アケメネス朝

出典: Wikipedio


Template:基礎情報 過去の国

アケメネス朝(アケメネスちょう、紀元前550年 - 紀元前330年)は、古代イランにおこったとされる王朝帝国アカイメネス朝とも言う。アケメネス、アカイメネスはギリシア語の呼称で、この家祖であるハカーマニシュに由来し、一部の研究者は古代ペルシア語の発音に従いハカーマニシュ朝とする。またアケメネス朝ペルシアアケメネス朝ペルシャアケメネス朝ペルシア帝国アケメネス朝ペルシャ帝国とも呼ぶ。単にペルシア帝国またはペルシャ帝国といった場合はこの王朝かサーサーン朝を指すことが多い。

近年の研究によって、王朝の創始者である大キュロスの直系から、アケメネス朝の4代目とされるダレイオス1世が帝位を簒奪したことがほぼ明らかになっている。つまり連綿と続く王朝ではなく、キュロスの王朝とダレイオスの王朝に二分されているというのが実相であった。

参考までに以下の記述の固有名詞の一部に古代ペルシア語に近いとされる発音のひとつを付す。例:アケメネス(ハカーマニシュ)。

目次

歴史

[[ファイル:Persepolis_1.JPG|left|260px|thumb|首都ペルセポリスの遺跡]] left|thumb|260px|大王の親衛隊(ペルセポリス) Template:イランの歴史

紀元前7世紀後半、ペルシア人の長でハカーマニシュの息子テイスペス(チャイシュピ)は、アッシリア帝国に圧倒され衰退しつつあったエラム王国の都市アンシャンを征服した。彼の子孫はアンシャンを支配した一族とペルシアに残った一族の二つの系統に分岐した。メディア王アステュアゲス(アルシュティ・ワイガ?)は、バビロニアを除くアッシリア帝国北部の領土をすべて征服した。この時代のペルシアはメディアに服属していた。

紀元前550年、アステュアゲスの孫であり、メディア人ペルシア人の混血であるアンシャン王キュロス(クル)が反乱を起こし、メディア王国を滅ぼした。イラン高原を掌握したキュロスは、さらに小アジアリディア王国メソポタミア新バビロニア王国を滅ぼした。ヘロドトスによれば、キュロスはカスピ海の東側に住むマッサゲタイ族との戦いで戦死したとされる。しかし後年アレクサンドロスのペルシア遠征のとき、キュロスがパサルガダエに埋葬されているのが確認され、その記録には遺体の外傷について一切触れられていないことから、ヘロドトスの記事は間違いである可能性もある。

紀元前525年にキュロスの息子カンビュセス2世(カンブジャ)はエジプトを併合して古代オリエント世界を統一したものの、エチオピアへの侵略には失敗した。カンビュセスは弟のスメルディスを殺し、その後の2年間はメディア人のマゴスが実権を握ったが、ペルシア人たちの謀議によって打倒された。

ヘロドトスの伝えるところによると、ペルシア人の指導者たちは帝国の統治形態について話し合った。寡頭政治は国を分裂させる危険を、民主政は大衆の人気に乗じた僭主の台頭を招きかねないことから、しかるべき手順で選ばれた君主による君主政を選択した。最初に選ばれた君主となった総督ヒスタスペス(ウィシュタースパ)の息子ダレイオス1世(ダーラヤワウ)は版図を北西インドからマケドニアトラキアに拡大し、領土を20州に分けて各州に総督(サトラップ)を置いた。なお、このスメルディスの暗殺に始まる政変はダレイオスによる簒位の後に捏造された偽伝ではないかと疑う説もある。

ダレイオス1世とその子クセルクセス1世(クシャヤールシャン)はギリシア征服を計画してペルシア戦争を起こしたが、失敗した(紀元前5世紀)。

帝国はペルセポリスに大殿を造営し、繁栄を謳歌していたが、紀元前4世紀にはサトラップの反乱に悩まされ、ダレイオス3世の代にマケドニア王国アレクサンドロス大王の侵攻で紀元前330年に滅んだ。ただし、アレクサンドロスはダレイオス3世の息女と結婚し、アケメネス朝の統治制度をほぼそのまま継承しようと試みていた。なお、アレクサンドロス大王もそうだったが、アケメネス朝の君主たちも古代エジプトを征服した後にファラオを任じていた。

