ターリバーン

出典: Wikipedio

タリバン から転送)

Template:Infobox War Faction ターリバーンطالبان 英:Tālibān。中:塔利班)は、パキスタンアフガニスタンで活動するイスラーム主義運動。1996年から2001年11月頃までアフガニスタンの大部分を実効支配し、アフガニスタン・イスラーム首長国(ターリバーン政権)を樹立した(国際的には一部国家を除いて承認されず)。日本では通常タリバン(またはタリバーン)と表記される。

ターリバーンの最高指導者はムハンマド・オマル。ただし2001年以降は生死不明である。

目次

概要

ターリバーンは、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻(1979年~1988年)後の長年の内戦の中から生まれた武装勢力。パシュトゥーン人の割合が多い。パキスタンの強力な支援を受けて急激に勢力を拡大、軍閥グルブッディーン・ヘクマティヤール派を破ってその勢力を吸収しカンダハールを当初の拠点とした。

「ターリバーン」という語はアラビア語で「学生」を意味する「ターリブ」(طالب)のパシュトー語における複数形であり、イスラム神学校マドラサ)で軍事的あるいは神学的に教育・訓練された生徒から構成される。ターリバーン構成員を数えるとき、一人なら単数形の「ターリブ」、二人以上なら複数形の「ターリバーン」が用いられる。

歴史

誕生

ターリバーン側の主張によるとムハンマド・オマルが20人の同志とともに始まったものだとされている。

Template:節スタブ

発展

Template:See 内戦が続くアフガニスタンの戦いにおいてターリバーンは1994年頃から台頭し始め、当初はアフガニスタン統一を願う純粋な学生の運動として受け止められた。内乱時代のムジャーヒディーン(これには後の北部同盟参加グループも多く含まれる)諸派のモラル無き暴行略奪などに対する反発から当初は市民に歓迎された。 Template:節スタブ

外国との関連

ターリバーンは、軍事面および資金面でパキスタン軍諜報機関であるISI(パキスタン軍統合情報局)の支援を受けていた。

パキスタンのアフガニスタン介入は特殊部隊SSGムジャーヒディーン支援などソ連侵攻時代から継続していたが、内戦で軍閥が群雄割拠する中パキスタンとしてはアフガニスタンに自国の傀儡政権とも言うべきターリバーンを作らせておき、中央アジアにおける貿易やアフガニスタン経由のパイプラインを独占したかった。またインドとのカシミール紛争ラシュカレトイバなどイスラム原理主義過激派を投入しており、それがパキスタン国内にいたとなると国際社会から「テロ支援国家」と非難される恐れがあった。ターリバーンの支配下にイスラム原理主義過激派を匿いたいという目論みもあって、パキスタンはターリバーンを支持した。また、インドと軍事的に対決するに当たって後背のアフガニスタンに親パキスタン政権が建設される事は、パキスタンにとっては極めて重要な関心事項であった。

1997年にターリバーン軍がマザーリシャリーフの攻略に失敗し、その主力を一挙に喪失してからはISIはより直接的な関与を深めた。2000年の第二次タロカン攻略戦ではパキスタン正規軍の少なくとも二個旅団以上及び航空機パイロットがターリバーン軍を偽装して戦闘加入したとされている。このため2000年12月にはコフィ・アナン国連事務総長がパキスタンを非難する事態となった。

また、1990年代半ばにはサウジアラビアもパキスタンを通じてターリバーンに資金援助を行っており<ref>アフガニスタン ムシャラフ辞任後のパキスタン混迷化JETRO新領域研究センター 研究員鈴木均論文</ref>、アフガニスタンの安定化に対するターリバーンへの期待は高かった。

また、強力で安定的な政権は中央アジア安定化につながるとして、アメリカ合衆国の支持を得ていた時期もあった。当時のアメリカのユノカル社が中央アジア石油天然ガスをアフガニスタンを経由したパイプラインでインド洋に輸送することを計画しているなど、中央アジアの安定化に関心を寄せていた。アメリカの議会関係者や国務省関係者が和平の仲介を行おうとしたが、和平は成立しなかった。

