とんねるず

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とんねるずTUNNELS)は、石橋貴明木梨憲武の2人からなるお笑いコンビ歌手芸能事務所アライバル所属。

目次

メンバー

石橋貴明(いしばし たかあき、1961年(昭和36年)10月22日 - )
出身 : Template:JPN東京都板橋区成増
身長 : 182cm 体重 : 74kg 血液型 : A型
愛称 : 貴(タカ)さん
木梨憲武(きなし のりたけ、1962年(昭和37年)3月9日 - )
出身 : Template:JPN東京都世田谷区千歳台
身長 : 178cm 体重 : 60kg 血液型 : O型
愛称 : 憲(ノリ)さん

来歴

学生時代

共に東京都出身で帝京高等学校を卒業。在学中、石橋は野球部、木梨はサッカー部に所属。全国的な強豪として知られるこの2つの部の交流は盛んで、部室内でのモノマネや一発芸などの披露を通じ、それぞれの部の「一番面白いヤツ」とお互い認識したのが出会いのきっかけ。当時は主に先輩や先生のモノマネなどで、共に校内の人気者であったという。<ref name="tunnels">とんねるず 『とんねるず 大志』 1988年6月7日発行</ref>。

石橋は高校在学中から「ぎんざNOW!」(TBS)や「TVジョッキー」(日本テレビ)をはじめとした、素人参加番組の常連であり、アントニオ猪木のモノマネやスポーツ選手の形態模写をはじめとする芸で一部の視聴者から注目されていた<ref name="tunnels" />。なお同時代のライバルには竹中直人がおり、「TVジョッキー」のザ・チャレンジ(素人お笑い勝ち抜きコーナー)の第1回グランドチャンピオン大会では、第3代チャンピオン石橋と初代チャンピオン竹中が対決している。このときの勝者は石橋であり、見事初代グランドチャンピオンに輝いている。

また石橋ほどの頻度ではないが主に和田アキ子モノマネで素人参加番組に顔を出していた木梨を、高校卒業の記念として石橋が誘い、所ジョージ司会の「ドバドバ大爆弾」に出演<ref name="tunnels" />。それがコンビとして初めてのテレビ出演となる。「お笑いスター誕生!!」の出演までは、賞金を合計で多く得るために、意図的にバラバラで出演することもあったという<ref name="tunnels" />。

また木梨も「TVジョッキー」のザ・チャレンジで第5代チャンピオンに輝いている。木梨が出場した第2回グランドチャンピオン大会には、石橋も出演している。

お笑いスター誕生への挑戦

帝京高校卒業後、2人は一般企業(石橋はホテルセンチュリーハイアット、木梨はダイハツ)に就職するものの、「お笑いスター誕生!!」へのチャレンジ決意を機に再会<ref name="tunnels" />。漫才ではなく、モノマネ一発ギャグ、学校やアイドルタレントの一コマを演じるコントなど面白いものは何でもエネルギッシュに演る多彩さで、素人ながら4週目まで勝ち抜く(当時のコンビ名は「貴明&憲武」)。それを契機に2人は勤務先を退社し、プロデビューへと意志を固める<ref name="tunnels" />。

「とんねるず」結成、プロデビュー

退社後の1980年に正式にコンビ結成。<ref name="tunnels" />コンビ名も「とんねるず」と改め「お笑いスター誕生!!」にプロとして再挑戦して挑むが、10週目で落選してしまう。またこの時期、同番組NTVの赤尾プロデューサーの紹介で、赤坂のクラブ「コルドンブルー」におぼん・こぼんの後釜として所属。芸風がクラブの客層に全く合わず、厳しい下積み修行時代を過ごした<ref name="tunnels" />。

「お笑いスター誕生!!」では、1981年に開催されたゴールデンルーキー賞の15組にエントリー。決勝まで進むが、アゴ&キンゾーに敗れて、特別敢闘賞(事実上の第2位)に終わった。1982年4月10日には見事10週目に合格、グランプリを獲得した。その後も1983年末まで歌合戦などの企画や、グランプリ受賞者のネタ披露コーナーなどへ定期的に出演した。

1981年には西城秀樹司会の朝の情報番組「モーニングサラダ」にレギュラー出演も、些細なことから前出のNTV・赤尾プロデューサーと衝突。一貫してNTV系番組出演タレントであったとんねるずは同局から完全に干されることになる<ref name="tunnels" />。この間は新宿御苑のパフォーマンスバー「KON」に出演するなど、再び下積み時代を過ごした。また、この頃は同じショーパブ系タレントであるビジーフォー(いそがしバンド)やアゴ&キンゾーらと交流を持ち、グッチ裕三宅に居候していたこともある。

スーパーの駐車場やデパートの屋上などで木箱をステージ代わりにして営業回りをしていた事もあった。(しかし彼ら曰く営業は結構いいお金稼ぎになり、食べていくには苦労しなかったと明かしている。)

その後、西城秀樹の初代マネージャーだった秦野嘉王が設立した新事務所「AtoZ」の所属第一号タレントになり再浮上の機を窺うことになった<ref name="tunnels" />。秦野は、当時のお笑い芸人には無縁だったスタイリストをとんねるずに付け、派手なブランドの代名詞でもあったK-FACTORYの衣装をコンセプトとするなど、イメージプロデュース戦略を図った。また現在に至るまでとんねるずの重要なブレーンであり、彼らの楽曲の作詞を行っている秋元康との出会いもこの時期である<ref name="tunnels" />。

人気の爆発

こうして周囲の環境も整え、エネルギーも充分に蓄えたとんねるずは1983年、深夜の人気番組『オールナイトフジ』を皮切りにテレビ復帰。当初は番組後半に5分のコーナー「とんねるずの見栄講座」をもらったに過ぎなかったが、その後「とんねるずの何でもベストテン」「とんねるずなっわけだぁ!」とコーナーや番組内のOA時間が早まるにつれ、学生を中心とした、若者に爆発的な支持を集め、翌1984年に放送した同番組の「女子高生スペシャル」の発展形としてスタートした『夕やけニャンニャン』(1985年-1987年)では片岡鶴太郎吉田照美を脇役に追い立てるほどパワーと存在感を示した。

その後も『オールナイトニッポン』『トライアングル・ブルー』などレギュラー番組を順調に増やしていく。『とんねるずのオールナイトニッポン』(1986年-1992年)では火曜1部を担当し、数々の伝説コーナーを輩出。オールナイトニッポンを代表するパーソナリティとなる。『トライアングル・ブルー』は深夜ドラマの草分けといえるドラマで、可愛かずみ川上麻衣子前田耕陽などと共演して、好評を得る。

またこの頃、『新・ど根性ガエル』のテーマ「ピョン吉・ロックンロール」以来のシングル「一気!」をリリース。TBSの『ザ・ベストテン』でのコーナー「今週のスポットライト」に登場して視聴者に大きなインパクトを与え、大ヒットを記録する。この出演をきっかけに、深夜番組だけでなく、本格的にとんねるずが世に知られることとなった。同曲は『オールナイトフジ』のコーナーでも毎回歌われ、セットを壊す、勢い余って1500万円のTVカメラを倒壊させる、自ら勝手に「カリスマ芸人」と名乗る、などのインパクトある言動で、視聴者に強烈な印象を与えた。1985年には、「一気!」のあまりの人気に、前述のとおり断絶状態であったNTVが動き、ビートたけし司会の『スーパージョッキー』に歌手としてとんねるずを呼ぶことで、当時の関係者だけが知る事実上確執の「手打ち」となった。この際、大御所になりつつあったビートたけしと新進気鋭のとんねるず(特に石橋)はお互いに意識しあい打ち解けるような雰囲気ではなく、緊張感が漂っていた。

またこの当時は『新春かくし芸大会』にも出場しており、映画『南極物語』のパロディに、ペンギンの着ぐるみ姿で顔すら判別しにくい状態でセリフ無しの数秒のチョイ役出演や、中森明菜と体を張ったカマヌンチャク芸を披露したりとまだまだ若手としての扱いを受けていた。彼らは不遇な扱いを受けていた頃を皮肉る時に「あの時はペンギンでした」と例にとって挙げることがある。

80年代、巷でタレントショップブームが巻き起こった際には彼らも「バレンタインハウス」「セシカ」を原宿や京都に出店しており、関連グッズが飛ぶように売れている。

二人とも当時のお笑い芸人としては珍しくルックスが良く、高身長であり、都会的で洗練された雰囲気も持ち合わせていたことから、女性からの人気も獲得した。『ザテレビジョン』や『明星』など様々な雑誌の表紙を飾るなどアイドル的な人気も集める一方、『コラーッ!とんねるず』や『夕やけニャンニャン』などで披露するコントにお笑いファンからも注目されるようになる。

安定期

当時はこの人気も一時的なものと見る向きもあったが、勢いは更に増していきスターの座を不動のものにしていく。彼らが出演する番組、歌、発する数多くの新語は若者の心を掴み社会現象になり、今日に至るまでの多大な影響を与えていった。『お笑い第三世代』と呼ばれる1980年代初頭の漫才ブーム以降を代表するお笑いコンビとなる。

