クオリア

出典: Wikipedio


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画像:Solid red.png
波長 630-760 nm が際立っているが強く網膜に入るとき現れる、赤のクオリア<ref>カラーフィルターなどのスペクトルはこの波長とは、性格が異なり一致しないのが普通である。</ref>

クオリア:複数形 Qualia、単数形 Quale クワーレ)とは、心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと<ref name="SEP_QUALIA">Tye, Michael, "Qualia", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2009 Edition), Edward N. Zalta (ed.) 以下記事冒頭部より引用 "Philosophers often use the term ‘qualia’ (singular ‘quale’) to refer to the introspectively accessible, phenomenal aspects of our mental lives. In this standard, broad sense of the term, it is difficult to deny that there are qualia."</ref>、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう<ref>日本語では単数形と複数形の区別がないため、英語文献を読む際はこの点やや注意が必要である。日本語で「クオリア」といった場合、それは「赤さ」や「痛み」などひとつひとつの質を指していることが多い。つまり英語で言う"Quale"にあたる意味で使われていることが多い。しかし英語で"Qualia"といったときは、「複数の"Quale"」つまり「赤さや痛みなど」という意味で使われていることが多い。</ref>。日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される。

目次

概要

外部からの刺激情報)を感覚器が捕えそれをに伝達する。すると即座に何らかのイメージや感じが湧きあがる。たとえばある波長の(視覚刺激)を目を通じて受け取ったとき、その刺激を赤い色と感じれば、その赤い色のイメージは意識体験の具体的な内容のことであり、その「赤さ」こそがクオリアの一種である。

簡単に言えば、クオリアとはいわゆる「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、世界に対するあらゆる意識的な体験そのものである。

こうした非常に身近な概念であるにもかかわらず、クオリアは科学的にどう取り扱われるべき概念なのかがよく分かっていない。この問題は「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」<ref name="Hard">デイヴィッド・チャーマーズハード・プロブレムについて論じた二本の論文。"Facing Up to ..." に対して寄せられた様々な批判に答える形で出されたのが "Moving Forward on ..."

  • Chalmers, David J. (1995) "Facing Up to the Problem of Consciousness". Journal of Consciousness Studies 2(3):pp. 200-219. pdf
  • Chalmers, David J. (1997). "Moving Forward on the Problem of Consciousness". Journal of Consciousness Studies, 4, pp. 3-46. pdf</ref>と呼ばれている。すなわちクオリアとは一体どういうものなのか、そしてそれは私たちのよく知る「物質」と一体どういう関係にあるのか。こうした基本的な点に関してさえすべての研究者からの合意を取りつけているような意見はいまだにない。現在のクオリアに関する議論は、この「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」を何らかの形で解決しよう、または解決できないにしても何らかの合意点ぐらいは見出そう、という方向で行われており、「これは擬似問題にすぎないのではないか」という立場から「クオリアの振る舞いを記述する新しい自然法則が存在するのではないか」という立場まで、実に様々な考え方が提出されている。

現在こうした議論は心の哲学心身問題自由意志の問題などを扱う哲学の一分科)を中心に展開されており、古来からの哲学的テーマである心身問題を議論する際に中心的な役割を果たす概念として、クオリアの問題が議論されている。

また科学の側では、神経科学認知科学といった人間の心を扱う分野を中心にクオリアの問題が議論される。とはいえ科学分野では哲学的議論に巻き込まれることを嫌って、意識気づきの研究として扱われている。

画像:Qualia of sound.jpg
笛から発せられた空気振動()が、笛の音のクオリア「ピー」を発生させるまでの流れ(左端:笛、青:音波、赤:鼓膜、黄:蝸牛、緑:有毛細胞、紫:周波数スペクトル、橙:神経細胞の興奮、右端:笛の音のクオリア)。

人が痛みを感じるとき、のニューロンネットワークを走る電気信号自体は、「痛みの感触そのもの」ではない。脳が特定の状態になると痛みを感じるという対応関係こそあるものの、両者は別のものである。クオリアとは、ここで「脳の状態」だけからは説明できない「痛みの感触それ自体」にあたるものである。

