チベット仏教

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Template:Buddhism チベット仏教(-ぶっきょう)は、チベットを中心に発展した仏教の一派。顕教の諸哲学や、厳格な戒律<ref>チベット語訳の根本説一切有部律を用いる。漢訳のものも存在するが、両者では戒律の数が異なる。</ref>に基づく出家制度も広く包含する総合仏教である。独自のチベット語訳の大蔵経を所依とする教義体系を持ち、漢訳経典に準拠する北伝仏教と並んで、現存する大乗仏教の二大系統をなす。また密教の教えについて、漢訳仏典圏前期密教中期密教までの教えを主として伝えているのに対し、チベット仏教では前期・中期に加え後期密教の教えを広範に受け入れ、独自に消化した点にも大きな特徴がある。

 ラマと呼ばれる高僧、特に化身ラマ<ref>通俗的に転生活仏とも呼ばれるが、化身ラマは活仏ではないので誤り</ref>を尊崇することから、かつては一般に「ラマ教」(喇嘛教、Lamaism)と呼ばれ、ややもすると、仏教とは異質な宗教と見なす向きもあったが、歴然たる正統仏教の一派としてのその本質が認知されるにつれて、その呼称は偏見を助長するため不適当だとされ、現在では推奨されなくなっている。

目次

概要

チベットでは、7世紀から14世紀にかけてインドから直接に仏教を取り入れたため、インド仏教直系の仏教といえる。ことに、インド仏教の伝統が途絶える寸前の時代に伝来した後期密教が保存されていることが特徴である。中国中央アジアの北伝仏教との相互影響は、地理的な隣接にもかかわらず実は極めて少ない。一方、特に旧教であるニンマ派や民間信仰のレベルではボン教との習合などチベット独自の要素も見られるが、チベット仏教の特徴と見なされる要素の大部分は実は後期インド仏教の特徴である。仏教を取り入れるにあたって、サンスクリット語経典の原典からチベット語へ逐語訳的に翻訳がなされたこともあり、仏教研究においてチベット語の経典は非常に重要な位置を占める。

教義

[[ファイル:Tashilhunpo.JPG|right|200px|thumb|タシルンポ寺の大弥勒殿(典型的なチベット仏教寺院)]] どの宗派においても大乗仏教的精神に則って、菩提心(他者を利益するために自らが悟りを得ようという決意)と智慧(空性を理解する智慧)という二つの柱を重視する。基本的には龍樹中観を中心にして、存在・認識に対する論理的思考能力と論争による智恵の獲得を重要視している。その思想の骨格となる重要な経典にシャーンティデーヴァの著した『入菩薩行論』があるほか、その系統の教えにアティーシャやその弟子達が説いた「心の修行(ロジョン、blo sbyong)」があり、チベット仏教の全宗派で修習されている。 また、各宗派においてインド後期密教の流れを汲む無上ヨーガ・タントラの実践が行われている。一般的に新訳派では、本尊の観想を中心とした生起次第を重視する父タントラ、身体修練によって空性大楽の獲得を目指す究竟次第を重視する母タントラ、それらを不可分に実践する不二タントラの大きく三段階に分類される。密教の最奥義に相当するものにはニンマ派ゾクチェンサキャ派ラムデカギュ派マハームドラーなどがあり、各派に思想的特徴が見られる。 これら顕教密教併習の修道論として、最大宗派のゲルク派にはツォンカパの著した『菩提道次第(ラムリム)』と『秘密道次第論(ンガクリム)』があるが、各宗派においてもそれらとほぼ同種の修道論が多数著されている。

無上ヨーガ・タントラの実践においては、タントラ文献の記述や後述の歓喜仏のイメージなどから、一部でセックスを修行に取り入れているという道徳的観点からの批判もあるが、これは在家密教修行者集団でのことである。中世にはカダム派を中心とした出家者集団の復興が行われて以降、性的実践を行なわずに密教を修行する傾向が強まった(後述)。その影響が各派に及び、現在の僧団においてはあくまで観念上の教義として昇華され、なおかつ一般の修行と教学を修得した者のみに開示される秘法とされた。このような呪術的、性的な要素については、実際的な行法としては禁止されたものの、その背景にある深遠な哲学自体は出家者集団においても認められたため、教学および象徴的造形としては残されたということに留意すべきである。現在では全体として神秘主義的な修法よりも、公案(問答)のような言語的なコミュニケーションと哲学的思索が重要視される傾向が高まっている。