1987年10月「上海紅鯨団が行く」を引き継ぐ形でスタートした「ねるとん紅鯨団」が爆発的大ヒット番組となる。当時IVSテレビ制作で番組の企画・総合演出などをしていた伊藤 輝夫(現:テリー伊藤)と出会ったのがこの時期。一般参加者による集団お見合い形式の企画が大好評に。今では集団お見合いパーティーそのものが『ねるとんパーティー』と呼ばれるようになっている。また1986年から火曜ワイドスペシャルで数回特番を行い、のちに彼らの代表番組となる「とんねるずのみなさんのおかげです」が、1988年10月に満を持してレギュラー放送を開始。番組放送スタート当初から大反響を呼んでいく。『仮面ノリダー』『保毛尾田保毛男』をはじめとする数多くの人気キャラクターを生んだ名作コントやパロディを輩出した。波に乗る彼らは1991年10月に『闘牛』『カートグランプリ』『PK対決』などロケ主体の名物コーナーが大人気を博した「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」を開始するなど、日本のバラエティ史に名を残す伝説番組を次々と生みだしていった。1995年には「ねる様の踏み絵」で一時期疎遠状態になっていたTBSでの初のレギュラー番組を開始。1997年3月「とんねるずのみなさんのおかげです」が完全終了し、同年6月に「とんねるずのみなさんのおかげでした」とリニューアルした後も長きに渡って番組の看板として活躍し続けている。

レギュラー番組をこなしながら、並行して音楽活動にも精力的に臨み、「情けねえ」「ガラガラヘビがやってくる」をはじめとする国民的ヒットソングを生み出し、また1995年まで毎年全国コンサートツアーも開催する。1991年大晦日には悲願であった「NHK紅白歌合戦」に初出場を果たした。

テレビ、ラジオ、歌、CMなどメディア上での活躍の傍らで、1991年から2000年にかけての10年間、苗場プリンスホテルブリザーディウムにて、とんねるず単独コントライブ「こんと いん なえば」を開催し、一お笑いコンビとして生で客を笑わせる事も重視していたが、コンビとしてのコントライブはその後2010年現在まで行われていない。(しかし木梨は単独で2004年2005年に、歌・コント・フリートークを交えたライブ「NORITAKE GUIDE LIVE」を開催していた。)

コンビで芸能界を突き進んできた彼らであったが、90年代後半(特に1996年以降)に差し掛かるとソロ活動が活発になり始めた時期でもあり、木梨は1996年5月にデビューした演歌ユニット「憲三郎&ジョージ山本」でヒットし、同年の紅白歌合戦出場を果たしている。また1998年1月にはドラマ「甘い結婚」で個人初主演を演じた。一方石橋は、1996年10月に初の単独司会によるレギュラー音楽番組「うたばん」の放送が開始し、2010年3月まで13年半続いた長寿番組となっている。また1997年2月にデビューした工藤静香とのユニット「Little Kiss」が話題を呼び大ヒット。1998年7月には三谷幸喜脚本のドラマ「今夜、宇宙の片隅で」に主演した。

そんな中1996年にシングル「おまえが欲しい」を発売して以来2年ぶりに2人が音楽活動で揃い、番組スタッフと組んだ『野猿』を1998年4月にデビューさせ2001年までCDリリースやコンサートなど積極的な活動を展開した。

2000年代

コンビ結成20周年を迎え大御所の域に入りつつあった2000年代以降も、石橋は得意分野の知識を生かしたレギュラー番組や特番の司会、木梨もレギュラー番組や自身のキャラを生かしたCM出演、お笑いの舞台・絵画の個展を主催するなど、コンビとしてもソロとしても両名は順調に活動の幅を広げている。(個人の活動歴に関しては、石橋貴明木梨憲武を参照のこと)

2000年1月3日に始まった、とんねるずが一年を通して活躍した話題のプロスポーツ選手を迎えて様々な競技で対決する「夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル」は、正月恒例番組となっている。10周年を迎えた2009年には5時間の大型特番として放送されている(翌2010年も同様)。

2004年の「FNS27時間テレビ」内で放送された『笑わず嫌い王決定戦』において、久しぶりにコンビ漫才を披露した。

2008年10月、フジテレビの木曜9時枠で番組をスタートさせてから丸20周年を迎えた(厳密には半年間の充電期間を一度挟んでいる為、実質は2009年3月)。同枠は1988年10月に「とんねるずのみなさんのおかげです」が正式なレギュラー番組として産声をあげて以来、途中ドラマ出演による半年間の充電期間や、「ラスタとんねるず'94」「とんねるずの本汁でしょう!!」などを挟み、現在放送中の「とんねるずのみなさんのおかげでした」まで常に時代を先見して流行を作ってきた。現代のテレビ界においてゴールデンタイムで個人名義のいわゆる『冠番組』で、20年以上枠を守り続けているのは快挙である。

2008年9月25日、同年5月から「とんねるずのみなさんのおかげでした」の企画として始動していた『矢島美容室』をDJ OZMAと結成する事を発表し10月29日にデビュー、ヒットを飛ばしている。2人が揃って音楽活動するのは2001年に野猿が解散して以来であり、実に7年半ぶり。CDリリースやライブもさることながら、2010年GWには当ユニット名義の映画を公開する。2010年現在活動中。

2010年代

2010年、コンビ結成30周年を迎える。(ちなみに石橋は故・美空ひばりに『売れてから数えなさい』と言われて以来、売れて(1985年に「雨の西麻布」がヒットして)からカウントすることがある。)

概要

Template:独自研究

コンビ名

現在のコンビ名「とんねるず」は、NTVプロデューサー(当時)・井原高忠(通称:ター様)が貴明のTと憲武のNをもじった「とんまとのろま」と「とんねるず」を提案し、本人たちに選ばせた(井原はザ・ピーナッツの命名者でもある)。「とんねるず」というコンビ名に関して井原は(脱線トリオてんぷくトリオに続く)次代のお笑いスターになって欲しいという願いと素の二人を見て「暗い奴ら」と思ったのをかけたという。(小林信彦「時代観察者の冒険」より。)結成日は1980年10月1日。1994年には独立し個人事務所を設立。石橋が社長、木梨が副社長を務めている。エピソードととして、独立すればもっと正しい方向に向かうと考えた石橋が、事務所に向かっていた途中の六本木の星条旗通りでお互い運転していた車を降り、立ち話で木梨に独立の話を持ちかけ、木梨は「貴明がいいならいいよ。」と一つ返事で決った。更に余談として1980年に就職が決まっていた時期に石橋が渋谷パルコパート2の2階の喫茶店で「プロでやろうと思うけどどう思う?」と持ちかけた際も木梨は「貴明がいいならいいよ。」という一言で決まったという<ref>2010年4月26日放送SMAP×SMAPの「ビストロSMAP」ゲスト石橋貴明</ref>。

芸風

コンビ芸人だがとんねるずはボケとつっこみの役割が特に分れていないスタイルである。デビュー当時のプロフィールにはそんな自分たちの存在を“カリスマ芸人”と記載していた。とんねるずは現在の若手お笑い芸人における、特定の師匠を持たないお笑い芸人の草分け的存在である。

デビュー当時は、それほどでもなかったが、オールナイトフジ出演以降に若さとエネルギー全開「ナ!わけだァ!」節炸裂の過激トークや、スタジオで所狭しと暴れるなどの勢いに任せた行動が茶飯事だった。そのためか、テレビを観ている視聴者はおろか共演者すらも笑顔がひきつるようなハプニングもしばしばで、そのハチャメチャな行為を繰り広げるその光景は常に賛否の渦中にいた。特に出世番組とも言われる「夕やけニャンニャン」ではアイドルによって態度が激しく違うため、自分が好みのアイドルが不本意なイジられ方をすると「あの石橋や木梨の態度は絶対に許さない」と不満を買った。

とんねるずのトークの中にはその時代の流行を反映した言葉が多く用いられている。例えば「○○みたいな~?」と語尾に付ける言葉は若者中心に使われているが、これは主に東京近郊の女子大生が使う言葉を敢えてとんねるずがTVで誇張して用いることで、全国的に広まった。

他にも「ねるとん紅鯨団」から端を発した「ねるとんパーティ」「ツーショット」、「ねる様の踏み絵」で使われた「元サヤ」など、彼らが発信元となった言葉は数多い。また、今では普通に使われる「○○系」「○○状態」も彼らが発信源である。

また芸能界・テレビ界でよく使われる専門用語、いわゆる『業界用語』を多用して広めた経緯があり、今では一般でも使われている事がある。

内輪ネタ」もとんねるずの特徴である。ただし、これはある一部の放送関係者だけに向けた発言であることが多く、しかもその発言内容も視聴者にはわかりづらいものがほとんどであった(古くはひょうきん族でもこの傾向は見られ、当時は“楽屋落ちネタ”と呼ばれた)。また、「とんねるずのオールナイトニッポン」ではトーク内容がほとんどスタッフ(放送作家マネージャープロデューサー、高校時代の友人など)の話題で占めるため、ハガキ職人の書くネタの内容もその話題を受ける格好で放送関係者絡みのネタが目立ち、常連のリスナー以外が番組に馴染みづらいという側面もあった。

その「スタッフを表舞台に出す」というスタイルの究極の形が「野猿」の結成であり、その「スタッフネタ」から生まれた番組企画、コントも多数企画された。

元祖アイドル呼び捨て芸人

近年、お笑いタレントがバラエティ番組の中で出演アイドルを面と向かって呼び捨てにする場面は珍しくはない。しかしこの点もとんねるずが元祖と言ってよい。それまでは礼儀として、また業界の暗黙のルールとしても“御法度”であった。

これは旧世代の芸人/漫才師のあり方に由来する。彼らの仕事は演歌歌手の前座が多く、正月の隠し芸大会などでもあくまで歌手や人気アイドルを引き立てる幇間であり、“歌手のおかげで食べさせてもらえる”という色物意識が強かった時代の名残である。萩本欽一タモリはもちろん、毒舌と言われたビートたけしでさえも、誰かを呼び捨てにするのは、本やラジオ、TVの各メディアで本人がいない場所に限られていた。これは明石家さんまを含めた漫才ブーム系芸人でも同様に守られており、呼び捨てはあくまでも芸人の先輩後輩や仲間の“同業者間”でのみ許されるものであった。これを侵せば業界から抹殺されかねないほどの約束事とも言え、対スポーツ選手でもこれは同様であった。

