ジャッキー・チェン

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Template:雑多な内容の箇条書き Template:Infobox Chinese-language singer and actor ジャッキー・チェン成龍Template:繁体字広東語発音:シン・ルン、1954年4月7日 - )は、香港出身の映画俳優。身長174cm。血液型はAB型。

京劇中国武術で鍛えた身体能力を活かして、それまで暗い復讐劇が多かったカンフー・アクション映画の世界に、ハロルド・ロイドバスター・キートンなどのコメディ映画の要素を取り入れた、コミカルで明るい作風のカンフー映画を送り込み、一躍アジア圏で有名になる。その後ハリウッドにも進出し数多くの映画に主演。50歳を越えた現在でも自らアクションスタントをこなすことで知られる。代表作は『プロジェクトA』など多数。

妻は、台湾の元女優林鳳嬌(リン・フォンチアオ)。息子は同じく俳優の房祖名(ジェイシー・チャン)。初主演作『花都大戦/ツインズ・エフェクト2』で親子共演を果たしたが、同じ画面に収まることはなかった。

日本では、石丸博也がもっぱら吹き替えており、ジャッキーといえば、彼の声を連想するものも少なくない。また、初期のDVD版では山野井仁が吹き替えた作品もある。

日本ではあまり知られていないが、中華圏ではスキャンダルや問題発言が多く、その言動が物議を醸すこともある。

目次

経歴

幼少期・香港時代とブルース・リー

ジャッキー・チェンは、1954年に香港ヴィクトリア・ピークにて「陳港生」として生まれた。父親は陳志平(チャールズ・チャン、家系図上では房道龍)、母親は陳莉莉(リリー・チャン)<ref>両親については、Charles and Lee-Lee Chan参照</ref>。陳志平は、国共内戦を避け、中国大陸から香港に逃れた。

7歳から約10年間、中国戯劇学院にて京劇を学び、学院の閉鎖後、映画のエキストラやスタントマンを務めた。

彼の生い立ちは、メイベル・チャン監督の『失われた龍の系譜 トレース・オブ・ア・ドラゴン』(2002年)に詳しく、ジャッキー本人も知らない兄弟の存在など複雑な家庭環境を持ったことが紹介されている。また、この作品においてジャッキーの本名は陳港生ではなく、房仕龍であると明かされている。

彼の青春時代を描いた、メイベル・チャン製作総指揮・脚本、アレックス・ロー監督の『七小福』(1989年)では、厳しい京劇の学校での生活と、香港映画界へと進むまで姿が描かれている(ただしジャッキー・チェン本人は出演していない)。

無名時代、ブルース・リーの映画『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では、門下生の中のエキストラや、ラスト近くでブルース・リーに蹴られて障子を突き破る重要なシーンでのスタントマンを務め、『燃えよドラゴン』(1973年)ではブルース・リーに首を折られるエキストラ役としても出演した。一旦オーストラリアに移住し俳優業から離れるが、のちに香港へ戻り、映画会社ゴールデン・ハーベスト社と契約し、多数の映画に出演した。

当時の香港映画界は、ブルース・リーの死によって低迷期にあり、ブルース・リーのそっくりさんを使った作品や、クオリティの低い二番煎じ的なカンフー映画が乱発されていた。ジャッキーも、初期作品ではブルースの後継者として期待され、復讐劇でのシリアスな役まわりが与えられる事が多かったが、大成功には至らなかった。そうした反省も踏まえ、ジャッキーは制作側に注文し、ストーリーやアクションにコミカルさを交え、自身のキャラを生かした作品を作ることを目指す。これが『スネーキーモンキー 蛇拳』(1978年)といったヒット作の誕生につながった。また、自ら命懸けのスタントをこなす姿勢も評価され、人気を得ていった。

一時期、批評家からの声に刺激され文芸路線を手がけたこともあったが、興行的な不振とファンからの要望を受け、再びエンターテイメント路線に復帰した。

ハリウッド進出

元々、ハリウッド進出の意欲は高く、『バトルクリーク・ブロー』、『キャノンボール』、『プロテクター』など米国作品に主演・出演してきたが、評価は高まらなかった。しかし、1995年公開の香港作品『レッド・ブロンクス』が全米興行収入初登場1位というアジア映画初の快挙を成し遂げ、再びハリウッドへの道が開けた。

