イラク戦争

出典: Wikipedio


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イラク戦争(イラクせんそう)は、2003年3月20日よりアメリカ合衆国が主体となり、イギリスオーストラリアに、工兵部隊を派遣したポーランドなどが加わる有志連合が、イラク武装解除問題の進展義務違反を理由としてイラクに侵攻したことで始まった戦争である。正規軍同士の戦闘は2003年中に終了したが、後にイラク国内での治安の悪化が問題となり、現在でもイラク国内での戦闘は行われている。戦争の終結時期については解釈が分かれるが、現在も少なくとも武力紛争状態は継続している。


目次

戦争の名称

戦争の名称は、戦争の場となった地名を付けるのが一般的だが(朝鮮戦争ベトナム戦争など)、イラク戦争という名称はアメリカ合衆国の立場からイラクを敵対視する一方的な態度であるという意見もあれば、慣例であるとして否定する考え方もある。また、戦争に至った経緯を考えて第2次湾岸戦争と称する場合もある。

また、大規模戦闘終結宣言はアメリカ側が一方的に行っているが、終戦宣言は現在まで行われたことはなく、イラク戦争自体の定義に混乱が生じている。この問題を背景にしてかウィキペディア英語版では、2003年の戦争を 2003 invasion of Iraq = 2003イラク進攻としており、現在の戦闘状況は Post-invasion Iraq, 2003–present = ポスト・イラク進攻 2003-現在と称し、合わせて Iraq war = イラク戦争としている。

アラビア語でもさまざまな呼称があるが、アラビア語版ウィキペディアではアメリカのイラク侵攻(الغزو الأمريكي للعراق)、あるいはイラン・イラク戦争を第1次と数えて第3次湾岸戦争(حرب الخليج الثالثة)などとも呼ばれている。

前史

Template:Main 1991年湾岸戦争の後にイラクが受諾した停戦決議(決議687)においては、イラクは大量破壊兵器の不保持が義務づけられていた。この達成を確認する手段として、国連は「UNSCOM」(国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会)を設置し、イラクの兵器の保有状況、製造設備などを調査した。しかし、当初は比較的協力的であったイラク側は、UNSCOMの抜き打ち調査や、それを主導したスコット・リッター主任査察官がアメリカの諜報関係出身者であることや、調査にアメリカの意向が反映されたことに反発し<ref name="sakai">第9章9・11テロ事件とアメリカの対イラク政策JETROアジア経済研究所 酒井啓子論文</ref>、UNSCOMの査察に協力的ではなくなり、偽装や査察妨害をしばしば行った。工場の偽装が明らかになったケースや、兵器は破棄されたがその記録など証拠となる手がかりが一切残っていないと主張するケース、一部施設への立ち入り拒否、など様々な形での遅延、妨害があったとされる。また、アメリカは国際連合安全保障理事会決議688を根拠としてイラク北部に飛行禁止空域を設定し、1992年にはフランス、イギリスと協調してイラク南部にも飛行禁止空域を設定した。これに反発したイラクは、地対空ミサイルの配備や軍用機による意図的な空域侵犯を行った。このため制裁措置として米英はイラク軍施設に対して攻撃を繰り返した。

1998年12月、空爆やイラク政府の非協力によりUNSCOMの査察活動は停止した。1999年12月にはUNSCOMにかわり「UNMOVIC」(国際連合監視検証査察委員会)を設置するという国際連合安全保障理事会決議1284が採択された。この採択ではロシア、フランス、中国が棄権しており、イラクも受け入れを拒否した。

開戦までの経緯

2001年

2001年に就任したジョージ・W・ブッシュ大統領は、就任直後から査察に対するイラクの非協力姿勢を問題にしていた。この頃からアメリカとイギリス国内でイラクに対する強硬派の主張が高まり始めた。イラクに対する強硬論が高まった背景としては、国連主導の経済制裁に緩みが発生し、密貿易で資金を調達したイラクが軍備の増強を行っているという観測があった<ref name="sakai"/>。2月には完成しつつあるイラクの防空網を破壊するための英米軍による空爆が行われた。

6月、アメリカとイギリスは2001年11月に期限が切れる『石油と食糧の交換計画』に代わるイラクに対する経済制裁案である「スマート・サンクション」の導入を提案した。しかし、ロシアの強硬な反対により、従来の制裁が継続されることになった(国際連合安全保障理事会決議1328)。

9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が発生した。世界でテロに対する非難やアメリカに対する哀悼のコメントが寄せられる中、イラク国営放送は第一報として対米テロ攻撃を「世紀の大作戦」と賞賛し、「アメリカがこれまで犯してきた人道に対する犯罪に対する当然の仕打ち」であり、「アメリカの力の象徴が破壊されたことはアメリカの政策の崩壊である」、とコメントした<ref name="sakai"/>。この報道はイラクに対するアメリカ側の心証を悪化させたものの、アメリカ政府はテロ事件発生後一か月間はむしろイラク政府の関与に否定的なコメントをしていた<ref name="sakai"/>。10月20日になって、フセイン大統領はアメリカ市民に対する弔意をはじめて示した。

しかしこの頃からアメリカ政府内では対イラク強硬派であるジェイムス・ウールゼイ元CIA長官やポール・ウォルフォウィッツ国務副長官、リチャード・パーレ国防総省国防政策局長等の発言力が強まり、イラクに対する強硬発言や言動が取られる機会が増加した。

2002年

ブッシュ大統領は2002年初頭の一般教書演説において悪の枢軸発言を行い、イラク、イラン北朝鮮大量破壊兵器を保有するテロ国家であると名指しで非難した。特にイラクに対しては、長年要求し続けた軍縮の進展の遅さと、大量破壊兵器の拡散の危険を重視し、02年に入って政府関連施設などの査察を繰り返し要求した。

2002年11月8日、イラクに武装解除遵守の『最後の機会』を与えるとする国際連合安全保障理事会決議1441が全会一致で採択された。イラクは「悪の集団」による「邪悪な決議」と非難したが<ref>イラク・国連決議受託書簡(要旨)日本財団図書館。2002年11月15日毎日新聞朝刊からの転載</ref>、UNMOVICの受け入れを容認し、4年ぶりに全面査察に応じた。また、決議には30日以内に報告するという規定があったが、イラクは「邪悪な決議」であることを理由に期限の延長を申し出たが、受け入れられなかった。12月7日にイラクは膨大な量の申告書を提出した。

2003年

2003年1月9日、UNMOVICのハンス・ブリクス委員長とIAEAモハメド・エルバラダイ事務局長は安全保障理事会に調査結果の中間報告を行った<ref>決定的証拠は未発見 ブリクス氏が中間報告47NEWS2003年1月10日]</ref>。この中で、大量破壊兵器の決定的な証拠は発見されていないものの、昨年末に行われたイラク側の報告には「非常に多くの疑問点」があり、申告書には「矛盾」(#大量破壊兵器捜索を参照)があるとした。また、イラク側が国連ヘリコプターによる飛行禁止区域の査察を拒否するなど、査察非協力も明らかになった<ref>イラク査察の正式報告要旨47NEWS2003年1月10日</ref>1月16日には申告書に記載されていなかった化学兵器搭載可能なミサイル12基がUNMOVICによって発見された。このためアメリカとイギリスは、イラクが安保理決議1441に違反したものとして攻撃の準備を始めた。

2月14日から2月16日にかけてカトリック教徒でもあるイラクのターリク・ミハイル・アズィーズ副首相バチカンイタリアに渡りローマ教皇ヨハネ・パウロ2世と会談するなどして戦争回避姿勢を国際社会にアピールした。

3月7日、UNMOVICは2度目の中間報告を行った。アメリカは査察が不十分であるとして、攻撃に関する決議採択を行おうとしたが、フランスは査察期限の延長を求めた。このため決議否決の可能性が高まり、アメリカとイギリスは決議無しでの攻撃に踏み切ることにした。

2003年3月17日先制攻撃となる空爆を行った後、ブッシュ大統領はテレビ演説を行い、48時間以内にサッダーム・フセイン大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最後通牒を行った。しかし、フセイン大統領は徹底抗戦を主張して応えなかったため、2日後の3月19日アメリカ東部標準時)に予告どおり、イギリスなどと共に『イラクの自由作戦』と命名した作戦に則って、攻撃を開始した。

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ブッシュ大統領とウォルフォウィッツ国防副長官

イラク攻撃にはフランスドイツロシア中華人民共和国などが強硬に反対を表明し、国連の武器査察団による査察を継続すべきとする声もあったが、それを押し切った形での開戦となった。これら国々の反対の裏には人道的な反対というより、フセイン政権との関係やイラクの石油利権に絡んでいるとする意見もある。アメリカ国内の世論は武力介入には高い支持を与えたものの、国連の支持なしの攻撃には必ずしも国論は一致していないとされた。

一方、かねてよりフセイン政権と対立していたイスラエルは、2002年4月にネタニヤフ元首相が訪米して「フセイン大統領は核兵器を開発中である」とその脅威を訴えたのを皮切りに、同年5月にペレス外相がCNNの取材に「サッダーム・フセインは(米同時多発テロ事件首謀者とされる)ビン=ラーディンと同じくらい危険」と答えた。シャロン首相も、イラクへの早期攻撃を求めた<ref>『中日新聞2008年8月17日号「早期の対イラク攻撃支持を伝達 イスラエル、米に」 共同通信社配信</ref>。また、ヘブライ大学シュロモ・アヴィネリ教授は、『ロサンゼルス・タイムズ』にイラク戦争反対派を1930年代ナチス・ドイツへの宥和政策になぞらえて非難する論文を発表。宥和政策の否定は開戦支持派の有力な主張となった。