この状況の変化は、ビートたけしの登場から始まっている。大学生活を経験したという意味で芸人としては異色の存在であったビートたけしは、歌手やアイドルが実は間抜けで頭が悪いという面をどんどんネタにすることと、本格的な哲学をも怖じずに知的に語る活躍によって、お笑いタレントの地位を徐々に上げていった。たけしが開拓したマルチタレントカテゴリに位置するとんねるずのルールは明快で、体育会のルールをそのまま芸能界へ持ち込んだ“年齢が上か下か”という点にのみ基準を置いている。年下は問答無用で呼び捨て、そしてスタッフや関係者には目上であっても“ちゃん”付けかあだ名を付けて呼ぶというものである。素人系のオールナイターズからおニャン子までは躊躇なく呼び捨て、アイドルに対しても、当初から比較的絡む率が高かったシブがき隊辺りから、「薬丸、テメー!」のような呼び捨てもハッキリと確認されるようになる。それ以後は、必要に応じて呼び捨てにしている。

傍若無人とも取れる行為であるが、とんねるずの場合は過去の風習も充分承知した上でのことであり、自己プロデュースの一環とも言える。

とんねるずを育んだもの

とんねるずの二人はともに幼少時から超の付くTVっ子であり、特に「8時だョ!全員集合」のザ・ドリフターズをはじめ「カックラキン大放送!!」の堺正章井上順ラビット関根らのマンザイブーム以前のバラエティ番組全盛の時代の影響が強い。マンザイブームの時期はともに部活動に忙しかったこともあり受けた影響は少なく、独特の個性を持つコンビとなった。

バラエティ以外で影響を受けた者としては矢沢永吉アントニオ猪木、「傷だらけの天使」の萩原健一らが挙げられる。

交流関係

石橋貴明は素人時代にTVジョッキー竹中直人と知り合いそれ以後親交が続いている。またお笑いスター誕生の出演者らとも交流を深めた。特にシティボーイズとはお互いネタを見せ合い評論し合う仲であった。他に小柳トム(現BGBブラザートム)や草野球友達としてツーツーレロレロ等と交流があった。バブルガムブラザーズや同い年のTRFSAMとはディスコ仲間でもある。1983年の再デビューまではショーパブ出演で知り合ったビジーフォーなどと親交を深めた。特に、石橋とグッチ裕三との関係は、ホモかと思われるくらい仲が非常に良く、現在では妻鈴木保奈美と含めて家族ぐるみの付き合いをしている。大木こだまとはお笑いスター誕生以来の交友がある。

元々師匠も持たず、お笑いとは言え、漫才でもなくコントと言っても従来のスタイルではないとんねるずは他のお笑いタレントと共演することが難しく、事務所と秋元康のイメージ戦略の中で常に番組の中にコーナーを設けて個別に好きなことをさせてもらえる環境を選び、新しいタイプのタレントの価値を模索することになる。その為に先輩お笑いタレントと絡む番組は選ばず、表面上はマンザイブーム系のタレントとの共演はほとんどなく、同業者の交流も前出のお笑いスター誕生系タレントが中心であった。ただし同年齢のタレントとは盛んに交流を深め、水谷豊田原俊彦久保田利伸チェッカーズなどはプライベートでも会う友人である。

とんねるずが素人時代にお笑いスター誕生へ出演した際、あまりに突飛なネタで他の審査員からの評価は芳しくなかったが、審査員の一人であったタモリは「お前らなんだかわからねえけど面白い」と評価したことからとんねるずは好印象を抱いている。この当時、とんねるずを評価していたのはタモリとその世話人であった赤塚不二夫だけであった。これは、タモリもまた特定の師匠に付かずに素人芸を極めて芸人となった経緯を持ち、特定のカテゴリーに収まりきれない芸風だったことによる理解が大きい。タモリに誘われて「タモリのオールナイトニッポン」の見学にとんねるずの二人が行った際、このままお笑い芸人として本格的に活動するべきかどうかタモリに相談を持ちかけて、「やりたかったらやってみればいい」というタモリの言葉に後押しされて本格的にプロの道に進む決心をしたという逸話もある。(2007年10月4日放送の「とんねるずのみなさんのおかげでした」でタモリと共演した際に)とんねるずは、「タモさんがお笑いスター誕生の審査員じゃなかったら僕たちはこの世に出てなかった」と語っている。またその話を聞いたタモリは、『(ここまで伸びるとは思わなかったから)あの時つぶしとけばよかった』とユーモアをこめて話している。その後、木梨は2008年に「オールナイトニッポン40周年SPタモリのオールナイトニッポン」にゲスト出演をしている。

志村けんは、石橋の中学生素人時代の相方(島崎伸一・現制作プロダクション経営)が、ドリフターズの付き人になったことから、当初は石橋と付き合いが深かったが、後に木梨との付き合いが深まり、木梨自身もキャラクター設定、コントの作り方などで志村から多大な影響を受けたこともあり一時は「コンビ結成」の噂が立つほどだった。この件について石橋自身が志村本人に抗議して終息するという一幕もあった。ただこの付き合いの過程の中で、とんねるずはイザワオフィスとつながりを強めることに成功。後の独立へとつながる。

若手芸人との共演はネプチューンナインティナインねるとん紅鯨団出演を境に(その後、岡村隆史1997年3月の「とんねるずのみなさんのおかげです」最終回の「仮面ノリダー最終回スペシャル」にてノリダーの分身役を演じた)積極的になり、年々増加傾向にある。原田泰造は素人時代にねるとん紅鯨団に出演していた。また、吉本興業所属の芸人とも共演が多くなったのも特徴で、いわゆる「ダウンタウンファミリー」と呼ばれる今田耕司東野幸治とも2000年以降共演する機会を持っている。また前出のナインティナインロンドンブーツ1号2号ネプチューン天然素材らは自らも語る通り、とんねるずの影響を直接受けた世代である。ネプチューンがうたばんに出演した際に石橋は「ウッチャンナンチャン派でしょ?」と茶化しながらも、「ウッチャンナンチャンは(後輩の育成もちゃんとやって)偉いよ」と発言している。

一方で、同じくお笑い第三世代のダウンタウン浜田雅功松本人志)との共演はほとんどなく、唯一同一番組に出演したのは1994年に放送された『FNS番組対抗!なるほど!ザ・秋の祭典スペシャル』のみである。そのため一部のファンの間では不仲説が囁かれているが、どちらもそれぞれ看板番組を持てる力量のメジャータレントなので、帯番組で共演させる意味は業界的にほとんどなく、実際の所はお互い特別な感情は持っていない。事実ダウンタウン松本は自身のラジオにて「向こうのが先輩だし、カラみもないので不仲と言われても何のことだかよくわからん。業界的に何かあるんですかね?」と不仲説と否定する他「Re-Japanがうたばんに出てもいいし、野猿がHEY×3に出てもいい。でもなぜか実現しない」と語っている。

BIG3タモリビートたけし明石家さんま)や所ジョージ笑福亭鶴瓶といったお笑い第二世代との共演は何度かあるが、島田紳助との共演が一度もないとされており、このことは紳助が『26時間テレビ』内で放送された『笑っていいとも!増刊号』の『テレフォンショッキング』にゲスト出演した際に語っているが、実際には、歌のトップテンなどで共演している。

『お笑いスター誕生』時代に草野球の助っ人要員としての始まりで交流のあったビートたけしを元祖マルチタレントの先輩として尊敬している。このことはとんねるずの著書に記載されている。若手の頃、お笑いスター誕生出演後、偶然飲み屋でたけしに会いビートたけしから「東京芸人、頑張れよ!」と言われたことがある。当時はたけし後の東京の漫才師で大ブレークした者が大阪芸人に比べ少なかったため、とんねるずには東京芸人の火を消さないように、とのメッセージが込められていた。ブレイク後、オールナイトニッポンのスペシャル番組(そのときに第一部を担当していたパーソナリティー全員が集まった)で共演した際には、恐縮して静かなとんねるずに対して、ビートたけしは歌を披露し、「歌だして、とんねるずの人気を落としてやろうと思ったけど、俺はムリだな」と発言し、とんねるずを苦笑させている。また、ビートたけしの弟子であるそのまんま東(東国原英夫・宮崎県知事)などとは深く交流している。

また、横山やすしとは「うちの子にかぎってパート2」の第2話で最初で最後の共演を果たしている。また、やすしと同学年の田村正和関口宏とも共演した。奇しくもやすしが演じた居作新太郎が経営する新聞配達店の店員の青年役を演じた。

美空ひばり

とんねるずの二人は今は亡き歌謡界の女王美空ひばりとも生前は親交が非常に深く「お嬢」「タカ」「ノリ」と呼び合う間柄であった。

両者の出会いのきっかけは、とんねるずの大ファンだったひばりの息子、現ひばりプロ社長の加藤和也の誕生会に二人が呼ばれたことであった。その後もラジオ番組とんねるずのオールナイトニッポンに、ひばりがアポ無しで飛び入り出演した、とんねるずが出演していたオールナイトフジの生放送中にひばり本人から電話が入るなど、彼らのエピソードは枚挙にいとまがない。そのためか晩年の闘病の際、親交の深かった芸能人の見舞いにさえ「面会謝絶」の姿勢を崩さなかったひばりも、とんねるずの二人と島倉千代子にだけは面会を許したという。

