

画像:Tomb of Haiseiko.jpg
ハイセイコーの墓(ビッグレッドファーム明和)

種牡馬引退後は北海道新冠町の明和牧場で余生を過ごしたが、2000年5月4日、心臓麻痺により死去した。このとき増沢は、偶然所用で北海道に来ており、訃報を聞いてすぐに駆けつけたという。墓は最期を迎えたビッグレッドファーム明和(1998年に明和牧場を買収して開業)にあり、その墓碑には「人々に感銘を与えた名馬、ここに眠る」と記されている。今も献花に訪れるファンは多い。

死後、道の駅サラブレッドロード新冠(新冠町)・中山競馬場・大井競馬場には銅像が建立され、ハイセイコーの大井競馬での出世レースであった青雲賞は、2001年より『ハイセイコー記念』と改称された。また、2000年8月には「さらばハイセイコー」が追悼版CDとして再発売された。なお、2001年以降毎年命日(5月4日)に北海道新冠町で「ハイセイコーフェスティバル」が開催されていたが、町の行政予算の関係で2004年度から当面中止されることになった。

2004年2月にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」として「ハイセイコーメモリアル」が中央初出走となった中山競馬場で施行された。

競走成績

年月日 競馬場 レース名 人気 着順 距離(m) 斤量(kg) 馬場 タイム 着差 騎手 勝ち馬/(2着馬)
1972.7.12 大井 未出走 (1) 1 ダ1000 53 59.4 8 辻野豊 (ジプシーダンサー)
7.26 大井 53万上 (1) 1 ダ1000 53 1.00.5 16 福永二三雄 (セツテベロナ)
9.20 大井 秋草特別 (1) 1 ダ1200 54 1.12.4 8 福永二三雄 (ジプシーダンサー)
10.9 大井 ゴールドジュニア (1) 1 ダ1400 54 1.24.9 10 福永二三雄 (ゴールドイーグル)
11.11 大井 白菊特別 (1) 1 ダ1400 56 1.24.9 7 高橋三郎 (カヤエイコウ)
11.27 大井 青雲賞 (1) 1 ダ1600 54 1.39.2 7 高橋三郎 (トサエンド)
1973.3.4 中山 弥生賞 (1) 1 芝1800 55 1.50.9 1 3/4 増沢末夫 (ニューサント)
3.25 中山 スプリングS (1) 1 芝1800 56 1.51.0 2 1/2 増沢末夫 (クリオンワード)
4.15 中山 皐月賞 (1) 1 芝2000 57 2.06.7 2 1/2 増沢末夫 カネイコマ
5.6 東京 NHK杯 (1) 1 芝2000 56 2.02.3 増沢末夫 (カネイコマ)
5.27 東京 東京優駿 (1) 3 芝2400 57 2.28.7 0.9 増沢末夫 タケホープ
10.21 京都 京都新聞杯 (1) 2 芝2000 57 2.08.4 0.1 増沢末夫 トーヨーチカラ
11.11 京都 菊花賞 (1) 2 芝3000 57 3.14.2 0.0 増沢末夫 タケホープ
12.16 中山 有馬記念 (1) 3 芝2500 54 2.36.6 0.2 増沢末夫 ストロングエイト
1974.1.20 東京 AJCC (1) 9 芝2400 58 2.29.6 2.1 増沢末夫 タケホープ
3.10 中山 中山記念 (1) 1 芝1800 58 1.52.1 大差 増沢末夫 (トーヨーアサヒ)
5.5 京都 天皇賞(春) (1) 6 芝3200 58 3.23.6 1.0 増沢末夫 タケホープ
6.2 京都 宝塚記念 (2) 1 芝2200 55 2.12.9 5 増沢末夫 (クリオンワード)
6.23 中京 高松宮杯 (1) 1 芝2000 61 2.00.4 1 1/4 増沢末夫 (アイテイエタン)
10.13 京都 京都大賞典 (2) 4 芝2400 62 2.30.3 0.7 増沢末夫 タニノチカラ
11.9 東京 オープン (1) 2 芝1800 60 1.50.0 0.3 増沢末夫 ヤマブキオー
12.15 中山 有馬記念 (3) 2 芝2500 56 2.36.7 0.8 増沢末夫 タニノチカラ

(レース名の赤字は八大競走、青字は重賞。タイムの赤字はレコードタイム) 通算22戦13勝(地方競馬6戦6勝、中央競馬16戦7勝)

主な勝ち鞍(太字は当時の八大競走)
  • (GI相当)- 皐月賞、宝塚記念
  • (GII相当)- 弥生賞、スプリングステークス、NHK杯、中山記念、高松宮杯
  • (地方G2相当)- 青雲賞(大井)

