アルベルト・アインシュタイン

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アルベルト・アインシュタインAlbert Einstein1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれのユダヤ人理論物理学者

目次

概説

特殊相対性理論及び一般相対性理論、相対性宇宙論ブラウン運動の起源を説明する揺動散逸定理光子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式ボーズ=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績により、20世紀最大の物理学者とも、現代物理学の父とも呼ばれる。特に彼の特殊相対性理論と一般相対性理論が有名だが、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年ノーベル物理学賞を受賞した。

従弟に音楽学者モーツァルト研究者のアルフレート・アインシュタインがいる。数多くの業績のほか、特異な風貌とユーモアあふれる言動によって、専門分野を超え世界中に広くその存在が認知されており、しばしば天才の例としてひきあいに出される。1999年、アメリカのニュース週刊誌『TIME』は、アルベルトを『パーソン・オブ・ザ・センチュリー』(20世紀の人)に選出した。

表記

日本語における表記には、以下のようなものがある(表記のゆれの部分を太字で表す)。

  • 「アルベルト・アインシュタイン」(ドイツ語の日本語表記の慣例由来)
  • 「アルバート・アインシュタイン」(現代ドイツ語の発音由来)
  • 「アルバート・アインタイン<ref>綴りは英語のネイティブ・スピーカーにとっては記述が難しく、映画『Brubaker』において事務職を求める囚人に対し看守が「Einstein」を正しく綴れるかをリテラシーのテストとして用いるシーンがある。しかし、ドイツ語の単語の ein(英語の a や an に相当)はアインと発音され、Stein(英語の stone に相当)はシュタインと発音されるので、ドイツ語のネイティブ・スピーカーにとっては難しくない。</ref>」(英語の発音由来)

業績

1905年特殊相対性理論を発表。20世紀に於ける物理学史上の2大革命として量子力学及び相対性理論が挙げられるが、以前から論理的に展開されていた相対性原理(アンリ・ポアンカレジョゼフ・ラーモアヘンドリック・ローレンツなど)をもとに、ニュートン力学マクスウェルの方程式基礎とする物理学の体系を根本から再構成した。特殊相対性理論では、質量長さ、同時性といった概念は、観測者のいる慣性系によって異なる相対的なものであり、唯一不変なものは光速度cのみであるとした。

特殊相対性理論重力場のない状態での慣性系を取り扱った理論であるが、1915年-1916年には、加速度運動重力を取り込んだ一般相対性理論を発表した。一般相対性理論では重力場による時空の歪みをリーマン幾何学を用いて記述している。
さらに後半生の30年近くを重力電磁気力を統合する統一場理論を構築しようと心血を注いだが、死により未完に終わっている。

一般相対性理論の解として、宇宙膨張または収縮をしているという結論が得られる。アインシュタインは重力による影響を相殺するような宇宙項Λを場の方程式に導入することで、静的な宇宙が得られるようにした。しかし、エドウィン・ハッブルによって、宇宙の膨張が発見されたため、アインシュタインは宇宙項を撤回した。後に宇宙項の導入を「生涯最大の失敗」と述べている。しかし、宇宙望遠鏡による超新星赤方偏移の観測結果などから、宇宙の膨張が加速しているという結論が得られており、この加速の要因として、宇宙項の存在が再び注目されている。

光量子仮説によって光電効果の理論的な説明付けを行うなど、初期量子論の確立に多大な貢献をした。しかし、量子が確率論的に振舞うとする量子力学自体については、アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」(1926年12月にマックス・ボルンへの手紙にある記述、"Der Alte würfelt nicht.")<ref>マックス・ボルン宛の1926年12月4日付の手紙
原文:Die Quantenmechanik ist sehr achtunggebietend. Aber eine innere Stimme sagt mir, daß das noch nicht der wahre Jakob ist. Die Theorie liefert viel, aber dem Geheimnis des Alten bringt sie uns kaum näher. Jedenfalls bin ich überzeugt, daß der Alte nicht würfelt.
(訳:量子力学にはとても尊敬の念を抱いています。しかし内なる声が私に、その理論はまだ完璧ではないと言っています。量子力学はとても有益なものではありますが、神の秘密にはほとんど迫っていません。少なくとも私には、神はサイコロを振らないという確信があるのです。)</ref>と懐疑的な立場をとった。アインシュタインの提示した反論の一つがアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスである。量子力学の矛盾点として提示されたものであったが、後に「量子テレポーテーション」として確認され、量子通信などの新たな技術の基礎として注目されている。

その他、ブラウン運動の理論の構築、固体における比熱の理論である「アインシュタインモデル」の提唱、ボース=アインシュタイン凝縮の予言など、物理学の全領域に渉り多大な業績をあげている。