結果的にひばりの生涯最後のシングルとなってしまった「川の流れのように」は、奇しくもそのとんねるずが歌った「一気!」「雨の西麻布」「歌謡曲」などと同じ作詞・秋元康、作曲・見岳章のコンビによって作られた。

彼らが出演していたテレビ番組を見ていた美空ひばりから放送終了後2人に電話がかかってきて、深夜にもかかわらずひばりの自宅に呼び出され、夜11時頃から番組内での行き過ぎた歌パフォーマンスに対して説教を受けたことがあり、美空ひばりのコンサートビデオを終わるまで観させられ、ひばりが席をはずすなり石橋がビデオを早送りにして何とか観終わったと思いきや、そのビデオは上巻だったらしく続けて下巻のビデオを結局朝5時頃まで見させられたというエピソードはファンにはあまりにも有名である。

エピソード

生放送でのハプニング

  • フジテレビのバラエティ番組「オールナイトフジ」のレギュラー当時、「一気!」の歌唱中、エキサイトした石橋が1台1500万円するテレビカメラにしがみついて倒し、壊してしまった。それから数年はフジテレビのNG名場面集番組などでその場面が、倒したカメラを前におののく二人の姿と共に、繰り返しオンエアされている。カメラはフジテレビが掛けていた保険では修繕されなかった。(正直に石橋の悪ふざけと申請したため)また同番組では青年の主張をやはり歌いながらセットに登りまくり破損している。同局の当時の看板音楽番組だった「夜のヒットスタジオ」の出演時は、プロデューサーの疋田拓の持つあまりの威圧感に萎縮してしまいカメラ転倒パフォーマンスを行うことはできず、石橋がカメラに近づき、木梨が「危ねえぞ!」と注意するに留まっている。
  • 2001年のフジテレビ「FNS27時間テレビ」では、石田弘(通称ダーイシ)に扮した石橋が港浩一(通称小港)に扮した木梨とのゴルフパター対決で、石橋がわざと大振りでスイングしたゴルフボールが大型モニターに直撃し大きく割って破壊している。しかしこの時はオールナイトフジのようには動じず石田と港のキャラを演じつづけ笑いをとっていた。
  • TBSザ・ベストテン」でも「一気!」の歌唱中にテレビカメラを倒している。当時の司会者黒柳徹子らも顔面蒼白になり、石橋は弁償を考えたが、テレビ局にとってはこのようなアクシデントもそう珍しいことではなく、また故意にやったわけではないと判断され、結局は保険によって解決された。
  • TBSうたばん」(放送時スペシャルの為、番組名「とくばん」)では、木梨が番組内で獲得した商品をカメラにぶつけ転倒させている。木梨は「大丈夫ですか?保険に入っていますよね?」とマネージャーの尾崎に確認し、逃げるように撤収した(カメラは無事だった)。中居正広が観客を煽ったことで、場内は「オールナイトフジ以来!」コールになった。
  • 日本テレビの歌番組「歌のトップテン」にて、「やぶさかでない」の歌唱中にカメラを強奪するというハプニングがあった。当時の司会者徳光和夫石野真子、さらには番組スタッフに迷惑をかけてしまい、のちのマネジャーが番組終了後に謝罪した。強奪したのは、前述の「オールナイトフジ」「ザ・ベストテン」でカメラを破壊させた石橋である(木梨もつられて強奪し、石橋の局部を映していた)。
  • TBSザ・ベストテン」で日本平からの生放送に出演した時、とんねるずがスタッフの担ぐ御輿の上に乗り、客席の間の通路を通ってステージに向かう演出であったが、御輿に観客が殺到して衣装を引っ張るなどした為に石橋が御輿に乗れず、激高して観客に掴みかかる事態にまでなった。その状況に司会の小西博之は愛想笑いをするしかなかった。ステージ上でも石橋は怒りが収まらず「ふざけんじゃねぇぞ!この野郎!!」、「てめぇら最低だ!!」と吐き捨てて衣裳の飾りを客席に投げつけたり、怒鳴り声で『雨の西麻布』を歌っている。
  • 「ザ・ベストテン」では、当時TBSアナウンサーで同番組の司会をしていた松下賢次に向かって、登場直後の石橋が跳び蹴りをしたこともある。番組で披露される松下のダジャレを快く思わなかったところに、とんねるずの曲を批判したのが引き金になったと言われている。(いっしょに食事に行くなどして現在は和解。)
  • 「夕やけニャンニャン」の1コーナー「ニャンニャン腕相撲」で、恒例の木梨の「ロッキー!」の掛け声をきっかけにした大騒ぎに乗じて石橋に跳び蹴りをした観客の一人を、石橋とマネージャーのボブ市川が羽交い絞めにしたことがある。
  • 「オールナイトフジ」で、石橋は泥酔状態で出演した作家の野坂昭如から平手打ちをされそうになる(石橋が後ろに大きく仰け反ったので、当たったかは不明)。さらに、野坂が石橋の家庭環境を持ち出してなじり始めたことが発端で、お互いが睨み合うことがあった。

舎弟軍団“もっこりーず&ぺにーず”

オールナイトフジのとんねるずコーナーで募集を行った舎弟軍団。応募条件は大学生。ここでも高卒が大学生を自由に扱う下克上美学が炸裂。当初は4チーム存在していたが、途中で突然解散を告げられ『もっこりーず&ぺにーず』だけが残る。

石橋曰く「俺達のガンバルマンズだ!」との通り、カニを口でくわえたりさせられたり体力型の試練ゲームをチーム対戦型で『憲武チーム』と『貴明チーム』に振り分けて展開した。メンバーは古賀薬局、ボッキー潮田等。ユニフォームはもっこりーずが上半身裸で赤いタイツ、ぺにーずが同じく黒いタイツ。双方登場のテーマ曲があり、もっこりーずが『♪も、も、も、も、もっこり〜ず〜♪』とボッキー潮田がフォークギターを弾きながら本日のテーマに合わせた歌詞にアレンジして熱唱しつつ皆で組み体操のような振り付けを決める。というもの。対してぺにーずは宴会ノリで『♪ぺぺぺい、ぺぺぺい、ぺぺぺいぺい♪ぺにーずの、ちょっといいとこ見てみたい♪(アレンジが入り最後に)あんたはお強い♪』である。特定のメンバーはそのまま夕ニャンにも出演。このメンバーの中にはそのままオールナイターズと結婚したメンバーもいる。オールナイトフジの最終回に可能な限りのメンバーを集め一度だけ再結成された。

それから時を経て、2005年9月に放送されたみなさんのおかげでしたの特番「とんねるずの石田さんのおかげでしたオールスター大感謝祭」に古賀とボッキーが出演。とんねるずの二人と再会を果たすが、その際木梨に「懐かしすぎて誰かわかりません」と言われた。なお、ボッキー潮田のみ現在音楽活動を東京都内を中心に継続している。

高卒キャラ

番組のスタッフはほぼ大半が大卒者である。自分たちが高卒でありながら芸能界で大成功したことを、むしろ出世的に(もちろんギャグとして)強調することが多かった(特に石橋)。弟子に東大生がいたのも「東大生が高卒の俺たちの弟子だぜ」とギャグとして使用。その東大生の弟子とは、現在タレント・医師として活躍している吉田たかよしである。

ただし「ザ・ベストテン」出演時に高卒発言をした際には、共演者の小泉今日子吉川晃司に「あたしは中卒」「ボクは高校中退ですよ」などと切り返される場面もあり、思わずとんねるずは沈黙してしまった。司会の黒柳徹子は「中学卒業でも偉い人はたくさんいるんだから威張らないで!!」と、とんねるずを叱責した。

過去の出演作品・CDなどについて

版権についてはかなり厳しく、例として2004年に発売された『夕やけニャンニャン』のDVDでは出演箇所はモザイクで消され、CSで再放送されている番組(『ひょうきん族』など)でも彼らのシーンはカットされるか、放送されない回も多い。TBS「王様のブランチ」の瞬間最高視聴率ランキングでも、うたばんでの石橋部分を極力カットするなど名残が残っている。また自身の冠番組の再放送や、外部への二次使用的な映像放出も少ない。これは一説に、版権管理に厳しいイザワオフィス傘下で独立し事務所を構えたこと(イザワオフィスはドリフターズやとんねるずに関しての映像使用許可依頼に対し、数秒でも高額を要求すると言われている)や、それまでにも所属事務所を転々としてきたため版権関係が複雑化しているのが原因とされている。実際、ベストアルバムが発売される際には「○○所属時代のベストアルバム」と分類されることがほとんどである。

秋元康との出逢い

1983年に新事務所所属となり本格的なタレント活動戦略を練る中で、当時新進の放送作家であった秋元康の前でネタ見せを行う機会があった。そのネタからつかこうへいの影響を洞察した秋元は本人らにこれを確認するが、彼らはつかこうへいの名前すら知らなかった。その事実が秋元を驚かせ、それを機に秋元はとんねるずに可能性を感じ、以後彼らの筆頭ブレーンとして番組構成や作詞をはじめとしたイメージ戦略に携ることとなった。今では(特に)石橋と秋元は心許せる戦友であり良きプライベート仲間である。