受賞

優駿賞大衆賞(1973年)

ハイセイコーブーム

ブームの推移

競馬マスコミは中央移籍当初からハイセイコーを「怪物」「地方出身の野武士」と評し、その人気を煽り立てた。なぜそうしたのか、日刊競馬解説者の吉川彰彦2005年の時点で「今思ってもやはり不思議」であると述懐している。また赤木駿介は、当時のマスコミは既に選手としてのピークを超えていた長嶋茂雄にかわるスポーツ界の新たなヒーローを探しており、まず競馬界が注目され、スターホース候補としてハイセイコーに白羽の矢が立ったためだとしている。また、集団就職などで地方から上京し、都会で働いていた者たちには、地方競馬から出てきて中央競馬の一流馬たちに戦いを挑むハイセイコーに自身の姿を投影する者が多く、これがブームの根底を支える事になったとも言われる。

NHK杯でデビュー以来無敗の10連勝を達成すると全国的な知名度と人気を獲得。「競馬を知らない者でもハイセイコーの名は知っている」と言われた。また「東京都ハイセイコー様」という宛て先だけで鈴木厩舎まで郵便物が届く程であった。この時期には競馬専門誌やスポーツ新聞ばかりでなく一般の新聞雑誌もハイセイコーの特集記事を掲載するようになってゆく。挙げ句には馬券を買えない少年層をメインターゲットとする『週刊少年マガジン』の表紙までをもハイセイコーの顔写真が飾った<ref>週刊少年マガジン1973年6月17日号(26号)。</ref>。これは写真・漫画イラストを問わず、競走馬が少年漫画雑誌の表紙を飾った最初の事例である。

東京優駿に敗れたことで、一般メディアの取材攻勢は沈静化し、ハイセイコーブームは落ち着きを見せたが、一般社会での人気は相変わらずで、引退まで数多くのマスコミに取り上げられ、またハイセイコーが競走馬を引退した後までも様々な現象を巻き起こした。

また、それまで「競馬は博打」とのイメージが大きかったが、この馬の活躍で競馬ファンが急増し、それとともに「競馬はロマン」と言うイメージが形成され、競馬がカルチャーとしても認知されるきっかけになった。しかしこのハイセイコーブームは引退後は急速に沈静化し、本格的な競馬ブームの到来は1980年代後半に怪物と称されたオグリキャップと、「天才騎手」武豊が相前後してデビューするのを待たなければならなかった。

現象

  • 中央移籍後初戦の弥生賞に出走した際には、12万人の観衆が中山競馬場に来場し、本馬場入場の際にファンがスタンドで後ろから押圧され馬場へこぼれ落ちる騒動が起きた。
  • ハイセイコーが出走したレースのテレビ中継の視聴率はそれぞれNHK杯で20.2%(NHK)、日本ダービーで20.0%(フジテレビ)、9.6%(NHK)を記録した。
  • 日本ダービー当日には朝日新聞紙上で漫画『サザエさん』の題材となった<ref>前掲asahi.comを参照</ref>。
  • 1973年7月にデビューした「スター誕生!」出身の演歌歌手藤正樹には“演歌の怪物” “演歌のハイセイコー”のキャッチフレーズが与えられた。
  • 高松宮杯出走時には中京競馬場に当時の中央競馬非主要6競馬場(函館札幌新潟福島、中京、小倉の各競馬場)に史上最多となる68469人の観客が入場し(同競馬場近くを走る国道1号は大渋滞したという)、パドックでは増沢が「弥生賞以上だった」と後に回顧するほどの熱烈な声援が飛んだ。
  • ハイセイコーの引退直後に増沢末夫がポリドールから『さらばハイセイコー』(小坂巌山田孝雄作詞猪俣公章作曲)をリリースし、約45万枚の売り上げを記録した。
  • ハイセイコーの引退後、明和牧場には多くのファン(赤木駿介によると、1975年はのべ30万人)が訪れ、新冠町はハイセイコーの故郷として全国的に有名になった。新冠町がハイセイコーの名前を冠した農作物を発売すると爆発的な売り上げを記録したという。
  • 1976年8月公開の映画トラック野郎望郷一番星』(監督:鈴木則文。東映)に友情出演し、映画の配給収入は12億2800万円を記録した。
  • ハイセイコーの半弟アアセイコー(父ファラモンド)が種牡馬入り。成績がパッとしないにもかかわらず、ハイセイコーの存在が種牡馬入りの原動力となった。父が、「丈夫さが売りのチャイナロック」ではなく「気性難が売りのファラモンド」ということもあって種牡馬としては失敗に終わった<ref>ただし、そのファラモンド自身は種牡馬としてカブラヤオー、ミスカブラヤ、ゴールドスペンサーなどを輩出した実績のある種牡馬である。</ref>。今となっては、種牡馬名をあいうえお順に並べると、先頭に来るのが最大の特徴となってしまった<ref>アアセイコーは近年の活躍馬の血統にはほとんど名前が残ってはいないが、2004年の川崎記念を制したエスプリシーズの3代父に数少ないその名を見ることが出来る。</ref>。
  • 2007年6月に発売されたMCUのアルバム『A.K.A』に収録されている「1973」という曲に皐月賞 ハイセイコーが楽勝というリリック(歌詞)がある。

