サガン鳥栖
出典: Wikipedio
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Template:サッカークラブ サガン鳥栖(サガンとす、Sagan Tosu)は、日本の佐賀県鳥栖市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
目次 |
クラブの概要
1999年Jリーグ加盟。ホームタウンは佐賀県鳥栖市。ホームスタジアムはベストアメニティスタジアム。練習会場は鳥栖市北部グラウンド、鳥栖陸上競技場を主に使用し、ベストアメニティスタジアム、佐賀県総合運動場陸上競技場、吉野ヶ里歴史公園、小郡運動公園、日本精工グラウンド、など鳥栖市・佐賀市と、福岡県小郡市・うきは市のグラウンドも使用する。またかつては沖縄県総合運動公園陸上競技場を公式戦で使用したことがある(沖縄県初のJリーグ開催)。チーム名の「サガン」は、小さい砂粒が固まって砂岩になるように力を結集することを表す。また「佐賀の」にも通じる。また、イタリアのサッカークラブの強豪「ユヴェントス」の音に似せているという隠れた意味もある。ちなみにこのチーム名は、サガン鳥栖結成前に鳥栖市に存在したプロサッカークラブ、鳥栖フューチャーズ解散が決定的となった頃、急遽公募して決められたものである。
ホームタウンは鳥栖市としているが、佐賀県内の他の市や町での活動にも積極的であるため、佐賀県全体がホームタウンと言っても過言ではない。また、鳥栖市に隣接する福岡県久留米市の会社ベストアメニティがスポンサーやスタジアムの命名権を取得、同じく鳥栖市に隣接する小郡市や久留米市に隣接するうきは市からの練習場の提供、これら福岡県筑後地方でもホームタウン活動を行なっていることから、筑後地方のサポーターも多くいる。しかし、Jリーグスタジアム観戦者調査報告書では活動区域外からの観戦者は06年が34.4%、07年が26.5%と減少傾向に転じている。公式ホームページなどでは「サガントス」と表記していることがあるが、これは上記のようにホームタウン活動を鳥栖市以外でも行うことにより、鳥栖市だけのチームでないことを表現しているためである。
クラブの歴史
「株式会社サガン鳥栖」時代(1997年~2004年)
1997年2月4日、経営難により解散した鳥栖フューチャーズの受け皿として新たにサガン鳥栖を設立。救済措置として引き続き、フューチャーズが所属していたJFLと、同年のJリーグヤマザキナビスコカップの2大会への参加が認められた。当初は任意団体として運営されたが、1999年のJリーグの2部制導入に伴い、1998年に「株式会社サガン鳥栖」として再法人化。J2に参加した。
フューチャーズがPJMの撤退によって一気に解散に追い込まれた反省から、サガンでは大口のスポンサーは設けず、小口の株主を多くすることによって経営を安定させようとした。しかし、株主が多くなったことで経営の主導権争いや、会社の経営方針に対する株主や関係者からの批判が相次ぎ、狙いとは逆に経営は苦しい状態が続いた。チームの成績も2000年に6位になったのが目立つ程度で、毎年下位に低迷し、特に2003年は「J2シーズン勝利数ワースト(3勝)」「連続無勝利試合記録(28。翌年に30まで伸びた)」などワースト記録を次々に更新し、この年のJ2所属12チーム中11位になった横浜FCの半分にも満たない勝ち点で最下位になってしまった。当時チェアマンの鈴木昌は「このままの経営が続けばJリーグからの除名や退会勧告もやむをえない」とまで述べている。このような状態のチームを引き受けようという監督をなかなか見つけられずにいたが、最終的にはJリーグからの紹介でかつて川崎フロンターレをJ1昇格に導いた松本育夫を招聘することに成功した。
2004年シーズン、松本は選手の約半分を入れ替えてシーズンに臨み、前半戦は記録的なペースで勝ち点を積み重ねていた松本の古巣である川崎に勝つなどほぼ五分の成績で健闘したが、後半戦は故障者が続出したこともあり22試合でわずか1勝に終わってしまう。一方経営問題は続いており、この年のシーズン中に「株式会社サガン鳥栖」の累積赤字が蓄積したことから、一旦100%減資という条件付きでJリーグの関連会社・Jリーグフォト株式会社が新しいメインスポンサーが見つかるまで暫定的に出資することを取り付けたが、Jリーグの定めた6月末の期限までに全株主169人のうち、10人からの同意を取り付けることができず、Jリーグフォトからの出資も白紙に戻された。