政権掌握

[[File:1996afghan.png|thumb|200px|1996年時点のアフガニスタンの勢力地図。赤の部分がアフマド・シャー・マスード軍、緑の部分がラシッド・ドスタム軍、黄色の部分がターリバーンの支配地域。]] ターリバーンは1996年9月に首都カーブルを制圧し、国連施設に幽閉されていた元大統領のムハンマド・ナジーブッラーを引きずりだして公開処刑として惨殺した。カーブル制圧後、アフガニスタン・イスラーム首長国を建国したが、パキスタン・サウジアラビア・アラブ首長国連邦以外には承認されなかった。国際連合の代表権はブルハーヌッディーン・ラッバーニーを大統領とするアフガニスタン・イスラム国が保持しており、通称「北部同盟」として北部で抵抗を続けた。その後3年ほどでアフガニスタンの90%を支配下においた。

ターリバーンの国内支配

しかし、ターリバーンの支配はすべての音楽を禁止するなどイスラム原理主義に基づいた厳格なものであった。ターリバーンはパシュトゥーン人の部族掟「パシュトゥーンワーリ」に従い、パシュトゥーン人以外の民族の不満を招いた。このパシュトゥーンワーリは一部報道では実際にはイスラム教のシャリーアの代表的解釈とは相容れない部分があるとも言われている。

またアル・カーイダと接近してからは、その過激原理主義の影響を受け、パシュトゥーンワーリからも逸脱した、偏狭頑迷なイスラーム解釈をアフガーン人に押し付けるようになった。このことにより、アフガニスタン国民からの支持は低下した。

政策

ターリバーンは過度に今までの娯楽や文化を否定し、また公開処刑を日常的に行うなど、過激な活動をおこなった。これは市民に対する見せしめであると同時に、娯楽の無い市民を巧妙に操る手口であり、多い時には1万人もの見物客が公開処刑に詰め掛けたといわれる。

また女性は学ぶ事も働く事も禁止され、外出さえも認められなかった。外国人も例外ではなく、女性の国連職員は入国が許可されなかった。

彼らターリバーンの統治メンバーらの服装は漆黒のターバンに黒と白のモノトーンの服装を組み合わせた独特のデザインでコーディネートされ、戦闘車両の多くもそれに準じた塗装が施されている。

政権の孤立

thumb|200px|2001年時点のアフガニスタンの勢力地図。赤の部分が北部同盟の支配下。 [[File:Taliban-herat-2001.jpg|thumb|150px|ヘラートで軍用車両に乗るターリバーン。2001年]] 1996年、ターリバーン政権はウサーマ・ビン=ラーディンアル・カーイダの幹部を客人としてアフガニスタンへの滞在を許した。アルカーイダは、「対米宣戦布告」を行うなどそれまで引き起こされていた数々の反米テロの黒幕と推定されており、またイスラム諸国からも異端視されていた組織であり、ターリバーンは周辺諸国から孤立し始めた。

アメリカのビル・クリントン大統領はターリバーンに対する政策を転換し、ユノカルのパイプライン計画も破綻した。ターリバーン政権にアルカーイダを引き渡すように要求したが、ターリバーンは拒否した。アメリカはパキスタン政府に圧力を掛け、ターリバーンへの支援を断ち切ろうとした。またサウジアラビア政府もターリバーンへの援助を打ち切ったため、ターリバーンは経済面でも大きな打撃を受けた。しかしターリバーンは国内の他勢力の拠点を次々に攻略し、勢力を拡大し続けた。

1997年5月から、ターリバーンはラシッド・ドスタム派の拠点であったマザーリシャリーフを攻撃したが撃退され、2500人以上の壊滅的な損害を出した。しかしターリバーンはパキスタン軍の支援を受けて立ち直った。

1998年8月7日、タンザニアケニアにあったアメリカ大使館が爆破される事件が起きた。この攻撃をうけてアメリカは報復としてスーダンハルツームにあった化学工場と、アフガニスタン国内のアル・カーイダの訓練キャンプをトマホーク巡航ミサイルで攻撃した。

8月8日、ターリバーンはドスタム派の幹部を買収して勢力下に入れ、再度マザーリシャリーフを攻撃し、占領した。この際、5000人以上のハザラ人市民が殺害され、イラン総領事館の外交官10人とジャーナリストが殺害された。この攻撃はイランや国際社会から激しい非難を受け、一時は国境地帯にイラン軍が集結する事態となった。

1999年、国際連合安全保障理事会においてテロ行為の防止を目的とする国際連合安全保障理事会決議1267<ref>安保理決議1267(訳文) 外務省</ref>が採択され、ターリバーン政権に対しビン=ラーディンとアル・カーイダ幹部の引渡しを求め、実行されない場合には経済制裁が行われることになった。しかしターリバーンはこれに従わず、経済制裁が行われることになった。

