ジョン・ケージ

出典: Wikipedio


Template:Infobox Musician Template:クラシック音楽 ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニアJohn Milton Cage Jr.1912年9月5日 - 1992年8月12日)はアメリカ合衆国出身の音楽家作曲家詩人、思想家、キノコ研究家。実験音楽家として、前衛芸術全体に影響を与えている。独特の音楽論や表現によって、音楽の定義をひろげた。「沈黙」をも含めたさまざまな素材を作品や演奏に用いており、代表的な作品に『4分33秒』がある。

目次

生涯

誕生-少年時代

カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれる。父のジョン・ミルトン・ケージ・シニアは発明家で、母方の叔母と叔父には音楽家がいる。父は1912年に潜水艦を建造して当時の世界記録を更新したが、ガソリン・エンジンだったため兵器には採用されなかった。ケージは家族の転居によって多くの学校に通い、サンタモニカでピアノを習いはじめる。ロサンゼルスのハイスクールを優秀な成績で卒業し、クレアモントポモナ・カレッジに入学するが、学業に興味を失い渡欧の計画を立てる。

1930年代-40年代

1930年パリ建築家エルノ・ゴールドフィンガーに建築を学んだのち、マジョルカではじめて作曲を行なうが、当時の作品は現存していない。31年にアメリカに戻り、ピアニストのリチャード・ビューリックに頼み込んで音楽を学ぶ。のちにヘンリー・カウエルの紹介でアルノルト・シェーンベルクに師事し、1934年から1937年にかけて南カリフォルニア大学のシェーンベルクのクラスで学んだ。1933年から、現存する最初の作品を創る。1937年の文章「音楽の未来 クレイド」(『サイレンス』所収)では、電気楽器の可能性、ノイズの重視、実験的音楽センターなどのアイディアを述べている。

1940年に、グランドピアノに異物(ゴム・木片・ボルトなど)を挟んで音色を打楽器的なものに変化させたプリペアド・ピアノを考案する。1942年マックス・エルンストの招きでニューヨークに出て画家たちと親交を持ち、1944年、のちに生涯のパートナーとなるマース・カニンガムとの最初のジョイント・リサイタルを行なう。45年からの2年間、コロンビア大学鈴木大拙を2年間学び、東洋思想への関心も深める。1948年にはノースカロライナ州ブラック・マウンテン・カレッジで教鞭をとり、同じく教師であったバックミンスター・フラーや、生徒のロバート・ラウシェンバーグと交友を持つ。この時期の代表作に、『プリペアド・ピアノの為のソナタとインターリュード』(1946年 - 1948年)などがある。

1950年代-70年代

1951年、ハーバード大学無響室を体験する。ケージは無響室に入ったときに体内からの音を聴き、沈黙をつくろうとしてもできないこと、自分が死ぬまで音は鳴り、死後も鳴りつづけるだろうと考えた。この体験は作風に大きな影響を与える<ref>『サイレンス』 25頁、36頁</ref>。1954年に、ストーニー・ポイントで菌類学の勉強をはじめる。1950年代初頭には中国のなどを用いて、作曲過程に偶然性が関わる「チャンス・オペレーション」を始め、さらに演奏や聴取の過程に偶然性が関与する不確定性の音楽へと進む。やがて、それまでの西洋音楽の価値観をくつがえす偶然性の音楽を創始し、演奏者が通常の意味での演奏行為を行わない『4分33秒』や、何をしてもよい『0分00秒』などを生み出した。この時期には、芸術運動のフルクサスとも関わりをもっている。

1963年、ニューヨークにてエリック・サティの『ヴェクサシオン』を上演する。世界ではじめてサティの指示どおりに840回の反復を行ない、演奏は18時間にわたった。また、サティの『ソクラテス』から派生したピアノ曲『チープ・イミテーション』(1969年)を作曲している。