秋になって古賀照子社長が退任し、それに代る新しい経営陣を一旦決定したものの、新社長に就任する予定の井上良一が運営する湘南マリントレード社の経営体質について、Jリーグから疑問視する意見が上がり、このまま運営するようであれば除名(クラブ解散、あるいは存続したとしてもJFLなど下位リーグへの強制降格)も辞さない可能性があった。また、ライブドアの堀江貴文社長(当時)もクラブ買収の意向を示していたが、実現しなかった。
しかし、関係者の尽力により2005年1月に人材派遣会社・クリーク・アンド・リバー社(社長・井川幸広=佐賀県出身)を中心に設立する新運営会社「株式会社サガンドリームス」に対し、経営権を2400万円(譲渡費用2100万円、2004年12月~2005年1月の運営費用など300万円)で譲渡することを発表した。旧法人は解散(清算)となり、ようやく経営問題は解決となる。なお、経営譲渡にあたって井川が出した条件は「チーム名はそのままサガン鳥栖で行く」「松本監督の続投」であったが条件通りとなった。
「サガンドリームス」時代(2005年~)
2005年
2005年は、Jでの実績がある宮原裕司、氏原良二、ビジュを獲得し、期限付き移籍で一柳夢吾、矢野大輔、八田康介など若手有望選手を獲得した。また、新居辰基、飯尾和也、髙地系治といった実力者を下部リーグから獲得した。ヘッドコーチには長年東京ヴェルディ1969を指導した岸野靖之、コーチに鹿島アントラーズの黄金時代を知る内藤就行を招聘するなど、J2ではトップクラスの首脳陣を整えてシーズンに臨んだ。
序盤は新加入の選手が多いことによる連携不足が目立ったものの尻上がりに調子を上げ、第15節終了時点では自動昇格圏内の2位にいた。 しかし、第16節のザスパ草津戦で不可解なPK判定によって負けたこと(家本政明参照)や、DFを中心に故障者が続出したことによる選手層の薄さから調子を崩し、結局最終的には8位で終えた。この年、圧倒的な強さを発揮してJ1昇格を果たした 京都パープルサンガから3勝を上げるなど上位と互角の試合をするなど、 新生サガンの1年目としては、上々の出来だった。
個人では、新居が17得点を挙げてJ2の日本人得点王となった。また、鈴木孝明も15点を挙げ、2人で2004年のチーム総得点分の得点(32点)を稼いだ。また、ホームゲームの平均観客動員数はクラブ史上最高となる7,855人を記録した(2008年シーズン終了時点でも最高記録)。
2006年
シーズンオフには、元韓国代表でセレッソ大阪でも活躍したMF尹晶煥や、DF金裕晋など、韓国人選手を3人補強。日本人選手も大幅に入れ替え、積極的な補強を行った。攻撃陣では新居がJ2の日本人得点王になるなど選手に成長が見られ始めたことで、松本は「上位5チームの中で争うところまでいきたい」と述べた。また、この時期に松本の「総監督」就任が一部報道で噂されたが、結局は監督を続投した(ただし、翌年の松本は実際の指揮をヘッドコーチの岸野に任せている)。
2006年はポゼッションサッカーを導入し「DFは体を張って守る」「攻撃はとにかく前線にボールを放り込む」という、良くも悪くもJ2の中位以下チームでは典型的なサッカーからの脱却を目指した。シーズン序盤は新居でしか得点できない試合が続いて出遅れ、一時は最下位に転落するなどした。しかし戦術が浸透してくると負けないサッカーを展開するようになる。後半戦では特に守備が安定したことで(第3クール以降の失点20はリーグ最少)優勝した横浜FCと同じ14勝を挙げた。チームはこの年,シーズン勝ち越しや4連勝するなど,クラブ史上初の記録を次々にマークした。第48節には優勝争いから脱落したベガルタ仙台を抜いて4位に浮上し、この時点ではJ1・J2入れ替え戦どころか自動昇格・優勝の可能性もわずかに残っていたが、第49節の東京ヴェルディ1969戦に敗れてそれら3つの可能性は全て消滅した。しかし、最後の3試合ではこの年の成長を裏付けるようなサッカーを展開して4位を確保し、J2での最高順位をマークした。ちなみに、第47節の徳島ヴォルティス戦時点での勝ち点は70(43試合)で、これは前年3位でJ1昇格したヴァンフォーレ甲府の成績(44試合で勝点69)を上回る。