2000年10月、アル・カーイダはアメリカのミサイル駆逐艦コールに自爆テロ攻撃を行った(米艦コール襲撃事件)。このためアメリカはさらに経済制裁を強化することを主張し、12月には追加制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333<ref name="ketsugi1333">安保理決議1333(訳文) 外務省</ref>が採択された。

2001年2月26日、窮地に追い込まれたターリバーン政権は国際社会の注目を集めるために、紛争続きのアフガニスタンにあって、それまで徐々に壊れていたバーミヤーンにある石窟仏陀の像(バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群)を、ターリバーンが最終的に、木っ端微塵に吹き飛ばした。しかし、この行為は非イスラム教諸国のみならず、イスラム教諸国に至るまで非難を行い、完全に逆効果となった<ref>ただし支持者がまったくいなかったわけではなく、日本のイスラム研究家中田考はこの破壊を『問題ない』、『仏像はイスラームでは価値のないゴミと同じ』と主張している。イスラームの世界観と宗教対話参照。</ref><ref>また、アフガニスタンで活動するNPOペシャワール会中村哲は『堕落を象徴する偶像を壊して身を清め、飢餓に瀕して死んでいかないように、神に祈ろうという雨乞いの儀式』であるとしている。中村哲『ほんとうのアフガニスタン―18年間“闘う平和主義”をつらぬいてきた医師の現場報告』(光文社)ISBN 978-4334973339</ref><ref>イランの映画監督モフセン・マフマルバフは著書『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』の中で、アフガニスタンで長年続いている人道的危機を無視し続けながら、大仏の破壊を大きくとりあげた欧米のメディアを批判した(詳しくは脚注参照)</ref>。

2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件が発生すると、アメリカはこのテロの容疑者としてアルカーイダ関係者を引き渡すように要求した。しかしターリバーン政権はこれを拒否したため、アメリカと有志連合諸国は国際連合安全保障理事会決議1368による自衛権の発動として攻撃を開始し、北部同盟も進撃を開始した。11月までにターリバーンはカーブルとカンダハールを含むアフガニスタンの大半の領域を喪失した。 Template:Main

ゲリラ活動

Template:現在進行 250px|thumb|ターリバーンが活動しているワジリスタン地域 しかし、ムハンマド・オマルをはじめとする指導部の多くは失われず、2003年以降アフガニスタン南部及びパキスタントライバルエリアワジリスタン州を根拠地に勢力を回復し、2006年中にはアフガニスタン南部四州で都市部以外の支配権を獲得するに至ったと言われる。

これにはパキスタンの原理主義勢力、及びその背後のISIが深く関与していると見る向きが強く、同年末にはアフガニスタン暫定行政政府の大統領ハーミド・カルザイパキスタンを名指しで非難する事態に至った。

国際部隊の治安活動もあり主要都市の陥落などの危機的状況には陥っていないが、国際部隊の展開地域等でケシ栽培を禁じられた、あるいは多国籍軍の攻撃で民間人が死亡したなどの理由により、とりわけパシュトゥーン人の間などで、治安の混乱と経済的苦境からターリバーン復活待望論が広まっているという<ref>『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、ISBN 9784763405302 </ref> 。

一方、パキスタン国内でもテロ組織や政府反対派部族と共同戦線を張り、パキスタン軍や政府支持部族、アメリカ軍と戦闘を続けている(ワジリスタン紛争)。

アフガニスタン南部ではターリバーンが独自の知事や裁判所を設置して完全な支配下に置いている地域がある。ヴァルダク州ではターリバーン独自の州知事、軍司令官、シャリーア法廷の設置やカーディー(シャリーア法廷の裁判長)を任命し、道路税などの税金の徴収、徴兵、学校の閉鎖やマドラサでの教育の強制、シャリーアに基づく刑罰の執行などを行い、完全にターリバーンの統治下にある。ローガル州のバラキー・バラク地区はターリバーンによる制圧後、床屋で髭を剃ることとテレビの視聴を禁じ、従わないものは「異教徒と外国人のスパイ」とみなすと住民に脅迫したという。ヘルマンド州の大部分も中央政府の支配が及ばず、ターリバーンの影響下にあり、地元部族長によれば住民も政府を頼りにするのではなく、ターリバーンの"政府"を頼り、90%の住民がカルザイ政権ではなくターリバーンを支持しているという。<ref>http://www.newsvine.com/_news/2008/12/27/2250565-as-taliban-nears-kabul-shadow-govt-takes-hold</ref>

