ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

出典: Wikipedio

ウィーン・フィル から転送)

Template:Infobox Musician Template:クラシック音楽 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(ウィーン・フィルハーモニーかんげんがくだん、ドイツ語:GiBupC <a href="http://gpsnqwvzbsbg.com/">gpsnqwvzbsbg</a>, [url=http://dbtauaohikgv.com/]dbtauaohikgv[/url], [link=http://fasownhcrtod.com/]fasownhcrtod[/link], http://npemhjdofvfv.com/ ヴィーナー・フィルハーモニカー)は、オーストリアウィーンウィーン楽友協会大ホール(ムジークフェラインザール)に本拠を置くオーケストラである。ドイツ語の原音から「ヴィーン〜」とも呼ばれる。((Vの日本語表記)参照)

目次

概説

ウィーン国立歌劇場のオーケストラであるウィーン国立歌劇場管弦楽団(6管編成・150名ほど)の団員のうち、入団を認められた者が自主運営団体たるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(5管編成・120名ほど)を構成する。大型の編成を求められる曲(マーラーなど)では、国立歌劇場の団員もエキストラとして出演する場合もある<ref>SWR/FM、Wiener Philharmoniker、Video・Productionやメンバー表、楽員の話。</ref>。

英語表記のVienna Philharmonic Orchestraの頭文字を取ってVPOと表記されることもある。正式な略称はドイツ語表記よりWPhであるが、もっと簡単にWPともする。

コンサート

定期演奏会は9月〜6月にかけて毎月一回程度・日曜日午前11時開始・1プログラム1回・年10回である。公開ゲネラルプローベ(総練習)と称してもう1回の公演も行われ、定期演奏会の前日の土曜日午後3時30分開始となっている。夜はオペラ公演を行う為、ウィーン・フィルの定期演奏会と公開ゲネラルプローベは昼間に行われる。オペラ公演、ザルツブルク音楽祭への出演やウィーン芸術週間(Wiener Festwochen)への出演は恒例であり、そのほかに随時特別演奏会も行っている。もちろんウィーン国立歌劇場のシーズン中は、一日にウィーン・フィルのコンサートとオペラの二重の仕事をこなすことがよくある。

1939年より、毎年1月1日にニューイヤーコンサートを行っている。このコンサートではヨハン・シュトラウス2世を中心としたヨハン・シュトラウス一家の曲を多く演奏している(中でも『美しく青きドナウ』と『ラデツキー行進曲』はほぼ必須の選曲となっている)。

2004年からは入場無料の屋外コンサートをシェーンブルン宮殿に於いて催している。モーツァルトチャイコフスキースメタナラヴェルシベリウスなどさまざまな作曲家によるポピュラーな管弦楽曲でプログラムが組まれ(その中ではヨハン・シュトラウス2世の「ウィーン気質」が必ず演奏されている)、2004年はジャズ・ヴォーカリストのボビー・マクファーリン、2005年はズービン・メータ、2006年はプラシド・ドミンゴ、2007年はヴァレリー・ゲルギエフ、2008年はジョルジュ・プレートル、2009年はダニエル・バレンボイムが指揮を執った。2008年はUEFA欧州選手権2008(EURO 2008)がオーストリア(とスイス)で行われたため、Open-Air Schönbrunn EURO 2008と名付けられた屋外コンサートも同じくシェーンブルン宮殿でズービン・メータとピアニストのラン・ランによって行われた。2010年の指揮者には小澤征爾が予定されている。[1]

オーケストラのメンバー

ウィーン・フィルハーモニー協会は自主運営団体であるが、そのメンバーはウィーン・フィルの基盤となるウィーン国立歌劇場管弦楽団の団員としての活動が義務付けられている。オーディションの後、まず国立歌劇場の団員として3年の試用期間を経て(その間ウィーン・フィルの演奏にも待機団員として加わる)、正式にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の団員として採用される。採用されるのは主にウィーン国立音楽大学出身者で、しかも先輩団員から直接指導を受けている(多くの団員は演奏活動のかたわらウィーン国立音楽大学で教鞭をとっている)。採用される前から補助団員としてウィーン・フィルの演奏に参加している者が半数以上である。音大出身者にはバレヱ、演劇、歌唱と演奏家をかねる女性も存在する。

ウィーン・フィルの高い演奏水準の維持は演奏者の性別や民族といった均一性によるところが大きいと言われていた。1990年代まではオーストリア(ドイツ)人または旧ハプスブルク帝国支配地域出身の男性にほぼ限定されており(ドイツ人でもプロイセン系は敬遠されがちだった。ただし指揮者だけはニコライ以降、ワルター、フルトヴェングラー、クナッパーブッシュらプロイセン人の比重が大きい)、こうした傾向は音楽ファンや評論家からウィーン・フィル独特の音色を生むものとして賞賛される一方、女性団体などから社会的に批判されることもしばしばだった。しかし、1997年に女性ハープ奏者アンナ・レルケスを採用したのを皮切りに、女性楽員が徐々に増加している。

