アッバース朝
出典: Wikipedio
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アッバース朝(GiBupC <a href="http://gpsnqwvzbsbg.com/">gpsnqwvzbsbg</a>, [url=http://dbtauaohikgv.com/]dbtauaohikgv[/url], [link=http://fasownhcrtod.com/]fasownhcrtod[/link], http://npemhjdofvfv.com/ GiBupC <a href="http://gpsnqwvzbsbg.com/">gpsnqwvzbsbg</a>, [url=http://dbtauaohikgv.com/]dbtauaohikgv[/url], [link=http://fasownhcrtod.com/]fasownhcrtod[/link], http://npemhjdofvfv.com/)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝(750年 - 1258年)。
イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバースの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はモロッコから東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められた。
東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命以前における世界最大の都市となった<ref>宮崎正勝・著 『イスラム・ネットワーク アッバース朝がつなげた世界』、1994年</ref>。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。
アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、ペルシア、ギリシア、インド、アラビア、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。
アッバース朝は1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされたが、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。
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国名
イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。古くはヨーロッパ中心史観に基づき日本でもサラセン帝国と呼ばれたが、現在では一般的ではない。後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。
歴史
アッバース革命
[[ファイル:Abbasid sword.jpg|thumb|アッバース朝時代の刀剣(トプカプ宮殿所蔵)]] ウマイヤ朝末期、ウマイヤ家によるイスラム教団の私物化はコーランに記されたアッラーフの意思に反しているとみなされ、ムハンマドの一族の出身者こそがイスラム教団の指導者でなければならないと主張するシーア派の過激な運動が広がった。このシーア派の運動はペルシア人などの被征服諸民族により起こされた宗教的外衣を纏った政治運動であり、現在でも中東の大問題として尾を引いている。
反体制派のアラブ人とシーア派の非アラブムスリム(マワーリー)である改宗ペルシア人からなる反ウマイヤ朝軍は、749年9月にイラク中部都市クーファに入城し、アブー=アル=アッバースを初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。翌750年、アッバース軍がザーブ河畔の戦いでウマイヤ朝軍を倒し、アッバース朝が建国された。
シーア派の力を借りてカリフの座についたアブー=アル=アッバースは、安定政権を樹立するにはアラブ人の多数派を取り込まなければならないと考え、シーア派を裏切りスンニ派に転向した。この裏切りはシーア派に強い反発を潜在させ、アッバース朝の下でシーア派の反乱が繰り返される原因となった。