また、アメリカに合わせて武力行使を積極支持したイギリス・ブレア政権の閣僚が相次いで辞任を表明し、政府の方針に反対した。3月17日クック枢密院議長兼下院院内総務、3月18日ハント保健担当・デナム内務担当両政務次官が辞任。結果としてブレア首相は議会の承認を早急に採りつける必要に迫られた(BBCニュースの記事に更に詳細なリストがある)。

公式発表による開戦理由

米英が主張した開戦事由は以下の通り。

まとめると、イラク戦争(第二次湾岸戦争)は、国連安保理決議1154、1441に基づき、第一次湾岸戦争の停戦協定(安保理決議687)を破棄し、なおかつ米英の先制的自衛権の行使として(フライシャー報道官の言明)起こったものである。

フランス、ドイツなどは開戦するなら決議1441以外に新たな安保理決議を付加すべきと主張したが、1441は無条件の査察を求めているのに対してイラク側が条件をつけてきたため、米英及び同盟国は開戦に踏み切った。また、フランスは議論の初期には主戦派で、地中海にいた原子力空母「シャルル・ド・ゴール」のペルシャ湾派遣準備を進めていることがTVニュースなどでも盛んに報じられていたが、後になって態度を翻した。

ブッシュ政権は、開戦の理由はイラクが無条件査察を認めないことであって、イラク国内に大量破壊兵器が存在するという理由ではないと主張しているが、開戦前にブッシュ大統領やチェイニー副大統領が「イラクは大量破壊兵器を保有している」とメディアを通して繰り返し広言していた<ref>WGBH「Bush's War~ブッシュの戦争~」</ref>ため、開戦後に大量破壊兵器が発見されなかったことでこの戦争の『大義』が失われたという批判が巻き起こる結果となった。

ブッシュ政権の情報操作疑惑

後に元財務長官ポール・オニールが「政権開始当初からイラク戦争の計画はあった」と「暴露」<ref> [1], ISBN-10: 4532164729</ref> した。開戦時のCIA長官だったジョージ・J・テネットは「ブッシュ政権内でイラク開戦前に同国の差し迫った脅威について真剣な協議は行われなかった」と自著で証言している。さらに、ジョセフ・ウィルソン元駐ガボン大使が2003年7月6日付けのニューヨーク・タイムズ紙に寄稿した記事に端を発したプレイム事件によって、ブッシュ政権がイラクの脅威に関して意図的な情報操作(フレームアップ)をしていた疑惑が濃くなっている<ref>ニューヨークタイムズ 2004年5月30日付 記事より</ref>。

ブッシュ大統領の開戦前後の演説

ブッシュ大統領は開戦前後の演説における戦争理由として以下を挙げた。

  • 生物・化学兵器等、大量破壊兵器を保有し続け、その事実を否定し、国連の武器査察団に全面的な協力を行わない(部分的な協力に止まっている)ことに対する武力制裁のため。
  • イラクの一般市民をサッダーム・フセイン大統領の圧政から解放するため。
  • テロリストに対する支援国であるイラクを「民主的な国」に変えるため(対テロ戦争の一環)。

戦争の経過はイラク戦争の年表を参照。

それ以外で語られるアメリカの開戦理由

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  • イラクをサウジアラビアの軍事基地の代替地として確保し、サウジアラビアから米軍部隊を移転することでムスリム(イスラム教徒)の反米感情を和らげ、テロの発生を予防する。ビンラディンは湾岸戦争の際、イスラム教の聖地メッカのあるサウジに異教徒の軍隊(米軍)が駐留したことに激しい衝撃を受け、米軍のサウジからの撤退という要求を掲げて反米テロ闘争を開始し、ついには911テロへと至った。しかし米国は、フセインの脅威から同盟国を守る為という名目で、湾岸戦争後も引き続きサウジに部隊を駐留していた為、テロリストの要求に屈服したという印象を与えることなく、サウジから部隊を撤退させるには、どうしてもフセインを排除する必要があった。
  • イラクを民主国家にし、資本主義経済を根付かせる事で将来起こるであろう石油枯渇による中東経済の混乱を最小限に抑える。
  • イラクを親米化する事で中東(イランシリア、その他反米の諸国)に民主化ドミノ倒しを起こさせる(いわゆるドミノ理論)。これがイラク戦争の最大の目的だと言う見方がある。ブッシュ政権中枢で影響力持ちイラク戦争を強く支持したネオコングループでは、フセインがアラブ世界で支持されることがイスラエルの危機につながると考えられていた。イスラエルは親パレスチナ、反イスラエル路線のフセイン政権を脅威と見ていたから、国民レベルでも開戦支持が反対を上回った数少ない国の一つだった<ref>もう一つは湾岸戦争でイラクの侵略を受けたクウェート。</ref>。イスラエルは、イラクを穏健路線のヨルダン王家に統治させる戦略を打ち出していた。そのため、イスラエルがロビー活動で開戦を働き掛けたと指摘されている<ref>『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策 2』 pp.83-85</ref>。
  • 石油の一大産出地域である中東に戦乱を生じさせ、石油価格を上昇させて石油市場の流れを操作する。しかし新興国の勃興による消費増大のため、中東で戦乱がなくても石油価格は上昇傾向が強いとの指摘がある。
  • アメリカ人の気質として、戦時に大統領が代わるのは好ましくない、とする風潮があり、戦争開始時点で再選を目指していたブッシュ大統領のキャンペーンの一環であったとの説(報道におけるタブー#戦時大統領タブー)があるが、史実では朝鮮戦争時とベトナム戦争時に大統領が代わっている。
  • イラクは石油輸出の決済をドル仕立てからユーロ決済への移行を決定していた。これが実行されるとアメリカドルの世界基軸通貨としての地位が揺らぐため、それを阻止するための防衛戦争として侵略を決行したとの説<ref>

</ref>があるが、どの通貨を決済・準備通貨をにするかは、政府でも法人でも個人でも当事者の状況判断や価値判断で決める。

  • 冷戦以後、目立った戦争を経験していなかった軍需産業が衰退していたため戦争を誘発するようホワイトハウスに圧力をかけたという説があるが、軍需産業は平時でも消耗品は常に発注があり、車両・航空機・艦船・ミサイルなどの高額製品は複数年契約で研究・開発や量産品を継続発注する。戦争が無くても消耗品は演習で消費し、耐久品は耐久年数の間は使用するので、スイス、スウェーデン、日本のように何十年~何百年間平時でも経営は成り立つ。しかしながら、戦争は軍需産業を活発化させることも事実であるため一様に否定することはできない。
  • 戦争により武器・兵器を消費するため、一定の周期で過剰に生産された武器・兵器を消費しなければ軍事マーケットにおける需給のバランスが崩れるといわれているが、事実は、軍需兵器は議会が承認した予算に基づいて国防総省からの受注生産であり、見込み生産して市場で消費者に販売する商品のように、過剰在庫は発生せず売り切り処理で需給調整する必要は発生しない。ただし、戦争による受注増加は否めない。
  • サウジ・ロシアに次ぐ埋蔵量(世界第三位)を持つイラク北部の油田地帯を反米のフセイン政権が握っているのは、アメリカ(特に国際石油資本)にとって好ましいことではなく、利権を押さえるため。しかし戦後、開発の権利は入札によって他国に取られてしまった<ref>『“石油戦争”の勝者はイラク国民』(中東ジャーナリスト・坂井定雄筆、リベラル21 2010年1月10日)</ref>。
  • 数十年後に予想される原油枯渇によるエネルギー危機にそなえて、石油利権の確保のため。開戦当初から、イラクの石油をアメリカ資本、イスラエルが独占するための戦争であると主張する説。イスラエルの左派系新聞『ハアレツ』が主張している<ref>Template:Cite web</ref>。

イスラーム原理主義者の世界観における開戦理由

Template:出典の明記

  • ダール・アル=イスラームの支配をもくろむ邪悪なキリスト教の酋長ブッシュと、シオニスト国家イスラエルによるイスラーム世界征服のための戦争という説Template:要出典
  • イスラーム原理主義者は当戦争の交戦当事者ではない。当時イラクの政権与党であったバース党は社会主義寄りの政策をとる世俗政党である。

イラク側の思惑

後に逮捕されたサッダーム・フセイン大統領は、ブッシュ大統領の意図を見誤り、空爆程度で収まると考えていたため、強気の発言をしていたと語っている<ref>「アメリカの進攻、予期せず」フセイン元大統領が供述</ref>。また暗に大量破壊兵器の存在を示唆することで、中東諸国におけるプレゼンスを高める狙いがあった。

開戦反対国のイラクでの利害

フランスとロシアは石油や開発プロジェクトを巡ってイラクと良好な関係にあり、武器輸出もおこなっていた。このため武力行使に両国が慎重な姿勢を崩さなかった背景にはその利益を守ろうとする動機があったとも言われている。イラク軍の保有する近代兵器の大半はロシア、フランス製である<ref>主要な例は、イラク陸軍の主力兵器である戦車T-54T-55T-62T-72、地対地ミサイルスカッドAKアサルトライフルRPG-7擲弾筒はロシア製、空軍の主力戦闘機ミラージュはフランスのダッソー社製、空・海軍の対艦ミサイル「エグゾセ」はやはりフランスのアエロスパシアル社製である。</ref>。また、ペルシャ湾への空母「シャルル・ド・ゴール」派遣を準備していたにも関わらず中止したフランスはイラクに多額の借款を持っており、戦争による体制の崩壊で当該借款が回収不能になることが危惧された。<ref>[2]</ref>