歴史

クオリアという言葉は、「質」を意味するラテン語の名詞 Qualitas (あるいは Qualis) に由来する。この言葉自体の歴史は古く、4世紀に執筆されたアウグスティヌスの著作「神の国」にも登場する。しかし現代的な意味でこのクオリアという言葉が使われ出すのは、20世紀に入ってからのことである。

まず1929年アメリカ合衆国哲学者クラレンス・アーヴィング・ルイスが著作『精神と世界の秩序』<ref>Lewis, C.I. (1929) "Mind and the world order". New York: C. Scribner's Sons.
復刻版 Lewis, C.I. "Mind and the World-Order: Outline of a Theory of Knowledge" Dover Pubns 1991年 ISBN 0486265641</ref>において現在の意味とほぼ同じ形でクオリアという言葉を使用した。

Template:Quotation

その後、1950年代から1960年代にかけて、ルイスの教え子であるアメリカの哲学者ネルソン・グッドマンらによってこの言葉が広められた<ref>ネルソン・グッドマン The Structure of Appearance. Harvard UP, 1951. 2nd ed. Indianapolis: Bobbs-Merrill, 1966. 3rd ed. Boston: Reidel, 1977.</ref>。

1974年には、クオリアの問題にとって大きい転機となる論文が現れた。アメリカの哲学者トマス・ネーゲルが提示した「コウモリであるとはどのようなことか」という思考実験において<ref name="bat_en"/><ref name="bat_ja"/>、物理主義はクオリアの具体的な表れについて、完全に論じ切れていない、という主張が強くアピールされたのである。1982年にはオーストラリアの哲学者フランク・ジャクソンが、マリーの部屋という思考実験を提唱し、普通の科学的知識の中にはクオリアの問題は還元しきれないのではないか、という疑念が提唱された<ref>フランク・ジャクソン (1982年) "Epiphenomenal Qualia", Philosophical Quarterly, vol. 32, pp. 127-36. オンライン・テキスト</ref>。こうしたネーゲル、ジャクソンの論文が登場しはじめた1970年代後半あたりから、徐々に科学や物理学との関連の中でクオリアの議論が展開されることが多くなった。

最終的にこの流れを決定付けたのは、オーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズである。1995年から1997年にかけてチャーマーズは一連の著作<ref name="Hard"/>を通じて、現在の物理学とクオリアとの関係について、非常に詳細な議論を展開した。この議論が大きな反響を呼び、今まで一部の哲学者の間だけで議論されていた「クオリア」の概念が広い範囲の人々(脳科学者のみならず工学者や理論物理学者などまで)に知れ渡るきっかけのひとつとなった。以後、現在に至る。

類義語

Template:要出典範囲が、しかしながらこれらの言葉は「同時に体験されている種々雑多なクオリアの集まり全体」のことを指して使われることが多い。例えば仕事帰りのあなたが体験しているクオリアには次のようなものがある。脇を走り抜ける車が出すブンブンとした音、夕暮れの空の赤さ、近所の家の換気扇から流れてくるおいしそうなシチューの匂い、心地よい疲労感などなど。Template:要出典範囲

クオリアと似たような意味内容を持った言葉は歴史上数多く存在してきた。例えば西洋哲学表象や、ジョン・ロックの二次性質という概念、またセンス・データや、現象学における現象という概念などが、また東洋哲学においては仏教における六境という概念などがクオリアと非常に近い意味を持つ。

それにもかかわらずクオリアという新しい呼び名が使われる背景には、Template:要出典範囲。ひとつは、表象や現象という言葉が既に多義語であり、厳密な意味を持たせて使用するのが困難であること。そしてもうひとつは、先述の語とは用いられる文脈が異なることをはっきりさせる目的があることである。つまり表象や現象という言葉が純粋に思弁的な議論で用いられることが多いのに対し、クオリアという言葉は、必ずと言ってよいほど、神経細胞原子物理法則といった科学用語と一緒に登場し、かつそういった自然科学的な知識を重視したスタンスでの議論が行われる、ということである。Template:要出典範囲

