キューバ
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Template:基礎情報 国 キューバ共和国(キューバきょうわこく、República de Cuba)、通称キューバは、カリブ海の大アンティル諸島に位置するラテンアメリカの共和制国家である。島国であり、ウィンドワード海峡を隔てて東にはイスパニョーラ島のハイチとドミニカ共和国が、ケイマン海峡を隔てて南にはケイマン諸島とジャマイカが、フロリダ海峡を隔てて北に145km先にはアメリカ合衆国のフロリダ州が存在する。首都はハバナ。
日本の本州の半分ほどの面積を持つ島国である。地理的には北アメリカに含まれるが、広義の中央アメリカにも含まれる。「アメリカ合衆国の裏庭」と俗に呼ばれたりするが、裏庭どころではなく、南北アメリカ大陸、及びヨーロッパとラテンアメリカを結ぶ要路に位置している。また、アメリカ大陸で初めて成立した社会主義政権にちなんで、「カリブに浮かぶ赤い島」と形容されることもある。
目次 |
国名
正式名称はスペイン語でRepública de Cuba。通称、Cuba(クーバ)。
公式の英語表記は、Republic of Cuba。通称、Cuba(キューバ)。
日本語の表記は、キューバ共和国。通称、キューバ(玖瑪、玖馬、久場、古巴)。スペイン語で Cuba をクーバと発音するので、クーバと呼ぶ人もいる。
国名は、カリブ海最大の島であるキューバ島に依っており、「中心地」という意味のインディオ(タイノ族)の言葉であるクバナカン(Cubanacan、現在のオルギン)が由来であるとされている。
歴史
先コロンブス期
ヨーロッパ人の到来する以前のキューバには、南アメリカのギアナ地方から海を渡ってきたアラワク族系のタイノ族や、シボネイ族、カリブ族と呼ばれる先住民が暮らしていた。
スペイン植民地時代
Template:See also [[ファイル:Florida Moyne 1591.jpeg|thumb|220px|1591年のキューバとフロリダ半島の地図]]
1492年10月27日、キューバ島はクリストバル・コロンの第一次航海でヨーロッパ人に「発見」され、スペイン人による征服が始まった。キューバの住民はインドに到達したと思ったコロンによって「インディオ」(インド人)と呼ばれ、インディオ達は、スペイン人に支配されたイスパニョーラ島から逃れてきたアトゥエイに指導されてスペイン人への抵抗を続けたが、1511年スペインのベラスケスが率いる遠征隊によって征服された。その後も散発的な抵抗が続いたが、植民地化が進むにつれてスペイン人による虐殺、虐待や強制労働、疫病によってそのほとんどが絶滅したとされる。
スペイン人によるキューバの植民地化は同時に砂糖産業、奴隷貿易を盛んにし、インディオの悲劇とは別に、キューバはスペインと中南米の中継地点として著しく発展を遂げ、メキシコ市やリマに続くスペイン領アメリカ植民地第三の都市として発展したハバナには大学や要塞が建設された。
19世紀初め、シモン・ボリーバルやホセ・デ・サン=マルティン、ミゲル・イダルゴらの活躍により、大陸部のスペイン植民地は既に独立していたが、キューバではそのように新たに独立した国から旧王党派が亡命し、スペイン本国はフィリピン、プエルトリコなどと共に僅かに残った最後の植民地キューバを決して手放すまいとして、駐キューバスペイン軍を強化した。
また隣のイスパニョーラ島西部のフランス領サン=ドマングがハイチとして独立した後、王政や帝政への移行を繰り返して迷走し、酷い混乱状態に陥っている様子が伝わってきた。こうしてこのような様々な事情が積み重なり、砂糖プランターだったクリオーリョ支配層はこの時期には独立を望まなくなっていた。
その後サン・ドマングから逃げてきたフランス人農園主の技術が導入されて、キューバでも大規模な奴隷制砂糖プランテーションが発達し、1840年代には世界最大の砂糖生産地となった。また、それまでスペインの専売だった葉巻の販売が自由化されると砂糖に加えて、葉巻の通商でも富を得るようになった。しかし同時に、1830年代からスペインの支配者が次第に抑圧的となり、キューバ国内の入植者の間では次第に独立の気運が高まり、一時キューバのアメリカ合衆国編入を目指す運動も起きた(こうした動きはエル=サルバドルやドミニカ共和国にもあった)。
独立戦争(1868年 - 1902年)
Template:See also [[ファイル:Antonio Maceo.jpg|thumb|left|「青銅の巨人」アントニオ・マセオ将軍。マセオ将軍はムラートだったが、巧みな戦術により白人も含めた多くのキューバ人の指導者となった]] [[ファイル:JoseMarti.jpeg|thumb|19世紀のラテンアメリカが生んだ人物の中で最も優れた人物の一人として知られる、キューバ独立の父ホセ・マルティ]] thumb|19世紀のラテンアメリカが生んだ人物の中で最も優れた人物の一人として知られる、キューバ独立の父ホセ・マルティ
最初の独立闘争はアメリカ合衆国への併合を求めたカルロス・マヌエル・セステベスにより1868年に始められた。これは第一次キューバ独立戦争として知られ十年余りに渡って続けられたが、1877年にスペイン当局によりキューバへの自治が認められると終結し、1878年にはサンホン条約が結ばれスペインと休戦が成った。 しかし、ムラートのアントニオ・マセオ将軍をはじめとする一部の人々はこの決定を不服とし、キューバの完全独立を目指して解放戦争を続けた。1886年には奴隷制度が完全に廃止されたが、もはやキューバ人への独立への願いを留めることはできなかった。
1892年、ホセ・マルティをはじめとする亡命キューバ人がアメリカ合衆国のニューヨークを拠点としてキューバ革命党を設立し、マルティの指導によって1895年から第二次キューバ独立戦争が再発した。マルティ自身は同年戦死したものの、マキシモ・ゴメス将軍の指導するキューバ独立軍はスペイン軍との死闘を続け、1898年には島の半分以上をスペインから解放するところにまで来た。しかし、独立戦争の勝利が目前に迫ったある日、同国人保護のために停泊していたアメリカ合衆国の戦艦メイン号がハバナで謎の爆沈を遂げると、激怒したアメリカ国民の支持を背景にキューバ独立戦争へのアメリカの介入が始まった。こうして1898年にスペイン・アメリカ・キューバ戦争が勃発すると、アメリカ軍は瞬く間にキューバ全島からスペイン軍を駆逐し、戦争はアメリカ合衆国の圧倒的な勝利となった。
旧共和政時代(1902年 - 1959年)
1898年に締結されたパリ条約によってスペインの敗戦が決まると、スペイン植民地だったフィリピン、グアム、プエルトリコは割譲されてアメリカの植民地となり、キューバでは降伏したスペイン軍と結んだアメリカ軍により軍政が敷かれた。
1902年5月20日にキューバ共和国は独立を達成し、400年に及ぶスペイン支配から解放され独立を勝ち取ったかに見えたが、それはスペインに代わるキューバの新たな主人、アメリカ合衆国による支配の始まりでもあった。同年、キューバ国憲法に盛り込まれたプラット修正条項(Platt Amendment)には、アメリカの内政干渉権をキューバは認める、グァンタナモ、バイア・オンダの二箇所にアメリカの軍事基地を置くことなどが盛り込まれ、実質的にはアメリカの保護国となってしまった。なおアメリカは、1903年にグァンタナモ湾を永久租借した契約を盾に、現在に至るまでグアンタナモにアメリカ海軍の基地を置き続けている。
「独立」後、キューバにはアメリカ資本が数多く進出し、製糖産業など多くの資源産業をアメリカ企業が支配した。また、政治家の不正が度重なって生じたことで、キューバの現状に対する国民の不満はより深化していった。このような国民の不満は、はやくも1906年に反乱行為として結実し、1909年までキューバはアメリカ軍の管理下に入らざるを得ない状況が続いた。また、1912年、1916年にも反乱が発生し、アメリカが介入する事態となった。その後も、キューバではクーデターの発生や相次ぐ政変により、1930年代まで政治的な不安定期が続いた。そのため、アメリカもプラット修正条項を廃棄(海軍基地設置の条項は除外)するなど、キューバの秩序維持に努めざるを得なかった。
不安定な政治状況は、1933年から政治の主役を演じていたムラートのフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)軍曹が、1936年に政権の実権を握ったことで一定の安定を見せ、キューバ政府が社会経済の改革計画を実行できるまでになった。そして、1940年になると、バティスタの大統領就任と新憲法の公布により、ようやくキューバでは政治的緊張が緩和された。1944年の総選挙でバティスタが敗北した後、キューバは国際連合設立(1945年)や米州機構設立(1948年)に参加した。しかし一方で、国内では砂糖の国際価格の不安定化とインフレ問題が重要課題として浮上し、政府が有効対策をとれなかったことで、社会不安が拡大した。