そして1998年の『ラッシュアワー』の大ヒットで、ハリウッドスターとしての地位を築いた。このラッシュアワーシリーズの続編『ラッシュアワー2』は全世界興行成績で驚異的な大ヒットを記録する。その後『シャンハイ・ヌーン』『タキシード』『シャンハイ・ナイト』『80デイズ』など、立て続けにアメリカ映画作品に主演。アメリカを中心に世界各国での知名度が上がり、アカデミー賞のプレゼンターとしても登場するなど、世界を代表する東洋人ハリウッドスターとなった。

だが香港では、これらのジャッキー主演ハリウッド映画はいずれも不入りをかこっており、『タキシード』『シャンハイ・ナイト』『メダリオン』などは、ジャッキーがスターになって以来最低レベルの興行成績に甘んじる結果となった<ref>野崎歓『香港映画の街角』青土社、2005年、310ページ</ref>。

2007年には長年の友人である真田広之との初共演が実現した『ラッシュアワー3』が公開され、公開週で全米No.1を獲得するヒットとなった。また、2008年にはジェット・リーとの初共演作『ドラゴン・キングダム』が公開された。

日本での大ブレイク

1970年代の日本は、ブルース・リー映画の大ヒットの影響で、千葉真一志穂美悦子主演の空手やカンフーの映画が多数制作され、とくに東映は香港のカンフー映画の輸入に熱心だった。そんな中、1979年に東映のドル箱映画シリーズ『トラック野郎』との2本立てで公開された『ドランクモンキー 酔拳』が大ヒット、トラック野郎の恩恵も有り配給収入は約9億3000万円を記録。『トラック野郎』より『酔拳』が話題となり、続けて『スネーキーモンキー 蛇拳』『クレージーモンキー 笑拳』『拳精』(拳シリーズと呼ばれる)も公開され、日本でのジャッキーフィーバーが巻き起こった。その後も拳シリーズは1年ペースで、『少林寺木人拳』『龍拳』『蛇鶴八拳』等が公開され話題を集めた。なお当時の映画館では、「ジャッキー・チェン大会」「ジャッキー・チェン祭り」等の名目で、拳シリーズを3本、4本立てにしてイベント的に特別上映をやっていた。

その後『ロードショー』誌の「好きな俳優」投票において6年間連続1位を獲得するなど、1980年代の日本でのジャッキーフィーバーは凄まじく、当時の少年たちのスーパーアイドルであった。映画はテレビでも続々と放映され、とくに石丸博也吹き替えが、同じ東洋人であるだけに分かりやすく共感を呼び、好評を博した。いまだに「ジャッキーの声は石丸博也。字幕には馴染めない」という人は多いが、日本語の吹き替えに拒否反応を示す根強いファンも少なくない(1990年代頃までの過去の作品はジャッキーの肉声ではなく、別の役者によって吹替えられている。これはジャッキー作品特有のものではなく、当時の香港映画界では、声優の職場確保のため、また北京語以外は輸入映画扱いとなっていたため、広東語主体の劇映画は撮影時に音声の録音をせず、後からプロの声優によって北京語・広東語・英語音声の音源が作られるというシステムになっていたことによる。最近は、ジャッキーも含め、出演者本人の台詞を録音して使うことが主流となっている)。

1980年代から1990年代にかけて、ファン達による私設(個人)ファンクラブが多かった事は有名で、「不死鳥成龍会」「MIRACLES」「無問題倶楽部」「チャイニーズドラゴン」等が存在し、それぞれが会員を募集し、会報発行、ファンの集い等の活動を行い、熱狂的にジャッキーを応援していた。当然ながらジャッキーも、そのスタッフ達が香港まで取材(インタビュー、写真撮影等)で訪れた際は、喜んで対応してくれていた。

1980年代には、『月刊コロコロコミック』にて、ジャッキーをパロディー化したキャラクター「ジャッキーちゃん」が主人公のギャグ漫画「あほ拳ジャッキー」(作・ぜんきよし)が連載された。ちなみに同作品にはブルース・リージェット・リーのパロディーキャラも登場している。またジャッキー・チェンのパロディキャラといえば『ハイスクール!奇面組』にも若気市猿(じゃきいち・えん)という一回性のキャラクターが登場する。