生涯

  • 1879年3月14日 - ドイツウルム市にて、父親ヘルマン・アインシュタインHermann Einsteinと母親パウリーネ・コッホPauline Kochとの間にユダヤ系の長男として生まれる。
  • 1880年1894年 - ミュンヘンに居住。
    • 5歳頃まであまり言葉を話さなかったと伝えられる。そのことで、単なる記号処理的な頭脳の働きでなく、全体を把握する能力を養ったという意見もある。5歳のときに父親からもらった方位磁石が、自然界の仕組みに対する興味をもたらすきっかけとなった。また、6歳頃にはヴァイオリンを習い始めた。
    • ミュンヘンにあるカトリック系の公立学校へ通うものの、学校の校風になじむ事は出来なかった。卒業後はミュンヘンのルイトポルト・ギムナジウムLuitpold Gymnasiumに入学。しかし、やはり軍国主義的で重苦しい学校の校風になじめなかった。
    • 9歳の時にピタゴラスの定理の存在を知り、その定理の美しい証明を寝る間も惜しんで考え、そして自力で定理を証明した。
    • 12歳のときユークリッド幾何学の本をもらい独習。微分学と積分学も、この当時に独学で習得したといわれている。
  • 1894年 - 15歳の時、父親が事業に失敗したために一家はイタリアミラノに引っ越すが、ギムナジウムを卒業する必要からアインシュタインはミュンヘンに残される事になる。しかし軍国主義的な教育を嫌い、結局学校を中退し一家を追ってイタリアへやってきた。
  • 1895年 - スイスのチューリッヒ連邦工科大学を受験するも失敗。しかしアーラウギムナジウムAlte Kantonsschule Aarauに通う事を条件に、来年度の入学資格を得られる事になった。アーラウの学校の校風はある程度自由が保障されており、さらにこの学校は視覚教育に力を入れていた。言語に障害があったアインシュタインに、この視覚教育はよく合っていた。そして、昔培った視覚能力をそのアーラウでさらに高めた。それがのちの研究者としての人生に大きく関わることになる。
    • なお、この頃には兵役義務を逃れるためにドイツ国籍を放棄している。これにより、以後スイス国籍を取得するまで無国籍となった。
  • 1896年 - ギムナジウムを卒業。チューリッヒ連邦工科大学への入学を許可される。大学では自由な気風と数人の学友、そしてミレーバ・マリッチMileva Marićという女学生と出会う。チューリッヒ連邦工科大学は女性に門戸を開いていた当時の数少ない大学のひとつであった。アインシュタインは大学の講義にはあまり出席せず、自分の興味ある分野だけに熱中し、物理の実験は最低の「1」、電気技術では優秀な「6」の成績をとっている。
  • 1900年 - チューリッヒ連邦工科大学を卒業したが、大学の物理学部長ハインリッヒ・ウェーバーHeinrich Friedrich Weberと不仲であったために、大学の助手になれなかった。臨時の代理教員や家庭教師アルバイトで収入を得ていた。
  • 1901年 - スイス国籍を取得。スイスもまた兵役義務を課していたが、アインシュタインは扁平足静脈瘤等の診断からこれを免除される(偏平足は行軍等に支障をきたすとされる)。
  • 1902年 - 友人のマルセル・グロスマンの父親の口利きでベルンの、スイス特許庁に3級技術専門職(審査官)として就職した。年俸は3,500スイス・フランであった。この頃、モーリス・ソロヴィーヌMaurice Solovine、コンラット・ハビヒトConrad Habichtらと「アカデミーオリンピアAkademie Olympia」を設立した。その他、父親ヘルマンが死去。
  • 1903年 - 1月6日にミレーバと結婚。翌年には長男ハンスを授かる。
  • 1905年 - 博士号を取得すべく「特殊相対性理論」に関連する論文を書き上げ、大学に提出した。しかし内容が大学側に受け入れられなかったため、急遽代わりに「分子の大きさの新しい決定法」という論文を提出し、受理されている。この論文は「ブラウン運動の理論」に発展した。この年は「奇跡の年」として知られている。アインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関連する5つの重要な論文を立て続けに発表した。無名の特許局員が提唱した「特殊相対性理論」は当初、周囲の理解を得られなかったが、マックス・プランクの支持を得たことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。
  • 1906年 - 2級技術専門職への昇進。年俸も4500スイス・フランへと昇給されたという。
  • 1907年 - 有名な式E=mc²を発表している。この年には、箱の中の観測者は、自らにかかる力が慣性力なのか重力なのか区別ができないという、後の一般相対論の基礎となるアイディア(等価原理)を思いつく。アインシュタインはこれを、生涯最良の名案であると述べている。