様々なクオリア

画像:Ernst Mach Inner perspective.jpg
エルンスト・マッハの視覚体験。座椅子に腰かけ、右目を閉じ、左目だけを開けていたときにマッハが経験した視覚体験の報告。中央付近には手に持った鉛筆、上にはマッハの眉毛、右側にはマッハ自身の鼻が、下にはマッハ自身の口ひげが描かれている。
(白黒なのは当時の印刷技術などの操作の制約によるもの)
画像:(-)-menthol-3D-qutemol.png
メントール分子 この形の分子を吸い込むと、メントール分子の香りがする。これはいわゆるミントの香りである。
画像:Hydrogen-sulfide-3D-vdW.png
硫化水素分子 この形の分子を吸い込むと、硫化水素分子の香りがする。これはいわゆる温泉の香りである。

人間の体験するクオリアは実に多彩であり、それぞれが独特の感じをもつ。たとえば視覚、聴覚、嗅覚からはそれぞれ全く違ったクオリアが得られる。どういった状態にクオリアがともない、またどういった状態にはともなわないのか、この点はしばしば議論の的となる。とりあえず以下に並べるものは、比較的議論なくクオリアをともなうと言ってよい、と多くの人が考えるものの例である<ref>こうした枚挙的な例示は様々な文献で見られるが、ここでの例示はチャーマーズの "Conscious Mind" 中での記述と、SEPにおける説明を基にしている。</ref>。

  • 視覚体験 視覚体験には様々なクオリアがともなう。その単純さから最も頻繁に議論の対象にされるのがであり、これには例えば、リンゴの赤い感じ、空の青々とした感じ、などがある。他にも形、大きさ、明るさ、暗さ、そして奥行きがある。片目で世界を眺めるよりも、両目で世界を眺めた方が、世界はより三次元である。つまり奥行きのクオリアが伴なう。
  • 聴覚体験 聴覚からもたらされるクオリアも非常に豊かである。笛から発せられた空気振動がもたらすピーッというあの感じ、また特定の高さの音を同時に聞いたとき、つまりマイナーコードメジャーコードといった和音を聞いたときに受けるあの感じ、そしてそれらの音が時間的につらなったときに受けるあの感じ、つまり音楽を聞いたときにうける独特の感覚などである。
  • 触覚体験 触覚からもたらされるクオリアには以下のようなものがある。シルクの布を撫でた時に感じられるツルツルした感触、無精ひげの生えたあごを撫でた時に感じられるザラザラした感触、水を触ったときの感じ、他人の唇に触れたときの柔らかい感じなど。
  • 嗅覚体験 嗅覚から得られるクオリアは、もっとも言葉で表現しにくい感覚のひとつである。朝、台所から流れてくる味噌汁の香り、病院に漂う消毒液の匂い、公衆便所の芳香剤の臭いなど。それぞれがどのような香りなのか説明してみろ、と言われても説明に困るのではないだろうか。分子レベルのメカニズムとしては、臭いは鼻腔の奥の嗅細胞において検知される。ここで鍵と鍵穴の仕組みで、レセプターに特定の分子が結合した際に、特定の香りが体験される。しかしながら、ある特定の形状の分子が、なぜある特定の香りをともなっているのか、この組み合わせはかなり恣意的に思える。この組み合わせがどのように成立しているかは、依然として何も分かっていない。
  • 味覚体験 味覚甘味酸味塩味苦味うま味の五つの基本味から構成されていると考えられており、これらの組み合わせによって数々の食料・飲料品の味が構成されている。分子レベルのメカニズムは、嗅覚と同様に、舌にある味覚受容体細胞において、鍵と鍵穴の仕組みでレセプターに特定の分子が結合すると、特定の味が体験されることになる。しかしながら、嗅覚の場合と同様、ある特定の形状の分子が、なぜある特定の味をともなっているのか。この組み合わせが成立している背景については、依然何も分かっていない。
  • 冷熱体験
  • 痛覚
  • 他の身体感覚
  • 感情

次に並べるものは、それが質感を持つかどうかについて議論が分かれる。

  • 心的表象
  • 自分という感覚
  • 意識的思考

このようにクオリアが持っている基本的に異なったいくつかの種類のことを感覚のモダリティーと呼ぶ。しかし時には違ったモダリティーが混ざり合うこともあり、そのような現象は共感覚と呼ばれている。