またゲームソフトにも多数登場している。ジャッキー関連の初のゲーム化は1984年にアーケードゲームで登場した『スパルタンX (ゲーム)』であるが、ゲーム自体は映画の内容とは関連性は無かった。しかし1985年に発売された、ファミコン用ソフトの『スパルタンX』のパッケージの絵はジャッキー似のキャラとなっている。

1991年には、PCエンジンファミコン用ソフトの「ジャッキーチェン」がハドソンから発売された。このゲームの発売当時のゲーム雑誌インタビューでは、ジャッキー自身のアイディアも一部ゲーム中に取り入れられているとコメントしている。

1995年、日本のゲームメーカー、カネコが製作したアーケード用対戦型格闘ゲーム「カンフーマスター ジャッキー・チェン」に出演。このゲームのキャラクターはグラフィック画ではなく、実際の俳優を撮影し、画像を録り込んで使用していることから、ジャッキー本人がゲーム画面のキャプチャ撮影を行った。なおこのゲームにおいてジャッキーはプレイヤーキャラクターではなく、なんと最終ボスとして登場する敵役である。登場する服装は数パターンあり、クンフーの稽古着や『プロジェクトA』内で着装した警察の正装で戦う。 因みに続編では晴れてプレイヤーキャラとなった。

2005年には、家庭用体感ゲームの事業にも参加している。同年秋にゲーム事業のイベントで来日した際には、関係者から『スパルタンX』がゲーム化されていることを初めて聞き、無言で手を差し出す(権利料を払え、の意)という行為を行い、場が凍りつくハプニングがあった。直後にジャッキーは満面の笑みでジョークであることをアピールし、事なきを得た。

2006年西陣よりパチンコ機「CRジャッキー・チェン」、2007年には藤商事により「CRプロジェクトA」が製作された。

来日した際には日本のテレビ番組にもゲスト出演する事が多い。近年では、日本テレビの『ザ!鉄腕!DASH!!』でTOKIOのメンバーと数回にわたり様々なゲームで対決をしている他、テレビ朝日の『内村プロデュース』などにも出演している。

2007年秋には、上戸彩とともにオロナミンC大塚製薬)のCMに出演し、『プロジェクトA』の時計台のシーンのパロディを演じた。

2008年4月に発売された、PS3用ソフト「プロ野球スピリッツ5」において東京ドームでプレイした際、外野後方にあるオロナミンCの看板に、ジャッキー・チェンが写っている。

その他の活動

俳優だけではなく、歌手としても活動していて、彼の映画の主題歌は、彼自身が歌う事が多い。 歌はロックレコード李宗盛から学んだ。

1980年代には自身が無名時代からファン親友西城秀樹と共に東洋の2大スーパースターと称された。1987年の琵琶湖コンサートでは同じステージに立って「ギャランドゥ」他を一緒に熱唱した。 

陳淑樺(サラ・チェン)との「明明白白我的心」は中華圏ではよく知られてて、今でもデュエット・ソングとして人気がある。

1996年発表の「夢で会えたら」(再見寧願在夢中/Would Rather Say Goodbye In Dreams)は、彼の代表曲とも言える珠玉のポップスである。

日本での本格的歌手デビューは、1983年の五輪真弓による「マリアンヌ」でシングルレコードによる発売。 ただし、レコード・デビューとしては、1980年に『ヤング・マスター師弟出馬』の日本公開版主題歌として発売された「さすらいのカンフー」が最初である。

ファースト・ミッション』(1985年)日本公開版では、オープニング、エンディングとも日本語のオリジナル曲(チャイナブルー、東京サタデーナイト)を本人が歌った。 「東京サタデーナイト」に関してはジャッキーもかなりのお気に入りらしく、最近の公の場でも口ずさむ時がある。

現在、香港政府観光局観光大使を務め、2003年夏に行われた自身のファンクラブツアーで香港に来たファンを機内で自ら出迎える、というサービスも行っている。

韓国でも大変人気が高く、本人もたびたび韓国を訪れている。そのため韓国語も流暢に話すことができる。

2009年5月2日には2010年上海国際博覧会の広報大使に任命され、開幕1年前のカウントダウンイベントでは記念テーマ曲「城市(City)」を披露している。

今後の活動

2004年に香港のエンペラー・エンターテインメント・グループ(英皇娯楽集団)と提携して、自らの映画制作会社、成龍英皇影業有限公司(JCE Movies Limited)を設立した。