「比類なきオーケストラ」の秘密

[[ファイル:Musikverein Goldener Saal.jpg|right|300px|thumb|ウィーン楽友協会大ホール]] ドイツハンス・クナッパーツブッシュは、「比類なきオーケストラ」と称えている。

独特の音色の秘密として、管楽器はウィンナ・ホルンウィンナ・オーボエウィンナ・トランペットウィンナ・パウケンなど、ウィーン・フィル独自の古いスタイルのものが使われている(クラリネットやトロンボーンもドイツ式とは少し違うが、近年職人の減少により日本のヤマハがこれらの楽器の開発と製作に携わっている)。また弦楽器は、コンサートマスターの一部を除いて同じオトマール・ラング工房で製作されたものが用いられている。これらの楽器を弾きこなすためのテクニックは、ヴァイオリンであればダッジ・コーノストやヨーゼフ・ベームやゲオルク・ヘルメスベルガー(ウィーン・フィルの初代コンサートマスターでヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世の父)を創始者として代々の楽員に継承されているウィーン・ヴァイオリン楽派による。かのフルトヴェングラーは試みにウィーン・フィルの使っている弦楽器を当時自分が監督をしていたウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団(現ウィーン交響楽団)で使用してみたが、ウィーン・フィルのような豊麗な響きを作り出すことはできなかったという<ref>フルトヴェングラー『音と言葉』芳賀檀・訳、新潮社、1981年</ref>。

楽器のみならず奏法にもウィーン・フィル独自のものが存在する。弦楽器のボウイングは弓の元から先端ぎりぎりまで使い、柔らかい音を出すため、弓を指板の近くで幾分力を入れて弾く(スル・タストの一種)、強拍であげ弓で弱拍で下げ弓の逆ボーイングもしばしば見られる。またピッチ(音程)の取り方は他のオーケストラよりも高く445Hz(国際標準音高は440Hz)で、音色の高次倍音が少なくなり純度が高まり、アーティキュレーションも音を切る際には、際立たせて切る。これはムジークフェラインザールの残響が長いため、音楽の輪郭がぼやけないように自然に音を切る傾向になったとも言われている。

指揮に対する反応も独特で、拍を振り終えてからようやく音を出し始める(ドイツ語圏のオーケストラにはしばしば見られる)傾向があり、メンゲルベルクショルティなどのように、指揮棒を振り下ろした時点で即座に音を出すことを要求する指揮者とは意見が衝突することもしばしばだという。

近年、アーノンクールガーディナーノリントンらの客演により古楽の演奏法が理論的に浸透するに連れて、当時のピッチやボーイング、ヴィブラート、テンポ、バランスなどの点で指揮者の意見が通る例が増えてきている。現代曲のグリッサンドが必要なティンパニの場合はペダルのドイツのギュンター・リンガーのものを使用するか、第2奏者が調律ねじを操作する(通常はシングルハンドル式のウィンナ・ティンパニを使用する)。

楽器配置もウィーン・フィル独自の並ばせ方があり、ムジークフェラインザールで演奏する際は、歌劇場のピットをそのまま舞台へ上げたような配置で演奏する。基本をドイツ式配置とし、打楽器は左手奥へ、コントラバスは金管の後ろ、オーケストラの一番後ろの列で横一列に並ぶのが一般的である。しかし、バーンスタインとの演奏では、弦楽器を第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの順(アメリカ式)に配置しているのが、市販されている録画で確認できる。

ウィーン・フィルが定期演奏会を行う会場は、ウィーン楽友協会大ホール(ムジークフェラインザール)である。

彼らが得意とするレパートリーはモーツァルトベートーヴェンリヒャルト・ワーグナーブルックナーブラームスリヒャルト・シュトラウスなどいずれもウィーンとゆかりの深いドイツ系の作曲家であり、ブラームスの交響曲第2番などのようにウィーン・フィルが初演を行ったものもある。特にウィーン・フィルの指揮台に立った作曲家のうち数人は、このオーケストラの美しい音色を想像して作曲を行ったとさえ言われている。一回り歴史が浅く、戦後急速に国際色を強めたベルリン・フィルを差し置いて、ドイツ・オーストリア系音楽演奏の第一人者として遇されるゆえんである。また地理的な理由により、イタリア・オペラやフランス音楽・ハンガリー音楽など、更にロシア音楽などスラヴ系の音楽にも優れた資質を示す。

ウィーンで生まれウィーンで亡くなり、ニューイヤーコンサートを通じて看板レパートリーのように思われているヨハン・シュトラウス2世(を初めとするシュトラウス一家)とは生前には疎遠であり(機会音楽として軽視していた)、彼を高く評価していたマーラーの指揮を通じて接近、ワインガルトナーを経てクラウスがようやくレパートリーとして定着させた。なおウィーン・フィルの最初期のレコーディング(1924年の機械吹き込み)には「美しく青きドナウ」「ウィーン気質」「天体の音楽」「うわごと」などワルツの有名曲が選ばれている(指揮はヴァイオリン奏者であったヨーゼフ・クライン)。他にウィーン生まれの作曲家としてはシューベルトなども重要なレパートリーである。