クオリアに関する思考実験

画像:Inverted qualia of colour strawberry.jpg
逆転クオリア (Inverted qualia) 同じ波長の光を受け取っている異なる人間は同じ「赤さ」を経験しているのか

クオリアの問題を扱った思考実験に以下のようなものがある。

逆転クオリア
同等の物理現象に対して、異質のクオリアがともなっている可能性を考える思考実験。色についての議論が最も分かりやすいため、色彩について論じられることが最も多い。同じ波長の光を受け取っている異なる人間が、異なる「赤さ」または「青さ」を経験するパターンがよく議論される。逆転スペクトルとも呼ばれる。<ref>Byrne, Alex, "Inverted Qualia", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2008 Edition), Edward N. Zalta (ed.)</ref>
哲学的ゾンビ
すべての面で普通の人間と何ら変わりないが、クオリアだけは持たない、という仮想の存在。心の哲学において、クオリアという概念を詳細に論じるためによく使われる。
マリーの部屋
生まれたときから白黒の部屋に閉じ込められている仮想の少女マリーについてのお話。マリーは白、黒、灰色だけで構成された部屋の中で、白黒の本だけを読みながら色彩についてのありとあらゆる学問を修める。その後、この部屋から解放されたマリーは色鮮やかな外の世界に出会い、初めて、というものを実際に体験するが、この体験(色のクオリアの体験)は、マリーのまだ知らなかった知識のはずである。このことからクオリアが物理学的・化学的な現象には還元しきれないことを主張する。
コウモリであるとはどのようなことか
コウモリはどのように世界を感じているのか。コウモリは口から超音波を発し、その反響音をもとに周囲の状態を把握している(反響定位)。コウモリは、この反響音をいったい「見える」ようにして感じるのか、それとも「聞こえる」ようにして感じるのか、または全く違ったふうに感じるのか(ひょっとすると何ひとつ感じていないかも知れない)。こうしてコウモリの感じ方、といったことを問うこと自体は可能だが、結局のところ我々はその答えを知る術は持ってはいない。このコウモリの議論は、クオリアが非常に主観的な現象であることを論じる際によく登場する<ref name="bat_en">トマス・ネーゲル. (1974). "What Is it Like to Be a Bat?", Philosophical Review, pp. 435-50. オンライン・テキスト</ref><ref name="bat_ja">トマス・ネーゲル(著), 永井均(訳) 『コウモリであるとはどのようなことか』 勁草書房 1989年 ISBN 4-32-615222-2</ref>。

自然科学との関係

たとえばリンゴの色について考えた場合、自然科学の世界では「リンゴの色はリンゴ表面の分子パターンによって決定される」とだけ説明される。つまり、リンゴ表面の分子パターンが、リンゴに入射する光のうち特定の波長だけをよく反射し、それが眼球内の網膜によって受け取られると、それが赤さの刺激となるのだ、と。そしてこの一連の現象のうち、次のような点に関しては神経科学・物理学・哲学といった専攻や立場の違いに関わりなく、ほぼすべての研究者の間で意見が一致する。

  • どのような分子がどのような波長の光をどれぐらい反射するのか(⇒光化学
  • 反射した光は、眼球に入った後、どのようにして網膜の神経細胞を興奮させるのか(⇒網膜
  • その興奮は、どのような経路を経ての後部に位置する後頭葉視覚野)まで伝達されるのか(⇒視神経
  • 後頭葉における興奮は、その後どのような経路を経て、脳内の他の部位に伝達していくのか(⇒神経解剖学

だがこうした物理学的・化学的な知見を積み重ねても最後のステップ、すなわち「この波長の光がなぜあの「赤さ」という特定の感触を与え、この範囲の光はどうしてあの「青さ」という特定の感触を与えるのだろうか」といった問題は解決されないまま残されてしまうことになる。