[[ファイル:1952Batista.jpg|thumb|独裁者バティスタ大統領(1952年)]] 1952年にバティスタはクーデターで政権を奪取し、憲法を停止した上で独裁政治を開始した。二度目のバティスタ政権は一度目とは違い、腐敗、弾圧、独裁が続いた。これにより、アメリカのキューバ支配は頂点に達し、バティスタ政権とアメリカ政府、アメリカ企業、アメリカマフィアの4者がキューバの富を独占し、その富がアメリカ本土に流れるような社会構造が形成された。
1953年7月26日に、このようなアメリカによる半植民地状態の克服を夢見て、弁護士フィデル・カストロ(Fidel Castro Ruz)率いる青年たちが蜂起(モンカダ兵営襲撃)したが失敗に終わり、関係者は投獄された。1954年にバティスタは形式のみの信任選挙で再選を果たし、1955年の大統領就任と同時に憲法に基く統治を復活させ、カストロらの政治犯に恩赦を与えた。カストロは、恩赦によって出獄すると反政府組織「7月26日運動(M26)」を結成、同志とともにメキシコに亡命した。その後、砂糖の国際価格の安定により、キューバ経済の状況は改善されたが、バティスタの独裁体制は継続され続けた。
メキシコ亡命後、カストロらはその地でグアテマラ革命の崩壊に立ち会ったアルゼンチン人医師のエルネスト・“チェ”・ゲバラ (Ernesto "Che" Guevara) と出会い、ゲリラ戦訓練を受けた後、1956年12月にヨット「グランマ号」にのってキューバに上陸した。その際、政府軍の攻撃でカストロらは壊滅的打撃を受けたが、マエストラ山脈を拠点として政府軍へ2年余りのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込んだ。
キューバ革命(1959年 - 現在)
[[ファイル:Manuel Urrutia2.jpg|thumb|left|マヌエル・ウルティア大統領、チェ・ゲバラ、カミーロ・シエンフエゴス]]
革命軍はハバナに入城し、キューバに革命政権が誕生したが、その際に革命政権は、発足後数週間の内に軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。その後、2月半ばにカストロが首相職に就任すると、革命政権は一連の農地改革法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、製糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化し、農業の集団化を実施するなど社会主義国家の建設を推進した。この過程で、医者をはじめとする中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命した。
バティスタ傀儡政権を失ったアメリカは、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、59年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。おりからの冷戦による米ソ対立の影響を受け、アメリカに敵視された革命政権はソ連に接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。アメリカ政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からのアメリカ企業の排除に努め、アメリカ資本の石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業の大企業を国有化した。
1961年、アメリカ政府はキューバとの外交関係を断絶し、少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のヒロン湾(英語ではピッグス湾)に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった(プラヤ・ヒロン侵攻事件)。この事件をきっかけにキューバは社会主義宣言を行い、ソビエト連邦や東側諸国との結びつきを強めた。
1962年2月3日にアメリカのケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連のミサイル基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、核戦争の危機となったが米ソの妥協で危機を回避する事態が起きた(キューバ危機)。これにより、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化したが、1965年にアメリカとキューバは、反体制派キューバ人のアメリカ亡命を認めることで合意し、1973年までに26万人以上がキューバを去った。1960年代のキューバは第三世界非同盟外交に基づいて世界革命を推進し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ各地に軍事顧問団を派遣し、ベトナム戦争を戦う北ベトナムや、セク・トゥーレ政権のギニアと関係を深め、ボリビアにはチェ・ゲバラ率いるゲリラ部隊が派遣された。1967年にゲバラがボリビアで戦死したため、『ゲリラ戦争』で主張されたマルクス=レーニン主義、ゲバラ=カストロ路線に基づくラテンアメリカでの農村ゲリラ革命路線は失敗に終わったが、その後のラテンアメリカ諸国はサルバドール・アジェンデ政権のチリのように平和革命路線に移行した。キューバはこのような変革を支援し、資本主義との戦いの最前衛に立った。
1970年代に入り、チリ・クーデターで平和革命路線も失敗に終わった後、国内の社会主義建設を制度化するため1976年に憲法が制定され、社会主義が法制化された。内政面では医療や教育や文化に重点を置いた国造りが進み、映画や文学やアフリカ系の文化復興運動が進み、外交面では多くが社会主義国として独立したアフリカの旧ポルトガル植民地や、社会主義化したエチオピアの戦争(内戦)に援軍を派遣した。特にアンゴラに対しては1975年の独立前後から軍を派遣し、アンゴラ内戦が勃発すると、南アフリカのアパルトヘイト政権と戦うために最盛期には52,000人の軍を派遣し、ブラックアフリカ諸国から信望を集めた。
1980年代に入り、オガデン戦争、アンゴラ内戦は共に膠着状態に陥り、キューバの負担も増加したため、1988年のクイト・クアナヴァレの戦いの後、名誉ある撤退を求めて南アフリカとアメリカ合衆国が提唱していたリンケージ政策を受け入れ、南アフリカ領だったナミビアの独立と引き換えにアンゴラからから撤退した。
冷戦終結以降(1991年-現在)
[[ファイル:Cuba.FidelCastro.02.jpg|thumb|left|革命広場(ハバナ)にあるホセ・マルティ記念碑の前で演説するフィデル・カストロ(2003年9月27日)]]
アメリカ合衆国下院は2003年9月9日、アメリカ人のキューバ訪問禁止解除の法案を可決(今回で4度目の可決、賛成227、反対188)。10月23日には上院も同趣旨の法案を可決(賛成59、反対38)。いずれもブッシュ大統領の所属する共和党主導で行なわれた。連邦財務省の試算によれば、2002年に合法的にキューバを訪問したアメリカ人は約16万人で、うち半数はキューバ系アメリカ人、ほかに人権団体、教育関係者、ジャーナリスト、外交官など。それ以外に罰金・禁固刑のリスクをかえりみず、カナダ、メキシコ経由で違法にキューバ渡航する者も多いと財務省当局はみている。レーガン大統領の時代、罰則は罰金25万ドル・10年の懲役刑へと引き上げられている。渡航禁止が解除された場合、初年度の渡航者は100万人に達すると財務省は試算。
国連総会は11月4日、アメリカの42年間におよぶ対キューバ通商禁止解除を求める決議を可決(賛成179、反対3、反対はイスラエルとマーシャル諸島、アメリカ合衆国。この決議は今年で12回目)。アメリカ上院はさらに、外交委員会が渡航禁止解除を決議(11月6日)。
ブッシュ政権は2004年の大統領選に向け、大票田であるフロリダ州のキューバ系アメリカ人票をつなぎ止めるため、上下両院で可決された法案に対し拒否権発動の姿勢を崩さない。キューバとの通商はフィデル・カストロを利するだけで、一般のキューバ人への利益にはならないというのがブッシュ政権の説明。
アメリカが農産物を輸出する国として、2年前、キューバは第208位であったが、現在は第35位を占めるまで急上昇している。また、かつては世界で有数の砂糖生産国であったキューバも、現在さとうきび畑の大部分を転作化、先頃開かれていたハバナでの国際貿易フェアで、米国からの参加者に砂糖の輸入を打診した。
表向きは経済制裁を継続していたはずのクリントン政権時代にハバナの米国利益代表部は大改築を行ない、現在は巨大なビルへと変貌している。