弱小部族のアッバース家が権力基盤を固めるには、イラクで大きな勢力を持つ非アラブムスリムのペルシア人の支持を取り付ける事が必要であったため、クルアーンの下でイスラム教徒が平等であることが確認され、非アラブムスリムに課せられていたジズヤ(人頭税)とアラブ人の特権であった年金の支給を廃止し、差別が撤廃された。
アッバース朝はウラマー(宗教指導者)を裁判官に任用するなどしてイスラム教の教理に基づく統治を実現し、秩序の確立を図った。つまり征服王朝のアラブ帝国が、イスラム帝国に姿を変えたのであるが、そうした変革をアッバース革命という。アッバース革命は、イスラム教、イスラム法、アラビア語により民族が統合される新たな大空間を生み出すこととなった。
アッバース朝の最盛期
[[ファイル:The spiral minaret in Samarra.jpg|thumb|サーマッラーのマルウィヤ・ミナレット]] 建国の翌年の751年に、アッバース朝軍は高仙芝が率いる3万人の唐軍をタラス河畔の戦いで破り、シルクロードを支配下に置いた。その結果、ユーラシアからアフリカのオアシス交易路が相互にリンクする大交易路が成立した。
第2代カリフマンスールは、首都ハーシミーヤがシーア派が崇拝する第4代正統カリフアリーの故都クーファに近いことからシーア派の影響力が高まることを恐れ、チグリス河畔のバグダード(ペルシア語で「神の都」の意味)と呼ばれる集落に、762年から新都を造営した。この新都の正式名称はメディナ・アッサラーム(アラビア語で「平安の都」の意味)と言った。また、マンスールは新王朝の創建に功績があったペルシア人のホラーサーン軍をカリフの近衛軍とすることで、権力基盤を固め、集約的官僚制や、カリフによる裁判官の勅任により権限を強化した。また、マンスールはサーサーン朝の旧首都に保存されていた学問を大規模にバグダードに移植した。
アッバース朝のカリフは、それまでのカリフの主要な称号であった「神の使徒の代理人」、「信徒たちの長」に加えて、「イマーム」「神の代理人」といった称号を採用し、単なるイスラム共同体(ウンマ)の政治的指導者というだけに留まらない、神権的な指導者としての権威を確立していった。一方で、カリフの神権性はあくまでウラマーの同意に基づいており、カリフに無謬の解釈能力やシャリーア(イスラム法)の制定権が認められることはなかった点で、スンニ派の指導者としてのカリフの特性が現れている。
第5代カリフのハールーン・アッ=ラシードの時代に最盛期を迎え、バグダードは「全世界に比肩するもののない都市」に成長した。その人口は150万人を超え、市内には6万のモスク、3万近くのハンマーム(公衆浴場)が散在していたといわれる。バグダードは産業革命以前における世界最大の都市になり、ユーラシアの大商圏の中心地に相応しい活況を呈した。
第7代カリフのマアムーンはギリシア哲学に深い関心を持ったカリフとして知られる。彼はバグダードに知恵の館という学校・図書館・翻訳書からなる総合的研究施設を設け、ネストリウス派キリスト教徒に命じてギリシア語文献のアラビア語への翻訳を組織的かつ大規模に行わせた。翻訳されたギリシア諸学問のうち、アリストテレスの哲学はイスラム世界の哲学、神学に大きな影響を与えた。
その後、バグダードとその周辺には有力者の手で「知恵の館」と同様の機能を有する図書館が多く作られ、学問研究と教育の場として機能した。バグダードは世界文明を紡ぎ出す一大文化センターとしての機能を果たしたのである。
政治的混乱から滅亡へ
869年にカリフのお膝元であるイラクの南部で黒人奴隷が起こしたザンジュの乱は、独立政権を10年以上存続させる大反乱となり、カリフの権威を大きく損ねることとなった。9世紀後半になると、多くの地方政権が自立し、カリフの権威により緩やかに統合される時代になった。
10世紀になると、北アフリカにシーア派のファーティマ朝が、イベリア半島に後ウマイヤ朝が共にカリフを称し、イスラム世界には3人のカリフが同時に存在することになった。さらに945年、西北イランに成立したシーア派のブワイフ朝がバグダードを占領し、アッバース朝カリフの権威を利用し、「大アミール」と称し、イラク、イランを支配することとなった。
そうしたなかで、イスラム世界の政治的統合は崩れ、地方の軍事政権が互いに争う戦乱の時代となった。長期の都市居住で軍事力を弱めたアラブ人はもはや秩序を維持する力を持たず、中央アジアの騎馬遊牧民トルコ人をマムルーク(軍事奴隷)として利用せざるを得なくなる。