晩年、死去

1989年には日本の稲盛財団により京都賞を授けられている。晩年には、チャンス・オペレーションを用いた展覧会「ローリーホーリーオーバー サーカス」を構想していたが、1992年8月12日、脳溢血のためにニューヨークで死去した。この展覧会は死後の1993年に実現し、日本では94年から95年にかけて水戸芸術館で開催された。

人物

Template:出典の明記

  • 音楽の師であるシェーンベルクに弟子入りするとき「一生を音楽に捧げる気があるか」と問われた。ケージは「はい」と答え、シェーンベルクのもとで2年間音楽を学んだ。その後、シェーンベルクはケージに「音楽を書くためには、和声の感覚をもたなければならない」と言った。それを聞いたケージは自分が和声の感覚を全くもっていないことをシェーンベルグに告白した。すると、シェーンベルクは「それは君にとって音楽を続けることの障害になるだろう。ちょうど通り抜けることのできない壁につきあたるようなものだ」と伝えると、ケージは「それなら、私は壁に頭を打ち続けることに一生を捧げます」と答えた。
  • 生活は貧しく、師のシェーンベルクが50歳過ぎでもアメリカで奨学金を追い求めて苦労したように、幼稚園児の送り迎えのアルバイトをしていたと言われる。50歳を過ぎた頃にはケージは既に著名な存在であったが、自分のネームバリューをわかっていてもそのような仕事をやりたがる気質だった。
  • どこへ行くにもボロボロの普段着で出かけ、電話帳にも実名を載せたために普通のファンの電話もマネージャーを介さず全て自分で取った。このことが仇となり、晩年にはただの老人と誤認されて強盗に襲われた経験を持つ。
  • いつもニコニコと笑っており「ケージ・スマイル」(一柳慧の日本語訳は「啓示微笑」)と親しまれたが、1970年のフランスでの討論の際は、無感動な表情をとり続けていると指摘されたこともある。当日のケージは、感情から自由になることを説いていた<ref>『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』 34頁</ref>。
  • 京都賞受賞時に「絶対に正装はしない!シャツとジーンズで出る」と言い張り、関係者との間でトラブルになった。このとき、「日本の伝統衣装、たとえば羽織なら」というスタッフのアドヴァイスに好意を抱き、羽織袴着用での受賞となった。
  • 死ぬ最後の朝も、いつもの様に事務所の雑用をこなしていたと言われる。

作風と主要作品

音楽についての考え

当初、ケージは自らの音楽が「実験音楽」と呼ばれることに異議を唱えた。いかなる実験も、作品が完成する前に行なわれていると考えたためである。しかしのちには、結果を予知できない行為を「実験的」と表現し、自身が特に興味をおぼえ、傾倒するすべての音楽を実験音楽と呼ぶようになった<ref>『サイレンス』 24頁、33頁</ref>。

実験音楽においては、音以外に何も起らない。楽譜にない音は沈黙となって現われるが、外界に生じる音に対して開かれていることを意味する。音は常に存在しており、音はあるがままにして聴くべきである。そして実験的な行為は、通知された行為とは異なり、物事をあるがままにとらえるとしている。こうした考えは、無響室での体験がもとになっている。
音楽
音楽という言葉を、「音の組織化」という表現に置き換えようと提案した。音楽という表現は、18世紀から19世紀にかけて完成された楽器を使ったものに使われすぎていると考えた<ref>『サイレンス』 18頁</ref>。
作曲者、演奏者、聴衆の関係
ケージの作品は、演奏者によって内容が大きく異なる。彼は演奏者が作曲者になり、聴衆が演奏者になり、作曲家が聴衆になり、音によって互いに浸透すると考えた<ref>『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』 119頁</ref>。
レコード
レコードを用いた作品を発表したが、自作をレコードに録音することには積極的でなく、レコードを「景色を台無しにしてしまう絵葉書」と呼んだ<ref>『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』 27頁</ref>。