2006年7月31日、カストロ国家評議会議長 (79) は声明を出し、7月後半のアルゼンチン外遊のきつい日程の影響で腸に急性の問題が発生、出血が続いているため、外科手術を受けたと発表した。また、権限を数週間、弟のラウル同評議会第一副議長兼国防相 (75) に委譲したことを明らかにした。声明は秘書官が読み上げ、国営テレビ・ラジオで伝えた。
2006年8月3日、アメリカのブッシュ大統領は、カストロ声明に便乗して、「われわれは民主主義を約束するキューバの移行政権を樹立する努力を支持する」と「政権転覆」を呼びかける声明を出した(→白色テロ)。
2007年5月、テキサス州エル・パソの連邦地裁は、クバーナ航空455便爆破事件に関与した反革命傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレスを釈放。
2008年2月19日、フィデル・カストロ国家評議会議長、退任。軍の最高司令官も退任する。2月24日、人民権力全国会議(国会)が招集され、国家評議会議長に弟のラウルが選出された。ラウルは就任早々、規制緩和を次々打ち出し、一般国民の携帯電話所持やホテル宿泊、家電製品購入などが自由にできるようになった。
2008年4月28日、ラウル・カストロ国家評議会議長は、第6回中央委員会総会で、第6回党大会を来年度後半に開くことを提案した。大会開催は1997年10月以来12年ぶりとなる。
2008年8月19日、キューバ国立銀行が日本の化学品商社・明和産業への輸入代金の支払に発行した信用状(L/C)が期日までに決済不能に陥ったことが判明した(デフォルト)。明和産業によると債権額は約8億7,200万円であり、独立行政法人日本貿易保険が一部焦付額に保険を適用すると発表した。<ref>債権取立不能のおそれに関するお知らせ 明和産業株式会社ニュースリリース、2008年8月18日</ref> なお、日本貿易保険はキューバ国立銀行から「当行一行だけの問題ではなく、国全体の決済資金が不足している」との説明を受けたとしている。<ref>キューバ国立銀「輸入代金払えず」、日本貿易保険に通告 日本経済新聞、2008年8月19日</ref>
2008年11月には中華人民共和国の胡錦濤国家主席が訪問し、ハリケーン被災者へ支援物資贈った。キューバの第二の貿易国は中国であり、中国のラテンアメリカとの関係を強める背景には資源の確保またはアメリカ一極体制の反抗が狙いであると思われる。
国連総会は2008年10月29日、アメリカ合衆国に対し、1961年から継続されている経済制裁の解除と、キューバ民主化・トリチェリ・ヘルムズ=バートンの三法廃止を求める決議を、1992年から17年連続で採択した(賛成185か国、アメリカ合衆国、イスラエル、パラオは反対、マーシャル諸島、ミクロネシアが棄権)<ref>United Nations>General Assenbly>Documents>Archives>Resolutions>63rd session>Necessity of ending the economic, commercial and financial embargo imposed by the United States of America against Cuba 2008年10月31日閲覧</ref> <ref>AFP>米国の対キューバ制裁解除決議、国連総会で17年連続採択 2008年10月31日閲覧</ref>。
国連総会は2009年10月28日、アメリカ合衆国に対し、1961年から継続されている経済制裁の解除と、キューバ民主化・トリチェリ・ヘルムズ=バートンの三法廃止を求める決議を、1992年から18年連続で採択した(賛成187か国、アメリカ合衆国、イスラエル、パラオは反対、マーシャル諸島、ミクロネシアが棄権)<ref>United Nations>General Assenbly>Documents>64th session>Resolutions>Necessity of ending the economic, commercial and financial embargo imposed by the United States of America against Cuba 2009年12月31日閲覧</ref>。
略年表
- 1492年 クリストバル・コロン、キューバ島に到着(12月27日)
- 1509年 ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル、キューバ総督に任命
- 1868年 第一次独立戦争(10年戦争)開始
- 1895年 ホセ・マルティ、オリエンテのラプライータに上陸、第二次独立戦争開始。(4月10日)
- 5月19日 マルティ戦死
- 1898年 米西戦争(2月)
- 1902年 独立、エストラーダ=パルマ政権発足(5月)
- 1903年 アメリカ、グァンタナモ湾を租借
- 1952年 バティスタ軍曹のクーデター(3月)
- 1953年 モンカダ兵営襲撃(7月26日)、モンカダ裁判(9月)
- 1955年 フィデル・カストロ恩赦、メキシコへ亡命
- 1956年 グランマ号でオリエンテ州に上陸(12月)7月26日運動、活動開始
- 1957年 革命幹部会による大統領官邸襲撃(3月)
- 1958年 反乱軍の最終攻勢始まる
- 1959年 バティスタ大統領亡命(1月1日)
- 2月17日 カストロ、首相に就任、革命政権成立(キューバ革命)
- 4月15日 カストロ、ニューヨークへアメリカ政府に対する表敬訪問。アメリカ政府はドワイト・D・アイゼンハウアー大統領がゴルフに出かけたとの理由で首脳会談を拒否
- 5月17日 農地改革法公布
- 1960年 アメリカ政府、キューバ砂糖輸入割当廃止の意向発表
- 2月4日 アナスタス・ミコヤンソ連副首相訪問、キューバ・ソ連通商条約調印
- 4月4日 ユナイテッド・フルーツ社有地が接収される
- 6月29日 テキサコ製油所介入
- 7月1日 エッソとロイヤル・ダッチ・シェルの製油所へ介入
- 7月2日 アメリカ政府、キューバ砂糖輸入割当制度を廃止
- 8月6日 アメリカ企業接収
- 1961年 アメリカと国交断絶(1月3日)
- 4月4日 傭兵軍航空機によるハバナ等への航空施設爆撃。
- 4月16日 カストロ、社会主義革命宣言
- 4月17日 反革命傭兵軍上陸事件(~19日 ピッグズ湾事件)
- 4月25日 アメリカ、対キューバ全面的貿易封鎖発表
- 1962年 キューバ危機(10月15日)、ケネディ大統領、対キューバ海上封鎖宣言(10月22日)
- 1963年 カストロ、初のモスクワ訪問
- 1965年 キューバ共産党結成
- 1967年 カストロ、チェ・ゲバラのボリビアでの死亡を発表
- 1975年 第一回共産党大会、アンゴラ派兵本格化
- 1976年
- 新憲法(現行憲法)制定
- クバーナ航空455便爆破事件。傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレス、乗客乗員73人全員を殺害
- 1977年 アメリカと利益代表部設置で合意
- 1981年 革命ニカラグアへ派遣した教師が暗殺
- 1983年 アメリカのグレナダ侵攻に抗議して派兵
- 1992年 憲法改正により、キューバを社会主義国家と定義。米国でトリチェリ法<ref>ロバート・トリチェリ下院議員が提案した。一般にはCDA(Cuban Democracy Act)と呼ばれる。主な内容は以下の通り。
- アメリカ籍企業の海外支店がキューバと貿易することを禁止
- アメリカ市民がキューバに旅行することを禁止
- キューバ人亡命者が家族に送金することを禁止
</ref>成立、ブッシュ大統領が署名
- 1993年 ドル所有の合法化
- 12月22日 カストロの実の娘、アリナ・フェルナンデスがアメリカへ亡命
- 1994年 米・キューバ移民協議、難民問題でアメリカ政府と合意
- 1996年 アメリカでヘルムズ=バートン法<ref>ジェシー・ヘルムズ上院議員が提案。一般にはこの名称だが、正式には「キューバ解放と民主連帯法」(the Cuban Liberty and Democratic Solidarity Act)という。主な内容は以下の通り。
- アメリカ人は接収財産に関わる取引をした外国企業に対し所有権を要求する権利を持つこと
- 接収資産と関わる企業はアメリカへの入国を禁止すること
しかし、この法律はヨーロッパや中南米を中心とする国際的非難を浴びている。 </ref> 成立、クリントン大統領が署名
- 1999年 アメリカ、対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表、エリアン少年事件
- 2000年 アメリカによる対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表
- 2001年 アメリカからへの食糧購入開始