この現在の自然科学からは抜け落ちている残されたポイント、すなわち「物理的状態がなぜ、どのようにしてクオリアを生み出すのか」という問題について、オーストラリアの哲学者ディビッド・チャーマーズ1994年ツーソン会議という意識をテーマとした学際的なカンファレンスで「それは本当に難しい問題である」として、その問題に「ハード・プロブレム」という名前を与えた<ref>Toward a Scientific basis for consciousness" Sponsored by The University of Arizona April 12 - 17, 1994 Tucson, Arizona サイト</ref>。

クオリアの自然化

向精神薬脳表電気刺激の実験などからも分かるように、「脳の物理的な状態」と「体験されるクオリア」の間には緊密な関係がある。しかしながらそれが具体的にどのような関係にあるのかはまだ明らかではない。この「脳の物理的な状態」と「体験されるクオリア」がどのような関係にあるのか、という問題に対しては、抽象的なレベルにとどまってはいるが様々な仮説が提唱されている<ref>Anil K Seth (2007) "Models of consciousness." Scholarpedia, 2(1):1328</ref>。こうした「クオリアを整然とした自然科学(とりわけ物理学)の体系の中に位置づけていこう」という試みは、クオリアの自然化 (Naturalization of Qualia) と呼ばれ、心の哲学における重要な議題のひとつとなっている<ref>フレッド・ドレツキ著、鈴木貴之訳 『ジャン・ニコ講義セレクション 2 心を自然化する』 勁草書房 2007年 ISBN 978-4-326-19958-7</ref>。

クオリアに関する様々な立場

クオリアに関する議論は様々な論点が知られているが、なかでも最も大きな論争となるのは、その存在論的な位置づけに関する議論である。つまりクオリアは現在の物理学の中でどこに位置づけられるのか、という問題である。この問題に対する考え方の詳細は論者によって様々であり、一概に分類することはできない。分類方法は様々で、書物ごとに異なっている。しばしば、物理主義から二元論までの段階的なスペクトルのどこかに各人の立場が位置づけられる、ということが言われる。ここでは簡単に、以下の三種類すなわち、物理主義的立場、二元論的立場、そして判断保留型、の三つに分類し説明する。哲学的な立場に関するより詳細な分類については、たとえばチャーマーズによるA, B, C, D, E, Fの6分類<ref>David Chalmers, "Consciousness and its Place in Nature" The Blackwell Guide to Philosophy of Mind, edited by Stephen Stich and Fritz Warfield (Blackwell, 2003) ISBN 0631217754 Online PDF</ref>、またヴァレラによる二次元な分類などが比較的よく知られている。

物理主義的立場

クオリアは何か非常に真新しく、現在の物理学の中には含まれていないもののように見えるが、そんなことはない、すでに含まれているのだ、という立場。こうした立場は一般に唯物論または物理主義的と呼ばれる。この立場を取る世界的に有名な論者としてフランシス・クリック<ref>フランシス・クリック 『DNAに魂はあるか―驚異の仮説』 講談社 1995年 ISBN 4061542141 (少し妙なタイトルだが、人間はニューロンのカタマリにすぎない、という主張を持つ一冊)</ref>、ダニエル・デネット<ref>ダニエル・デネット 『解明される意識』 青土社 1998年 ISBN 4-7917-5596-0</ref>、チャーチランド夫妻(パトリシア・チャーチランドポール・チャーチランド)が、また日本語圏で有名な論者として信原幸弘<ref>信原幸弘著 『意識の哲学―クオリア序説』 岩波書店、2002年 ISBN 4000265881</ref>、金杉武司<ref>金杉武司著 『心の哲学入門』 勁草書房 2007年 ISBN 978-4-326-15392-3</ref>がいる。この立場ではフロギストンカロリック生気といった科学史上の誤りを例にとって、クオリアもそうした例のひとつに過ぎないと考える。物理主義的立場には、同一説機能主義消去主義表象説高階思考説など様々なバージョンがある。

二元論的立場

クオリアは現在の物理学の範囲内には含まれていない、と考える立場。つまり既知の物理量の組み合わせでクオリアを表現することはできない、という立場。こうした立場は一般に二元論的と呼ばれる(ただし二元論と呼ばれてはいるが、霊魂の存在を仮定するデカルト的な実体二元論を主張しているわけではない点に注意されたい)。この立場は大きく次の二つに分かれる。ひとつは「物理学の拡張によって問題は解決される」という立場。そしてもう一つは「そもそも私達人間にはこの問題は解けない」という立場である。