2007年
松本は2006年限りで勇退してゼネラルマネージャーに就任し、後任監督には岸野が昇格した。なおサガンのクラブ史上、監督交代が内部昇格によって行われるのはこれが初めてである。しかし2年連続でJ2の日本人得点王となり、日本代表入りも囁かれるようになった新居がジェフ千葉に移籍し、期限付き移籍中だった濱田武と金裕晋が所属元に復帰。さらには、守護神のシュナイダー潤之介がベガルタ仙台へと移籍した。主力選手4人を放出したため、チームのレベルダウンが懸念されたが、FWには水戸ホーリーホックで17得点を挙げたアンデルソンを、GKにはこの年の大学生GKで一番と評価された赤星拓を、J1クラブとの争奪戦を制して獲得した。その他にも、各ポジションに伸びしろがある若手選手を獲得するなど、今オフも積極的な補強を行った。
2007年は、開幕戦のアビスパ福岡との九州ダービーに「0対5」で大敗するなど、主力選手の怪我が多く、第1クールは去年以上に成績が悪かった。しかし、第2クールからは、怪我人が復帰し、大分トリニータから移籍してきた柴小屋雄一を中心とした守備が安定したことで快進撃を続け、2006年の第4クールと同じ、勝点25を積み上げた。第3クールも好調が続くかと思われたが、勝ち点18と伸び悩み、第4クールでは安定していたはずの守備陣が踏ん張れず、第47節の東京ヴェルディ1969戦に敗れたことで昇格の可能性は消滅した。
しかし、24得点をあげ、日本人得点王となった藤田祥史や、FWからサイドバックにコンバートされた日高拓磨ら、若手選手の成長が目立つシーズンとなり、第47節以降の公式戦7試合は、天皇杯第4回戦でアルビレックス新潟を破り、リーグ戦では、昇格した京都や札幌に勝利するなど5勝1分1負で、翌シーズン以降に繋がるシーズンとなった。
2008年
オフには、尹晶煥・山口貴之・村主博正・吉田恵といった30代の選手との契約を更新せずに、若手選手中心に補強を行った。その結果、最年長の選手は石田博行の28歳(1979年生まれ)となり、石田以外の選手は全員1980年代生まれという非常に若いチームとなった。
2008年は、開幕戦でモンテディオ山形に勝ち、J2参戦10年目にして開幕戦初勝利を挙げると、その勢いでJ1昇格争いに絡んだ。この年1度も首位を明け渡すことなく優勝したサンフレッチェ広島との試合時間の兼ね合いで、クラブ史上初めて暫定首位に立ったこともある。8月には待望のゲームメーカーMF船谷圭祐を獲得し、勢いに乗るかと思われたが、第3クールに入ると下位チームへの取りこぼしが目立つようになり、昇格争いから後退。最終順位は6位だった。ただし、入れ替え戦出場の可能性は数字上では最終節まで残っていた。なお、同じ九州でライバルの福岡が8位に終わり、鳥栖は初めて福岡をリーグ戦の順位で上回っている。また天皇杯では大分トリニータ、ヴィッセル神戸のJ1勢を連破するなど、初のベスト8に進出した。
この年は大半の時期で平均失点を1点以下に抑えるなど守備陣が安定していたが、エースの藤田以外の得点が少なかった。また先制した試合での18勝は自動昇格した広島と山形に次いでリーグ3位だったが、逆転勝ちがわずか1試合と極端な先行逃げ切り型となっており、好調時は強豪クラブとも互角以上に戦う一方、劣勢時の試合運びに課題を残した。
このシーズンでモンテディオ山形が2位となりJ1に昇格したため、鳥栖は1999年のJリーグ2部化時点でのJ2所属10クラブの中で、J1経験がない唯一のクラブとなった。
2009年
岸野体制3年目。藤田祥史がJ1の大宮アルディージャに移籍し、船谷圭祐が所属元のジュビロ磐田に復帰したため、2人の穴を埋められる補強が今オフのポイントとなった。FWには2008年ブラジル2部・3部のクラブで42試合29得点のトジンを獲得し、中盤にはJ2屈指の司令塔島田裕介を獲得。さらに、元日本代表でJ出場300試合を超える山田卓也や、右SB柳沢将之、左SB磯崎敬太と実績のある中堅・ベテラン選手の獲得にも成功した。