[[ファイル:Einstein 1911 Solvay.jpg|200px|frame|1911年のソルベー会議でのアインシュタイン]]

  • 1909年 - 特許局に辞表を提出。チューリッヒ大学助教授となる。この年には彼の生涯で初となる名誉博士号がジュネーヴ大学より授与されている。
  • 1910年 - プラハ大学教授となる。次男エドゥアルトEduard誕生。
  • 1912年 - 母校、チューリッヒ連邦工科大学の教授に就任(その契約は妻ミレーバが行ったとされる)。アインシュタインは僅か1年で再びチューリッヒに戻る事になるのだが、これによりプラハ大学では彼と大学との間に問題が生じたのではないかとの噂が生じてしまう。彼はプラハ大学学長宛てに礼状を書き、これを否定したという。
  • 1913年 - プロシャ・アカデミーPreußische Akademie der Wissenschaftenの会員となる。アインシュタインはベルリンに移住する事になるが、彼とは不仲の状態にあったミレーバは子供を連れて再びチューリッヒに戻ってしまい、別居状態となる。
  • 1916年 - 一般相対性理論を発表。この理論には星の重力によりが曲げられるという予言も含まれていた(これは後に実証される)。
  • 1917年 - 肝臓病黄疸といったいくつかの病がアインシュタインを襲う。数年間の間、いとこのエルザ・レーベンタールElsa Löwenthalが彼の看病にあたる。
  • 1919年 - 皆既日食において、太陽重力場で光が曲げられる(いわゆる、重力レンズ効果)事がアーサー・エディントンの観測により確認され、これが証明となって一般相対性理論は物理学理論としての不動の地位を得る。この事は世界のマスコミにも取り上げられ、これによってアインシュタインの名は世界的に有名となるが、一方で彼がユダヤ人であるとの理由からドイツ国内における彼と相対性理論に対する風当たりは強かった。なお、この年の2月にミレーバと離婚し、6月にはエルザと再婚している。
  • 1921年 - カイム・ワイズマンの提案により、エルサレムに創立予定のヘブライ大学の建設資金を集める為にアメリカを訪問し、その帰りにはイギリスも訪問した(ここではニュートンの墓を訪ねた)。
  • 1922年 - 3月フランスを訪れた他、10月には日本への訪問を目的に夫婦で客船「北野丸」に乗船。11月17日に訪日したアインシュタインは、その後43日間滞在している(#アインシュタインと日本参照)。
    • また、日本へ向かう最中、11月9日にアインシュタインは前年度に保留されていた1921年度のノーベル物理学賞受賞の知らせを受けている。受賞理由は「光電効果の発見」によるものであった。当時、アインシュタインが構築した相対性理論について「人類に大きな利益をもたらす様な研究と言えるのかと言えば疑問」との声、更には「ユダヤ的」であるとするフィリップ・レーナルト或は、ヨハネス・シュタルクなどノーベル物理学賞受賞者らの批判があった。ノーベル賞委員会は、これらの批判を避けるために、光電効果を受賞理由に挙げたと言われている。なお、受賞に際して賞金も授与されたが、これはかつての妻ミレーバに渡したとされる。
  • 1923年 - 日本を出国した後、エルサレム、スペインを訪問しドイツへと戻る。
    • 7月11日にスウェーデンのヨーテボリでノーベル賞受賞の講演をおこなっている。
  • 1925年 - インドの物理学者サティエンドラ・ボースからの手紙をきっかけとして、ボース=アインシュタイン凝縮の存在を予言する論文を発表。また、この時期に行っていた誘導放出の研究が、後のレーザーの開発につながっている。
  • 1929年 - ベルギー王家を訪問。ベルギー王妃エリザベートと親交を交わす。
  • 1930年 - ベルリン郊外、カプートCaputhという町に別荘を建てる。
  • 1932年 - アメリカへ3度目の訪問をすべくドイツを発つ。しかし、翌年にはドイツでヒトラー率いるナチス政権を獲得。以後ユダヤ人への迫害が日増しに激しくなっていったため、アインシュタインがドイツに戻ることはなかった。