画像:Tononi IITC 2.jpg
ジュリオ・トノーニの 意識の情報統合理論によれば、脳内で強く統合されたエレメント(皮質のミニコラム程度の大きさの要素)の特定の集まりが、コンプレックスと呼ばれる情報的な結合体を形成し、そのコンプレックス内での各エレメントの発火が単一のクオリアと非常に近い形で対応する、とする。そして、瞬間瞬間の意識体験は高次元空間(クオリア空間)上の一点で指定されるとする<ref name="Tononi_IITC" />。
画像:Conscious experience in Orch-OR theory.png
ペンローズハメロフが提唱した客観収縮理論によると、波動関数が収縮する際に、意識体験(クオリア)が生まれる、とされる。
物理学拡張派
クオリアは現在の物理学に含まれていないから、クオリアを含んだより拡張された物理学を作ろう、という立場。世界的に有名な論者としてデイビッド・チャーマーズ<ref>デイヴィッド・チャーマーズ著, 林一訳 『意識する心』 白揚社 2001年 ISBN 4-8269-0106-2</ref>、ロジャー・ペンローズ<ref>ロジャー・ペンローズ林一訳『心の影 意識をめぐる未知の科学を探る』みすず書房 一巻 ISBN 4-622-04126-X 2001年、 二巻 ISBN 4-622-04127-8 2002年4月</ref>が、またペンローズの流派に属する日本語圏で有名な論者として茂木健一郎<ref>茂木健一郎著 『脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか』 日経サイエンス社 1997年 ISBN 4532520576</ref>がいる。この立場には二つの違った流れがある。
1. 情報に注目する立場
クオリアと物理現象の間をつなぐ項として、情報に注目している一連の研究の流れがある。ジョン・アーチボルト・ウィーラーの "it from bit"(すべてはビットからなる)という形而上学に影響を受けて主張されたデイビッド・チャーマーズ情報の二面説(Dual-aspect Theory of Information)や、ジュリオ・トノーニ意識の情報統合理論<ref name="Tononi_IITC">ジュリオ・トノーニ "An information integration theory of consciousness", BMC Neuroscience 2004, 5:42. doi:10.1186/1471-2202-5-42</ref>のような数学的な構成を持った理論がある。トノーニは意識の単位はビットだと主張する。
2. 量子力学に注目する立場
クオリアと量子力学における観測問題との間に何らかの関係があるのではないか、と考える一連の研究の流れがある。しばしば量子脳理論と一括りで表現されることもあるが、そうした理論の中で最も有名なものとして、ロジャー・ペンローズスチュワート・ハメロフの提唱する波動関数の客観収縮理論(Orch-OR Theory)がある<ref>

スチュワート・ハメロフ, ロジャー・ペンローズ. "Conscious Events as Orchestrated Space-Time Selections" Journal of Consciousness Studies, Volume 3, Number 1, 1996 , pp. 36-53(18)</ref><ref>上の論文の邦訳 スチュワート・ハメロフロジャー・ペンローズ著、茂木健一郎訳「意識はマイクロチューブルにおける波動関数の収縮として起こる」『ペンローズの<量子脳>理論―心と意識の科学的基礎をもとめて』pp.139-194収録、<ちくま学芸文庫> 筑摩書房 2006年、ISBN 978-4480090065</ref>。この理論によれば、脳内でチューブリンというタンパク質の波動関数が収縮する際に、意識体験(クオリア)が生まれる、とされる。そしてこの収縮が連続して継起することで意識の流れが生み出される、と。ただこれは理論物理学者が提示している説とはいえ、その内容はまだいたって概念的なものであり、理論の詳細が数式や方程式の形で具体的に示されているわけではない。