また、再起したターリバーンは自爆テロや市街地での無差別テロなどイラクで反米武装勢力が用いた戦術を多用する傾向が顕著になり、アルカーイダとの一体化の進行が指摘されている。またこれら自爆テロでは同様の自爆テロや米軍の空爆で手足を欠損した身体障害者が6割に上るという調査結果が遺体検分に当たったカブール大学により2008年明らかにされている。<ref>毎日新聞2008年10月20日朝刊1面</ref>

2001年以降の主要な事件

  • 2006年12月、米軍はターリバーンの軍事評議会議長であるムッラー・アフタール・ムハンマド・ウスマーニーをアフガニスタン南部で殺害したと発表。
  • 2007年5月、同じく軍事司令官であるムッラー・ダードゥッラーが戦闘で死亡。同年12月、ターリバーンのスポークスマンであるザビウッラー・ムジャーヒドは「ダードゥッラー兄弟はターリバーンの規約に反して活動していたため、運動から除名されていた」と関係を否定する声明を発表。
2008年
  • 2月11日、パキスタン国軍は、同国南西部のバローチスターン州でダードゥッラーの兄弟であるマンスール・ダードゥッラーを拘束したと発表した。
  • 2月18日、アフガニスタン駐留するNATO傘下の国際治安支援部隊の発表によると、南部ヘルマンド州でターリバーン同州指導者のムッラー・マティーンとムッラー・カリーム・アガーを殺害したと発表した。
  • 3月31日、ヘルマンド州の州都ラシュカルガーにおける戦闘でターリバーン現地指導者の一人、ムッラー・ナキーブッラーをアフガニスタン警察が拘束した。ナキーブッラーは過去2回拘束されているが、その都度に脱走していた。
  • 7月17日、アフガニスタン駐留多国籍軍の発表によると、ヘルマンド州におけるターリバーン指揮官、ビスムッラー・アフンドを7月12日に殺害したと発表した。
  • 8月22日、アフガニスタン国防省報道官の声明によると、ヘラート州において地元の過激派と会合中だったターリバーン現地指導者、ムッラー・ シッディークをアフガン軍が殺害したと発表した。
  • 9月28日、アフガン治安当局者は、ガズニー州にて、同州アンダル地区のターリバーン指導者アブドゥル=ラヒーム・デーシューワら3人が空爆で死亡したと発表した。
  • 11月23日、NATO傘下の多国籍軍の発表によると、ヘルマンド州において同月19日に同州におけるターリバーン指導者、ムッラー・アサドを殺害したと発表した。アサドは、同州ガルムシール地区における攻撃の責任者とされる。
2009年
  • 2月15日、駐留米軍は、トルクメニスタンとの国境近くの民家に潜伏していたターリバーン指導者、ムッラー・ダスタジルを殺害したと発表。ダスタジルは昨年11月にアフガニスタン軍兵士が死亡したゲリラ攻撃を指揮したとされる。ダスタギルは以前、テロ容疑で拘束されていたが、恩赦により出獄していた。
  • 4月、パキスタンにおいてターリバーン系武装勢力が勢力を拡大し、一時は首都イスラーマーバードまで100kmに迫った。
  • 5月、パキスタン軍の掃討作戦が本格化し、スワート州の最大都市ミンゴラに攻撃を加えた。
  • 6月23日、ウルーズガーン州タリーン・コート近郊で起きた、ターリバーンとアフガン・ISAF合同軍との戦闘で、同地域のターリバーン指導者ムッラー・イスマーイールが死亡した。
2010年
  • 1月18日、首都カブール中心部でターリバーンが政府施設や市場などを標的にした自爆や銃などによる攻撃を行った。治安当局と激しい銃撃戦となり、少なくとも一般市民の子ども1人を含む5人が死亡、71人が負傷した。ターリバーン側は7人が死亡。
  • 2月16日、ニューヨーク・タイムズが、ターリバーンの軍事評議会議長で、最高幹部の一人であるムッラー・アブドゥル=ガーニー・バラダールパキスタンカラーチーで拘束されたと報道。バラダールは、ターリバーン創設時からのメンバーで、ムハンマド・ウマルやウサーマ・ビン=ラーディンとも近かった人物とされ、ターリバーン政権では、国防次官の地位にあった。

