さいとう・たかを
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Template:Infobox 漫画家 Template:漫画 さいとう・たかを(男性、1936年11月3日 - )は、日本の漫画家。勲等は紫綬褒章と旭日小綬章。本名は斎藤 隆夫(さいとう たかお)。
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概要
貸本漫画時代に劇画という分野を確立。大衆向け漫画(アクションを取り入れたものが多い)から子供向け漫画まで幅広く手がける名実ともに劇画界の第一人者。また、さいとう・プロダクションを設立し、各スタッフの分業体制により作品を制作するという方法を確立した。なお、さいとう・プロの出版部門が分社化したのが、リイド社で、兄の斎藤發司が、さいとう・プロダクション及びリイド社の代表取締役社長。
この関係により、大半の作品は他社の雑誌に連載されていてもリイド社で単行本化・再刊されているものが多い(『ゴルゴ13』は小学館『ビッグコミック』連載)。
2010年6月に新潮社で、自伝『俺の後ろに立つな さいとう・たかを劇画一代』を上梓。
生い立ちと経歴
少年時代
1936年(昭和11年)、和歌山県に生まれる。のちに大阪府堺市に移り住む。
子供の頃から図工(美術)科目を得意とし映画が大好き、またケンカにも強かったという。この状態は中学校でも続く。小学生の頃、子分の子供達と米軍の駐屯地に忍び込み標的の書かれたロール紙を盗み出す(裏面が真っ白で大きな紙なので絵を描きたかった)。しかし、数日のうちにロール紙を盗んだものを探すべくMPがあちこちに訪問。怖くなって、ロール紙を山に埋めて廃棄してしまう。
堺市立福泉中学校に入学。将来の夢は挿絵画家。俗に言う不良少年で、学校の試験の際には「こんなもんただのクイズだ、試験でもなんでもない。個人の能力がわかるはずがない」と考え、中学校3年間、一度もまともに試験を受けなかった。しかしある先生が担当になったとき、いつものように答案用紙を白紙で返すとその先生はその白紙の答案用紙を持って来て机の上に置き、「これを白紙で出すのは君の意思だからかまわない、しかしこの答案用紙を提出するのは君の義務なんだから、自分の責任の証明として名前を書け。」と諭されて感銘を受け、それを期に人間の約束と責任について深く考えるようになったという(その教師の姓は、後に『ゴルゴ13』の名の一部となる「東郷」だった)。
中学時代に県の絵画展で金賞を獲得するが、自宅に持ち帰ったところ正業以外の職業を嫌う母親は目の前で竈にくべて絵を焼いてしまう(父親は正業の理髪店を放り出し写真家・画家を目指すが、熱しやすく冷めやすいタイプでそれすらも放り出すほど中途半端だった)。卒業後は理髪店にアルバイトとして勤める。この時から「映画好き」がひどくなり、金があれば映画館へ行っていた。時には数箇所の映画館をハシゴすることもあった。
アメリカ製の「10セント・コミックス」の影響により漫画家を志す。手塚治虫や酒井七馬のファンだった。後に理髪店を継がされる。
デビュー・新人時代
漫画家を嫌う母親に1年の期限を願い出て、理髪店で働きながら描いた単行本『空気男爵』にてデビュー。本作は1年かけて描いたものの、フキダシが小さいということからまた1年かけて絵を描き直した。
貸本漫画として単行本を多数発表、少年誌などに冒険・アクション漫画やミステリー・怪奇漫画を掲載、『台風五郎』の大ヒットにより注目される。この頃にはまだ、タッチに手塚治虫の影響(この頃の漫画は手塚調でないと売れないと知り合いに言われたため、今の作品からでは考えられないようなキャラクターのディフォルメされたタッチであった)があるが、風景描写やその他「モノ」の描写は写実的である。
手塚治虫によるとさいとうは画風が硬く、当時の流行だった丸っこい線を描けないことに悩んでいたそうである。悩んだ結果、固い画風でいくことに決めた<ref>「ぼくはマンガ家」より</ref>。なお、本人によれば、さいとうがビッグネームになった後も「母親は漫画家と言う職業を死ぬまで嫌い、病床に置かれた僕の本に一度たりとも触れなかった」とのことである。
トキワ荘をほぼ毎日のように偵察していたことがあり、ある日「外からじっと睨んでる奴がいるから赤塚ちょっと注意しておいてくれ」と言われた赤塚は、さいとうに「一体、何の用ですか?」尋ねたところ、「君たちは子供向けの漫画を描いてるかも知れないけど、俺は大人向けの漫画を描いてるから」と言い、その場を立ち去り、当時から子供向けのイメージの強い漫画とは一線を画す作品を作りたいという姿勢を持っていたようである。
「劇画」の誕生