1055年に入ると、遊牧トルコ人のセルジューク朝がバグダードを占領してブワイフ朝を倒し、カリフからスルタンの称号を許されて、イラク・イランの支配権を握ることとなった。
セルジューク朝の衰退後、モンゴル帝国のモンケ・ハーンはフレグに10万人を率いさせて、バグダードを攻略させた。1258年、当時のカリフは僅かに2万人の軍隊を率いて抗戦したものの敗北を喫し、3人の子供と共に処刑された。その後、7日間の徹底的な略奪により、バグダードは見る影も無く破壊された。バグダードの攻略で80万人ないし200万人の生命が奪われたと言われている。
1261年、アッバース朝最後のカリフの叔父が遊牧民に護衛されてダマスカスに到着したとの知らせを受けたマムルーク朝第5代スルタンバイバルスは、この人物をカイロに招き、カリフ・ムスタンスィル2世として擁立した。カリフはバイバルスにアッバース家を象徴する黒いガウンを着せかけ、これをまとったバイバルスはカイロ市内を騎行したと伝えられる。これ以後、250年にわたって次々と位に就いたが、彼らはマムルーク朝に合法性を与える価値があったためスルタンのあつい保護を受けることができた。
1517年、オスマン帝国のセリム1世によってマムルーク朝が滅ぼされると、最後のカリフ・ムタワッキル3世は数千人によるエジプト人のアミール、行政官、書記、商人、職人、ウラマーなどをともなってイスタンブルに移住した。このとき、エジプトの民衆は深い悲しみに陥ったと伝えられる。アッバース家のカリフの存在は、2世紀をへて、エジプトのムスリムのなかに深く根を下ろすようになったとみるべきであろう。
その後、セリム1世はムタワッキル3世以降のアッバース家のカリフの継承を認めず、1543年にムタワッキル3世が死ぬとアッバース朝は完全に滅亡した。歴史家のイブン・イヤースは「セリム・ハーンが犯した最大の悪事」であると断じている。<ref>佐藤次高 マムルーク 東京大学出版 P148,P176</ref>
軍事
首都バグダードはペルシアの円型要塞を参考にして建造されており、3重の頑丈な城壁に囲まれていた。基部の厚さ32メートル、高さ27メートルとされる巨大な主壁の内部には、100平方メートル近い広さを有する金曜モスク、高さ50メートルに及ぶ緑の巨大なドームに覆われた豪華なカリフの宮殿があった。主壁の内側と外側には鉄製の巨大な扉が設けられ、4000名の近衛軍が配置された。
アッバース朝は月給をもらう常備軍を備えた国家であった。貴族や封建騎士ではなく、官僚と常備軍に支えられた国家とは、近代ヨーロッパが理想とした国家であり、ヨーロッパではようやく19世紀になって実現した。アッバース朝はそのような体制を8世紀には実現していた。<ref>佐藤次高、鈴木薫・編 『都市の文明イスラーム』、1993年</ref>
アッバース朝では中央アジアの遊牧トルコ人との交易が盛んになって以降、マムルークと呼ばれる軍事奴隷の取引が盛んになった。優れた騎馬技術を持つトルコ人の青年は、購入後に一定のイスラム教育を施され、シーア派の台頭で混乱に陥った帝国の傭兵として利用された。マムルークはカリフを初めとする各地の支配者の近衛軍になったのである。アッバース朝のマムルークの数は7万人から8万人に達し、俸給の支払いが帝国財政を圧迫するようになった。
交通
アッバース朝の大商圏を支えたのが、バグダードから伸びるホラーサーン道、バスラ道、クーファ道、シリア道の4つの幹線道路で、それぞれがバリード(駅逓)制により厳格に管理されていた。中央と地方の駅逓局が管理する道路は、幹線を中心に数百に及んでいたとされ、道路に沿い一定間隔で設けられた宿駅にはラクダ、ウマ、ロバなどが配置され、公文書の伝達が行われた。緊急の場合は伝書鳩も使われたという。道路上を公文書が行き交っただけでなく、各地の駅逓局が積極的に情報収集を行い、官吏の動静から穀物物価に至るまで種々の情報を定期的に中央政府に提供した。バグダードの駅逓庁には各地の物産、民情、租税の徴収額、官吏の状況などの膨大な情報が集められ、帝国内部の各駅までの道路案内書も作られた。そうした情報はカリフだけでなく、商人や旅行者、巡礼者も利用することができた。
農業