  • 1933年 - ベルギー王妃の厚意により、ベルギーの港町デ・ハーンDe Haan(フランス語名ル・コック・シュル・メールLe Coq-sur-Mer)に一時身を置く。しかしこの町はドイツとの国境に近かったため、ナチスの手が及ぶのを恐れたアインシュタインはイギリス、スイスへの旅行の後、再度イギリスへと渡る。その後アメリカへと渡り、プリンストン高等学術研究所の教授に就任。また、プロシャ・アカデミーを辞任。
    • なお、この年にはアインシュタインの別荘をナチスが強制的に家宅捜索している。その後、ナチスはアインシュタインを国家反逆者とした。
  • 1935年 - ボリス・ポドリスキーネイサン・ローゼンと共にアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスを発表する(量子力学相対性理論の矛盾)。また、アメリカでの永住権を申請、取得する。アメリカ国籍も申請。
  • 1936年 - ローゼンと共にワームホール(アインシュタイン・ローゼン橋)の概念を発表する。この年に妻のエルザが死去。
  • 1939年 - 当時のアメリカ合衆国大統領であったフランクリン・ルーズベルト宛ての、原子力とその軍事利用の可能性に触れた手紙に署名。その手紙は「確信は持てませんが、非常に強大な新型の爆弾が作られることが、十分に考えられます。この爆弾1つだけでも、船で運んで爆発させれば、港全体ばかりかその周辺部も壊すことができるほどの威力を持っています。」という内容だった。
  • 1940年 - アメリカ国籍を取得。
  • 1943年 - アメリカ海軍省兵器局の顧問に就任。魚雷の起爆装置の改善に尽力<ref>魚雷の改良とアインシュタイン</ref>。
  • 1945年 - 第二次世界大戦終結。アメリカは戦勝国となったが、アインシュタインは「我々は戦いには勝利したが、平和まで勝ち取った訳ではない」と演説する(ちなみに、ある日本人の記者が後にアインシュタインを訪ねた際、彼は記者に「敗戦国である日本には大変深く同情する。しかし戦勝国もまた苦しい道を歩いている」と述べた事があるという)Template:要出典
  • 1946年 - 原子科学者緊急委員会議長の役目を引き受ける。また、国連総会に世界政府樹立を提唱する手紙を送る。
  • 1948年 - イスラエル建国。アインシュタインはハンナ・アーレントらユダヤ系知識人と連名で、訪米中のメナヘム・ベギンとその政党ヘルートHerutをファシストと呼び、イスラエルのデイル・ヤシンの虐殺事件などのテロ行為を非難する書簡をニューヨーク・タイムズ紙上に発表する。なおこの頃、アインシュタインの腹部大動脈に大きな動脈瘤が存在する事が手術の結果判明する。
  • 1952年 - イスラエル初代大統領ハイム・ヴァイツマンが死去したため、イスラエル政府はアインシュタインに対して第2代大統領への就任を要請したが、彼はこれを辞退している。
  • 1955年 - 4月11日哲学者バートランド・ラッセルとともに核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える内容のラッセル=アインシュタイン宣言に署名する。4月13日、建国7周年を迎えるイスラエルと同国国民へ寄せるラジオ放送に関する打ち合わせ後、心臓付近の痛みに倒れる(腹部動脈瘤の破裂)。4月15日にプリンストン病院に入院し、周囲から手術を勧められるもこれを拒否。入院中の間、駆けつけた長男ハンスと面会した他、病院でも研究を続けるべく秘書に電話を掛け、必要な用具を持って来るよう伝えてもいる。そして4月18日の午前1時過ぎ、アインシュタインは76歳の生涯を終える。彼は死の間際にドイツ語で最後の言葉を遺したが、その場にいた看護師がドイツ語を理解できなかったため、彼が最後に何を言っていたのか、その内容については不明。アインシュタインの死後、同年7月9日には彼が生前に署名したラッセル=アインシュタイン宣言が発表された他、12月17日にはプリンストンで彼を偲ぶコンサートが開かれ、モーツァルトピアノ協奏曲第26番バッハカンカータ第106番などの曲目が演奏された。