以前は自分自身が主演であることへのこだわりを見せていたが、近年ではアクションスターとして第一線から退くことを示唆している。2000年代に入ってからは、若いスターの発掘やプロデュースに積極的に進出しており、最近の発言でも「次世代を育てることに力を入れていく」ことを明言している。近年は、事あるごとに引退を示唆する発言をしている。

アクション

  • ジャッキーのアクションシーンは、格闘家や元スポーツ選手、スタントマンで構成された『成家班(ジャッキーズ・アクション・チーム)』(ロー・ワイコン、マース、ロッキー、ブラッドリー・アラン、ロッキー・ライ、ダニー・チュウ、ベニー・ライ、タイ・ボー、ポール・ウォンなど)の仲間に支えられている。成家班はジャッキー作品映画に脇役・悪役で出演し、アクション(殺陣)を作り上げている。
  • ジャッキーはハリウッド進出を目指し『キャノンボール』(1981年)に出演したが、ジャッキー自身は端役での出演であった。しかし、この『キャノンボール』のエンディング・ロールでNGシーンを流していたことがジャッキー自身の心にとまり、『プロジェクトA』以降必ずといっていいほどジャッキー作品のエンディング・ロールにNGシーンが使われるようになった。『キャノンボール』の日本での配給収入は20億円を突破し、同年公開の『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』、『ロッキー3』を上まわる興行収入を記録した他、日本以外の国々でもヒットしたが、ジャッキーの地元・香港ではまったくあたらなかった。

時計台落下シーン

日本でも大ヒットした1983年作品『プロジェクトA』でのワンシーン、25メートルの時計台から地面に落下するアクションはまさに命がけスタントであった。未だにこの時計台落下はジャッキー映画ファンの間では語り草となっている。ちなみに、この時計台落下シーンは喜劇王ハロルド・ロイドの『要心無用』からヒントを得ている。ジャッキーはこのシーンの為に3回時計台から落下し、全てのカットを本作で見ることができる(本編に使われたのは2つで、落下の仕方が異なっている。残る1つは落下失敗で、屋根が破れずにNG。これはエンドクレジットのNGシーンで採用。大怪我を負ったのは最初のテイクで頭から地面に落ちたこのカットは非常に衝撃的で有名なものとなった)。

人物

エピソード

  • 名前の陳港生は、香港生まれという意味。出生時の体重は5,680グラムもあり、母親のお腹の中に12か月程度いたとされる。
  • 家系図上での本名は房仕龍とされており、唐代の宰相房玄齢の子孫だと自称している。
  • 英語名を日本欧米での芸名としている。日本では当初「ジャッキー・チャン」として活動する予定であったが、諸事情により日本のみ「ジャッキー・チェン」で活動することとなった。息子の苗字は「チャン」になっている。
  • 愛称は「大哥」(タイコー、大兄貴の意)<ref>先輩であるサモ・ハン・キンポーの愛称は「大大哥」(タイタイコー/大大兄貴の意)であり先輩としての尊厳を損ねないよう差別化されている。さらに「哥哥」といえばレスリー・チャンの愛称である。</ref>。
  • 1994年読字障害であることを告白したが、現在は克服している。広東語北京語英語韓国語に堪能で、日本語も少し話せる。
  • 無名時代のある日の事、ジャッキーが休日に一人でボウリングに行こうと道を歩いていると、前から偶然ブルース・リーと遭遇。二人は仲良くボウリング場へと足を運んだが、リーはジャッキーのプレイを後ろから見るだけで「じゃ、用事があるからこれで……」と言い残し、すぐに帰って行ったということがあった。
  • 『七小福』時代からの仲間であるサモ・ハン・キンポーに反発を抱いていた。両者の作品に対する取り組み方(ジャッキーはアクション(特に美しさ)に対する拘りが強く、サモ・ハンは娯楽性に重点が置かれる傾向の作品が多いなど)の違いにより仲があまり良くなかったようだが、『プロジェクトA』ではユン・ピョウの計らいにより関係修復し共演が実現した。互いの監督作品にも出演し、1983年~1985年に多くの共演作品が日本でも公開された。同時期に制作された両者の監督作品は、ジャッキー監督は『プロジェクトA』『ポリス・ストーリー/香港国際警察』の2作品、サモ・ハン監督は『スパルタンX』『福星』シリーズ等5作品。再び空白期間を迎えるが、現在では、香港電影金像奨での功労賞の同時受賞、香港の年越しイベントでの『七小福』の共演、お互いのスタントチームの共有をしているなど、仲は修復しているようである。
  • 酔拳』(1978年)撮影時に、顔が赤くなっているのはメイクではなく、撮影前に逆立ちし、頭に血をのぼらせて撮っていた。
  • トム・クルーズやジョニー・デップと並び、ジャッキーがファンへのサービス精神が旺盛なのは有名で、香港の撮影所まで訪ねたファンに対しては、撮影中で忙しいにもかかわらず、サインや2ショット写真等、常に特別待遇で接してくれている。
  • シャンハイ・ヌーン』では馬術アクションを披露。数々のアクションを自らこなしてきたものの、当時は乗馬が初めてであり、手なづけることに非常に苦労を重ねていた。
  • ラッシュアワー2』撮影時に、チャン・ツィイー英語が話せず、ジャッキーに通訳してもらいつつ撮影に臨んだ。彼女は英語の必要性を痛感し、後に勉強を始めて約2年間で習得した。
  • 2003年、『80デイズ』の撮影のためにベルリンに滞在した時、バディーベアに出会い、翌2004年に香港ビクトリアパークでこのバディーベアを展示できるように取り計らった。この展示会の開催で、ユニセフと2つの恵まれない子供たちのための団体が414万香港ドル(約5700万円)を手にした。