信仰形態

[[ファイル:Lamas Rumtek.jpg|right|200px|thumb|チベット仏教の僧侶(ルムテク僧院・シッキム)]] 現在、大きく分けて4宗派が存在するが、いずれも顕教と密教の併修を柱とする点では共通し、宗派間の影響を及ぼしあって発展してきたこともあって、各宗派の信仰形態に極端な差異は無くなっている。

恐ろしい形相を表す忿怒尊(明王)や、男女の抱擁する姿を表す歓喜仏が特徴的であり、これらがことさらクローズアップされがちであるが、他にも阿弥陀如来十一面観音文殊菩薩といった、大乗仏教圏では一般的な如来菩薩も盛んに信仰されている。を中心に独自の発展を遂げた中国の仏教では廃れてしまった仏が、日本(特に奈良・平安系仏教)とチベットでは共通して信仰され続けているケースも多い。一方、最高位の仏としてチベットでは釈迦如来大日如来よりも、後期密教の特徴である本初仏を主尊とする点が独特である。ターラー菩薩やパルデン・ラモ(忿怒形吉祥天)といった女神が盛んに信仰されることも特徴的である。

文化面では、タンカと呼ばれる仏画の掛軸や砂曼荼羅、楽器を用いた読経などが有名である。民間の信仰形態として特徴的なものは、マニ車タルチョー(経旗)、鳥葬などが挙げられる。また、観音菩薩真言である六字大明呪が盛んに唱えられる。

諸国への伝播

チベット仏教はチベット本国だけでなく、チベットからの布教により仏教を受け入れた諸民族の間で広く信仰される。チベット系民族では国連加盟国のブータンの他、インドシッキム州ラダック地方、アルナーチャル・プラデーシュ州メンパ族ネパール北部ヒマラヤ地帯のムスタンドルポシェルパ族、タマン族など、またチベット系以外ではモンゴル国中国領南モンゴル(内モンゴル自治区)モンゴル人ロシア連邦内のブリヤート人(モンゴル系)やカルムイク人(同)、トゥバ人(モンゴルの影響が強いテュルク系)といったモンゴル文化圏でも支配的な宗教であった。他に満州族ナシ族族などが伝統的にチベット仏教を信仰してきた。満州族から出た清朝の影響で、北京五台山東北部(満州)など中国北方にもチベット仏教寺院がある。

モンゴルは伝統的にチベット仏教第二の中心地であるが、チベット仏教の直輸入的なものであって、地域的な特色はあっても「モンゴル仏教」として区別するほど独立的な要素は強くない。チベットにおける宗派がそのままモンゴルにも存在し、近代化以前はモンゴルからチベットへの留学が盛んに行われていた。他方、ネパールでは北部のチベット系民族にチベット仏教が信仰され、さらに近年では中央部でもチベット仏教の進出が見られるが、元来中央部のネワール族などの間にはチベット仏教とは異なる独自の大乗仏教の系譜が伝えられている(→ネパールの仏教)。

歴史

吐蕃王朝と仏教伝来

[[ファイル:A grand view of Samye.jpg|thumb|200px|サムイェー寺]] 7世紀前半、吐蕃王朝ソンツェン・ガンポ王(581-649) がチベット統一を果たすと共に、ネパールから嫁いだ2王妃の勧めで仏教に帰依した。吐蕃の首都ラサにはトゥルナン寺(ジョカン、大昭寺)が建立された。

ティソン・デツェン王 (742-797) の代には仏教が国教と定められ、国立大僧院サムイェー寺が建設されて、インドのナーランダー大僧院(那爛陀寺)の長老シャーンタラクシタが招聘された。また、パドマサンバヴァが密教を伝えた。さらに、786年には敦煌から禅僧摩訶衍(まかえん)がチベットに招かれたが、シャーンタラクシタの弟子カマラシーラと摩訶衍の禅宗との間で論争(サムイェー宗論)が行われた結果、カマラシーラのインド系仏教が正統とされた。以来、サンスクリット語経典をチベット語へ翻訳する事業が始められ、824年頃までかけて膨大なチベット大蔵経が作られた。