- 2002年 カーター元アメリカ大統領キューバ訪問。憲法改正
- 2005年 米国務長官コンドリーザ・ライス、キューバを北朝鮮やイランと並ぶ「圧制の拠点」と発言し、打倒すべき独裁政権の一つにあげた。 キューバ航空機爆破、カストロ議長暗殺未遂など親米テロの廉で逮捕され、保釈後ベネスエラへ逃亡していた傭兵軍のカリレス、アメリカへ亡命を求めて脱出するもマイアミで逮捕される
- 2008年
- 2月 カストロ、国家評議会議長引退を発表
- 2月24日、ラウル・カストロが国家評議会議長に選出。
- 2009年
- 6月 米州機構総会においてキューバの復帰が認められる。
政治
- 政体:社会主義共和制
- 憲法:1976年に現行憲法を制定。1992年、2002年に一部修正。92年修正で、キューバを社会主義国家と定義。02年修正で、「社会主義体制は不可侵(変更不可能)」とする条項を追加。
- 元首:元首職は国家評議会議長。現任はラウル・カストロ(2008年−)。
- 国家評議会:人民権力全国会議(議会)の閉会中に、立法機能を果たす集団指導機関。内閣とは別個の存在。首長は国家評議会議長で、国家元首を務める。
- 議会:立法権行使機関として、一院制の人民権力全国会議(1976年発足)が存在。当初は、代議員を人民権力地方会(地方自治体)の中から選出する間接選挙制を採用していたが、1992年から国民が代議員を直接選出する直接選挙制度に移行した。総数589議席、任期5年。毎年2回定期的に開催され、議員中から31名の国家評議会議員を選出。
- 内閣:内閣に相当する行政機関として、閣僚評議会が存在。閣僚評議会議長・第1副議長・副議長8名・各国家委員会議長11名及び各部長官23名によって構成。首相(政府首班)に相当する閣僚評議会議長は、国家評議会議長が兼任。
- 政党:合法政党は「キューバ共産党」(PCC)のみ。PCCは、党の有力下部組織として「青年共産主義者同盟」を有する。
- 司法:司法権行使機関は、最高裁判所として人民最高裁判所が存在。最高裁判事は、人民権力全国会議が選出。法律の規定により、下級裁判所は州及び自治体ごとに存在。特別裁判所として、国家に対する犯罪を扱う革命裁判所が存在。
- 地方自治体:地方自治をおこなう人民権力地方会として、人民権力行政区会議と人民権力州会議が存在。詳細は地方行政区分を参照。
- 反政府組織:主要勢力として、対カストロ政権強硬派のキューバ系アメリカ人財団(CANF)がフロリダ(米国)に存在。
- 対外関係:非同盟諸国との連帯、反帝国主義、及びに民族解放運動支援が、カストロ政権の伝統的な対外政策の最優先課題。1960年の対ソ連接近にともない、アメリカとは1961年1月3日に国交を断絶。以後、米国から禁輸措置を受ける。近年ではラテンアメリカ諸国の左派政権との間で外交活動を活発に展開、特にベネスエラのチャベス政権との間で関係が親密化。キューバ人医師の派遣、医学を志す留学生の受け入れ(条件付きながら無料で学べる)など、医療支援も活発に行われている。
対日関係
1929年12月21日、国交樹立。1941年12月、太平洋戦争勃発にともないアメリカと共に対日宣戦を布告。1952年11月、サンフランシスコ講和条約締結にともない、国交回復。1960年に通商協定を締結(発効は1961年)。1898年以降、日本人移民がキューバに定住、1999年時点の概数で日系人は800人(財団法人海外日系人協会の資料)。
日本は自由主義体制をとり米国とも密接な同盟関係を維持しているが、キューバに対しては地理的・政治的な利害関係を持たず、またフィデル・カストロが親日家であり、日本人もキューバに対してはエキゾチックな好感を抱いており、音楽やスポーツを通じた民間交流も盛んである。 そのため、両国関係は政治・経済の両面で良好であり、ペルー日本大使公邸占拠事件では、日本政府の要請に対し、キューバがゲリラの亡命受け入れを受諾した。
地方行政区分
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歴史的に、キューバは6つの地方行政区分に分けられていたが、1977年の再編成によって現在の区分に改められた。現在、キューバの地方行政地域は14の州(Provincia)と「青年の島」(旧ピノス島)の1特別自治体に区分されており、更に州の内部には169の自治体が存在している。なお、現在の区分は、キューバの独立戦争期に、スペイン軍が軍事上の危険区域を分離すべく用いていた地域区分に類似しているとされている。
キューバは中央集権的な政治体制を採用しており、各州・地方自治体が有する自治権は限定的である。各州には州議会が存在するが、その構成員は住民から間接的に選出される。住民はまず、次に、議会は執行委員会の委員を選出し、その委員は各州に5つ存在する地域議会を構成する。そして、地域議会は執行委員会の委員を選出し、その委員が結集することで州議会が構成される。州議会にも執行委員会は存在し、執行委員会は各段階で議会が有する行政機能の監督を行なっている。なお、特別自治体である「青年の島」のみは、島で一つの自治体を成しており、地方自治関連の諸問題において直接中央政府の監督を受けている。
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1 | 青年の島(Isla de la Juventud) | ||
2 | ピナール・デル・リオ州(Provincia de Pinar del Río) | 9 | シエーゴ・デ・アヴィラ州(Provincia de Ciego de Ávila) |
3 | ハバナ(ハバナ)州(Provincia de La Habana) | 10 | カマグエイ州(Provincia de Camagüey) |
4 | ハバナ(ハバナ)市(Provincia de Ciudad de La Habana) | 11 | ラス・トゥーナス州(Provincia de Las Tunas) |
5 | マタンサス州(Provincia de Matanzas) | 12 | グランマ州(Provincia de Granma) |
6 | シエンフエーゴス州(Provincia de Cienfuegos) | 13 | オルギン州(Provincia de Holguín) |
7 | ヴィーリャ・クララ州(Provincia de Villa Clara) | 14 | サンティアーゴ・デ・クーバ州(Provincia de Santiago de Cuba) |
8 | サンクティ・スピリトゥス州(Provincia de Sancti Spirítus) | 15 | グァンタナモ州(Provincia de Guantánamo) |
主要都市
2003年の推計によれば、キューバ国民の約75%が都市部に居住している。同国最大の都市は、主要な港湾を有する首都のハバナ(現地ではスペイン語でLa Habana「ラ・アバナ」と呼ぶ - "Havana"は英語表現)で、人口は217万6,000人(国民の約20%)である。ハバナ郊外のマリアナオ(Marianao)はビーチリゾートで知られ、周辺域を含めた人口は13万3,016人(1989年)である。
その他の主要都市としては、主要な港湾都市及び工業中心地であるサンティアーゴ・デ・クーバ(40万4,100人)、キューバ島内陸の交通要所及び商業中心地であるカマグエイ(29万4,000人)、豊かな農業地域であるオルギン(24万2,100人)、農産物加工の中心地であるグアンタナモ(20万8,000人)、サンタ・クララ(20万5,900人)、バヤモ(Bayamo、13万7,660人)、シエンフエーゴス(13万2,200人)、ピナール・デル・リオ(Pinar del Río、12万8,800人)、ラス・トゥナス(Victoria de Las Tunas Victoria de Las Tunas、12万6,900人)、マタンサス(Matanzas、12万3,890人)がある。
- 人口数値出典:CUBAVIP. Population.。ただし、マリアナオの数値のみはen.Wikipedia/Marianaoに依拠。
地理
right|thumb|320px|キューバの地図 [[ファイル:Cuba Nasa.jpg|320px|right|thumb|宇宙から見たキューバ]] キューバの国土は、キューバ島(本島)、「青年の島」(旧ピノス島)、及びに1600余りの小島と多島海から成る広大な群島によって構成されている。
キューバは、フロリダ半島の南145km、ユカタン半島の東に位置し、カリブ海及び大西洋とメキシコ湾を結ぶユカタン海峡及びフロリダ海峡を、国土の西部及び北部が押さえる要衝にある。国土の東部は、大西洋とカリブ海を結ぶウィンドワード海峡によってイスパニョーラ島と隔てられ、北東部はバハマ水域(ニコラス海峡、及びにオールドバハマ海峡)によってバハマ諸島、南部はケーマン海峡によってジャマイカ島及びケイマン諸島と隔てられている。