国連関係者とフセイン政権の癒着問題

また、国連においてもイラク関連人道支援事業「石油と食糧の交換計画」に関わる汚職が後に問題となった。これは経済制裁を受けていたイラクが石油と食料や衣料品を交換するという国連の事業であり、この計画に関与したブトロス・ブトロス=ガーリ元事務総長のファミリー企業やベノン・セバン事務次長(当時)、コフィー・アナン元事務総長の長男コジョが密輸やイラク政府、関連企業からの賄賂によって利益を得ていたという事件である<ref>前事務総長にも波及 国連・イラク支援疑惑 asahi.com</ref>。フセイン政権がこの計画で不正に得た収益は19億ドルにのぼるとされており、そのための賄賂と見られている<ref>米検察、元国連事務次長を起訴…フセイン政権下の収賄YOMIURI ONLINE 2007年1月17日</ref>。

各国での反応

画像:Pentagon March.jpg
ペンタゴンに集まるイラク戦争に関するデモ参加者 (2007年3月)

開戦直後の各国の反応は以下の通りであった。

  • イギリスブレア首相は政府声明として、アメリカの武力行使を支持し、共に参戦すると表明。参戦の際の声明では、かつてウィンストン・チャーチル首相が発した「陸海空から」という文言が用いられた。
  • 日本小泉純一郎首相は記者会見で、「アメリカの武力行使を理解し、支持いたします<ref>小泉総理大臣記者会見 [イラク問題に関する対応について 平成15年3月20日]</ref>」と表明した。後に明らかになったことだが、小泉の同声明は外務省の事務方が用意した文書よりも踏み込んだ内容になっている。文書では「理解する」との表現が盛り込まれていたが、開戦の際の記者会見では小泉は「支持」という踏み込んだ文言を用いた。日本は単に支持するだけでなく、開戦前から米国に賛同するよう安保理理事国に働きかけていた。また、開戦直前の3月19日、衆議院外務委員会川口順子外相は「フランスは甘えている」とアメリカに従わなかったフランスを批判した。
  • オーストラリアは空軍の戦闘攻撃機、海軍のフリゲート特殊部隊を派遣。
  • フィリピンは支持。中国ロシア欧州連合アラブ連盟は非難。
  • イスラエルは開戦を強く支持。イラクからのミサイル攻撃に対して即時報復の構え。国内では非常事態体制に入り、ガスマスクの携帯を勧めた(生物・化学兵器への備え)。開戦前の2月、ペレス外相は開戦反対のフランスを国連安保理常任理事国にふさわしいかどうか疑問だと非難した。
  • イラク政府はこの戦いを聖戦ジハード)であるとした。
  • 国際連合コフィー・アナン事務総長は強い遺憾の意を表明。
  • 韓国3月21日の臨時閣議で、600人以内の建設工兵支援団と100人以内の医療支援団を派遣することを決定。だがその後、議会で反対に遭い、与党の分裂などもあって派遣が実現するかどうかは不透明化した。4月2日の国会での演説で、盧武鉉大統領は再び派兵の承認を議会に要請。
  • アメリカ国内では非常用品、更に拳銃ライフル散弾銃の売り上げがなぜか増加した。

開戦後、国際反戦団体のUFPJ(United For Peace & Justice:正義と平和のための連合)やANSWER(Act Now Stop the War & End Racism:戦争を止め差別を終わらせるために今行動を)の呼びかけにより、24時間かけて世界を一周させるリレー反戦デモが繰り広げられ、一部の国では規制しようとする警察と小競り合いが起き、負傷者や逮捕者が出るほど激化した。著名アーティスト達は揃って攻撃を非難。これと同時にワシントンにおいては開戦を支持するデモも大規模に行われた。

3月27日国際連合安全保障理事会の席上において、英米側が戦争の正当性を主張。ロシア、中華人民共和国、イラクなどがこれに批判的な発言を行った。

4月1日、フランスのド=ビルパン外相は、テレビのインタビューで英米への支持を表明、良好な関係を保つことの重要性を強調した。また、フランスは開戦前にフランス領空のアメリカ空軍機の自由通過を承認。開戦後にフランス海軍、ドイツ海軍はサウジアラビア近海に展開。ロシア海軍も開戦から1か月以上経ってからサウジアラビア近海及びインド洋に展開した。

4月14日、アメリカ政府はシリアを非難。イラクの政府要人などを匿い、化学兵器を所持していることなどを理由としたものだが、これは当のシリアは元よりフランス外相、国連事務総長などの反発を招いた。

日本の報道対応

日本ではNHKは発生した時間から68時間報道を行った。また民放各局はお昼のニュース枠より通常放送を中止し、深夜まで全国放送を行った。3月21日より通常の編成に戻ったが『JNNニュース』(TBS)、『産経テレニュースFNN』(フジテレビ日曜))などはパーティシペーションで放送された。

戦術

迅速な攻略

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イラク全図

Template:See also 2003年3月19日に開戦を宣言すると、翌3月20日には制空権が確実な状態で陸上部隊が進攻を開始した。ウムカスルやルメイラ油田を攻略し、南部最大の都市バスラの攻防戦で幾分足止めを食らうが制圧。鉄道と道路沿いを西に向かい、ナーシリーヤでクートに北上する部隊とサマーワを経てユーフラテス川沿いにヒッラを目指す部隊に分かれ、4月にバグダードで合流して突入、これを攻略した。この攻略に際して米進攻部隊が途中で待ち伏せ攻撃に苦しんでいるとの情報を出し、バグダード市内にいた共和国防衛隊特別共和国防衛隊の戦車などが進攻部隊攻撃のため市内を出たところ空爆によって大半が破壊された。これは市内での空爆の困難さからうまく市街地の外に戦車などを出す戦術ともいえる。

合わせて北部のモスル、ティクリート、キルクークには空挺隊が攻略し、西部の砂漠地帯も同様に攻略した。 全土の攻略に1ヶ月強というすさまじい速さでの占領であった。その迅速さは戦争開始前後から積極的にメディア工作をおこなっていたサッハーフ情報大臣がバグダッドの平穏を強弁しているその後ろを米軍戦闘車両が通過する、といった映像が放映される一幕を演出するほどであった。

小規模兵力とハイテク兵器の投入

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前線に配備されたアメリカ陸軍のヘリコプター、HH-60 ブラックホーク(2003年4月2日)

thumb|250px|首都バグダッドで銃撃戦を行う米軍兵士 投入された兵力は1991年湾岸戦争が66万人であるのに比較して、26万3千(アメリカ陸軍アメリカ海兵隊で約10万、イギリス軍3万。海空軍、ロジスティク、インテリジェンスなどをふくめるとアメリカ軍約21万4千、イギリス軍4万5千、豪2千、ポーランド2.4千)と非常に少ない。GPS誘導爆弾やレーザー誘導爆弾など高性能の武器を効果的に用いることで特定の拠点を効率的に破壊するドクトリンとした。

これは、湾岸戦争後にコリン・パウエルによって提唱された「パウエル・ドクトリン」と呼ばれる戦争のスタイル(圧倒的な兵力を投入し、短期間での勝利を目指すもの)と対照的である。各国の軍事専門家の間でもイラク戦争における米軍の戦術がどの程度功を奏するかについては注目され、あるいは心配されていた。

この計画を積極的に提唱したのはラムズフェルド国防長官だと言われている。同長官はかねてより、パウエル・ドクトリンはベトナム戦争からの教訓として形成された「ワインバーガー・ドクトリン」の亜流であり、時代遅れになりつつある、との見解も表明している。

実際にイラク戦争では、開戦劈頭における航空機のピンポイント爆撃をはじめとする空爆巡航ミサイルによる結節点の破壊によってイラク軍の指揮系統は早期に崩壊した。組織的抵抗力を開戦直後にほぼ喪失したイラク軍は、各地で散発的に抵抗するしかなくなり、アメリカ軍は完全に戦争の主導権を握った。 事前の大方の予想を裏切り、アメリカの陸上部隊も迅速にバグダードまで進軍することに成功した。このことはアメリカの圧倒的軍事力を一時的なイメージだけであれ世界中に見せつける結果となった。軍事大国アメリカの存在感をいっそう高め、中東を始め世界各国に改めて示すことができた訳である。開戦前から戦争が泥沼化すると予想していた研究者もいたが、この初期の圧勝によって彼らの主張は全く受け入れられなかった。この軍事的成功はC4ISR化(指揮・統制・監視・偵察のIT化とコンピュータ化)をいっそう促し、RMA(軍事革命)という考え方が台頭する。中国人民解放軍もこうした新しい戦争には着目し、ハイテク環境下における局地戦や、三打三防戦略といったドクトリンを生み出している。

この戦争では無人偵察機アフガニスタンに引き続いて使用され、続く占領下の武装勢力との抗争では、遠隔操作の無人自走機関銃がアフガニスタンと共に初めて実戦投入。戦場のロボット化が進んだ。

大量破壊兵器捜索

大量破壊兵器の保有に関してはUNSCOMのスコット・リッター主任査察官<ref>ただし、スコット・リッターはイラク政府に近い実業家から40万ドルの現金を受け取っていたことが明らかになっており、アメリカ議会ではイラクに買収されたという見方もされている。米批判の元査察官を買収か イラク系実業家から40万ドル</ref>、IAEAのエルバラダイ事務局長(肩書きはいずれも当時)らは当初から否定的であった。

イラク国内に入ったアメリカ軍は、大量破壊兵器の捜索を行った。また、UNMOVICも現地入りし捜索を行った。しかし捜索にも関わらず新たな大量破壊兵器は発見されず、2004年9月13日にパウエル国務長官は「見つからないだろう」と捜索断念を明らかにした<ref>「大量破壊兵器、見つからないだろう」米国務長官が断念 asahi.com</ref>。

しかし、UNMOVICの報告では<ref>イラクにおける大量破壊兵器問題外務省2003年10月</ref>イラクが大量破壊兵器に該当しないとしていたアルサムード2ミサイルの射程が安保理決議違反であると認定されたほか、炭疽菌タブンソマンなどの生物兵器化学兵器廃棄情報が確認されないなど、イラク側が申告した内容には虚偽の内容があることが明らかになった。