下克上タレント

とんねるずに関しての初期文献広告批評とんねるず特集では、彼らを“下克上タレント”と評している。芸人間では通常上下関係に関しては非常に厳しいが、とんねるずは“生意気”“成り上がり”“下克上”など媚びぬことをスタンスに定めている部分があり、志村けん笑福亭鶴瓶などの大物芸人相手にすら、番組中志村けんへ突然攻撃を仕掛けたり、鶴瓶へ「ねえ笑福亭」と屋号だけで名前を呼ぶなど、半ば意図的に芸人の礼儀を裏切ることがある。しかしとんねるずは誰もが認める体育会系であり、控え室では「志村さん」「鶴瓶師匠」と呼びキチンと礼を踏まえている。

夜のヒットスタジオでのエピソード

フジテレビ系「夜のヒットスタジオ」には番組リニューアル直後の1985年4月17日放送に「一気!」で初登場。以来、1989年にかけて、20回以上にわたり番組に出演し、様々な話題を提供した。石橋・木梨ともに「ベストテン」と同様に「夜ヒット」に対しても相当の思い入れがあり、「みなさんのおかげでした」など自身の番組ではよくこの番組に関連したエピソードを紹介することがある。

  • オープニングメドレー終了後に行われる季節の風物詩を紹介するセクションで、価格にしてウン十万ともウン百万とも言われる高級胡蝶ランを紹介した際、木梨がいきなりこの花びらを食べてしまい、司会の芳村真理に真剣に注意されたことがある(当時、この番組で使う植物の大半は、芳村のコネクションを活用して提供されていたと伝えられている)。また同様にカブトムシを紹介した際にはそのカブトムシを生で木梨が食べようとしたところ、口にハサミの部分が挟まってしまい、唇から出血したこともある。
  • 名物コーナー・オープニングメドレーではヒッピー風、羽織袴姿などといった怒髪天な衣装で登場し、敢て音程を全て外して次に登場する歌手の持ち歌を歌ったり、DJ風のアナウンスで次の歌手の紹介を行うなど、自由奔放とも言える振舞いを行っていた。しかし、前述でも随所に触れられている彼らの本質とも言える、その裏での「体育会」系の対応が功を奏してか、通常ならば、下手に自分の歌を歌われると明らかに不機嫌な表情を浮かべることが多い大御所の演歌歌手に至るまで、このことにつき注意・批判を行う者はいなかった。
  • 疋田拓プロデューサー時代はよく彼の言動に関連した小ネタ(「今日は疋田ちゃん、○○なんだよ~」(例:「時間が押しちゃってて不機嫌なんだよ~」など)を披露していた。
  • 番組を見ていた美空ひばりからいきなり放送終了後、2人に電話がかかってきて、深夜であるにもかかわらずひばりの自宅に呼び出され、番組内での行き過ぎたパフォーマンスなどに対して説教を受けたことがある。
  • 1986年6月、「やぶさかでない」での出演時に、共演していた大勢の女性バックダンサーに歌が佳境に差し掛かった辺りで(勿論意図的な演出なのだが)一斉に襲いかかられ、石橋はズボンを脱がされ、下半身はブリーフパンツ一枚という姿になり、その姿のままスタジオを走り回って歌を締めくくるという「オチ」が付いた。これには、視聴者から賛否両論の意見があったようで、番組史上に残る「迷」シーンの一つとして後年の総集編でも定番ネタとなっていた。
  • 1987年3月、「嵐のマッチョマン」で初の番組トリで歌を披露。この際、郷ひろみら他の出演者が途中から歌に参加して、一気にヒートアップし、賑やかに番組を締めくくった。
  • 1987年10月、マンスリーゲストとして出演していた久保田利伸五木ひろしが後ろから何度も蹴りを入れているのを見兼ねた石橋・木梨の二人は、久保田を庇ってすかさず仲裁に入り、事態は収束した。久保田はこの一件以降、とんねるずの二人に対し深い恩義を感じ、親交を持つようになった。
  • 1987年12月、つのだ☆ひろの作品「メリー・ジェーン」をそのままもじった「ジャニー・ジェーン」なる歌を披露。この際、サプライズゲストとしてオリジナル版の作者であり歌手でもあるつのだが階段から「メリー・ジェーン」を歌いながら登場し、さすがの2人も珍しく動揺の色を隠せなかった。また、歌い終わった後、スタジオ内が微妙な空気になっているのを察知してか、木梨が「終わりました?」となぜかスタッフの一人に確認する様子が映し出されていた。

クイズダービーでのエピソード

1986年、「クイズダービー」にギャンブラーとして出場したとき、番組史上初めて第1問でいきなり持ち点3000点全部をはらたいらに賭けようとした。はらは確実に答えると見てこの行動に出たのだが、司会の大橋巨泉に「おまえらふざけるんじゃないぞ、少しは番組のことを考えろ、はずれたらなくなっちゃうからやめなさい!」と怒られたため、賭けることはできなかった。なお、番組の歴史上第1問で3000点を賭けようとしたのはとんねるずと若山富三郎(とんねるずとは逆で、番組に参加する気が全く無かったという理由)のみである。

余談だが、とんねるずは後にとんねるずのみなさんのおかげでしたで、クイズダービーのパロディである「トークダービー」の企画を始めることになる。 Template:節stub

音楽活動

お笑い芸人としても成功を収めた彼らは、音楽活動でもトップクラスの実績を誇る。お笑いタレントがCDを出すことは珍しくないが、職業歌手並みに継続的なリリースの中でコンスタントにセールスの結果を出すタレントは珍しい。ちなみにオリコン調べのお笑いの歴代音楽CD総売上枚数(企画ユニット系も全て含む)では、2位ウッチャンナンチャン、3位ダウンタウンを抑え歴代1位である。

80年代

とんねるずとしてもまだデビュー間もない新人の彼らが、81年にいきなり抜擢されて歌った最初の曲は、アニメ『新・ど根性ガエル』の主題歌「ピョン吉・ロックンロール」である。翌年、1982年には徳間ジャパンに移籍して企画物シングル「ヤバシビッチな女(め)デイトナイト」をリリース。その後コンビの人気が開花し始めた時期に、ビクター音楽産業に籍を置き、84年12月リリースの「一気!」(一気ブームを巻き起こす)を皮切りに音楽活動が本格始動していく(事実上のメジャーデビュー)。この曲で強烈なインパクトを残した彼らは、その後サクセスストーリーを歩んでいくこととなり、自身最初のスマッシュヒットとなった「雨の西麻布」で歌手としての知名度も一段と上がり、ランキングの上位常連となっていった。

評価を受けた彼らは、数々の音楽賞レースにノミネートされ、賞を獲得していった。(受賞歴 を参照。)

当時は多くの音楽番組にも出演していき「ザ・ベストテン」(TBS)、「夜のヒットスタジオ」「FNS歌謡祭」(フジテレビ)、「トップテン」(日本テレビ)、「ミュージックステーション」(テレビ朝日)などで繰り広げる2人のパフォーマンスも見どころたっぷりで、いくつもの名(迷)場面を残していった。

86年5月リリースの「やぶさかでない」から、レコード会社をビクター音楽産業からキャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)に移籍している。

音楽活動開始初期(ビクター在籍時からキャニオン移籍初期)は「一気」を代表とするおふざけ全開のコミックソングのような曲を歌っており、「雨の西麻布」「歌謡曲」「迷惑でしょうが…」などの日本歌謡、「嵐のマッチョマン」「炎のエスカルゴ」などの80年代を彷彿とさせるラテン系ディスコソングなど、ジャンル問わず幅広く網羅していた。その一方でアルバムにも隠れた名曲が多い。

90年代

セールス的に大きく飛躍したのはシングル「情けねえ」をリリースした1991年以降である。以前は初登場で上位にランクインするものの、数週でのランクダウンという売り上げ推移傾向は否めなかったが、「情けねえ」では数ヶ月もの間オリコンチャートの上位に位置するロングヒットを記録。同曲にてその年の第22回日本歌謡大賞の大賞受賞、ついには第42回NHK紅白歌合戦に初出場し(紅白出場はとんねるず自身の悲願であった)、パンツ1丁で出演して「受信料を払おう」というペインティングをして話題をさらった。ちなみに歌手別視聴率2位を記録(1位は大トリの谷村新司だった)。

次のシングル「ガラガラヘビがやってくる」では悲願のオリコン1位を獲得し、ミリオンセラーを記録する(1992年度年間シングルチャート6位)。自身最大のヒットであり、また数ある秋元康作品の中で一番ヒットした曲である。何週にも渡り浜田省吾の「悲しみは雪のように」と1位の座を争った。当初この楽曲は「とんねるずのみなさんのおかげです」のオープニングテーマ用としてサビのみ書き下ろされたものであったが、ファンからの熱い要望でCD化されるにあたり、その後サビ以外の部分も作曲して発売された。番組オープニングで曲といっしょに映像で流れていたクレイアニメーションも印象深い(その後「がじゃいも」等々で使われる)。

この後も快進撃を続け、「一番偉い人へ」では2週連続1位を獲得。「がじゃいも」では共に初登場組だったZARDの代表曲「負けないで」を上回り、見事1位を獲得した。続く「フッフッフッってするんです」もヒットし、『歌手・とんねるず』が世間に浸透した時期であった。90年代に入ってからは「ガラガラヘビがやってくる」や「がじゃいも」などのコミカルソングの印象がある一方で、「情けねえ」や「一番偉い人へ」などの社会風刺を含んだメッセージ色の強い曲が主体になっていく。アルバムにはその傾向が顕著に表れている。

活動休止後(企画ユニット時代)

1996年シングル「おまえが欲しい」のリリースを最後に、とんねるず名義での音楽活動は事実上休止してしまっている。以降様々なスタイルのユニットを組み、音楽界に話題を振りまいている。

  • 生ダラ発ユニット(1996 - 97年)