ブームがハイセイコーに与えた影響

ブームがピークを迎えた日本ダービー直前期には、鈴木勝太郎の厩舎や自宅に連日多くの報道陣が訪れるようになり、その数は最大で一日30~40人にものぼった。報道も加熱する一方で、ハイセイコーの熱心なファンであった女子中学生をマスコミが鈴木宅に招待して記念撮影をしたり、追い切りを終えて引き上げるハイセイコーを写真に撮ろうとカメラマンが殺到し、驚いたハイセイコーが暴れるなど、行き過ぎた取材も見られるようになった。

また、ファンからの電話もひっきり無しにかかるようになり、鈴木の家族や厩舎スタッフはその応対に追われ、さらに中には脅迫じみた電話もあったために交代で寝ずの番を強いられることとなった。このようなマスコミの取材姿勢に対し、非難の声を上げる競馬関係者もいた。タケホープを管理する稲葉幸夫は、東京優駿の翌日に行われた取材の中で報道関係者に対し、「ハイセイコーが負けたことは、やはりあなた方に責任があるのではないか。」と語り、マスコミを非難した。

またタケホープの騎手であった嶋田功は、ハイセイコーが連勝を重ねる中でマスコミとファンによって「負けてはならない馬」として偶像化されたために、陣営が常に強い調教を課し、レースにおいて全力で走らせることを余儀なくされたことを日本ダービーにおけるハイセイコーの敗因として挙げた。

ハイセイコーブームに対する評価

詩人寺山修司はハイセイコーに関する詩を数多く発表している。ただ、ハイセイコーブームについてはシニカルな見方をしており、『優駿』誌上で発表したダービー観戦記では『裸の王様』を引き合いに出し、ハイセイコーを王様、ブームを煽り虚名を着せたマスコミを詐欺師、タケホープを「王様は裸だ!」と叫んだ子供にたとえた。

評価

客観的評価

  • 右回りの競馬場(中山、京都、大井)に比べ左回りの東京競馬場では成績が悪く(右回り11戦5勝、左回り5戦2勝、東京4戦1勝、中京1戦1勝)、また優勝したレースについても右回りの場合と比べ苦戦する傾向があった。そのため、一般に左回りは苦手であったとされている。手前を変える動作が悪いことと、東京の長い直線が不得手と思われた(後続馬に差される→ダービー・AJC杯)。
  • 2200メートル以下のレースでは15戦13勝2着2回とほぼ完璧な成績であるのに対し、2400メートル以上では7戦0勝2着2回3着2回着外3回と良績を残していない。このことから、同馬は本質的に2000メートル前後の距離を得意とする中距離馬であったと考えられる。
  • タケホープとは9回対戦し、いずれが先着したかでいうとハイセイコーの5勝4敗である。但し、八大競走においてはタケホープの3勝1敗で、しかもタケホープは全て一着である。
  • 東京優駿では全単勝馬券購入額の66.6%がハイセイコーの単勝馬券で占められるという圧倒的な支持を集めた。

