トーク:徳川家康

出典: Wikipedio


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長男?

えー、いつの間にか広忠の長男と断定されておりますが、これって研究史上では結論は出てるんでしょうか。松平広忠を見ると家康との長幼順が明らかでない異母兄弟の記述がありますが。--Arawodas 2009年3月29日 (日) 07:22 (UTC)

具体的に、家康より先に生まれた可能性のある男子はいるのでしょうか?広忠の頁ではいまいち分かりづらいのですが・・・--118.6.131.108 2009年3月31日 (火) 09:50 (UTC)

家康が長男なのは新人物往来社「徳川家康辞典」で説明されています。--HI 2009年4月1日 (水) 06:39 (UTC)

『徳川家康事典コンパクト版』(新人物往来社)(HIさんの挙げておられるものでしょうか)によると、家康の同父(異母)兄弟として松平忠政・樵暗恵最・内藤信成が挙げられており(ここまでは松平広忠にも記載があります)、うち忠政は所伝によると1541年生まれで家康より年長とされます。ただし同書の該当部分(「兄弟姉妹」節)の著者林亮勝氏は忠政を含め三人とも「疑問は多い」としています。しかしながら同書では家康を「長男」と明記した表現はなく、巻末の年表で「嫡子」と書かれているだけでした。結局専門家ですら慎重を期して長男と断定するのは避けているわけですから、wikipediaが先走って「長男」と書くのは時期尚早ではないでしょうか。「長男」表記を除去して嫡男(嫡子)とだけ書くのが妥当と思います。--Arawodas 2009年4月2日 (木) 11:54 (UTC)

了解しました。--HI 2009年4月2日 (木) 12:56 (UTC)

半保護解除依頼

半保護されるに至った議論は終結したように思えるのですが、保護解除依頼してはいかがでしょうか。--えむかとー 2009年4月18日 (土) 09:41 (UTC)

解除依頼は誰が出してもよいものですから、えむかとーさん御自身で依頼される方が良いのでは? -- NiKe 2009年4月19日 (日) 00:20 (UTC)
NiKeさんに何か勘違いがあるように思います。えむかとーさんの発言は「誰か依頼して」という主旨のものではなく、解除依頼の提案ではないでしょうか。「自分でやれ」は少々的外れかと存じます。--cpro 2009年4月20日 (月) 07:10 (UTC)
すみません、ここで提案されているのに気付かず、保護解除依頼を提出してしまいました。上記の議論を見れば問題が解消されていることは明らかなので直接依頼してしまいましたが、依頼前に合意を得ておくことは保護解除を確実にする有効な手段ですので、今後もお手数でなければ、保護解除へのご協力をお願いいたします。--cpro 2009年4月20日 (月) 07:10 (UTC)

用語等

「薨去」を「死去」に直したところ、差し戻された方がいらっしゃったのでメモを残します。私の立場は、NPOV の立場から、特定の位にあった人物について特定の用語を使うことは、特に一般に普及しているような場合(「崩御」等)を除いてふさわしくないというものです。何をもって「一般」とするかについては異論があるでしょうが、ソース(一般の百科事典での用例等)がありましたら意見を変えることにやぶさかではないので、ご提示願えればと思います。

その他、名前について表記のテンプレートを外しましたが、こちらはすでにセクションがありますので、そちらをご参照ください。--竹田 2009年7月10日 (金) 08:41 (UTC)

落胤について

まず「落胤?」と言う書き方は百科事典の記事としてどうかと思います。落胤説がある人物についても、

  • 落胤であったと伝わる人物
    1. 一部の系図 (『幕府祚胤伝』)に記載がある人物(松平民部小笠原権之丞
    2. 墓石調査などの物的証拠で推測されている人物(永見貞愛
    3. 信憑性が定かでない史料に記載がある人物(2代後藤庄三郎
    4. 俗説の類とされる人物(鈴木一蔵
  • 落胤との風説があったと伝わる人物
    1. 風説が流布されていたとする史料がある人物(土井利勝
    2. 風説が流布されていたとする資料(近年の人物事典等)がある人物(井伊直孝松平康重内藤政長、2代大久保主水)
    3. 風説があったかどうかもわからない人物(豊臣秀頼