しかし、開幕直後に3連敗、最下位スタートと藤田、船谷の穴を埋めるどころか、逆に穴が開いた形となってしまった。最下位から脱出し、徐々に得点シーンが増えているものの、苦しい戦いが強いられる。その為、5月に横浜F・マリノスより山瀬幸宏、ハーフナー・マイクの2選手を、8月には大分トリニータからホベルトを期限付き移籍で獲得。その移籍選手の活躍もあってJ1昇格争いに絡める位置まで迫っていったが、終盤の上位対決(仙台、湘南、甲府)で1分け2敗に終わりJ1昇格は遠のいてしまった。
甲府戦終了後には岸野監督の来季契約非更新を発表。その岸野監督へ最後の勝利をと奮闘したJ2最終節では、高地系治の芸術的な後半ロスタイムの2ゴールで、勝てば優勝となるはずであったセレッソ大阪を相手に奇跡的な逆転勝利を収めた。また天皇杯では佐賀東高校が勝ち抜いたことにより、J2昇格以降、全国規模の大会で初めての佐賀ダービーが実現した。
なお同年より、九州地区のJリーグ・JFLチームが若手育成を目的として九州チャレンジャーズリーグを結成したため、鳥栖もこれに参加することになり、代わりにJサテライトリーグからは前年を最後に撤退した。
2010年
3年連続で指揮を執った岸野靖之監督が退任、横浜FCの監督に就任することとなったため、GMであった松本育夫が同職を外れ4シーズンぶりに監督に復帰、同時に将来の監督と目されているコーチの尹晶煥をヘッドコーチに昇格させ、Jリーグの監督就任に必須となるS級ライセンスを取得するためのノウハウを伝授することとなった<ref>J2鳥栖 監督に松本氏復帰 西日本新聞 2009年12月7日付</ref>。
戦力補強
鳥栖に加入する選手は長らく「他のチームから採ってもらえなかった選手」が多い傾向があったが、近年は新居辰基や高橋義希・藤田祥史等の若手の成長で育成面での評価も高まっており、また施設が充実した選手寮(参照)を借りる等、若手選手の住環境も改善されたことで、高卒・大卒の有力選手も集まるようになってきた。例を挙げると、2007年の新加入選手13人の内、7人が他のJクラブと獲得を争った選手であり、特に赤星拓と谷口堅三は、J1クラブとの争奪戦を制しての獲得である。なお、高卒・大卒選手獲得が活発化したのは、松本育夫が監督となった2004年以降のことである。
(但し、新居は札幌U-18時代から知られた存在であり、藤田は大学時代に2年連続で関西学生リーグで得点王になるなど元々資質を兼ね備えていたとも言える。)
若手選手獲得に積極的な理由として、鳥栖の財政力では多額の移籍金を費やした補強に頼れないことから、若手を育てて主力に成長させるという意図がある。そのため、指導スタッフを充実させて、日本一厳しいと言われている練習に取り組んで鍛え上げている。また2006年以降、九州本土からほど近い韓国のチーム・大学から若手有望選手など将来性のある外国人選手の獲得が多い。
2009年度所属の選手の中には地元佐賀県の出身が1人もおらず、ホームタウンを置くの都道府県の出身者がいないのはJリーグ36クラブ(当時)の中で唯一であった。2010年度は2種登録ながら、田本宗平、月成大輝の佐賀県出身選手が誕生している。
高卒 | 大卒 | |
---|---|---|
2004年 | 高橋義希、下司隆士 | 加藤秀典、小井手翔太、奈良崎寛 |
2005年 | 中林洋次、長谷川豊喜 | 鈴木孝明 |
2006年 | 金正訓、栫大嗣 | 浅井俊光、衛藤裕、蒲原達也、廣瀬浩二、日高拓磨、藤田祥史 |
2007年 | 太田弦貴、副島貴司、栗山裕貴、谷口堅三、ジョズエ | 赤星拓、内間安路、野崎陽介 |
2008年 | 島嵜佑、下地奨、朴炡慧 | |
2009年 | サムエル | 渡邉将基、長谷川博一、武岡優斗、池田圭 |
2010年 | 藤田直之、呂成海、金民友 |
所属選手
- 選手・監督についてはサガン鳥栖の選手一覧の項を参照。
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チーム成績・歴代監督