木梨は1996年山本譲二との演歌デュオ「憲三郎&ジョージ山本」を結成。北島三郎(原譲二名義)作詞作曲による『浪漫-ROMAN-』で、売上23万枚のヒットを飛ばし、その年の第47回NHK紅白歌合戦に出場を果たしている。歌手別視聴率では堂々4位を記録した。一方石橋は、自らがプロデューサーとなってヒットを生みだすと意気込んで始まった企画で、1997年工藤静香とのデュオ「Little Kiss」を結成する。三貴・カメリアダイヤモンドのコマーシャルソングとなった『A.S.A.P.』はオリコンランキングでトップ3入りし、売上50万枚の大ヒットを記録した。また定岡正二デビット伊東との3人組バンドで、作曲に佐野元春が参加した「ANDY'S」(当初のユニット名は「生殺(なまごろし)」だったが、神戸連続児童殺傷事件の影響で改名)も結成しており、シングル『FREEDOM』をトップ10入りさせるなどヒットさせている(全て「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」内で結成)。97年暮れには、当番組で結成した全ての音楽ユニット(CD発売されなかった「サーフノリダーズ」などを含む)が集結し、合同コンサートを渋谷公会堂(現:渋谷C.C.Lemonホール)で開き完結した。その後、音楽系の企画は「とんねるずのみなさんのおかげでした」に引き継がれていく。

  • 野猿(1998 - 2001年)

1998年、「とんねるずのみなさんのおかげでした」内で番組スタッフと結成した「野猿」で、2年ぶりに2人揃って音楽活動を再開することになる。当時番組のコーナーでとんねるずがKinKi Kidsのパロディをした際、バックダンサーとして踊っていた番組スタッフが2人の目に止まり、「CDデビューあるか?」と話が盛り上がりスタートした。元々スタッフのみで結成する予定だったが、インパクトに欠けると考えた秋元の一言で、急遽とんねるずも参加することになる。当初は1曲限定で始まったが反響が大きく、最終的には企画物としては異例の長期活動(98年~01年までの約3年間)となった。この野猿では、メンバーの脱退や加入など、曲リリース毎に繰り広げられる様々な展開も見所であった。活動期間内には11枚のシングル、3枚のアルバム、DVDなどがリリースされ、秋元康&後藤次利コンビによって生み出された楽曲は、当時の最新の音楽トレンドが取り入れられ、クオリティも非常に高かった。その結果、全てのCD、DVDでオリコントップ10入りを果たす。NHK紅白歌合戦にも1999年と2000年に2年連続で出場。また1999年には横浜アリーナ2000年には武道館3Days、2001年にはコンサートツアー「撤収」を開催し大阪城ホール名古屋レインボーホール国立代々木競技場第一体育館3Days、更に「完全撤収」と題して同所で追加公演2Daysと大きな会場でのライブも行われた。この代々木でのライブを最後に野猿は解散した。

野猿解散後(『撤収』と呼んでいる)は、再び単独で音楽活動を継続する。(単独での音楽活動は石橋貴明木梨憲武を参照。

  • 矢島美容室(2008年 - )

2008年、「とんねるずのみなさんのおかげでした」内でDJ OZMAと「矢島美容室」を結成。実に7年以上の月日を経て2人が揃って音楽活動を再開。「矢島工務店」を見てバンドを始めたというDJ OZMAと話が盛り上がり企画がスタートした。とんねるずとDJ OZMAのプロデュースで、ネバダ州から来た母娘による3人ユニットである。楽曲は作詞が脚本家・放送作家の遠藤察男が担当、作曲はDJ OZMA自らが担当している。デビュー曲『ニホンノミカタ -ネバダカラキマシタ-』は、音楽配信で170万ダウンロードを記録。オリコンCDチャートでトップ3入りのヒットを飛ばす。同年12月20日には国立代々木競技場第一体育館でライブを開催。その後も活動は継続され計5枚のシングル、2枚のアルバムがリリースされた。2010年にはスクリーンデビューを果たす。彼女達がデビューを果たすまでを描いた映画『矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜』が4月29日から全国公開。昨今邦画界ではテレビ局が主導でドラマやアニメから映画化されるケースが主流になっているが、バラエティ番組の一企画のキャラから映画化されたのは珍しい試みであり新たな成果を収めた。全国上映に先駆けて3月22日東京国際フォーラム4月11日に建設中の東京スカイツリーで初めてのイベントとなった映画公開イベントを開催。また舞台挨拶が東京、福岡、大阪、名古屋で開催された。

NHK紅白歌合戦出場歴

  • 1991年 第42回 とんねるず 「情けねえ」
  • 1996年 第47回 憲三郎&ジョージ山本 「浪漫~ROMAN~」(木梨)
  • 1999年 第50回 野猿 「Be cool!」
  • 2000年 第51回 野猿 「Chicken guys」

※木梨は3回初出場をしており、紅白歌合戦最多『初出場』記録を持っている。

作家陣

バックで支える作家陣はそうそうたる面子で、とんねるずや関連ユニット(野猿など)全般の楽曲の作詞を担当している秋元康、作曲を担当している後藤次利のゴールデンコンビを中心に、のちに美空ひばりの名曲「川の流れのように」を秋元と共に生みだすことになる見岳章や、友人の有名アーティスト(高見沢俊彦玉置浩二藤井フミヤ久保田利伸)らが楽曲を提供しており、完成度の高いものが多い。これは、ビクター時代から一貫しており、「バックの音源をしっかり作って、その中でとんねるずを自由に暴れさせる」という音楽制作コンセプトがあったためである。

1995年にリリースしたアルバム「おまえ百までわしゃ九十九まで」では歌謡活動10周年を記念するアルバムとあって武豊野茂英雄畑正憲由利徹所ジョージ落合信子落合博満の妻)、アントニオ猪木というユニークな面々が詞を提供している。これは「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」の企画として制作から完成までの過程が放映されていた。

またアルバム収録の「ブラックキャッツ!」では石橋と木梨の共作での作詞・作曲、シングル「YAZAWA」のカップリング「かき氷は宇治金時」では作詞石橋、作曲木梨という自作曲も少ないながら存在する。

秋元康のパロディ戦略

「一気!」から秋元康がほぼ彼らの音楽活動に関わっているが、その戦略は「○○風」。原曲が存在した上でパロディ=フェイクの趣向としている。

以上など原曲の特徴やサビなどが盗作の範疇に入らない程度でそのままあしらわれてアレンジされている。ポイントはとんねるずの世代背景を踏襲していることで、彼らの支持層の若者はこれらの楽曲を知らずに素直に評価する。またとんねるずと同世代か上の世代はこれを聴いて「ニヤリ」とする。

この方法論は近年つんく♂モーニング娘。のプロデュースで踏襲している(例・「LOVEマシーン」=「BOOM BOOM DOLLAR」(King Kong&D.Jungle girls)、「恋のダンスサイト」=「ジンギスカン」(Dschinghis Khan)」 など)。

その他

  • 音楽活動時のツアーバックバンドにはDREAMS COME TRUE結成前の吉田美和(1988年参加)と中村正人(1985-1988年参加)の二人が在籍していた。中村は当時デビュー前の吉田に、大勢の観客との一体感、雰囲気を体感させるため、バックコーラスとしてとんねるずのライブツアーに同行させた。
  • 石橋が自身のラジオ番組で、CDが一時期売れなくなったタイミングと相反して、ちょうど巷では光GENJIが大人気で、歌番組で歌いながら踊っている彼らの圧倒的なパフォーマンスを目の当たりにして、「俺らは歌を諦めてお笑い一本で頑張るしかない」と思ったきっかけになったらしく、その後TBSザ・ベストテン」の真裏で「とんねるずのみなさんのおかげです」を始めることもあり、今後「ザ・ベストテン」に一生出られなくなることを覚悟でお笑いだけの道を歩み始めたことを語ったことがある。番組は開始と同時に大成功し、約1年後「ザ・ベストテン」は打ち切りになる。(ちなみに「とんねるずのみなさんのおかげです」と「ザ・ベストテン」が被っていた期間は、シングルの発売を暫く控えるなど配慮していた。)
  • しかし、歌手としてのピークを迎えたのは活動の中心をお笑いにシフトさせてからであり、紅白出場やミリオンセラーを達成したのも「とんねるずのみなさんのおかげです」でその人気と地位を不動のものにしてからであった。お笑い芸人として地盤を固めたことが、歌手としても結果を出すことに結びついたものと言える。
  • 余談だが、光GENJIがローラースケートで颯爽とデビューしたとき、(殆ど冗談で)光GENJIに対抗して、石橋が「“とん”です。」、木梨が「“ねるず”'です」(二人合わせて「とんねるず」、という意味)と言っていた。
  • 2007年11月8日放送の「とんねるずのみなさんのおかげでした」内で、石橋が秋SP(詳細は番組記事参照)で久しぶりに「一番偉い人へ」を披露した際に手ごたえを感じ、石田弘と相談した結果、音楽活動再開を検討していると語った。これをきっかけにDJ OZMAとの矢島美容室へと発展したと考えられる。また、同じフジテレビ発のユニットでもある羞恥心を半ばネタではあるものの敵対視している節もあり、2008年10月30日にナインティナインのオールナイトニッポンに出演した際も、石橋は「羞恥心をやっつける」とまで発言していた。因みに、羞恥心とは活動のタイミングもあってか、曲発表で被った事は無いが、後輩ユニットの「矢口真里×AIR BAND」、「サーターアンダギー」、「フレンズ」とは発売日が被った事があり、オリコン1週目の売上では、前1つは矢島が、後2つはサーターアンダギー・フレンズが上まっている。