ニューミステリアン
クオリアは現在の物理学に含まれておらず、ハードプロブレムは依然として残っているが、私たち人間にはこの問題は解くことはできないだろう、と考える立場。一般に新神秘主義と呼ばれる。代表的な論者にトマス・ネーゲルコリン・マッギン<ref>コリン・マッギン著、石川幹人、五十嵐靖博訳 『意識の<神秘>は解明できるか』 青土社 2001年 ISBN 4-7917-5902-8</ref>、スティーブン・ピンカーなどがいる。ネーゲルはクオリアの問題が解決されるためには、少なくとも私たちの持つ世界に関する見方、それが根本的なレベルから変化しなければ無理だろう、と考える。マッギンは、人間という種が持つ固有の認知メカニズムはある一定の能力的限界を持っており、そのキャパシティを超えた問題が人間には把握できない、という認知的閉鎖(英:Cognitive closure)の概念を軸に置く。そして意識の問題はそうした私たち人間のキャパシティの範囲を超えた問題、つまり解決できない問題なのだと考える。

判断保留型

Template:要出典
画像:Neural Correlates Of Consciousness.jpg
NCC 探索の基盤となる枠組み。散歩しているイヌ(一番左)を見ている人(左から二つ目)の脳内で起きている様々な神経細胞の発火(左から三つ目)の集まりのうち、その一部がNCCとして(図中の丸で囲まれている部分)、心に浮かぶイヌの像(一番右)つまり主観的な意識体験を生み出す役割を担っている、とする。クリストフ・コッホに代表される一部の神経科学者たちは、こうした考え方のもと、NCCを発見・同定することを目指して研究を行っている。

ハード・プロブレムについて机上でいくら議論を積み重ねても謎は解けそうにもない、と考える立場。だから哲学者がやっているような形而上学的な議論は一時脇に置いといて(判断保留にして)、まずは実証的なデータを積み重ねていこう、と主張する。この立場の代表的人物としてクリストフ・コッホ<ref>フランシス・クリック, クリストフ・コッホ, "A framework for consciousness", Nature Neuroscience, (2003) Volume 6, Number 2, pp.119-126.</ref>がいる。こうした考えを背景に持つ研究で有名なものとして以下のようなものがある。

NCCの探索
意識と相関するニューロン(NCC:Neural correlates of consciousness 特定の意識体験を起こすのに必要な最小のニューロンのメカニズムとプロセス)を同定していく研究<ref>Florian Mormann, クリストフ・コッホ "Neural correlates of consciousness". Scholarpedia, 2(12):1740</ref>。クリストフ・コッホ<ref>クリストフ・コッホ著、土谷尚嗣金井良太訳 『意識の探求―神経科学からのアプローチ』 岩波書店 2006年 上巻:ISBN 4000050532 下巻:ISBN 4000050540</ref>が有名である。
事例・症例の研究
これはNCCの研究と並行するが、盲視半側空間無視共感覚幻肢痛、といった様々な事例・症例の調査・研究をもとに質感の問題にアプローチしていくスタイル。ラマチャンドラン<ref>ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン著、山下篤子訳 『脳のなかの幽霊、ふたたび―見えてきた心のしくみ 』 角川書店 2005年 ISBN 4047915017</ref>が有名。

発展

研究の基礎づけ

クオリアの科学はどのようにすれば可能なのか。科学的方法論に基づいてクオリアを扱っていこうとしたときに出会う最大の困難は、実験でクオリアを測定することができないことである(少なくとも現状の技術の範囲ではそうである。将来的にどうであるのかについては議論がある)。このことを「我々は意識メーター(consiousness meter)を持たない」などと比喩的に表現することもある<ref>クリストフ・コッホ著 土谷尚嗣、金井良太訳 『意識の探求―神経科学からのアプローチ』 岩波書店 2006年 上巻:ISBN 4000050532 下巻:ISBN 4000050540</ref>。どうすればクオリアや意識を科学の表舞台に引き上げることができるのか、その方法論や哲学的基礎づけに関して様々な議論がなされている。

クオリアを科学的に扱うことについて考える際にしばしば言われるのは、Template:要出典範囲、という点である。Template:要出典範囲というのである。というのも意識体験についてあなたが得た知見について、他者との間で何らかの比較または共有を行う機会がないからである。