1930年代-40年代

初期の作品はシェーンベルクの音楽の直接の継承者の一人であるかのように、音列処理リズム処理のある作品が多数を占める。1930年代の『クラリネットの為のソナタ』や『メタモルフォーシス』、いまや打楽器のレパートリーである打楽器合奏の為の第1から第3までの『コンストラクション』がこれにあたる。後者ではウォーター・ゴングなどの新しい奏法の発想が芽を出し始めている。

1940年ごろからアイディアが最優先する発明作品が増え、居間にある全ての物体を叩いて音楽を作る『居間の音楽』、史上最初のプリペアド・ピアノ作品である『バッカナル』、ピアノの蓋を閉めて声楽を伴奏する『18の春を迎えた陽気な未亡人』などがある。

1950年代-60年代

1950年代以降になると、現在でも有名な作品が続々と出現する。貨幣を投げて音を決めた最初の偶然性の音楽である『易の音楽』(1951年)は、モーツァルトによる『音楽のサイコロ遊び』に似ている。ケージの作品で最も有名なもののひとつである『4分33秒』(第1番)は、1952年に発表された。『4分33秒』は、コンサート会場が一種の権力となっている現状に対しての異議申し立てであると同時に、観客自身が発する音、ホールの内外から聞こえる音などに聴衆の意識を向けさせる意図があったが、単なるふざけた振る舞いとみなす者、逆に画期的な音楽と評する者のあいだに論争を巻き起こした。

同じころには、任意の42枚のレコードをテープに録音した『心像風景第5番』も現われた。この他、ラジオを楽器に見立てて構成した『ラジオ・ミュージック』(1958年)、声楽の可能性を大幅に拡張し、後世のルチアーノ・ベリオの『セクエンツァIII』やディーター・シュネーベルの合唱曲『AMN』に影響を与えた『アリア』、偶然性の音楽で初演時のドナウエッシンゲンの聴衆の野次も録音した『ピアノとオーケストラのためのコンサート』などがある。

1960年代には、プラスチック板を自由に組み合わせて楽譜を作り演奏する不確定性音楽の『カートリッジ・ミュージック』(1960年)、『4分33秒 第2番(『0分00秒』)』(1962年)、チェンバロを録音して変調し更に生のチェンバロと合わせる『HPSCD』(1969年)などを発表し、著書『サイレンス』を出版した。

1970年代以降

日本やヨーロッパからの委嘱が増える。『南天練習曲集』(1975年)は特殊奏法を使わないピアノ曲集であり、音を置いていくという手法で、リズム調性を無視し残響で表現をした。80年代のオペラ作品『ユーロペラ』I~Vは、フランクフルトの第一部初演後に浮浪者の放火で全焼した。その他、日本との思想的・精神的かかわりが強調された『Haikai・IとII』や『RENGA』、『龍安寺』、史上最長の演奏時間で知られ、ドイツハルバーシュタットで機械による演奏が続いているオルガン曲『Organ2/ASLSP』(1987)などがあるが、『ASLSP』は「AS SLOW AS POSSIBLE(できるだけ遅く)」の意味であり、ブキャルディの廃教会にて、2000年から2639年にかけて演奏される予定になっているが、全く聴かない方法もある。<ref>詳細はWikipedia英語版 As Slow As Possibleや、John-Cage-Orgelprojekt Halberstadt(英語・ドイツ語)を参照</ref>。

晩年は、ナンバー・ピースと呼ばれる題目が数字だけの作品が増える。巨大編成のオーケストラ作品『101』、90分の白黒映像に合わせて作曲されフランクフルトで初演された、一種のライヴ映画音楽の『103』、故意に合わせないため指揮者を排除した事実上のチェロ協奏曲で、初演時のシュトゥットガルトの1500人入りの見本市会場が満員になった五管編成の『108』One。などがある。