ディスコグラフィー

とんねるず名義以外のコンビ参加系ユニットでの作品については、野猿矢島美容室のディスコグラフィーを参照。

ソロ系ユニットでの作品については、石橋貴明木梨憲武のディスコグラフィーを参照。

シングル

  1. ピョン吉・ロックンロール/夢行きチケット(1981年8月25日発売)
  2. ヤバシびっちな女(め)デイト・ナイト/さよならMissヒロイン(1982年発売)
  3. 一気!(1984年12月5日発売 - ビクター音楽産業に移籍。実質的デビューシングル。)
  4. 青年の主張(1985年4月21日発売)
  5. 雨の西麻布(1985年9月5日発売)
  6. 歌謡曲(1986年1月21日発売)
  7. やぶさかでない(1986年5月28日発売 - キャニオンレコードに移籍)
  8. 寝た子も起きる子守唄(1986年8月5日発売)
  9. 人情岬(1986年10月21日発売)
  10. 嵐のマッチョマン(1987年2月25日発売)
  11. 迷惑でしょうが…(1987年4月5日発売)
  12. 大きなお世話サマー(1987年6月5日発売)
  13. おらおら(1987年9月17日発売)
  14. 炎のエスカルゴ(1988年2月25日発売)
  15. YAZAWA(1988年7月6日発売)
  16. どうにかなるさ(1990年8月8日発売)
  17. 情けねえ(1991年5月29日発売)
  18. ガラガラヘビがやってくる(1992年1月24日発売)
  19. 一番偉い人へ(1992年9月3日発売)
  20. がじゃいも(1993年1月28日発売)
  21. フッフッフッってするんです(1994年2月24日発売)
  22. ガニ(1994年12月7日発売)
  23. おまえが欲しい(1996年2月12日発売)

アルバム

オリジナルアルバム

  1. 成増(1985年3月21日発売)
  2. 仏滅そだち(1985年11月1日発売)
  3. キャニオン初(1986年12月28日発売)
  4. 河口湖(1987年10月21日発売)
  5. 428(1988年4月29日発売)
  6. 市川と宮嶋(1989年5月17日発売)
  7. ほのちゃんにはがはえた。(1990年6月27日発売)
  8. みのもんたの逆襲(1991年7月10日発売)
  9. がむしゃら(1992年7月24日発売)
  10. 悪い噂(1993年9月17日発売)
  11. Arrival(1994年9月15日発売)
  12. おまえ百までわしゃ九十九まで(1995年7月5日発売)

ベストアルバム

1985年5月21日 自歌自賛ザ・ベスト・オブとんねるず
1st. 01.一気!(Long Version)
02.青年の主張
03.雨の西麻布
04.歌謡曲
05.雨の西麻布(Original Version)
06.愛人タイトロープ
07.おひも
08.眠らない
09.その前の歌謡曲
10.わらって下さい
1986年12月16日 紅白!
2nd. 01.一気!
02.青年の主張
03.落ちて滑って不合格
04.銀河の交番(Studio Version)
05.Shikato
06.母子家庭のバラード
07.After summer
08.雨の西麻布
09.歌謡曲
10.Chadawa
11.天使の恥骨
12.チェックのシャツでボンヨヨヨーン
13.振り向けば自転車屋
14.僕は鳥になりたい
1987年12月5日 とんねるずベスト
3rd. 01.おらおら
02.大きなお世話サマー
03.迷惑でしょうが…
04.嵐のマッチョマン
05.人情岬
06.寝た子も起きる子守唄
07.やぶさかでない
08.ENDLESS NIGHT-ほっといてくれ-
09.ドラマのエンディングみたいに…
10.時代遅れのふたり
11.花嫁舟
12.君しかいない
13.雪どけ川
14.勝手にしろ!
15.ボツ
16.この瞬間から今…
1994年6月17日 とんねるずベスト 足跡
4th. 【disc1】
01.やぶさかでない
02.寝た子も起きる子守唄
03.人情岬
04.嵐のマッチョマン
05.迷惑でしょうが…
06.大きなお世話サマー
07.おらおら
08.炎のエスカルゴ
09.YAZAWA
10.どうにかなるさ
【disc2】
01.情けねぇ
02.ガラガラヘビがやってくる
03.一番偉い人へ
04.がじゃいも
05.フッフッフッってするんです
06.結局のLOVE SONG
07.大人になるな
08.心めぐり
09.あした元気になーれ
10.星降る夜にセレナーデ
2005年3月24日 <COLEZO!>とんねるず
5th. 01.雨の西麻布(Original Version)
02.歌謡曲
03.Chadawa
04.おひも
05.その前の歌謡曲
06.雨の西麻布
07.一気!(New Version)
08.青年の主張(New Version)
09.天使の恥骨
10.とんねるずのテーマ
11.角田さんのテーマ ~おうっ俺だよ~
12.銀河の交番(Studio Version)
13.母子家庭のバラード
2009年9月16日 ゴールデン☆ベスト とんねるず
6th. 【disc1】
01.一気!
02.バハマ・サンセット
03.とんねるずのテーマ
04.ブリキのダンス
05.Chadawa
06.バハマ・サンセット(New Version)
07.Dog Night
08.一気!(New Version)
09.振り向けば自転車屋
10.母子家庭のバラード
11.銀河の交番
12.青年の主張
13.銀河の交番(Studio Version)
14.雨の西麻布
15.僕は鳥になりたい
16.Chadawa
17.一気!(Long Version)
【disc2】
01.角田さんのテーマ ~おうっ俺だよ~
02.天使の恥骨
03.Shikato
04.After Summer
05.仏滅そだち ~Who Am I~
06.青年の主張(New Version)
07.チェックのシャツでボンヨヨヨーン
08.フォーカスされたい
09.18金の夜
10.歌謡曲
11 .落ちて滑って不合格
12.愛人タイトロープ
13.おひも
14.眠らないジェネレーション
15.その前の歌謡曲
16.わらって下さい
17.雨の西麻布
18.雨の西麻布(Original Version)

ミニアルバム

1988年1月1日 御年賀
1st. 【A面】
笑ってあげよう
【B面】
01.真夜中の買うボーイ
02.明日に向って打て
03.飲むとの遭遇
1992年5月5日 無痛音楽教育 3才からのとんねるず
2nd. 01.ガラガラヘビがやってくる
02.どうしてかな?
03.デクノゾウ
04.おねがいかみさま
05.パパのどうぶつえん
06.はっぴぃ ばあすでぃ

企画物アルバム

1986年8月21日 そろばんずく
1st. 01.こわいものみたさ
02.ビジネス ミュージック
03.アメノドのテーマ
04.お子様チャイナ
05.あなどれない行進曲
06.ラ社訓練ラ・ラ・ラ
07.愛のテーマ
08.お見合いディスコBGM
09.赤ランプの祈り
10.寝た子も起きる子守唄
(備考)
01のみ歌はト社の春日野と時津風、以降02~10はとんねるず。
1987年3月21日 真塩
2nd. 【A面】
・恐怖の1000本ノック
・大声一家
・ポニー昼メロ劇場(「愛は後ろから」)
・ホールドアップ
・恐い話
・自白
・くしゃみ
・真夜中の電話
・スピーチ
【B面】
・寿司屋
・合言葉
・ガソリンスタンド
・コレクトコール
・テクニック
・ルシアンルーレット
・Good morning
・Good night
・NG集
(備考)カセットテープのみで発売されテレホンカードが付属されている。収録内容はとんねるずのコント集。2万本限定。

ビデオ

DVD

その他

  • 映画『ウルトラマンゼアス』の主題歌「シュワッチ!ウルトラマンゼアス」も歌っている。これを収録したCD「ウルトラまいどCD」は非売品だったため、当時は映画の公開に合わせて出光が行ったキャンペーンを利用するか、劇場で前売り券を購入するかして入手するしかなかった。2006年12月27日発売の「ウルトラマンシリーズ生誕40周年記念 ウルトラマン 主題歌大全集」が初の市販化となった。
  • 過去に出光のCMに出演していた時のCMソング(「まいど まいど まいど まいど まいどでまいど~♪」「あ~ガソリンなくなる♪も~ぉ~お金な~い~よ~♪」など)もCD化されているが(「これが出光のまいどCDだ」)これも非売品であり、当時出光のガソリンスタンドのキャンペーン利用客のみが入手できた。
  • 『とんねるずのみなさんのおかげです』のオープニングテーマだった「うなちん」は当初発売予定だったが、諸事情により中止となった。

ライブ・コンサートツアー

ライヴ・コンサートツアーも積極的にこなし、主な大規模会場としては、“アーティストの聖地”と呼ばれている日本武道館1986年から1995年までに掛けて、計6回の武道館ライブを行っている。またそれだけでなく1989年には東京ドームで5万人以上もの観客を前にライブを行った。お笑いタレント単独の東京ドーム公演は後にも先にもとんねるずだけである。