こうした考えを進めていくような形で、クオリアの研究に関する方法論を述べた立場として、マックス・ヴェルマンズ(Max Velmans)の再帰的一元論(reflexive monism)が登場した(2008、Reflexive Monism)<ref>Max Velmans, "Reflexive Monism", Journal of Consciousness Studies (2008), 15(2), 5-50. Online PDF</ref>。ヴェルマンズは、物質だけが存在するという物理主義も、物質に加えてクオリアがあるという二元論も、どちらも根本的に間違っているとし、私たちにはもともと意識体験しかなく、そこから物質といった概念を獲得してきたのだ、その順序に立ち返れ、と主張する。そして現在私たちが持つ科学というものも、こうした究極的な意味においてはやはり主観的・個人的なものであり、客観的なものではない、とする。これは一種の観念論のような立場であり、Template:要出典範囲

関連する話題

クオリアを言語や物理的特性として記述しきることができないことは、哲学でしばしば議論されるいくつかの疑問と結びついている。

  • また、人工知能など、一般に意識を持つと考えられていないものが、センサーを通じて光の波長を処理できるとしたら、そのときその人工知能には意識があり、人工知能は赤さを感じている、としてよいのか<ref>柴田正良 『ロボットの心』 講談社〈講談社現代新書〉 2001年 ISBN 4-06-149582-8</ref>(⇒人工意識)。
  • 自分以外の人間に意識があり、クオリアを経験しているのか(⇒他我問題独我論)。

脚注

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関連項目

  • 共感覚 異なるモダリティの感覚が混ざりあって体験される現象
  • 盲視 見えていないといいながら、視覚刺激に反応できる症状
  • 幻肢痛 手や足を失った人が、失った手足を痛いと感じる症状
  • 両眼視野闘争 左右の目に異なる映像を与えたとき、映像が交互に入れ替わりながら体験される現象
  • 主体と客体
  • 美意識
  • 疑似科学

参考文献

  • デイビッド・チャーマーズ(著)、林一(訳)『意識する心-脳と精神の根本理論を求めて』白揚社 (2001年) ISBN 4-8269-0106-2翻訳元は "The Conscious Mind: In Search of a Fundamental Theory" (1996). Oxford University Press. hardcover: ISBN 0-19-511789-1, paperback: ISBN 0-19-510553-2意識のハードプロブレムについて論じた一冊。この本の要旨は以下の三点。1. 脳に関する知見を現在の物理学の枠内で深めていっても、クオリアについての説明は出てこない(この論証に哲学的ゾンビが使われる)。2. ゆえに現在の物理学は拡張されなければならない。3. この拡張は、物理状態とクオリアの間をつなぐ共通項として「情報」を基礎に置いていくようなものになるはずである。
  • スーザン・ブラックモア(著)、山形浩生,守岡桜(訳)『「意識」を語る』NTT出版 (2009年) ISBN 4757160178翻訳元は "Conversations on Consciousness" (2007). Oxford University Press. hardcover: ISBN 0195179595 。意識に関する二つの大きな国際会議、ツーソン会議ASSCの会場で、様々な分野の研究者20人にインタビューした記録をまとめた本。クオリア、ゾンビ、ハードプロブレム、自由意志について、それぞれの研究者に「あなたはどう思いますか」という形で質問をぶつける構成。ブラックモアは現代の意識研究に関する知識が豊富で、それぞれの相手に対しかなり突っ込んだインタビューを行っている。クオリアの問題に関し、現在いかに人々の間で意見が割れているか、それを知るうえで有用な一冊。

日本語のオープンアクセス文献

外部リンク

日本語

  • Qualia F.A.Q. - 自称脳科学者である茂木健一郎が運営するサイト、「クオリア・マニフェスト」内の一ページ。クオリアについてのよくある質問と、それに対する簡潔な返答をまとめている。
  • クオリア・マニフェスト - 同じく茂木氏のサイト、「クオリア・マニフェスト」内の一ページ。クオリア問題の歴史、意味、そして重要性について語っている。現在の心脳問題の概況を知るのにも使える一ページ。ただし、哲学的な面での正確さは必ずしも保証されない。

英語

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