キノコ研究

ケージはキノコの研究家として博士号を持ち、1962年にはニューヨーク菌類学界の創立に関わった。キノコを好む理由の一つは、辞書で "music" の一つ前が "mushroom" だったからだと言われている。ケージはキノコから創作や思想の着想を得ており、みずからの音楽論とキノコの関係について語り、キノコの生態が出す音について想像し、エリック・サティの音楽をキノコにたとえた。キノコの魅力として汲み尽くしがたい点をあげ、知れば知るほど識別する自信が薄れると語った。普段は火を通していた毒キノコを散歩で見つけて食べ、中毒を起こしたことがある。ケージは、キノコを麻薬として使おうと思ったことはないかと質問されたとき、麻薬には興味がなく、一度も思ったことがないと答えた<ref>『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』 191頁</ref>。

また、キノコの性が多様であることから、人間の雌雄の概念は、本来は複雑な状態を単純化したものではないかと考え、性の多様化を提唱した<ref>『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』 186頁、190頁、237頁</ref>。1958年のイタリア滞在の際は、テレビのクイズ番組「いちかばちか」(Lascia o Raddoppia?)に出演。菌類学について解答し、賞金と「最も好感を与える競争者賞」を得た。三宅榛名は、ニューヨークのケージの家へ行ったときに真っ黒なキノコのシチューをふるまわれている<ref>『「ジョン・ケージのローリーホーリーオーバー サーカス」記録集』 29頁</ref>。

思想

有用性(ユーティリティ)にもとづく独自の思想を展開し、所有や生産性のかわりに有用性を重視して生活することを提唱した。みずからをアナーキストだと見なし、政治とは支配することであり、政治、政府、官僚主義を不要だと語った。

影響を受けた思想家として、フラー、鈴木大拙、マーシャル・マクルーハンヘンリー・デイヴィッド・ソローノーマン・ブラウンマイスター・エックハルトアナンダ・クーマラスワミ荘子などをあげている。ケージは自身の思想について、書籍『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』で詳しく述べている。

受容と影響

  • ケージの音楽は通常の演奏会で取り上げられる機会も増えており、歴史的な評価は定まりつつあると言えるTemplate:要出典
  • 21世紀の現在、ドイツの幼稚園や小学校では、偶然性の作曲法を園児や児童に教えて作曲させ、保母・先生や児童に演奏させているところがある。FMラジオのインタビューでは、園児や児童はこれをクラシック音楽の一部ととらえている。その原因は、音楽大学で偶然性の作曲法について教育を受けた教師が現場にも浸透しているためといわれるTemplate:要出典
  • 日本には、唯一の日本人の弟子に一柳慧がおり、近年は伝統的な形式の交響曲を複数発表している。また、嶋津武仁は、雑誌『音楽の世界』などで彼を作曲家としてよりも思想家として認めるなど保守的な思考が目立つTemplate:要出典。エリック・サティの研究で知られる秋山邦晴は、1952年以来ケージと交流を続け、ドイツでのケージ70歳記念番組では『叙雲啓示頌』を作曲した。高橋アキは晩年のケージと親交があり、献呈された『家具の音楽エトセトラ』を演奏している<ref>『「ジョン・ケージのローリーホーリーオーバー サーカス」記録集』 26頁</ref>。

主要作品リスト

List of compositions by John CageWorks for prepared piano by John Cageも参照。

音楽

ちなみにこの曲目は、全く聴かないやり方がある。当該のオルガンの音色を聞かないこと。

楽器

絵画

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  • 『表面』 (1980年)
  • 『シリーズ』 (1988年)
  • 『ニュー・リバー・ウォーターカラー』 (1990年)
  • 『食べられるドローイング』 (1990年)

パフォーマンス

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書籍、テキスト

その他

参考文献・脚注

  • 庄野進 「転換期の音楽としての John Cage の偶然性による音楽」 『音楽学』第22巻3号、1976年。
  • ダニエル・シャルル 「ジョン・ケージ年譜」 『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』所収 青土社、1982年、256頁。
  • 『「ジョン・ケージのローリーホーリーオーバー サーカス」記録集』 水戸芸術館現代美術センター、1995年。
  • ジョン・ケージ特集 『水声通信 no.16』 水声社、2007年。
脚注

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関連項目

外部リンク

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