1958年(昭和33年)に上京し、仲間と共に国分寺に集まる。翌年、写実的な絵を主体とした「新漫画」を辰巳ヨシヒロの提案により「劇画」と命名<ref>正確には、1957年に辰巳は、短編誌「街」に描いた作品「幽霊タクシー」のキャプションとして「劇画」と記載している。</ref>(当初さいとうは、紙芝居を画劇と呼ぶ事からこの呼称に否定的であったが、後に認めている)。辰巳ヨシヒロ、石川フミヤス(後にさいとう・プロスタッフ)、松本正彦、K・元美津(後にさいとう・プロスタッフ)、桜井昌一、山森ススム、佐藤まさあきらと劇画を制作する漫画家の集まりとして「劇画工房」を結成する。劇画は手塚に酷評され、後に「手塚治虫は別世界の人だったと思う」と回想している<ref>「情熱大陸」より</ref>。
さいとう・プロダクション設立
1960年(昭和35年)、「劇画工房」の分裂を受け、劇画制作、さらに出版までに手を広げた「さいとう・プロダクション」を設立。「さいとう・プロダクション」は、初めて漫画制作に分業体制や脚本部門を置いた所である。スタッフは、1960年代当時の仲間を雇用し続けている。長時間低賃金労働が一般の漫画業界で雇用条件に気を配り、さいとうプロは給与の高さで業界ダントツである。これも無理なく長期連載を請け負って計画的に仕事をこなしている故に可能となっている。設立後は劇画を少年誌に連載するなどの活動をした。
さいとう・プロダクションの活動
設立当初は少年誌に漫画を連載していたが、イアン・フレミング原作で話題となっていたアクション映画『007シリーズ』に注目、劇画化した。その作品は『ボーイズライフ』に連載され大好評であった。そのほかにも単発もので中短編様々な種類(横溝正史作品に倣ったミステリー、冒険もの)の作品を発表。
その後、『ビッグコミック』にてアクション漫画を連載(「挑戦野郎」「捜し屋禿鷹登場!!」など)する。その中でも1968年10月より連載開始の『ゴルゴ13』は、一度も休載する事なく連載40年を越え、現在も連載中の長寿漫画で日本の「劇画」の代名詞である。『ゴルゴ13』のストーリーは、無名の脚本家などに執筆させている。『ゴルゴ13』は高い評価を受け、1976年1月には1975年度小学館漫画賞の青年一般部門を受賞し、2005年1月には2004年度小学館漫画賞の審査委員特別賞を受賞した。
岩手県への移住
現在、妻の出身である岩手県に在住している。なお、『ゴルゴ13』で、岩手県出身の商社マン(後に商社を辞めて帰郷)をたびたび登場させたり、東條英機が戦犯として逮捕された自分の奪還を企てた者に達観の心境を示す場面など、同県への思いも示されている。
本人について
趣味はテレビや映画鑑賞、そこからネタ探しする事もある。若い頃から大相撲ファンでもある。
作風への批判
プロダクション形式で漫画を制作しているため、作家主義の漫画マニア的視点からは批判を受けることも多い作家である。たとえば夏目房之介は彼の描く女体を、不特定多数がよってたかって色っぽいだろうと思う線をかき集めたために、個人の思い入れが極めて希薄であると、吾妻ひでおなどと対比して評している(夏目はさいとうが完全分業制による漫画制作というビジネススタイルを確立したことには一定の評価をしている)。また、いしかわじゅんは彼の書き文字を例にとり、新人であった時代からいっさい変化していないことをあげ、進歩する意志を失った証拠として批判している。
賞歴
栄典
作品リスト
- 怪盗シュガー
- 影狩り
- 空気男爵
- 『雲盗り暫平』シリーズ
- 『ゴルゴ13』シリーズ
- 『藤枝梅安』シリーズ
- 『ホーキング』
- サイレント・ワールド
- ベリー・ファーザー
- 『サバイバル』シリーズ
- 七人の侍
- 『007』シリーズ
- 『台風五郎』
- 『歴史劇画 大宰相』(戸川猪佐武の『小説吉田学校』を漫画化)
- 『デビルキング』シリーズ
- 『バロム・1』シリーズ
- 『ブレイクダウン』シリーズ
- 漂流
- 『無用ノ介』シリーズ
- OPERATIONG.G.
- 『鬼平犯科帳』シリーズ
- 太平記 マンガ日本の古典
- 毒ダネ特派員カスガ(『KASUGA』シリーズ)
- 『挑戦野郎』シリーズ
- 『捜し屋禿鷹登場!!』シリーズ
- 武田信玄
- 北条時宗
- ホテル探偵DOLL
さいとう・プロダクション 現スタッフ
以下はさいとう・プロダクション会社案内―制作スタッフ(2010-5-2 閲覧)を参照にして記述
- 石川フミヤス(石川文康)
- いとう・たかし
- 千葉利助
- 上柚宇大
- TAKU
- 青木和夫
- 正村弟
- 赤司教
- 杉本洋平
- 大野恵
関連項目
脚注
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外部リンク
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