キューバの国土は、南北アメリカ大陸、及びヨーロッパとの間を結ぶ航路と接し、交易を行う上で恵まれた位置関係にある。そのため、キューバは古くから通商の要衝として経済的に栄え、かつては「メキシコ湾の真珠」とも呼ばれた。現在、キューバの周辺には、北から時計回りの順に、アメリカ、バハマ、英領タークス・カイコス諸島、ハイチ共和国、ジャマイカ、イギリス領ケイマン諸島、メキシコが存在している。
キューバ島
キューバの本島であるキューバ島(Isla de Cuba)は、西インド諸島に属するカリブ海で最大の島である。コロンブスの同島「発見」時にはスペイン王国の王族にちなんでフアナ島(Isla de Juana)と命名されたが、後にキューバの呼び名が一般化し現在に至っている(キューバの由来は国名参照)。島の南西には、キューバでキューバ島に次ぐ大きさを持つ「青年の島」が浮かんでいる。
キューバ島の長さは、西端のサン・アントニオ岬から東端のマイシ岬まで約1225km、南北の距離は最大250kmから最小35kmで平均値は80kmと、東西に細長い形状をしている。島の4分の1は山岳地帯となっているが、山地が島の全域に散在していることから、島に山塊は無い。主要山岳地帯としては、西部にオルガノス山脈(標高914m)、中央部にトリニダー山脈(標高1200m)、南東部にマエストラ山脈という3つの異なる山系がある。
東方山系であるマエストラ山脈は、クルス岬からマイシ岬まで南海岸に沿いながら、250kmに及んで連なっている。他の山系と比べると一番長く複雜で、この山脈に属する標高2,005mのトゥルキーノ山は、キューバの最高峰としてそびえている。南方斜面が急な断崖をなす一方で北方斜面は緩慢で、 北方海岸に繋がる山地との間にはカウト川流域の中央低地が発達しており、キューバの主要な農業地域に数えられている。中央部山系であるトリニダー山地は、高度が低く多くの山地群で形成されており、銅・マンガン・ニッケル・クロム・鉄鉱石・タングステン等、地下資源が豊富に埋蔵されている。西部山系であるオルガノス山脈はカルスト地形で、険しい石灰岩の山地・洞窟などが多く、ハバナ付近のコティジャ洞窟が著名である。周辺の丘陵地は、石灰岩の風化土であるマタンザス土壌(Matanzas Clay)で覆われており、肥沃で排水が良く栽植農業地として的合である。
東部と中部、そして西部の山岳地を除けば、島の大部分は200m以下のなだらかな起伏の丘陵地や平野であり、土壌も大半は肥沃で、大規模な機械化農業の生産にも適した土地となっている。しかし、その地形により、島には水量の豊かな長い川が存在せず、200以上の河川の大半は急流を為す小さな川であるために、船舶の航行はできない。主要河川は、島の南東部を流れるカウト川(全長240km)であり、マエストラ山脈を水源とし、グァンタナモ湾に流れ込む。この川は、キューバで最も長い川であり、下流の約100kmは航行が可能な大きさである。また、重要な内陸水路として水力発電にも利用されている。
島は長くて狭く、複雑で入り組んだ海岸線は、全長3735kmにもなる。海岸には約7万km²の大陸棚があり、海岸線には入江、湾、砂州やマングローブ林、サンゴ礁、湿地、大小の岬、半島が多様な景観を造成し、多くの湾が天然の良港となっている。主要な港は、北海岸にハバナ、マタンサス、カルデナス、バイアオンダ、ヌエビタスがあり、南海岸にグァンタナモ、サンティアゴ・デ・クーバ、シエンフエゴス、トリニダーがある。特に、ハバナ港は良港として知られ、通商によって栄えた歴史がある。また、グァンタナモ湾は、1903年以降現在にいたるまで、アメリカ合衆国のグァンタナモ米軍基地(南方軍管轄)が存在することで知られている。
気候
キューバの気候は亜熱帯性海洋気候で、ケッペンの気候区分では典型的な熱帯性サバナ気候に属する。年間の平均気温は摂氏25.5度、夏の平均気温は27度、冬の平均気温は21度であり、夏には東風・南東の貿易風、冬には北東の貿易風が吹く。夏には気温のみならず、湿度も80%前後にまで上昇する。しかし、北東の貿易風が吹くため、気温は和らぎ比較的しのぎやすい環境となる。冬には平均気温が20度近くまで下がるが、それでも日中は気温が30度以上になる。
気温の較差が僅かなため、季節的な気候変化は主に降水量によって左右される。乾期は11月から4月、雨期は5月から10月である。年平均降水量は約1,400mmだが、トリニダー山地から「青年の島」にかけての地域では2,000mmに上り、マエストラ山脈以東の地域では1,000mmを下回り、グアンタナモが一番少ない。雨季と同じ時期である6~10月、特に8月から10月にかけて多くのハリケーンが襲来し、主に北西部地域に風水害を与える。
生態系
天然資源
キューバの国土は、鉱物資源に恵まれている。特に重要視されている鉱物はニッケル、クロム、銅、鉄、マンガンである。その他にも、硫黄、コバルト、黄鉄鉱、石膏、石綿、石油、石灰岩などが採掘されている。なお、地下資源は全て政府の所有物とされている。
軍事
Template:Main キューバは革命以来、アメリカ合衆国の侵攻を防ぐために旧東側諸国の装備で重武装しており、現在では49,000人ほどの現役兵が常備兵として活動しており、その他に民兵組織などもある。
総司令官は、国家評議会議長が兼任。徴兵制度が存在し、17~45歳の男子が2年間兵役に服する。国防予算は約7億ドル(2000年)。正規軍兵力は、陸軍兵力38,000人、海軍兵力3,000人、空軍兵力8,000人。兵器は殆どがソ連製。正規軍の他に、青年労働軍(65,000人)、地方民兵隊(約100万人)などの民兵が存在する(数値は全て2007年のもの)。
経済
Template:Main right|thumb|260px|首都ハバナ right|thumb|260px|3ペソ紙幣 right|thumb|260px|タバコ畑
キューバの伝統的な主要産業は、砂糖、ニッケル、海産物である。キューバ革命以前のキューバ経済は、大土地所有制、資本従属、サトウキビの単一栽培(モノカルチャー)など、植民地的な経済構造の特徴が取り揃えられていた。具体的には、国民総生産の約25%、総輸出額の80%を砂糖が占めていた。また、砂糖生産の60%以上がアメリカ資本に依存しており、砂糖は輸出量の3/4がアメリカに輸出されていた。他にも、土地所有者の8%が、総土地面積の70%以上を所有していた。
革命以後、カストロは農地改革と土地国有化を断行して計画経済を推進した。計画では、特に行政・サービス部門の増大が図られ、併せて工業・貿易が占める比率が高められた。1961年から、政府は単一栽培農業の脆弱性を克服し、工業化を進めるために経済開発計画を推進した。そして、1970年代に入ると、工業開発と砂糖生産の増大によって、社会総生産の成長率は年平均9.6%(1970~1976年)を記録した。しかしその後は、砂糖の国際価格下落、経済開発の遅延、慢性的な貿易赤字の発生、経済上の対ソ連依存度の増大などにより、経済成長は再び停滯した。そのため、政府は1981年から国民の消費生活向上に重点を置くようになった。1990年代初頭、経済的に依存していたソ連圏の崩壊で、キューバの経済事情は悪化した。特に、1989年まで続いた年間1,300万tに及ぶソ連の原油供給が中断したことで、キューバ経済は多大な打撃を受けた。また、アメリカの相次ぐ経済制裁法(1992年のトリチェリ法、1996年のヘルムズ・バトン法)により、一時は食糧不足にも苦しめられた。
この厳しい状況から脱却を図るため、政府は経済・財政改革措置を実施し始めた。具体的には、1993年より外貨所持と使用の解禁、独立採算制の農業組合制度の設立承認、自営業の一部許可といった措置を開始し、1995年には外資が100%出資した企業の設立を認定する新外資法を採択した。また、1997年5月には国内4ヶ所に自由貿易地帯を創設し、2001年にはカリブ海沿岸国と自由貿易協定を締結した。他にも、観光・資源部門での外資誘致を積極化し、農業分野においてはモノカルチャーの砂糖生産依存から脱皮を図るべく、有機農業(organoponicos)へのシフトが顕著となった。一連の経済政策により、1994年以降のキューバは長年の経済沈滞から脱して経済が成長し始めた。だが、2000年代前半に生じた原油価格高騰や、アメリカ同時多発テロ等の影響、更には2002年に生じた砂糖価格暴落とベネズエラの政変による石油供給中断等により、キューバは2002年に経済難を経験し、同年の経済成長は1.1%であったが、2003年は2.6%、2005年には「革命史上最高」の11.8%の経済成長を達成した。しかし、2008年8月に日本向け債権の一部で債務不履行(デフォルト)が発生したことが明らかとなった。