トラブル

ジャッキー・ジャック事件

売出し中の俳優であったロー・ウェイの個人プロダクション時代からローとは折り合いが悪く、この仲違いの末、ジャッキーは当時のゴールデン・ハーベスト社長レイモンド・チョウ、自分のマネージャーであり親友のウィリー・チェンらと図り、ローのプロダクションから半ば強引に離脱した。この顛末をジャッキーは自伝『僕はジャッキー・チェン』で詳細に述懐しており、その内容を以下に要約する。

他社にレンタル出向して制作された『スネーキーモンキー 蛇拳』『ドランクモンキー 酔拳』が大ヒットした際、ジャッキーと彼のマネージャーであるウィリー・チェンは「ローの制作するジャッキー作品は、(いずれも全くヒットしなかったため)配給会社が警戒して買わなくなっており、このままローの元に戻ったら駄目になる」と決心し、ローへ退社を申し出た。ところがローはジャッキーの契約書の解約違約金の項目を、10万香港ドルから「1000万香港ドル」に改ざん、ジャッキーを逃さない手を打っていた。しかしその後、ローの契約支配人がジャッキー側に翻身し、ローが契約書を改ざんしたことの証人となることを約束したため、ジャッキーはゴールデン・ハーベスト社で新作『ヤングマスター 師弟出馬』の制作を開始する。

ジャッキーに契約破棄状態で逃走されたローは、「三合会」と呼ばれる当時の香港芸能マフィアを利用してジャッキーの強制連れ戻しを図る。三合会はジャッキーを拉致してローの面前へ引き出し、ローはジャッキーに再契約を迫る。もっとも三合会は「儲からない者は助けない」のであり、ローにとっても三合会を利用するということは、もしジャッキーとの交渉が決裂すれば自身に危害が及ぶ危険性があることでもあった。ウィリー・チェンは状況打開のため各方面と交渉し、まずローの1000万ドル契約については(虚偽の契約であるが)ゴールデン・ハーベスト社のレナード・ホーが「ジャッキーに対する投資」名目で解決することとなり、ローはジャッキーの契約及び未公開作品の権利をゴールデン・ハーベスト社に売却した。最も厄介な三合会の件は、黒社会との繋がりの深い元祖香港映画のドン、ジミー・ウォングに間を取り持ってもらい一件を手打ちにし、ジャッキーは三合会に狙われることはなくなり、ローもまた三合会と手を切ることができた。これにてジャッキーは事なきを得ている。もっともその義理立てとして、ジャッキーはジミーの主演作品『ドラゴン特攻隊』『炎の大捜査線』に準主演級で出演しており、これらの作品に出演したことについてジャッキーは「両方とも酷い作品だったが、借りを返すこと以上に重要なことはない」などと説明している。