年度 | 所属 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 得点 | 失点 | 得失差 | 順位 | 監督 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1997年 | 旧JFL | 30 | 32 | 13 | - | 17 | - | - | - | 11位 | 楚輪博 |
1998年 | 30 | 39 | 14 | - | 16 | - | - | - | 8位 | ||
1999年 | J2 | 36 | 37 | 12 | 2 | 22 | 52 | 64 | -12 | 8位 | |
2000年 | 40 | 48 | 15 | 5 | 20 | 41 | 52 | -11 | 6位 | 高祖和弘 | |
2001年 | 44 | 32 | 10 | 4 | 30 | 45 | 82 | -37 | 10位 | ||
2002年 | 44 | 41 | 9 | 14 | 21 | 41 | 64 | -23 | 9位 | 副島博志 | |
2003年 | 44 | 20 | 3 | 11 | 30 | 40 | 89 | -49 | 12位 | 千疋美徳 | |
2004年 | 44 | 35 | 8 | 11 | 25 | 32 | 66 | -34 | 11位 | 松本育夫 | |
2005年 | 44 | 52 | 14 | 10 | 20 | 58 | 58 | ±0 | 8位 | ||
2006年 | 48 | 79 | 22 | 13 | 13 | 64 | 49 | +15 | 4位 | ||
2007年 | 48 | 72 | 21 | 9 | 18 | 63 | 66 | -3 | 8位 | 岸野靖之 | |
2008年 | 42 | 64 | 19 | 7 | 16 | 50 | 51 | -1 | 6位 | ||
2009年 | 51 | 88 | 25 | 13 | 13 | 71 | 51 | +20 | 5位 | ||
2010年 | 松本育夫 |
2009クール別成績
クール | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 得点 | 失点 | 得失差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
第1クール | 17 | 20 | 5 | 5 | 7 | 16 | 22 | -6 |
第2クール | 17 | 34 | 10 | 4 | 3 | 31 | 15 | +16 |
第3クール | 17 | 34 | 10 | 4 | 3 | 24 | 14 | +10 |
リーグ戦通算対戦成績
獲得タイトル
- 2007年までに獲得タイトルなし
永久欠番
- #17 坂田道孝
2005年1月30日、Jリーグ初の永久欠番に制定。 佐賀大学教授で佐賀県サッカー協会理事長だった坂田は1994年、静岡県浜松市にあったPJMフューチャーズを佐賀県鳥栖市に誘致し、鳥栖フューチャーズを発足させた。 クラブチーム中興の祖であり、経営難による鳥栖フューチャーズ消滅後も、設立活動に尽力を注ぎ、チームを復活させた鳥栖最大の功労者。 チームの再興を見届け、1999年1月7日死去(命日1月7日にちなみ意志を受け継ぐという意味で17番を永久欠番に制定)。
なお、他クラブがサポーターナンバーを「12」としているのに対し、サガン鳥栖は「17」を同ナンバーとしている。これには、スタメン11人の選手と控え選手5人(計16名)の「次」として「共に戦う17番目の選手」という意味合いもある(J1/J2ともに2010年現在、18人がベンチ入り可能となっている)。
佐賀県プロサッカー振興協議会