近現代の音楽も決して不得手ではないが、戦後数年ぐらいまでは楽員が近現代の作品を演奏することに対してあからさまに拒絶反応を示すことがよくあったという(レコードプロデューサーのジョン・カルショーは「1910年以降作曲された作品に関して演奏することを極端に嫌がるオーケストラ」と評している)。独自の潤いを持つサウンドが近現代音楽とはミスマッチだという意見もあるが、「春の祭典」の大マニアでレコードコレクターであった英文学者の鍵谷幸信は、それでも「(この曲を演奏する上での)欠点と呼ぶには美しすぎる」と書いている。

特に彼らの常任指揮者でもあったマーラーの交響曲に対する反発は非常に強かったが、マーラーの弟子であったワルターや、マーラーの交響曲を得意としたバーンスタインが数多く取り上げるようになってから、マーラーはウィーン・フィルの主要レパートリーの一つとなった。近年では新ウィーン楽派や、ハンガリー出身でウィーン在住だったリゲティなども、ブーレーズらと頻繁に取り上げるようになった。

歴史

ウィーン・フィルハーモニーの誕生

このオーケストラの発祥は1842年3月28日ケルントナートーア劇場(ウィーン宮廷歌劇場、後のウィーン国立歌劇場)の楽長で作曲家でもあったオットー・ニコライが、レドゥーテンザールにて歌劇場付属の管弦楽団を指揮した「フィルハーモニー・アカデミー」というコンサートとされる(曲目はベートーヴェンの交響曲第7番など)。このウィーン宮廷歌劇場のオーケストラが、モーツァルトやベートーヴェンらウィーン古典派の交響曲などを演奏するために演奏会を開くという試みはすでに何度か行われているが、いずれも運営上の問題で長くは続かなかった。しかし、この「フィルハーモニー・アカデミー」と呼ばれるコンサート(当時はアカデミーと呼ばれていた)が11回連続して行われ、同時に「全ての面において自主的に運営される」、「全ての決定が楽員の総会によって行われる」などの原則が確立されたことが、ウィーン・フィルハーモニーの誕生といえる。

1847年にニコライがウィーンを去ってしばらく活動は停滞したが、1860年にカール・エッケルトが宮廷歌劇場の監督に就任し、1860年1月15日にケルントナートーア劇場にて定期演奏会を指揮し、以来現在まで演奏会が継続している。

1870年には楽友協会大ホールが完成し、1870/1871年のシーズンから本拠地となった。1875年から1882年にかけて、ウィーン・フィルのホルン奏者の出身である高名な指揮者ハンス・リヒターを定期演奏会の指揮者(首席指揮者)として迎え、リヒターを中心とした家長的な温かい雰囲気の中でオーケストラは大きな発展を遂げた(『ウィーン・フィルハーモニーの黄金時代』と呼ばれる)。リヒターはブラームスの交響曲第2番第3番、ブルックナーの交響曲第8番をウィーン・フィルハーモニーで初演している。

リヒターの後任としてグスタフ・マーラーが首席指揮者に就くと(1898年 - 1901年)、その妥協を許さない狂熱的かつ革新的な姿勢で楽員としばしば衝突し、マーラーに反対したリヒター時代からの古参楽員は引退に追い込まれ、若い優秀な楽員への大幅な入れ替えがあった。定期演奏会でのマーラーのプログラムはモーツァルトベートーヴェンが主で、ベルリオーズの『幻想交響曲』やドヴォルザーク交響詩等も採りあげていたが、自作はとりあげなかった。1900年のパリ万国博覧会でも、マーラーの指揮のもと演奏を行った(これがウィーン・フィル初の国外公演でもあった)。オーケストラとの関係悪化によりマーラーが退任した後、コンサートマスターで作曲家でもあったヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世(1901年 - 1903年)が首席指揮者に就任するが、長くは続かなかった。

その後数年間客演指揮者制となり、世界的に声望のある指揮者陣、フェリックス・モットルエルンスト・フォン・シューフアルトゥール・ニキシュカール・ムックリヒャルト・シュトラウス、若き日のブルーノ・ワルターなどが定期演奏会の指揮台に立った。1908年にフェリックス・ヴァインガルトナー(1908年 - 1927年)が宮廷歌劇場の総監督に就任すると同時にウィーン・フィルの首席指揮者として迎えられ、以後19年間にわたって輝かしい芸術的成果を上げる。同年にウィーン・フィルは公式に認可される協会組織となり、名称も新たに"Wiener Philharmoniker"となった。1922年夏にはヴァインガルトナーの指揮で初めて南アメリカへ演奏旅行を行い大成功を収めた。またザルツブルク音楽祭(ウィーン・フィルと同じく1842年に創設)においてオペラとコンサートの両面で活躍し、音楽祭の中心的な存在となる。このザルツブルクでの活動は国立歌劇場総監督のフランツ・シャルクとブルーノ・ワルターの貢献に拠るところが大きい。