吐蕃王朝末期には、国家仏教の支配体制に揺らぎが生じた。最後の王ラン・ダルマは仏教勢力の排除を目論んで廃仏を行ったが、842(846?)年に暗殺された。その後王家は地方に四散し、チベットは長い分裂時代を迎えた。

分裂時代と仏教復興

王朝が滅亡して統制がなくなると、チベット仏教も一時退廃を見せた。僧伽の活動は衰退し、当時インドで流行していた性瑜伽(性的修行法)や呪術的修法を説く在家密教、すなわち、タントラ主義が横行した。吐蕃王家の亡命政権の1つである西チベットのグゲ王国は、王朝時代の伝統保存と仏教復興の担い手となった。

11世紀になると、インドから入国して仏教界を指導したアティーシャ(982-1054)らによって戒律復興運動が起こり(カダム派)、出家教団が再興された。般若経の解釈学、唯識如来蔵思想の研究、中観思想の二派<ref>中観自立論証派(スヴァータントリカ)と中観帰謬論証派(プラサンギカ)</ref>の論争など、顕教の哲学研究が盛んになった。

他方、マルパらによって新たにインド直伝の後期密教がもたらされた(カギュ派)。アティーシャも、戒律に違犯した行法は禁止したが、密教を学ぶことは容認したため、密教化した大乗仏教が排除されて、初期仏教の本流に近い上座部仏教が徹底されたスリランカや東南アジアとは異なり、チベットでは相互に矛盾する見解を持つような、あらゆる学派の顕教や、密教が総合的に学習される傾向が生じた。

サキャ派政権とモンゴル帝国

1240年、チベットはモンゴル帝国の侵攻を受けたが、当時ツァン地方を中心に一大勢力を持っていたサキャ派はモンゴルの懐柔を得ることに成功し、チベットの自治支配権を得た。さらに、クビライが即位すると、座主サキャ・パンディタの甥パクパ元朝の帝師として篤く遇された。この時代に、チベット仏教はモンゴル諸部族に広く浸透した。

1368年の元朝崩壊後はサキャ派に替わってカギュ派系のパクモドゥ派が中央チベットに政権を確立した。パクモドゥ派政権の衰退後は、同じくカギュ派系のカルマ派と、新興のゲルク派が覇権を争った。サキャ派やパクモドゥ派は、宗教貴族と化した一族が座主や高僧を半世襲的に輩出する氏族教団であったが、対してカルマ・カギュ派は化身ラマ(転生ラマ)制度を導入した。ゲルク派ものちに化身ラマ制度を取り入れ、ダライ・ラマパンチェン・ラマの二大活仏を中心として勢力を伸ばした。この時代の有力宗派は、モンゴル諸部族や明朝と代わる代わる同盟関係を結んだ。特にモンゴルの諸ハーンは、元朝の後継者としてチベット仏教の保護者となることで権威付けを図った。

ゲルク派の宗教改革とダライ・ラマ政権

ゲルク派(「浄行(厳律)派」の意。「黄教」「黄帽派」とも)は、アティーシャのカダム派の流れをくむツォンカパが1400年頃に立宗した。ツォンカパは、従前の中観派を斥けて顕教を中心に独自の中観帰謬(きびゅう)論証派の教義を据えるとともに、過度のタントラ主義を否定して無上ヨーガ(性的ヨガ)の頽廃を禁じ、密教を中観の「無自性」を深く観ずるための禅定体系と位置づけた。また、従来の在家密教行者や氏族中心の宗派に対して、厳格な戒律に基づく出家修行を重視し、僧院を基盤とする教団を組織した。声聞乗(説一切有部経量部)・菩薩乗(顕教)・真言乗(密教)を統合した修道体系は、後期インド仏教が目ざした方向性を実現したとも言える。