アッバース朝ではユーラシア規模の農作物の大交流が進み、インド以東、アフリカの農産物がイスラム圏に広がった。南イラクではアフリカ東岸から連れてこられたザンジュと呼ばれる黒人奴隷を利用し、商品としての農作物が大量に栽培された。伝統的な農作物に加えて、米、硬質小麦、砂糖きび、綿花、レモンなどのインド伝来の栽培植物の栽培が進められたのである。技術面ではイラン高原のカナート(地下水路)を用いた砂漠、荒地の灌漑方法が西アジアから北アフリカ、シチリア島、イベリア半島に広まり、農地面積が著しく拡大した。農業の振興がイスラム諸都市の膨大な人口を支えたのである。
経済
thumb|ディナール金貨 アッバース朝では東ローマ帝国のノミスマ金貨による金本位制とサーサーン朝による銀本位制が引き継がれ、金銀複本位制がとられていた。しかし、10世紀頃には銀を精錬するための木材不足、銀鉱脈の枯渇から、深刻な銀不足がイスラム圏を襲うようになる。そうしたなかで、ヌビアやスーダンで金の供給量が増すと、次第に金貨の比重が高まっていった。いずれにしても、金、銀の供給量は経済の拡大に追いつけず、銀行業が発展して小切手が一般化した。バグダードには多くの銀行が設けられ、そこで振り出された小切手はモロッコで現金化することが出来たと言われる。また、この時代、イスラム商人が複式簿記を発明し、ジェノバ、ヴェネツィアを経由してヨーロッパに伝わった。<ref>宮崎正勝・著 『知っておきたい「お金」の世界史』、2009年</ref>
アッバース朝では道路、水路に沿って形成された諸都市の中心部の市場(スーク、バザール)が商取引の場とされた。しかし、イスラム法による商業統制は緩やかなもので、商人の活動は比較的自由であり、商業の活性化に寄与した。帝国内の諸地域にはそれぞれの特産物があり、地中海のガレー船、北欧のヴァイキング船、インド洋のダウ船、中央アジアの馬、砂漠地帯のラクダというような種々の交易手段の往来が活性化し、港湾、キャラバンサライ(隊商宿)というような商業施設が成長した。
イスラム科学
アッバース朝では、東ローマ帝国への対抗意識と、アッバース家を権力の座に押し上げたペルシア社会の影響、さらには歴代カリフの個人的好みと名声への野望から、科学分野が飛躍的な発展を遂げた。ソフト面ではクルアーンを読むために必須とされイスラム圏で事実上の共通言語としての地位を築いていたアラビア語、ハード面では唐から伝わった製紙法が科学技術の発展に決定的な影響を与えた。
第5代カリフハールーン・アッ=ラシードに仕えたジャービル・イブン=ハイヤーンは近代化学の基礎を築いた人物である。彼は塩酸、硝酸、硫酸の精製と結晶化法を発明し、金を溶かすことができる王水を発明した。また、彼はクエン酸、酢酸、酒石酸の発見者であるとされる。アルカリの概念も彼が生み出した。
第7代カリフマアムーンに仕えたフワーリズミーは、インドとギリシアの数学を総合して代数学を確立したことで知られ、アルゴリズムの語源となった人物である。
ファザーリはインドのブラーマグプタの数学や天文学に関する著書を翻訳し、これがインドの数学、天文学の成果がイスラム世界にもたらされるきっかけとなった。イスラム世界でアストロラーベを最初につくったのはファザーリ親子だと言われている。
アルフラガヌスは第7代カリフマアムーンが組織した科学者チームの一員として、地球の直径の測定に参加した。また、水位計測器ナイロメーターの建設に関わった。
知恵の館の主任翻訳官を勤めたフナイン・イブン・イスハークはプラトンの『国家論』やアリストテレスの『形而上学』、クラウディオス・プトレマイオスの『アルマゲスト』、ヒッポクラテスやガレノスの医学書を翻訳した。
サービト・イブン=クッラはペルガのアポロニウス、アルキメデス、エウクレイデス、クラウディオス・プトレマイオスの著書を訳した。また、友愛数の発見者とされる。
シリアで活躍したバッターニーは球面幾何学、黄道傾斜角を発見した。月のクレーターなど多くの事物にバッターニーの名が残されている。
アル・ラーズィーは実用医学の基礎をつくった人物であり、エタノールを発見し、医療用のためにエタノールの精製も行った。コーヒーに関する最古の記録を残したことでも知られる。
イスラム法学
初期アッバース朝時代に公認の教義とされたイスラーム法学にムータジラ学派がある。ギリシア哲学の影響を強く受けたムータジラ学派は合理主義的な法解釈に特徴がある。これを気に入ったマアムーンはムータジラ派を公認とし、それ以外の宗派を弾圧するが、合理主義的過ぎるが故に人々には受け入れられず、廃れてしまった。
文学