この一連の事件について、当時はジャッキーら当事者からプレス向けに事情説明がほとんどなく「ゴールデン・ハーベストがジャッキーを強引に引き抜いた」などと言われ、「ジャッキージャック」とゴシップとなる。日本においては、『クレージーモンキー 笑拳』初公開時のパンフレットにおいて、映画評論家日野康一氏が「ジャッキー・チェンをめぐる二、三の事情」と題して初めてこのトラブルに言及しているが、この中では「恩師ロー・ウェイからゴールデン・ハーベスト社に無理矢理さらわれてしまった かわいそうなモンキー」といった内容となっている。

なお、1980年代から1990年代の香港映画黄金期の頃は黒社会系列の映画会社が数多く跋扈しており、その後ジャッキーは香港映画界からの黒社会マフィア)追放キャンペーンでは陣頭に立っている。

台湾に関する発言

ジャッキーは2004年3月28日に親善大使として上海を訪問、演説を行った。しかし、演説の草稿を無視し、台湾の選挙直前に起こった三一九台湾総統・副総統銃撃事件を「天大的笑話」(大きなジョーク)とし、中国と台湾が統一したほうが中国を更に強大にすると発言。このことで、台湾のメディアや民衆の強烈な反感を買った。行政院新聞局局長である姚文智氏は彼が「中国に媚びている」と批判。このことで、ジャッキーの人気は台湾で一気に下落し、彼の新作映画の興行に影響を及ぼした(『80デイズ』(台北市1014万台湾元)、『THE MYTH/神話』(台北市1100万台湾元)『香港国際警察/NEW POLICE STORY』(台北市900万台湾元))。また、王丹などの民主運動家がジャッキーに民主選挙を尊重するよう要求した。

その後、ジャッキーは台湾を愛してるからこそ、そのようなコメントをしたと述べ、妻の林鳳嬌も台湾人なので、台湾には依然として特別な感情があると説明した。しかしながら、台湾における活動は一部のクレームなどにより減少した。2年後の2006年9月19日に香港映画の『プロジェクトBB』のプレミアに出席し、メディアに台湾総統陳水扁に対する抗議についてどう思うかという質問に、「だから僕が言ったことは間違っていなかった。2年前僕が言った『大きなジョーク』は、2年後の今日になって、国際的ジョーク、否、宇宙のジョークとなった。(台湾のことを)かわいそうだと思うし、香港も大陸も(台湾のことを)かわいそうだと思っている」と答えた。更に、台湾の政治が混沌としているので、2年前の「大きなジョーク」発言は取り消さないと加えた。

その他

  • 2006年の日本のテレビ番組SMAP×SMAP』では、中華料理をよく食べるわけではなく、魚卵が苦手で、また、食事は量を少なく注文すると語った。「最近の人はたくさん注文して残す。良くない」と述べた(中国では完食ではなく残す程度が礼儀とされている)。
  • ファストフード系の中華料理店「ジャッキーズ・キッチン」を展開しており、トイレに行くとジャッキー自らトイレの作法についてレクチャーするというサービスがある。
  • 嫌いな食べ物はアサリ<ref>とんねるずのとんねるずのみなさんのおかげでした・食わず嫌い王より</ref>。

女性関係

  • かつてジャッキー・チェンは若い頃、テレサ・テンと恋愛をしていた。しかし、価値観の違いや仕事の忙しさなどが原因で2人は別れることになる。その後、ジャッキーは台湾女優の林鳳嬌と結婚。テレサは1995年に気管支喘息の発作の為亡くなった。テレサの死後も、ジャッキーの彼女に対する思いと悲しみは消えることなく、ジャッキーの第2弾レコードには、テレサとのデュエット曲を収録した<ref>自伝“I AM JACKIE CHAN”の中で、テレサとの恋愛と別れ、亡くなった彼女に対する想いについて明かしている。なおテレサとのデュエット曲は、日本だけでなく中華圏でも大ヒットしたテレサの代表曲「時の流れに身をまかせ」の北京語版(「我只在乎你」)からテレサの歌声のみを抜き出し、ジャッキーのボーカルと合成して完成させたものである。</ref>。
  • 自伝『愛してポーポー』では、一時期ギャンブル中毒で身を持ち崩し、婚姻を解消したことを告白している。
  • ジャッキーは今の妻である林鳳嬌との間に、息子の房祖名をもうけた。正式に結婚したのはあくまで息子の将来のためだという。このせいか、多くの女優や女歌手との間でスキャンダルを起こした。1999年、女優の吳綺莉が、ジャッキーの子を身ごもったことを認め、同年11月19日に一女(吳卓林)をもうけた。その当時、ジャッキーは何鴻燊の名台詞である「只是風流, 但並不下流」(女たらしではあるが、猥褻ではない)を引用し、更にメディアに「犯了全天下男人也會犯的錯」(天下の男が犯す間違いをしただけ)という口実で自分を正当化した(この発言は多くの男性の反感を買った)。作家の李怡はこの発言について、「風流者到處留情, 下流者(淫蟲)到處留精」(女たらしはどこでも情を残すが、猥褻者はどこでも精を残す)とコメントした。