2004年10月にはアメリカが派遣した調査団が「イラクに大量破壊兵器は存在しない」との最終報告を提出。大量破壊兵器の情報の信憑性が薄いものであったことが明らかになった。この事に関してサッダーム・フセインは、拘束後のFBIの取調べで、イラクが査察に非協力的だったのは「大量破壊兵器を保持している事をほのめかす事でイランや国内の反政府勢力を牽制しようとした」ためで、化学兵器などの大量破壊兵器は「湾岸戦争後の国連の査察ですべて廃棄させられたため最初から無かった」と証言している<ref>CBS 60ミニッツ「サダム・フセインの告白」</ref>。

アメリカ政府は大量破壊兵器に関するCIAの情報に誤りがあったことが原因であるとし、議会で調査が行われる事態となった。

一方、大量破壊兵器が発見されなかったことで、イラク戦争を支持した同盟国にも動揺が走った。最大の同盟国であるイギリスでは、ブレア首相が開戦前に「フセイン政権が生物化学兵器の使用を決定した場合、45分以内に配備できる」という報告書を提出し、情報の真偽を巡って自殺者まで出していたため「国民を騙した」として支持率が急落、任期を残しての早期退陣に追い込まれた。デンマークのイエンスビュ国防相も開戦前に「大量破壊兵器問題をめぐる報告書」を提出してイラク戦争を支持したため辞任を余儀なくされた。また、ポーランドのクワシニエフスキ大統領は「アメリカに騙された」と批判し、日本の久間章生防衛相も「大量破壊兵器があると決め付けて、戦争を起こしたのは間違いだった」と発言し物議を醸した。オーストラリアのブレンダン・ネルソン国防相にいたっては、「原油の確保がイラク侵攻の目的だった」と開き直る発言をして批判を浴びている<ref>[2007年07月08日付クドゥス・アラビー紙</ref>。

ブッシュ大統領は退任直前のインタビューで「私の政権の期間中、最も遺憾だったのが、イラクの大量破壊兵器に関する情報活動の失敗だった」と述べたが、大量破壊兵器を保有していないことを事前に知っていれば、イラク侵攻に踏み切らなかったのではという質問に対しては、「興味深い質問だ」と述べただけで、明確な返答を避けた<ref>ブッシュ米大統領、イラク情報活動失敗が「最大の痛恨事」AFP NEWS</ref>。

フセイン政権とアル・カーイダの関係

2008年3月、国防総省は正式に「フセインとアルカーイダの関係を示す決定的証拠はない、認められるのはパレスチナ武装勢力との関係のみ」とする報告書をまとめた。なお、報告全文は当初インターネットでの公開が予定されていたが、直前になって突如文書頒布のみに切り替えられた。

占領政策

画像:George W Bush on the deck of the USS Abraham Lincoln.jpg
対イラク戦争「勝利宣言」を行うため空母エイブラハム・リンカーンに降り立ったアメリカのブッシュ大統領

イラク戦争は5月1日の『戦闘終結宣言』によって、連合軍は圧倒的勝利という姿で、形式的にはイラクへの攻撃を終了した。イラクはアメリカ軍のバグダッド進攻によるフセイン政権崩壊以降、国連安保理決議1483に基づいてアメリカ国防総省人道復興支援室および連合国暫定当局(CPA)の統治下に入って復興業務が行われることとなった。

アメリカ軍がバグダッドに進攻すれば市民は諸手を挙げて歓迎し、米軍と共にフセイン体制打倒に決起してくれるだろうと考えていたブッシュ政権であったが、その観測は後に裏切られる事になる。

占領政策のつまずき

少数の兵力しか用いないという米英軍の戦術は進攻作戦においては大いに役に立ったが、占領政策にはひどく不向きであったと現在では考えられている。敵の軍隊のみを排除すればいい軍事行動とは違って、占領時にはインフラの復旧、治安の確保、食糧の配給など様々な活動が求められるが、兵士の数が足りないためどれも完全には行なえず、結果イラク国民の反発を招き、更に治安の悪化が進み、より多くの兵士が必要となるという悪循環を招いている。

進攻当時、抵抗らしい抵抗をしなかった旧イラク軍だが、大規模兵器を早々と放棄し、小型の武器弾薬をこっそり隠して米軍に対してレジスタンス攻撃をしきりに行い、現在も継続していると考えられている。これはフセイン自身も証言し、大統領宮殿などからも証拠を確保したが、湾岸戦争終結時より計画していたもので、経済制裁を受ける中で、最低限の材料で爆弾を製造する方法なども情報機関や軍によって研究されており、攻勢を受ける間は抵抗せずに地下にもぐり、攻勢をやめた占領軍に対して爆弾で攻撃をかけていると考えられた。米英軍の占領政策はこのような事態を全く予測しておらず(ないしは非常に軽視したものと考えられ)、これは明らかに情報分析の初歩的敗北であり、「戦闘終結宣言」後に大量の死者を出す結果を招いた。現代において戦場で最も重要視される情報入手・統制、リスク分析において欠陥があったことは米英占領軍にとってはかなりの痛手であった。現状ではさらに旧軍人だけでなく、武装集団や過激派も活動を活発化させており、アメリカ軍や軍属、イラクで活動する民間人やマスコミ関係者への襲撃も増加している。

また、バグダードなど大都市を占領すると、圧政から解放されたと感じた市民が略奪に走り、博物館の展示物や商店の品物が略奪の対象となった。これはこのような無政府状態に対する準備が行われていなかったことの表れでもある(略奪防止の措置は後手に回り、フォトジャーナリスト・森住卓の現地報告によれば、米英軍は他省庁を放置して石油省のみを厳重に警備していた。また、略奪物の8割ほどはイスラム聖職者などの教えによって返却された)。また市民の略奪に紛れ、武装勢力の中には市役所や警察署などを対象に狙う者もあり、米英軍はこれも防ぐこともできなかった。後に占領政策に移ると、市民の登録情報や個人情報、自動車の登録番号などが根こそぎ持ち去られるか、破壊されていることがわかった。このため、車爆弾自爆テロで用いられた自動車のナンバーが判明しても、持ち主がわからないためレジスタンス組織の検挙に繋がらなくなっている。

2009年1月、ブッシュ大統領は最後の記者会見で対テロ戦争は正当化したものの、2003年に行なった「戦闘終結宣言」は誤りであった事を認めた。

占領政策の民営化

復興業務には「ハリバートン」社、「ベクテル・インターナショナル」社らアメリカの民間企業がいくつも参加していた。戦闘終結直後に民間企業が続々と参加してくることは初めてであったが、これら実験的な政策はチェイニーらブッシュ政権閣僚の肝いりであったと言われている<ref>参入した多くの企業が、ブッシュ政権の閣僚を重役に置いていた時期があり俗に「回転ドア」と称される</ref>。

本来は軍が行ってきた輸送業務などを、安全が確保された地帯に限って民営化し、民間企業がトレーラーなどを使って食糧や物品、軍事物資を輸送する、民間企業は同時に石油開発事業も行って利益を得る、と言うものであった。アメリカ国防総省から見れば、戦争で大きな比重を占める輸送業務を民営化することで、その分の兵力と予算を作戦に回す事ができ、効率的だと考えられた。

しかし、実際にはイラクは戦闘状態であり、輸送任務についた民間のトレーラーは、アメリカ軍の護衛がついているとはいえ、すぐに武装勢力の標的となり、銃撃、爆弾攻撃、ロケット砲攻撃、殺人、誘拐が相次いだ。運転手にはアメリカ人の他、現地のイラク人やネパール人、フィリピン人ら賃金の安い外国人を雇用したが、彼らも数多く戦闘の犠牲となり、また度重なる攻撃によって幹線道路周辺は治安が悪化し、民間企業では手に余る状態となった。アメリカ軍は治安悪化によって兵力が不足し始めると、警備業務を民間軍事会社とよばれる企業に委託するようになった。高収入であるため、民間軍事会社に所属するかなりの数の警備員がイラクに入ったが、彼らも数多く殺害されている。武装勢力と戦闘して死亡した者も多い。ただし、警備員は飽くまで民間人であるため、死亡しても“戦死者”には計上されない。民間軍事会社の社員は多くは警察、軍の出身者であり、国籍も多様である。2007年9月にブラックウォーターUSAがイラク民間人17人を殺害、24人を負傷させる事件(ブラックウォーター事件)がおき、非難を浴びた。合衆国政府は少なくとも14人の射殺には正当性が認められないと判断しているが、合衆国政府はブラックウォーター社との契約を延長している。

このように、輸送業務は麻痺状態に陥っているため、前線の兵士まで物資が十分に届いていないことが、兵士が家族に当てた電子メールなどでわかっている。特に水不足が深刻で、摂氏50度の砂漠の中で水分補給をぎりぎりまで制限されていると言う。また、現在のアメリカ軍はベトナム戦争の時代とは違って徴兵を行っていないため、イラクの状況から入隊希望者が集まらず、兵士の絶対数の確保が困難となっている。このため前線の兵士は数か月で帰還できるところを、1年以上待たされていることも普通である。この人員不足をアメリカ軍は州兵(国家防衛隊)で補っているが、彼らも同様に扱われる上、同じ州兵を繰り返しイラクに派遣するなど、待遇は悪化している(2006年には戦傷を受けて休養中の予備役や、果ては物故者にまで現役復帰を呼びかける文書が送付されていた事が発覚した。軍当局は“古い名簿に基づく誤った処理”と弁解している)。さらに州兵の不在が、結果としてアメリカ国内での災害の発生・拡大に深く影響を与えることも、2005年ハリケーン・カトリーナによって明らかとなった。