平和活動

[[ファイル:Declaration of Intention for Albert Einstein.gif|200px||thumb|アインシュタインが提出したアメリカ合衆国帰化申請書]] 科学的業績によって得た世界的名声を背景に、アインシュタインは様々な政治的発言を行っている。第一次世界大戦中は平和主義を掲げ、戦争を公然と批判した。「2%の人間が兵役拒否すれば、政府は戦争を継続できない。なぜか、政府は兵役対象者の2%の人数を収容する刑務所を保有していないんだ。」と発言し、反戦運動に影響を与えた。しかし、第二次世界大戦の際は、一転して戦争を正当化し、「最早、兵役拒否は許されない」と発言<ref>この発言については彼の有名な言葉の一つである
「生きるには二つの方法しかない。何事も奇跡ではないかのように生きるか、あらゆることが奇跡であるかのように生きるかだ」
が示すように、平和と戦争の両方に深く重く関わった彼だからこそ言える発言であるという声もある。</ref>し、同時代人の文学者ロマン・ロランから後に痛烈に批判されている。また、ユダヤ人である彼は、ユダヤ人国家建設運動であるシオニズムを支援した。このためナチス・ドイツから迫害を受け、アメリカに亡命している。

一部には「アインシュタインが原子爆弾の理論を発見した」あるいは「アインシュタインが原子爆弾の開発者」という思いこみも存在するが<ref>日本で有名な反戦・反核漫画はだしのゲン」において、マンハッタン計画のメンバーにアインシュタインそっくりの人物が描かれている。</ref>、これは誤解である。質量とエネルギーの関係式:E=mc²は、あらゆるエネルギーについて成り立つ式であり、特に原子力に関係した公式ではない<ref>核分裂反応の観測によって実証された事から、このような誤解が流布されているが、実際の所はすべてのエネルギー発生の現象において成り立つ公式である。</ref>。 また、アインシュタインは原子爆弾製造に関しては一切関与していない。

しかしながら、レオ・シラードの勧めにより当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト宛への手紙(写真)に署名したことは事実であり、その手紙の内容は以下のようなものであった。

  • 近い将来にウラン元素が新たに重要なエネルギー源になると予想されること。
    • フランスのジョリオ=キュリーならびにアメリカのフェルミとシラードの研究により、大量のウラン中で連鎖核反応を起こすことができるようになる可能性がきわめて高い、ということ。
    • その連鎖核反応においては、莫大なエネルギーとラジウムに似た新種の元素が大量に作り出されるであろうこと。
  • この研究が進めば爆弾の製造にも応用され、新しいタイプのきわめて強力な爆弾が作られるということにもなるかもしれないこと。
    • その爆弾は巨大なものになり、飛行機による爆撃は不可能と思われるものの、船によって輸送して爆発させた際には港湾施設等を広域にわたって破壊しうるということ。
  • ウランのもっとも重要な産地であるベルギー領コンゴなど含め、合衆国へのウラン鉱石の供給を確保することに特に関心を寄せること。
  • 政府と物理学者たちとの間に恒常的な接触をもたせるべきである、ということ。具体的には、大統領への以下の提案を含む。
    • 政府の省庁を通じて、さらなる開発のための周知徹底を図り、またウランの供給の実現に注意を向けさせるための政府行動を起こすよう勧告を行うこと。
    • 寄付を惜しまない私人への接触を通じて基金を設立し、また必要な装置をもっている企業研究所の協力を取り付けることによって、開発を促進すること。
  • ドイツがウランの販売を停止したことは、ウランの研究がカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーを中心として国家単位で行われていることを意味する、ということ。

この手紙はシラードが接触を図っていたアレクサンダー・ザックスAlexander Sachsを介して、1939年10月にフランクリン・ルーズベルトに渡された。その結果、ルーズベルトによりウラン諮問委員会が作られ、アインシュタインの提言が検討されることになり、黒鉛・天然ウラン原子炉の研究についての資金援助が決定した。ただし、「原子爆弾については、はっきりしないことが多すぎた」ため、原爆開発は見送られた。

しかし、2年後の1941年秋にはアメリカで原子爆弾の開発・製造が開始した(マンハッタン計画)。これは41年夏以降、イギリスの科学者たちによる「原爆製造は可能である」とする検討結果がアメリカに伝わるようになったためとされる。 このとき、アインシュタイン自身はマンハッタン計画への協力を求められることはなかった。 国防研究委員会の議長であったヴァネヴァー・ブッシュはその理由について、アインシュタインの過去の平和主義やシオニズムの政治的傾向からみて彼は機密を守れない可能性があったとしている。

250px|thumb|アインシュタインとオッペンハイマー

アインシュタインの死後、バートランド・ラッセルラッセル・アインシュタイン宣言を発表しパグウォッシュ会議を創設。また世界連邦の樹立を提唱するなど、多くの平和的言動を残した。