伝わるって表現はまずいですが(仮に書いたのでご容赦下さい)、大凡、上記のように分類されると思うのですが、どの程度の範囲までが「落胤」に記載されるのが百科事典として相応しいと思いますか?--61.197.34.237 2010年2月15日 (月) 08:03 (UTC)

将軍宣下の場所について

Template:報告征夷大将軍節部分の「家康は二条城で将軍宣下を受け」という部分にWikipedia:「要出典」をクリックされた方へを付けさせていただきました。私の持っております文献『信長・秀吉・家康の城』のP.71に「家康は伏見城で征夷大将軍の宣下を受けた」とあり、二条城ではなく伏見城と記載されており、他の伏見城の文献にも将軍宣下は伏見城でとの記載が見受けられます。また創建のページによると、伏見城では「将軍宣下」、二条城では「拝賀の礼」と記載されており、伏見城が正確ではないかと思います。ただ、インターネットで調べますと「二条城で将軍宣下を受け」という記載が見受けられましたので、二条城で将軍宣下を受けたという説もあるかも、と思っております。そこで、約1カ月間の経過期間をみまして出典明記が難しければ、『信長・秀吉・家康の城』の記述に変更させていただければと思います。--ブレイズマン 2010年4月11日 (日) 16:08 (UTC)

Template:報告この件気になっており、追加で文献調査をしていますが、京都埋蔵文化財研究所が発行しています発掘調査現地説明会資料の「伏見関係略年表」によりますと「慶長8年2月12日 徳川家康、伏見城で征夷大将軍の宣旨」とありますので、伏見城が正しいと思われますが、要出典の上段部分に、伏見城で「家康を征夷大将軍、淳和奨学両院別当、右大臣に任命した」と記載があり、ならば将軍宣下は伏見城ではないかと思うのですが、宣旨は伏見城で、将軍宣下は二条城でとするならば、記載に誤りがあるとまでは言えないのかな、とも思えます。本ページには参考文献の記載がなく、Wikipedia:検証可能性が難しいのですが、私自身でも文献を探してみたいと思います。--ブレイズマン 2010年4月12日 (月) 06:21 (UTC)
Template:報告ノート:二条城#将軍宣下の場所についてでも同様の議論をしておりますので、詳細を御存じ方の情報を待ちしています。--ブレイズマン 2010年4月15日 (木) 08:37 (UTC)

大日本史料で家康将軍就任の事は記述されていますので、一度ご覧になってはいかがでしょうか http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html こちらのデータベース検索から大日本史料総合データベースで検索するとご覧になれます。--HI 2010年4月15日 (木) 10:35 (UTC)

Template:コメント情報提供有難うございます。調べましたら「慶長8年3月27日、勅使を二条城に遣し、将軍宣下及び歳首に依りて」とあります。現在の本文は「3月21日、家康は二条城で将軍宣下を受け」としているので、この記述は正確ではないと思います。ただ、『大日本史料総合データベース』を出典とするのは難しいと思いますので、私も文献調査を行いと思います。--ブレイズマン 2010年4月15日 (木) 11:52 (UTC)
Template:済出典明記が行われませんでしたので、上記精査内容に基づき変更させていただき、要出典テンプレートも除去しました。--ブレイズマン 2010年5月20日 (木) 07:06 (UTC)

伝記部分について

すでに過去に議論されているかもしれませんが、伝記部分が長すぎる印象を受けます。わたしは武田氏との関係から加筆を行いたいのですが、武田氏について多少知っている立場からすると、政治的・外交的事情など必要な情報が欠けている割には、合戦や事件などの日時や固有名詞であるとかディティールが詳細すぎる印象をもちます。現状の伝記部分で記されている情報は「すべて必要」であると思いますが、本記事ですべての情報を記してしまうのは、徳川家康という超重要人物の生涯を簡略に把握できないという問題点を含んでしまうことであると思います。

わたしは、合戦の具体的な事情であるとかは脚注や他記事への誘導・アウトソーシングを行い、合戦であれば大まかな経緯と意義だけを簡略に記し、脚注で「何々合戦の経緯については・・を参照」と誘導し、記事の軽量化を図っていく必要があるものであると思います。--でここ 2010年6月7日 (月) 17:18 (UTC)

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