公演日 タイトル 会場
1985年 とんねるず世直し行脚コンサート
1985年5月3日 カリスマとんねるずと1万3千人と信者たち よみうりランドEAST
1986年1月4日 ダフ屋も並べ 日本武道館
1986年 俺たちは眠らない
1986年8月10日 気分は盆と正月 横浜スタジアム
1987年 心の旅路
1987年12月6日-1988年1月3日 世界大とんねるず博 静岡市民文化会館 宮城県民会館 福岡サンパレス 北海道厚生年金会館 新潟県民会館 愛知勤労会館 大阪厚生年金会館(大) 日本武道館(2days)
1988年5月15日-1988年10月30日 歓迎とんねるず様御一行ツアー 千葉県文化会館 青森市文化会館 八戸市公会堂 宮崎市民会館 鹿児島市民文化ホール 九州厚生年金会館 熊本市民会館 岐阜市民会館 四日市市文化会館 茨城県民文化センター 埼玉産業文化センター 群馬音楽センター 長岡市立劇場 福島県文化センター 山形県民会館 秋田県民会館 高松市民会館 倉敷市民会館 島根県民会館 舞鶴市総合文化会館 京都会館 福井フェニックスプラザ 富山市公会堂 神奈川県民ホール 徳山市文化会館 神戸国際会館 和歌山県民文化会館 北海道厚生年金会館 青函博 宇都宮市文化会館 岩手産業文化センター 名古屋市民会館(2days) 新潟県民会館 渋谷公会堂(2days) 松山市民会館 広島郵便貯金会館 福岡サンパレス 長崎市公会堂 大阪厚生年金会館(2days) 金沢市観光会館 川崎市産業文化会館 静岡市民文化会館 宮城県民会館 郡山市民文化センター 久留米市民会館 下関市民会館 姫路市文化センター 沼津市民文化センター 市川市文化会館 越谷コミュニティセンター 厚木市文化会館 長野県民文化会館 山梨県民文化ホール 平市民会館 渋谷公会堂(2days)
1988年7月2日 LOVE STAR DAY 日比谷野外音楽堂
1989年5月26日-1989年8月27日 とんねるずがやってくる ヤア!ヤア!ヤア! MZA有明(2days)大宮ソニックシティ 郡山市民文化センター 宇都宮市文化会館 山梨県民文化ホール 宮城県民会館 神奈川県民ホール 富山市公会堂 金沢市観光会館 福井フェニックスプラザ 新潟県民会館 千葉県民会館 鹿児島市民文化ホール 熊本市民会館 宮崎市民会館 広島郵便貯金会館 愛知厚生年金会館(2days) 京都会館 第一ホール 長崎市公会堂 福岡サンパレス 秋田県民会館 青森市文化会館 北海道厚生年金会館 大阪厚生年金会館(2days) 愛媛県県民文化会館 静岡市民文化会館 群馬県民会館 渋谷公会堂(4days)
1989年11月7日 とんねるずの手打ち 東京ドーム
1990年8月2日-1990年10月30日 ROCK SHOW 越谷コミュニティセンター 宮崎市民会館 鹿児島市民文化ホール 熊本市民会館 静岡市民会館 横浜アリーナ 富山公会堂 金沢市観光会館 福井フェニックスプラザ 大阪厚生年金会館(3days) 愛媛県県民文化会館 香川県県民ホール メルクパールホール広島 倉敷市民会館 千葉県文化会館 茨城県立文化県民センター 福岡サンパレス 長崎市公会堂 名古屋センチュリーホール 大宮ソニックシティ 群馬県民会館 郡山市民文化センター 岩手県民会館 京都会館 神戸国際会館 北海道厚生年金会館 青森市文化会館 秋田県民会館 国立代々木競技場第一体育館(2days)
1991年7月27日-1991年10月7日 日産に乗るのが夢だった 福生市民会館(大) 渋谷公会堂 広島厚生年金会館 神戸国際会館 金沢市観光会館 神奈川県立県民ホール(大) 福岡サンパレス 宮崎市民会館 鹿児島市民文化ホール(第1) 熊本市民文化会館(大) 千葉県文化会館(大) 北海道厚生年金会館 郡山市民文化センター(大) 名古屋センチュリーホール 静岡市民文化会館(大) 大宮ソニックシティホール 青森市文化会館 秋田県民会館 仙台サンプラザホール 大阪厚生年金会館(大)(2days) 新潟県民会館 日本武道館
1992年8月17日-1992年10月6日 あなたに会えてよかった状態 市川市文化会館 神奈川県民ホール 長崎市公会堂 宮崎市民会館 熊本市民会館 北海道厚生年金会館 青森市文化会館 大宮ソニックシティ 京都会館第一ホール 石川厚生年金会館 名古屋センチュリーホール 神戸国際会館 静岡市民文化会館 福岡サンパレス 鹿児島市民文化ホール(大) 広島厚生年金会館 宜野湾市海浜公園野外劇場 仙台サンプラザホール 渋谷公会堂(2days)大阪城ホール
1993年10月10日-1993年11月4日 ナイアガラ ドロップ キック ツアー<ref>ツアー名の「ナイアガラドロップキック」は、[[とんねるずの生でダラダラいかせて]]で石橋が定岡正二とのPK対決の際に定岡がその場で考えたシュート名であり、そのままツアー名に使われた。また、定岡は同番組の石橋との闘牛対決の罰ゲームで、同コンサートツアーの日本武道館にて前説を行なっている。</ref> 渋谷公会堂(2days) 市川市文化会館 仙台サンプラザ 大宮ソニックシティ 大阪厚生年金会館(大) 金沢市観光会館 名古屋センチュリー 福岡サンパレス 郡山市民文化センター 日本武道館
1994年10月2日-1994年12月17日 Arrival 綾瀬市文化会館 静岡市民文化会館(大) 広島厚生年金会館 大阪厚生年金会館(大)(2days) 長崎市公会堂 福岡サンパレス(2days) 熊本市民会館 大宮ソニックシティーホール 市川市文化会館 山形市総合スポーツセンター 大分文化会館 鹿児島市民文化ホール第一ホール 宮崎市民会館 北海道厚生年金会館 青森市文化会館 渋谷公会堂(2days)仙台サンプラザ 神奈川県立県民ホール(大) 郡山市民文化センター 神戸国際会館 金沢市観光会館 名古屋国際会議場センチュリーホール 京都会館 第一ホール NHKホール
1995年7月8日-1995年9月14日 おまえ百までわしゃ九十九まで 成田国際文化会館 浦和市文化センター 鹿児島市民文化ホール第一ホール 宮崎市民会館 徳島市文化センター 香川県県民ホール 名古屋センチュリーホール 静岡市民文化会館 大阪厚生年金会館(2days)大分文化会館 福岡サンパレス 仙台サンプラザ 青森市文化会館 日本武道館
1995年 (野外コンサート関係) 7月15日 SOUND PARADISE IN OKINAWA '95 宜野湾海浜公園野外劇場

7月29日 OKURAYAMA SOUND FRASH '95 大倉山90M級ジャンプ競技野外特設ステージ 8月6日 SOUND STADIUM '95 長野県東筑摩郡四賀村村民グランド特設ステージ

8月19日 遠野 夏の陣 '95 岩手県遠野市営野球場

  • ※1985年「世直し行脚コンサート」、1986年「俺たちは眠らない」、1987年「心の旅路」、その他の野外コンサートは詳細不明。

受賞歴

出演作品

とんねるずとしての出演作品を記載。個別での出演作品は石橋貴明木梨憲武の項目を参照。 ゲスト出演に関しては、数が過多で判明不可能のため除く。

現在の出演作品

テレビ番組

レギュラー番組

過去の出演作品

バラエティ

レギュラー番組・

ラジオ

テレビドラマ

映画

  1. 第10回日本アカデミー賞話題賞
  2. 第26回(1988年度)ゴールデン・アロー賞芸能賞
  3. ザテレビジョンATP'89タレント部門賞番組部門特別賞

舞台

  • こんと いん なえば(1991年 - 2000年)
    1991年より苗場プリンスホテルで10年間続いたコントライブ。2000年以外(2月11日-2月13日)は毎年3月初旬に金土日の3日間で開催。木梨の誕生日や1日後の松田聖子の誕生日に重なることがあり、毎年木梨がそのことに触れていた。
    舞台上に一切のセット無しで己の体ひとつで笑いや感動を与えているイッセー尾形の『一人芝居』に触発されたことを明かしている。
    2000年ファイナルの模様が収められたビデオが全2巻で発売されている。

CM

書籍

  • 天狗のホルマリン漬け(1985年7月、発売元:集英社ISBN 4087800865
  • とんねるずのおいにい鼻にツーン(1986年7月、ニッポン放送出版、扶桑社ISBN 4893530984
  • とんねるず 大志(1988年6月、ニッポン放送出版、扶桑社)ISBN 4594002927
    とんねるずの生い立ちを第1章~第4章に分けてまとめたもの。
  • とんねるずのおいにい2~ん(1989年12月、ニッポン放送出版、扶桑社)ISBN 459400508X
  • 貴明と憲武(1995年4月、発売元:鹿砦社ISBN 4846300765

脚注

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関連人物

  • 秋元康(放送作家、作詞家、作家、プロデューサー)
  • 後藤次利(ミュージシャン、作曲家)
  • 日枝久(フジテレビ代表取締役会長)
  • 石田弘(フジテレビ、エグゼクティブプロデューサー)
  • 港浩一(フジテレビ、編成制作局バラエティ制作センター室長)
  • 松村匠(フジテレビ、元ディレクター、事業局企画部長)
  • 吉野晃章(放送作家、元帝京高校サッカー部)
  • 遠藤察男(放送作家、脚本家)
  • 菊原共基(放送作家)
  • 後藤喜男(TV制作、プロデューサー)
  • 中島信也 (東北新社取締役、CMディレクター、映画監督)
  • テリー伊藤(TV制作、タレント)
  • 土屋敏男(日本テレビ編成局)
  • 堤幸彦(元TBSディレクター、TV・映画監督)
  • 杉本清(元:関西テレビアナウンサー、競馬関連)
  • 関口正晴(元マネージャー、放送作家)
  • 宮本幸一 (ニッポン放送常務取締役)

関連項目

外部リンク


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