一方、石油開発は油田施設やパイプラインへの攻撃で産油量が低迷。世界第二位の埋蔵量でありながら、安定した供給を行えない上、ブッシュ大統領が発言した「世界民主化」は、民族自決に反するものであり、王政や専制であるアラブ諸国の不信感をますます募らせたため、石油危機の再来が恐れられた。このため、石油メジャーを中心に石油資源買いが発生し、原油価格は戦闘終結宣言後から急速に価格が上昇<ref>したただし、石油価格高騰は投資資金の石油市場流入や中国経済の急成長も関わっているため、原因は1つではない。</ref>。

反米武装勢力の攻撃

連合軍はイラクと講和したわけでも、停戦協定を結んだわけでもなく、いわばアメリカがクーデターに手を貸して旧体制を転覆、一方的に終結を宣言したに過ぎない。前述したように、イラク軍やイラク政府が地下に潜ってしまった為である。また、戦闘が終結したことにすると、復興事業に乗り出すことができ、戦闘には参加できない国も兵力を差し向け易くできると言った政治的な意味合いが強かった。

イラク軍は開戦前の投降呼びかけに2000名が応じる(米軍は当初8000名と発表)など戦意が低く、進攻中もほとんど反撃できず、極めて脆弱に見えた。アメリカ兵の死者は136名と湾岸戦争をさらに下回り、「イラク戦争は大成功であった」と世界に見せ付けることとなった。しかし、サッダーム一族や政府関係者は逃亡、また実際には戦闘終結宣言以降も散発的な戦闘が続き、アメリカ軍や有志連合を標的とした攻撃も頻発するようになった。8月には国連事務所を爆破してセルジオ・デメロ国連事務総長特別代表らを殺害(爆発の瞬間が、たまたま取材に入っていたNHKのクルーに撮影された)、国連チームの撤収に至った。

この当時の攻撃は主にイラク軍や秘密警察の残党によるものだと考えられ、元大統領サッダーム・フセインや、彼の2人の息子に指示されていると思われた。しかし、アメリカ軍による残党狩りによって2人の息子(ウダイクサイ)は共に戦死、この年12月にようやくサッダームが逮捕されるに至ると、一時的に攻撃が増加したものの、事態は収束に向かうかに見えた。 ただし、この残党による攻撃によって5月までの戦闘によるアメリカ兵の死者数を上回る犠牲者が発生した。

画像:Saddamcapture.jpg
拘束直後のサッダーム

だが2004年に入ると攻撃の対象が拡大し、連合国暫定当局が設置した新しい警察や新しいイラク軍を標的とする事件が増えた。これらで犠牲になる者はほとんどがイラク人で、残党たちはアメリカ軍への攻撃に加えて、新体制の象徴たるものの破壊を狙ったと考えられる。また、民間外国人を狙った誘拐事件も頻繁に発生し、日本人民間人も被害に遭った。これらはイラク国内の武装勢力によるものと思われ、誘拐した人質と引き換えに軍を撤退させるよう要求するのが手口であった。ただ、彼らは宗教指導者の呼びかけに応じることも多かった。

大規模戦闘の勃発

2004年4月にはファルージャで反米武装勢力とアメリカ軍の間で、占領後初めての大規模な戦闘が起こった(ファルージャの戦闘)。また、この頃から南部でもシーア派イスラーム教徒が反米抗議を行うことが増え、一部の過激派が攻撃を加えた。更に、5月に米兵によるイラク人捕虜虐待が明るみに出ると、この反米運動は全国的な広がりを見せるに至る。6月暫定政権が発足し、体制の構築が進むと、それに対応して攻撃も行われた。この頃から攻撃は無差別性が際立ち、大都市中枢などで一般市民を狙ったと思われるテロが相次ぐようになる。無防備ないわゆる「ソフトターゲット」と呼ばれる標的を狙うことについては、残党による手口だとは考えにくいと当時から囁かれた。また、この頃から、アルカーイダ系の武装集団がシリアイランを通じて大量にイラク入りしていると報道された。

さらに、南部に多いシーア派の過激派民兵が8月に武装蜂起し、南部最大の都市バスラを中心に米英軍と戦闘となった。シーア派民兵はムクタダー・サドルに率いられ、組織的な戦闘を行ったが、民兵側の犠牲が相当数に上り、イラク・シーア派の指導者アリー・シースターニーの停戦呼びかけに応じ、1ヶ月ほどで沈静化へ向かった。

続く11月にはアルカーイダ系の武装勢力(アメリカ軍は当時そう考えていた)の活動がファルージャで活発になり、アメリカ軍は「夜明け」と命名した作戦によって攻撃した(ファルージャの戦闘に詳細)。しかし事前に大々的報道がなされたため、目的であるザルカーウィーらアルカーイダ系テロリストは既に逃亡、武装勢力も散った後であった。米軍が直接制圧に当たっているが、12月後半には7割の地域で武装勢力が回復したと言われている。また、ザルカーウィーにしても、彼が真に武装勢力の指導者であったことに疑いの声が上がる。アルカーイダの犯行と思われた事件のほとんどはフセイン政権の残党によるものと言う見方が、現在では強まっている。アメリカはこの作戦「夜明け」を実行するに当たり、バグダッドの治安要員が足りなくなるため、イギリス政府に対して、バスラを中心としたイラク南東部を活動範囲としていたイギリス軍の一部をバグダッドに転戦させた。

ファルージャの戦闘の一方は米軍だったが、他の一方は「反米武装勢力」とは断定できないTemplate:誰

政権発足と兵力縮小

この執拗な攻撃やテロに対し、有志連合を結成していた各国が次々に離脱を宣言した。とくに開戦当初から支持を表明していたスペイン国内で2004年3月11日列車爆破テロが発生したことは、派兵国に少なからず動揺を与えた。ブッシュ政権はイラクの治安悪化を理由として、派兵要員を13万人から15万に増強する旨を発表した。さらに2004年11月のアメリカ大統領選挙終了後は20万人に増強する動きもあったが、実際は14万5千人までの増強で抑えられた。2005年4月には憲法製作を行う移行政府が発足し、アメリカのイラク復興業務は次の段階に入った。

ところが、2005年の夏に起こったハリケーンカトリーナ」の襲来時、肝心の被災地で活動すべき多くの州兵がイラクに派遣されていた事が大問題にされ、救難活動が遅れたために2千人近くが死亡したとする批判が国内から相次いだ。このためブッシュ政権は一部の兵力を本土に帰還させたため、イラク兵力は13万8千人となった。12月の議会選挙の際にはさらに多い15万5千人に増員したが、翌2006年2月には早々と13万6千人に削減し、3月には13万3千人となった。また、2月には正式な民主政権が発足する予定であった事から、ポーランド韓国イタリアに引き続き、イギリスオーストラリア日本が相次いで兵力削減・離脱を発表した。しかし、シーア派とスンナ派(あるいは石油資源を巡るクルド人)の対立から政権建設は難航し、22日のアスカリ廟爆破事件によって宗派対立に発展した。このため、日英豪3か国の撤退計画は不透明なものとなった。

武装勢力抗争の激化

画像:Car bomb in Iraq.jpg
イラク警察を狙った車両の爆破
画像:Apache-Iraq-killing-2.jpg
AH-64 アパッチのガンカメラから撮影されるイラク人の賊徒と疑われる人物。この直後アメリカ軍によって攻撃される。(2004年頃)

アスカリ廟爆破以来、報復合戦となったシーア派とスンナ派の衝突は、3月に入ってからは沈静化したものの、一部で内戦の危機と報じられたが、多国籍軍はこれを否定した。しかし、一方で米メディアなどはイランの武装勢力が侵入してテロ工作をしていると報道し、アメリカ政府高官や軍もイランを(核開発問題を絡めて)非難している。しかし、イラク戦争自体が情報操作の産物だった過去の例を考えれば、またしてもアメリカの責任転嫁を目的とした情報操作である可能性もある(2007年9月現在、イラン関与の確たる証拠は公表されていない)。武装勢力にはイラク人がシーア派、スンナ派、クルド人のグループがそれぞれいくつもあり、シーア派にはイランからの支援が、スンナ派はシリアが援助しているとも言われる。ただし、シリアは少数派のシーア派系アラウィ派がスンナ派を支配する国家形態であり、イラクのスンナ派政権とは長年対立を続けてきたため、これに積極的な支援を与えているわけではないとの見方も存在する。また、フランスに海外拠点を置く旧バース党残党も他のスンナ派勢力と連携して活動を続けていると見られ(バグダード市ドーラ地区、アザミヤ地区を実質的に支配)、国外からもイスラム原理主義勢力などが侵入していると「戦闘終結宣言」直後からささやかれていた。アメリカは内戦ではないと主張しているものの、実際のところ、これらの武装勢力が群雄割拠して、それぞれがテロ攻撃を繰り返しており、民間人の死者が増加し続けている。

一方、アメリカ兵の死者は2005年10月から減少に転じていたが、これは危険地域の警備をイラク警察や国家警備隊、親米武装勢力に移譲しているからだと指摘されている。この間、テロ発生件数は横ばいであるが、多国籍軍への攻撃は減少しており、その分イラク人を標的にしたものが増加した。 また、2006年10月からは宗派抗争を通じて影響力を更に強めた武装勢力各派が対米攻撃を再度激化させ、米軍死者数は再び増加の傾向を見せている。

また、2006年に入って、武装勢力がイラク人の技術者や知識人を巧妙に殺害していることがわかってきた。フセイン政権は国力となる知識階級を積極的に育成してきたが、武装勢力はこれらの人々を直接殺害、あるいは拉致してから殺害して死体を遺棄するなどの方法で、すでに医師が約300名、科学者が約100名、大学教授は80名以上が殺害された。知識階級はバース党員や旧政府の官僚が多かった為、抑圧されてきた勢力の犯行だと考えられるが、身代金目的の誘拐も数多い。このような治安悪化を理由として、40万人のイラク人が危険を感じて国外へ逃亡しており、国家の基礎体力低下は避けられない。2006年にイラクにいる医師は全土で2000名程度と見られている。