1642年までにオイラト・モンゴルのグーシ・ハーン(グシ・ハン)がチベットの大部分を征服してグシ・ハン王朝を樹立し、ダライ・ラマ5世を擁立して宗派を越えたチベットの政治・宗教の最高権威に据えた。以来、ダライ・ラマを法王として戴くチベット中央政府、即ちガンデンポタンが確立された。これにともない、ダライ・ラマが元来所属していたゲルク派は、グシ・ハン王朝のみならず、隣接するハルハオイラトなどの諸国からもチベット仏教の正統として遇され、大いに隆盛となる。一方、覇権争いに敗れた他宗派勢力は辺境に勢力を確保し、ブータンにカギュ派系のドゥク派政権、シッキムにニンマ派政権が成立した。

モンゴルと交流のあった女真族(満州族)から出た清朝は、モンゴルの諸ハーン王朝の後継者としてチベット仏教の保護者を以て任じ、雍正帝によるグシ・ハン王朝滅亡後は、ダライ・ラマ政権の直接的バックボーンとなった。一方で、チベットの内外政の他、法王位の継承なども清朝の干渉を受けるようになった。しかし清皇族をはじめとする満州族にはチベット仏教に篤く帰依する者も多く、宗教活動自体は保護を受ける面が強かった。

近現代の情勢と動向

[[File:Tenzin Gyatzo foto 1.jpg|right|200px|thumb|ダライ・ラマ14世]]

17世紀頃から、カトリック宣教師がインドや中国方面からチベット探検を試み、チベット仏教に関する報告がヨーロッパにもたらされた。チベット仏教を信仰するモンゴル系の少数民族を領内に抱えるロシアは、帝政時代の19世紀後半頃から、それらの民族を利用してチベットとの交渉を図り、ロシア各地にダツァンと呼ばれるチベット寺院も政策的に建立された。20世紀になると、隣接するインドを領有していたイギリスがチベットに勢力を伸ばし、チベット仏教研究も進展した。ドイツではカール・ハウスホーファーらがアジア神秘主義を研究し、ナチスに影響を与えた。 映画「セブンイヤーズインチベット」において、ナチスドイツとチベットとの交流が描かれている。

1959年のチベット蜂起にともない、チベットの国家元首であるとともにチベット仏教の最高権威であるダライ・ラマ14世がインドに亡命した。それ以降、インドやネパールに大量のチベット人が亡命、その中にはチベット仏教の伝統を体現した高僧が多く含まれていた。中国領チベットで破壊あるいは活動休止された僧院が亡命地に復興され、新たな活動拠点となっている。現代の国際的な布教活動は、これら亡命チベット教団の活動によるところが大きい。チベット仏教に造詣深い現代の外国人としては、ユマ・サーマンリチャード・ギア、日本では中沢新一などが知られる。

一方、中国の支配下に置かれたチベット本土では、チベット蜂起に続く時期や文化大革命の時期にチベット仏教の寺院が徹底的な破壊を受けた。その後も形式的には信仰の自由が標榜されていたが、実際にはチベット仏教は中国政府と中国共産党の徹底的な支配下に置かれるとともに、過酷な弾圧が加えられ続けている。特に、ダライ・ラマに対する敬慕の念を口にすることは犯罪行為とみなされ、弾圧の対象となる。チベット本土でも一部の寺院は復興が認められたが、その規模は往事とは比較にならないし、中国共産党の指導下で寺院の自主性は損なわれている。また、高僧の多くが亡命したため、チベット本土におけるチベット仏教の伝統の継続に大きな支障がでている。亡命した高僧の中には、ゲルク派の首座であるガンデン・ティパの第95代であるタシー・トントゥン、カルマ・カギュ派の教主であるカルマパ17世ウゲン・ティンレー・ドルジェ、ディクン・カギュ派の教主であるディクン・チェ=ツァン・リンポチェなど、チベット仏教の各支派の教主クラスも多い。

2007年8月4日のAFP BB News(中国国営新華社通信の報道を引用)によると、中国政府は、国内の化身ラマが転生する際、政府の許可なしの転生は認めないことを決定した。高僧を管理下に置くための措置と見られている。<ref>Template:Cite web</ref>現在の中華人民共和国において、チベット仏教、特にゲルク派が弾圧されている状況についてはチベット#問題の項を参照のこと。

ロシア連邦の自治共和国の一つであるカルムイク共和国にはチベット仏教を信仰する住民が多く、事実上の『国教』として扱われているとされる。住民の中には『欧州唯一の仏教国』を標榜するものもいると伝えられている。