人物像

  • 小心者で、生真面目な性格であったが、気さくな一面もあった。
  • 彼は常に発明はユニークな発想と考えており、自身を天才であるとはいささかも思っていなかったという。それは彼の「私は天才ではない。ただ人よりも長く一つのことと付き合っていただけだ」との言葉にも表れている。
  • ヴァイオリン演奏を好み、公の場でもしばしば演奏した。しかしピアニストで友人のアルトゥール・シュナーベルとアンサンブルを行った際、何度も拍の勘定を間違えるため、シュナーベルから「君は数も数えられないのか」と呆れられたという。また「ヴァイオリンの名手であった」という風評が一般的であるが、当時の高名なヴァイオリニストからは「relatively good」(直訳は"比較的良い"だが、意訳として相対性理論 (Theory of Relativety) とかけているため"相対的に良い"とも訳せる)と評価されている。
  • 当時の靴下はすぐに破れてしまうため嫌いで、常に靴を素足のまま履いていたという。
  • 睡眠時間は1日10時間だったという。
  • 非常に面倒くさがりであったとされる。洗濯石鹸で顔を洗い、雑巾で顔を拭い、灰皿に食事を盛り付けるという行動もあったといわれている。なお、服装に気をつかってはどうかと言われた際、「肉を買った時に包み紙の方が立派だったらわびしくはないか」とやりかえした事があるという。
  • 最初の妻だったミレーバとの間に息子が二人。長男のハンスはカリフォルニア大学バークレー校流体力学関係の教授を勤めた。二男のエドゥアルトは医学生時代に統合失調症を発し、生涯回復せず、精神病院で亡くなった。後年公開された資料では、ミレーバとの破局はアインシュタインの家庭内暴力が一因であり、病気を患った息子に対しても非常に冷淡な態度を取り続けたことが公表されている。なお、再婚相手であるエルザには前夫との間に娘が2人いたが、再婚に伴い彼女たちもアインシュタイン姓を名乗ることとなった。
  • ミレーバとは1919年に離婚するが、その離婚の条件はノーベル賞を取ってその賞金を譲るというもの。業績から考えて受賞することは確定とみなされていた。2年後に受賞し賞金を譲っている。
  • 人前ではめったに笑顔を見せた事がなかったと言われている。しかし、自身がを出している最も有名な写真は、1951年3月14日、アインシュタインが72歳の誕生日に、INS通信社カメラマンだったアーサー・サスの「笑ってください」というリクエストに危うく応えそうになってしまい、とっさにそれを隠そうとした表情を撮ったものである。しかしその写真はアインシュタイン本人もお気に入りで、9枚焼き増しを頼んだほどである。この写真は、1951年度のニューヨーク新聞写真家賞のグランプリを受賞した。また切手にもなった。 
  • ノーベル賞受賞後ニューヨークである少女に数学を教えていたことがあった。少女の母親が、娘の家庭教師がアインシュタインと知って、慌てて彼の元を訪れたが、そのとき彼は「私が彼女に教える以上のことを、私は彼女から教わっているのだから、礼には及びません」と返答した。
  • 一般に左利きであると言われているが矯正した事実はなく、彼自身、ペンや万年筆は右で持った<ref>「アインシュタインは語る」(著者:Alice Calaprice著、翻訳:林一、大月書店)</ref>。
  • 1924年、ルイ・ド・ブロイがソルボンヌ大学の博士論文を提出したとき、教授陣は誰もその論文を理解できなかった。教授の一人がアインシュタインにセカンドオピニオンを求めたところ「この青年は博士号よりノーベル賞を受けるに値する。」との返答を得た。その5年後にルイは本当にノーベル賞を受賞した。<ref>「対称性」第10章 レオン・レーダーマン、クリストファー・ヒル著 翻訳 小林茂樹 白揚社 ISBN 978-4-8269-0144-4</ref>

thumb|225px|Oren J. Turnerによる写真1947年

  • 小学生のようにスペルを間違えることがままあったという。また、「R」の大文字を生涯鏡字で書き続けた。
  • 簡単な数字や記号を記憶することが苦手だったとされる。ある新聞社のインタビューの中で、光速度の数値を答えられず、記者から揶揄されると「本やノートに書いてあることをどうして憶えておかなければならないのかね?」とやりかえしたという。
  • 彼は手紙好きであり、有名になってからも一万通以上も手紙をやり取りしていたらしい。
  • 次のような言葉を残している。
    • 例えば人間の性質に触れて、
      「人間の邪悪な心を変えるよりはプルトニウムの性質を変えるほうが易しい」
      「無限なものは二つある。宇宙と、人間の愚かさの二つだが、前者については断言できない」
    等のフレーズを残している。
    • その一方で「人間性について絶望してはならない。なぜなら我々は人間なのだから」とも述べている。
    • また、自身が構築した相対性理論に関しては、「熱いストーブの上に一分間手を当ててみて下さい、まるで一時間位に感じられる。では可愛い女の子と一緒に一時間座っているとどうだろう、まるで一分間ぐらいにしか感じられない。それが相対性です」とのユニークな言葉を残している。
  • 大きな鼻・ボサボサの白髪頭に口髭と云う個性的な風貌は非常に印象的であり、日本漫画アニメに出て来る『博士』の風貌(『鉄腕アトム』のお茶の水博士や『名探偵コナン』の阿笠博士ロックマンシリーズで同名のアルバート・W・ワイリー等)は、なぜかアインシュタインの姿を真似ていることが多い。ハリウッド映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でクリストファー・ロイド演じるエメット・ブラウン博士そのイメージはアインシュタインの影響を強く受けていると考えられる。ここからも、アインシュタインがいかに有名な学者であるかが理解できる。
  • 大の親日家である。改造社の招待で来日したアインシュタインは公演の合間に日本を観光。そして特に気に入ったものは「新橋橋善」の天ぷら弁当。そこに添えられていた「新橋玉木屋」の昆布の佃煮であった。
  • 日本のお辞儀という文化にもいたく感動した。