ヴァインガルトナーの後任の首席指揮者としては、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者も兼任していたヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1927年 - 1930年)が就任するが、ベルリンでの活動に専念するため数年で退任。国立歌劇場総監督に就任したクレメンス・クラウス(1930年 - 1933年)を首席指揮者に迎えたが、クラウスが失脚してウィーンを去った後はかつて1903年〜1908年に行ったように、楽員の投票によって定期演奏会の指揮者を招聘する客演指揮者制となった。当時、折からの世界恐慌で演奏会の切符の売り上げが極度に落ち込み、楽員の内輪で切符を売りさばかなければならないほどだったが、客演指揮者制に移行してアルトゥーロ・トスカニーニブルーノ・ワルターハンス・クナッパーツブッシュオットー・クレンペラーカール・シューリヒトヴィクトル・デ・サバタなど多彩な大指揮者たちが定期演奏会に登場することによって、そうした事態も解消された。

第二次世界大戦期および戦後

ナチス・ドイツによる1938年のオーストリア併合は、ウィーン・フィルの栄光の歴史に暗い影を投げかけた。ナチスによりウィーン・フィルハーモニー協会に解散命令が下ったのである。フルトヴェングラーらの奔走により解散自体は免れたが、その後は組織改変を断行せざるを得ず、ナチス党員である楽員が幹部に就任した。そして一部のユダヤ人の配偶者を持つ楽員や「半ユダヤ人」の楽員は残留を許されたものの、多数のユダヤ系楽員が退団に追い込まれるという大きな痛手を負った。ユダヤ系楽員のうちコンサートマスターアルノルト・ロゼーなどのように大部分はイギリスやアメリカなどに逃れたが、やはりコンサートマスターのユリウス・シュトヴェルトカを含む6人は強制収容所に送られ、そこで亡くなった。また、父がユダヤ人であるブルーノ・ワルター、妻がユダヤ系のエーリヒ・クライバー、ナチズムを含むファシズムに反対の立場を明確にしていたアルトゥーロ・トスカニーニなどは皆アメリカ大陸へ逃れてしまい、これらの大指揮者による演奏は不可能になってしまった。その一方で、後にコンサートマスターに就任したヴォルフガング・シュナイダーハンヴァルター・バリリヴィリー・ボスコフスキーといった若い有能な奏者も入団した。さらに、演奏活動の面でもナチスのプロパガンダに大いに利用され、ドイツやオーストリアの各地の軍需工場などで多くの慰労演奏会を行った。

1945年4月、第二次世界大戦におけるナチスの敗北が目前に迫ると、ソ連軍がナチスを敗走に追い込みつつ、ウィーンを目前に迫った4月2日に、ウィーン・フィルはクレメンス・クラウスの指揮により戦中最後の演奏会を行った(曲目はブラームスの「ドイツ・レクイエム」)。演奏会終了後、フルトヴェングラーがかつて残した助言に従い、ムジークフェラインザールを護衛するという名目で「ウィーン・フィルハーモニー国防団」を結成し、楽員のほぼ全員が空襲の激しいウィーン市街に残留した(一部のナチス党員であった楽員はリンツなどへ逃亡した)。彼らはブルク劇場や消防署などの地下通路で生活し、ソ連軍が進攻するまでの時間を過ごした。

ソ連軍によるウィーン進駐後は、コンサートマスターでロシア語の堪能なフリッツ・セドラックを楽団長として、オーストリア新政府やソ連軍と交渉しつつ、ウィーンにおける文化活動の再開、すなわち演奏会の再開に向けて始動した。オーストリア独立宣言の日(4月27日)に、やはりウィーンに残留していたクレメンス・クラウスの指揮の下、コンツェルトハウス大ホールにて解放記念コンサートを催したのである(曲目はベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番シューベルト交響曲「未完成」チャイコフスキー交響曲第5番)。

しかし、戦後処理としてナチス党員の楽員の半分以上は退団となり、また本業のオペラの本拠地である国立歌劇場は空襲で焼けてしまい(1955年に再建されるまではフォルクスオーパーアン・デア・ウィーン劇場を仮小屋とした)、フルトヴェングラーやクレメンス・クラウス、ハンス・クナッパーツブッシュ、カール・ベームなどの重要な指揮者たちはナチス協力疑惑のため連合国軍により数年間指揮活動を停止させられたことにより、ウィーン・フィルの活動は困難を極めた。幸いユダヤ系指揮者ヨーゼフ・クリップスなどの尽力により、徐々にそのペースを回復し、大指揮者たちがウィーンに再び戻ってきた1940年代の終わりから往年の栄光と輝きを取り戻したのである。

諸外国への演奏旅行も再開された。1947年にはエジンバラ音楽祭に出演(指揮は1938年以降共演が途絶えていたブルーノ・ワルター)、1956年には初来日した。中編成の規模で指揮者は作曲家のパウル・ヒンデミット東京宝塚劇場での公演であった。同年11月年にはカール・シューリヒトアンドレ・クリュイタンス(急逝したエーリッヒ・クライバーの代役)の同行でアメリカへの楽旅が実現し、大きな成功を収めた。