チームの経営が行き詰まり、チーム解散のムードが濃厚となった2004年9月、佐賀県と県内各市町村は、県内の企業・団体などと共同でサガン鳥栖の後援団体・「佐賀県プロサッカー振興協議会」を立ち上げた。この会では、サガンを県民参加型のクラブ運営にするため、ホームゲーム(鳥栖スタジアム、佐賀県総合運動場陸上競技場で開催)に各市町村の市民を招待するほか、サガンの選手を招いた少年サッカー教室や各種イベントを展開するというもの。また、2005年のシーズン開幕前には鳥栖スタジアムにこの会の事務所を移転させた。クラブ事務所との併設となり、チームとの連携をより強化することになった。
ただしチームは行政からの具体的な支援は受けておらず、あくまで県や各市町村は民間からの支援の音頭取りの立場に徹している。鳥栖スタジアムの使用料(年間約7000万円)についても特に減免措置等は取られておらず、チームにとって財政上の大きな重荷になっている<ref>再出発、よみがえれ!トリニータ(4) - 大分合同新聞・2009年12月10日</ref>。
ホームゲーム招待事業
2005年以降、「サガン・ドリームス」がチケットを提供する形で、佐賀県プロサッカー振興協議会によるホームゲームへの佐賀県民の無料招待事業が始まった。この事業は好評で、それまでJ2でも最低レベルだった観客動員数は、2005年には前年比2倍以上の伸びを見せ、J1経験のないJ2チームの中ではトップクラスの観客動員を誇るまでになった。ただし、全入場者数の約半数は無料招待によるもので、有料入場者数を伸ばすことが今後の課題となる。社長の井川は2006年5月28日の株主総会で、Jリーグでは前例のない「有料入場者数の公表」を検討していると発表した。2006年9月現在、公式ホームページのトップに「前節の入場者内訳」と題して、「公式入場者数」「有料入場者数」「地域招待者数」「招待地域」及び「累計有料入場者数」を公開している。
ちなみに2006年シーズンの平均観客動員数はJ2で4位である。上位3チームは仙台、札幌、柏といずれもJ1経験チームでかつホームタウンが政令指定都市もしくは首都圏にあるチームであり、人口が6万人強の鳥栖市を本拠地としている鳥栖は健闘していると言える。しかし、J2ではトップクラスの座席数を誇る鳥栖スタジアムが本拠なだけに空席が目立つことは否めない。こうした状況の中、地元鳥栖市の小学生が「鳥栖スタジアムを満員にしよう」と活動を始め、スポンサーの1つであるブリヂストンも支援を表明。11月12日の湘南ベルマーレ戦を目標に活動を行い、湘南戦では満員ではなかったが、鳥栖スタジアムでのJリーグ公式戦史上最多となる18,231人の観客を集めた<ref>「平成18年11月12日 湘南戦 鳥栖スタジアム満員計画」主催者のサイト</ref>。
その後、「×2(かけるに)運動」(もう一人スタジアムへ呼ぼうという運動)が展開され、2008年のロアッソ熊本戦で20,129人を集め、現在でもスタジアムレコードとなっている。
フサイチサガントス
関口房朗が所有する2歳新馬の名前が、佐賀にふさわしい名前を条件で公募された。2007年6月3日、佐賀競馬場で発表され、全国から寄せられた937件の中から「フサイチサガントス」で決定した。チーム名の使用はJリーグの承諾を得て決まった。フサイチサガントスは2002年の日本ダービーを制したタニノギムレットを父に持ち、活躍が期待されている。
ユニフォーム
チームカラー
チームカラーははサガンブルーとサガンピンク。
ユニフォームについて
- ユニフォームのアクセントやチームエンブレムなどで使われているピンクは、PJM時代からのフューチャーズのチームカラー(ピンクと紺)の名残り。
- サガン鳥栖発足当時からユニフォームは紺系の青を基調としていたが、2006年シーズンからは紺系から水色(やや緑がかった水色)に変更された。この色は「サガンブルー」と名付けられ、佐賀平野の大地と澄んだ大空をイメージした色である。
ロゴ・エンブレム
2005年までのエンブレムは、佐賀県の地図をモチーフとしたものだった。 2006年は、「J1昇格への元年」と位置付け、チームのロゴとエンブレムを一新。新しいエンブレムはカチガラス(筑紫平野に生息するカササギ)を取り入れ、このカチガラスはsagantosuの隠し文字で描かれている。また、ピンクとサガンブルーと更に5色(上から、青、黄、黒、緑、赤)のVが描かれており、この5色は五大陸を意味し、『True champions in the hearts of all who love Sagantosu.』(「サガン鳥栖を愛する全ての人と共に、真のチャンピオンになる」という意味)がエンブレムを引き締めている。新しいロゴは、今までよりシャープなイメージで強さを感じるデザインにし、ロゴの上下の飾りが「 V 」のイメージで、勝利にこだわっている。
ユニフォームスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
胸 | ディーエイチシー | DHC | 2008年~ | |
背中 | ブリヂストン | BRIGESTONE | 2006年~ | |
袖 | SUMCO | SUMCO | 2009年~ | 2008年はパンツ |
パンツ | ベストアメニティ | BEST AMENITY | 2010年~ |
トレーニングウェアスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 |
---|---|---|
練習着胸・ビブス | ナチュラルライフ | らいふ薬局 |
練習着背中 | 高山質店 | gage |
練習着袖 | ロキテクノ | ROKI |
ユースユニフォームスポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出チーム |
---|---|---|---|
胸 | ブリヂストン | BRIDGESTONE | U-18・U-15・U-15唐津 |
ユニフォームサプライの遍歴
歴代ユニフォームスポンサー年表
年度 | 胸 | 袖 | 背中 | パンツ | サプライヤー |
---|---|---|---|---|---|
1997年 | - | - | DIREC TV | - | NIKE |
1998年 | - | - | - | - | NIKE |
1999年 | - | - | - | - | NIKE |
2000年 | - | 東洋新薬 | - | - | NIKE |
2001年 | - | 東洋新薬 | アサヒ緑健 | - | NIKE |
2002年 | - | - | アサヒ緑健 | - | NIKE |
2003年 | - | - | - | - | DELL'ERBA |
2004年 | PRINCESS TENKO | - | TOSU | 参勤交代の湯 | DELL'ERBA |
2005年 | - | -/Value Link | -/CREEK&RIVER | -/エイチ・エス証券 | Mizuno |
2006年 | BBIQ | UMBRO | BRIDGESTONE | BTU | UMBRO |
2007年 | BBIQ | - | BRIDGESTONE | BTU | UMBRO |
2008年 | DHC | BBIQ | BRIDGESTONE | SUMCO | UMBRO |
2009年 | DHC | SUMCO | BRIDGESTONE | - | UMBRO |
2010年 | DHC | SUMCO | BRIDGESTONE | BEST AMENITY | UMBRO |
マスコット
スタジアムDJ
- YUYA(フューチャーズ時代から担当している。)
その他
- ベストアメニティスタジアムでのホームゲームにおいては最寄りの鳥栖駅を利用するのがよい。
- 肥前山口駅~鳥栖駅で試合の開催日には臨時列車「サガン鳥栖号」が各駅停車で運行される。
- 鳥栖駅の駅舎は狭く、試合終了後は非常に混みあうため、帰りに鳥栖駅からJRを利用する場合は前もって乗車券を購入するか(鳥栖駅でもこのようなアナウンスがある)、あらかじめ往復券を購入しておくのが無難である。
脚注
<references />
関連項目
- サガン鳥栖の選手一覧
- サガン鳥栖 夢必翔2007 ~J1への道~(サガテレビで放送されている応援番組)
- 九州ダービー
- 江頭2:50(サガン鳥栖ファンクラブの名誉会員である)
外部リンク
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