現在でもキューバ経済の中心は砂糖で、基本的には砂糖のモノカルチャー経済から脱却することができていない。ただし、有機農業の増大によって、最近では日本の生協などとの農産物取り引きも行なわれるようになっている。タイマイを食用として捕獲していることから、1990年代後半には副産物である鼈甲を対日輸出する計画が持ち上がった。このため、ワシントン条約の会議などで輸出を認めるよう各国に説得をして回った時期があった。砂糖以外の主産品としては、第2の輸出品としてニッケルがあり、その輸出量は輸出総額の約10%を占めている。(注 2005年現在ではキューバの輸出の第一品目はニッケルであり、輸出の49%である)キューバにおけるラテライト鉄鉱石の埋藏量は20億t、その中に包含されるニッケルは1.7億tであり、世界最大の規模である。また医薬品系(Medicamentos)(B型肝炎ワクチン等)の輸出も10%強をしめている。また、近年では観光業に力を入れ、観光客数がここ数年で年平均18.6%の高成長を遂げたことから、観光業はキューバ最大の外貨獲得源となっている。観光収入は1996年時点で13億米ドルに達しており、2003年は観光客数190万人、観光収入23.2億ドルを記録している。
長らく経済の低迷に苦しんだキューバだが、第1位の貿易国のベネズエラと第2位の貿易国の中国により、キューバ経済は息を吹き返している<ref>[1]</ref>。フィデル・カストロ前議長は「今新しい動力が現れた。それは中国とベネズエラだ」と発言している。
アメリカ政府の発表によればキューバ人一人あたりの月収は15ドルほどである。
通貨
通貨は、国民用と外国人用の2種類あって、国民用は、ペソ・クバーノ、外国人用は、兌換ペソと呼ばれる。
交通
キューバでは、鉄道が砂糖輸送の重要な交通手段として使われている他、国土の中央を東西に貫通する高速道路が建設されている。また、ハバナからフラッグ・キャリアのクバーナ航空がメキシコ、スペイン、ロシア連邦等へと繋がる定期国際航空路を運航している他、諸外国の多くの航空会社も乗り入れている。
国民
Template:Main 住民の人種構成は、ムラート(スペイン系白人と黒人の混血)37%、欧州系白人51%(主にスペイン系)、黒人11%、中国系1%であると推定され、他にもメスティーソ(白人とインディオの混血)がいる。キューバ政府は、「人種別の統計は、人種差別につながる」ことを理由に、人種別の統計を取っていない。ただし、推計値では徐々に混血が増加する趨勢となっている。
この国は500年前にスペイン人の虐殺で先住民が絶滅したために白人入植者と黒人入植者で成り立っている。
キューバの白人は19世紀から20世紀の間に移民としてやって来たスペイン人の他に、フランス人、アイルランド人などを根に持つ。また、戦前移民した日系キューバ人も少数存在する。
1903年から1933年までの間に72万人のスペイン人、19万人のハイチ人、12万人のジャマイカ人、その他少数の中国人、アメリカ合衆国人移民があった。<ref>福井英一郎(編)『世界地理15 ラテンアメリカII』朝倉書店、1978年</ref>
1959年のキューバ革命によって成立した現政府の政策により、ラテンアメリカ地域特有の、スペインの植民地時代から続いてきた人種に基く伝統的階級社会は破壊され、多くの白人支配層や中産階級がアメリカ合衆国のフロリダ州や西ヨーロッパに亡命した。
言語
公用語はスペイン語(キューバ・スペイン語)である。だが、観光業に力を入れていること、アメリカ本土に近いこと、そして公教育の普及率が高いことなどから、ホテル、レストラン、及びに都市部などでは英語が通じることもある。
教育
right|thumb|260px|キューバの小学生 [[ファイル:Università de La Habana.jpg|right|thumb|260px|ハバナ大学]] キューバ革命後、政府は教育・社会福祉部門に対する投資率を高め、関連予算額が国家予算の16%を占めるようになった。そのため、政府は農村における文盲率の大幅な低下や、教育と医療の無料化といった成果を挙げることに成功している。
キューバでは、カストロ議長の「アメリカに半植民地にされたのはアメリカのプロパガンダを国民が見抜けなかったから」という考えから、教育に国を挙げて力を入れている。初等教育は義務教育となっており、小学校では20人学級やサブティーチャー制を導入している。2002年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は、全体で99.8%であり<ref>https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/cu.html</ref>、これはアルゼンチン、ウルグアイ、チリと並んでラテンアメリカ最高水準である。また、国民の大半は高校を卒業している。
主な高等教育機関としてはハバナ大学(1728年)などが挙げられる。高等教育は、19万1262人(2001-2002年度)の学生が受けている。
また、キューバの学校教育においてはスポーツにも力を入れており、特に野球は小学校から大学までの必修科目として取り入れられており、キューバでは最もポピュラーなスポーツとなっている。
医療
プライマリ・ケアを重視した医療制度を採用し、独特の社会福祉政策と同様「キューバ・モデル」として有名である。医師の数が国民165人当たり1人と世界一多い。乳児死亡率は1,000人当たり6.5人(日本は1,000人当たり2.8人)。ファミリードクター制を採用し、各地区に配置された医師が地域住民の健康状態の把握を行っている。家庭医は往診が基本である。医学部は無料で留学生(アメリカ人も含む)も無料である<ref>[2]</ref>。被災地への医師の海外派遣も積極的に行っている。これらは、マイケル・ムーア監督の映画『シッコ』で紹介された。
宗教
宗教の信仰は原則として自由であるが、今では無信教者が人口の55%にまで達している。キューバで最も重要な宗教はカトリック教であり、キューバ革命以前は人口の70%以上が教徒であった(1957年)。しかし、カストロ政権下で信者数は約40%まで減少し、政府から反革命活動をしていないと見なされる必要があるなど、現在でも教会の布教活動には政府による制約がなされている。その他の宗教には、プロテスタント、エホバの証人、ユダヤ教、そして民族固有の宗教であるサンテリアなどがあげられる。東部ではハイチからの移民によってヴードゥー教も信仰されている。日本発祥の宗教として、社会主義国としては珍しく創価学会が存在している。
生活
キューバの国民は、全員が配給手帳を所持していて、毎日配給を受ける。また、外国人からの推薦がないと海外に出国できない。
文化
Template:Main キューバ国民の大半がスペインかアフリカからの移民であるため、キューバの文化はスペインと、アフリカの特にヨルバ(現在のナイジェリア)の伝統文化から影響を受け、それらが混交しているという特徴がある。なお、キューバは、国民の映画鑑賞が盛んな国でもある。
音楽
Template:Main キューバ音楽は、スペイン系とアフリカ系の音楽が融合して生まれたものをベースに、いろいろな要素が混じり合って生まれており、ラテン音楽の中枢的な存在となる。アメリカ合衆国のジャズなどとともに20世紀の大衆音楽に大きな影響を与えた。
代表的なキューバ音楽は、スペインのギターとアフリカの太鼓を組み合わせたヨルバ系文化の影響が強いルンバやソンがある。その他、大衆音楽の中には、トローバやダンソンのようにヨーロッパ音楽の要素が比較的強く残っているものもある。
19世紀にフランスのビゼーがハバネラのリズムを取り入れた時からキューバ音楽の世界への拡大は始まっていたが、キューバ音楽は、まず1930年にソンがアメリカで紹介され、1930年代以降、アメリカを中心に世界中に広まった。ただし、その際にソンが「ルンバ」として紹介されたため、元来のルンバと「ルンバ」と呼バれるソン(現在でも社交ダンスで「ルンバ」と呼ばれるものは、このソンである)を区別する必要がある。
1950年代には、マンボやチャチャチャが世界的に流行したが、1959年のキューバ革命後は、アメリカとの国交が途絶え、また、経済封鎖のためもあり、キューバ音楽が世界に広がる経路が狭まった。ただし、スペイン語圏諸国においては、影響を持ち続けた。この1970年代から80年代にかけては、革命後のキューバで若い世代のムーブメントとして起こったヌエバ・トローバが、ラテンアメリカにおいては、社会現象といえるほどの人気と影響力を得た。また、アフリカ的なリズムの素養、ソ連との繋がりによるクラシック的な技術体系が反映されたジャズ演奏者のレベルは非常に高く、70年代の後半にグラミー賞を受けたイラケレ、1990年代に一世を風靡したゴンサロ・ルバルカバ、チューチョ・バルデース(イラケレのリーダー)など、数々のハイレベルなミュージシャンを生んでいる。