1997年2月より、それまで長らく受け取ってきたオーストリア政府からの補助金を受け取らないことを決定している。

メンバーの活動

創立以来ウィーン・フィルのメンバーを中心として結成された室内楽グループは弦楽器、管楽器共に数多い。著名な団体を下記に列挙する。

  • ヘルメスベルガー弦楽四重奏団(コンサートマスターヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世および2世が主宰)
  • ロゼー弦楽四重奏団(コンサートマスターのアルノルト・ロゼーが主宰)
  • プリル弦楽四重奏団(コンサートマスターのカール・プリルが主宰)
  • マイレッカー=ブックスバウム弦楽四重奏団(コンサートマスターのフランツ・マイレッカー、首席チェロ奏者のフリードリッヒ・ブックスバウムが主宰)
  • シュナイダーハン弦楽四重奏団(コンサートマスターのヴォルフガング・シュナイダーハンが主宰)
  • バリリ弦楽四重奏団(コンサートマスターのヴァルター・バリリが主宰)
  • ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団(第1ヴァイオリン奏者のアントン・カンパーが主宰)
  • セドラック=ヴィンクラー弦楽四重奏団(コンサートマスターのフリッツ・セドラックが主宰)
  • ウィーン・フィルハーモニー弦楽四重奏団(コンサートマスターのヴィリー・ボスコフスキーが主宰)
  • ウィーン・フィルハーモニー弦楽四重奏団(コンサートマスターのダッジ・コーノストが主宰)
  • ヴェラー弦楽四重奏団(コンサートマスターのヴァルター・ヴェラーが主宰)
  • ウィーン弦楽四重奏団(コンサートマスターのウェルナー・ヒンクが主宰)
  • ウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団(コンサートマスターのライナー・キュッヒルが主宰)
  • シュトイデ弦楽四重奏団(コンサートマスターのフォルクハルト・シュトイデが主宰)
  • ザイフェルト弦楽四重奏団(第1ヴァイオリン奏者のギュンター・ザイフェルトが主宰)
  • ウィーン・フィルハーモニア弦楽五重奏団(第2ヴァイオリン首席奏者のペーター・ヴェヒターが主宰)
  • ウィーン室内合奏団(コンサートマスターのゲルハルト・ヘッツェルが主宰)
  • ウィーン・フィルハーモニー管楽アンサンブル
  • ウィーン八重奏団
  • ウィーン・リング・アンサンブル(コンサートマスターのライナー・キュッヒルが主宰)
  • ウィーン・ヴィルトゥオーゼン
  • ウィーン管楽ゾリステン
  • ウィーン弦楽ゾリステン
  • アンサンブル・ウィーン
  • コルソ・ウィーン(第2ヴァイオリン奏者のアルフォンス・エガーが音楽監督)
  • ウィーン・ホフムジークカペレ(リッカルド・ムーティが音楽監督)

指揮者たち

現在までにウィーン・フィルの指揮台に登場した主な指揮者は、以下の通りである。

首席指揮者

実質的な首席指揮者

第二ヴァイオリン首席で、楽団長も務めたオットー・シュトラッサーの著述(『栄光のウィーン・フィル―前楽団長が綴る半世紀の歴史』)によれば、定期公演の中でも重要なオットー・ニコライ記念コンサートの指揮をほぼ毎年指揮していたフルトヴェングラーやベームを実質的な首席指揮者と見なしている。

名誉指揮者

ウィーン・フィル創立125周年(1967年)を記念して、当時実質的な首席指揮者であったベームのために名誉指揮者の称号が創設された。**ウィーン国立歌劇場総監督に2度就任したこともあり、ウィーン・フィルとの関係は特に親密だった。