逸話

アインシュタインの遺体解剖を行った解剖学者は、脳を自宅に持ち帰り40年間も手元に置き、スライスした切片を求めに応じて知人に配布した。だが晩年彼は脳の残りをアインシュタインの孫娘に返却している。<ref>Douglas Fields, 2004 The other half of the brain, American, 290, 55-61</ref>

語録

  • 「知性とは、方法や手段に対して鋭い鑑識眼を持っているが、目的や価値に対して盲目である」
  • 「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことだ」
  • 「何かを学ぶのに、自分自身で経験する以上に良い方法はない」
  • 「悪に感化される人が居る事よりも、悪を看過する人が居る事の方が危ない」
  • 「学校で学んだことを、すべてを忘却してもなお残っているもの。それが、教育である」
  • 「我々の進もうとする道が正しいかどうか、神は前もって教えてはくれない」
  • 「私は、理詰めで考えて新しいことを発見したことはない」
  • 「空想は、知識よりも重要である。知識には限界があるが、空想は世界すら包み込む」
  • 「調べられるものを、いちいち覚えておく必要などない」
  • 第三次世界大戦がどのような戦いになるのかなんて、私には分からない。しかし、第四次大戦なら分かる。石と棒で戦うだろう」
  • 「普通と言われる人生を送る人間なんて、一人としていやしない。いたらぜひ、お目にかかりたいものだ」
  • 「いつだって、偉大な先人達は凡人達の熾烈な抵抗に遭ってきた」
  • 「間違いを犯したことのない人とは、何も新しいことをしていない人だ」
  • 「我々という言葉に疑問を感じる。誰も隣の人間と同じではない」
  • 「私は未来について考えたことがない。すぐに来てしまうのだから」
  • 「無限なものは2つ存在する。それは宇宙と、人間の愚かさだ。しかし、前者については断言できない」
  • 「物事は全て、出来る限り単純にすべきだ」

アインシュタインと日本

都市、大学名や肩書きなどの名称は当時のもの。現在の名称はリンク先参照

1912年明治45年)、東北帝国大学初代総長・澤柳政太郎が、ドイツミュンヘンに留学中の石原純(東北帝国大学理科大学理論物理学助教授)宛てに手紙を出し、年俸1万5000マルク(約7500円)、3年の任期で、アインシュタイン博士(チューリッヒ工科大学教授)を新設された東北帝国大学理科大学の教授として招聘できないか打診したが、実現しなかった<ref>東北大学百年史編纂室ニュース</ref>。

1922年大正11年)、改造社の社長山本実彦は、東北帝国大学の教授となっていた石原純、および、京都帝国大学哲学教授・西田幾多郎のすすめによって、すでに同出版社が招致したバートランド・ラッセルマーガレット・サンガーに次ぐ「革命的人士」として、アインシュタインを妻エルザとともに日本に招待した。これは、講演収入と同出版社の招待者特集本の売上増を見込んだものでもあったが、当時のドイツユダヤ人迫害、日本は大正デモクラシーの時期であり、社会的にも大きな意味を持った。ただし、アインシュタイン博士は、ラフカディオ・ハーンが記した美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、科学の世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことが来日の目的であると語っている。

10月8日日本郵船北野丸」でフランス南部・地中海に面したマルセイユを出港。11月10日香港上海の途上)、スウェーデン科学アカデミーが、アインシュタインに1921年度ノーベル物理学賞光電効果の法則等について。相対性理論についてではない)を授与することを発表し、船上でこの電報を受けた(1922年度の同賞受賞者・ニールス・ボーアと同時発表。授賞式典には参加できず、受賞者講演は1923年7月に行った)。このニュースは日本国内にも伝えられ、結果、日本各地で更なる歓待を受けることとなった。13日午前11時、上海入港。14日朝、神戸に向かって上海を出港した。