マスコミによる評価

  • 弥生賞およびスプリングステークスのレース内容がさほど目立つものでは無かったため、マスコミの評価は二分する事となった。大川慶次郎大橋巨泉が、勝ち方は地味であるものの結果的には連勝している事をもって「シンザンの再来」と肯定的な評価を下す一方、「タイムが速くない」「末脚に見栄えがしない」と否定的な評価を下す論もあった。なお、シンザンの管理調教師であった武田文吾は、シンザンになぞらえてハイセイコーを評価する風潮について、「そもそもクラシックを一つも取っていない馬と五冠馬(シンザンはクラシック三冠を含め八大競走を5勝したため、このように呼ばれる)とを比較するのは間違っている。マスコミが煽るからハイセイコーは異常人気になっている。」と苦言を呈した。
  • NHK杯優勝により、ハイセイコーは地方競馬時代と合わせてデビュー10連勝を達成した。なお、デビュー以来無敗の10連勝はトキノミノル以来<ref>但し、トキノミノルは中央競馬の前身にあたる国営競馬時代での達成である。</ref>であり、この勝利を境に一時はマスコミから「第2のトキノミノル」とも呼ばれた。
  • 京都新聞杯で敗戦を喫した頃から、マスコミはハイセイコーの競走能力に関して冷ややかな見方を示すようになり、特に「アメリカジョッキークラブカップにおいて大敗を喫した際には、マスコミから「落ちた偶像」「ハイセイコーもただの馬」などとこき下された。しかし中山記念に優勝すると一転、「怪物復活」などと賞賛された(マスコミによるこの評価の仕方は、後年のアイドルホースであるオグリキャップでも同様のものが見られた)。
  • 競馬マスコミの中でも血統論者からは、「ダービー・有馬記念・菊花賞・天皇賞はハイセイコーにとって長過ぎた」という評価が多い。理由は母の父にカリムがいるように、母方の血統が短距離指向の構成となっているためである。事実、ハイセイコーが勝った最長距離レースは宝塚記念の2200m。比類なきスタミナとパワーを売りとしたチャイナロック産駒としては珍しいスピード偏重形であった。また、ベストの距離は1600m~1800m戦であったのではないかという見方も根強い。但し、ハイセイコーの時代は重賞体系が現在の様に距離別で細分化されていた訳ではなく、距離の適不適を問わずにまずは八大競走に参戦し、勝利を上げる事こそが競走馬最良の証とされていた時代であった。逆にライバルのタケホープは重厚なステイヤー血統で、長距離レースではこれがものをいった。
    • 敗れこそしたが、ハイセイコーが菊花賞でタケホープと3000mの長丁場で激闘を繰り広げ、着差がハナ差という僅差であったことは、血統論者が指摘していた長距離適性の不足を補うだけの驚異的な身体能力を、この馬は持っていたという事を示したものであった。その為、多くの血統論者がこの菊花賞で「ハイセイコー敗れてなお強し」と評価してこの馬の能力の高さを認める事になった。
    • ハイセイコーの代表産駒であるカツラノハイセイコの母系の血統は、タケホープに負けず劣らず重厚なスタミナ重視型の構成である。これとハイセイコーのスピード能力が絶妙にマッチした事により、カツラノハイセイコはスピード・スタミナの両面に恵まれ、ダービーや天皇賞をといった長距離に勝つと同時に、短距離のマイラーズカップにも勝利している。因みに、当時不受胎が続いていたカツラノハイセイコの母・コウイチスタアの種付け候補には当初タケホープが挙げられていたが、タケホープの父・インディアナの血統面の重さが嫌われ、馬格とスピードを兼ね揃えていたハイセイコーが選ばれたという。

身体・精神面の特徴

  • 鈴木康弘によると、ハイセイコーは夏の暑さに対して非常に強かったという。実際に4歳時5歳時ともに東京競馬場で夏を過ごしたものの、大きく体調を崩すことはなかった。鈴木によると、夏場は大量の水を飲み大量の汗をかいて、新陳代謝が活発なところをみせていたという。その反面、皮下脂肪がつきやすい体質であったために冬場の体調は今ひとつ良くなかったという。
  • 疲労の色をまるで見せない、非常にタフな馬であったとされる。特に機能が非常に優れており、調教やレースで疾走したあともすぐに息が整ったという。
  • 初めて立ち入る場所を強く警戒する(物見をする)ところがあり、周囲の様子を探るそぶりを見せた。これが日本ダービーを前にNHK杯に出走する大きな要因となった。

馬体データ

体長163cm、体高171cm、尻高169cm,胸囲188cm、管囲21.5cm(1974年12月21日測定)