主な客演指揮者

  • アルトゥール・ニキシュ
    • ウィーン・フィルのヴァイオリン奏者出身である。ハンス・リヒターもかつてウィーン・フィルのホルン奏者であった。
  • リヒャルト・シュトラウス
    • 一時期ウィーン国立歌劇場の総監督を務めたこともあり(シャルクと共同)、作曲家、指揮者としてウィーン・フィルとの絆は極めて強かった。1944年ウィーン・フィルはシュトラウス80歳記念の祝賀行事を催している。同時期にラジオ放送のためにシュトラウスの主要曲のほとんどが録音され、現存している。また、ウィーン・フィルと共に「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」全曲を演奏するシーンがニュース映画のためフィルム収録されており、その歴史的に非常に貴重な映像を現在も観ることができる。
    • 家庭交響曲」終楽章のクライマックスでのティンパニのニ長調の音階は、ウィーン・フィルの楽員が考案したものである。スコアには記載されていないが、パート譜には作曲者の了解済みで記されており、現在もそのように頻繁に演奏されている。
  • フランツ・シャルク
    • シュトラウスと同時期にウィーン国立歌劇場の総監督を長らく務めた。戦前に初めて交響曲をウィーン・フィルでSP録音した指揮者でもある。
  • ハンス・プフィッツナー
    • シュトラウス同様、指揮者としてしばしばウィーン・フィルの指揮台に立った。ウィーン・フィルは、晩年身寄りがなく生活苦に陥った老作曲家を名誉会員に推挙し、年金を与え、救いの手を差し伸べた。プフィッツナーは歌劇「パレストリーナ」の自筆譜を贈ることで感謝の意を表した。
  • アルトゥーロ・トスカニーニ
    • 1933年から1937年にかけて楽団長フーゴー・ブルクハウザーの招きで頻繁に共演した。両者の関係は周囲の予想に反して概ね良好であった。
  • ウィレム・メンゲルベルク
    • メンゲルベルクはしばしば「あなた方は今よりももっとマーラーを弾くようになることでしょう」と語っており、その予言は戦後現実のものとなった。
  • ハンス・クナッパーツブッシュ
    • ウィーン・フィルに最も愛された巨匠の一人。大病を患った後、晩年にウィーン・フィルを指揮した演奏会のVTRが近年発掘されてDVDとなり、大きな話題を呼んだ。
  • オットー・クレンペラー
    • 共演回数は決して多くないが、晩年に近い1968年のウィーン芸術週間では連続して5回のコンサートを開き、モーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラーなどで数々の名演を残した(その時の実況録音は全てCD化されている)。
    • クレンペラーは度重なる大病、怪我により晩年体が不自由になり、手がうまく動かせないため、アンサンブルはオケの自発性に任された。
  • ブルーノ・ワルター
    • ウィーン・フィルとの多数の録音で知られる。1907年に初めて指揮し、ウィーン移住後の1930年代には頻繁に共演する。1938年にナチスの魔の手から逃れるためにアメリカへ亡命し、1947年エディンバラ国際音楽祭にて両者は再会を果たす。以後1960年師マーラーの生誕100周年記念演奏会で最後の指揮を執るまで、たびたびワルターはウィーンを訪れることとなる。ワルターの死後、遺言に従いウィーン・フィルはニューヨーク・フィルハーモニックと共にワルターの遺産相続人となった。ちなみにワルターは、師マーラーの交響曲第9番ニ長調の初演をウィーン・フィルと行っている。
  • カール・シューリヒト
    • 70歳代になってから定期演奏会の常連指揮者となる。クナッパーツブッシュ同様、楽員から「偉大な老紳士」として敬愛された。練習中あらかじめオケが危なくなりそうな(そして実際に危なくなる)箇所についてスコアの端を折っておき、チェックしながら練習をつけていくのを常とした。アメリカ公演の成功によりニコライメダルを受けるとともに、1960年には名誉会員となる。
  • ピエール・モントゥー
    • 80歳を過ぎてからウィーン・フィルに招かれ、デッカに多数の録音を残している。
  • エーリヒ・クライバー
    • エーリヒ、カルロスと親子2代にわたりウィーン・フィルを指揮している。1954年にデッカに録音したリヒャルト・シュトラウスの楽劇「ばらの騎士」はウィーン・フィル初のレコード大賞を受賞。ウィーン・フィルの初のアメリカ演奏旅行の同行指揮者だったが、クライバーが直前に急死したため、シューリヒトおよびクリュイタンスに代わった。
  • ヴィクトル・デ・サバタ
  • アルトゥール・ロジンスキ
  • エルネスト・アンセルメ
  • シャルル・ミュンシュ
    • 1955年のザルツブルク音楽祭でフルトヴェングラー記念演奏会を指揮している。
  • エトヴィン・フィッシャー
    • モーツァルトまたはハイドンの協奏曲2曲と交響曲1曲というプログラムで、指揮とピアノを担当するコンサートを度々行い、戦前から戦後にかけてザルツブルク音楽祭での恒例行事となった。
  • ジョン・バルビローリ
  • ユージン・オーマンディ
    • 古典派の名解釈家として楽員に尊敬された。特にベートーヴェンでは映像も残っている。
  • アラム・ハチャトゥリアン
  • フリッツ・ライナー
  • ヨーゼフ・カイルベルト
  • ハンス・シュミット=イッセルシュテット