穏健派ターリバーン

ターリバーンには、主にアブドゥル=ワキール・アフマド・ムタワッキル元外相やアブドゥルサマド・ハクサル元内務次官らで構成されるいわゆる「穏健派ターリバーン」という勢力も存在する。彼らは武装闘争を放棄し、政治によってターリバーンの掲げた理想の実現を図ろうと考えている。ハクサルやムタワッキルが中心となって潜伏している元メンバーや武装闘争を続ける仲間に投降を促すなどして、議会選挙参加を呼びかけた。アフガニスタン政府も同じパシュトゥーン人であるカルザイ大統領がこの動きを歓迎して後押ししたが、かつてターリバーンと戦った旧北部同盟勢力などが「ターリバーンの復権につながる」と猛反発した。また、ターリバーン自身も穏健派を裏切り者だとして暗殺をほのめかした。

結局、議会選挙では州議会単位では何人かの元ターリバーンが当選したものの、中央議会単位では一人も当選せず、惨敗した。(事実、ターリバーンの政治参加阻止を掲げて立候補した女性候補が圧勝した地域もある)また、2006年にハクサル元次官が暗殺されたことを契機に、穏健派ターリバーンの活動も低調であり、カルザイ大統領らパシュトゥーン人勢力によって庇護されているのが実情である。

パキスタンにおけるターリバーンの戦闘

Template:See

麻薬問題

アフガニスタンでは、麻薬の原料になるケシの栽培が伝統的に盛んだった。ターリバーンは、1997年終盤にケシ栽培を禁止したものの効力を得ず、2000年までには、アフガニスタン産のケシは、世界の75%に達した。2000年7月27日に再びケシ栽培禁止の法令を出し、国連の調査によれば、ナンガルハル州では12,600エーカーあったケシ畑がターリバーンによって破壊され、17エーカー(以前の0.14%)にまで減少するなどした。 <ref> Afghanistan, Opium and the Taliban </ref>

こうした幾度かの禁止令にも関わらず、ターリバーンは実際にはアヘン栽培を積極的に容認したものと考えられている。2001年の国連麻薬取り締まり計画や1999年ウズベキスタンタジキスタンの報告によれば、ターリバーンの支配地域が広がるにつれ周辺諸国への密輸量は跳ね上がり、隣国のパキスタンでは1979年に皆無だった麻薬中毒者が1999年には500万人に達した。イランでは同時期120万人のアヘン中毒患者が報告された。

アフガニスタンを根源にする麻薬汚染の拡大に国際的な非難が相次ぐ中、ターリバーンは、麻薬使用への死刑適用、生産地でのケシ栽培の取り締まり等、麻薬を取り締まるかのような姿勢を演出した。

しかしながら、生産量を減らしたとはいえヘロインはターリバーンが支配するただひとつの工場のみで生産が継続され、またケシ栽培の削減開始後も2,800トンに上るアヘン在庫は維持され、出荷が停止することはなかった。このため2000年12月の安全保障理事会決議1333では、ターリバーン政権にアヘン製造を禁止する要請が出されている<ref name="ketsugi1333"/>。

麻薬追放・減産の形を取りながら、生産や輸出そのものの停止には至らず、むしろ麻薬類の国家管理が厳格化されたことを如実に示すこれらの事実により、ターリバーンによる2000年の麻薬禁止令は、実質としては当時供給過剰により下落傾向を見せていたアヘン相場に歯止めを掛けるための一時的な出荷停止措置であったと見られる <ref>アフガニスタンの歴史 マーティン・ユアンズ著(明石書店Template:疑問点 </ref>。

この価格統制政策はターリバーン政権が崩壊した事で崩れ、北部同盟の掌握地域では各軍閥が自派の資金源として、または貧農が生活のためにケシ栽培を再開するケースが続出した。この為に生産量は再び激増、GDPの50%に相当する産業となっている。これは2005年では全世界の87%に当たる生産量である <ref>「追跡 ヘロイン・コネクション」BS世界のドキュメンタリー、2/21, 2007 (原題: 「Afghanistan;The Heroin Connection」Ampersand(フランス) 2006年)</ref> <ref> Afghanistan: Addicted To Heroin </ref>。