エピソード

  • デビュー前の能力検定でダート800mを当時としては破格の48秒台で走破し、とても敵わないと回避する馬が続出したため、デビュー戦となるはずであったレースが不成立になった。
  • 大井競馬場でハイセイコーの厩務員を務めていた山本武夫はハイセイコーの中央移籍に激しく反発し、移籍が決定した翌日に大井競馬場を去り、金沢競馬場の厩務員となった。大川慶次郎は著書の中で、愛着のある馬と収入<ref>厩務員は担当する競走馬が稼いだ賞金の5%を手にする事が出来る。</ref>を奪われる事となった山本の心情を慮っている。
  • 弥生賞出走時、レース前に勝負鉄(レース用の蹄鉄)を打ったところテンションが高くなった為、以後勝負鉄は早朝に打たれる様になった。また、厩舎サイドはレース前に中山競馬場の芝コースで調教を行う予定を立てていたが、降雨の為に馬場状態が悪化して使用出来なかった。
  • 皐月賞では第4コーナーで進路が外に膨らむ場面があり、レース後増沢は「あれで2馬身は損をした」と語った。
  • 菊花賞において、レースを実況した関西テレビアナウンサーの杉本清は、タケホープがハイセイコーを差し切っていたのが判っていたが、ハイセイコーの生産牧場との二元中継をしていた為、差し切ったとは言わずに「ほとんど同時」と実況した。
  • 1973年11月、ハイセイコーの海外遠征計画が報道された事がある。計画の内容は1974年5月にアメリカ合衆国へ渡り、ワシントンD.C.インターナショナルスーパーグランプリステークスに出走するというものであり、現地での管理調教師や主戦騎手も決定しているとされたが実現しなかった。
  • ハイセイコーの死去に伴い、主戦騎手だった増沢末夫は当時の人気ぶりを示すエピソードとして友人から「増沢、今この馬のほうが長嶋と王より人気があるんじゃないか?」と言われた話を紹介している。

種牡馬としてのハイセイコー

大柄な馬体の中距離馬・ハイセイコーは、国産馬としては鳴り物入りで北海道での種牡馬生活を開始した。外国産種牡馬全盛時代という逆境を抱えていたが、ハイセイコーは早くも跳ね返す<ref>もっとも、初期の産駒は馬格の悪い馬が多く、カツラノハイセイコの活躍がなければ「現役時代華々しい活躍をしながら、種牡馬として失敗した国産馬」の代表格にされる所であった。</ref>。何と、初年度産駒からダービー馬を輩出。カツラノハイセイコは1979年に父の勝てなかった日本ダービーを制覇。更に1981年に天皇賞(春)を勝ち大活躍をした。種牡馬としての金看板を得た後も、サンドピアリス1989年エリザベス女王杯)・ハクタイセイ1990年皐月賞)と計3頭のGI・八大競走勝利馬を輩出した。また、地方競馬ではキングハイセイコーアウトランセイコー羽田盃東京ダービーに勝ち、南関東三冠のうち二冠を制覇した。産駒は特に地方競馬で活躍し、前述の様に1990年には地方競馬のリーディングサイアーとなった。

ハイセイコー産駒の特徴は、父であるチャイナロックの産駒の傾向と似通っており、タフで故障しにくいことと、芝・ダート、勾配の有無、馬場の軽重を問わないパワーを兼ね備えている点にある。一見すると馬格が足りずダート適性が無さそうに見える産駒でも、いざ走らせると重いダートを平然とこなすパワー型の馬が多かった。大川慶次郎は、父親と似ていない馬はよく走る(例:小柄な馬体のカツラノハイセイコ・葦毛のハクタイセイ)反面、似ている馬はまるで走らず当たり外れが大きかったと評している。更にもう一つ、産駒には季節を問わず連戦を平気でこなす馬が多く、下級条件に甘んじていても出走手当が安定的に確保しやすいことから、地方競馬の馬主からは損をさせない種牡馬として人気が高かった。

また予想との関連では、産駒が何の前触れもなく好走、激走して穴を開けることが多く、穴党のファンはこれを『忘れた頃にやってくるハイセイコーの大爆発』と呼んで注目していた。

因みに、ライバルのタケホープは重厚過ぎる長距離血統が足枷となって種牡馬としてはこれといった活躍馬を輩出出来ず、種牡馬としてのライバル対決はハイセイコーに軍配が上がった。

中央競馬在籍馬としては、1999年4月11日に出走したファイブハッピーが最後の産駒である。

主な種牡馬成績

  • 1984年 地方3位、中央21位、中央・地方総合6位。
  • 1986年 地方4位、中央20位。
  • 1987年 地方6位、中央23位。
  • 1990年 地方1位、中央23位、中央・地方総合13位。

主な産駒

この他にも金沢競馬場で活躍したノズカソウハなど、地方競馬で数多くの重賞勝ち馬を輩出した。

母の父

この他にも障害で活躍したロンゲット、地方重賞常連のハナセールヤマノセイコーミヤシロブルボンなどの活躍馬を輩出している。

関連項目

参考文献

  • 赤木駿介『実録ハイセイコー物語 愛されつづけた郷愁の馬』勁文社、1975年
  • 大川慶次郎『大川慶次郎殿堂馬を語る』ゼスト、1997年 ISBN 4-916090-52-7
  • 東京スポーツ 2010年5月27日号(同年5月26日発行)

外部リンク

脚注

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