年表

統治機構

アケメネス朝は全国を36の行政区画(サトラッピ)に分け、各州ごとに総督(サトラップ)を置いた。また、そのサトラップを監察する目的で、年に一度中央から「王の耳」・「王の目」と呼ばれた監察官が派遣された。さらに「王の道」と呼ばれる国道を建設して駅伝を整備し、通貨制度を創設した。

行政区画

Template:Columns-start

Template:Column

Template:Column

Template:Columns-end

文化

「アケメネス朝」は捏造か?

近年の研究により、ダレイオス1世自身が大キュロスの直系から帝位を簒奪したらしいということが明らかになってきた。従来の定説ではダレイオス1世はアケメネス朝の傍系とされるが、そもそもアケメネス朝の系図そのものがダレイオスの帝位簒奪を正当化するために捏造されたものだという説も出てきている。この説が真実であれば、キュロスの王朝とダレイオスの王朝に血縁関係はなく、王朝交代が起こったことになる<ref>例えば、青木健『アーリア人』(講談社、2009年、p.117-118)では、ハカーマニシュ家のダーラヤワウ(ダレイオス)一世がクル(キュロス)王家の後継者を抑えてペルシア皇帝に即位し、ハカーマニシュ家の系図の中にクル王家の系図を嵌め込んだとしている。</ref>。これならば、キュロス家の名前(チシュピシュ、クル、カンブジヤ)とダレイオス家の名前(ダーラヤワウ、クシャヤールシャン、アルタクシャサ)の系統が大きくちがうことの説明もつくと思われる。ダレイオスは、傍系か、王朝交代による捏造かは、研究者の間で論争中である。

また、ストラボンによれば<ref>ストラボン『ギリシア・ローマ世界地誌』飯尾都人訳、龍渓書舎</ref>、最後のダレイオス3世も、もともとは従前のアケメネス朝とはつながりのない地方総督に過ぎなかったが、アケメネス朝が断絶したために擁立されたのだという。

歴代君主

関連項目

Template:Commonscat

脚注

<references />

参考資料

Template:Link FA Template:Link FA

ar:أخمينيون be:Дзяржава Ахеменідаў bn:হাখমানেশী সাম্রাজ্য bs:Ahemenidsko carstvo ca:Dinastia Aquemènida ceb:Imperyong Persyano ckb:هە‌خامە‌نشیە‌کان cs:Achaimenovci da:Achæmenide-dynastiet de:Achämenidenreich en:Achaemenid Empire eo:Aĥemenida dinastio es:Dinastía Aqueménida fa:هخامنشیان fi:Akhaimenidien hallitsijasuku fr:Achéménides hak:Pô-sṳ̂ Ti-koet he:הממלכה האחמנית hi:हख़ामनी साम्राज्य hr:Ahemenidsko Perzijsko Carstvo hu:Óperzsa Birodalom hy:Աքեմենյաններ id:Kekaisaran Akhemeniyah it:Achemenidi ka:აქემენიდების იმპერია ko:아케메네스 왕조 ku:Împeratoriya Hexamenişî la:Achaemenidae lt:Achemenidų imperija ml:ഹഖാമനിഷിയാന്‍ പേര്‍ഷ്യന്‍ സാമ്രാജ്യം mr:हखामनी राजघराणे ms:Wangsa Achaemenid nl:Achaemeniden no:Akamenide-dynastiet pl:Achemenidzi ps:د هخامنشانو پاچایی pt:Império Aquemênida ro:Imperiul Ahemenid ru:Империя Ахеменидов sh:Ahemenidsko Carstvo simple:Achaemenid Empire sk:Achajmenovci sl:Ahemenidi sr:Ахемениди sv:Akemenider ta:அக்கீமெனிட் பேரரசு tg:Давлати Ҳахоманишиҳо th:จักรวรรดิอคีเมนียะห์ tr:Ahameniş İmparatorluğu uk:Імперія Ахеменідів ur:حخمانیشی سلطنت vi:Nhà Achaemenes zh:阿契美尼德王朝

個人用ツール