日本との関係

北伝仏教の系譜を汲む日本の仏教は、チベット仏教と直接の繋がりは無いものの、同じく大乗仏教であり、特に中国などでは廃絶した密教を保持するという点で共通する。また、中国での受容を介さないインド直伝の大乗仏教であり、前述の通りサンスクリット原典に近いチベット大蔵経は、仏教学の上で貴重な資料となる。このことが明治時代には能海寛ら仏教学者に注目され、日本人初のチベット探検者河口慧海に続いて、1900年代から大正時代にかけて多田等観青木文教寺本婉雅ら日本の僧侶、仏教学者がチベットへ赴き、チベット仏教を研究した。

戦後は、ニューエイジサブカルチャーの領域において注目されるようになったが、エキゾチックな仏教美術をドラッグの幻覚を連想させる表現で引用したり、転生ラマ(トゥルク)のシステムや一部の仏典のみを参照して呪術的な側面を不必要に強調したかたちで紹介されることが多かった。また、オウム真理教などの、密教的要素を特に強調するような仏教系新宗教によっても、間接的にチベット仏教の誤ったイメージが広まった。しかしチベット亡命政府樹立以降の積極的なチベット仏教側の情報開示と、それに基づくダライ・ラマ14世ノーベル平和賞受賞以降からは、学者や正統的な僧侶によって一般向けの講習会も開かれるなど、理解が深まりつつある。

チベット仏教の宗派

四大宗派

ニンマ派サキャ派カギュ派ゲルク派を、チベット仏教の四大宗派と呼ぶ。

  • ニンマ派 - 「古翻訳派」の意。パドマサンバヴァを宗祖とし、古代王朝時代に導入されたタントラ群(ニンマ・カマ)と埋蔵教典(テルマ)に依拠する。<ref>過去に用いられていた「紅教」「紅帽派」という呼称は、ゲルク派がジョナン派にならって黄色い帽子をかぶり、中国語圏で「黄教」「黄帽派」と呼ばれるようになってから多宗派をさして言ったものであり、ニンマ派のみだけでなくサキャ派、カギュ派をもさしていたことが多く、注意を要する。「ラマ教」と同じく現在学術界ではめったに使用されない表現である。</ref>
  • サキャ派元朝の時代にはチベットに政権を確立し、サキャ・パンディータフビライ・ハンの帝師パクパが出た。
  • カギュ派マルパミラレパを宗祖とする。カギュ・カルマ派、ツェルパ・カギュ派、ディクン・カギュ派、ドゥク派、パクモドゥ派などの多数の支派に分かれている。詳細は「カギュ派」の項を参照のこと。
  • ゲルク派ツォンカパを宗祖とし、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマが属する。近世以降の最主流派。
    • カダム派アティーシャを中心とする運動。(四大宗派のすべてに影響を与えた後、ゲルク派が宗派として教団組織化した)
    • シュクデン(怨霊崇拝)派 -ダライ・ラマによって非難されているドルジェ・シュクデン崇拝を教義の中心に据える宗派。この派の信者には中国政府と関係を持つ者もいるとされる。<ref>シュクデン派を利用する中国当局 《西藏之頁》(2006年 5月11日付)[1]</ref>また、一部の人間がニュー・カダンパと称して、すべての宗派からの独立を宣言する、新興団体を創立している。

その他

上記以外にも、シャンパ、シチェ、チュウなどの現在は独立した宗派としての組織を持たない伝統や、近年復興運動が起こっているジョナン派などが存在する。

関連項目

書籍

  • ロラン・デエ 今枝由郎訳 『チベット史』 春秋社 2005年
  • 石濱裕美子 『チベット仏教世界の歴史的研究』 東方書店 2001年
  • 松本史朗 『チベット仏教哲学』 大蔵出版 1997年
  • マルティン・ブラウエン、森雅秀訳 『図説曼荼羅大全 チベット仏教の神秘』東洋書林 2002年
  • 『岩波講座東洋思想.11 チベット仏教』 岩波書店 1989年
  • 多田等観全文集 チベット仏教と文化』 今枝由郎編 白水社 2007年

参照

<references />


 

外部リンク

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