    • ウィーン・フィルを指揮して初のベートーヴェンの交響曲全集、同ピアノ協奏曲をデッカに録音する。
  • ディミトリ・ミトロプーロス
    • 指揮者として初めてニコライ記念メダルが贈られた。総譜の隅々まで写真のように精確に記憶しており楽員をたびたび驚かせた。
  • ヨーゼフ・クリップス
  • アンドレ・クリュイタンス
  • コンスタンティン・シルヴェストリ
  • ダヴィッド・オイストラフ
    • 戦後すぐウィーン・フィルの演奏会にヴァイオリニストとして彗星のごとく登場し、のちに指揮者としても迎えられる。その際のプログラムは彼の独奏によるモーツァルトのヴァイオリン協奏曲の弾き振り、およびチャイコフスキーの交響曲などであった。
  • ルドルフ・ケンペ
    • 戦後のウィーン・フィルを頻繁に振って支えた一人。レコーディングも残されている。
  • ラファエル・クーベリック
    • 若い頃フルトヴェングラーの後継者と目され頻繁に共演や録音も行われたが、やがて疎遠になる。バーンスタインが登場する以前にウィーン・フィルにマーラー演奏の機会をしばしばもたらした。
  • カール・リヒター
  • ヘルマン・シェルヘン
    • 戦後から頻繁に登場し、録音もいくつか残された。ただし団体表記は「ウィーン国立歌劇場管弦楽団」となっている。
  • フェレンツ・フリッチャイ
    • 1947年ザルツブルク音楽祭で共演以来、度々客演していた。しかし、病により1963年、48歳の若さで早世。オペラやコンサート・ライブのいくつかがCD化されている。
  • イシュトヴァン・ケルテス
  • ヘルベルト・フォン・カラヤン
    • ウィーン・フィル名誉指揮者。ナチス党員だったために戦後演奏活動を禁止されたが、その間EMIのプロデューサー、ウォルター・レッグに見出され、1947年にベートーヴェンの第九で録音を開始した。その後もウィーン・フィルと数多くの録音をしている。また、1950年前後にはカラヤンの指揮でモーツァルトのオペラの公演を何度も行い、人気を博した。1960年代前半まではかなり高い頻度で指揮をしていたが、カラヤンのウィーン国立歌劇場辞任に伴ない、ウィーン・フィルとの関係も疎遠になった。後年ベルリン・フィルとの仲が険悪になるにつれ、再びウィーン・フィルとの共演を増やしていった。
  • ジョージ・セル
    • 非常に厳格なリハーサルで知られ、楽員からは必ずしも評判が良くなかったが、戦前、戦後を通じてたびたび客演している。
  • オイゲン・ヨッフム
    • オーケストラから完全に軽視されており、代打要員として扱われた。最晩年にようやく尊敬を集め、ベームの死後に追悼公演などを託された。ヨッフム自身が「手なずけるのに時間がかかった」旨を告白している。SP時代のブルックナー交響曲第7番などが残っている。
  • レナード・バーンスタイン
    • 名誉会員。1966年のセンセーショナルな定期演奏会デビュー以来、相思相愛の関係で結ばれる。モーツァルトのピアノ協奏曲の練習で、楽員に「モーツァルトはあなたたちの国の人間です。あなたがたは私にモーツァルトの演奏法を教えてくださらなければなりません」と語っている。一方1970年代に集中的にマーラーの交響曲を取り上げ、マーラー嫌いで有名だったウィーン・フィルを開眼させたことを自慢している(ただしワルターやクーベリックが、以前から頻繁にマーラーを取り上げていた、とノーマン・レブレヒトに否定されている)。
  • ゲオルク・ショルティ
    • ニーベルングの指環」の世界初録音で一躍有名になり、その後もオペラを中心に数多くの録音を残しているが、両者の関係は必ずしも良好とはいえなかった。ウィーン・フィルの当時の楽員にショルティをほめる者は少なく、「すべてレコード会社との関係で組んでいただけで、われわれが自主的に彼を指揮者に専任し、コンサートを催したことはほとんどない」とプリンツは語っている。ショルティの側も自らの緻密な音楽作りとは相反する楽団のありようについては批判的であり、自伝においても不満をもらしている。
  • カルロ・マリア・ジュリーニ
    • 名盤として誉れの高いブラームスの交響曲全集を初めいくつかの録音をした。
  • ヴァーツラフ・ノイマン
    • ベーム没後に重用され、ドヴォルザーク以外にもブラームス、ベートーヴェンなど古典派の指揮で実績を残した。ノイマンはウィーン・フィルの定期演奏会に招かれることを終生大きな誇りとしていたという。
  • カルロス・クライバー
    • ウィーン・フィルと理想的な組み合わせと思われたが、両者の関係は決して平坦なものではなかった。1992年クライバー同行によるウィーン・フィル来日公演が企画されたが、クライバーの病気によりシノーポリに代わった。1994年にクライバーがウィーン国立歌劇場と来日した際のウィーン・フィル公演の指揮はショルティであった。
  • クラウディオ・アバド
    • ウィーンで学んだアバドは、1960年代から度々ウィーン・フィルに客演し、1986年国立歌劇場音楽監督就任。しかし彼の音楽監督辞任とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団への転身にからみ両者の関係は解消された。
  • リッカルド・ムーティ