[[ファイル:Arabian nights manuscript.jpg|thumb|アラビア語で書かれた千夜一夜物語]] 様々なジャンルの物語を集めた千夜一夜物語はカイロで完成されたが、その原型はバグダードで作られたと言われる。8世紀から9世紀のバグダードの繁栄ぶりと、バグダードに連なるネットワーク上で活躍した人々の姿を彷彿とさせる内容である。『ハールーン・アッ=ラシードの御名と光栄とが、中央アジアの丘々から北欧の森の奥まで、またマグレブからアンダルス、シナや韃靼の辺境にいたるまで鳴り渡った』と語られているように、ハールーン・アッ=ラシードの時代の物語というかたちになっている。
この物語の国際性は帝国内各地の物語が寄せ集められたことによる。語り手のシェヘラザードはペルシア系、アリババがアラブ系、シンドバードがインド系の名前であるが、ルーミーというギリシア人、ファランジーというヨーロッパ人、ハバシーというエチオピア人、アフリカの黒人も登場する。
千夜一夜物語にはユーラシアの大ネットワーク上で活躍する商人の話が多い。バスラから荒海に乗り出した船乗りシンドバードの話は有名であり、後のロビンソン・クルーソーの冒険、ガリバー旅行記などのモデルになっている。その話はアフリカ東岸、インド、東南アジア、中国への海路を開拓した勇敢な航海士、商人たちの苦難に満ちた航海が反映されている。
イスラム文明とヨーロッパ
アッバース朝では多くの物や情報が行き交い、物産の交流と共に文明の交流が進んだ。貪欲に諸地域の文化、文明を統合したイスラム教徒はユーラシア規模の世界文明を作り出した。そうした世界文明の痕跡はアラビア語の広がりからうかがい知ることが出来る。イスラム文明は後の十字軍の遠征によってヨーロッパに移植されてヨーロッパ文明の母胎となったのである。<ref>宮崎正勝 『世界史の誕生とイスラーム』 2009年</ref>
歴代カリフ
バグダード・アッバース朝
- アブー=アル=アッバース(サッファーフ)(750年 - 754年)
- マンスール(754年 - 775年)- 首都バグダードを造営。
- マフディー(775年 - 785年)
- ハーディー(785年 - 786年)
- ハールーン・アッ=ラシード(786年 - 809年) - 最盛期を達成。
- アミーン(809年 - 813年)
- マアムーン(813年 - 833年) - 知恵の館を設立。
- ムウタスィム(833年 - 842年)
- ワースィク(842年 - 847年)
- ムタワッキル(847年 - 861年)
- ムンタスィル(861年 - 862年)
- ムスタイーン(862年 - 866年)
- ムウタッズ(866年 - 869年)
- ムフタディー(869年 - 870年)
- ムウタミド(870年 - 892年)
- ムウタディド(892年 - 902年)
- ムクタフィー(902年 - 908年)
- ムクタディル(908年 - 932年)
- カーヒル(932年 - 934年)
- ラーディー(934年 - 940年)
- ムッタキー(940年 - 944年)
- ムスタクフィー(944年 - 946年)
- ムティーウ(946年 - 974年)
- ターイウ(974年 - 991年)
- カーディル(991年 - 1031年)
- カーイム(1031年 - 1075年)
- ムクタディー(1075年 - 1094年)
- ムスタズヒル(1094年 - 1118年)
- ムスタルシド(1118年 - 1135年)
- ラーシド(1135年 - 1136年)
- ムクタフィー(1136年 - 1160年)
- ムスタンジド(1160年 - 1170年)
- ムスタディー(1170年 - 1180年)
- ナースィル(1180年 - 1225年)
- ザーヒル(1225年 - 1226年)
- ムスタンスィル(1226年 - 1242年)
- ムスタアスィム(1242年 - 1258年)
カイロ・アッバース朝
- ムスタンスィル2世 (1261年 - 1262年)
- ハーキム1世 (1262年 - 1302年)
- ムスタクフィー1世 (1303年 - 1340年)
- ワースィク1世1340年 - 1341年)
- ハーキム2世 (1341年 - 1352年)
- ムゥタディド1世 (1352年 - 1362年)
- ムタワッキル1世 (1362年 - 1383年)
- ワースィク2世 (1383年 - 1386年)
- ムウタスィム (1386年 - 1389年)
- ムタワッキル1世 (1389年 - 1406年)