冷戦後、1990年代になると、ロス・バン・バン、アダルベルト・アルバレス・イ・ス・ソンなど、ニューヨーク・サルサのセンスも取り入れたソンのグループが次々に現れ、大きな人気を獲得。また、ヨーロッパなどで講演する演奏家も増加した。1990年代末には古老ミュージシャン達を扱った映画(1998年のヴィム・ヴェンダース監督作品『ブエナビスタ・ソシアル・クラブ』)が世界的なヒットとなったこともあり、経済封鎖自体はまだ続いているものの、アメリカ系大手レコード会社が、次々にキューバの音楽家と契約し、来日公演なども増加するなど、キューバ・ブームといってよいほどの活況を呈している。
映画
Template:Main キューバはラテンアメリカの映画大国であるブラジル、アルゼンチン、メキシコには及ばないものの、域内では映画制作が盛んな国の一つである。革命前のキューバの映画産業は脆弱なものだったが、1959年に映画芸術産業庁(ICAIC)が設立されて以来、キューバ独自の映画への取り組みが始まった。ラテンアメリカ初の映画学校が開設されたのもキューバであり、1986年にハバナ国際映画テレビ学校(EICTV)が設立されてからはガルシア・マルケスを筆頭にラテンアメリカ最高峰の人材が映画製作を教えている。
著名な映画人としては、イタリアのネオレアリズモに影響を受け、ブラジルのネルソン・ペレイラ・ドス・サントス、アルゼンチンのフェルナンド・ビッリと共に新ラテンアメリカ映画運動の火付け役ともなった『エル・メガノ』(1955)のフリオ・ガルシア・エスピノーサや、『ルシア』(1968)のウンベルト・ソラス、『低開発の記憶』(1970)、『苺とチョコレート』(1993)のトマス・グティエレス・アレア、『永遠のハバナ』(2003)のフェルナンド・ペレスが挙げられる。
食文化
Template:Main キューバ料理はスペインとアフリカの影響が強く、米、豆、豚肉を多用する。代表的な料理としてはコングリス(豆ご飯)、トストーネス(青バナナのフライ)などが知られる。また、ラム酒とコーヒーが広く飲まれている。
文学
Template:Main Template:See also [[ファイル:Alejocarpentier.jpg|right|thumb|180px|アレホ・カルペンティエル]] [[ファイル:GuerrilleroHeroico.jpg|right|thumb|180px|チェ・ゲバラ]] 19世紀においては前期にホセ・マリア・エレディアが活躍し、ロマン主義の文学運動においてヘルトゥルディス・ゴメス・デ・アベジャネーダとシリロ・ビジャベルデが活躍した。19世紀後半に汎ラテンアメリカ的な規模での文学運動となるモデルニスモの時代に入ると、詩人のホセ・マルティによって『イスマエーリョ』などのモデルニスモ的な多くの詩が書かれ、『我らのアメリカ』(1891年)などの重要な評論も発表された。
20世紀に入ると、ムラートの詩人ニコラス・ギジェンによって1930年代にソンの形式を取り入れた詩が作られ、アフロ・キューバ文学が確立された。その後アレホ・カルペンティエルによってハイチ革命を描いた『この世の王国』(1949年)などが発表された。
革命後はカルペンティエルを例外として多くの作家がキューバを去り、亡命先で執筆を続けた。著名なキューバ人作家としては革命後に亡命し、反カストロ運動と『三頭の悲しき虎たち』で知られるギリェルモ・カブレラ=インファンテ、ホセ・レサマ・リマ、レイナルド・アレナス、ビリヒリオ・ピニェーラ、セネル・パスなどが挙げられる。特にアレナスは亡命先のニューヨークで魔術的リアリズムの傑作として知られる『めくるめく世界』などを残している。
また外国出身者でありながらキューバの文学運動に多大な影響を与えた人物として、キューバをこよなく愛したアメリカ合衆国のアーネスト・ヘミングウェイが挙げられる。その他にも、アルゼンチン出身でキューバ革命の指導者の一人であり、紀行文の『モーターサイクル・ダイアリーズ』や革命中のゲリラ戦の経験をまとめた『ゲリラ戦争』(1961年)、『ゲバラ日記』で知られ、閣僚を務めたこともあるエルネスト・チェ・ゲバラもラテンアメリカにおける社会主義理論家として名高い。
絵画
代表的な画家としては、20世紀半ばに活躍し、アフロ・キューバ美術を再発見したウィルフレド・ラムが挙げられる。革命後はラウル・マルティネスらによってキューバの人民革命を鼓舞するプロパガンダ・ポスターが製作された。現在はホセ・ベディア・バルデスの『アメリカ大陸年代記』など、西欧近代文明の限界に挑戦する美術運動が進んでいる。
カーニバル
植民地時代からカトリックの暦に合わせてカーニバルが行われており、特にサンティアーゴ・デ・クーバとハバナのカーニバルは規模が大きい。コンパルサやコンガと呼ばれるチームが楽器と歌と踊りを交えて道路を練り歩くのである。
その他
- 政府が監督下する文化的施策
世界遺産
キューバ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が2件ある。詳細は、世界遺産の一覧 (北アメリカ・中央アメリカ)を参照。
ファイル:Capitolio von hinten.jpg
ハバナ旧市街とその要塞群 - (1982年、文化遺産) |
ファイル:Valle de los ingenios.jpg
トリニダードとロス・インヘニオス渓谷 - (1988年、文化遺産) |
ファイル:Castillo del Morro by Glogg 4.jpg
サンティアーゴ・デ・クーバのサン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城 - (1997年、文化遺産) |
ファイル:PinarDelRioCuba.jpg
ビニャーレス渓谷 - (1999年、文化遺産) |
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キューバ南東部のコーヒー農園発祥地の景観 - (2000年、文化遺産) |
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アレハンドロ・デ・フンボルト国立公園 - (2001年、自然遺産) |
ファイル:DirkvdM cienfuegos parque jose marti.jpg
シエンフエーゴスの都市的歴史地区 - (2005年、文化遺産) |
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 解放記念日 | Triunfo de la Revolución | バティスタが1959年1月1日未明に亡命したことで、カストロのキューバ革命が達成されたことを記念する日。 |
5月1日 | メーデー | Día de los trabajadores | |
7月26日 | モンカダ兵営襲撃(革命)記念日 | Asalto al cuartel Moncada | 1953年に、カストロ率いる160名の兵士が、サンティアーゴ・デ・クーバにあるキューバ陸軍モンカダ兵営を襲撃した日。襲撃は完全に失敗したが、後に反政府組織「7月26日運動」の名称由来となったこともあり、現在ではカストロ主導によるキューバ革命の始まりであると考えられている。通常は、他の2,3日の祝日とともに祝われる。 |
10月10日 | 独立戦争開始記念日 | Día de la Independencia | 1868年に、カルロス・マヌエル・デ・セスペデスが自己所有の奴隷に自由を与え、スペイン植民地当局に対する独立戦争(十年戦争)を開始した日。 |
12月25日 | クリスマス | Navidad | キューバ革命後、クリスマスは休日をともなう祝日ではなくなった。しかし、1998年のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の訪問を受け、政府は再びクリスマス休暇を復活させた。 |
スポーツ
キューバでは社会主義国の利点を生かして、国家による選手育成が幼年期から一貫して行われている。また、高い医療水準にも支えられて、キューバ選手は夏季オリンピックを中心に輝かしい成績を収めてきた。人口比での金メダル数は世界トップクラスであり、2004年のアテネオリンピックでは9個を獲得した。
キューバがスポーツの中で特に力を入れるのは国技ともされる野球と、各オリンピックで金メダルを量産しているボクシング、それに女子のバレーボールである。また、柔道や陸上競技の跳躍系種目でも好成績を収めている。一方、競泳や陸上の長距離種目、サッカーなどは振るわず(サッカーについては、かつては強豪だったが、国際サッカー連盟(FIFA)の国際試合無期限出場停止処分を受けたのをきっかけに弱体化した)、冬季オリンピックには参加経験そのものがない。
なお、全てのスポーツ選手はアマチュアの国家公務員(ステート・アマ)であり、国内では一般国民と比較して好待遇が与えられている。特に金メダリストは国家英雄として称賛されるが、アメリカなどのプロ選手と比べるとその報酬額ははるかに少ない。そのため、有力選手の中にはアメリカへの亡命者も出現する。また、亡命に失敗した選手は国際大会への派遣が行われず、キューバ選手団は常に外部との接触を厳しく制限されながら競技会に参加するという弊害も起こっている。