11月17日16:00過ぎに神戸港に到着。出迎えたのは、改造社の山本実彦夫妻、そして、東京帝国大学教授の長岡半太郎、東北帝国大学元教授(女性問題で既に辞職)の石原純と教授の愛知敬一九州帝国大学教授の桑木彧雄(石原と愛知は長岡の弟子。石原と桑木はアインシュタインとスイスにて面識あり)。集まった歓迎の群集や新聞記者の様子を見て、当時のドイツ大使館は「凱旋行進のようだ」と本国に報告している。17:00三宮駅発の汽車京都に向かい、その夜は京都の都ホテルに宿泊した。翌日、9:15発の特急東京に向い、19:20東京駅着。駅には歓迎の群集が押し寄せ、投宿する帝国ホテルに到着するのに相当の時間が必要だったと記録されている。

一般講演は入場料3円(オペラの上等席に匹敵)で、休憩を挟んで4-5時間程度。講演回数は6回の予定だったが、結局、東京市2回と仙台市名古屋市京都市大阪市神戸市福岡市で各1回の計8回行われ、14000名ほどの聴衆を集めた。講演の通訳は、東北帝大元教授で、助教授時代にアインシュタインのもとに留学した石原純。東京帝大での学術講義では、全国から集まった学者・学生120名が聴き入った。

※当時の六大都市人口順):東京大阪神戸京都名古屋・横浜
※当時存在していた帝国大学設立順):東京京都東北九州・北海道

講演の合間を縫って、浅草、松島、日光、熱田、京都、奈良、宮島などを観光し、歌舞伎も堪能した。26日に離日の予定だったが、船舶の都合で滞在が3日延びたため、門司三井倶楽部に滞在した。12月29日午後3時、日本郵船「榛名丸」で門司港よりパレスチナに向けて出航・離日。

  • 1922年の来日の際人力車に乗ることを薦められたが、非人道的な奴隷労働と解釈し、乗車を拒否したことがある<ref>人力車の歴史</ref>。
  • 広島の平和活動家谷本清牧師と彼の自宅にて面会した際に、多少なりとも原子爆弾開発を後押しした行為を行ってしまったことを悔やみ謝罪したと言われ、またノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹と面会した際にも、同様の理由で涙ながらに謝罪したと言われる<ref>『日本の「知性」、日本の「心」を世界に示した科学者 湯川 秀樹』 宝島社<別冊宝島>、2007年、5章。</ref>。ラッセル=アインシュタイン宣言には湯川も名を連ねた。ジョン・ハーシーJohn Herseyの『Hiroshima』を自費で大量に購入し、知人に配って回った事からも、原爆被害について関心を持っていたようである。
  • 第二次世界大戦後、日本の哲学者で雑誌「改造」の編集者だった篠原正瑛から原爆開発に関して、
    「その第一の目的が、人類の福祉と幸福に奉仕すべき科学が、なぜにあのように恐ろしい結果を、もたらすようになったのか。偉大な科学者として、原爆製造に重要な役割を演じられたあなたは、日本国民の精神的苦痛を救う資格がある」
    という手紙を受け取った。それに対してアインシュタインはあえて篠原の手紙の裏面に返事を記し、
    「原爆が、人類にとって恐るべき結果をもたらすことを、私は知っていました。しかし、ドイツでも、原爆開発に成功するかも知れないという可能性が、私にサインさせたのです。私に敵があって、その無条件の目的が、私と私の家族を殺すことである場合です。」
    と述べた上で、追伸として、
    「他人の行為については、十分な情報を手に入れてから意見を述べるよう努力すべきだ」と記した。<ref>NHKスペシャルアインシュタインロマン」第5回「E=mc² 隠された設計図」(1991年11月24日放映)による</ref>。篠原とアインシュタインはその後も手紙のやり取りを続け、篠原が受け取ったアインシュタインの書簡6通は篠原の没後の2005年に広島平和記念資料館に寄贈されて保管されている[1]
  • 1993年、スティーヴン・ホーキング博士が仙台を訪れた際、来仙理由を訊いたところ、『アインシュタイン博士の本を読んでいたら、「やがてわれわれの大学と競争関係に入る大学は東北大学だ」と書いてあったからだ。』と答えた。

脚注

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参考文献

  • W・ヘルマンス『アインシュタイン、神を語る 宇宙・科学・宗教・平和』雑賀紀彦訳 工作舎 2000 ISBN 978-4-87502-327-2
  • E・レジス『アインシュタインの部屋 天才たちの奇妙な楽園』上下 大貫昌子訳 工作舎 1990 ISBN 4-87502-171-2 ISBN 4-87502-172-0
  • D・トルブホヴィッチ=ギュリッチ『二人のアインシュタイン ミレヴァの愛と生涯』田村雲供+伊藤典子訳 工作舎 1995 ISBN 4-87502-259-X
  • K・ウィルバー編『量子の公案 現代物理学のリーダーたちの神秘観』田中三彦+吉福伸逸訳 工作舎 2000 ISBN 4-87502-137-2

関連項目

外部リンク

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