このため、イラク国内において、故意にイラクを弱体化させようと動く勢力の存在が浮かび上がっている。また、フセインは初等教育にも力を入れており、湾岸戦争前に9割あった(とされた)識字率も、戦後の経済制裁とこのイラク戦争後の統治の失策によって5割を下回っている。

正式政府の発足

マリキ政権の誕生

2006年4月に入ると、エジプトやサウジアラビアの要人が相次いで「イラクは内戦である」と発言し、イラク移行政府が強く反発した。しかし国内はシーア派スンナ派による抗争が過激化し、連日テロや殺戮が起こっていた。スンナ派が反発したのは移行政府首相がシーア派過激派のサドルと親密だったからである。4月22日、シーア派系議員連合「統一イラク同盟」(UIA)は、首相にジャワド・マリキを擁立した。スンナ派とクルド人も容認し、連邦議会が再開した。4月26日には早くもアメリカ政府からラムズフェルド国防長官とライス国務長官が相次いでイラク入りし、これを歓迎した。

閣僚についての決定は、各宗派の調整に手間取り、閣僚をそれぞれの宗派の議席に割り当てることで合意するが、国防相と内務相をマリクが兼任すると言う暫定的な形となった。5月20日にマリクが閣僚名簿を読み上げ、議会が賛成して承認され、正式政府が発足した。フセイン政権崩壊から3年が経過していた。アメリカ軍は、政権発足時に25万4000人のイラク治安部隊を32万5000人に増強し、12月までに95パーセントを達成するとした。しかし、アメリカ軍の撤退については、ラムズフェルド長官は「削減できればいいが、約束はできない」と発言した。

政権発足直後の6月7日、マリキ首相とアメリカ軍は共同で、イラク国内でテロを誘発してきたとされるザルカーウィー容疑者を、空爆作戦によって殺害したと発表した。成果は発足直後のアピールとして強調され、6月13日にはブッシュ大統領が電撃訪問してマリキを祝福したが、ザルカーウィーの配下は1,000名程度とされる一方、イラク全土の武装集団は20,000名以上と推測されており、アルカーイダも直後に後継者を発表したことから、政治的にも戦略的にも効果は薄いと見られる。実際、その後も一般市民を標的とした爆弾テロや、武装勢力による拉致、殺害、銃撃などは相次ぎ、2006年内のイラク国民の死者は3万4000人以上となった。政権発足後も状況に大きな変化はなく、米国政府とマリキ政権は相互不信に陥りつつあるといわれる。

イラク政府は同国の安定化を模索する国際会議を3月10日にバグダードで開催すると発表した。イランやシリアを含む周辺諸国のほか、米国をはじめとする国連安保理の5常任理事国、アラブ連盟イスラム諸国会議機構(OIC)が招待された。4月にも開催予定で日本などサミット参加国も加わる。米側は国務省報道官の記者会見などで路肩爆弾による米兵への攻撃問題を取り上げたいと表明した。

サダム・フセインの死刑執行

2006年12月30日、サッダーム・フセインの死刑が執行された(→サッダーム・フセインの死刑執行)。

スンナ派イラク住民とアルカーイダの対立

イラクのスンナ派の町では米軍に対する攻撃が盛んであるが、国外から侵入するアルカーイダ系勢力に対しても外国の武装勢力だとして武力衝突が生じていた。その一方で資金力に優れるアルカーイダと一部スンナ派武装勢力が対米攻撃で協力関係を結ぶなど、スンナ派地域へのアルカーイダの浸透も進んでいた。

そこでアメリカ軍はイラクのアルカーイダ系組織の幹部ザルカーウィーの脅威を強調し、ザルカーウィー派掃討を目的とした空爆などの過激な攻撃をスンナ派地域で繰り返した(結果として2006年6月のザルカーウィー殺害後もイラク情勢への影響はあまりなかった)。この時スンナ派の間では、攻撃による巻き添え被害の大きさからザルカーウィーを追放しようとする動きが強まった。

2007年に入り、アルカーイダの過激な活動に反発するスンナ派市民までがテロの対象とされ、塩素ガスを用いたテロによる多数の被害者をだし両者間の溝が表面化した。4月には主要なスンナ派武装勢力のひとつ「イラク・イスラーム軍」が構成員30人をアルカーイダに殺害されたとして、ビン・ラーディンに対する非難声明をだした。

こうした「反アルカーイダのスンナ派」と「アルカーイダ系スンナ派」の対立のなかで、アメリカ軍が反アルカーイダのスンナ派部族と協力関係を持つなど、事態は一層複雑化している。6月25日バグダード中心部にあるマンスール・ホテルのロビーで発生した自爆テロでは、アルカーイダ系過激派との戦いに協力した6人のスンナ派部族指導者が殺害された<ref> "Al-Qaida linked to Baghdad hotel bombing", Guardian Unlimited 2007-06-26</ref>。

画像:Obama Petraeus Hagel.jpg
ヘーゲル、オバマ両上院議員とヘリでバグダッドを視察するペトレイアス司令官(中央)

増派による治安回復

ペトレイアス戦略

2007年1月10日ジョージ・ブッシュ米大統領は「イラクの混乱の原因はすべて私にある」とテレビ演説し、陸軍5個師団・1万7500人、海兵隊2個大隊・4000人から成る、最大で米兵2万2000人のイラクへの一時増派を明らかにした。兵力増強をブッシュに進言したのはジョン・マケイン上院議員だとされる。2月にはイラク駐留米軍の司令官にデービッド・ペトレイアスが就任した。具体的には、1万数千人がバグダードで治安維持に当たるほか、治安悪化の著しい西部の州にも7000人程度が派遣され、ゲリラ掃討に当たるというものであった。また、この戦争と占領によって、米本国の陸軍海兵隊の人員が不足したことから、数万人規模で増員した。

さらに、ペルシャ湾に空母打撃部隊2個部隊を配備するなど、イラクのほか、イランやシリアに対する軍事的威嚇の度合いを強めている。同年3月までに憲兵やヘリコプター部隊が増派され、増派規模は最終的に3万人となった。しかし、過去数度にわたる増派の効果がいずれも薄かったことから今回の増派の効果を疑問視する声は根強く、増派反対の世論は61%(2007年3月18日CNN世論調査)にも上っていた。前述のマケイン上院議員は、側近議員数名と同年4月にバグダードを訪問し治安状況を視察するが、その際には護衛が100人以上つくなど、治安状況は悪化の一途をたどっていた。

しかしながら、同年5月25日には、撤退期限を明示しない1000億ドル相当の対イラク戦費法案が上下両院を通過(下院では280対142、上院では80対14)、夏以降の増派は一定の成果を見せ、2007年の米兵死者数は年間では過去最悪の901人を記録したが、5月の126人をピークに9月以降減少傾向を見せ、10月にの米兵戦死者は39人に減少、11月には37人、12月はその数は更に下回り23人となった。米軍は依然として状況を楽観していないが、2004年2月の20人に次ぐ低水準となった。これには、ペトレイアスの新たな治安維持戦略が挙げられる。

ペトレイアス戦略は「交番作戦」と称されるもので、前任のジョージ・ケイシー司令官とは異なり、日本陸上自衛隊サマーワで行っていた人道復興活動を強化し、前述のアルカーイダに反発するスンナ派諸部族や同派部族を代表する覚醒評議会(Majlis al-Sahwa)との連携強化につながった、こうした硬軟の使い分けにより、2007年7月バクーバでの戦闘でイラク聖戦アル・カーイダ機構に大攻勢をかけ、ペトレイアス司令官によると、聖戦機構の6 - 7割に打撃を与えたとしている。2007年10月には軍内部で対聖戦機構勝利宣言が検討されたが、その際には慎重論が大勢を占めた。

2008年

2008年1月には石油生産量が開戦前と同水準の250万バレルにまで回復した。また、フセイン拘束を指揮したことでも知られるオディエルノ副司令は2008年8月までには米軍の駐留規模を2、3万人削減できるとの見通しを示している。2008年4月8日にはペトレイアス司令官が上院で証言を行い、その際に増派前の水準への兵力削減が発表させると一方、武装勢力との攻防が依然一進一退の状況であることから、それ以上の追加撤退については否定した。同年7月22日までに増派された部隊は撤退完了を遂げた。

また、同年4月の米兵戦死者は、後述のシーア派同士の抗争から一時的に治安が悪化し52に上るが、翌・5月は戦況が再び好転し、米兵の死者は開戦以来最低の19人、多国籍軍全体でも21人に止まった。更に、同年7月には戦死者は11人に留まり治安回復傾向がより顕著になった。それを受けブッシュ大統領は派遣された兵士の駐留期間を15か月から12か月に短縮することを発表した。また、CBSの調査によれば2007年8月には2000人を数えていた民間人の死者は、2008年6月には490人に減少、多国籍軍に対する攻撃も1500件から200件に激減した。更に、同年9月の米兵の死者は8人に減少し、10月には7人にまで減少した。同月のイラク人の死者も238と開戦後最低を記録した。

ペトレイアスは、治安回復の功績を認められ、ディック・チェイニー副大統領との対立から米国中央軍司令官の職を辞したウィリアム・ファロン海軍大将の後任に、10月31日付けで就任した。また、これらを受け、同戦争及び増派に反対の立場をとってきたバラック・オバマ上院議員は9月4日のFOXテレビの取材に対し、増派の成果を認めている(オバマは前述の戦費法案に反対票を投じた14人の議員の一人)。2008年12月現在、イラクには14万6000人の米兵が駐留している。