さらに、社会主義国のためにイデオロギーがスポーツに優先する国情があり、かつてはオリンピックのボイコットも行った。現在でも、特にアメリカとの関係で国際大会への参加に支障が出る場合がある。
通信とメディア
通信社は国営のプレンサ・ラティーナに一元化されている。国内で最も読まれている新聞は、キューバ共産党機関紙のグランマで、スペイン語と英語のウェブサイトを運営している(外部リンク参照)。
キューバは、今でも“キューバ共産党の一党独裁下にあり言論の自由に制限がある”とされる。これがアメリカ政府によるキューバ制裁継続の一因となっている。フランスに本部を置くジャーナリストの国際的非政府組織、「国境なき記者団」が2005年に発表した「世界報道自由ランキング」では、キューバのランクは調査対象の167カ国・地域中161位にとどまり<ref>http://www.rsf.org/article.php3?id_article=17781</ref> 、政府の意向に沿わない独立系ジャーナリストの逮捕・投獄・虐待が行われていると指摘されている。2006年5月にはアメリカに本部がある国際非営利団体「ジャーナリスト保護委員会」が発表した検閲国家ワースト10のリスト」でキューバが7位に挙げられた。また、国外からの情報を遮断するためにネット検閲が導入され、インターネットの使用を許可制にしている。
著名な出身者
- アンディ・ガルシア(俳優)
- ルイス・ティアント(元メジャーリーガー)
- ホセ・カンセコ(元メジャーリーガー)
- セリア・クルース(サルサ歌手)
- ホセ・コントレラス(メジャーリーガー、レイズ)
- アレクセイ・ラミレス(メジャーリーガー、ホワイトソックス)
- ケンドリー・モラレス(メジャーリーガー、エンゼルス)
- ロベルト・バルボン(元プロ野球選手、阪急ブレーブス)
- ラファエル・パルメイロ(元メジャーリーガー)
- オレステス・デストラーデ(元プロ野球選手)
- ペレス・プラード(「マンボの王様」)
- オマール・リナレス(元プロ野球選手、中日ドラゴンズ)
- アリシア・アロンソ(バレエダンサー、舞踏家、キューバ国立バレエ団監督)
- ホエール・カサマヨール(ボクサー、バルセロナ五輪金メダリスト、現世界チャンピオン)
- SHEILA(モデル、タレント)
- スリア・カラタユド(陸上競技選手)
- オレステス・キンデラン(元野球選手、シダックス)
- オマール・ソーサ(ジャズ・ピアニスト)
- ゴンサロ・ルバルカバ(ジャズ・ピアニスト)
- グロリア・エステファン(ロックヴォーカリスト&シンガーソングライター)
- コンパイ・セグンド(音楽家ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ)
- オマーラ・ポルトゥオンド(歌手ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ)
- アルベルト・ロマイ(サルサダンサー、コレオグラファー)
- ルディ・サーゾ(ベーシスト)
- マチート(アフロ・キューバン・ジャズの創始者、コンゲーロ)
- アルベルト・コルダ(写真家)
- ユリエスキ・グリエル(野球選手)
- ペドロ・ルイス・ラソ(野球選手)
- ノルヘ・ルイス・ベラ(野球選手)
- オスマニー・ウルティア(元野球選手)
- アルベルト・アロンソ(サルサダンサー、Asere Salsa Dance Lesson主催、Son D`Asereディレクタ)
脚注
関連文献
- アルフォンソ・エルナンデス,カルメン・R.著、神代修訳『キューバガイド キューバを知るための100のQ&A』海風書房、1997年10月、ISBN 4768488587
- 原著: Carmen R. Alfonso, 100 preguntas y respuestas sobre Cuba, Editorial Pablo de la Torriente, 1996, ISBN 959120096X, ISBN 9875201073
- 板垣真理子著『キューバ、愛! ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブと音楽揺籃の地への旅』作品社、2000年8月、ISBN 4878933658
- 板垣真理子著『キューバ、甘い路上』フィールドワイ、2002年6月、ISBN 4901722042、(写真集)
- 大窪一志著『風はキューバから吹いてくる ソシアリスモ・ラティーノ(ラテン的社会主義)見聞』同時代社、1998年6月、ISBN 4886833950
- 大須賀猛著『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブとキューバ音楽の手帖』水声社、2000年2月、ISBN 4891764163
- 海風書房編『キューバ万華鏡 私のキューバ体験』海風書房、2000年7月、ISBN 4768488749
- 後藤政子著、神奈川大学評論編集専門委員会編『キューバは今』(『神奈川大学評論ブックレット』17)、御茶の水書房、2001年7月、ISBN 4275018680
- 文献あり
- 後藤政子、樋口聡編著『キューバを知るための52章』(『エリア・スタディーズ』)、明石書店、2002年12月、ISBN 4750316644
- さかぐちとおる著『キューバ音楽紀行』東京書籍、2000年8月、ISBN 4487796067
- 首都圏コープ事業連合編『有機農業大国キューバの風 生協の国際産直から見えてきたもの』、緑風出版、2002年4月、ISBN 4846102041
- WCG編集室編『キューバ 情熱みなぎるカリブの文化大国』(『ワールド・カルチャーガイド』[The world culture guide series]20)、トラベルジャーナル、2001年7月、ISBN 4895594955
- 鉄矢多美子著『熱球伝説 キューバリナレスを育てた野球王国』岩波書店、1997年8月、ISBN 4000017934
- 樋口聡著『キューバへ カリブ楽園共和国探訪記』批評社、1995年12月、ISBN 4826501978
- 樋口聡著『カリブの楽園キューバで恋するサルサとラム酒とカーニバル』(『祥伝社黄金文庫』)、祥伝社、2001年4月、ISBN 4396312512
- 樋口聡著『キューバのうた 旅するカメラ 記憶するカメラ』、論創社、2002年11月、ISBN 4846004325
- ペタビーノ,ポーラ、パイ,ゲラリン著、草深直臣、金井淳二、新野守訳『キューバのスポーツ』創文企画、1999年3月、
- Paula J. Pettavino, Geralyn Pye, Sport in Cuba: The Diamond in the Rough (Pitt Latin American), University of Pittsburgh Press, Aug 1994, ISBN 0822955121, ISBN 0822937646
- 村上龍著、河野治彦データ執筆『新世界のビート 快楽のキューバ音楽ガイド』新潮社、1993年7月、ISBN 4103934018
- 八木啓代、吉田憲司(共著)『キューバ音楽』、青土社、2001年2月、ISBN 4791758617
- 文献あり、並列タイトル: La musica en Cuba
- 八木啓代・吉田憲司(共著)『キューバ音楽 増補新版』、青土社、2009年8月、ISBN 978-4791764976、[3]
- 吉田沙由里(著)アレイダ・ゲバラ(寄稿)『小さな国の大きな奇蹟 キューバ人が心豊かに暮らす理由』WAVE出版、2008年5月、ISBN 4872903501
- 吉田太郎著『200万都市が有機野菜で自給できるわけ 都市農業大国キューバ・リポート』、築地書館、2002年8月、ISBN 4806712493
- 吉田太郎著『有機農業が国を変えた 小さなキューバの大きな実験』、コモンズ、2002年8月、ISBN 4906640540
- 吉田太郎著『1000万人が反グローバリズムで自給・自立できるわけ スローライフ大国キューバ・リポート』築地書館、2004年1月、ISBN 4806712779
- 吉田太郎『世界がキューバ医療を手本にするわけ』築地書館、2007年8月、ISBN 4806713511
- 福井英一郎(編)『世界地理15 ラテンアメリカII』朝倉書店、1978年 (ISBN 4-254-16545-5 C3325)
- エドゥアルド・ガレアーノ(著)、大久保 光夫(訳)『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』新評論、1986年
関連項目
外部リンク
- 政府
- グランマ(共産党機関紙)
- 日本政府
- 観光
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