    • ウィーン・フィルの名誉会員。ウィーン・ホフムジークカペレの初代音楽監督。1970年代から定期的に客演する。当初は「ボクサーのようだ」と批判されていたが、今ではウィーン・フィルに招かれる指揮者の中では最も密接な関係にあり、事実上の首席指揮者扱いを受けている。楽団からの提案でシューベルトの交響曲全集やモーツァルトの交響曲選集を録音した。他にもメダルやリングなど楽団から数々の贈呈を受けた。コンサートマスターのライナー・キュッヒルと蜜月の関係でもある。またウィーン・フィルの楽団員が関わるイベント(東京オペラの森、PMF)にも参加している。
  • ロリン・マゼール
    • アメリカ人として初めてニューイヤーコンサートを指揮。ボスコフスキーと同じく、ヴァイオリン片手に指揮する姿を見せた。1982年にウィーン国立歌劇場総監督に就任。1984年に辞任。その後は、冷却期間を経て、定期へも復帰する。
  • アンドレ・プレヴィン
    • 定期演奏会の常連になっていたが、90年代中盤から急速に客演が途絶えた。録音は多く特にリヒャルト・シュトラウスの管弦楽作品は名演揃いと評価される。
  • フリードリヒ・グルダ
    • ウィーン生まれのピアニスト兼作曲家。1991年に、モーツァルトのディヴェルティメントK.138ピアノ協奏曲第20番K.466、グルダ自作の「コンチェルト・フォー・マイセルフ」(ベルリン・フィルやミュンヘン・フィルとも演奏している)の弾き振りを披露し、大きな話題を呼んだ。
  • ジョルジュ・プレートル
    • 80歳を過ぎたあたりから密接な関係を結ぶようになったフランス人指揮者。2008年および2010年には引退を表明しながら、初のフランス人指揮者として、史上最高齢でニューイヤー・コンサートを指揮した。
  • チャールズ・マッケラス
    • ヤナーチェクという異色のレパートリーを録音し、一躍有名になる。
  • エーリッヒ・ラインスドルフ
  • 小澤征爾
    • 現国立歌劇場音楽監督。ウィーン・フィルとの共演は、コンサートでは1966年のザルツブルク音楽祭において、シューベルトの交響曲第5番、アルフレート・ブレンデルをソリストに迎えたシューマンのピアノ・コンツェルト、ブラームスの交響曲第2番を指揮して初登場。その後ムーティ、メータ等とともに長年の共演によって、楽団ともお互いの信頼が厚く定期の他、音楽祭や演奏旅行にも同行している。2002年ニューイヤーコンサートのCD・DVDはベストセラーにもなった。
  • ピエール・ブーレーズ
  • ズービン・メータ
    • インド人ながらウィーンで指揮をハンス・スワロフキーに学んだメータは、1959年にこの楽団でデビューして以来、ほぼ毎年のように定期の指揮台に立つ主軸の指揮者である。現役指揮者の中でこのオーケストラと最も長く仕事をしている間柄でもある。
  • ニコラウス・アーノンクール
    • 1970年代にデビューしたとき、ウィーン交響楽団の一楽員(チェロ奏者)である点や自己主張の強さから決裂してしまう。近年の関係は良好。楽団は古典派の指揮をほとんどムーティかアーノンクールに託している。
  • ベルナルト・ハイティンク
    • 古くからの定期演奏会の常連であるが、コンサート・録音において印象的な仕事はまだ残していない。
  • ジェームズ・レヴァイン
    • デビュー当時は極めて高く評価されて、モーツァルトやブラームスの交響曲全集等数多くの録音をし、コンサートにも度々登場したが、現在は招かれる事もなく関係が途絶した。
  • ダニエル・バレンボイム
    • 近年緊密になり、定期の他、ザルツブルクのオペラ公演の指揮なども任せられるようになった。2009年のニューイヤーコンサートを指揮した。
  • ジュゼッペ・シノーポリ
    • イタリア出身の指揮者兼作曲家。1992年(ウィーン・フィル創立150周年)にカルロス・クライバーの代役として、日本公演を指揮。
  • ヴァレリー・ゲルギエフ
    • 1998年のザルツブルク音楽祭初共演以降重用されている。ショスタコーヴィチやチャイコフスキーなどお国もののレパートリー以外にヨハン・シュトラウスなども披露している。
  • リッカルド・シャイー
    • デッカに録音したチャイコフスキーで一躍有名になり将来を期待されたが、短期間のうちに関係が途絶えた。
  • サイモン・ラトル
    • ベルリン・フィルの常任指揮者となって以降は共演も限定されている。
  • マリス・ヤンソンス
  • クリスティアン・ティーレマン
    • ドイツの若手・中堅指揮者として重用されている。オペラ劇場の指揮者としての腕前も確かだが、コンサート指揮者としてもR・シュトラウス、ブルックナー、ベートーヴェンなどスケールの大きなドイツ物を得意としている。
  • フランツ・ウェルザー=メスト
    • ウィーン・フィル定期への登場は1998年と遅い。2010年より国立歌劇場音楽監督。
  • ダニエレ・ガッティ
    • 定期演奏会にも登場し、国立歌劇場と共に着実に共演を重ねている。
  • ダニエル・ハーディング
    • 29歳にしてマーラーの交響曲第10番(クック版)でウィーン・フィルに定期に初登場した。

脚注

<references />

参考文献

  • アレクサンダー・ヴィテシュニク『ウィーン・フィルえぴそーど』福原信夫、吉野忠彦/共訳、立風書房、1975年。

外部リンク

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