2009年3月にABCBBCNHKが行った合同調査<ref>イラク人の8割超が「治安はよくなった」 米英日3放送局の合同調査MSN産経ニュース</ref>によると、85%が治安が良い、もしくはかなり良いと答えているなど、イラク人の治安に対する実感も上昇しているとされる。

治安権限委譲

Template:節stub 多国籍軍がイラク国軍と警察により管理ができるまでに治安が回復したと認める県についてイラク政府へ治安管理権限が返還されている。これを治安権限の委譲(Transfer of Security Responsibility / control)という。2006年9月にイギリス軍管理下のムサンナー県から始まり、2008年9月に11番目として初めてスンニ派が多数を占めるアンバール県の治安管理がイラク政府に返還された<ref>Multi-National Force - Iraq Monday, 01 September 2008 Transfer of Security Responsibility for Anbar Province</ref><ref>AFPBB News 2008年9月1日「イラク・アンバル州、米軍から治安権限移譲」</ref>。

番号 年月 備考
1 2006年9月 ムサンナー県 イギリス軍管理下
2 ジーカール県 イギリス軍管理下
3 ナジャフ県 ポーランド軍管理下
4 マイサーン県 イギリス軍管理下
5 アルビール県 アメリカ軍管理下、クルド人自治区
6 スライマーニーヤ県 アメリカ軍管理下、クルド人自治区
7 ダフーク県 アメリカ軍管理下、クルド人自治区
8 カルバラー県 ポーランド軍管理下
9 2007年12月 バスラ県 イギリス軍管理下
10 2008年7月 カーディーシーヤ県
11 2008年9月 アンバール県 アメリカ軍管理下、スンニ派
12 2008年10月 バービル県 アメリカ軍管理下、スンニ派<ref>CNN.co.jp「駐留米軍、イラク南部のバビル州の治安権限を移譲 12州目」2008年10月23日</ref>

シーア派内部の対立

フセイン政権崩壊後、政権の中枢に躍り出たのが、これまで支配下に置かれていたイスラム教シーア派勢力である。イラク戦争から5年を迎えた2008年3月に入ると、そのシーア派内で内部抗争が勃発。同派の強硬派であるムクタダー・サドル一派と政府との対立が表面化。政府軍とマフディー軍が、同月25日にバスラで衝突したのを皮切りに、クートヒッラバグダッドに拡大。ヌーリ・マリキ首相自身が陣頭指揮を執った、25日のバスラでの戦闘では双方合わせて31名が死亡した。26日にマリキ首相は、28日までのマフディー軍の武装解除を要求、一方のサドルも前日のナジャフでの声明で徹底抗戦の構えを見せている。27には両者の先頭でバスラ近郊の石油パイプラインが爆破された。また同日には、米国ジョージ・ブッシュ大統領オハイオ州での演説で政府軍支持を鮮明にした。更に、同日深夜にはバグダードで外出禁止令が発令された。翌・28日には政府軍に同調した米軍が南部・バスラのマフディー軍施設を空爆した。同日にマリキ首相は、マフディー軍の武装解除期限を4月8日まで延長すると発表した。30日にはサドル自身がマフディー軍に対し戦闘中止を呼びかけ、31日にはバグダードの外出禁止令が解除された。

戦闘終結宣言後の犠牲者

開戦からブッシュ大統領による戦闘終結宣言が出されるまでの期間は非常に短かったが、現在(2008年3月)もイラク人兵士・警察官・民間人、そしてアメリカ軍をはじめとする多国籍軍兵士も、ともに犠牲者が増え続けている。イラク治安部隊(新イラク軍・新イラク警察)は、イラク警察だけで少なくとも8,000人から10,000人が戦死している。

アメリカ兵の犠牲者は4,000人を突破し、これに加えて、軍に従事する民間軍事会社の契約要員(米軍から民間委託分野として警備や輸送業務に従事し、治安作戦への参加も指摘されている。実態として傭兵に近い)が、これまでに少なくとも1,000人以上が死亡していると報じられている(そのなかには、軍事経験のある日本人の契約要員が1名いる)。

2007年10月現在、イラクでは各種民間警備会社は、アメリカ正規軍を上回る計18万人が活動中。その活動内容は事実上野放しで、誰を殺しても誰に殺されてもさしたる問題にはされていない。民間警備会社の警備員による虐殺・暴行も報道されており、2007年9月16日にはブラックウォーターUSA社の警備員が乱射で民間人17名を射殺、持参の銃を現場に置いて「武装勢力に対し正当防衛を行った」と悪質な偽証をした事件が表面化<ref name="フランス通信 2007年10月8日付">Template:Cite web</ref>、イラク・アメリカで問題となった。

また、英軍の死者170人、その他諸国軍の死者132人と合わせて、連合軍全体の死者数では4,000人以上(民間軍事会社の契約要員を除く)となる。

また、アメリカでは、外的な負傷を負っていないものの即席爆発装置(IED)の影響で、外傷性脳損傷高次脳機能障害)で苦しむ帰還兵が増加、社会問題となった。アメリカ政府は、2009年に外傷性脳損傷の診断基準を変更した結果、2001年から2009年10月まで(アフガニスタンでの戦闘も含め)約14万人が受傷したとのデータを集計している<ref><米兵>外傷性脳損傷14万人。アフガン、イラク派遣の7%(2010年2月3日毎日新聞)</ref>。。

自衛官の死亡者

イラクに派遣された自衛隊は戦死者が一人も出ていないと公式に発表されている。ただし、イラクを含む海外派遣任務に就いた1万9700人の自衛官のうち35人が在職中に何らかの原因で死亡している。内訳は海上自衛隊員が20人、陸上自衛隊員が14人、航空自衛隊員が1人となっており、死因は事故・死因不明が12人、自殺が16人、病死が7人と発表されている<ref>衆議院議員照屋寛徳君提出イラク帰還自衛隊員の自殺に関する質問に対する答弁書 衆議院</ref>。「在職中」には任務から帰国して以降も含まれており、イラク国内で死亡した自衛官の数はわかっていない、また、武装勢力側は、複数名の自衛官殺害戦果を主張している。

民間人の犠牲者

戦闘終結後の民間人犠牲者総数の推計にはばらつきが多く、正確な数字はわかっていない。アメリカ軍は戦闘で殺害した武装勢力や、アメリカ兵の過誤(誤爆・誤射)で死亡したイラク民間人の数を公表していない(「数えていない」という発言がアメリカ軍上層部から出ている)。なお、報道を基にこれらを集計しているサイト"Iraq Body Count"の2007年11月30日付のデータによると、死亡者は約80,000-87,000人と集計されている。これはあくまでも報道された数に基づいた数値であり、正確な数値は判明していない。一刻も早い治安の回復が望まれているが、宗教的対立によるテロリズムは(暫定政府時点から)激化の一途を辿り、特に2006年7-8月には二ヶ月で6,500人の死者を出したと言われる。

Lancet Study による2004年10月の推計によると、兵士・民間人あわせて約98,000人という推計が出ている。ただし95%信頼区間が8,000人から194,000というもので大雑把な推計である。また、Lancetによれば死亡率増加の調査を基にした研究では、2006年6月時点でイラク戦争の死者は約655,000人になると推計された。ただし、あくまで死亡率増加からの推計であるため、直接の戦死とは直接結びつかない推計である。また、中華人民共和国の国務院が発表する「2007年アメリカ人権記録」によると、2003年以来のイラク民間人死亡数は66万人以上であるとされている。イギリスの世論調査会社・オピニオンリサーチビジネスが2007年9月14日に行った調査では、死者が最大で120万人を上回る可能性がある<ref>Poll: Civilian toll in Iraq may top 1Mロサンゼルス・タイムズ</ref>という結果が出されている。世界保健機関は2008年1月に推計で151,000人だとする調査結果を発表している。

多国籍軍の人的損害状況

アメリカ合衆国軍
年度戦死負傷者
2003年4862,416
2004年8498,004
2005年8465,946
2006年8226,411
2007年9026,103
2008年1601,098
  • 全参加国軍合わせて即席爆発装置(IED)による死者は1770名。その内米軍は1687名(約40%がIEDによる死者ということになる)

※2008年4月までの集計

その他の多国籍軍
戦死戦死
Template:GBR176Template:LVA3
Template:ITA33Template:ROM3
Template:POL23Template:AUS3
Template:UKR18Template:EST2
Template:BUL13Template:NED2
Template:ESP11Template:THA2
Template:DEN7Template:HUN1
Template:SLV5Template:KAZ1
Template:SVK4Template:KOR1
Template:GEO4Template:CZE1

※戦死者のみ2008年4月までの集計<ref>「陸戦研究」(陸戦学会)2008年8月号より</ref>

クルド人自治区の問題

イラク北部の都市キルクークには巨大な油田があるために、サッダーム・フセイン政権の下、トルコ人、クルド人が追い出された経緯を持つ。2003年4月の第2週頃、アメリカ軍のキルクークへの進攻に伴いイラク人は町を離れ、周辺都市からクルド人が来訪、略奪を繰り返すようになった。トルコは自国のクルド人が独立国家を設立しようとする可能性について懸念を抱いており、キルクークがクルド人自治区となること(ひいては原油関連事業の資金がクルド人の手に渡ること)に反対していた。アメリカ政府もトルコ政府のこの方針に賛成し、クルド人自治区はほとんど現状維持という形となった。

しかしながら、当然のこととしてクルド人の独立志向がそれで止むということにはならず、キルクークやモスルでペシュメルガによるアラブ人やトルクメン人、アッシリア人に対する民族浄化が多く報告される他、2006年9月にはクルド民主党党首であり、自治区議長を務めるマスード・バルザニが自治区でのイラク国旗使用を廃し、クルド旗の掲揚を命じる議長令を発布する等事実上の独立に向けた動きを加速させている。