アフガニスタン新政府はケシからの転作を進めており、2008年には前年に比べてケシ畑の耕作面積を19%減少させた。しかしアフガニスタンのケシ畑はターリバーンの勢力が強いヘルマンド州に全体の3分の2が集中しており、ターリバーンの資金源となっていると見られている<ref>アフガンのアヘン生産、3年ぶり減少=干ばつも一因に-国連調査時事ドットコム</ref>。またアヘン生産者が国内の混乱を継続させるためにターリバーンに献金を行っているという指摘もある<ref>アフガニスタンのアヘン生産者、社会混乱存続のためタリバンに多額の資金AFPNEWS</ref>。

日本人拉致殺人事件

Template:Main

ターリバーン幹部

2001年当時のアフガニスタン・イスラーム首長国(ターリバーン政権)の主要幹部を挙げる。

元首

内閣

1996年9月27日発足。2000年3月、8月内閣改造

  • 首相(統治評議会議長)-ムハンマド・ラッバーニー(2001年に病死)
  • 副首相(副議長)-アブドゥル=カビール
  • 副首相(副議長)-ムハンマド・ハサン・アフンド
  • 外相-アブドゥル=ワキール・アフマド・ムタワッキル
  • 内相-アブドゥル=ラザン・アフンド
  • 蔵相-アブドゥル=ワサイ・アガジャン・モタセム
  • 教育相-アミール・ハーン・ムッタキー
  • 国防相-ムッラー・ハッジ・ウバイドゥッラー・アフンド
  • 勧善懲悪相-ムハンマド・ワーリ
  • 航空相・観光相-アフタル・ムハンマド・マンスール(2010年にターリバーンのナンバー2に就任)
  • 通信相・労相-アフマドゥッラー・モティ
  • 情報文化相-クトラドゥッラー・ジャマール
  • 保健相-ムッラー・ムハンマド・アッバース・アフンド
  • 司法相-ヌールッディーン・トゥラービー
  • 軽工業相・食糧相-ハムドラ・ザーヒド
  • 鉱工業相-ムハンマド・イーサー・アフンド
  • 農相・動物管理相-アブドゥル=ラティーフ・マンスール
  • 巡礼寄進相-サイード・ギアスディン・アガー
  • 計画相-サドルッディーン・サイード
  • 貿易相-アブドゥル・ラッザーク
  • 難民相-アブドゥル・ラキブ
  • 国境相-ジャラールッディーン・ハッカーニー
  • 兵站相-ヤル・ムハンマド
  • 保安相-ムハンマド・ファーズィル
  • 高等教育相-カリ・ディーン・ムハンマド


その他主要幹部

  • 治安担当内務次官-アブドゥル=サマード・ハクサル
  • 情報文化次官-アブドゥル=ラフマーン・ハタック
  • 最高裁判所長官-ヌールー・ムハンマド・サキーブ
  • アフガニスタン中央銀行総裁-ムッラー・ハッジ・アフマディー
  • 駐国際連合使節<ref>ターリーバーン政権は国際連合への加盟を申請していたが、成立しなかった。</ref>-アブドゥル=ハキーム・ムジャーヒド

駐パキスタン大使-アブドゥル=サラーム・ザイーフ

脚注・出典

<references/>

関連項目

Template:Commonscat

参考サイト


Template:アフガニスタンの政党 Template:対テロ戦争ar:طالبان ast:Talibán az:Taliban bg:Талибани bn:তালিবান ca:Talibà cs:Tálibán cy:Y Taleban da:Taliban de:Taliban el:Ταλιμπάν en:Taliban eo:Talibano es:Talibán et:Ţālebān eu:Taliban fa:طالبان fi:Taliban fo:Taliban fr:Taliban gl:Talibán he:טליבאן hi:तालेबान आन्दोलन hr:Talibani hu:Tálibok ia:Taliban id:Taliban is:Talíbanar it:Talebani ka:თალიბანი ko:탈레반 ku:Taliban lt:Talibanas lv:Taliban ml:താലിബാന്‍ mr:तालिबान ms:Taliban nl:Taliban no:Taliban pl:Talibowie pnb:طالبان ps:د طالبانو اسلامي غورځنګ pt:Talibã ro:Taliban ru:Талибан scn:Talibbani sh:Talibani simple:Taliban sk:Taliban sr:Талибани sv:Taliban ta:தலிபான் te:తాలిబాన్ tl:Taliban tr:Taliban uk:Талібан ur:تحریک الاسلامی طالبان vi:Taliban yi:טאליבאן yo:Taliban zh:塔利班 zh-yue:塔利班

個人用ツール