収入

  • 2005年12月29日付の中華民国の中央社は香港メディアの報道「台湾・香港著名人の2005年年収ランキング」によると推定2億3000万香港ドル(日本円で約30億円)である。
  • 2006年、10億香港ドル(約150億円)と言われる全財産の半分を慈善事業に寄付するよう遺言を作成したと発表された。

三菱自動車との関係

映画での三菱車の使用

ジャッキー・チェン出演作品、特にゴールデン・ハーベスト作品内では『キャノンボール』を除いて多くの作品で三菱自動車工業の車両協力を受けている。 特にランサー、ミラージュ、パジェロ、ギャランが多い

  • スパルタンX』(快餐車):デリカ(欧州名L300)ベースのハイテク移動販売車(劇中に三菱自動車のネオンサインも映る)が登場。改造は007のボンド・カーも手がけている所によるものらしい。他に劇中のカーチェイスに巻き込まれる一般車として老婆の運転するスタリオンがジャンプするシーンがあるが、ジャンプ後の老婆の台詞が車の宣伝文句ともとれるものとなっている。
  • ファースト・ミッション』:三菱・ミラージュ。九竜から香港島の市街地においてパジェロなどと派手なカーチェイスを展開する。ギャランΣも登場している。
  • サンダーアーム/龍兄虎弟』:ミラージュ・スパイダー。ミラージュベースのコンセプトカー。敵組織のウェザリングが施された数台の三菱・パジェロとカーチェイスの末、爆破される。この車は、84年のマカオGPの「ジャッキー・チェン・トロフィー」においてジャッキーが乗るペースカーとしてお披露目されたところ、ジャッキーに気に入られ、劇用車として使用されることになった。三菱は劇中のメイン車輌としてガルウイングのオリジナル車、スタント&爆破用として簡略装備のスウィングドア車、緊急脱出シーン撮影のためのエンジンなし改造車の3台を提供したが、劇中ではスウィングドア車がメイン車輌として起用されており(ガルウイングを開けるシーンもなし)、三菱の意図とは裏腹にガルウイングに豪華装備のオリジナル車が爆破されてしまった。これはスウィングドア車輌が三菱に返却されたため判明したことであり、同車は現在も保存されているらしい。
  • 大福星』:新宿駅富士急ハイランド間をミニカでカーチェイス。リチャード・ン扮する念力の運転するデリカがマイクロバス(ローザ)に追突される。
  • ポリス・ストーリー/香港国際警察』:バラック街のカーチェイスでコルディア、犯人側の車にシャリオ(外国名:スペースワゴン)。麻薬王の秘書の車にギャランΣ。署長を人質にして逃げる時はミラージュ。この作品の後半ではホンダ・シビックを運転して派手な縦列駐車を決めている(この作品以外にも三菱以外でホンダや日産、マツダの車両が劇用車で登場している)。
  • ポリス・ストーリー2/九龍の眼』:三菱・ミラージュ。運転席のヒューズ線を使って爆弾解体。この他にギャランやホンダ・シビックの覆面車も確認できる。
  • キャノンボール2』:ハイテク改造を施したスタリオンで出走(前作はスバル・レオーネ
  • プロジェクト・イーグル』:あらゆる改造が施された三菱・パジェロが登場。この特別仕様車の外観は、初期のパリダカ仕様パジェロ、水陸両用可能な点はパジェロのコンセプトカーであるフォーリストラーダを髣髴とさせる。劇中冒頭で洋上に浮かぶこの車のルーフデッキで釣りをしているシーンがある。
  • ツイン・ドラゴン』:ラストの格闘シーンは三菱の自動車テスト場での設定になっている。他にもランサーやディアマンテが劇中に登場(4ドアセダンのランサーは日本ではミラージュの4ドア)。テスト場にはなぜか日産・ブルーバードがあった。ジャッキーが格闘するシーンでは最後に悪玉をギャランΣの衝突実験車に乗せ、そのままクラッシュさせた。衝突したスピードは速度300キロとされ、シートベルト非装着のため即死だった。(なお、その前にターザンが同じ目に遭うが、遥かに低速であった上にシートベルトを装着していた為無事だった。)
  • 新ポリス・ストーリー』:ミラージュと同じくギャランはジャッキー・チェンの作品に登場する。この作品はギャランΣのスタンダードクラスのGLでカーチェイスで大破。ランサーはジャッキーが汚れた服を、新しい服を着替える為にリヤハッチゲートを開けて着替えの為に行った。ランサーはミラージュの兄弟車にあたり、ジャッキー映画でも活躍する。
  • デッドヒート』:ランサーエボリューションIII、GTOでレースに出走。序盤のシーンで、トーステン・ニッケル扮するクーガーの駆る黒いR32スカイラインGT-RFTOでチェイスしている。また三菱自動車の施設(三菱自動車・岡崎工場,現三菱ふそうトラック・バス喜連川テストコース)で研修を受けるシーンもある。その他のレース車はシビック、ギャランVR-4、マツダ・RX-7トヨタ・スープラBMW・3シリーズ等で、その多くがレース中に大破、爆破される。
  • ファイナル・プロジェクト』:三菱・パジェロ三菱・FTO、最後のジャンプで船に突っ込む。
  • フー・アム・アイ?』:飛行機から墜落し、三菱の車でクロスカントリーラリーに参戦している日本人チームに出くわすことから物語が始まる。また南アフリカでBMWとのカーチェイスでランサーエボリューションが使われている。
  • 香港国際警察/NEW POLICE STORY』:犯人を追いかけていく過程にパジェロを使用。他にもランサーエボリューションなどが登場。
  • プロジェクトBB』:現金輸送車に牽引されていったベビーカーを追いかけるためにパジェロを借りる。乳児を狙うギャング団の車にグランディス。モク警部の捜査車両にランサー。大家の車はスバル・ドミンゴ
  • またハリウッド作品でも香港が舞台だった場合三菱車が登場していたこともある(例:「ラッシュアワー2」でジャッキー扮するリー警部の愛車がランサー(もしくはミラージュ)。
  • 『デッドヒート』のパンフレットで、レーシングドライバー中谷明彦は「本気でレーサーを目指したら強敵になるにちがいない」と語っている。