こうした中、2007年3月末にはクルド人のキルクーク帰還と入植アラブ人の帰郷を進める法律にマリキ首相が署名した。

しかし、入植アラブ人の帰郷が強制的な追放ではなく当人の任意とされたことに同法案をキルクークのクルド自治区編入と、対アラブ人民族浄化の総仕上げと位置づけるクルド側は強く反発しており、またアラブ人側もシーア派主体の同市においてマフディー軍が躍進するなど強い抵抗の構えを見せている。

また、同市の民族紛争においてはアルカーイダを始めとするスンナ派の武装組織がマフディー軍に協力を与えているとの報道もあった。この様な民族間、宗派間の綱引きの結果、2008年現在未だにキルクークの帰属に関する投票は行われていない。

また後述するトルコとの緊張状態もあわせ、イラク政府も含めた『自治区全周の脅威に備えるため』としてPKK、PUK両党は一貫してペシュメルガの拡充を続けており、その総兵力は公称だけでも20万を超えるに至った。

一方で、民族としての単一性を高めることで治安・経済を安定させ、独自に海外からの投資も多く受け入れるクルド人自治区に安全と職を求めて自治区外からアラブ人の国内難民が流入する矛盾に満ちた状況も発生している。ただし、もともとの経済規模の小ささに加え、根強い反アラブ感情もありアラブ系難民にまともな仕事があてがわれることが少ないこともまた事実である。

トルコとの緊張状態

トルコは国内に多くのクルド人を抱えており、クルド人勢力のテロと分離独立の動きを警戒している。イラクからのクルド人勢力の越境テロもあり、アメリカとイラクに対して対応を求めているが、治安の悪化を恐れて積極的な対応はされていない。こうしたなか、トルコは国境地帯に軍を展開させたが、逆に国境地帯でクルド労働者党(PKK)がトルコへの攻撃を激化させた。2007年6月にはPKKが拠点とするイラク北部のクルド人自治区に対してトルコ軍が大規模な越境攻撃を実施したとの報道が流れたが、トルコ側は限定的な作戦だったとして否定した。

その後、10月7日(ハッキャリでの武力衝突 (2007年))にトルコ兵13人が死亡するPKKの攻撃があり、トルコではイラク北部への1年間の越境軍事活動を可能にする法案が可決された。しかし21日には再びPKKの攻撃によりトルコ兵17人が死亡、応戦でPKKの32人が死亡し緊張が高まった。<ref>Turkish soldiers killed by rebels, BBC 2007-10-07
U.S. urges restraint after Turkish soldiers killed in clashes with PKK, CNN 2007-10-21</ref>

イラク国境を挟んだ緊張状態はPKK及びトルコ軍航空部隊両者の数次に渡る越境攻撃を経て持続され、2008年2月21日、トルコ軍はついに2個旅団数千人規模の部隊をイラク北部へ越境進行させた。

これに対しPKKは激しく抵抗、クルド自治区もペシュメルガにトルコ軍との遭遇した場合には応戦するよう命じ、情勢は一触即発の事態にまで進展した。しかし、トルコ軍は結局アメリカ政府の強い圧力の下に初期の目的を果たせぬまま撤退を余儀なくされ、イラク政府は3月1日までにトルコ軍越境部隊の撤収を確認し、危機は一応の収束を迎えた。また、同軍の越境攻撃に関してはレジェップ・タイイップ・エルドアン首相は消極的であったとされるが、ケマル・アタテュルク以来の国是である政教分離を守ろうとする軍部と首相の所属政党でイスラム主義を標榜する公正発展党の内部から突き上げられ、両者との板ばさみになっている側面もある。

その他

開戦前の1月初旬、ナイト・リダー社の発表した世論調査結果によると、調査に応じたアメリカ人の内44%が、2001年9月11日の同時多発テロのハイジャック犯の一部または大半がイラク人だと考えていた。実際には、報道によれば大半がサウジアラビア人でイラク人は一人もいなかった。

ベトナム戦争同様、アメリカ軍の帰還兵やイラクに駐留するアメリカ兵の中には戦場での生々しい体験からPTSDに苦しむ者がいる。アメリカ軍はカウンセラーを従軍させるなどしているが、対策は難しいようである。

あるイラク紙の主張によれば、米軍によるイラク占領以来、全土に点在する監獄や強制収容所には大勢のイラク人女性が拘留されているとされる。その大半が政府の要員や占領軍兵士によって性的暴行を受けており、結果としてエイズなどが蔓延しているとする。また、強姦の被害を受けた女性が、一家の恥として家族の者の手によって殺されてしまうケースがあり、(大半が被害を受けているという主張にも拘らず)正確な被害者の数は把握されていないとする[3]。また、あるイスラム機関誌の主張によればイラクの民間組織である「イラク政治捕虜・受刑者連合」は、米軍はイラク抵抗勢力の士気を砕くための圧力カードとして、無実のイラク人女性捕虜に対して意図的、組織的な性的暴行、拷問、恥辱を加えている、と告発している[4]

また、この戦争中、並びに、ブッシュ政権による大規模戦闘の終結宣言後の一連の戦闘においても、米軍は、湾岸戦争ボスニア紛争コソボ紛争時など以上に、大量の劣化ウラン弾を使用したといわれている。陸上自衛隊が人道支援・戦後復興支援のために派遣され駐留したイラク南部のサマーワ近郊周辺からも、実際に、この戦争で米軍が使用したものと見られる劣化ウラン弾(複数)が発見されている。これら大量の劣化ウラン弾から漏れる放射線による癌患者の増加や奇形児が問題となっている。[5]開戦国以外の国々により、これらは比較的初期の段階で非難されていたが、米国内では教育の程度の低い中流階級以下の層ではほとんど知られていないのが現状である。

2010年1月26日イギリスのイラク戦争参戦問題を検証する独立調査委員会は、マイケル・ウッド外務省元主席法律顧問を喚問した公聴会で、同顧問が「2003年3月の対イラク武力行使は国際法違反と考えていた」と述べた文書を公表した。この文書中で「武力行使は国連安保理によって認められておらず、他の法律根拠もなかった」と同法律顧問は延べ、イラクに武装解除を求める安保理決議1441を武力行使の根拠とする主張を退けた。同法律顧問は開戦前の2003年1月にその見解をストロー外相に伝えたところ「独断的だ」と退けられたと証言した。<ref>「イラク戦争は国際法違反」=当時の英政府法律顧問-調査委公聴会 2010年1月27日 時事通信</ref>

2010年1月29日、2003年のイラク侵攻を決めたブレア前首相は、イギリスのイラク戦争参戦問題を検証する独立調査委員会の公聴会で証言した。調査委員ではチルコット委員長と5人の委員が6時間にわたり喚問した。彼は「サッダーム・フセインの脅威」を強調して、イラク侵攻によるフセイン政権打倒を正当化し、「後悔していない」と述べた。また、当時と同じ条件なら再びイラク侵攻をするだろうとも述べた。さらに、2007年までのイラクの民間人死者数増大に関して、全体で10万という数字を示して、「殺したのは連合軍ではなくテロリストだ」と占領軍の責任を回避した。そして、イラクが兵器製造能力を高めていたと証言した。<ref>ブレア英前首相の証言に衝撃、英各紙が論評 イラク参戦調査委公聴会 2010年01月30日 発信地:ロンドン/英国 AFP</ref>

「テロ支援国」への影響

リビアは、2003年12月元首カッザフィー大佐が大量破壊兵器の放棄を宣言した。この行動はイラク戦争後に自国が標的にされる可能性があったためであると解釈する論説と、カッザーフィーがアフリカ連合へと活動の主軸を移した事による大量破壊兵器の必要性低下と偶然に時期が合致しただけだとの論説があるTemplate:誰

リビアについて、アメリカは放棄の見返りにリビアをテロ支援国家リストから外し、経済制裁も解除した。 北朝鮮金正日総書記は、開戦直前から約60日間テレビなどの前から一切姿を消した。これはアメリカの精密誘導兵器がどのようなものかをテレビを通じて分析をしていたものと見られる。

イラクと周辺国への部隊派遣国・参戦国

人員は時期によって変動があるため、最大時期のおよその数を示す。イラクのほかクウェートサウジアラビアバーレーンにも駐留している。東欧旧ソ連諸国からの派遣がある一方、湾岸戦争に参戦したアラブ連盟諸国は派遣しなかった。

2007年12月、国連安保理は駐留にイラク政府の同意を要すると定めた2004年の決議1546に基づき、多国籍軍の駐留を2008年一杯とする決議を採択した。この決議によりアメリカ軍以外の各国駐留軍は2008年度で撤退した。

アメリカ政府とイラク政府はアメリカ軍の駐留期限を2011年に延長する2国間協定を締結し、2009年1月に就任したバラク・オバマ大統領は、2010年8月までにアメリカ軍の戦闘部隊9万人を撤退させ、イラク軍の育成のために残留する5万人は2011年12月までに全軍撤退を完了させると表明した。

航空自衛隊の関与

名古屋高等裁判所は2008年4月17日、航空自衛隊のイラクにおける空輸活動について「自らも武力を行使した」と断じ、憲法違反であるとする司法判断を含む判決を下した(翌月5月3日、同判決は確定)。<ref>愛知県弁護会「名古屋高等裁判所違憲判決に関する会長声明」[6]</ref>(自衛隊イラク派遣も参照)。 防衛省が情報公開法に基づいて開示した「週間空輸実績」と称する内部資料によれば、派遣期間中の輸送人員は延べ28,000人であり、うち7割はアメリカ軍兵士であることが2009年10月6日に判明している。

出典

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関連項目

外部リンク

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