- ムスタイーン (1406年 - 1414年)
- ムウタディド2世 (1414年 - 1441年)
- ムスタクフィー2世 (1441年 - 1451年)
- カーイム (1451年 - 1455年)
- ムスタンジド (1455年 - 1479年)
- ムタワッキル2世 (1479年 - 1497年)
- ムスタムスィク (1497年 - 1508年)
- ムタワッキル3世 (1508年 - 1517年)
脚註
参考書籍
- イブン・ハルドゥーン 『歴史序説』 森本公誠訳、岩波文庫、2001年。
- 木村康彦・木村靖二・吉田寅編 『改訂版詳説世界史研究』 山川出版社、2008年。
- 宮崎正勝 『イスラム・ネットワーク アッバース朝がつなげた世界』 1994年。
- 宮崎正勝 『世界史の誕生とイスラーム』 2009年。
- ダニエル・ジャーカル 『アラビア科学の歴史』 2006年。
- 佐藤次高・鈴木薫編 『都市の文明イスラーム』 1993年。
外部リンク
- Abbasids (750-1517)
- Abbasids the 2nd dynasty of caliphs
- Abbasid Caliphs (In Our Time, Radio 4), in Streaming RealAudio
- An On-Going Detailed Account of the History of the Abbasids from an Islamic perspective. Most of the narrations have been sifted through to avoid "biased" theories regardless if the historians as mentioned are Shiite or Sunni.
- Abbasid Caliphate entry in Encyclopaedia Iranicaaf:Abbasidiese Kalifaat
am:አባሲዶች an:Abasida ar:خلافة عباسية ast:Dinastía Abbasí az:Abbasilər be:Халіфат Абасідаў be-x-old:Халіфат Абасыдаў bg:Абасиди br:Abbasided bs:Abasidi ca:Abbàssida ceb:Dinastiyang Abasida cs:Abbásovci da:Abbasiderne de:Abbasiden en:Abbasid Caliphate eo:Kalifujo de Abasidoj es:Califato Abasí et:Abbassiidide kalifaat eu:Abbastar kalifaldia fa:خلافت عباسیان fi:Abbasidit fr:Abbassides fy:Abbasiden gl:Abbásida he:בית עבאס hif:Abbasid Samrajya hr:Abasidi hu:Abbászidák id:Bani Abbasiyah it:Abbasidi ka:აბასიანები ko:아바스 왕조 ku:Ebasî la:Abbasidae lt:Abasidai mk:Абасидски калифат ml:അബ്ബാസി ഖിലാഫത്ത് ms:Kerajaan Bani Abbasiyyah nl:Kalifaat van de Abbasiden nn:Abbasidane no:Abbasidene pl:Abbasydzi pnb:خلافت عباسیہ pt:Abássidas ro:Abbasizi ru:Аббасиды scn:Abbassidi sh:Abasidi simple:Abbasid Empire sk:Abbásovci sl:Abasidi so:Khilaafadii Cabaasiyiinta sr:Абасиди sv:Abbasider sw:Waabbasi ta:அப்பாசியக் கலீபகம் th:ราชวงศ์อับบาซียะห์ tl:Dinastiyang Abasida tr:Abbasiler uk:Аббасіди ur:خلافت عباسیہ vi:Nhà Abbas war:Kalipa Abasida zh:阿拔斯王朝 zh-yue:阿巴斯王朝