映画外での関係

ジャッキー自身も三菱ふそう・ファイターのCMに出演したことがあるほか、香港-北京ラリーでは篠塚建次郎選手と日本全国の三菱ギャラン店ディーラーメカニックで構成する「ランサーディーラーチーム」の監督を務めた。ジャッキーの日本語通訳である辻村哲郎の著書によると、プライベートでも三菱・パジェロを自ら運転している。

1980年代のマカオグランプリのサポートレースで、三菱ミラージュのワンメイクレースがあり「ジャッキー・チェン・トロフィー」と銘打って行われていた。公道での賭けレースやゼロヨンも若い頃やっていたが、映画会社から禁止されるほど車にはのめり込んでいた事がある。

大変な車好きで三菱の車以外にも多数の車を所有しており、最多で52台持っていたときもある(現在はその半分程度)。 デビュー直後からポンティアック・トランザムなどのアメリカの車からホンダ・アコードプレリュードなどの日本車、ランボルギーニ・カウンタックフェラーリ数台と数多い高級車、スポーツカーを所持していた。

2005年には、中華人民共和国内のみでフォルクスワーゲン・キャディのキャラクターを務めたが、2007年4月に三菱自動車は、同国におけるブランドキャラクターとしてジャッキーを正式に起用した。ジャッキーも「私自身が三菱自動車のクルマが好き」とコメントしている<ref>Template:Cite web</ref>。

香港では風水などの思想を重視する為縁起の良いナンバープレートが高額で取引される事がよくある。ジャッキーは数年前、「JC1」のナンバーを日本円にして約数億円で手に入れた。

主な出演作品

タイトルは日本語題・原題の順。※は監督兼任

1970年代

1980年代

1990年代

2000年代

2010年代

ドキュメンタリー作品

CM

脚注

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関連項目

外部リンク

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